「雑記」カテゴリの記事一覧

イタズラ音楽を聴きながら

  • 2010年03月13日 (土)

ええと、あれです、今日もこれだけ。
ちょっとだけのぞいてみるつもりで開いてみたら次から次へ。

曲は各々ほんのサワリだけですが、コーヒーブレイクにはちょうどいいですよたぶん。Straussの Till Eulenspiegel がオススメ。

しかし、あれだね、たかだか1週間ばかりの不登校が新聞各紙、地方紙から全国紙から果ては海外紙でまで報道されてしまうなんていうのは、(当人はまだ読めないだろうけど)一人の少女にとって決して軽いことではないような気がする。「小学生でこれだとこの先いったいどうなってゆくの?」ってね。
おっと、クドクド書けば書くほど矛盾が生じることになるので、やめ。

やめだやめダメ

  • 2010年03月12日 (金)

ホワイトUBSGWとブラックUBSGWを使い分けるのを今年の目標にしているにもかかわらず、どうもブラック色が勝ちすぎてきているのでたまにはホワイトでいこうかとしばしキーボードを前に頭をひねったものの筆が進まず、仕方無く過去3年間のエントリから抜粋してコメントを付けながら総集編でも一本書こうとしてみたら、意外に長くなって根気が尽きた・・・眠い。
頑張ツテ普通ニ一本書イタ方ガヨカツタノデアリマセウカネ。サウデセウネ。ナカミガ無イトタイトルダツテ・・・。
エエ、半端ハナリマセヌ。
ナラヌモノハナリマセヌ。

スパイに優しい国ニッポン

  • 2010年03月05日 (金)

昨年末頃から海外メディアのニュースを読むことが多くなった。それというのも、とりわけ昨年夏の衆議院選挙の前後から、日本のメディアのデタラメさが日増しに酷くなっているように感じられてきたのが大きな理由の一つである。テレビなどは言うに及ばず新聞各紙に至るまで、論説が読むに足らないのはいまさら言うまでもなく、今では単なる事実関係ですら信頼してよいものかどうか疑問を感じる記事が増えてきている(特に政治関係のニュースがそうだ)。ごく簡単に言ってしまえば「為にする」かのような記事ばかりが目に付く、それが今の私のマスメディア観である。

もちろん中には感心する記事もないわけではないので、それらについてはその都度ここに書き留めておきたいと思わないでもない。ただ、そもそもニュースというか情報というものは、時の経過と共に「ああ、なるほどそういうことだったのか」とようやく合点のいくこともしばしばであるので、およそニュースに接したその時点では「何とも言いかねる」「あ、そ」というしかない場合がほとんどであるように感じている。そんなことから、ちょっと気になる記事があったときでも、とりあえずスクラップだけしておいて後はそのまま放置(寝かせておくとも言う)している。しかも有り体に言えばそうして溜め込まれたスクラップは結局、世事にかまけてついには記憶の彼方へと消えてゆき、ときにはなぜそれを自分がスクラップしたのか思い出すことも出来ないということさえある。しかしそれでも情報機器の発達した現代では、大量のスクラップであっても場所を取るということは無くまた検索も容易であるので、本当に便利になったものだと感じることしきりである。余談になるが、私が最も丹念に新聞を読んでいたのはティーンエイジャーの頃だった。その頃の新聞は、(「情報の媒体」としての観点から見れば)紙に・インクで書かれたものであるという点で明治時代のそれとなんら変わりがなかったわけだが、未だ丸刈りの洟垂れ小僧にすぎなかったその当時の私にとって「情報」なるものは(抽象的な意味でも具体的な意味でも)非常なる興味の対象ではあったので、毎日欠かさず隅から隅まで(今とは大違い)、それこそ新聞社の電話番号リストまで読まずにはいられなかった。

閑話休題
つい先日、BBCのニュースサイトを見ていたら、イギリスの諜報担当官庁であるMI6の元職員が職務上知り得た情報を外部に漏洩したかどで逮捕・起訴された、という記事が目に留った。ちょうど昨年の年末にサマセット・モームを何冊か再読して、そのなかにはスパイを主人公とした『アシェンデン』もあったので、へぇと思いながらこのニュースも興味深く読んだ次第である(ちなみに文豪モーム自身、作家と”スパイ”の二足草鞋を履いていたことで知られていて、この作品は彼の経験に題材をとったフィクションとされる)。
BBCの記事は下記リンク。

2007年からMI6に勤務していたH氏は2009年5月に退職したのち、2010年3月1日の午後、ロンドン市内のホテルにて不法に機密を開示して(ある新聞によれば金銭目当てであったとのこと)即日逮捕された。起訴状の要点は次の二点である。

  • 2007年9月1日から2009年5月31日(在職期間)の間に為した窃盗(職務に関連のある電子ファイルを窃取した)罪
  • 2010年3月1日に、正当な権限無く機密情報を開示した(職員であった当時より占有していた電子ファイルを開示した)罪

犯行に着手したその日に逮捕、二日後には窃盗の事実も併せて起訴ということであるから、イギリス当局の対応はきわめて迅速である。その手際の鮮やかさからすると、おそらく当局はH氏の退職後(あるいは既に在職中から)彼をマークしていたのであろう。あるいは彼がホテルで接触した人物は当局がアレンジした、いわゆる駄目押しの”囮”であったのかもしれない(そう、『アシェンデン』読者の想像はどんどん膨らむんだよ)。もしそうであったなら、イギリス当局は機密漏洩を水際で防ぐことに成功したということになる。

(補記)この件に関するその他の参照記事

もし、同様の機密漏洩(あるいはその試み)というケースが日本で生じた場合、このイギリスのケースのように迅速且つ合理的な対応は期待できないのではないかという気がする。私は日本にMI6のような諜報機関があるのかどうか寡聞にして知らないのだが、たとえば自衞隊や警察の関係者が機密情報を漏洩せんとした際にかくも迅速かつ適切に摘発されたことがあるのだろうか。なおここで私の言う「適切」とは、機密の漏洩を「未然に防ぐ」という意味である。

たしかに日本でも公務員にはそれなりの守秘義務が課されていることは承知しているが、それはどちらかといえば公務員たるものの一般的義務としての守秘義務であって、事実上の「努力目標」にすぎないと言うべきなのではないかという気がする。そうした「一般的義務としての守秘義務」を課されている万を超える公務員のうち、ごく少数にせよ明確な犯意をもって機密(職務上知り得た秘密)を不法に開示しようとした場合にそれを阻止する手立てはあるのだろうか。私が過去に見聞した新聞その他の記事に徴する限り、日本では既遂の機密漏洩を事後に摘発することはあり得ても、上のイギリスでの事例のように未然に機密漏洩を防止しなおかつ公然とそれを訴追するということは、ひょっとすると行われていないのではないかという疑いを拭い去ることができない。

とはいえ仮にそうであるからといって私自身の日常生活には何の支障もないわけで、余計なお世話だよなという気もするのであるが、それこそ十代の頃からたとえそれが知らなくても良いことだろうとなかろうと、(まさしく活字中毒者として)片端から情報を摂取してきた私としては、日本の防諜体制についてもとりあえず「どうなってんの?」と聞いてみたいわけだ。それというのもしばしば新聞などでそれらしき記事を読みながら疑問を感じることがしばしばあって、それらのスクラップも当然私の手許にある。どうやらようやく私の「死蔵スクラップ」の出番が到来したようなのでそのなかから二つほど見てみたい。

福島県警は18日、同県郡山市の暴力団員から現金200万円を借りるなどしたとして、組織犯罪対策課の警部補(44)を停職6カ月の懲戒処分にした。警部補は同日付で依願退職した。監督責任を問われた当時の組織犯罪対策課長の警視(57)ら7人を本部長注意などの処分にした。
 県警監察課によると、警部補は郡山署に勤務していた2008年3月、暴力団員からワイシャツの仕立券5万円分をもらい、組織犯罪対策課に異動した今年2月には同じ暴力団員から現金を借りた。便宜を図るなど見返りは行っていないという。
 監察課によると、6月に郡山署に「貸した200万円をまだ返してもらっていない」と電話があり発覚。警部補は別の借金の返済に充てていた。現金は既に返済した。

「警部補が暴力団員から借金 / 200万円、福島県警が処分」(佐賀新聞):2009年12月18日

  1. 組織犯罪対策課の警部補が、
    (→組織犯罪対策課は暴力団対策の主務課)
  2. 暴力団員から200万円を超える金品を受け取り
    (→暴力団は取締まりのターゲット)
  3. 便宜を図るなど見返りは行っていないという
    (→真偽の確認はしていませんということ)
  4. 依願退職した
    (→本人都合退職=軍隊風に言えば”名誉除隊”)

ためしにこれをイギリス情報機関になぞらえると次のようになるであろうか。

  • 国内治安を担当するMI5の班長が
  • テロリスト予備軍から金品を受け取り
  • 情報漏洩を察知されることもなく
  • 依願退職した
  • (めでたしめでたし)

もし仮に当人の言うとおり便宜供与がなかったのだとしても彼に同情する人は皆無ではなかろうか。

(補記)
なお、福島県警の事例であるのに佐賀新聞からの引用となっているのは、たまたま数日遅れてウェブ上からスクラップした都合上、これ以上に情報量が豐富な(といっても大したことはないが)ものがなかったというだけで他意はないことをあらかじめお断りしておく。

警部補クラスで200万円ならもっと上位の階級になればすごいことになりそうであるが、実際にそれを想像させずには置かない事例が時をおかずしてひっそりと報道された。

佐賀県警で組織犯罪対策課長を務める警視(54)が、多額の借金を抱えた末に自殺未遂を起こしていたことが分かった。
県警は25日、減給1か月(10分の1)の懲戒処分にし、警視は同日付で依願退職した。
 県警監察課によると、警視は10月30日未明、佐賀市内の自宅前に止めた自家用車内で練炭自殺を図り、一酸化炭素中毒に陥った。一命を取りとめたが、今月20日に辞職願を提出した。県警は25日の処分後に辞職を承認した。
 課長は数年前から消費者金融などに数千万円の借金があり、返済に窮していたという。監察課は「多額の借金や女性との不適切な交際など、公務員としてふさわしくない行為があった」と処分理由を説明している。

「警視が借金苦で自殺未遂、減給処分受け退職」(讀賣新聞:2009年12月26日)

  1. 組織犯罪対策課のトップが
    (→ —同上— )
  2. 不適切な女性関係と
    (→詳細の言及なし)
  3. 短期間で嵩んだ数千万円の借金とで
    (→出所の詳細・使途は公表されず *1)
  4. 自殺未遂を図ったが果たせず
    (→辞表提出の2ヶ月も前のこと)
  5. 12月20日ついに辞表を出して
    (→仕事納めというキリの良いタイミングで)
  6. 依願退職した
    (→ —同上— )

*1 : 朝日新聞の記事には「(佐賀)県警は・・・借金の使途については、同課は『プライベートなことなので言えない』としている。」とある。

なおこのニュースについては(少なくともウェブ上では)朝日・読売以外の記事を見出せず、さらには朝日が読売よりも半日早く報道し且つ記事末尾に「この件について、県警は課長の辞職の事実のみを人事異動で発表していた。 」と記してあることから、朝日新聞のスクープであったのかもしれない。こちらの記事→「佐賀県警警視、借金苦で自殺未遂 減給処分受け依願退職」(2009年12月26日付)。なお読売の記事はこのエントリを書いている時点で既に閲覧できなくなっている。

以上が佐賀県警の事例である。こちらは女性関係だとか借金だとかが背景になっている(らしい)為、一見しただけでは同情の余地がありそうにも見えるが、しかし「組織犯罪対策課」という一種の対テロ部門の、しかもトップであるという事実は看過しがたいように思われる。暴力団は、組織的犯罪集団でありかつ暴力を背景として犯罪を実行するという意味ではまさしくテロ集団というべきだろう。そしてそのような組織的犯罪集団の取締まりを担当する部署では他の部署以上に厳格な情報管理体制が要求されるはずであるが、そのトップがカネとオンナという「弱み」を抱えて(あるいはそれと知らずに”持たされた”のかもしれぬが)しまえば、こういった組織(部門)としては致命的状況と言っても過言ではない。こういう組織からは情報がまさしく「ダダ漏れ」するのは火を見るより明らかであるから、まともな人はそういう組織は相手にしないかせめて(優しく)敬して遠ざける、ということになるのかもしれない。


このあともクドクドと論評を書き付けてみたが「豆腐の上にスックと立つ」ような真似はよすことに決めて削除した。せめて「歪み」だけは取り除くべきだろう、とだけは言っておく。とはいえ田舎県警には逆立ちしても無理なことなのかもしれないので、あとは矯正できる者が居るものと信じるほかはなさそうだ。

それはそれとして、公安職公務員には行政職より遙かに厳格な守秘義務を課すべきかもしれぬ。イギリスの事例と比較すると地方公務員法で定められた守秘義務なぞ無きにひとしい。それよりもなによりも情報はいったん漏れたら取り戻すことが出来ない(事後的な対策が意味をなさない場合がある)ことに鑑みれば、日本の関係機関はまず内部の防諜体制を強化再構築すべきなのかもしれないが、外に厳しく内に優しいのは(個人情報保護法などはその典型例と言える)日本古来の麗しき伝統であるので、あとは殘念ながら新たな「敗戦」に期待するしかない、ということか。

補注)
参照した記事として上に挙げた英文記事のうちデイリーメールの記事内容には注意を要すると思われる。この記事を書く為に参照したのは3月3日14時2分更新のものであったが、その翌日(3月4日10時26分)に記事がアップデートされている。このエントリを書く際に私が参照した旧版では、金銭目当ての犯行と匂わせていた点以外は(他紙はどこも動機に言及していない)ほぼ事実関係のみを報じていたが、新板の記事ではH氏やその家族の写真、近親者の談話などを追加している。そこには憶測が多分に含まれており、真偽は不明である。そのためいったんは同記事へのリンクを削除することも検討したが、次の二つの理由からリンクを殘すことにした。

  1. いわゆるタブロイド紙(大衆紙)といわれるデイリーメール紙の当該記事の構成は、日本の新聞各紙(自称:クオリティペーパーも含む)の記事のつくりと酷似しており、「情報の取り扱い方法」という観点から見て非常に貴重な(反面教師的な)サンプルであること。
  2. 日本(”Japan”)への言及があること。

試しに翻訳してみた。

Michael Jones said: ‘I have known him since he was a young man. I never knew anything about what he was doing since he went to university. I thought he was working for a bank.
(マイケル・ジョーンズ氏は次のように語った。「彼のことは若い頃から知ってます。大学に行ってから後のことは何も知りませんが、銀行ででも働いているんだろうと思っていましたよ。」)

‘I know he loves Japan and had often been there and travelled a lot in South Korea. He is exceptionally bright and considers himself one of the brightest of those his age. To be honest, he thinks a lot of himself.’
(「彼は日本のことがとても好きで何度も日本に行ったことがあって、韓国にも度々も旅行していました。とびぬけて頭が良かったから、自分では同世代の連中のなかで一番気の利いた「勝ち組」だとでも思っているようなんです。はっきり言わせてもらえば、彼は己惚れているんですよ。」)

MailOnline

「知らない(はずの)こと」をなぜかとてもよく”知って”いる人だよね、この人。しかし、もし彼が度々日本や韓国に出入りしていたというのが事実なら、もしや日本とか韓国の情報機関なんかがこんな事件の一方当事者だったりするというのも・・・アリ? まさか、ね。
このエントリのタイトルには「スパイ」よりも「内通者」の方が適切だとあとから気づいたが、そのままにしておくことにした。

(2010年3月6日)字句および体裁の一部修正
(2010年3月7日)*注を追加

対米國開戰のすゝめ

  • 2010年01月25日 (月)

國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ
只今執筆中。公開日未定。

参照すべきページ:
「名護の総意多数派が日本の総意多数派ではないのではあるが」(Comments by Dr Marks)

追記)
面白可笑しいフィクションを書くのはホネなので、代わりと言ってはなんですが・・・。どうぞ。
「星新一の対米開戦論と民主党政権」(2010年01月30日)

最近気になっていること〜googleと中国

  • 2010年01月20日 (水)

先日来報じられている中国におけるgoogleに対するハッキング事件の行方に注目している。中国政府の関与が疑われ、またgoogle中国社内の人間が事件に関与しているとの消息筋情報もある。現時点ではまだ全容が明らかではないものの、現在の中国が如何なる政治体制の国であるかということをつい考えさせずにおかない一件ではある。当地日本では政治家の不正疑惑を巡って様々な情報と奇々怪々な思惑が交錯している状況であるだけになお一層印象深いニュースだ。

ところで今年は「ブログにもっとユーモアを」と目標を立てておきながら正反対のことばかり書いてしまっているなぁ。何本か堅いのが続くと柔らかいのを書くのが心理的にどうも難しくなる(まるで便祕のよう)。したがってたぶん目標の立て方そのものが間違っていたのだろう。よって新しい目標は「ホワイトUBSGWとブラックUBSGWとの切り替えを瞬時に行う」「ジキルとハイドを使い分ける」ということにしようかな。

過去のエントリから:スパム好みのエントリ

  • 2010年01月12日 (火)

昨年一年間の間にこのブログに置いて行かれたスパムの総計はAkismetの統計結果によると347件(ええ、その程度のアクセス数なのですよ)。で、その内訳に関する詳細な記録は持ち合わせないが、感覚的には347件のスパムコメントのうちの少なくとも八割方はどういうわけかたった一つのエントリに集中しているのでここにご紹介してみましょう。

関連記事~職質追跡でPTSDと国賠請求」(2006年10月19日)

このエントリは、警察官が非番の日に自転車窃盗の疑いで女子中学生に職務質問しようとしたところ恐怖を感じたその女子中学生が逃げ出してなおも警察官に追跡された挙げ句PTSDに罹患したとして女子中学生の両親が民事提訴したという事件に関するエントリです。

大した内容のないメモ程度のエントリではありますが、どこがどうしたわけなのかこのエントリがスパムの好物らしく、昨年後半から活発化し、さらに今年に入ってからもまだまだスパムが日參してきております。どうやら匿名プロキシを使っているらしく色んな国を経由してアクセスしてきているようですが、そのなかにはアフガニスタンのプロバイダーを利用したドイツ(とかオランダとか)のホストドイツとかオランダのプロバイダを利用したアフガニスタンのホストがロシアのメールアドレスでスパム投稿を殘していくとかいうような、なんとも国際色豐かなものもあったりします。「ほー、アフガンにもインターネットはあるのだね」と感心半分呆れ半分で毎日楽しみにスパムを待っています。上のエントリのいったいどういうところが”国際的”スパマーの好むところであるのかいささか興味のあるところです。

なお、そういう地雷らしきエントリをクリックしたくはないという方向けにそのエントリを転載しておきましょう。もし今回のエントリにもスパマーが食いついてくるようならばこの内容のどこかに何がしかスパマー好みの要素が含まれているということなのでしょうかね・・・(つまりこのエントリは「実験」です)。
なお当のスパムコメントはすべて検閲して排除済みですので実際には表示されません。

関連記事の紹介です。

落合先生のブログと同様、こちらも私がよく読ませてもらっている「元検弁護士のつぶやき」からです。
「ほんまに職質かいな?」

 私が地元住民なら徹底した調査の上、納得できる説明をしてもらわないと安心できません。

同感です。
結構たくさんのコメントがついていて(なかには現職警察官らしき方もあり)、これがまた参考になります。
一部引用させてもらいますと、

自転車盗でも刑法犯には違いないですから、特に事件の少ない駐在所では検挙のために躍起になってしまうのかもしれません。
当然検挙件数が少なければ、叱責を受けますし、下手をすれば実績低調で分限処分の対象となってしまいますから、必死にもなります。

どこの世界も”数値目標”達成に追われているのですね。

虚偽の自白を強要したくなるのも納得・・・です。

維新は遠くなりにけり

  • 2010年01月07日 (木)

杉山茂丸の著した『百魔』をようやく読み終えた。800ページを軽く超える人物誌はまるでスルメのように味わい深く、晩酌片手に読むには好適な一冊であった。1864年生まれの杉山が、彼の破天荒な生涯において関わりを持った有名無名の人物について手当たり次第に書き附けている。頭山満から始って、平岡浩太郎、品川弥二郎、星一、後藤猛太郎(象二郎の息子)・・・・・・と延々講談調で続いてゆく(なんでも留置場で同房者から講談を学んだ由)。ざっと勘定してみるとこの本の八割方はほぼ無名の人物について書かれている。無位無冠無職を誇った杉山の書いたものであることを考えれば当然なれど、日経新聞の「私の履歴書」とは全く趣きを異にする(当然です)。

