「2008年1月」に書かれた記事

『もてない男』再論

  • 2008年1月1日

新年早々憎まれ口を叩くのも無粋であるからして、昨年からの積み残し(というか下ろし残し)で一席。ほろ酔い気分の鼻歌のようなもの。再論などというタイトルだけど、たいしたものではありません。ただの雑感です。

しかしあれですね、20年ですか。平成20年。いつのまにやら大きくなっちゃってさ。昭和はとおくなりにけり、か。やだね、まったく(いや、ぜんぜん厭ではないんだよ)。あの日のことはさすがによく覚えている。小渕さんが神妙な顔で掲げた「平成」の二文字、丁寧ではあるがあじもそっけない二文字を今でもはっきりと覚えている。
とーきーのーなーがーれーにみーをまーかせー
いつのまにやら二十年。

え、なんですと?話が見えない?
そりゃとうぜんです。もてない男は気が利かないのであります。わるかったね、空気読めなくてさ。いや、冗談ですよぉ笑うとこですって、ここは。
まあなにごとにせよ、てめえのことをあげつらってるうちはよそさまに害はなかろうからね、勘弁してくれ。

そもそも笑い話は無性に好きだが、他人を笑いのネタにするようなヤツは好きではない。これと同様、他人の不幸や失策をあげつらうヤツも嫌いである。すると当然(?)自虐的なヤツが好みに合うということになるわけだけど、この自虐というやつも「いいあんばい」でないと苦しい。見ているだけでも苦しくなる(島田さんはときどき苦しい)。この「自虐」のエネルギーがどこかで壁にぶつかって反撥してきたときに厖大な笑いのエネルギーが発散されることがある。そして私は『もてない男』にそうしたものを感じたのであります。

実際の著者(小谷野敦)がほんとうにモテナイのかどうか私は知らない。しかし彼はこの本のなかであくまでも自虐を貫いている。いや、確かに数人を対象にして毒舌を弄している箇所はあるのだが、それすらもなぜかイヤらしさがない。おそらくこれは著者の自虐エネルギーがそのようなイヤらしさをも圧倒していたせいではないだろうか。仮に筆者がこの本を書くにあって、(評論家にありがちな)自分だけは別世界の人的な立場をとっていたならば、そのような毒舌は読者をして辟易させることになったのではないだろうか。その点、この本は自虐と毒舌とがきわめて微妙なバランスを保ち続けていた(つまり良い加減であった)というのが私一個の感想である。

これは当然といえば当然のこと(違いますか?)
もしあなたが、モテル男(女でも可)がモテナイ男を揶揄し愚弄する文章を読んで楽しめますか?あるいは自分を中立者に仕立ててモテナイ男のモテナイ男たるゆえんについて蘊蓄をたれるのを楽しめますか?評者がある一人の人間のあり方なり活動なりを、まるで神の如き立場に立って論じるものを読むことで、その人間の生き様の一端にでも触れたと感じることができますか?そのような論を読むことで読み手自身の何かが変わるもんですかい?

一般論としてつけくわえておくと、確かに自分のことを棚上げしなければ語れないこと、自分のことを棚上げしてでも語らねばならないことというのはあるのかもしれない。しかしそれらについてはよほど謙抑的でなければ、この世には裸の王様が増えるばかりだ。少なくともこの著作において小谷野は裸の王様ではなくて、裸の道化を演じきって(あるいはさらけ出して)いるように見えた。著者の様々な見解のうちに、私の持つそれと異なる部分ももちろんないわけではないものの(結構たくさんあった)、面白いものは面白いのだから面白いのだ。

ついでにこの本のキャッチコピーを考えてみた。
「もてない男でも楽しく読める!」
UBSGW謹呈

ん、これだとレジに持って行きにくいかもしれぬ。
「モテる男の必読書!」
のほうが良い?

