「虚構」に関連する記事

ウィルソン『ユング』と「劇場特区」

  • 2007年02月02日 (金)

読了。

作家コリン・ウィルソンによるユング論。
ユングの生涯を通覧しつつ、その思想や人間性を(どちらかといえば)批判的に考察している。著者によればユングは権威主義的性格であったあるいは女癖が悪くて奥さんを困らせた、自身のオカルティズム指向を学術的論述スタイルで隠蔽しようとした等々・・・けっこう辛辣(ついでに言えばフロイトに対してもかなり辛辣な評価を下している)。
とはいえ単なるユング批判というわけではない。ウィルソンはおそらく、ユングが目指そうとした場所に彼自身もまた(ユングとは別の理路・方法を用いて)たどりつこうと試みている。当然のことながらユングと関わるフロイト、ジャネ、アドラーらへもそれなりに目配りがなされている(ウィルソンの言い分には賛否両論だろうけれど)。

特にこの本で目立つところは、ウィルソンがユングのオカルト指向を度々批判している点なのだけれど、その趣旨はといえばオカルティズムそのものへの批判というのではなく、自らのオカルティズムに関する考察をことさらに「科学的」「学術的」に見せようとしたユングの姿勢に対する批判であった。言い換えてみれば、オカルト指向である一方でアカデミックな体裁に最後まで固執(学者としては当然のことだが)した”学者”ユングを、”作家”ウィルソンが責めているというものであった。

ラテン語で「隠されたもの」を意味するオカルト。たしか1980年代頃にちょっとしたブームがあったかに記憶している。UFOとかナスカの地上絵とか・・・。「ムー」とかいう雑誌が当時あったはずだが、今もまだあるのかな?
もっともこのオカルトという言葉、最近はとんと耳にすることが少ない気がするのだが、それでも言葉の本来の意味である「隠されたもの」への興味は相変わらず尽きることがないようだ。
かつては宗教や世界観などといった形而上的なものに向かっていたオカルト指向は、いまは個人や組織のもつプライバシー・秘密・隠しごとに向かって集中しているようにも思われる。おそらくその非科学性ゆえに相手にされることはなかったオカルティズムはいま、形を変えてわたしたちの日常生活のいたるところに(相変わらず)散在している。
恐らくウィルソンに言わせれば、現代の「オカルティストたち」もまたユングと同様に、自らの非科学性を一見すると科学的・合理的に見える衣で覆っているのだ。もっとも、自らの非合理性に(おそらく)気づいていない現代人に比べれてみれば、少なくともオカルティズムが「非科学的である」と認識していたユングはまさに自分の限界性に自覚的であったという意味で「賢者」なのだろう。

結論。やはりユングは歴史の教科書に名を残すだけのことをなしたのだ。
ウィルソンの見解もまた一興。ものの見方の多様性は常に尊重されて然るべきだろうしね。

ところで
厚生大臣閣下の「産む機械」発言が尾を引いてますね。当然といえば当然だろうが。これがもし政治家でなくただのおじさんの暴言ならなにごともなかったのでしょうけどね。
(もっとも、もし今回の発言が「男は給料稼ぐ機械」といったものだったらばこれほど責められただろうか。かなり疑問。)

不用意な大臣閣下はひとまずおくとして、もうひとつ今回の一件から感じることが一つ。たしかに「機械論的認識でケシカラン」というのもわからなくはないけれど(わからなくはないけれど)、そこに、ケシカラン発言を「機械論的」に責める”幅のなさ””機械的思考”をそこはかとなく感じる(こともある)昨今。

いっそ試しにどこかの自治体が「劇場特区」「フィクション特区」をつくったらどうだろうか。
そこでは差別用語言い放題、日頃言えないやれないアンナ事コンナ事すべてOK。まぁ暴力沙汰は後を引くので禁忌としてさ。けっこう人を呼べるのでは(財政破綻した夕張市あたりならば「まぁ大変な最中だから細かいことは言わんとこ。がんばってみな」くらいの鷹揚さで認められないだろうか?)。

すべての規範を忘れられる、そんな「劇場」、「フィクションを前提とした場」があれば、現実の社会もちょびっとだけ過ごしやすく・・・ならないもんだろか。夢想・・・。

ユング―地下の大王 (河出文庫)
amazonでは入手不可

『言葉と無意識』そして正論

  • 2007年01月26日 (金)