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ところで最近大河ドラマ(幕末もの)が人気だとか耳にした(正確には、目にした)。総理大臣が国会冒頭「維新」を口にする時勢であることを考えれば、まぁそういうこともあるかもね、と思わぬでもない。私自身はNHKの大河ドラマを最後に見たのが何時なのか記憶にない。いまちょっとだけ思案してみれば、どうやら最後に(まともに)見た大河ドラマは太平洋戦争当時の日系アメリカ人を主人公とした「山河燃ゆ」(山崎豐子原作)だったような気がする。このドラマは1984年放送(Wikipediaで調べた)ということなので四半世紀前になる(まともな調べ物には頼りに出来ないWikipediaもことテレビや映画の記録としては大変便利で有り難い)。では何故に幕末・維新・時代劇を面白いと思えない私が昭和前半の歴史ドラマに多大の興味を覚えるのかをつらつら考えてみた。そしてひとまず達した結論はというと、時代劇(含む幕末もの)にはいわゆる「市民」が登場しないからつまらない、ということだ。

時代劇と云えばまあ御武家様が主役である。悪代官(これも御武家サマ)と結託する商人やら虐げられる百姓がほんの取るに足らない「その他大勢」として登場することはあっても端役はどこまでいっても端役でしかない。維新の元勲のように「御一新」以前は郷士だとか何だとかとして抑圧された人たちが主役であった場合も、その彼等の眼中には国家や天皇の行く末はあれど下々の名も無き百姓(ひゃくせい)は無いかの如きにしか描かれない(実際の所どうだったのかは知らない、もちろん)。一方で昭和前半の「軍国主義」の時代にあっては士農工商関係なく(まさしく十把一絡げに)国家というか社会というか集団化圧力というかそいういうものに大なり小なり抑圧される、と。つまりもし私がその当時に生きていたならば、(ただの土百姓である)私自身もまた無関係ではいられなかったわけだ。その相違点にこそ、私が明治以前の時代劇と昭和前半を扱うドラマとにそれぞれ共感を持ってみることの出来ない理由・出来る理由があるような気がするのであった。そんなわけで、維新がどうとか革命がどうとか戲れごとを言っている足下で「誰と言うことの出来ない”力”」が着実にそしてますます力を増していることを自分以外の人たちが今どのように考えているのかを私は是非知りたい、というか興味津々な今日この頃であります。つい最近のNHKドラマ「気骨の判決」を見逃したのが悔まれる。

以下ついでに。
開府以来300年もとい60余年の長きにわたり国政を預かってきた徳川幕府もとい自民党の支配の下、武士であって武士でない郷士もとい国会議員であって国会議員でなかった非自民諸政党が、経済発展の頭打ち人口構成の大変化という未曾有の国難に加うるに黒船もといグローバル経済の衝撃を奇貨として新たな政権を打ち立てることに成功した、と(あぁ息が切れた・・・)。で、ついつい維新の志士のイメージに自らの姿を重ねてしまうのであろうか、ね。
で、どうすんだ?

コメント代わりのつぶやき

  • 2009年12月08日 (火)

コメントであがった、検索サイトに関する記事を探している途中で寄り道して見つけた「長尾館長が語る、Google検索の限界とその先」の中で日本の国会図書館館長が大層なことを言ってますが、そのアーカイブを見てみたらほとんどが役所とその取り巻き団体のHP。一向冴えない当ブログ(の一部)までもが収蔵(?)されている”Internet Archive”とは比較にならず。誰かが文化とはシェイプされていない堆積物そのもののことだ云々と書いているのを見た記憶がありますが、日本の場合は文化を”お役所文化”の意味で用いている(こともある)らしい。片や”貴重な”公文書に限って捨て・隠し・改竄し、片やどうでもいいような広報文だけを大事にアーカイブする(せざるを得ない?)人たちをみていると、もはや彼我の差は技術発展の遅速の次元にとどまらないのではないかと。

書き始めたら収拾がつかなくなったのでばっさりカット。いずれ。

(つぶやき)死中に活有り、か?

  • 2009年11月26日 (木)

何が問題なのか、分からないようで、分かるようで、分からない。税金や企業にたかって鞄をふくらませる政治家よりも自分(の家)の財産を政治につぎ込む政治家の方が遙かにまともだよ。法令違反? もしそれが事実なら、まあそれは問題といえば問題だろうさ。理屈は分かる。しかしね、法令に則って悪事を働く悪党だって(公共団体の中にさえ)ぎょうさんいるご時世、「それはそれこれはこれ」だよ。
鳩山さんには、せめて(政治的な)討ち死に覚悟で斬り込んで欲しい。八方美人は”無駄に”身を滅ぼす。今のままではいつか「なんであんなつまらんことにこだわっちゃったのかね」と思うときがくるのではなからうか。誰一人として傷つくことのない「維新」なんてのはあり得ない(ような気がする)。
ただ、自分が重荷を背負っているわけでもないただのショーシミンの自分が言うのは口幅ったいというか申し訳ないと思わぬでなし。ま、ただの独り言だから。

(つぶやき+α)もう寝る・・・

  • 2009年10月25日 (日)

今日のエントリのタイトルは文字通りの意味です・・。眠い。書こうと思うことがいくつかあったのでこの週末にこのブログにアップしようと思っていましたがどういうわけか昨日今日とむちゃくちゃ眠いのでとりやめ。2009年報道の自由ランキングの結果や日本郵政西川社長の辞任(解任)劇等々、過去の行きがかり上たいして面白いわけでもないけど書いておいた方が良かろうと思えることとちょっと気になっていた話について書くつもりでしたが、日本郵政社長の件はほうぼうで「同感同感」と思える記事を散見し(で、いまさら書くまでもないかと)、報道の自由ランキングについても大して興味深い結果でもなし(むしろあのランキングの底の浅さが見えた気がした)、というわけで今日は之にて御免。グースカ。

(つぶやき)Windows7か

  • 2009年10月18日 (日)

Windows Vista がついこないだ出たような気がするけどもうあたらしいバージョンが出るのか・・・。買うか?

一ヶ月ぶりのブログ更新

  • 2009年10月17日 (土)

「ごめんください〜・・・・」。とと、一ヶ月も放置してたせいか、我が城のはずなのに何となくよそ行きの気分になるなぁ。
季節が変わろうと政権が替わろうと、こちとら何にも替わらず日々細々と生きております、はい。金にもならないことにかまけてブログの方もご無沙汰しておりました。「あ?地方分権??寝言言うなぃ」などと言ったばかりに土人の闇討ちにあったわけではありませんのでご心配なく。と、またなんだか憎まれモードになりそうなので気をつけとこう。
実際、しばらくブログを更新していなかった理由はそこらへんにあるのでした。つまりこのところなんとなく生来の毒舌に歯止めがきかないような「勢い」があったため、敢えて衆人環視のブログに書くことを避けていたのであります。どうやらまだその気配があるようなので今日は安全運転に徹することにする。毎回毎回うるさく書いてオオカミ少年見たくなりたかないので、何事も潮時を見極めながらやってゆくつもりであります。

さて、ここ一月の間の大きな出来事といえば民主党政権の誕生(遅れちゃってる?)ということになろうけれど気になるのはやはりその行く末(政権の行く末ではなくそれによって生じる変化の行く末)であって、ぼちぼちその方向性が見えてきたように思われる。そして新政権誕生という出来事自体はもう風化しつつあるということ(当然か)。したがって政治云々について書くことはしない。ではこの一ヶ月の間に何を考えていたのであるか・・・と自問してみるが、やはり大したことは考えもせず行いもせずという結論に達する。書も読まず映画も見ずウェブ上のやりとりにもいささか食傷気味で、唯一テレビで水谷豊の単発ドラマ「誰かが嘘をついている」を見ただけの一月であった。よってそれについてひとこと。

作り話を大まかに二分して、一つは実際よりも大げさに描くものと実際の話を(なんらかの都合に合わせて)一部だけ作り出してみせるものとに分けてみた場合、このドラマは明らかに後者であった。唯一、ドラマのクライマックスで偶然に「無罪の証拠」が発見された事なきを得る、という箇所のみは前者(ま、ふつうそんなことは有りえんだろという部分)であった。ただ、「無罪の証拠」がなければほぼ確実に有罪になってしまう、というドラマの台詞はまさしく現状を端的に表現していたと思う。同じくドラマの台詞にあったように、やっていないという証拠がなければ有罪とされるのは作り話でも何でもない事実であることは疑いを入れない。その点、先日出た福島県知事の「汚職事件」の高裁判決もまた興味深いものであった。一部で国策捜査と非難されているらしい福島の事件では東京地検特捜部が非難の矢面に立っているが、ことは既に東京(中央)だけにとどまらず地方に於いても同様である。それはかならずしも国策捜査ということではなくて、あらかじめ作成されたストーリーに物事を強引に押し込めるあれこれという意味である。

以前このブログで対話とディベートについて書いたことがあった(*1)が、まさしく相手をたたきつぶすためだけのディベート、それも相手方の手足を縛り上げ口をふさいだ挙げ句に為されるディベート(それをディベートと言えるかどうかはともあれ)が今の日本社会におけるデファクトスタンダードとなっている。(はなしはさらに広がるが)そうした状況下に取り調べ可視化への反対者から為される「信頼関係構築論」(*2)はもうブラックジョークでしかない。

国家にしろ組織にしろ個人にしろ、過去の失敗から学ばず、体面も権威も世論の支持をも失わずにどうにか切り抜けようとする行き方は、早晩行き詰まることになるだろう。実際のところそうした行き詰まりを薄々感じている者はその失地を何とか回復しようともがけばもがくほど窮地に陥るであろうことに一日も早く気づいた方がよいと思うが、金銭に対する欲望に見られるが如く、およそ欲望といったものはそれが何に対するものであれ限度というのを知らないことも多分事実に相違ない。私だって脛はそれほど綺麗じゃないからね、それくらいのこたあ分かりまさぁね。
こういう物言いを見つけるや否やまるで鬼の首でも取ったみたいに訳知り顔で語る奴は逝ってよし、だぜ、佐藤さん。

(追記)
フィードを一部配信から全文配信に戻しました。

痴呆地方の大合唱

  • 2009年09月17日 (木)

今日9月16日、鳩山新政権の発足した。新閣僚のメンツを見る限りとても清新な印象だとは思えないが、あの安倍内閣ですら「清新」イメージで売っていたのを考えてみれば、強いてそう言って言えなくもないのか。8月末の総選挙以降今日まで、ときどき新政権移行についてのニュースを見聞してきた。それらについての感想らしきものをここにメモしておく。

ほんの2.3年前まで、日本列島では構造改革の大合唱が聞こえ、誰も彼もがそれを「良きこと」のように言い習わしていた。むろんそうでないものもありはした、いはしたけれどそうした声はたいてい多勢の声にかき消されがちであったと私は記憶している。構造改革を念仏のように唱えて前々回の総選挙に大勝した小泉首相の時代には構造改革が主旋律を奏でて、安倍時代には国家主義がそれに取って代わり、参議院選挙での自民党大敗をしおに政府与野党地方自治体上から下までセーカツシャ・チホーの大合唱、リーマンショックその後の景気後退も相まって「地方の・・・ために」「庶民の・・・・のために」という言い分に異論をぶつけることがはばかられるような空気が、そこはかとなくただよっている。いつものことながら、「あれかこれか」「右か左か」「猿かチンパンジーか」をヒステリックに騒ぎ立てて、我が田に水を引こうとする理屈ばかりが耳に入ってくる。「地方の疲弊は深刻なんじゃ!」「そうしないと生活できんのじゃ!」と言われたら「はぁ、そうですか」と答えるしかないわけだが、それならばその「地方」「生活」とはいったい何なのだ?ということをもう一度考えてみたいと思う。

民主党が政府の無駄遣い撲滅を旗印として本年度の予算執行の一部停止を持ち出したことに対して地方は予定通り執行する、いまさら(金は)返さない等々愚図愚図とした文句を言っている。返さない・返せない理屈はいくらでもつけることができるわけなので、それについてあれこれ言うことはしない。ただ、地方の首長にせよ議会にせよ、子供じみた物言い・振る舞いはいいかげん目に余る。

定期便ゼロの危機 日航が松本空港撤退検討
経営再建中の日本航空が、12年3月末までに県営信州まつもと空港(松本空港)の路線運営からの撤退を検討していることが明らかになった16日、関係者に衝撃が走った。同空港で定期路線便を就航させているのは日航だけで、撤退となれば、300億円以上をかけて造った県民の空港から、定期便が姿を消す事態になる。
 松本空港の定期便は、大阪(伊丹)便が毎日、札幌便が週4日、福岡便が週3日あり、いずれも日航グループの日本エアコミューターが運航している。だが、今年7月の利用率は伊丹便で39・5%(前年同月51・6%)、福岡便で45・3%(同46・2%)と低迷。札幌便も76・0%(同84・7%)にとどまる。
(中略)
 県内の関係者は戸惑いを隠せない。村井仁知事は16日、「まったく聞いていないのでコメントしようもない。松本空港と日本航空は、これまで運命共同体的にやってきた。不採算の便が議論になるのは当然だが、縮小すればいいというものではない」と話した。
 県交通政策課の小林利弘課長は「日航が持っていた国内の航空ネットワークが地方に果たした役割は大きい。国、地方も含めて、これをどう維持するのかという議論も進めて欲しい」と訴える。雇用への影響についても「松本空港には地元の従業員も多い。影響は大きい」と心配する。
(以下略)

asahi.com

談合が発覚して指名停止になった土建業者が「現下の経済情勢下、従業員への影響が大きいので指名停止を解除してもらいたい」などと居直るいま、この松本空港の記事の中にも雇用・従業員への影響甚大をあげて難色を示している。ご承知の通り、似たようなことはこの件に限らずともいま日本全国津々浦々首長議会住民が口にする(と報道されている)。理屈はどこにでもつく・つけれられる。需要が少なく経営が成り立たないと分かっていながら無理矢理公金を投入して建設した空港が日本にはいったいいくつあるのだろうか。また空港以外に同じように甘い需要予測・過大な経済効果予測・公共投資という名目の土建業者経由政治資金調達がらみの案件はどれほどあったのだろうか。おそらく数え切れないほどある。そして経営余力の乏しくなった民間企業が撤退を口にしたとたんに「不採算の便が議論になるのは当然(経営の効率化はそりゃ大切)だが、縮小すればいいというものではない(俺らんとこでやられちゃ困るぜ)」とくる。いささか意地悪な書き方をしてしまったが、この知事さんの正直な気持ちであろうと思う。そしてこれは何も長野県だけの話でないのはおよそ想像がつく。放漫財政・国や官僚のやっていることと寸分違わぬ天下り、地方でもやっていることは当然のことながら「ミニ日本」であって、とてもではないが国ばかりを批判できそうもない。しかしなぜか今、「地方」を語れば桶屋が儲かる。

まとまりがなくなってきたので切り上げるとする。
金がないから財源をよこせ、という前にリストラ・緊縮財政・天下り廃止など地方自治体・議会がやるべきことは山ほどある。
「分権なんざ百年早い。顔あらって出直せしてこい

すると自治体は恐らくこう言うだろう。「じゃ、財源が無いから行政サービス切り下げます」と。
そして住民はといえば、「財源のない自治体の行政サービスが低下するのは当然だが、切り下げればいいというものではない」と乾いた声でぼやくも、その言葉を聞いてくれる者はもはやどこにもいない、ということになるのだろう。

おぉ、またこれで見やすくなりました。

  • 2009年09月13日 (日)

インターネットでうろうろしていると、時々文字が小さすぎて難儀することがある。たいていはブラウザの設定を調整することで文字を拡大してやればすむのではありますが、これがときどき面倒でたまらない。
文字サイズをワンタッチで拡大・縮小してくれる(Firefoxブラウザ用の)アドオンソフト「text size toorbar」が至極便利で気に入っていたところが、もうだいぶん前(1年くらい?)にFirefoxのメジャーバージョンアップに伴ってこれが使えなくなってしまっていた。その後は代わりになるものも見つけきれないまま不便に耐えていたところ、じつは一年以上も前にこのアドオンを作った当人が別の名前のアドオン「Zoom toolbar」を作って公開していたことに今日になって気づいた、トホ。でもようやく快適になった。有り難し。
Zoom toolbar 0.8

気がついたら英国病

  • 2009年08月26日 (水)

英国病と言ってもマーガレット・サッチャーが克服したと言われるアレのことではありません。選挙を目前に控えた今の日本でなら、そっちの英国病のほうが面白い話題ではありましょうが、政治にも経済にも疎い私がそのようなことを書かずとも興味深い読み物はたくさんあるでせうから。今から書くことは私の個人的一時的英国病にすぎません。あしからず。
というような導入にするとなんだかちょっと気合いを入れて書かなければならないような気がしてきた。
ナムナム・・・・
・・・・「ハイッ!」。
えぇ、肩の力が抜けました。だいじょうぶです。

えー、数週間前にハックスリーの『すばらしき新世界』を手に取ってからというものふと気がつくとなぜか英国人の書いた本や英国に縁のあるページばかり読んでいる自分がいる。特にジョージ・オーウェルとハイエク。オーウェルの代表作『1984』はもちろん読んだし、ネット上には彼の書いた評論その他が結構見つかるのでそれも読みつつある。ハイエクも同様。オーウェルを読むにしろハイエクを読むにしろ、いずれにしても私自身の興味の的は”個人と社会との関わり方”の部分にある。というよりもむしろ「あ、面白そうだ」と思うものはたいていそのあたりのことをテーマにしたものが多いと言った方がよさそうだ。ここ数日読んだもののなかでは、オーウェルが書評としてジャック・ロンドンやアーネスト・ブラーマ(ブラマー)と絡めて資本主義と社会主義との共通項(共通する危険性)について語った「ファシズムに関する予言」(注:我訳です)は、彼がそれを公表したのが1940年という事実を考え合わせるとまさに予言だなと思わせれ、また、ハイエクが「法の支配の衰退」(注:これも我訳です)のなかで引用したアリストテレス『政治学』の一節、「全勢力を選挙での得票に注ぎ込むようなあらゆる権力体制は(中略)厳密に言えば民主制とは言い難い」という一節には「だよね」とうなずく。
ああ、頭がかしこまってきたなぁと思って、さて布団に入って「さぁて」と手に取った本はこれまたシェイクスピアの「夏の夜の夢」だったりする今日この頃でありました。
わるくない。

1Q84じゃなくて1984

  • 2009年08月19日 (水)

ここしばらく毎回面白く読んでいるあるブログで「民主党が農産物自給率食料自給率100%!」的な小咄を書いておられて、「!?」と思った。ほんとうにそんな政策目標があるのかと気になって調べてみたら、確かにそんな話が(2006〜2007年頃に)あったことを知ってちょっとびっくりした。で、実際のところ現在の民主党の政策目標はどうなっているのかと思ってこれも調べてところ、今後20年のうちで60%を目標とすることになっていた(民主党政策INDEX2009より)。
あやうく鵜呑みにするところだった。自称「混乱lover」とのことなので、うっかり気を許すとやられるようだ。小咄そのものはとっても笑えた。

笑えたと言えば、オーウェル『1984年』のなかの一文にも大笑いした。

三十九歳になる。離婚できない妻がいる。静脈瘤を抱えている。入れ歯が五本(P185)」

翻訳されたものであるにも関わらず”笑気”が絶妙の間合いのうちに封じ込められている。気になって原文を確かめてみたところ、”‘I’m thirty-nine years old. I’ve got a wife that I can’t get rid of. I’ve got varicose veins. I’ve got five false teeth.’”となっていた。翻訳者は高橋和久氏。『一九八四年』(新訳版)ハヤカワepi文庫2009年。

以下、同じ本からのメモ。

鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の体内を素通りするのと同じなのだ。(P241)

 ↑ 害もなければ益もなし。そして「彼ら」自身には害も益も無いとしても・・・。

スパイの真似事をする素人こそまさしく何よりも危険な存在なのだ。(P96)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫) 一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
価格:903円

お盆明けのつぶやき

  • 2009年08月16日 (日)