正月早々なに言ってるのかね。
ま、正月気分ということでどうぞご勘弁。

ハシゴ論もどき

  • 2008年1月4日

「一貫した主張」だとか「首尾一貫」といえばおよそ「良いこと」だと考えるのがフツウのことなのだろうけれど、これらの「フツウのこと」を一度は疑ってみるというのが私の”一貫した”思考態度である。したがって私自身は「一貫性」「首尾一貫した態度」を必ずしも否定的に評価する者ではない。ただ、「一貫した一貫性」だとか「いつでもどこでも首尾一貫している」などというものが仮にあった(いた)としたら、そうしたものには大いに疑問を感じるのだということなのだ。ん、これではわかりにくかもしれない。

人がある事象(物事)を理解しようとするとき、そこに首尾一貫した法則を見いだすことができれば話はたいそう簡単だ。水は低きに流れ、水は火を消す。一貫した法則、原理原則、論理性、お定まりのルール、べつに何と呼んでもよい。ところで、大昔のこと、水が火をあおり、石が燃えたとき、きっと人は驚いただろう。そして未だ人知の及ばぬことは腐るほどある(はず)。今も昔も「現代人」はなかなか自分の無知を理解しがたい。「現代人の盲目」はつねに人間につきまとう。昔の人の無知を憫笑しつつ己の知性に誇りを抱く。それどころか「かのクニでは・・・」などと同時代人にすら教えを垂れることさえある。おそらく無知の知の実践者は「永遠のマイノリティ」というべきかもしれぬ。もっとも、そうでなければこまる。誰もが鍬を棄て思索にふけってしまうようになれば食うものも食えなくなるのだから(これは野人の僻目か?)。

それはともかくとして、論理性なんてものは単なるハシゴではないだろうか。事象を理解するための(二階に昇るための)ただの道具。建物(事象)に立てかけ、仮設してスルリスルリと昇っていくための道具。ときには例外的超人がハシゴを使わず一気に上の階に(下の階でもよし)跳躍することもあるが、べつに彼はその一部始終を解説する必要はない、彼がそれを望まなければ。おそらくアインシュタインは自らの跳躍を物理学の法則で解説し、ドストエフスキーは物語という道具を用いて解説した。そういう風には考えられないか。まずヴィジョンありき。

たとえ偉大な科学者たちが首尾一貫を旨とする論理を用いることで、ある事象を解説できたのだとしても、それは論理すなわちハシゴを積み重ねてゆくことによって上の階に到達できたのだと言うわけにはいくまい。もし誰かが「ハシゴを積み重ねてゆけば上に辿り着ける」と言ったとしたら、彼は「魔法の杖を一振りすれば願い事がなんでも叶う」と信じるオカルティストと呼ばれて然るべきだろう。そしてじつは、合理主義者を自称するオカルティストはそれほど珍しくないかもしれぬ。

ハシゴを魔法の杖と信じるオカルティストと並び称されるべきは「事実コレクター」だろうか。(それ自体真偽不明の)事実の欠片を集めれば集めるほど真実に近づけると信じ切った狂信者たち。むろん彼らが後生大事にしたがる欠片が本当に真実の欠片であるなら望みはまだあるのかもしれないが、多くの場合真実の欠片なんてものはこの世に存在しない。「真実は一つ」とはなにもこの世のあらゆる事象に各々にただ一つの真実がそなわっているということを意味しているわけではない(そんなこともあるのかもしれないが)。おそらく「真実は一つ」という言葉は、真実とは「一にして全」なのだということを表現している。人間が掴みうることのない生の実相、人間の営みの総体(全体)は常に真実である(そうであって欲しい)、と、そういうことを表現しているのではないだろうか。そういう風には考えられないのか。結局のところ、「真実は一つ」という言葉はひとつの信仰告白以上のものではない、というのが私の考えである。私たちにできるのは、自らの認識力には限界があるということを受け入れ、観念したうえで、牛のようなのろのろとした足どりで行けるところまで行くということのように思われてならない。