「正論は正しい」
当然のことだ。なにも改めて言うほどのことでもない。
その改めて言うほどのことでもないほど正しい正論(くどいな)を、くどいほど声高にかつ高飛車に執拗に叫ばなければならないほど、今の日本では正論が容れられることが少ないないのだろうか。

「食べられない物を売るとは何事だ!」
「やらせはけしからん!」

もちろん、それらについて基本的には私も同感だ。
ただ、正論の前にこうべを垂れるほかなすすべのない者を、正義の名において執拗に小突き回すほかには彼らをに改善を促す方法がないのだろうかとも思うのだ。むしろ正論であればこそ、静かに語ろうともボソリと呟こうとも言葉が言葉としての力を持つのが理想的な状態だと思われるのだけれど、ひょっとしたらわたしたちが生きている社会は、声高に叫ばなければ聞く耳すら持ってもらえない、あるいは声の大きな者が勝ちをおさめる、そういう社会なのだろうか。もしそうだとしたら、なんと「分かりやすい」社会だろうか。だって声の大きさが同時にその言説の正しさをも示すというわけだから。

いや、ほんとうはさかさまなのだ。分かりやすい”物語”がまず先にあるのであって、現実とやらはその物語に沿った形で読み込まれ切り取られるにすぎないのだ。なによりまず物語ありき。
だからこそ正論という武器を手にした者は、相手を徹底的に痛めつけ、ときとして死に至らしめる。敵と馴れあうような中途半端な”正義の味方”はそもそも物語の主役たり得ないというわけだ。勧善懲悪、それもまたよし。人びとはそこにカタルシスを求める。
私たちの生きている「社会」「世間」は、あるときは生の現実が錯綜する場、またあるときは劇場。そのような虚実入り交じった極めてスリリングかつ包括的な場なのだ。そこにおいては「昨日の敵は今日の友」「昨日の被害者は明日の加害者」。リアリティ溢れる、というよりもまさに”リアルな物語”がただひたすら消費されてゆく。

われわれの社会の大道から虚構ゆえの楽しみ、芸術が消え去ったのはいったいいつの頃からだったのか、私は知らない。

どんな行為にも<目的>を立てねば気がすまない表層のロゴスは、すべての行為を<手段>におとしめてしまい、いかなる現象にも<意味>を探そうとする表層のロゴスは、人びとをまじめにさせ息づまらせる。まじめな人間は事物の背後のありもしない宝探しに血道をあげて、文化という美しい虚構(フィクション)を楽しむことを知らない。

言葉と無意識 (講談社現代新書) 言葉と無意識 (講談社現代新書)
amazon価格:798円

筒井康隆『将軍が目醒めた時』

  • 2006年11月28日 (火)

難しいことを考えることもなくひたすら笑い楽しめる一冊。私は「乗越駅の刑罰」が最も楽しめました。少しばかり権力を手にした小役人(国鉄職員)に理不尽な刑罰を受ける小説家のおはなし。こうして(ストーリーを思い出しつつ)書きながらまた笑いがこみ上げてきています(ギャハハ)。ま、そのくらい笑えるハナシでした。表題作の「将軍が目醒めた時」も笑えます。そして時々マジメに考え込まされます。

狂気を笑うことが出来るのは正気の人間だけであり、狂気の人を笑うことが出来るのは正気の世の中だけである。そして狂気は決して”狂気”としては現われない。それは必ず”正気”のフリをして現われるのだ、「私(私だけ)は正気です!」とやけに声高に叫びながら。
そんなことを考えました。ホント、筒井作品は笑えます。

収録作品

  • 万延元年のラグビー
  • ヤマザキ
  • 乗越駅の刑罰
  • 騒春
  • 新宿コンフィデンシャル
  • カンチョレ族の繁栄
  • 注釈の多い年譜
  • 空飛ぶ表具屋
  • 将軍が目醒めた時

将軍が目醒めた時
筒井 康隆著
税込価格: ¥1,029 (本体 : ¥980)
出版 : 河出書房新社
サイズ : 20cm / 296p
ISBN :
発行年月 : 1977

河合隼雄ほか『笑いの力』

  • 2006年10月09日 (月)