最近のこのブログは独り言というかつぶやきめいたことばかり書いていて、読み手のことがまるで眼中にないのではないかと思われている方もおられるかと思います。恥ずかしながら、仰るとおり、その通り、と今は言うしかありません。そして今日もつぶやきです。

昨日テレビでやっていたクリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」を見てみた。どう過大にみつもってもせいぜい小隊長か中隊長にしか見えない尻軽な(フットワークの軽い)栗林「中将」ではあったけれど、師団長(正確には兵団長か)を師団長らしく見せることの出来る映画を作るのはきっと困難なのだろうなと思いながら最後まで見たことだった。

先日『田中清玄自伝』を読んでいて、そのなかにあったフリードリヒ・ハイエクとの親交に関するエピソードがとても興味深かったので一冊手に取ってみた。池田信夫『ハイエク〜知識社会の自由主義』(PHP新書)。ハイエクについて調べるにはちょうどよい手がかりとなりそうだ。
それにしても田中清玄に関する日本語版wikipediaの記述には、やれ「右翼」、これ「黒幕」、あれ「フィクサー」、といったおどろおどろしい文句が並んでいて、そのような人物とノーベル賞を受賞した高名な経済学者との結びつきは不思議といえば不思議だが、wikipedia(日本語版)の田中に関する記述自体がきわめて偏頗なものだと考えればべつだん不思議なことではない(でしょ?)。
田中清玄とハイエク、また調べることが増えた。
宿題が増えるばかりでほんと日暮れて道遠し、そればかり。

ながいつぶやき

  • 2009年08月09日 (日)

なけなしの財源を旧態依然のばらまき政策で費消した政党の党首が”責任能力のある政党”だかを主張する説教強盗的滑稽さ、とうに旬を過ぎたゲーノージンの薬物使用疑惑で特番まで組んで大騒ぎする白痴的滑稽さ、昨日自分が言ったことも記憶してないかのような刹那的な生き様こそがまっとうな生き方でもあると言わんばかりのあれこれに、べつだん文句は言わない。やはりもう既に後戻りの出来る地点ははるか彼方に過ぎ去ったのだろうと思うだけで、それ以上何も言うことはないね。

次期政権党の呼び声高い野党もまた、ドブ板選挙などと称して既成の利権団体にすり寄ることで、”責任能力のある政党”との差異を希薄化させて、結局、総選挙の結果は人が言うほどの新しさは無いのではないかという思いが日々募る。もし驚くべき事態が生じるとするならば、むしろ選挙の後だという気もする。民主党分裂!とか。所詮は烏合の衆・・・かもしれない。
「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫」だ。

いっぽう、地方の首長たちがブンケン分権と寝言のように繰り返しているのもどこかに滑稽さがつきまとう。財源をよこせ、でないとうちの自治体破綻しちゃう、とさ。「地方自治」という化けの皮を被った半端な地縁血縁共同体なぞさっさと潰してよし。首長・議員・公共工事にすがる利権企業団体、その整理はいったいいつやるのか、それともやらないのか。これまた説教強盗の臭いが強い。国がやろうと地方がやろうと、利権あさりの挙げ句は財政破綻に決まっている点で違いはほとんど無い(但し、収入が増えないとすればのハナシ)。この点。課税はたまた苛税でその破綻が先送りされるであろうこともまた疑いが無い。
まあ、そんなことはどうでもいいがメモついてに書いておくとする。
結論としてはやはり「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫」だ。

で、最近読んだ本。

  • オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)
  • ハックスリー『すばらしい新世界』(講談社文庫)
  • 田中清玄ほか『田中清玄自伝』(ちくま文庫)
  • 木村達雄『透明な力〜不世出の武術家佐川幸義』(文春文庫)

りきんだ力なんて自分が感じるだけで相手になんら影響を与えない。単なる自己満足だ

木村達雄『透明な力〜不世出の武術家佐川幸義』
ああ、スッキリした。

(つぶやき)芸人知事と無名大使

  • 2009年07月24日 (金)

お笑い芸人がリッパに県知事を務めて「実績」をあげているらしい現代日本であるならば、51番目の州的な対アメリカ関係では、ドコの誰かよく分からない人にだってリッパに駐日大使は務まるはずですよ・・・。心配ご無用。
人気のある(らしい)自国の知事はさんざん持ち上げておいて、他国からの大使が大物でないことを疑問視するとは不届き千万、と思う(←皮肉込み)。大使が元コメディアンなら良かったとでも?
集金能力の高い人物と言うことだから、ある意味で適材適所と言えなくもない、だろ。

本は欲しいときに買え

  • 2009年07月19日 (日)

欲しい本は山ほど有るが財布の都合もあるのでそうそう買えるものでもなく、ときには買い時を逃して絶版となってしまって涙を飲むこともしばしばある。その中の一冊が宋代の文人米芾を主人公とした佐々木泉作のマンガ『墨戯王べいふつ(米芾)』。数年前にビッグコミックオリジナルに連載されていたのを時々読んでいて、どうやら実在の人物に基づいた作品であるらしいことは感じつつ、丁寧な絵柄・時代考証と読み応えのあるストーリーが私好みだなぁと気に入っていたものの、コミック化されたことに気づかないまま日が過ぎ、先日ふと思い立って調べてみたら既に絶版となってしまっていた。スカスカの絵・ストーリーのマンガでも売れている物は売れているのに、大人が真剣に読める漫画はなかなか店頭にも並ばず、ネット販売でもあっという間に絶版になってしまう。今回は仕方がないので同じ著者の数少ない別の作品をネットで注文した(これがまた取り寄せ扱いでばかに日数がかかる)。べいふつ、復刊してくれねえかな〜。ワイド版米芾若しくは佐々木泉作品集が出るなら1冊につき上限3000円まで出します(但し『米芾』は全話収録のこと)。>小学館
漫画に限らず、欲しい本・ピンときた本はそのときその場で買い込んでおくことが肝要なり。などと今更私が言うほどのことでもないが、改めてそう思ったのでここに書いておく。なお、売れ行きが良くて当分入手困難になりそうもない本はのんびり構え、あわよくば文庫化された後に買えば場所もお金も浮くので言うことなし。

墨戯王べいふつ
佐々木 泉
入手不可

オーウェル・ムラカミ・アマゾン=トライアングル?

  • 2009年07月18日 (土)

つい先日「オンラインブック便利便利!」と書いた舌の根も乾かぬうちに、奇妙な出来事を目にした。なんでもアマゾンドットコムが、客に販売したオンラインブックをとある事情から客の承諾なしにある日突然”顧客の端末(例の”キンドル”)から”抹消した(むろん代金は返還するらしいが)、しかも消されたのがジョージ・オーウェルの『動物農場』と『1984』というので、笑い半分戦慄半分の思いがしたのでありました。
Amazon Erases Orwell Books From Kindle (NYT)
斜め読みしただけなので、よくよく読んだら「はっはっは、じょうだんじょうだん〜!」なんて書かれているかも知れない・・・。あぁ、これを潮に村上春樹の『1Q84』の売れ行きが更によくなったりするのであらうか(文庫化待望中)。てか、アマゾンのマーケティング戦略の一環?
えーぷりるふーるに読みたかった、この記事。

iPhoneは世界を変えるか?

  • 2009年07月17日 (金)

変わりましたよ、iPhoneで。私の世界が。最近出た新型iPhoneを入手してしばらくつかってみて、その予想以上の便利さから片時も手放せなくなりました。ニュースを眺めオンラインブックを読みメールを読みメモを取り地図で現在地を把握し音楽を聴きながら目的地に向かう、という感じで使っております。

”アメ車でコンビニ”からの脱却

そもそもiPhone3Gが日本で発売されたとき既に買おうか買うまいかとだいぶん考えていたんですが、その時はなんとなく時期尚早のような気がしたので模様眺めを続けておりました。しかし今回3GSの発売に際して処理速度の向上やらコピーアンドペーストOKやらなにやらと聞こえてきて、「こりやもう買い時っ!」と即断即決しました。
それまで、メールを読むにも地図を見るにもオンラインブックを読むにもいちいちPCを起動させなければならず、(PC起動にかかる)無駄な時間と必要以上の電力を消費していたわけですが、iPhoneを使い始めてからはPCは本当にPCでなければ出来ないことにだけ使うようになりました。夏場は特にPCのファンがびゅーびゅー回るので、いかにも無駄な電力を使っているなぁと思いながら仕方なく使っていましたが、ほんとiPhoneは静か(というより完全無音)だし起動に要する時間が無いし、ついでに「なんかエコ!(笑)」という気分にもなる。

いつでもどこでも読む

私の場合、紙の本もけっこう読みますが買う本は厳選するクチです。なにせ片っ端から買い込んだ日には置き場所にも費用にも困ることになるのは必定。幸か不幸か新刊本を読むことは少く、まだ読んでいない古典的作品を優先的に読むこともあって、日本語なら「青空文庫」、外国語なら「Gutenberg」や「Feedbooks」で目当ての作品を見つけてはちょぼちょぼと読みますが、常々それを読むにも都度PCを起動させるのがやはり億劫でもあり勿体ない気がしておりました。しかしこれもiPhoneにより解決と相成りました(読書に関していえばiPhoneのディスプレイがもう少し大きければ有り難いですが、そうなると今度は他の用途で持ち歩くときに大きすぎるか・・・)。他の点でも、PCでそれらを読むよりiPhoneで読む便利さがあって、オンラインブック用のリーダーアプリたとえば目的の本を検索したりしおりを付けたりという機能がなんともかゆいところに手が届く感じなので、PCで読むよりはるかに良いです(使ってみたiPhone用アプリは「i文庫」(日本語・縦書き用)と「stanza」(外国語用)の二つ。他にもいろいろあるらしい)。

いつでもどこでも聴く

ラジオ視聴用のアプリを追加することで、移動中の車内で海外発のネットラジオでオーケストラも聴ければBBCもCNNも聞くことができるというのがまた便利至極。もちろん標準搭載のiPod機能で自分のライブラリも聴けるので、退屈すると言うことがないです、はい。携帯の電波が届かない所では当然(ネットラジオ=ストリーミング放送)聴くことができないわけですが(そのときはiPod聴けばよいし)、まあFM放送であっても電波状況が悪くて聞こえないことはままあるので普通のラジオと遜色はないといえます。むしろインターネットラジオであればチャンネルの選択肢が遙かに多いので普通のラジオよりやはり便利です(その点でも、ソフトバンク社があと一息インフラの充実に力を入れてくれれば良いのだが・・・)。

携帯電話機能はオマケ機能

そんなこんなでiPhoneを使い始めてそのインパクトの大きさに驚くとともに、「いかんよね、井の中の蛙ではね」と思うこと頻りな今日この頃であります。よってここ数ヶ月開店休業状態であったこのブログに書き込みたくなるあれこれも増えてきたので、それはまた近々。
フルブラウザ付き携帯電話などとはてんで比較にならない、電話機能とインターネット利用機能とが主従逆転したiPhoneすなわち「携帯電話回線を利用していつでもどこでも活用できるモバイルデバイス」はえらい。大げさな物言いをするつもりはないが、iPhone(それに類するモバイルデバイス)は世界を変えるよな、と思う。

梅雨入り

  • 2009年06月30日 (火)

やっとまとまった雨が降った。極私的にはジメジメした季節が大嫌いだけれども”半私的”(”反公的”)にはほんとこの時期の雨は有り難い(干上がった田んぼは目の毒なのだ)。こういうことは結構多い。何がかといえばこういうこと。つまり、本音でもない建て前でもない、はたまた本音でもあり建て前でもある、と、そういうこと。取調官の誘導尋問じゃないが、「二者択一」は必ずといってよいほど真実から遠ざかり、あるいは不安定をもたらす。多極化のもたらす不安定と択一のもたらす不安定とは同じ「不安定」と言えどその隔たりは小さくない。で、ほんとならここから話を展開していくべきところ、読みかけの「すばらしき新世界」が面白すぎるので取りやめ。などと言い訳ばかりかましてたらもう6月が終わりそうなのでとりあえず駆け込み投稿。
ではでは。

炭酸水なかった。

  • 2009年05月30日 (土)

家で水割りを飲もうとコンビニに駆け込んだら炭酸水がなかった。むむ無念。
この辺のコンビニには、意外とこの炭酸水(ソーダ水とでもスパークリングウォーターとでもなんとでも)を置いていない。置いてくれよ。しかたなく「六甲のおいしい水」で我慢する。
なにげにこの炭酸水が好きなもので、ウィスキーを飲むとき以外でも結構好んで飲んでいる、と他人に言うと怪訝な顔をされる事が多い。おいしいのに。真水ならがぶ飲みしないと癒せない乾きが炭酸水だと一口二口で済むのでいいのであるよ。
と、自分でも何が言いたいのかよく分からない文章を書いているなあ、とは、思う。
さて続きを読むか。
水割り片手に杉山茂丸の『百魔』を読んでいる。面白くて仕方がないくらい面白い。この本、何の気なしに読んでいると気がつかないが、ところどころでいつのまにやら語り口が講談調というか義太夫節になっているところがまた面白い。

黄金週間にまた筆任せ

  • 2009年05月06日 (水)

2年間限定の高速道路料金割引のおかげか各地で大渋滞とか。そんな話を聞く毎に外出する気力が失せる筆者は自宅or畑で黄金週間を過ごす。意図不明な期間限定割引やら国債という借金に頼った大盤振る舞いやらその他諸々、この先の見通しの暗さを強く感じさせることばかりが私のアンテナにヒットする。別に私は悲観主義者ではないよ。
麻生首相に対する支持率上昇はある一面から見れば当然だし(所詮マスメディアに乗る世論調査なんぞ、そのときその場の雰囲気を示すという以上の意味はないということ)、別の面から見れば不可解(国民に将来の増税を暗に約束する政策を喜ぶ国民がそれほど多いのだろうか)。少なくとも現下の諸事を見る限り、日本の未來は明るくない(「それがどうした?」)。議員の世襲制限という話も出ているらしく、憲法上保障された職業選択の自由に鑑みて「世襲云々ではなく政治家自身の能力そのものが問題であるはずだ」という論に私は与する者だが、しかしまたこれまで政治家としての能力に疑問を感じさせる2世3世議員を多数輩出しかつ現に擁している(或る)政党には、政治家の資質を吟味・向上させるだけの能力・意志が備わっていないと断言する者でもある。言ってみれば先の論は、一つの「問題提起」としては正論だけれども、「ではどうするのか」という問いに答えるものではない。いま、「正論」を吐く政治家は掃いて捨てるほどいるが、たいていは正論を口先だけで操って、結局何もせず、何も行わず、問題を先送りし、時間を稼くことしかしない。
「何を言うか。やることやってるぞ!」という声が聞こえてきそうだな。うむ、公金を(未來の分まで)費消するということなら確かにやっておられる。それは認める。

今日も良いお天気で

  • 2009年04月29日 (水)

Ubuntuにまた仮想PCを作るVirtualboxを入れてみた。バージョンが上がって(Ver.2.2)、USBもサウンドも事もなく使えたので、せっせと仮想Windows環境を構築。スキャナのドライバもWeb経由で自動インストールできてしまった。言うことなし。Gyaoも見れる(今までは、いちいちWindowsをブートして見るほどの手間は惜しかったので、とんとご無沙汰していたのでありました)。これでUbuntuとWindowsの良いとこ取り環境の出来上がり。パチパチ。
閑話休題。
先日、堤未果のルポルタージュ『貧困大国アメリカ』(岩波新書)と平川克美『経済成長という病』(講談社現代新書)を一気に読んだ。読むべし。
今はレインの『ひき裂かれた自己』を読みつつある。身近に起こっていること或いは身近に感じている諸々の事どもを考え合わせながら、一人納得。それらについては(も)いずれここで書くとする。タイトルだけはもう決定。「正気と狂気」。
終始閑話。

トラバうろ覚え

  • 2009年04月27日 (月)

いま、ふと思い出した。wordpressには「トラックバック」という機能はなかったね。代わりに「ピンバック」とかいう機能があるとか(詳細)。ただ、うちのブログのようにいわゆるトラックバックURLも使用(表示)できるけれど、これ確かテンプレート依存だったような気がする。

(つぶやき)鳩山ジャイアン

  • 2009年04月24日 (金)

はっと我に返ってみるともう四月も末。今日も細々整理整頓。まだ終わんねえ。
「正義の味方」鳩山大臣へ。このブログでは度々「正義」やら「正論」についてぼやいております。機会があったら読んでね。ま、話がかみ合うことは金輪際なかろうが。草彅くんばかりでなく中川「酔いどれ」大臣にもそのくらいのこた言ってやりゃあまだ格好良かったんだが。所詮愛嬌のないジャイアンなんだな。
すまん、ジャイアン。

「祭」を横目に整理整頓

  • 2009年04月08日 (水)

このところ暇さえあれば掃除と整理にいそしんでいた。デスク上に積み上げられていた書類やら切り抜きやらガラクタやらを然るべき所に収納し、PCの中を整理整頓。気分良し。
整理といえば、ここ2年ばかりオンラインブックマークを利用していたものの、登録件数が増え(合計で2000件超え)て、管理がしにくくなっていた。さらには時間の経過とともにリンク切れになっているものも少なからず出てきたので、いっそページのスナップショットを全てローカルに保存するようにした(Ubuntu標準のpdf印刷かZoteroを使用)。動画のようにファイルサイズの大きいものを保存しない場合でもそこそこ容量を食うけれど、なにせストレージのコストパフォーマンスは年々高まる一方なので、件数2000件超のファイルサイズ1ギガバイト足らずなら何ほどのことでもない。さらばソーシャルブックマーク(というか、そもそも非公開のプライベートモードでしか使ってなかったので、ただのオンラインブックマーク)。
これでリンク切れともおさらば。
オンラインブックマークを使い始めたのも、元はといえばWindowsとLinuxを併用するため(ブックマークの同期のため)だったわけで、今はもうWindowsをほとんど使わなくなったので、その必要性もなくなってしまった。過去にLinux(とくにUbuntu)に関して「あれが足りない、ここが足りない」と言うこともあったが、その多くは(他力本願的に)解決してしまったので、今更Windowsに戻ることも考えられない。ただ(ココ強調)、唯一物足りないのは、Linux版のATOKでは連想変換機能が使えないことで、これはジャストシステムさん(に何とか対応していただきたいと念願している(今の値段の倍額でも喜んで出します)。キーエンス社の子会社になっても(なったから)頑張ってね。応援します。
と、こう書いてきて読み返すと、このところPC関連の話題ばかりブログに書いているなぁ、などと思う。いっとき前までは時事問題ばかり取り上げて書いてたんですが・・・。
花見シーズンと北朝鮮祭り、終わったみたいね(ボソリ)。

便可

  • 2009年03月27日 (金)

タイトル、省略しすぎたか・・・。
seesaaからwordpressにブログを移行したとき、メールアドレスを書いておくのをすっかり忘れていたので、朝飯前にメール送信フォームを追加(サイドバーの下方にリンク設置)。せっかくのwordpressなんでコチョコチョいじって完了。
seesaaからwordpressに移行して生じた最大のメリットは”全文検索”が速いこと(あるいはwordpressというよりレンタルサーバーのおかげか?)。seesaaの全文検索は重すぎた。google検索はときどき抜けてる(ヒットしない)。
自分のブログを検索するというのも馬鹿らしいといえば馬鹿らしいが、自分のブログを検索するのに無駄な時間を費やすのはもっと馬鹿らしい、ということにして自己満足、と。

晴れときどきシェイクスピア

  • 2009年03月16日 (月)

このところブログの更新が間遠になっている(言うまでもないか・・・)。生活リズムが不整脈のように不規則で、かつ当面(向こう数日程度の)の予定すら見えないという状態は、落ち着いて何かをすることを阻む最も大きな原因であろう(と大仰に書くほどのことでもないのであるがマス目(?)が埋まるので書いてみただけだが確かにそういう気はしている)。どうにかせねばなるまいと思いいろいろ思案を巡らすけれど妙案はなかなか浮かばず。このままゆくとお猿さんみたいな人間になっちまいそうだ。
と、こう書いているうちになんとなく落ち着いてきた。大して熟考したわけでもないあれこれを筆に任せて書くだけでも気が(少しだけ)晴れるというところから、結局、書きたいわけでもないことばかり書くことや、個人的には「そんなんどうでもええんじゃが・・」てえことにばかり気を遣わねばならぬような生活は、自分自身の中心的な何かが少しずつ浸食されてゆく過程であるように思うのであった。こうしてつらつら書き連ねていきながら「あぅ、そこは」「おぉ、いい」と足し引き言いかえしていく作業は楽しい作業なのだが、それをせずにつらつら書いただけだとこのような文になるのであるよ。ああ、気が晴れた。また書かねば。
今日は好天にも恵まれ久々野良仕事。そして少しだけシェイクスピアを読む。