このように只でさえ困難な道のりを、まるで足りない頭でひねり出した筋書き通りに進もうとするなんてことは、一言で言えば愚行ということになるだろう。愚か者にかぎって口を開けば大言壮語、とはよくある話。見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞き、辻褄を合わせ、地図を描き直し、果てはまるであさっての方向へ突っ走る阿呆。周囲に何もないひらけた場所でハシゴを立てようと四苦八苦、ようやく立ったところで二つ目のハシゴを重ねようとまた四苦八苦。さらに三つ目のハシゴを・・・。重ねれば重ねるほどに不安定になっていく一連のハシゴ。こんなものはほんの一突きであっというまに崩れ去るのは眼に見えている。そんな馬鹿なことをやっているということにすら気づかない奇妙な合理主義者、合理性「原理」主義者がこの世にいないと言えるだろうか。疑問。

論理のうちに人間を住まわせることはできない(これだと「当然だろ」と言われそうだな)ということをどのように表現したものかと考えていたところちょうど良いのに出会った。

「与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」

フランクル『夜と霧 ~ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房 P166

与えられたどのような事態に対しても各人がそれぞれ(きわめて限定的な選択肢の中からではあれ)任意の態度を選択できるという「人間の最後の自由」を奪いとることは誰にもできない。

人間に与えられたこうした自由を考慮しない、歪(いびつ)な「論理の階梯」は、ときとして人をあらぬところへ連れ去るのである。ユダヤ人虐殺に見られる人間の傲慢さは、いまも、そこかしこにある。

ところで、
当然だと思っていたことがそうでなくなるからこそ「コペルニクス的転回」と言うはずなのだが。小さな穴でもその気になれば結構いろんなものが見えてくる。
「北方事件:佐賀県警が鑑定細工か」(毎日jp)
こんなものは些細な綻びに過ぎないだろう。推して知るべし。

とりかへばや文学評

  • 2008年1月7日

例年のことながら、年が変って以後、低空を遊覧飛行中。軽いもの、面白いもの、くだけたものだけを食し、読み、観ている。大晦日に向かって膨らんだ風船が年越しと同時に萎み、一日は酒と昼寝、二日は映画、三日はテレビといった風。そして徐々にまた高まっていくというのが近年の習性となっている。そしてまたなぜかこの時期に読みたくなるのが「心」に関する本。ユング、河合隼雄・・・。彼らによるとどうやら現状は「心的エネルギーの低下した状態」とでも言うらしい。要は「タメの時期」というわけだ。「芸術は爆発だ!(@岡本太郎)」

河合隼雄『とりかへばや、男と女』(新潮文庫)の冒頭、引用されている国文学者藤岡某氏の「とりかへばや」評についつい独り笑い。

「人情の微を穿てるところなく、同情の禁じ難きところなく、彼此(ひし)人物の性格十分に発揮せず、ただ叙事を怪奇にして、前後応接に暇あらしめず、つとめて読者の心を欺諞(きへん)し、眩惑して、小説の功成れりとす。その奇変を好むや、殆ど乱に近づき、醜穢(しゅうわい)読むに堪えざるところ少からず。敢て道義を以て小説を律せんとするにあらず、その毫も美趣の存ぜざるを難ずるなり。殊に甚だしきは(後略)」

「怪奇」を「ふぁんたじい」とでも取り変へれば、今でもよく耳にする”悪口”ぢゃあないかね、こりやあ。

先般物故した河合が「物語り」について面白いことを書いているが、それについてはいずれ。
つづきを読まねば。ワシワシ。

音楽を愛する友へ

  • 2008年1月10日

エドウィン・フィッシャー著『音楽を愛する友へ』(新潮文庫)を読む。初めて読んだような気もするが、以前に読んだのに忘れているだけかも知れぬ。以前から背表紙を眺めるたびに、題名がどうも「らしくない」と思わぬでもなかったが、今回ようやく納得がいった。

