Ubuntu日本語フォーラムの登録者がさきほど1万人を突破した模様。
べつに私自身はフォーラムの運営にかかわる人間ではない単なる一ユーザーに過ぎないが、しばらく前からこの区切りを今日か明日かと注目してきた。私がUbuntuをメインのOSとして使用し始めた1年ほど前の登録ユーザー数は2200人ほどであったから、約1年で4倍のユーザー数となったというわけ。実際にはフォーラムに登録していないユーザーの方が多数派だと思われるので、Ubuntu利用者の数はさらに多いと思う。この一年のうちにUbuntuは相当進化したと(素人ながら)思う。個人的にはATOK x3のリリースが重要な画期だったが、それ以外にも動画のSilverlightやらPDFファイルにマーカーしたり(wineでWindowsアプリを動かす反則技だけど・・・)出来るようになって結構いろんな面でUbuntu(Linux)は使いやすくなった。今年一年でUbuntu(Linuxデスクトップ)がさらなる飛躍を見せてくれることを祈る。
朝方までひたすら読み・聴いて、起きたらお天道様が高々と昇っていた。
だいぶん前からこのブログにはインターネットラジオのリンクを設置してるが、昨年のブログ移転の時にチェックしたら、あまり使用していなかったリンクのいくつかは既にリンク切れしていたので削除した。他にどこか良いネットラジオサイトがないかと探していたら昨日オランダの「Radio4」と言うチャンネルに遭遇した。このサイトでは大好きなRoyal Concertgebouw Orchestraのmp3が10曲もダウンロードできるようになっていて「おおおぉっ!」。で、私的ラヂオリンクに追加。
ベルリンフィルハーモニーの定期演奏会がネットで(有料)視聴できたり等々ほんと驚くしかない。有り難い。
(追記)
投稿を訂正する度にフィードが配信されてしまう不具合をどうにか修正できたようなので、テストをかねて投稿。
なし崩しに新年を迎えてしまったなぁ、などとフト思う。
先日、ジョージ・ソロスの『ソロスは警告する』(原題:The New Paradigm for Financial Markets)に巻かれていた帯文その他にうんざりしたことをこのブログに書いた。いったい何にうんざりしたのか一言で示せば、それは著者の視座と訳者・解説者の視座の隔たり大きさに一人の「ニッポンジン」として、いささか幻滅を覚えたからだ。この本の中で著者は、彼の経験の中からなにがしか本質的なものをくみ取ろうと格闘している。彼は、おそらく(その当否はさておき)彼の人生におけるさまざまな主観的体験・客観的現象のうちから本質的なものを(彼なりに)読み取ろうとする姿勢を一貫して持ち続けているようだ。それに引き比べて、日本人によってこの本に付された解説その他はどうか。私はここで、その余りの不毛さに一驚したことを告白する。やれカリスマだ、ベストセラーだ、はては市場経済への過度の依存が・・・云々と、テレビだか週刊誌だか3chだかで見るような、思いつきの、ありふれた、うわっつらばかりの文句ばかりがズラズラと並べ立てられている(その一部がamazonにも載っている)。私としてはそうしたものに別に文句を付けるつもりはない。それはそれ、これはこれとして当意即妙・適材適所をよろこぶものであるがしかし、よりによって自称「挫折した哲学者」の本にその手の解説・売り文句はあんまりだろうと思ったのであった。しかしこれもまたそれはそれこれはこれで、ま、べつに構わないと言えば構わない。ただ、そのようなものを食傷するほどに見聞きしつつあり、正直なところうんざりしかけている。だいたい何だね、最近の帯文の無茶苦茶なこと、目に余る。そういえば、先日読んだ福田恆存の文庫版『人間・この劇的なるもの』の帯文には太文字で”恋愛の書!”とあったことを思い出す。本屋の店先であの福田がいつそんな本書いたのカネ?とちらりと思ったが(帯文にある恋だの愛だのの安っぽい売り文句に惹かれて本を買うような人にとって福田の文はまず間違いなく「ウザい」「ダサい」「クドい」と思う)、何のことはなかった、巻末解説のさらに後に付け加えられた一評論家の一文の末尾に「だからこそ、『人間・この劇的なるもの』は、若者たちにますます必要な人生の書、いや恋愛の書だと思う」とあったところから来たらしい。それもこの一文は、この評論家氏の(福田の著作に関する)きわめて個人的な思い出ばなしなのであって、福田の書いたものとのつながりは無きに等しい(むろんそれはそれで全然問題はない)。問題は(というか鼻につくのは)、そうした枝葉の言葉尻(同義反復だな)をつかまえてさもこの福田の本が”恋愛の書”だと見せかける腐れ根性・・・、もとい逞しい商魂と、そのような姑息な真似をしなければこの本が売れない(のかもしれない)現代日本の世相というか、ま、何かしら腐臭らしきものを嗅がされる気分になったのだった。すんません、小生、箸が転んでも腹が立つ奴ですねん。すまんの。それにしたって、「大の男」に「ミニスカート」はかせるような真似はやめようぜ。三文小説じゃないんだし。などと書く必要はあまりないか。つまらない帯なんぞゴミ箱に棄てればそれですむこと。いやあ、分かっちゃいるけどね。あ、日本の本、読まなきゃ良いのか。読むなら古典、買うなら洋書、ほんとそれでいいのか?