売り文句に見る世相

  • 2009年01月12日 (月)

先日、ジョージ・ソロスの『ソロスは警告する』(原題:The New Paradigm for Financial Markets)に巻かれていた帯文その他にうんざりしたことをこのブログに書いた。いったい何にうんざりしたのか一言で示せば、それは著者の視座と訳者・解説者の視座の隔たり大きさに一人の「ニッポンジン」として、いささか幻滅を覚えたからだ。この本の中で著者は、彼の経験の中からなにがしか本質的なものをくみ取ろうと格闘している。彼は、おそらく(その当否はさておき)彼の人生におけるさまざまな主観的体験・客観的現象のうちから本質的なものを(彼なりに)読み取ろうとする姿勢を一貫して持ち続けているようだ。それに引き比べて、日本人によってこの本に付された解説その他はどうか。私はここで、その余りの不毛さに一驚したことを告白する。やれカリスマだ、ベストセラーだ、はては市場経済への過度の依存が・・・云々と、テレビだか週刊誌だか3chだかで見るような、思いつきの、ありふれた、うわっつらばかりの文句ばかりがズラズラと並べ立てられている(その一部がamazonにも載っている)。私としてはそうしたものに別に文句を付けるつもりはない。それはそれ、これはこれとして当意即妙・適材適所をよろこぶものであるがしかし、よりによって自称「挫折した哲学者」の本にその手の解説・売り文句はあんまりだろうと思ったのであった。しかしこれもまたそれはそれこれはこれで、ま、べつに構わないと言えば構わない。ただ、そのようなものを食傷するほどに見聞きしつつあり、正直なところうんざりしかけている。だいたい何だね、最近の帯文の無茶苦茶なこと、目に余る。そういえば、先日読んだ福田恆存の文庫版『人間・この劇的なるもの』の帯文には太文字で”恋愛の書!”とあったことを思い出す。本屋の店先であの福田がいつそんな本書いたのカネ?とちらりと思ったが(帯文にある恋だの愛だのの安っぽい売り文句に惹かれて本を買うような人にとって福田の文はまず間違いなく「ウザい」「ダサい」「クドい」と思う)、何のことはなかった、巻末解説のさらに後に付け加えられた一評論家の一文の末尾に「だからこそ、『人間・この劇的なるもの』は、若者たちにますます必要な人生の書、いや恋愛の書だと思う」とあったところから来たらしい。それもこの一文は、この評論家氏の(福田の著作に関する)きわめて個人的な思い出ばなしなのであって、福田の書いたものとのつながりは無きに等しい(むろんそれはそれで全然問題はない)。問題は(というか鼻につくのは)、そうした枝葉の言葉尻(同義反復だな)をつかまえてさもこの福田の本が”恋愛の書”だと見せかける腐れ根性・・・、もとい逞しい商魂と、そのような姑息な真似をしなければこの本が売れない(のかもしれない)現代日本の世相というか、ま、何かしら腐臭らしきものを嗅がされる気分になったのだった。すんません、小生、箸が転んでも腹が立つ奴ですねん。すまんの。それにしたって、「大の男」に「ミニスカート」はかせるような真似はやめようぜ。三文小説じゃないんだし。などと書く必要はあまりないか。つまらない帯なんぞゴミ箱に棄てればそれですむこと。いやあ、分かっちゃいるけどね。あ、日本の本、読まなきゃ良いのか。読むなら古典、買うなら洋書、ほんとそれでいいのか?
などと、くどくど書いてみたが、助走だけで終わってしまった感なきにしもあらず。

関連エントリ:

寝る前に

  • 2008年12月24日 (水)

今日は天皇誕生日。珈琲を啜りつつ朝刊に掲載された陛下のお言葉を読む。「陛下」と書くも「お言葉」と書くも、別に私は右翼でも復古主義者でもない。このあたり、こまごま書き出すときりがないので今日はさらりと流しておくが、思うところ多々あった天皇誕生日であった。
よんどころない用件にて繁華街に出るも、国旗の一つも見あたらず、ジングルベルとクリスマスセールの看板と横文字のコーラスが流れるばかりの雑踏にはうんざりした。重ねて言うが、私は国粋主義者ではない。それでも今日は「なんだかね」と思った一日本人ではある。
道行く人に目を向ければ「日本人」は見あたらず、半端な「アメリカ人」もしくは「偽パリジゃン」ばかり。「おーい、けふは今上天皇の祝日であるぞおおおお」と心中つぶやく。
重ねて言うが私は右翼でも国粋主義者でもない。ただ、時流に流される視野の狭いおっちょこちょいでありたくない、そして尊敬できる人をもてることを慶ぶ一人のニッポンジンであります。
腹立つことの多い毎日ゆえ、今日は精一杯祝いたい。
とか言いつつただ飲んだくれる野人ヒトリ。
国粋主義者も右翼も尻軽もすべて嫌いな野人はいつでも非国民になる覚悟であるぞよ。て、なんのこっちゃ。ボーネンカイボーネンカイ。

カネカネカネからカネカネカネ

  • 2008年12月14日 (日)

けふは中途半端な一日であつた。やらねばならぬことは片付かず、やりたいことは手ぇ付かず。少しばかり本を読んで、日暮れて道通しの思ひ深まる。普段ならいささか鬱陶しいと感じる福田恆存の人間論がけふは何気に心にじんと来る。
米自動車産業救済法廃案などの報に接して、ひとまずは他人事ながら来し方行く末を思ふ。

キーボード供養

  • 2008年11月29日 (土)

毎年、寒さを感じる季節になるとどういうわけか或る「匂い」というか「香り」が鼻の奥で感じられるようになったのは20歳を過ぎた頃からであったように思う。何の香りなのかいまだにわからないままだが、その香りを嗅ぐと妙に気が安らぐ。その香りのする香水でもあれば私的な精神安定剤として使えるのだが、なにせ他人様には説明しようのない匂いなので、いまだに入手できずにいる。ちなみに、たいていの場合その香りは煙草を吸うときに感じることが多い。しかし暖かい季節にはそれが感じられないのはどういうわけなのか。と、タイトルにそぐわないことをつらつらと書いたのも、きっとキーボードのせいなのだ。

PCというものを私的に使い始めて約10年、現在のキーボードは3台目となる。これがなかなか良い。
キーボードの使用歴はこんなふう。

  1. DELL 083DVR(本体付属品)
  2. Buffalo BSKBC01SV(3000円くらいのコレ)
  3. topre Realforce89UB(2万円弱のコレ

DELLのキーボードはなにせ初めてまともに使ったキーボードなので良いも悪いも分かりようはなく、「そんなもの」として使い続けて約10年。PC本体やマウスは度々変わったが、キーボードだけはずっとDELLを使用した。長く使えた理由の一つはPCそのものの使用頻度が少なかったためだろうか。それほど気に入っていたというわけでもなく、オプションのキーボードカバーを付けていないとやけにキーを打つ度に「カチャカチャ」と五月蠅く感じたものだが、それでも使い続けるうちに手になじんで音もそれほど気にならなくなった。ところが今年に入って、このDELLのカチャカチャ音がふたたび気になりだした。それまでよりも甲高い、キンキンする耳障りな打鍵音が聞こえ始め、キーを叩く度に鼓膜に響いてどうにもならず、それでもしばらくは我慢して使っていたものの次第々々にひどくなったため、やむなくキーボードのみ新規購入1台目。それがバッファローのもの。

で、このバッファロー、購入の時に静粛性に加えて、敢えて手持ちのノートPCのキーボードとタッチがにているものを選んでみたのだが、どうもしっくりこない。わざわざノートPCのタッチと似たものを選んだのも、その方が筆が進んだからなのだが、どういうわけかこのバッファローは手になじまず。タッチそのものは重いが、いざ動かすと抵抗が無さすぎてどうも私には合わない。DELLを使っていたときと比べて明らかにミスタッチが増え、おまけに日本語入力の切り替えにShiftキー+Enterキー(Controlキー+Enterキー)を常用していたせいもあり、ミスタッチが原因でATOKが奇妙なダイアログボックスを表示したりしていいかげんうんざりし始め、なんとなく新たなキーボードを物色しだした。

今回は慎重に選定。テンキー不要、Windowsはあまり使わないので「Windowsキー」も不要。文章の打ち易さだけを念頭に89キーのものにした。バッファローに比べるとタッチはさらに軽く、動かすときの抵抗もさらに軽い。指の動きに軽快に追従してくるので、つらつらと文章を書くには具合が良い。

そのような風にして、いくつかのキーボードを使ってみると、これまで使っていたDELLのキーボードは、付属品とはいえなかなか良いモノであったと感じる(多量の文章を書くにはチトうるさいが)。このエントリは、長年働いてくれたDELLのキーボードへの供養の代わりとする。

またはじまったか

  • 2008年11月23日 (日)

年金制度の構築に携わった元高級官僚の殺害事件に関する犯人報道がはじまった。マスコミの書きっぷりは相も変わらず、呆れてモノも言えず。どチンピラ。

(お詫び)フィード二重配信

  • 2008年11月08日 (土)

以前書いた記事をちょこっと訂正する度にフィードを配信してしまっていることに昨日気づきました。解決方法としては、あとあと訂正しなくて良いように”慎重に”書くぐらいしか思いつかないので、当面そのようにすることにします。追々根本的解決を図りたいと思います。マニュアルを読めばどこかにかいてあるんでしょうが・・・(沈黙)。
決して「読んで!読んで!」の押し売りではありませんです。

三日ばかり

  • 2008年10月27日 (月)

たまの休み、どこに出かける気も起こらないほどひたすら眠い。寝ては読み、書いては寝る。モームの『アシェンデン』がおもしろい。この冬はモームを読もうか・・・。
経済も政治も社会もいろいろあって、書こうかと思うこともないではないが、それはまた三日ばかりのんびり出来たら(もしくはその気になったら)書くとする。なにせ「今日は何曜日?」てくらいに、眠い。

ぼーとしたい秋の夜

  • 2008年10月17日 (金)

涼しくなった。陽が落ちると肌寒さを感じるほどに涼しくなった。涼しくなった。

野良仕事もあと一息というところ、そろそろ冬籠もりの支度にかかりたいと思いつつ、日々の雑事に追われてい・・、いや、(強調)雑事を追いかけている(強調)。本来、私は「ぼー」としとくのが何よりも三度の飯よりもなにはさておき大好きなので、チョコマカチョロチョロ動き回るのは余り好きではない。なぜなら「ぼー」としておれる時間が無くなるからなり。時間(つうか人生)は有限であるからね。ボートが漕ぎたいのではない。

ぼーとする時間が取れないのでこんなことしか思いつかない。
ぼーとする暇もない人生は虚しかろ。
(と、こうして書いているとぼーとできるがゆえに私は書くのです)。
明日の株価はどうなるだろうか。気になる。興味津々。興味本位。特段の意味は無い。

無い無い尽くしのエントリはここまで。グースカ。

どうやら落ち着いて

  • 2008年10月11日 (土)

ブログの引っ越し作業は何とか終了。事前の検討・準備が不十分だったせいで、作業開始後も頻繁に個別記事のURL等を変更したため、あちこちで「404エラー」が出て「ページが無いんです」と表示されることがあるかと思います。
今日あたり、ようやく落ち着いたので今後は大丈夫かと(たぶん)。

ところで金融界・実業界におけるバッドニュースが頻繁に私の耳にも聞こえてくる。
時代の転換点がやってきたという見解に一票を投じたい。
それにつけても、バブル崩壊の後始末に関して「日本の経験したことを教えちゃれ」という厚かましい物言いが散見されるが、「あんた何様?おい日本よ」と思うこと頻り。そうした厚顔無恥さにかけては、どこぞのリーマン金融マン諸氏との共通性をそこはかとなく感じる。バブルははじけることがあっても、厚かましい奴の面の皮が薄くなることは無いのだなぁ。

苦い珈琲

  • 2008年10月04日 (土)

ひんやりとした空気が心地良く、落ち着いて何かに取り組むには良い季節が近づいてきている。ブログの引っ越しも終え、机の上もだいぶん片付き、何事も一段落。
それなりに気分良し。
ただ、行きつけのカフェに、頭のいかれた見慣れぬ客がしきりに顔を出しているのが鬱陶しい。マスターが店を畳みはせぬかといささか案じている(杞憂だとは思う)。他人様の言葉を逆手にとって因縁かますなんてことは畢竟チンピラと言うべきところ、そんな輩がリアル世界にもバーチャル世界にも散見される。
気分悪し。

最近、哲人皇帝の『自省録』なぞ読んでいる。神谷美恵子訳の岩波文庫版(神谷美恵子については以前このブログで書いたことがあったが、この本に関しては手に取るまで訳者が彼女であることに気づいていなかった。奇遇なり)。他人を攻撃するためでもなく自分をアピールするためでもなく金銭のためでもなく、ただ自分のために、ひたすら自分に向けて書かれた言葉が心地良い。しかし、おそらくチンピラはそうした言葉にさえ噛みつこうとするのである。他人(ひと)が自分に向けて書き自分に対して課した規範を取り上げ横取りした挙げ句、「あんさん言ってることとやってること違うやないのぉ?」。
始末におえんものは始末せよ、と、そう言いたい(言ってるか)。

ローマ皇帝の内省の言葉を読みつつ、一方で『恋愛指南(アルス・アマトリア)』を読む。言わずと知れたオヴィディウス著。一時の流行詩人はまさにその功によって身を滅ぼした。彼はこの著作に絡んで放逐され、僻遠の地で生涯を終えたのであった。この文庫本の解説に従えば、そもそもこの(一見すれば)恋愛ハウツー本、一種のパロディとして書かれたにもかかわらず、真に受けた(若しくは真に受けたふりをした)権力者によって、彼を破滅に陥れる足がかりとされたのであるそうな。

たしかにこの”指南”本はこう結ばれている。

たわむれも終わりだ。われわれの乗った車をそのうなじで曳いてきてくれた白鳥たちから降りるときが来た。前に若者たちに頼んだように、今度もまた、私のもとに参集した女たちよ、戦利品の上にこう書きつけるがいい、「ナソが師であった」と。

オウィディウス著・沓掛良彦訳『恋愛指南 ーアルス・アマトリアー』(岩波文庫)

チンピラヤクザも権力者もキチガイも、やってることはみな同じである。
いまさら、だな。

Smoke in gets your eyes

  • 2008年09月30日 (火)

いや、「スモーク」ではなかった。たぶん「ひかり」です、目にしみるのは。

このところ眼が痛い。ついでに頭痛も。原因はなんとなくPCのモニタのせいのような気がしている。液晶モニタ。

自宅のPCに長時間向かっているときはそれほど感じないのが、どういうわけか仕事場のPCだと無性に眼が痛くなり、肩が凝りはじめ、しまいには吐き気までしてくるのはどういう訳か。と、ここ数ヶ月というもの、考えるともなく考えていた。しかし原因はよく分からないまま、相変わらず仕事場のPCに向かい、相変わらず眼が痛かった。そして今日、これまたなんとなく「液晶モニタのせいではなかろうか」と思い至った。
自宅と仕事場のPC環境の違いの最たるものは「モニタ」。自宅のは古くて(比較的に)小さいブラウン管モニタ(17インチ)。いっぽう、仕事場のは新しくてちょっと大きめの液晶モニタ(19インチ)。大きめのモニタで目に優しそうな気もするが、液晶モニタはどうやら「眼には優しくない」らしいとネット上のあちこちに書いてあった。
確かにそんな気がする。
昼間酷使された眼は、自宅に帰って「目に優しい」ブラウン管モニタにさえ拒否反応を示し、集中力を削ぎ、根気を失わせる(ような気がする)。少なくともこの数ヶ月のうちに、(もともと悪い)私の視力は確実に低下しているのである。このままではいかん。
と、いうわけで、大きくて目に優しいモニタを探してみる。ブラウン管モニタは既に絶滅危惧種となっており、選択肢は事実上液晶モニタのみ。
目に優しい液晶モニタを物色するも、稀少かつ結構なお値段。2、3万円の液晶モニタの広告を見て「以前と比べていやに安くなったもんだなぁ」と思っていたが、なんのことはない、今だってまっとうな品を手に入れるにはそれなりの対価を支払わなければ手に入らないのであった。
翻って考えてみるに、食べ物もPCモニタも、値段は安いが身体にはよろしくないものばかりが普及しているご時世なのであるか・・・、そんなことを考えた今日は終日雨模様。
安い安いともてはやしたところで、結局誰かがどこかで骨身を削り健康を害して対価を支払っていると考える方が、精神的には健康なのかも知れぬ。

とりとめもないトリートメント。
ただの駄洒落。

(告知)アドレス変わりますけど「ああ、そう」

  • 2008年08月24日 (日)

(旧) http://ubsgw.seesaa.net/
(新) http://yajin.ubsgw.net/
(新) http://ubsgw.net
http://www.ubsgw.net

半年ほど前からこのブログのタイトル変更とサーバーの引っ越しを検討しておりますが、諸事にかまけてなかなか進展しておりません。さっぱり名案が浮かばないタイトルの変更はともかくとして、引っ越しだけはそろそろ果たしておこうかと考え、まずはその下準備としてこの度、表札すなわちブログのアドレス(URL)を変更することになりました。
が、わたしが重い腰を上げて引っ越すまでの間は旧アドレスでも閲覧できるようになっているはずです。
つまりはこのアドレス変更の件、
「ああ、そうかぃ」
で結構です。

ほんものの家の引っ越しならまずは引っ越してから表札を掛け替えるのでしょうが、ブログの方は表札を先に変えておいた方があとあと楽みたいなので、やってみます。
ひょっとすると向こう数日のあいだ、閲覧に支障が生じるかもしれませんので予めご了承ください。万一そのような場合は、ほうっておけば数日のうちに正常に戻ると思います。
それでは。

(2008/08/26追記)
新アドレスを若干変更しました。「yajin」はURL欄に打ち込んだときに見づらいので削りました。

(告知)見えなくても有るものはある

  • 2008年08月22日 (金)

前のエントリに頂戴したコメントがどういうわけかトップページに反映されていない(8/21現在)。このところ管理に手が回らないのでコメントは無条件に受け付けるようにしており、いま原因を調べているがよくわかりません。エントリの下部に「comment(0)」と表示されてしまっていますが、その部分をクリックしてもらえればコメントが表示されます。

というわけです。さしあたりご了承ください。>Dr.Waterman。

seesaaブログは更新頻度が下がると不具合が出るようにでもなっているのであらうか・・・。
マメに更新することにします、ハイ。

(2008/08/22追記 いつのまにかきちんと表示されるようになりました。)

もう一息

  • 2008年08月18日 (月)
  • キーワードタグ: ATOK

八月も半ばを過ぎたもののまだまだ暑い日が続いている。大量の汗を吸ったかのように、はたまた暑さに溶けて地面に張り付くかのように、ただでさえ重い私の腰はなお一層重くなっている。そしてひたすら眠い。
そんなこんなで、涼しくなる日を指折り数える毎日であります。

盆休みはひたすら自宅に引き籠もり、読書→昼寝→オリンピック観戦、読書→早寝→読書、夜更かし→読書→昼寝・・・(以下同文)。星新一の初期短編、三崎亜記の処女作、芝健介の近著をパラパラ、パラパラ、よむ。すべて文庫または新書版。重い本は読まない、読めない。なにせ(文字通りの意味で)重いから(ちなみに芝健介の新書はホロコーストに関するもの)。

なんだかここまで書いた文章、喘ぎ喘ぎだな。まさに今の気分が反映しているかのよう。

いざ文章を書こうとしても、どうやら息が続かず。実際のところ時事的な話題について書こうと何度か書こうと試みるも、しまいまでたどり着けずに放置してしまっている。もしやPCの日本語入力(ATOK)が少しおかしいせいか、それともキーボードが合わないせいか、などといろいろ考えるうちに新しいキーボードを衝動買い。いっそPCごと変えちまおうかな、などと考える。で、macにすっかな、とappleのサイトを興味津々眺め回すうちに休みが明ける。