この本、フィッシャーの二つの文にブルーノ・ワルター(ユダヤ系の指揮者)の講演原稿「音楽の道徳的ちからについて」を併収しているが、フィッシャーとワルターの関係はよく知らぬ。フィッシャーの文の原題は"Musikalische Betrachtungen"(音楽的観照)と"Johann Sebastian Bach"。訳者佐野利勝によるあとがきに、詩人尾崎喜八の霊に捧げる、とあるのをみてようやく『音楽を愛する友へ』という邦題に納得。よく見れば巻頭に献辞もあったのを見落としていたようだ。

楽曲の解釈一般についてのほかに、モーツァルト、ショパン、シューマン、ベートーヴェン、J.S.バッハについてそれぞれ書き綴られているが、そのどれもがしかも自らの体験に裏打ちされた格調の高いもので、凡百の音楽評論が哀れにすら感じられる。むろんそれは比べる方がどうかしているというもので、そもそも実作と評論とを同じ土俵で戦わせてもあまり意味がない。これとは幾分違った意味ではあるが、作曲家と演奏家とを同一次元で比較することにもまたあまり意味はないだろう。とはいえ評論にもまた「生きた評論」と「死んだ評論」があるのは事実だが。別段どちらが善いとか悪いとかいうはなしではないが、そうした違いは厳然としてある。が、それについては詳細を略す。フィッシャーはこう言う。

音楽自身が物語るものと、一人の作曲家が音楽を通じてわれわれに語るところのものとを厳密に区別して考えねばなりません(・・・)たとえ作曲家が音楽によって苦悩を語ろうとも、音楽自体は同時に幸福を小声で囁いている、そして、音楽の独自の声は作曲家の語る縷々たる物語よりも強力なのであります(・・・)わたくしは音楽を目して、作曲家がそのなかに自己の体験や感情を叙述するところの一種の私信と見なすことに対して警告を発せねばなりません。

フィッシャー『音楽を愛する友へ』新潮文庫

仮りに誰かが、一人の人間の思考や行動が全てその人物の自我から発するものとする”機能的な”人間観から物事を眺めるならばこのフィッシャーの言は理解しがたいかも知れぬ。しかし人間は意志のみにて生きるに非ず。人間が決して意志の働きによって生きている訳ではないと考える人にとっては寝ているあいだも人間は生きていることになる。が、人間の生を意志(自我)の面からのみ見るならば寝ている人間は意志がない故に「生きていない」ということになろう。こう考えてみると、現代社会が如何に「生きるということ」を軽視、いや見過ごしているかが分かる。これは一人ひとりがそうだと言うのではない(そうなのかもしれないが)。社会における「哲学の不在」といってもいい。なにもかも分解し分析してしまう専門家は数多いてもその逆を行う人は少ない。人間を分解し、心理を分析し、それでおしまい。まるで複雑な機械をためしに分解してみた子どもがそれを元に戻せずそのまま放置し、また別のものを分解し始めるようなものか。いま一体どこに幾人の哲学者がかろうじて存在しているのだろうか。

話が逸れた。
フィッシャーはここに一人の演奏家=再現芸術家として観照した音楽について語っている。したがってこの本からバッハやモーツァルトら作曲家に関する”知識”を得ようとしてもおそらく無駄に終わるだろう。もし偉大な作曲家の音楽を如何にして己がものとするかという観点を著者と共有することが出来るのなら、この著作から得られるものは計りしれないほど多いだろう。なお、1886年バーゼル生まれのピアノ奏者・指揮者であるフィッシャーだが、この本の叙述にはC.G.ユングの匂いが強く感じられる。1875年生まれのユングとは同世代とは言えないまでもまぎれもない同時代人でもありまた同郷人でもある。この二人の関係についてちょっと興味が湧いた。