などと、くどくど書いてみたが、助走だけで終わってしまった感なきにしもあらず。
- 関連エントリ:
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十
載営魄抱一能無離乎
専気致柔能嬰児乎
滌除玄覧能無疵乎
愛民治国能無為乎
天門開闔能為雌乎
明白四達能無知乎
生之畜之
生而不有
為而不恃
長而不宰
是謂玄徳
営魄を載せ一を抱き能く離るることなからんか
気を専にして柔を致し、能く嬰児たらんか
玄覧を滌除し能く疵ならんか
民を愛し国を治め能く無為ならんか
天門開闔して能く雌たらんか
明白四達して能く無知ならんか
之を生じ之を畜う。
生じて而も有せず
為して而も恃まず
長じて而も宰せず
是を玄徳と謂う
私家版老子道徳経目次
福田恆存の訳でハムレットを読む。実は初めて読んだ。
そもそも、シェイクスピアに限らず戯曲というものをほとんど読んだことがない。料理本を読んでも腹が膨れぬと同様、戯曲=ドラマの台本を読んだところでつまらん、と(シェイクスピアを読むまでは)思っていたのであった。恥ずかしながら「ハムレット」(父親の仇討ち)と「ロミオとジュリエット」(純愛もの?まだ読んでいない)の区別すらようよう出来ていなかったことに気づかされる。
劇は描写ではありません。「第四の壁」という演劇観は、シェイクスピアのうちには存在しなかった。一つの部屋の四つの壁のうち一つをとりはらって、観客に見えるようにしたものが劇だという考えほど、劇をつまらなくする考えかたはない。それなら観客は見ているだけです。のぞいているだけです。役者はのぞかれていることを知らぬふりをして、舞台と客席との間に壁があるごとく、すなわち人生そのままに芝居をするということになる。それなら、劇は描写です。(中略)が、シェイクスピア時代(中略)当時の観客が求めていたことは、同時にまたかれらに求められていたことは、劇中人物と同様の情熱を体験することだったのです。各場各場の展開にしたがって、刺戟と浄化の過程を味わうことだったのです。
福田恆存「シェイクスピア劇の演出」〜『ハムレット』新潮文庫より
ちなみにこの文庫本、文庫本の割りに付録が充実していて有り難い。福田による解題・中村保男の解説、上で引いた福田の演劇論、ほかにシェイクスピア戯曲の執筆年代、シェイクスピアの年譜も有り。
「シェイクスピア劇の演出」の最後に福田は次のように書いている。
シェイクスピアの原文は、ご承知のようにブランク・ヴァースで書かれております。(中略)が、翻訳では、ブランク・ヴァースの妙味はだせません。(中略)正直な話、日本語のシェイクスピアは、訳者の手にわたるまえ、すでにその美の九十パーセントは死んでおります。
同上
意外な言葉ではないが、「そこまで言う!?」という気もするので、実際に英文にもあたってみるとする。
それにしてもさすがにシェイクスピア関係のリソースは豊富。googleやwikipediaでざっと見ただけでも次々にヒットする。(日本)国文学にもこれに匹敵するものがあるのかどうか探してみよう。
折々、目を引いた台詞をこのブログに書き付けてみようか。
どんな悪事も露顕する。硬い大地が結束して、それをひたかくしに隠そうと、所詮はむだだ。
福田恆存訳『ハムレット』新潮文庫
Your loues, as mine to you, farwell.
My fathers spirit (in armes) all is not well,
I doubt some foule play, would the night were come,
Till then sit still my soule, fonde deedes will rise
Though all the earth ore-whelme them to mens eyes.
Hamlet (Quarto 2, 1604)[Internet Shakespeare Edition]
Your loves, as mine to you: farewell.
My father’s spirit in arms! all is not well;
I doubt some foul play: would the night were come!
Till then sit still, my soul: foul deeds will rise,
Though all the earth o’erwhelm them, to men’s eyes.
The Complete Works of William Shakespeare
前兆などというものを気にかける事はない。一羽の雀が落ちるのも神の摂理。来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る—–いま来れば、あとには来ない—–あとに来なければ、いま来るだけのこと—–
福田恆存訳『ハムレット』新潮文庫
Not a whit, we defie augury, there is speciall prouidence,in
the fall of a Sparrowe, if it be, tis not to come, if it be not to come,
it will be now, if it be not now, yet it well come, the readines is all,
since no man of ought he leaues, knowes what ist to leaue betimes,
let be.
Hamlet (Quarto 2, 1604)[Internet Shakespeare Edition]
Not a whit, we defy augury: there’s a special
providence in the fall of a sparrow. If it be now,
’tis not to come; if it be not to come, it will be
now; if it be not now, yet it will come: the
readiness is all: since no man has aught of what he
leaves, what is’t to leave betimes?
The Complete Works of William Shakespeare
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