せっかくなので(?)、ここ数ヶ月のうちで私がピピピと反応した時事的話題の断片だけ記しておくと、福田内閣改造と右翼とヤクザと歴史的円環と警察官による青年撲殺とお役人と原口一博衆院議員と中央省庁の人事交流と教員採用汚職と博多一本締めと新版macbookが来月登場? ん、あとは・・・今思い出せない。

また近いうちに。

今晩はユングを読みつつ寝るとする。

(メモ)銃犯罪と命の重さ

  • 2008年06月14日 (土)

交信途絶もとい更新途絶も「あわや一ヶ月・・・」ともなるとこりゃいかん。
なにせ農繁期・・・いや、言い訳はやめとこう。

UBSGW最近の疑問:
(長崎市長射殺=死刑)>(暴力団組長射殺=懲役30年)>(入院中の一般市民射殺=懲役24年)

これをいったいどのように理解すべきだろうか。

鏡の中の鏡の中の鏡

  • 2008年05月05日 (月)

黄金週間ということで、いくらか暇が出来たので溜まりに溜まったあれこれを「ショリショリショリ」と片付けている。が、まだ終わらぬ。

昨日だか一昨日の夜にボンヤリとテレビを眺めていたら、奇妙な報道番組が放映されていたので興味深く拝見。その番組の中で、「国民は怒っているのだぁ!!」らしきテーマ(?)が取り上げられていた。いや、取り上げられていたというよりは「作られていた」というほうが正確かもしれない。

トラックに呼び込んだ一般人に、政治への怒りを表現してもらう(怒ってもらう)という趣向のようであったが、私としてはそのようなものをテレビで見たところで面白くも可笑しくも腹立たしくもなかったわけであり、ただ、「いったいこの番組の制作者は視聴者に何を伝えんとしているのであるか・・・」ということにひたすら頭を悩ませることになったのである。
利権を手放さない与党・官僚及びそれへ「怒り」を向ける野党、そしてそうした政治へこれまた「怒り」を向ける「国民」、そうした国民をテレビに映し出すマスメディア、そうして私は、国民の怒りとやらを「報道」することで何かを作った気になっているマスメディア(番組制作者)に対して若干怒りの感情を含んだ憐憫を感じざるを得なかったのでありました。まあよくも「報道番組」などと自称できたもので、「おれたちゃ怒ってるんだぞお」ということ(だけ)を伝えることが一体どの程度「報道」と言うに値するのか、私にはちょっと分からない。「ブロードキャスター」。
報道番組を自称するバラエティ番組なぞ今さら珍しくは無いのは承知の上だが、「ついにここまで来たか」といささか驚いた黄金週間の一夜であった。「テレビの時代」は終わっちゃってたのね。やっぱり。

(追記)
このタイトルは分かりにくかったですね。

悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖でないのと同じである。(M・エンデ)

という言葉が念頭にあったのでした。
(過去記事)「エンデ全集8 鏡の中の鏡」
(2008年5月6日)

あらららもう

  • 2008年04月26日 (土)
  • キーワードタグ: Ubuntu

気がつけば四月も半ばを過ぎていた・・・というかもう月末。今月はまだ一度しかブログを更新していない。「こりゃいかん」というわけで、自宅PCのOSを更新した。ええ、ネタ作りを兼ねて、ね。

ようやくUbuntu8.04(こおどねえむは不覚)がリリースされたので、今朝ほど「心機一転」インストールする。前のバージョン(7.10)をインストールする際は、CDからのブートが上手くいかなかったりなにやかやで、ちょっとばかりハラハラさせられたが(むろんこれは当方のPCに起因したもの)、今回はすんなり何事もなくコトが進み、このOSの印象がさらに良くなったのでありました。
また、ヘルプマニュアルの日本語化も7.10よりもはるかに進捗していて、「おお! これがVISTAってやつ? あの新作OS?? お高いんでしょお?? え!?違うの? えええ、タダなの!!!?」という感じ(ハイ、ちょっと大げさですよ、ぇえ。)。

新しい機能もだいぶん追加されたらしいけれど、そのへんはまだよく分からないので、今日からボチボチ眺めてみます。

なお、Ubuntuのヘルプマニュアルの翻訳については今後も暇を見つけながら参加する予定。

そうそう、VISTAも使ってみました(使っています)。
確かにすごいぜ、VISTA。びっくり。さすがはマイクロソフト。
・・・なにせ大した作業もさせてないのに1ギガバイト以上もメモリを消費してくれる。大排気量・燃費最悪のアメ車みたいでさ、頼もしい。つか「反・エコ」。マイクロソフトは、日本製自動車の台頭に押されて衰退していったアメ車メーカーと同じ道を歩むのか? いや、歩みつつある、の間違いだな。

欲の皮のつっぱった奴ぁ、それなりの報いを受けませい。

OSインストール後の試運転を兼ねてブログ更新、完了。今月中に最低でもあと一回は更新予定。

窓の向こうは雨

  • 2008年04月10日 (木)

最近ようやく生活に落ち着きを取り戻しつつある。とはいっても相変わらず東奔西走の毎日。貧乏暇なし。A rolling stone has no moss.

ブログの更新も常に念頭にはあるものの、ボンヤリする時間が無いとなかなか書けない。今日は最近読んだ本についてメモ程度に書く。何冊か読んだけれど、どれもいま正確なタイトルを思い出せない。阿川弘之のエッセイだとかデビッド・ロックフェラーの自伝とか。

阿川弘之の(たぶん最新の)エッセイ集はどうやら語りおろしというやつ。最近、この手の本が多い気がする。確かにスラスラ読める。が、敢えて旧仮名でカッチリした文章を書きつづけたこの作家の本としてはいささか物足りない思いがしたのも事実だ。いや、それはそれで良い。「やはり書ける人には書いてほしい」という、読者の「贅沢病」であるにすぎないのだから。

ロックフェラーの自伝は読みかけ。いかにも財界人の伝記という風情が充満している気がするが、それなりに面白い。これについてはまたいずれ。

ここ数日、街のそこらここらで満開の桜を目にした。そしてそろそろ桜の花びらが、名残惜しげに散りはじめている。今朝の雨が送別の雨となる、か。

久々に

  • 2008年03月29日 (土)

身辺雑記を書く気になった。

最近まで自宅で使っていたPCは3年4年ほど前に購入したものだったが、「お子様ビデオの編集」だとか「スリイデぃゲーム」たとかには縁のない私にとってはそれなりに快適なPC環境だった。しかし試しにメモリを増設しようとしたところがうまく動かなかったので、面倒くさくなっていっそ丸ごと一新する気になった。
確かに快適ではある。

しばらくご無沙汰している間に、Justsystem社がLInux向けATOKのアップデートモジュールを公表し、さらには小生愛用のUbuntu OSに正式対応してくれることになったのだそうで喜ばしい限り。
「ATOK for LinuxがUbuntuに正式対応、アップデート・モジュールを公開」(nikkei BP net)

それで最近、「Windows向けの最新版ATOKを購入しようかね」、という気になっている。余儀ない事情によりWindowsも相変わらず使っているわけで、Windows版ATOKも使っているわけだが、そもそもWindowsというOS(というかMicrosoft)の商法には辟易しているので、「VISTAぁ? んなもん、いらんね、ワシぁ」で今後買うつもりは全くない。が、この際ATOKだけは新しくするつもり。まあ、ちょっとしたお返し、というところ。「目には目を、歯には歯を」。いや、これは違うか・・・。

そういえば近々Ubuntu8.04も出るはずで、こちらも楽しみ。上のバナーは本家(アメリカ)のものです(日本語ローカライズ版Ubuntuはその数日後に入手できる状態になるはずです)。msp.今回のバージョンは長期サポート(LTS=Long Term Supportだっけ?)版とのことなので、以後数年、少なくとも個人的にはこのOSを使うことになると思う。
Ubuntu Japanese Team

やれvectorだ、なんだとアプリケーションソフトを探す必要もなく、クリック一発でほとんどのソフトをインストールして使える等々、使いやすさは随一のOSだと私は思う。Windowsでは(簡単には)出来ないことがUbuntu(Linux)では(あっさり)出来てしまう、ということも少なくない。そしてなによりガメつくない、フレンドリー、太っ腹。いや、別にMicrosoftがそうでないとは言わない。これからそうなるのかもしれないし(これは”願望”的観測)。

ああ、なんだか今日はPCのことだけになってしまったな。
最近読んだ本もいくらかあるが、それについてはまたいずれ。
今日はこれにて。

今朝の夢

  • 2008年03月16日 (日)

日頃無粋なアラームに叩き起こされる日々を過ごしているもので、休日の朝、暖かな陽光にやんわりと起こしてもらえると一日中気持ち良く過ごせるのであります。のんびりと新聞を読みつつコーヒーを喫しつつ、

「さて今日こそは溜まりにたまった本を読んで・・・

「昼寝して」
「畑に出て・・・」
「うまいもん食って・・・」
「はよ寝るかぁ」

などと目論んでいたのでありましたが・・・。

ふと気がつけば日々先送りにしていた日銭仕事の後始末で一日が終わってしまったのであります・・・。何一つ実現せず。

ま、いいのだ。
べつに何一つしくじったわけではない。
べつにしくじりを誤魔化しているわけでもない。
失態を覆い隠すことに汲々として本務を忘れ、本務に反することしかやっていない小役人の忙しさに比べれば、俺の方がよほど生産的なんだから。
「ったく、いい加減にしやがれ」である。

いや、別に他意はない。
「王様の耳はロバの耳」、とひとこと言いたいだけである。
そしてまた裸の王様はいつか恥じ入らねばならぬのである。

おっと、夢ですから支離滅裂なのですよ、と今回は言い訳かましてドロン。
また近いうちに。

ハッとしてグゥ

  • 2008年03月03日 (月)

ハッ、
と気がつけばもう三月。
久しぶりの更新。ピンボールの玉のようにあちらへこちらへと動き回っていたために、手ぶれで焦点の定まらない素人写真の如き心理状態でありました。と、言い訳かましていますね、はい。

書きたいことはある。ロス疑惑再燃、志布志冤罪事件捜査陣への表彰等々・・・。書くよ。ただし今日は、寝ます。

書く方もだが、読む方もずいぶんと堆積している。いきつけのブログにすら立ち寄れない今日この頃。
びんぼうヒマなし。やむをえまい。
と、また言い訳。

寝る。
グゥ。

毒を以って毒を制す

  • 2008年02月18日 (月)

ゆとり教育からの決別だそうな。
「あっちむいてホイ」「こっちむいてホイ」。
右往左往とも言う。
ともあれ学校教育がそのようなていたらくである以上、良識ある人々はなお一層家庭教育を大事にしていかねばならぬということだ。お上頼りはあてにならぬ。

ゆとり教育を受けた世代、いわゆる「ゆとり世代」が自信を喪失しているらしいなどという、出所の怪しげな記事をネット上で見かけたが、仮にそれが事実だとすれば、「もっと自信持っていいと思うよ」とひとこと言いたい。三つ子の魂百までと言うも、人の人生において、たかだか12年ばかりの学校教育なんてものは年経るごとに大した意味を持たなくなっていくとは言えなくもない。いささか暴論と言われるかもしれぬが、いい年になっても学校教育の影響下から脱しきれない大人がいたとしたら、その人は学校を「卒業」してからの長年月、よほど「勉強」しなかったと思ってよい。勉強と言っても、国語算数理科社会、とは限らない。言ってみれば、学校教育によって自分が如何に歪んでしまっていたのか、あるいは学校教育によって自分が如何に成長したのかということを、卒業してから何十年も経ったのちに実感出来るようになれば、ゆとり教育だろうが詰め込み教育だろうが大差ない。学校教育に関して熱心に議論する方々の中には、人の一生すべてが学校教育によって完全に方向づけられる、方向づけられてしまうと考えているかに思われる人も見かけないことはない。しかし、そうした人々にせよ、はたまた自分が「ゆとり世代」だと自虐的になる人にせよ、学校教育というものを過大に捉えてしまうという点では似たものを持っているように思われる。
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
人生を無為に過ごしてきた人というのは、すぐ見分けられる。それは、受けてきた教育が指標になるわけではない。たいていは「ことば」でそれと分かる。

「定義がはっきりしない冤罪というものをこの事件まで適用すると、無罪事件は全部冤罪になってしまう。裁判の結果、無罪になったケースととらえたい」

これはハトヤマとかいう今の法務大臣の発言の由だが、「ゆとり世代」まで待たずともこんな人間だっているのだ。そもそもゆとり世代がバカなのではなく、バカな奴がバカなのであり、ゆとり世代にだって恐らく(潜在的に)有能な人材は数多いと私は楽観している。

21世紀に入ってから、政治家の発言の中で「定義がはっきりしないのであるからして云々」というのがしばしば見受けられるようになった。定義、なんて言われると数学の授業で頭を悩ませたあの頃のことを思い出してしまって、「おお、なんて緻密な思考をする人であるのかああ!」と感心してしまう御仁もおられることと推測される。しかし、語義を研究したいというならともかく、人を相手に言葉を投げる以上は、その言葉の定義なんてものよりもそれがどのように相手に受け取られるかをまずは慮るというのが普通の人間というものだ。

「被告だった方々が不愉快な思いをされたなら、おわびしなければならない」

これまたハトヤマ法務大臣の言である。こういう人間が法治国家の重要な一角を占めていることを忘れてしまっては、日本に住むものとして賢明とは言い難い。
逮捕・勾留が「不愉快」程度のものなら、別段法律で縛りをかける必要などそもそもなかろう。こうした言葉は、それがどれほど深刻な打撃を人に与えるかを感得できず、感得しようともしない人ならずば決して出てこない類の言葉といえる。こういう人物が死刑の執行命令その他を出しているのだと思うだに暗い気持ちになる。

ここはひとつ、今後法務大臣に就任するものを選ぶにあたっては、選挙違反・脱税・収賄その他、何らかの容疑により捜査機関から徹底的かつ人格を無視した取調べを受けた人間を「適任者」と見なしてはどうだろうか。「そんな人間を大臣にしてよいのか!」と怒り出す人もおられようが、考えてもみたまえ。国民の代弁者たる政治家がいつのまにやら国家機関と一心同体になってしまっては、民主国家の看板は「偽装」に等しいではないか。
毒を持って毒を制す。

いっちょ、やってみませんか?
結句、「ゆとり世代」よりも「戦争を知らない世代」の方がよほど由々しき問題だと私は思っている。むろん私自身、「戦争を知らない世代」なのだが。

remember me!

  • 2008年02月12日 (火)

「いかん、このままでは尻切れとんぼの尻が完全に切れてしまう」と思いつつも、ブログ更新が今のところままならない。本は山積み、野ざらし状態。…いや、熟成中なのであった。あるよ。

老化現象か?

  • 2008年02月05日 (火)

ユングを読んでいるときはいつもそうなのだが、ユングの『アイオーン』を読み始めてからまたどうも夢の質が変わり始めた。夢の中で音楽が鳴ったり文章が朗読されたり、いろんな人物が(無言のまま)登場したりということはよくあるが、昨日のようにただのいめーじ、というかしんぼるだけが出てきたのは今まで記憶にない。ただしその持つ意味などまったく分からないんだが。

一息ついて昨日今日とUbuntuの例の翻訳をまた少しやっていた。なかなか捗らない。しかも今は長文の英文をわざわざ日本語に置き換えていくだけの気力の余裕もない。したがって前に訳していた分を確定しつつ、短文をチョコチョコやっている。「おお、カルマがぁ・・!」

今朝がた、「あ、これブログ用だわ」と思ったのだが、今になって内容が出てこない。老化現象だろうか(いや、ちがうハズ)。思い出したらまた後で書くとする。

迷走におわる

  • 2008年01月25日 (金)

正月休みに河合隼雄やユングやらを読み返していたが、そのうちの一冊がアンソニー・ストー著河合隼雄訳の『ユング』であった。ユングの人となりと思想とがコンパクトにまとめられている。そこにうかがえるストーのユングの思想に対する是々非々とした態度と、河合隼雄のストーに対するこれまた是々非々とした態度とが私にはとても好ましく思われた。そんなわけで今、ストーの本を何冊かポツポツと読んでいたが、ふとブログに書きつけておきたくなった。

『孤独』。
まだ読みかけではあるが、この本のテーマは人間にとって「孤独」がどのような意味を持つのか、ということらしい。どうやらストーはボウルビィやらフロイトやらサミュエル・ジョンソンやらを引照しつつ、「孤独」の肯定的側面を明らかにしていこうとしているらしい。ちなみに、空想を幼児的なものとし、また想像力に積極的評価を与えなかった(それどころか現実逃避とまで貶している)としてストーはフロイトを批判している。

フロイトは、現実世界が完全な満足感をもたらしうる、あるいはもたらすことができなければならないと考え、成熟した人間は、空想を完全に捨てることができるのが理想的と考えていたようである。(P110)

しかしこのあとにストーはこうも言う。

しかし彼は、きわめて現実的で頑固、そのうえ悲観的な人だったので、この理想が達成できるとは信じていなかった。

ここで私は「ストーさんってなんて公平なんだろう!」思わず笑ってしまった。
ちなみにフロイト自身がそうとは信じていなかったと断定する論拠をストーは明示していない。が、ここはひとまずストーを信頼しておこう(なにもかも調べ尽すことは私の手に余るのでね)。

何を書こうとしたのか忘れてしまった・・・。
書こうと思い立つまでの経緯ははっきりしてるのでそれだけ書いておこう。
えーと、『孤独』を読みつつ、昨年末から連載されて今日ついに完結した「蕩尽伝説」の「新たなるアニミズム」の21講を読み、そして「遠方からの手紙」の「 サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた」を読んだところで「ピンっ!」と来たのでした。蕩尽伝説にも遠方からの手紙にも「うんうん、そだそだ」となった理由を、『孤独』に絡めてまとめてみようとしたんだが、駄目でした。消化不良。

いずれ全然ちがった形で書くことになるだろうという予感。

ついでにメモ

西洋人は今日までオーストラリアの原住民、南北アメとリカの先住民族、アフリカやインドの住民たち、その他多くの集団に対して、ぞっとするほど残酷な仕打ちをしてきた。そして、西洋が絶え間なく発明を続けているという現実を考えると、人種差別や皆殺しが計画的には行われなくなった現代においてさえも、伝統的な集団がその場を追われることは、おそらく避けられないであろう。(前掲書 P108)

うーん
「アメリカン・グローバリズム」とやらもいずれ「奴隷貿易」や「アヘン戦争」みたいなニュアンスで語られる時代がくるのであろうか? どうだろ。

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句読点の妙味

  • 2008年01月23日 (水)

おおおおお。
>配当は、笑顔。
このフレーズにまずシビれててまたあとからあとから….