ユングもしばしば老子の言葉を引くが、フィッシャーもまた次のように言っている。

いつの日か迷妄の夢はさめる。そして、モーツァルトの音楽においては、内容、形式、表現、ファンタジー器楽的効果など、いっさいがごく単純な手法によって達成されていることに気づくのである。この日が訪れるとき、君はあらゆる模索、あらゆる欲求から完全に救われるのだ。ここには、老子の言葉の意味で、真に超克をなし遂げたなんぴとかが立っているのである。老子はこう言っている。
欲せんとすることなくして欲し、
為さんとすることなくして為し、
感ぜむとすることなくして感じ、
小を大とし、
少なきを多しとし、
悪しきを善しとす。
是(ここ)を以て聖人は遂に大を為さず、
故に能くその大を為す。
君が人生においてこのことを体得しないかぎり、君は決して、神々のごとく現実と喜戯する芸術境地に達することはできまいし、モーツァルトの音楽に、彼が要求しているもの——すなわち人格の調和——をあたえることもできはすまい。だが、そこへと通じている道は、なんという労多き道であることだろう。

同上

意志こそ全て、とする限りは、このような二律背反はタワゴトでしかなくなる。このタワゴトめいたことを頭で「理解」するのは簡単だ。しかし頭で理解しても身体は正直だ。そういえばしばらく前のこと、図書館である総合雑誌を眺めていたらやたらと傍線が引いてあった。それは「品格こそが大事なのだぁ」といった内容の文章であった。皮肉なことではある。脚下照顧。

追記
この文庫本は現在絶版らしいが、増補版がみすず書房から『音楽観想』として出ている。値段は文庫の十倍もするがそれだけの価値はあると思う。
(2008年1月17日一部改稿)

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あったりまえじゃねえか

  • 2008年1月12日

防衛大臣のUFO発言をとりあげて「ごもっともごもっとも」と謂う新聞コラムを横目で眺め、年金記録問題がその後いっかな詳報されないことを訝しみつつ珈琲を啜る。一部というか大半のメディアはどうやら3月の公約”期限切れ”を待ちわびているのだろうな。頭も身体も金も使わずして記事が書けるのであればなんとも「効率の良いこと」であるのだろう。いいね、ほんと。浦山師

読み所のない新聞は打ち捨てて老子をぺらりぺらりと読み返す。ワクワクがときに惑惑となりつつもいろんな想念が湧く湧く。ただ手持ちの本の体裁がどうも気に入らぬ。白文書下し文現代語訳とひととおり揃えてあるものの見ていてどうもすっきりしない。たとえば、ひらがなを多用した書下し文はかえって読みづらい、と私は感じる。今ならひょっとするとネット上のどこかにお宝テキストが公開されているのかもしれないので捜してみようか。

ひとしきり老子を読んでから、なんとなく湯川秀樹の自伝を手に取る。『旅人』(角川文庫)。生い立ちから20歳代半ばまでの半自伝。中間子理論に行き着く直前の描写が妙に生々しく感じられたのは、それがそのまま「谷の時期」の描写であったからかも知れぬ。
湯川が引用していた言葉のひとつに目が留まる。

「一個の結晶は明皙である。結晶の破片の集りは、しかし不透明である」(マックス・ボルン)

ガタピシ鳴き声をあげがちな自分の頭の歯車に注油してもらっているような気分になる、なんということもない言葉の数々。下は湯川の言葉。

未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、できるのである。

「あったりまえじゃねえか」
いや、そのとおり。わかっちゃいるんだよ。

wikipediaに、ボルンの孫のひとりがオリビア・ニュートン・ジョンとあったがほんとうだろうか。

落ちないばなし

  • 2008年1月16日

うかうかしているうちにボウズになってしまった。
三日坊主。
元日以来三日おきにブログを更新して辛うじて三日坊主のそしりを免れつつ密かに新記録達成を目指したもののあえなく挫折っ、ゼイゼイハアハア(息切れ)。
しくしく。