笑えました。そして考えさせられました。

2004年に小樽で開催されたシンポジウムをまとめた本。前半は河合隼雄、養老孟司、筒井康隆三者の講演録、後半は三林京子と司会の工藤左千夫を加えたシンポジウムのまとめ。そのなかで私は、なぜ現代の日本に笑いが乏しいのかというところに興味を持ちました。

曰く、かつては日本にも滑稽本や古典落語などさまざまな”笑い”が確かにあった。ところが明治以後、西洋科学文明を取り入れて西洋に追いつけ、追い越せとやるうちに日本では笑うことの価値が見失われていった、というのです。

思うに科学的思考は、客観的真理の存在を前提としてこれを追求する思考法ではあるが、本当に客観的真理は存在しているのか。それは人間が知りうるものなのか、という疑問を置き去りにしてきたのが明治以後の日本でなのではないか。あるいは客観的であること、科学的であること、理性的であること、論理的であることはすべて善き事だ、また、そうあるべきだというある種の”癖”が身に付いてしまっていないか。果たして本当にそうなのか。

そもそも人間にとって真の意味での客観的認識は可能なのか。人間は、より客観的、より論理的であろうとすることは可能であるとしても、人それぞれにバイアスがかかることは不可避ではないのか。(そのような、人間の認識力の限界を説明するにあたっては、芥川龍之介の「藪の中」が引用されています。)

NHKの番組審議会に出ればわかりますけれど、報道局長が出てきて、必ず言うことがあるんですよ。「NHKの基本的な方針は、公平、客観、中立です」とこうおっしゃる。・・・その背景にある現代社会の常識とは、「たった一つの客観的な事実がある」ということです。・・・唯一客観的な現実がある・・・それは神様のものであって、人間のものではない。・・・公平、客観、中立のものを人間が把握できると本当に思っているのかと言いたい

人間に出来ることは、客観的で在る、不偏不党で在ることは本来的に不可能であるという認識に立った上で、より客観的で在ろう、不偏不党で在ろうとすること位なのではないだろうか。そして真面目な顔をして自らが客観的であり得る、不偏不党であり得ると公言できる人に対して対抗する手段の一つが”笑い”だという気がします。

話は変わりますが、この本にある、劇場と笑いの役割は非常に示唆に富んでいると思います。
「劇場とは何か」:そこで起こることはすべて虚構であると前提される場(空間)
(↑ちなみにこれはこの本を読んだ上での私なりの理解です、念のため。)
もしそうした意味での劇場において、観客の一人が観劇中に「嘘は泥棒のはじまりであるぞ、けしからん!!!」などとと叫び始めたとしたら、これほど滑稽なことはないように思います。なぜなら、「劇場で演じられることはすべてが虚構である」というのが「前提」なのだから。

おっと、そろそろ頭が混乱してきました・・・・。
まぁ、結論は「真面目もホドホドに」というところでしょうか。
真面目すぎる議論はしまいには息苦しくなりますもんね。
虚構や笑いの中に紛らしてしか語れない真実、というのもあるような気がする昨今です。

最後にこの本の中から面白かった部分を引用させてもらいます。

「どうしたらいいか」、本当に戦後よく出る問いの立て方です・・・「ああすればこうなる」・・・だから商売でもなんでもそうですけど、官庁は典型的にそうで、予算をたてて、「ああすればこうなる」をやる。子供を育てるのも「ああすればこうなる」。

官庁での新任研修
(講師)「「ああすれば、こうなる」ではだめなんだ!」
<受講生一同、納得の顔>
(司会)「では最後に質問がある方はどうぞ」
(受講生)「・・・・・・それじゃあ、先生、どうしたらいいですか」

(↑この部分は本文をもとに変形を加えています。)

笑いの力 笑いの力
amazon価格:1575円

芸術~『そして夜は甦る』より

  • 2006年07月22日 (土)

美術というのは、いわば虚構と想像力の世界ですから、むしろ嘘で成り立っています。だが、真正の芸術はみずからその嘘に耐える力があります。

(P18)

そして夜は甦る (ハヤカワ文庫 JA (501)) そして夜は甦る (ハヤカワ文庫 JA (501))
amazon価格:756円

Home >> タグクラウド >> 虚構

フィード(更新通知)
窓口(Mail)

このページの先頭へ戻る