と、これをコメントとして投稿しようと思ったが、ブログの更新を兼ねて自分のところで書くことにした。
いや、ね、なんだか三日坊主という物の怪の気配を感じたもので。
「プレイナウペイレイターと、いつもニコニコ現金払い。」
ええ、そうです。あの「カフェ」ですよ。
どかんどっかんと大きいのを三発はくらった。これ、「爆笑」というのとは少しばかり違う(「俺」という導火線が湿気ってるだけかもしれないが)。こみ上げてくるが声にはならない笑い、体の内圧が「ごぉっ」と高まる笑い。笑いってのにもいろいろあんだな、と身体で感じたのは初めてのことかもしれない。
今日はこれにて。

落ちないばなし

  • 2008年01月16日 (水)

うかうかしているうちにボウズになってしまった。
三日坊主。
元日以来三日おきにブログを更新して辛うじて三日坊主のそしりを免れつつ密かに新記録達成を目指したもののあえなく挫折っ、ゼイゼイハアハア(息切れ)。
しくしく。

このところ、暇さえあればひたすら読み耽っているのでそんなことになる。読んでいるのは・・・いろいろ。本とネットの両方。本は今更ながらのユング・河合隼雄。「オカルト!」ですと? そうね、確かに飛躍した思考は随所にあるね。気持ちが悪いという人も多いでしょうや。したがってこれらはま、いわゆる「大人の読み物」ということにしときませう。清純な人たちはフロイトだけで我慢してね。俺もフロイトを読みたいのはやまやまなれど、いっぺんにあれもこれもは無理なので他日に期すとしよう。

本を読んでは感嘆し、余所のブログを読んではときにゲラゲラ、ときに粛然。結構充実した余暇を過しているのであります。新年早々は新聞を興味深い記事をけっこうたくさん見かけたのに(内田&鷲田先生とか立花隆とか)、このところ読むとこが無い。つまらん。

そういえば青森かどこかで起きた事件の被疑者が猟奇モノを沢山読んでいたとか新聞に出ていたが、モノ自体を取り上げてアレコレ憶測するのはやめてくれないもんだろうか。猟奇モノを読む(見る)ことと犯罪を実行することの間には、およそ越えがたい溝があるはず(たぶん)。むしろ考えるべきことの一つは、そのような(どのようなものかは知らん)越えがたい溝を何故いとも易々と越えて実行に移してしまうのかということではないのだろうか。むろん結論に辿り着くことは容易ではないだろうし、ひょっとするとそれは無理なのかもしれぬ。とはいえモノ自体に原因を求めてもあまり有益でない点では無駄さ加減に大差あるまい。因果律では捉えがたい(と見える)対象があるのなら、因果律を超えた物差しをそれにあてがってみるということは無駄ではないのではないかな? なんてことを考えつつ、どうやってオチをつけようかと四苦八苦。

ああ、オチ無い。

あったりまえじゃねえか

  • 2008年01月12日 (土)

防衛大臣のUFO発言をとりあげて「ごもっともごもっとも」と謂う新聞コラムを横目で眺め、年金記録問題がその後いっかな詳報されないことを訝しみつつ珈琲を啜る。一部というか大半のメディアはどうやら3月の公約”期限切れ”を待ちわびているのだろうな。頭も身体も金も使わずして記事が書けるのであればなんとも「効率の良いこと」であるのだろう。いいね、ほんと。浦山師

読み所のない新聞は打ち捨てて老子をぺらりぺらりと読み返す。ワクワクがときに惑惑となりつつもいろんな想念が湧く湧く。ただ手持ちの本の体裁がどうも気に入らぬ。白文書下し文現代語訳とひととおり揃えてあるものの見ていてどうもすっきりしない。たとえば、ひらがなを多用した書下し文はかえって読みづらい、と私は感じる。今ならひょっとするとネット上のどこかにお宝テキストが公開されているのかもしれないので捜してみようか。

ひとしきり老子を読んでから、なんとなく湯川秀樹の自伝を手に取る。『旅人』(角川文庫)。生い立ちから20歳代半ばまでの半自伝。中間子理論に行き着く直前の描写が妙に生々しく感じられたのは、それがそのまま「谷の時期」の描写であったからかも知れぬ。
湯川が引用していた言葉のひとつに目が留まる。

「一個の結晶は明皙である。結晶の破片の集りは、しかし不透明である」(マックス・ボルン)

ガタピシ鳴き声をあげがちな自分の頭の歯車に注油してもらっているような気分になる、なんということもない言葉の数々。下は湯川の言葉。

未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、できるのである。

「あったりまえじゃねえか」
いや、そのとおり。わかっちゃいるんだよ。

wikipediaに、ボルンの孫のひとりがオリビア・ニュートン・ジョンとあったがほんとうだろうか。

もてない男とモオツァルト

  • 2007年12月27日 (木)

小林秀雄の「モオツァルト」を探していたら、ふいと小谷野敦『もてない男 – 恋愛論を超えて』が目に留まった。大爆笑。もうぼちぼち10年ちかく前の本。なんでも10万部以上売れたのだそうだ。納得。
小谷野氏のブログでの毒舌ぶりは存じあげていたが、どうやらただの毒舌家ではなさそう。評論というよりも評論スタイルの・・・うう、なんだろ? しかしまあ、これを読んだあとに「モオツァルト」読むとね、なかなかオツなもんがあります。生物と無生物。

週末特番予告

  • 2007年12月15日 (土)
  • キーワードタグ: Ubuntu

自慢ではないがここ数日毎日更新している。
「よほど暇になったのかあ?」と思われるかたもいらっしゃるかもしれない。いえ、そうではありません。書くことがあるからです。そこに山があるからです。
ニュースを見ても不感症、なにか書こうとしても煮えきらないものばかり、というのでついつい更新が間遠になりがちですが、書くときは書くのです。

まあなにか新しいものに遭遇したときは何か感じたり考えたりすることが多くなるものです。少し前にちらりと書いたようにちょっとばかり所用でUbuntu日本語フォーラムというところに毎日通っておりまして、そこで何かと新しいことを見聞したわけです。そしてそこでの見聞、体験がちょうどここしばらく考えていたこととやけに結び付きたがる、というか触発されることが多かったのでそれについていまから書こうとしているわけです。

元来このブログではパソコン関係の話題に言及したことはほとんどありませんしこれからもそうそうないと思います。そららについて大した知識も興味もいまのところもちあわせがないものですから。とりわけ機器そのものについてはまず触れることはないでしょう。知らないことは書けるはずもありません。もしパソコンに関して何か書くとすればそれは、「パソコンを通じたコミュニケーション形態」とか「オープンソースの理念から得た着想」を開陳する程度のことでしょう。まあ「連想ゲーム」みたいなもんです。道具としてのパソコンについて当面の必要以上の興味関心は(少なくとも)いまのところないのです。

それでまあUbuntuというLinuxオペレーティングシステムをメインOSとして使い始めて約半年。Windowsの代替物ではなくそれよりもよいOSです、少なくとも私にとっては。世代や職業にもよるのでしょうが世間的には知っている人の方が少ないはずです。それどころか「OS(オペレーティングシステム)? なんじゃいそれは??」ってくらいのものではないでしょうか。その程度のものです。私もまた自分の目的さえ果たせるのならはっきり言ってそんなものは「なんでもいい」と思っております。
ただ、使わなければならないものならばせっかくだから自分の趣味に合うものを使いたい。そういうところからこのUbuntuというものを使い始めた次第です。

前説が思ったより長くなりました。あとは次に回しましょう。ということで次回、「あるOSについてのフォーラムに見た、ネット上のコミュニケーションとその可能性」といったことについて書いてみます。ただし、実際に何を書くかは、まだ書いていないので分かりません。ひょっとすると、まるで違うじゃないかとおっしゃりたくなることになるやもしれません。はたまたまったく何も書かないかもしれません。ちなみに「これについては後日」と締めておきながらその後まったく放置したことは何度もある。つかこのブログでは「後日」とは「この後」「明日」または「期日未定(気が向いたら)」ということをどうやら意味しています。
念のためお断りしておきますが私のこのブログは思いつきだけから構成されています。いや、そもそも構成などという「脈絡」もなければ一貫した主張なんてものもありません(文章のスタイルからしてごった煮状態です)。なにせすべて思いつきにすぎないんですからね。いちおそこんとこよろしく。

乞うご期待・・・いや、ほんとは期待はしないでねというのが本音だな。
本音じゃないけど嘘でもないってことは別に珍しいことではない(違いますか?)。

眠りたい夜に

  • 2007年12月12日 (水)

「眠れぬ夜に」というタイトルはだいぶ以前に使ってしまったので、なんかちがうかなどと思いながらも、ま、いいのだよ。

どうもこのところ寝つきがよろしくない。というのも布団の恋しい季節になって、いったんこれに入ったらもうぬるま湯風呂から出るに出られぬときのような気分になるんだが、どういうわけかそんな状況にあるときに限ってブログのネタを思いついてしまうのであった。たかがブログされどブログ。

「ま、べつにいいわい」とずっと放擲していたが、何日もそれが続くとどうもいよいよもう辛抱たまらなくなってしまったので今これを書いている。
あれもこれもといきたいがそれは無理なのでまず一つ。

日本語入力ソフトATOK X3をLinuxで使いたいというわけでこの一週間ほどフォーラムとやらに日参していた。私の使っているOSがUbuntuというやつで、Ubuntuフォーラムというのがいつのころからか知らないがあったらしい。その存在は知っていたけれどID登録しただけでほとんど覗いたことがなかった。アメリカの本家フォーラムは英語の上にとにかく投稿数が莫大なせいでちょっとばかり扱いにくい。その点日本版のフォーラムは小さくてよい。数もしれてる。それでも大変良い勉強になった、いろんな意味で(それについては後日)。

で、話は本題に移る。これもやはりLinuxにちなんだ話ではある。ご承知の通りLinuxはオープンソース、そしてOSとしてのLinuxは基本的にタダ(有償のものもあるそうな)。只タダただtada。タダより高いものはない、のか? 真相は如何に?? 

もちろんタダなんだから高くはないわな。

このタダのLinuxを使い始めてからというもの、自分が如何に「いと高貴なる消費者さま」として振る舞ってきていたのかが身に染みてよく分かった。いやもう反省しております。
つーかだれにも迷惑掛けてはいないんけどね。

そう、迷惑は掛けてなかったんだろう、たしかに代金は払ってたわけだし。

OSが起動しなけりゃメーカに電話して、「どないなっとんじゃ、こりゃあ、ぇえ、おどれ舐めとんか!!!」と凄みまくってサポートセンタのおねいちゃんは震える声で「あああの、お客様、電源コンセントは・・は、はいって・・・いえ、おはいりになっておられられられますでしょ(エクッ)・・ぅうか・・・(えーん)」

「なんじゃあ? コンセントだあ? ったりめえだろが、ほれこの通り・・・あ、抜けとったわ。んなこたどうでもいいんじゃ! 抜けんコンセントにせんかい、金払っとんじゃけぇの!! わかっとんかぁ、おい」

はたまたこんなことも。

「松坂牛っていうから買ったのにいったいなんなのよ、●●ってテレビで言ってたわよ、困るじゃないの。偽装よ偽装!」と詰め寄られ、答える社長は「えらいすんません。すんません。うちの従業員が勝手にやったことですねん。わしは知らへんかったんですわ、いやほんと。お取り替えしますさかいに許してつかーさい」「あら、もう食べちゃったわよ、もう。おいしかったわー。でもそれはそれ、偽装は偽装でしょ。偽装よ偽装。」

と、そんな「お客様」ももしかするといるかもしれない。

誤解なきようここで一言付け加えておかねばなるまい。いや、これらの会話は私の想像の産物にすぎません。私自身はサポートに電話を入れて解決法をお尋ねしたことはあるが、わけのわからないクレームを申し入れたことはかつて一度もない。
それはそれとして、不謹慎にも見える物言いはちと申し訳ないと思っているが、一つの例ですのであくまでもフィクションとして読んでくださいね。

もとへ。
それでもまあこれに類するクレームのたぐいはきっとある(と思う)。なにせ代金払ってるわけで。もちろん近年デフレデフレと言われながらもクレーム処理費用はしっかり乗っけてあるだろう。でないと作り手は割に合わぬ。儲けが出ぬ。株主がうるさい。

「ふつう」に慣れきってしまった消費者。私ももちろんそうだ。ふつうに買ってきてふつうにセットしてふつうにスイッチポン。するとふつうに映り、ふつうに走り、ふつうに動く。万一にでも映らない走らない動かないとでもなった日にはふつうにクレームがんがんがん。
いや、おそらく最後の「クレームがんがんがん」は決して普通じゃないんだろうが、少なくとも電話一本かければ普通にクレーム対応してくれるでしょ、フツー。怒鳴り返されることはなかろう、いまどき。消費者に怒鳴りたくとも怒鳴れぬのが今の消費社会。それがフツー。

パソコンだってそうだ。メーカからPC買ってきたらもうOSから年賀状ソフトからなにからなにまでセットされている。手順どおりにやればフツーに動く。動くはず。動かねばならぬ。

ところがLinuxは必ずしもそうでない。普通に動くのが一応フツーなんだけど時々上手くいかないことがある。無料OSのLinuxにはクレームを訴えることのできるサポートセンターなんてものはふつうはない。自分で解決法を探すかまたはフォーラムで教えを乞うのみ。

フォーラムはサポートセンターとは違う。たまたま知識のあるものが初学者を手取り足取り教え、いずれ成長した初学者が新たな初学者を迎える(先の日本版フォーラムがそうした方針のもとに運営されているのかどうかは知らない。違うのかもしれぬ)。

そんなフォーラムで私自身が使った「普通に動く」という言葉が、自分でも気づかぬままに「フツー」に慣れきっている自分自身を照らし出した。反省だけなら猿でもできる、か。反省。

冬が来た

  • 2007年12月11日 (火)

こっぴどく冷え込んだ午前中から一転、陽射しがいつになく気持ちの良い午後。人声ははるか彼方に聞こえるばかり、そのへんで猫が一人遊びをしている。いっぽうこちらは黙々と仕事をこなす。
夏場の太陽にはしばしば恨めしい思いを抱いたこともあったような気がするが、季節が変わると心も変わる。なんとも現金なはなし。
「そうだよ、おれあ現金だ」とでも言っとくか。
明日も顔を覗かせてくれよな、ぜひぜひ。

「冬ってものはさ、そんなポカポカいうんでなくてさあ、もっと・・・」
あーはいはい。
暖かさの有り難みを感じて初めて今が冬であることを実感できるのであーる。

あー、つぎ、告知。
ブックマークその他を整理しました.

いつものまにかリンクが切れていたサイトは削除、あらたに「観念の冒険」(白頭庵さんの別宅らしい)さんと「この門をくぐる・・・」(最近読んでる森見登美彦という作家さんの独り言めいたブログ)を追加。

ついでに「ラヂオ」に英国BBC放送を追加。メニューが豊富。仕事のお供にどうぞ。

ところでなんだかAnthyがえらいバカになってるんだが・・・なぜだ?

2007/12/12追記
森見さんのお名前を誤記しておりました。謹んで訂正します。

キリスト教にソロリソロリ

  • 2007年12月04日 (火)

だんだん冬らしくなってきた、などと南国人の私が言うと豪雪地帯の方々からは笑われてしまうだろうが、いやいや冷やっこくなってまいりやした。朝、布団から出るのがちとつらい。『地下室の手記』で暖機運転した上で『罪と罰』再読。ロシアにはネクラーソフという姓がほんとにあるのかい?ドストエフスキーさんよ。まさか訳者による意訳とは思えないのであるのだろうなぁ・・・。

この前この『罪と罰』を読んだのはいつだったかわからない。正直なところそれほど面白くは読めなくて中途でよしたので、読了日の記載がない。ところが今回はどういうわけか血湧き肉躍るほどの面白さ。全然活劇じゃないんだが。「カネなんてつまんねぇもんさ」と思っていそうなネクラ・・・、いやラスコリニコフ青年が金の亡者ばあさんを斧で一撃、スプラッタ。というところから始まるこの力作、たしかにこれあ歴史に残るよな。というかものすごくアクチュアルな物語、いまこそ読むべし罪と罰という感じでありました。

またここで感想を書き始めたら長くなるので今日は涙をのんでよしておく。が、この本を読んだ後ふいとトルストイとキリスト教が気になり始めて、手近な『光あるうちに光の中を歩め』を一読。むむむ。「固いよ、これ煮えてないぜ」と思ったらそのわけが巻末で詳しく解説されていた。なるほどそういうわけでしたか、と納得。それならばと手に取ったのがバイブル。はい、いまさらです。当分読むモノには不自由しない。人類の遺産万歳!といって私は清く正しく美しいと胸を張れる人間では全然ない。別に悪人でもないが。「二つよいとこさてないものよ(@河合隼雄)」。まるきり善人でもなけりゃ悪人でもない、ただのヒト。そんな俺でもバイブルはなかなか面白い。

なぜ聖書ではなくてバイブルと書くかといえば、べつにこの本を聖なる書物とは思っていないから。なにせ仏教徒。俺にとってはただの面白い本。しかしともかく面白い。ギャグはどこにもないみたいだが。

ととと、今日は日米関係について書いてみようと思っていたのにハナシの枕が長くなりすぎたので、近々。

しかしいいね、ATOK。快適々々。もちろんAnthy(オープンソースの日本語入力ソフトです)の方もボチボチと調教していきます。ワンタッチでATOKと切替えできたら便利なんだが・・・。

今日はこれにて。

戦い終わって日が暮れて

  • 2007年12月03日 (月)

あ~テステステス
ってしつこいね、俺も。

日本語入力との戦い(おおげさだな)はどうにか一段落。細かいところでまだまだ調整が要りそうだがどうやらまともに打てるようになった。今回の一件で必要に迫られて「日本語入力」やら「電子辞書」やらでネット検索しまくったことで、これはこれで奥の深い分野なのだと思い知らされた。

しょーもないニュースは相変わらず盛りだくさんだがブツクサ言うのもいいかげんイヤになったので無視。ブログのネタを思いつかないときにでも利用させてもらうとする。くだらんことは右から左にスルー。これ基本だよね。
しかしくだらんというかどうでもいいことというのか、そういうのはそれはそれで(なんか日本語ヘン?)ホッとしたりもする。つまらんニュースはお呼びでないが。

元来俺はエッセイというか身辺雑記みたいなものを読むのが好きで、本もそうだしブログもそう。PCの画面でカッチンコッチンな論文読むのは結構しんどいので、可能な限り本で読む。寝ながら読めるし。ときにはブログでも「おおお」と興味を惹かれるものには(一見)硬そうに見える文章もあるが、そういうのでもテーマそのものは硬派でも叙述の方は行ったり来たりしながらの思索の「散歩」という風情のものだと思わず読みたくなる。序論展開結論みたいな「論述」はやはり本で読む方がラク。なぜだろうね。目標地点目指して脇目もふらず必要なものだけを視野に入れてまっしぐらに進む論者について行くのがしんどいともいえるし、もしかするとエッセイとか「散歩」のほうは話者の顔が見えるような氣になれるからかもしれない。

そもそも顔が見えてこない文章てのは情報を伝達するという機能的な面では必要十分なのだろうが、たいていの場合おもしろみには欠ける。「顔が見える」というのは、単にその筆者との面識のあるなしや文字通りの「顔(肉体)」を知っているという意味ではなくて、文面から透けて見えてくる筆者の人間性というか特徴らしきもののことをここでは言っている。その顔が一向に見えてこない言葉というのはどうも言葉が軽くなるとでもいうのか、硬いけど軽いというのか、小さい、薄い、浅いような気がする(こともある)。そう思いながらもいざ己が書く文章は・・・という気もするが。

つまるところ、論述めいた演説だとか○○批判だとかもたまに面白いと思うことはあるものの、やはり俺は身辺雑記、どうでもいいハナシ、それがなに?というようなハナシ、裃を脱いだ寛いだハナシが好きなのだなあ。ま、そのくせ書いてるこたぁまるで反対のことばかしじゃねぇかよ、と言われればまぁ返す言葉はない。いや、ちょっとくらいは返したいけど。そもそも論述になってないもんばかしだし。
ごまめの歯ぎしり、か。これいいね。ブログタイトル変えようかな。

ふたを開けてみたら・・・

  • 2007年12月02日 (日)

前回に引き続きATOK x3 for Linuxについて。

この新版ATOKの売りのひとつが電子辞典との連携ということだった。これにはかなり魅力を感じた。WindowsでATOKを使っていて、国語辞典との連携はちょいちょいと言葉の意味を確認しながら書き進めるのにとても都合がよかった。また類語や類似表現を手軽にチェックできる連想変換辞書はこれまた重宝していた。この連想変換辞書に角川の類語辞典を追加すればこの機能がさらに強力になった。

ところが、だ。なんと今回の新版ATOKではこの連想変換には対応していないのだそうである。つまり角川類語辞典も使えない。

「ATOK x3 for Linuxと辞書・辞典類との対応表」

私は「電子辞典の連携」と聞いてこの機能も当然のように含まれているのだと速断してしまっていた。うかつだったと言われればその通りだが。この機能がない点については前回のLinux版ATOKリリースの際にもこれを惜しむ声が多かったとのことだが、今回も見送られたということだ。「なななんと!そりゃハナシが違うぜぇ」と言いたいところだが、発売前に見た情報のなかにはたしかに「連想変換機能はありません」とはアナウンスされていなかったように記憶しているので、こちらが勝手にそれが当然あるものと思いこみ、あるいは見落としていたのかもしれないということになろう。それにしても残念だ。魅力半減。むろん変換効率そのものは高いので無駄な買い物ではなかったが、脱ウィンドウズという私の目標はどうやら果たされずに終わりそうだ。正直なところを言えばちょいと恨めしい

なお、UbuntuにATOK x3 for Linuxをインストールするとシステム管理アプリケーションで不具合が生じます。回避法あり。詳細はUbuntuのフォーラムで。

ジャストさん、Linux版ATOKの次期リリースはいつになりますか?次回は是非この連想変換機能について前向きにご検討ください。よろしくおねがいします。頼みます。また買います。ぜひ!