このところ、暇さえあればひたすら読み耽っているのでそんなことになる。読んでいるのは・・・いろいろ。本とネットの両方。本は今更ながらのユング・河合隼雄。「オカルト!」ですと? そうね、確かに飛躍した思考は随所にあるね。気持ちが悪いという人も多いでしょうや。したがってこれらはま、いわゆる「大人の読み物」ということにしときませう。清純な人たちはフロイトだけで我慢してね。俺もフロイトを読みたいのはやまやまなれど、いっぺんにあれもこれもは無理なので他日に期すとしよう。

本を読んでは感嘆し、余所のブログを読んではときにゲラゲラ、ときに粛然。結構充実した余暇を過しているのであります。新年早々は新聞を興味深い記事をけっこうたくさん見かけたのに(内田&鷲田先生とか立花隆とか)、このところ読むとこが無い。つまらん。

そういえば青森かどこかで起きた事件の被疑者が猟奇モノを沢山読んでいたとか新聞に出ていたが、モノ自体を取り上げてアレコレ憶測するのはやめてくれないもんだろうか。猟奇モノを読む(見る)ことと犯罪を実行することの間には、およそ越えがたい溝があるはず(たぶん)。むしろ考えるべきことの一つは、そのような(どのようなものかは知らん)越えがたい溝を何故いとも易々と越えて実行に移してしまうのかということではないのだろうか。むろん結論に辿り着くことは容易ではないだろうし、ひょっとするとそれは無理なのかもしれぬ。とはいえモノ自体に原因を求めてもあまり有益でない点では無駄さ加減に大差あるまい。因果律では捉えがたい(と見える)対象があるのなら、因果律を超えた物差しをそれにあてがってみるということは無駄ではないのではないかな? なんてことを考えつつ、どうやってオチをつけようかと四苦八苦。

ああ、オチ無い。

光陰矢のごとし(短文)

  • 2008年1月19日

一日々々が「えっ」というまに過ぎていく。光陰矢のごとし。
ユダヤ人としてナチスの迫害を受けたV・フランクルが、強制収容所では一日が無限に長いのに対してもっと長い期間(一週間とか1カ月とか)は極端に短く感じるという趣旨のことを『夜と霧』で書いていた。
それに引き比べてみれば、私のように一日も短く一週間もまた短く感じるというのはある意味で幸せなことなのかもしれない。とはいえ、もったいないもったいない、という気はするのだなぁ・・・。
少年老い易く学成り難し。

男一匹犬一匹

  • 2008年1月20日

ひところ暖かい日が続ゐていたがけふは雨。日本列島凍結か・・・。「たいへんだぁたいへんだぁ」
 ・・・・などと、ここで騒いでもはじまらないからやめるとしよう。ほんと寒いぜ。

私のお気に入りの作家の一人であるスタインベックの写真を見るたびに「イヌ顔だなあ」と思っていたんだが、じっさい彼は犬好きだったんだななどと『チャーリーとの旅』(ポプラ社 2007年)を読みながら思ったことだった。晩年の彼がプードル犬チャーリーと「ふたり」で全米を巡った際の紀行文。なぜ「ふたり」なのかはここには書かない。
ノーベル賞作家といい文豪というも、この作家のちょっとトホホ感の漂うユーモアらしきものはたとえば ”うつくしい日本の” OA とか KB あたりにもあるのだろうか。どうも無いような気がするな。
いやいや、ごちそーさま!

なおこの本の原題は "Travels with Charley"(1962) だが、その邦訳はなんだか若き日の著者の職歴にも似て紆余曲折を辿ってきている。bk1のデータベースによると弘文堂(1973) →サイマル出版会(1987) →ポプラ社(2007)へとなっている。
なんにせよ、良書が再び世に出たことを欣快とするものであります。

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句読点の妙味

  • 2008年1月23日

おおおおお。
>配当は、笑顔。
このフレーズにまずシビれててまたあとからあとから….