Linuxに興味なければ読まないでください

  • 2007年12月01日 (土)

あーテステステス。

となりの客はよく柿食う客だ。

さてこの変換は一発でいけたがそのあと shift + enter の改行ができなかった(追記:ATOKの既定キーバインドではShift+Enterに対して「推測変換確定」が割り当てられていたためと後日判明。これを変更すればOKでした)、あと「ひらがな→英数」の切替えもキーボードの操作方法が分からない。仕方なくマウスで切り替え。

なんのことやらわからないですね、すいません。日本語入力ソフトのチェックをしてみました。昨日待望のATOK x3 for Linuxをいそいそとインストールしてみた。微妙。とはいえ入力ソフト自体を取っ替えたわけで、当初の戸惑いはやむをえまい。なにせ変換精度は抜群のATOK(比較対象はMS-IME、Anthyのみ)。

インストールも”LINUXのわりには”簡単。すんなりインストール。しかしそれもWinやMacとは比較できない、比較にならない。はっきり言って面倒(程度問題ですが)。おまえはなぜにそこまでしてLinuxなんて使うのだ?と問われれば返答に窮する。書き出せば長くなる。したがって今日は省略。

フリーウェアとしてのLinuxを使う以上は徹底すべきであって有償ソフトを使うなど邪道である、といわれれば「あいすいやせんねぇ」と答えるしかないのだが、日本語入力の効率性は私個人にとっては重要な要素なのでかんべんしてくれ。

充実した日本語入力を求めるんならMac使えよ、と言われればこれまた「あいすいやせん」だ。Macね、それもいいかもね。でもまあとりあえずLinuxで行ってみる予定。

というか今回ATOKの新版がリリースされていなかったらもうすでにLinuxとおさらばしていたかもしれない。わたしにとってのLinuxはその程度。「Linuxが使いたい」ではなくて「Linuxで使いたい」。まあ普通のPCユーザなら多かれ少なかれそんなものでは? つまりそういう人にとってみればOSなぞ道具、いや道具箱のひとつに過ぎないのだから。

私のPC人生における今回のLinuxとの再会はとってもタイミングがよかった。いじり始めて日本語入力に不満感じてぼやいていたらジャストシステムからうまいぐあいに新版が出ると発表された。驚喜。爾来二月余り。ようやく環境が整った。そのせいか昨夜はいくつも啓示を受けた。

てなわけでバリバリ書くとします。が、ここにUPするかは未定。ATOKについての気づきはUbuntuのフォーラムにでも書き付けるつもり。

むむむ。やはりキーバインドが・・・慣れないとなぁ。

以上のような経緯もあり、おそらく大した儲けは出ないだろうLinuxバージョンを出してくれたジャストシステムに感謝!よって広告する。

Just MyShop(ジャストシステム)上のバナーはアフィリエイト経由なので、「んな、せこいじゃねえか」という方はこちらでどうぞ。

ジャストシステム Atok x3 for Linux

なんにしろ選択肢が与えらる方が気分がいい。たとえ有償だろうがオープンソースの思想にそぐわなかろうがLinuxでもATOKが選択できるならそれに越したことは多分ない。

それにしても xfy上のATOKはいささか挙動が変だな・・・。

避けられたはずの「悲劇」

  • 2007年11月16日 (金)

ここしばらくずっと一冊の本を読みつづけていた。シェエラザード。今回読んだものはマルドリュスによる仏訳からの重訳。愚直なまでの逐語訳、というのがこのマルドリュス仏訳の特徴の由、私も生半可に意訳されたものよりよほど想像力をかきたてられていたかもしれぬ。
天女姫のおはなしは日本の昔話にもあったのではなかったか・・・。先日のドリフターズ金庫ではないが、話中話、話中話中話、話中話中話中話と入れ子になった物語が魅力的(詳細略)。というかドリフ・サブプライムのエントリ自体がこのシェエラザードの入れ子構造からの連想であった。その程度にはこの幻想世界に浸かっていた。重訳ではない、アラビア語原典から直接日本語に訳したものがあるらしい。 前嶋信次訳 アラビアン・ナイト 平凡社東洋文庫。これもいずれ読むとする。

翻って現実世界はあいもかわらず偽装と疑惑と銃撃事件。もういまの日本では至る所で銃声が響いている。いっそ拳銃所持解禁をでも検討してはいかがであるか >政府当局者殿。もしそれが不穏当だと仰るのなら相応の対応をとるべきだろうに、どうやらその気もないらしい。銃解禁は経済的には消費拡大につながるから歓迎すべきとでもいうのだらうか。それとも無法者をとっつかまえることに消極的にならざるを得ないご事情でも?このようなところで放言する輩がテロ(なんでもかでも「テロ」と呼ぶ風潮への皮肉も含む)に怯えて少しは大人しくなるだろうという目算であるのなら統治者としては頼もしいとも言えなくもないか。
しかし疑問は残る。
まあ考えすぎであろう、シェエラザードに惑溺した後遺症かもしれぬ。それはともかく、夢の持てない時代である。唯一持つことが許される夢は「金持ちになる」ことだけ、なのかね。

過ちを認めず誤りの存在そのものを認めないことによって、新たな悲劇が生じふたたび絶望の淵に突き落とされる人たちが生まれる。
嘘のようなほんとのハナシとやらは本当にあるのかもしれぬ。下に少しばかり引用を。「冤罪」の部分を入れ替えればかなり一般に通じる教訓ではなかろうか。
避けられたはずの悲劇は言葉本来の意味での「悲劇」ではない。人間の働きかけをまるで寄せつけないものだけが悲劇と呼ばれる」べきであり、そうでないものは単なる犯罪であり単なる怠慢であり単なる人災である。そう私は思う。

避けがたい冤罪というのは、実は少ない。ほとんどが避けられる冤罪なんです。それはシステムの問題です。初動捜査のちょっとしたミスがその後の捜査を狂わせたり、たった1人の人間が間違えを認めないがゆえに冤罪が起きてしまったりする。早い段階で間違いに気づいて、誰かが直せば、起きなくて済んだ冤罪はいっぱいある。冤罪はもっと少なくできるはずなんです。
周防正行インタビュー

ドリフターズとサブプライム

  • 2007年11月13日 (火)

無料で購読させてもらっている「田中宇の国際ニュース解説」を読んでいて、ふっとドリフターズのコントを思い浮かべた。以前は土曜夜八時といえばドドドリフの大爆笑が定番という時代が(たぶん)あって、ご多分に漏れず私もほとんど毎週家族と一緒に見ていた。本物に見せかけようとする意図がどこかにニョロリとはみ出しているようなセット(書き割り)ではなくて、文字通りどこから見ても「これはセットじゃぞ」と割り切っている、正直な書き割りを今はもうテレビではあまり見かけなくなった気がする。どれを見てもそれらしく本物らしく見せかけた、まるで●●のお菓子、××の惣菜のような本物風まがい物が溢れかえった21世紀初頭の日本。
まがい物であることを明示した書き割りがなんとなく懐かしい。

前置きが長くなった。

田中氏のメールマガジン、お題はサブプライムローン。アメリカで低所得者に貸し付けた高金利ローン債権をまるで正月の福袋のように詰め込んだ金融商品の化けの皮が剥がれかけているらしい。というよりも既に剥がれた化けの皮の下に何が潜んでいるのかを誰もが恐怖の面持ちで見守っているという状況らしい。
金融のことなどまるで知らない私は、田中氏の文章を読んで、「ま、てことはこれってドリフのウンコ入り金庫ばなしみたいなもんですかいの」と思ったわけであります。志村けんドロボウが必死に金庫を開けると中にはもう一つの金庫。これをまた必死に開けるとまた金庫。そしてこれをまた開けると・・・・金庫金庫金庫とあいなり、少しずつ小さくなってゆく金庫をいくつも開けてようやく手のひらにのる程度の小さな金庫をあけると、そこには・・・ウンコ。あれ~~。
みなさん覚えておられますか、この話?

住宅ローンはまあ庶民にも馴染みの深いもの。借りたカネには当然金利がかかって、返済するときにはそれだけでも結構な額になる。そしてときには返済が滞ることもある。すると矢の催促果ては競売。銀行を儲けさせて自らの手に残るものはなにもない。そういうこともある。

そして、庶民の債務不履行に金を賭ける人たちもいる。リスクが高けりゃ戻りも大きい。ハイリスクハイリターン。金融機関は庶民の借用書を小さな金庫に詰めてまとめて売却。そしてその金庫をもう一回り大きな金庫に入れてそれをさらに金の使い道に困るほどの大金融機関に売却。そしてその金庫はさらに・・・とつづく。金庫を売却するときには精密な数学を駆使、さらに格付け業者の手になる箱書を添付して一円でも高く売り飛ばす。頭の切れるひとたちが切れる頭を駆使して切ったはったの真剣勝負。

ところがどっこい金庫の中身がうんこに化けることもある。すなわち債務不履行。返済不能。人間誰でもウンコ出す。そしてローンに債務不履行はつきもの。あたりまえだよね。
もちろんそれを見越して精密に慎重に査定したはずであった。そこに金融技術の粋があった。しかしその技術では金庫の幅高さ重量容積材質塗装を細かく計測出来はしても、人間がいつ何時何分何秒に脱糞するかは計測できない。不意の到来する、計測不能のウンコを金庫というハコに入れることでこれを、計算可能な商品にしたもの、どうやらそれがサブプライムローンというもの。てかUBSGWにはそう見えている。入れ子になった金庫の中に何が入っているのかわからないまま右へ左へ売買ばいばいバイバイ。開けてビックリ玉手箱、か。クソ。

やはり金融というものは、地面から足が離れない野人にはコントに見えてしまうもののようだ。
おれはウンコするなら便所でやるよ。べつに金庫んなかにする気はないね。つか金庫なんてものはうちにはないんが。

むむ、かつての大恐慌についてもう少し調べてみたくなったぜ。

にわか拝金主義者のひとりごと

  • 2007年11月11日 (日)
  • キーワードタグ: Ubuntu

朝に晩に冷えこみを感じる今日このごろ。
昼間たまたま手に取った本のなかにノーマン・メイラーの『裸者と死者』があった(結局読まずじまいだったが)。背表紙を見て「おお、なんだか内田樹の『他者と死者』と似てるじゃない」と思って手に取ってみただけだった。メイラーといえば村上春樹が訳した(著者はM・ギルモア)『心臓を貫かれて』に名前が少し出てきたことを覚えているが、彼自身の著作を読んだことはまだない。そうか。亡くなったのか。ついさっきネットを泳いでいたらニュースが出ていた。そうか・・・。べつだん感慨深いというほどではないが、たまたまニュースを見る直前に手に取っていたので「おおお」と思ったのであります。

いま、「名前が少し出てきた」と書いたんだけれど、文としては少し変か。名前の一部が出てきた、わけではもちろんない。ノーマとかイラーとか。ま、あたりまえだよね。しかしフト、これってちょっとヘンだよねなどと思うことがある。とりわけ最近少しばかり学生時代を思い出して英文和訳なんてのをチョボチョボやっているのでそのようなことをちょくちょく考えたりする。

英文和訳なんてものは学生時代以後まるでやっていない。なにせ辞書ひくのがもう面倒なもんで。たまに和訳じゃなくて英文斜め読みくらいはすることもあったが、忘れている単語を一つ一つ辞書ひきひき英文を和文に置き換えるという七面倒くさいことはやらなかった。ましてや和文英訳なぞ。たぶん俺の英作文能力のピークは中学生時代。お笑いめさるな。これ多分ほんと。インターネットのイの字もなかった当時、ヨーロッパのどこかの(国名は忘却の彼方)中学生と数回手紙を交換した(先生からやらされただけだが)。海外文通てやつ。なもんで他愛のない近況をそれこそ辞書引き引き書き送ったことがあった。それが私の英作文能力の全盛期。以来進歩していない(はず)。向上心のない奴だってか?そうだよ。そうなんだよ。ほんとだよ。

で、現在の話に戻すと、いまUbuntuのマニュアルの翻訳を空き時間にチョボチョボやっている。翻訳といっても最終的な訳文を決定する権限はない、ただのsuggestionのみ。誰かが見ているのか参考にしてくれているのか呆れているのかは不明。べつだんそれで構わない。口の悪い奴に「自己満足、ケッ」といわれても、ま、反論はしない。ではなぜなにゆえそのようなことをやりはじめたかといえば、タダ乗りはやりたくないな、ということで。タダでいいから乗れよっていわれてんだから乗ってりゃいいんだろうが、そこはそれ、ほらヘソが横向いてっからね。

無料で利用できるlinuxディストリビューションUbuntu。べつに金銭を払わないかわりに働いて払えといわれたわけではない。そんなことは誰も言わない。ただ単に私が自分の出来るお手伝い(になっているかどうかはさておき)をやりたいなぁ、と私が思っているだけで。まあエエカッコして言えば、そのリネンにキョーメイしたとかなんとかかんとか・・・。
実際のところ、強いられるのは大嫌いだがお好きにどうぞといわれると「んじゃいっちょ」というところがたしかにある。細々とボソボソと英文和訳なぞやっていると結構楽しい。病みつきになりそうなくらい。ちなみにlaunchpadというところで作業してるんだが、訳文をアップロード(気分的には投稿)するとその都度カルマが貯まっていくのがけっこう嬉しい。功徳を積んでいると思えばそりゃあ気持ちいいぜ。あるいは「●●万円貯まる貯金箱!」につり銭貯めるような感じ(貯めたことはまだ、ない)。ちょっと欲望をくすぐられている、たしかにね。べつにカルマが貯まったからといって景品もらえるとはどこにも書いていないので出ないのだろう(あたりまえだよね)。でもいい。それがいい。かくして私はにわか「拝金主義者」になっている。数字への欲望。貨幣への偏愛。おお、なんだか気分が・・・。

今朝の気分は

  • 2007年11月03日 (土)

今朝の西日本新聞に佐賀で起こった警察官による集団暴行死事件に関して続報が出ていたようだ。イエロー・ペーパー風に言えば「衝撃的な証言のかずかず!」「おそるべき事実が発覚!!」などとなるだろう内容のよう。ネットでニュース検索してみるがまだヒットしないので引用することができないが、どうやら「適切な職務執行」とはほど遠い状況であったことを示唆する複数の証言が出てきたという。むろん新聞社による「証言の捏造」の恐れがないと断言することは私には出来ないのだが、私自身はといえば今回の事件にある種の既視感を感じている。
いまのところこの件についていろいろ考えて書いているいとまがないけれど、おそらく「佐賀」「警察官」、「暴行」あるいは「授産施設」などというキーワードで検索すればここ数時間のうちに当の記事がヒットするのではないだろうかと思う。
ともあれ今朝は、憂慮していた事態が日々着々と現実のものとなりつつあることに底知れない薄気味悪さを感じた朝でありました。

(20071104追記)「『急死男性、警官が殴打』、目撃者が証言…佐賀」(読売新聞)

(20071107追記)「佐賀・通所者急死 暴行証言 県警も把握 『不確か』調書取らず」(西日本新聞)

「佐賀県警が知的障害者死亡問題で再調査」(日刊スポーツ)

チンピラ資本主義の隆盛

  • 2007年10月30日 (火)

なんだかずいぶんとご無沙汰してしまっていた気がしているが、そうでもないか・・・。OSをバージョンアップしてからはxfy blog editorも快調きわまりない(書き手はそうでもないんだが)。7.04+JDK1.5の時はしばしば日本語入力に不具合を生じていたんだが7.10+JDK1.6の今は皆無。で、バシバシ書こうと目論んでいたが訳あってくすぶっていた(委細省略)。

また期限切れ食品だとか。これで何件目だ?しかしここまで立て続くと私はどうも食品会社の倫理観なんていう問題以外のところに目がいってしまう。報道を見ている限りでは、近年は似たような「事件」「不祥事」が集中豪雨的に生じているように見えるんだが、あまりにも似たような不祥事が立て続けに生じる(生じているように見える)要因は倫理観云々以前に報道のあり方そのものにありそうだ。

飲酒運転、教員不祥事、政治資金、食品不祥事・・・どれもこれもまるで一種の流行のようにわずか数ヶ月間の間にそれぞれ似たようなケースが次々に報道される傾向があるが、いっときするとパッタリ消え失せてしまう。たぶんそのどれも相変わらず起こっているはずなのだが。まるで洋服の流行のように現れては消えてゆく。いずれのケースでも声高に叫ばれるのが「倫理観」というやつ。露になった不祥事はそれが犯罪とまでは言えないときには大抵の場合「倫理観の欠如」として断罪される。

たしかに倫理観の欠如が当たらずとも遠からずと言えなくもなさそうだが、なにかにつけて倫理・倫理と叫ばれるわりには社会全体の倫理観はちっとも向上しているようには見えない。むしろ市民がお互いに監視しあい、糾弾しあい、そうしてお互いの信頼関係なぞもう望むべくもないような世相のようだ。もはや「倫理観の向上を!」という一見もっともらしい呼び声は、法も倫理もあてにならなくなりつつある社会が発する断末魔の悲鳴にすぎない。なぜならそこで叫ばれる「倫理観を!」という叫びは(多くの場合)自らに対してではなく他者に対して向けられており、そこで言われる「倫理観」はむしろ「おまえの非を認めんかい、コラ」という恫喝に等しいからだ。「まったくもう今の社会はどうなってんだ」「まったくあいつらは・・・」なんぞと言うばかり。誰もその倫理、人倫を自らに向けてぶつけようとはしない。本来自らの放埒を縛める(戒める)べき倫理は眼中になく、自分は善人だということを毛ほども疑わない人たちが「おまえたちのせいで・・・」と他者を責め苛んでいる。

むろんいずれの事件・不祥事も「あってはならないこと」ではあるのだろうが、けしからんけしからんと言うばかりで我が身を省みることがなければ、倫理なんてものはただ他者を責めるに役立つ道具にすぎなくなる。「けしからん」としつこく他者を責めることはそれ自体が倫理とは大きく隔たっているはずなのだが、これは私の誤解だろうか。

あれもだめ、これもだめ、それも犯罪、あれも犯罪、あ、それ倫理に反する道理に悖るとまあ他人を責めることにかけては飽くことを知らない。もはや病的なありさま。悪霊に取り憑かれたように他人ばかりを責める。犯罪なら司法にまかせておけばよかろうに。倫理というならまずは我が身を振り返ってみるのが先決だろうに。

と、ここまで書いてきてふと思う。
「おいおい、じゃあ俺自身はなにゆえこのようなことを書くのか」、と。結局他者を責めているのではないのか?と。
・・・・・・・
ああ、生煮えだな、こりゃ。
まあ、いっそここまで書いたんなら最後までこの調子で書いちまおう。悪しからず。

つまるところはそのような社会が当然必要とする莫大なコストは、めぐりめぐって社会全体が(つまり自分自身が)かぶらねばならなくなる。あたりまえだ。サラリーマンのちっぽけな賭け麻雀を取り締まり、迷走する精神薄弱者をよってたかって絞め殺し、商品の瑕疵を血眼で探し回り、擦り傷で今にも死にそうだとばかりに救急車を呼びつけ、平日は仕事だもんねと夜間救急病院でヨードチンキを塗ってもらい、ハレの催しで怪我すれば主催者を訴え、公園の遊具で突き指すれば役所を訴え、役所は湯水のように弁護士費用を支出し・・・・結局はすべて我が身に降りかかってくるわけだ。
いや、そんなことは誰でも分かっていることだ。ただ、掠め取れるものなら掠め取れ、あとは野となれ山となれ、みんなで割れば怖くない。掠め取ったものはすべて自分のもの、我慢は体に毒だよね、というわけだ。法だ倫理だと正論ぶっこきつつ、やってることはチンピラ同然。

これでいいのだ(@バカボンパパ)
チンピラが豪遊しようが産廃業者が儲かろうが不適切な摂待だろうが、彼らがあれもこれも消費してくれればくれるほど経済は好転する(らしい)。ソフトウェアはもっと効率的。バグだらけのソフトを販売し、ウィルスをバラまき、さあさお立ち会い、これなるは魔法の新バージョン、はたまたこれは完全無敵のウィルス撃退ソフト、さあ買った買った!の繰り返し.マッチにポンプでウっハウハ。

ばあちゃん、タンス預金は罪だとさ。倫理君は浪費しない。資本主義の敵。チンピラ万歳!収賄万歳!どうせ悪銭身につかず、そして社会に還流されてゆく、いいじゃねえか。
ということですかい?