と、これをコメントとして投稿しようと思ったが、ブログの更新を兼ねて自分のところで書くことにした。
いや、ね、なんだか三日坊主という物の怪の気配を感じたもので。
「プレイナウペイレイターと、いつもニコニコ現金払い。」
ええ、そうです。あの「カフェ」ですよ。
どかんどっかんと大きいのを三発はくらった。これ、「爆笑」というのとは少しばかり違う(「俺」という導火線が湿気ってるだけかもしれないが)。こみ上げてくるが声にはならない笑い、体の内圧が「ごぉっ」と高まる笑い。笑いってのにもいろいろあんだな、と身体で感じたのは初めてのことかもしれない。
今日はこれにて。

迷走におわる

  • 2008年1月25日

正月休みに河合隼雄やユングやらを読み返していたが、そのうちの一冊がアンソニー・ストー著河合隼雄訳の『ユング』であった。ユングの人となりと思想とがコンパクトにまとめられている。そこにうかがえるストーのユングの思想に対する是々非々とした態度と、河合隼雄のストーに対するこれまた是々非々とした態度とが私にはとても好ましく思われた。そんなわけで今、ストーの本を何冊かポツポツと読んでいたが、ふとブログに書きつけておきたくなった。

『孤独』。
まだ読みかけではあるが、この本のテーマは人間にとって「孤独」がどのような意味を持つのか、ということらしい。どうやらストーはボウルビィやらフロイトやらサミュエル・ジョンソンやらを引照しつつ、「孤独」の肯定的側面を明らかにしていこうとしているらしい。ちなみに、空想を幼児的なものとし、また想像力に積極的評価を与えなかった(それどころか現実逃避とまで貶している)としてストーはフロイトを批判している。

フロイトは、現実世界が完全な満足感をもたらしうる、あるいはもたらすことができなければならないと考え、成熟した人間は、空想を完全に捨てることができるのが理想的と考えていたようである。(P110)

しかしこのあとにストーはこうも言う。

しかし彼は、きわめて現実的で頑固、そのうえ悲観的な人だったので、この理想が達成できるとは信じていなかった。

ここで私は「ストーさんってなんて公平なんだろう!」思わず笑ってしまった。
ちなみにフロイト自身がそうとは信じていなかったと断定する論拠をストーは明示していない。が、ここはひとまずストーを信頼しておこう(なにもかも調べ尽すことは私の手に余るのでね)。

何を書こうとしたのか忘れてしまった・・・。
書こうと思い立つまでの経緯ははっきりしてるのでそれだけ書いておこう。
えーと、『孤独』を読みつつ、昨年末から連載されて今日ついに完結した「蕩尽伝説」の「新たなるアニミズム」の21講を読み、そして「遠方からの手紙」の「 サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた」を読んだところで「ピンっ!」と来たのでした。蕩尽伝説にも遠方からの手紙にも「うんうん、そだそだ」となった理由を、『孤独』に絡めてまとめてみようとしたんだが、駄目でした。消化不良。

いずれ全然ちがった形で書くことになるだろうという予感。

ついでにメモ

西洋人は今日までオーストラリアの原住民、南北アメとリカの先住民族、アフリカやインドの住民たち、その他多くの集団に対して、ぞっとするほど残酷な仕打ちをしてきた。そして、西洋が絶え間なく発明を続けているという現実を考えると、人種差別や皆殺しが計画的には行われなくなった現代においてさえも、伝統的な集団がその場を追われることは、おそらく避けられないであろう。(前掲書 P108)

うーん
「アメリカン・グローバリズム」とやらもいずれ「奴隷貿易」や「アヘン戦争」みたいなニュアンスで語られる時代がくるのであろうか? どうだろ。

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本日の記録(1/28)

  • 2008年1月28日

ここ数日寒さが厳しい。底冷え。さぶさぶ。
いま、トリスタン・イズー物語を読みつつある。学生時分、仲間がこれで卒論を書くことになったときにその尻馬に乗っかって「おれも読んでみっか」と手に取ったとことがあって、その時にはまるで退屈だったのだが、今回はまるで印象が違う。
やっぱ古典だよなあ、などと独りごちつつ、でも明日は高橋源一郎を読むのだよ。

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