神を殺した人間どもは右往左往するのももう時代遅れと言い募り、はては倫理という刃を弄びつつ阿呆踊りを始めてはやウン年。マッチとポンプは現代人の必需品。

どうやら知恵熱からボヤ気が生じたようで。おそまつ。

google trendsに見るUbuntuの急伸

  • 2007年10月27日 (土)
  • キーワードタグ: Ubuntu

仕事が一段落。そこでちょっと遊んでみた。

諸般の事情からメインOSをwindowsからUbuntuに替えて数ヶ月。ここのところ反ウィンドウズ的なことをしばしば書いた気もするが、私は「Ubuntu、使えますよ」とは言えるけれどべつにwindowsに敵意は持っていない(でも先日下されたマイクロソフトの独占的手法に対するEUの裁定には拍手喝采したけれどね)。実際のところ、メインで使っているPCのプライマリーハードディスク(特等席)には相変わらずwindowsが鎮座している。滅多に目覚めない王様状態なのだ。王様windowsは特等席でなければ承知しない(インストールできない)偏屈者であり”誇り高き存在としてPC内に君臨している。しかし、その点linuxは扱いやすい(柔軟性がある)。インストールに際して「俺様は特等席じゃなきゃ承知しない」なんて野暮なことも言わず、「わたくしはどこでも結構ですよ、はい」と上品に答えながらハードディスクのどこにでも座ってくれる(事実、linuxディストリビューションはハードディスクの空きパーティションならどこにでもインストールできる)。まさに紳士である。そうしてこの紳士は眠りこけた王様を横目に毎日せっせと私のために働いてくれているのである。偉い。
そんなわけで私自身も万一危急の際には王様がなにがしかの働きをしてくれるだろうという期待を(少しだけ)持ちつつ王様であり眠れる獅子であるwindowsにタダ飯(タダハードディスク)を喰わせているのだ。

こうして最近はlinuxのいいところばかりを取り上げてきたが、まだまだ至らぬところは少なくない。それらの欠点はむろんlinuxそのものの欠点と言うよりもそれをとりまく周辺機器やアプリケーションに起因するものであったり、あるいは私がlinux(Ubuntu)活用するだけのスキルを持たないと言った方がよいところもあるだろうが、その点はあらかじめお断りした上で私が日常使用しているUbuntuに即していくつか記しておきたい。

Ubuntu7.10とそのアプリケーション)を使うにあたっての難点(たぶん随時追加の予定)。
・PDFeditはまだ日本語に対応できていない。
pdfとして印刷出力は可能だが、ファイルにネーミングできない(OSが勝手に割り当てられたファイル名を後からリネームすることはできる)
・DRM (Digital Rights Management)に対応できない(多くの有料コンテンツにアクセスできない)。
・ノートPCでは挙動が安定しない。

総じて言えばwindowsほどには敷居が低いとは言い難い。一手間二手間必要だったりする。ただし、インターネット閲覧・メールのやりとり・ビジネス文書の作成くらいならば、それに関係するアプリケーションのインストールも含めて手軽に実行できるし、機能的にも既にwindows以上と言ってよいレベルに達していると私は思う。ただ、印刷機能の方は・・・どうだろうか。Ubuntuで年賀状印刷はちと手間かも。

linuxデスクトップOSの将来性は未知数だが、もしかすると今が一番使い頃なのかもしれない。どうも将来的にはアプリケーションの多くがweb上に用意されてそこで動かすようになり、結果として個々のPCに要求されるのはネット接続に必要最低限の機能だけになるだろうというはなしもある。そうとなればwindowsもlinuxもない。ただ、少なくとも現時点ではlinuxOSを使う利点は少なくない。そもそもwindowsの動作が重いといっても実際のところOS単体ならば結構キビキビ動くにもかかわらず、セキュリティ上の要請からウイルスハンターだとかノータンだとか(どちらも架空のものです)いう類のリソース食いのアプリケーションソフトの使用がそれこそデファクトスタンダード(?)化してしまっている。結局はニッチな存在でしかないからこそlinuxもその機能を発揮できているところなきにしもあらず、という気がしないわけではない。linuxデスクトップOSが仮に主流になるとすれば、これもまたつまらぬ(しかし必要な)ところに余計なリソースを費やすはめにならぬ保証はない。

おや、どうもしまりがなくなってきたか。

***

ここらでちょいと数字を引用してlinuxデスクトップOSの趨勢を見てみる。google trendsで遊んでみた結果です。主なlinuxディストリビューションがgoogleでどの程度話題(キーワード)になっているかというデータ。

ディストリビューション

薄青

debian

Ubuntu

suse

vine

fedora

[世界]all regions

他のディストリビューションが漸減傾向であるのにUbuntuだけが著しい増加傾向を示していることが一目瞭然。


[日本]

日本でもUbuntuが急伸中だが、fedoraが頑張っていて世界的傾向とかなり趣きを異にしている。下記のアメリカ・中国の趨勢と並べてみると面白い。日本での動きは他地域と比較してみるとかなり特異だが理由はなぜなのだろうか?


[アメリカ合衆国]

United States


[中国]China


以上google trendsでの検索結果

***

これ以外の国々についても検索できるが省略。
Ubuntu7.10に前後してさらにこのディストリビューションへの関心度が急激に高まっているようだ。データに見られるUbuntuの伸びも実際にUbuntuを使っている私としては納得、というところです。ご参考まで。

(追記)
ちなみにwindows,macとUbuntuの比較はこちら。linuxのうちでは突出しているUbuntuでさえwindowsとの差はいまだ歴然としている。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

私的linux事始メ 終話

  • 2007年10月23日 (火)
  • キーワードタグ: Ubuntu

私的linux事始メ 其ノ壱
私的linux事始メ 其ノ弐
のつづき。

ノートPC上でどちらも軽快に動作したvineとdebianのうちのどちらかを選ぶに際してポイントとなったのは無線LAN接続。有り体に言えば、(私の場合に限っては)vineでは無線LAN接続に成功したがdebianでは成功しなかった、ということ。それでしばらくはvineを使っていた.
しかし有線LANのデスクトップPCにどのディストリビューションを入れるかとなると話は変わる。軽快さと同時に扱いやすさ(既存環境からの移行の容易さ)とwindows環境との親和性(PC単体およびネットワーク接続)、これが私の判断基準だ。そんなこんなでいざデスクトップPCで試してみるディストリビューションにはUbuntuを選んだ。Ubuntuはdebian系。試してみるといかにもdebian系らしくとても軽快に動く。そしてwindows環境にもすんなりと応じていく。言ってみればvineの軽快さとsuseの親windows性を兼ね備えたディストリビューションというわけで、しばらくはデスクトップPCにてサブOS(メインはもちろんwindows)として働いていた。しばらく使っていくうちにその軽快さがたまらなくなった。しかし問題もあった。その多くは日本語入力に関するもの。webブラウザopera上で日本語入力ができなくなったりwindowsで作成したファイルをCDやDVDから読み込んだときにファイル名が文字化けする等々.その一つ一つをネットで調べるなどして解決していかねばならなかった.しかしそうした手間をかけてでも使いたくなる魅力がUbuntuにはあった。とはいえwindowsに慣れた身からすればそうしたいくつものトラブル(というよりlinuxの使い方を知らないために生じる壁)はやっかいではある。なにせたいていのことはアイコンクリックひとつでやってのける「windows体制」にどっぷり浸かっていたわけだから。

そしてどうやらUbuntuはlinuxの自由度の高さとwindowsの使いやすさ(GUI)を両立させる方向で開発が進んでいる.7.04から7.10になってその方向性が改めて明確になった.

このあとUbuntuとwindowsを比較しつつUbuntuの利点を述べたてるつもりだったが、どうも勢いがなくなってしまったのでひとまずここいらで。ついでながらノートPCの無線接続は無事成功!

少なくとももう私はwindowsを必要としない.遠からずUbuntuは現在のwindowsと比べてもまったく遜色ない使いやすさを実現するだろう.それはそう遠いことではないようだ.なにせ今ですらもう一手間かけることさえ厭わなければwindows以上の環境が手に入るのだ.linuxディストリビューションの多くが無料で配布されていることを理由にこれを勧めたりなどしない。windowsと同等かそれ以上のポテンシャルを持つOSであればこそ、これが多くの場合無料であることに驚いているだけだ。多くの人々が知恵と時間と金銭を自発的に出し合い、共有し合うことの成果がここにある。誰からも(陰に陽に)強制されたわけではない個々人の贈与・互酬関係は、あらゆることが金銭に結びつけられ金額に換算される当世においては貴重なユートピアとも思えてしまう昨今.

「対価を支払うのは当然だろ」
そうだろうとも。しかしその対価は必ずしも金銭である必要はないのじゃなかろうか、てのが私の実感なのだよね。

無理強いされるのは嫌いなのだよ.もしそれが自身の利益にかなうとしても嫌いなものはどこまでいってもやっぱり嫌いなのであった.そんな俺にもし何かを無理強いするってんのなら当然それなりの「対価」は払ってうよ.当然だろ!? 私は、「対価を払え」という要求に応えつつもときには「その要求に応える対価」を要求する者なのだ。

ひとに何かを要求する時は、自分自身がその返り血を浴び自分自身がその身を切られかねないという覚悟を持ってなけりゃあアホと言われても仕方がない.多かれ少なかれ皆アホなわけだが、アホはアホらしく節度を保つということがなくなっている。アホがアホのくせに他人に「あーせいこーせい」ってのはもっとも醜悪でもっとも害のあるものだ.これ以上醜くなりたくないからこそ俺も「アホらしく」してんだぜ。などと書くと「そうか、こいつアホか」と額面どおり受け取るアホもいそうだ。
そうじゃないだろ。たまには自分自身に向かって悪たれつけよ。悪たれを外にだけ向ける奴こそが文字通りの「アホ」だってことにいったいいつ気づくんだ?

しまった、また文末数行にかけて暴走しちまったよ。どうもいかん。いまから太陽光を浴びてくるとしよう.

私的linux事始メ 其ノ弐

  • 2007年10月23日 (火)

私的linux事始メ 其ノ壱
からのつづきを。
で、早速ですが。まず私が触手を伸ばしたディストリビューションがvine4.1。日本で開発が続けられていて、日本語環境が整っているというのが魅力であった。で、実際に使ってみると確かにその通り。linuxではアップデートや新しいアプリのインストール、LANの設定等々でターミナル(端末)からコマンドを打ち込むことがしばしばあるが、そのターミナルからしてしっかり日本語化が進んでいる。といってもコマンドそのものは日本語化不能であるからしてアルファベットで打ち込むしかないんだが。
あと、操作感は結構軽快。そんなこんなでしばらくvineを使ってみることにした。

linuxが一昔前から比べるとずいぶん進歩していることに気をよくして、試しにノートPCにもlinuxOSを入れてみることにした。vineでもよかったのだが、どうせなら違うものをと思ってノートではopenSUSE(10.2)を試してみることに。suseはドイツ発祥のディストリビューションで彼の地では最も有力なディストリビューションらしかった(novellに買収されてだいぶ状況が変わっているらしいが)。さすがに日本語環境は整っているとは言い難かったが、日本語で文書を作成するなどの作業はvineと同レベル。そもそも日本語入力ソフトはvineもsuseも同じanthyを使っていた。
linuxを使うに当たっての大きな問題は、特にノートPCの場合無線LANの設定にあるようで、これにはいささか苦労した。設定ファイルを追加したり変更したり、またそのためにどうしてもターミナルからコマンドを使ってファイル操作をしなければならなかったのでcp(ファイルのコピー)とかmv(同じく移動)とかそれぞれに必要なコマンドオプションとかを一つ一つネットで検索しながらの作業となった。windowsOSのようにカードを差し込んでCD挿入してスイッチポンとはいかなかった。この無線LANの設定は各自のネットワーク環境(固定アドレスかDHCPか、WEP暗号かWPA暗号化等々)によっても難易度が変わるし、無線LANカードのメーカー・型番、はてはその中身(チップ)にもよるのだそうだ。当然ここでもコマンド入力による操作が必須となる。多くの場合このあたりでlinux移行作戦は破綻すると思われる(私はいっとき挫折した)。このへん、カード・ベンダーが必要なドライバやファームウェアを提供してくれるだけでもかなり状況は改善されるはずだが、実際にはベンダーのlinux対応はなきに等しい(なぜなんだろう?)。そんなわけでノートPC(無線LAN環境)でのlinux移行は一大難事。とてもひとさまにはお進めできない。
ともあれ私はいったんとりかかったことは完遂せねば気が済まないタチなのでvineでもsuseでもなんとか無線LAN接続出来るところにたどり着くことが出来た。

openSUSEはwindowsOSからの移行派にとってはなかなか使いよかった。私の場合はもともとwindowsが入っているノートPCの空きパーティションにsuseをインストールして起動時にOSを選択するデュアルブート環境をつくったわけだが、suseはインストール時にwindows(NTFS)領域だろうとなんだろうと勝手に探知してそれなりの処置(suseからでも参照できるように)してくれた。またwindowsPCで構築したLANに接続するのに面倒な設定等はまったく必要なかった。vineではこれにだいぶん苦労させられて、やれsambaアプリケーションをインストールして設定して・・・と、これはもう投げ出したくなった(結局これも完遂したが)。
総じてsuseはPC単体としてもまたネットワーク環境にしても、既存のwindows環境との連携に必要な環境があらかじめ整っていて、これはvineとの大きな違いであった。
ただ、suseにもそのうち愛想をつかすことになった理由はその「重厚さ」。動作そのものがそもそも(感覚的には)vineよりも重い。もっともこれは性能充分のメモリやCPUの有無によっても違うだろうし、そもそも動作の軽重は個人の感覚なので「suseは重い」などと一般化して言うことは出来ない。私のケースで言えば重く感じた(ノートにもvineを入れて比較もした)。動作そのものは環境や感覚次第とも言えるが、もうひとつの重厚さがあった。それはアプリケーションの管理。suseではyast(スペルが違うかも)というアプリケーション管理ソフトを使うように推奨されてた(多分)が、これがどういうわけか重い。PCのスペック云々以前にこのソフトの設計自体が重い、というか要領が悪い。一言で言えば、リロードし過ぎ。ここぞというときにリロードすればいいものを、何か指示する度にリロードリロード。あきれた。
もちろん、yastを使わずとも同じ作業をやる方法はいくつかあるので別に問題でないといえば問題ではなかった。

ちなみにvineもsuseもどちらもレッドハット系のディストリビューションだそうだが、linuxOSには他にもいくつかの系統があるらしい。たとえばデビアン(debian)。vineを使い始めた頃にdebian(4.1)をちょっとだけ試してみたが、その動作の軽快さは非常に印象的だった。その点はvine以上のものがあった。このred hat系とdebian系とではディレクトリ(フォルダ)の配置が微妙に違う。したがってなにかアプリケーションをインストールする場合にはそれぞれに合わせた作業(パッケージ)が必要になる。そしてまた、無線LANの設定方法も微妙に違うというわけだ。悪夢は一度きりではなかった。
(つづく)

私的linux事始メ 其ノ壱

  • 2007年10月21日 (日)
  • キーワードタグ: Ubuntu

この週末、linuxOSの一つであるUbuntu7.10がリリースされたのでメインPCであるデスクトップ機のOSアップグレードを試みる。前のバージョン7.04からの変化はといえば、大きなところでは印刷データをpdfファイルとして出力できるようになった点(たいして大きくないね)、細かいところもあちらこちらと。このへん、ふつーのPCユーザーである私(PC歴7年くらい)にはうまく説明できないので省略。ま、一言で言えば、「外観はもうwindowsXPあたりと遜色ないね」。少なくとも私はもうウン万円も出してwindowsVISTAにアップグレードすることはナイ(と思う)。私がPCに求めるタスクの95パーセントは無料OSであるUbuntuで間に合うのだから、残り5パーセントのためにウン万円を投じるくらいならばその金でハードウェア(の一部)を更新するよ。

そもそも私のlinux遍歴は今から2、3年前に始まった。といっても当時試したlinux(lindowsとかturbolinuxだったと思う)は到底私の求める能力を備えていなかった。いや、能力はあったのかもしれないが、並のPCユーザーである私が、既に使い始めていたwindowsで作ったデータを読み込んだり加工することが出来るほどの扱いやすさはまだ当時のlinuxには備わってはいなかったので、結局はちょっと試してみただけでそれきりとなった。そのあと私が再びlinuxに目を向ける直接のきっかけは前にも書いたとおりVISTAの登場であった。

そうしてまあ遊び半分といった気分で、お蔵入りしていたPCを使っていくつかのlinuxディストリビューションをためし始めた。私の数年ぶりのlinux遍歴はまずvineから始まり、openSUSE、debian、Ubuntuへと移っていく。この間およそ半年。時間の浪費?そうだったかもしれない。しかしまあそれなりに甲斐はあった。それまで仕事でもプライベートでもwindowsだけを使っていた、ワープロ・表計算・データベース・インターネット閲覧・メールのやりとりが出来ればとりあえずOKという並のPCユーザー(コマンドラインなんて使ったこともない)がまがりなりにも脱windowsを果たすまでの経過を数回に分けて記しておく(予定)。もしそれを読んだ誰かおひとりでも「linuxも一回試してみよか」と思ってくださるようなことがあれば、書いてみる価値はあるかもしれない。
ただし不定期連載ということで。
それではまた。

さらば ビッグ・ビル

  • 2007年10月17日 (水)
  • キーワードタグ: Ubuntu

小生ここ半年ほど脱ウィンドウズOSを目指してリナックスを試しております。ひとくちにリナックスと言っても結構たくさんの種類(ディストリビューションというそうな)があります。fedora,openSUSE,centOS,red hat・・・。これらあまたあるlinuxディストリビューションの中から私が選択したのはUbuntuというOS。最新バージョンは7.04。来週には半年ぶりの新バージョン7.10が登場する予定とのこと(ベータ版公開中らしい)。

(追記)
10/18にUbuntu7.10リリース。
Ubuntu公式サイトの7.10リリースノート
日本語ローカライズドバージョンは10/19午前中にリリース(私はこちらを使用予定)。

これも前に書いたように、日本でのlinuxデスクトップ普及の鍵を握るのはatokだと私は密かに思っていますが、なんとも嬉しいことに開発元のジャストシステムがやってくれました。linuxOS向けのatok新バージョンatok x3 for linuxが発表されました。嬉嬉嬉。
Just MyShop(ジャストシステム)
最新の「ATOK 2007」と同じ機能を持ったLinux版の日本語入力システムが登場(ITpro)
これでいよいよ脱ウィンドウズ計画が新たな展開を迎えそう。私の場合、既に日常的に使用するのはウィンドウズではなくてUbuntuになっています。たまーにgyaoで映画を見るときとpdfファイルの編集をするときだけはやむなくウィンドウズを使いますが、それ以外ではもうほぼUbuntuで不足なし。てかUbuntuの軽快さに慣れてしまうともうウィンドウズのトロい動作に耐えられません。ましてウィンドウズをたまにしか起動しないもんだから、起動のたびにアンチウィルスソフトのアップデートやらなにやらでより一層トロくてもうダメ。「はよせんかいおいおいおい!」となる。相手が人間ならともかく、私は道具対しては要求が厳しいよ、うん。

以前この件について書いたときにUbuntuに不足を感じる点として動画の一部が再生できないこと・pdfファイルの編集機能が充実したアプリケーションソフトが見当たらないこと、日本語入力の物足りなさ、ファイルメーカー(データベースソフト)が動かせないこと、この四点を挙げましたが、linuxは着実に進歩している模様。

・一部動画ファイルの再生(windows media player向けの動画)
→gyaoがsilver light for linuxの採用を発表。
USENがSilverlight対応を表明、「GyaO」のMac対応も (internet watch)
・pdfファイルの編集
→PDFeditというアプリケーションの登場。
デスクトップで欠落していた機能を埋めるPDFedit(ITmedia)
・そして今回、atok新版の登場。しかもwindows向け最新版と同等だそうな。

そのようなわけで、着々と進む脱ウィンドウズ計画。ちなみにファイルメーカーはちょっと面倒な方法ながらUbuntu上で動かしております(Ubuntu上に作成した仮想ウィンドウズPCにファイルメーカーをインストール)。Ubuntu(linux)に移行するにあたって私がもっとも不満に思っていた日本語入力の問題はこれにて解決!あとはジャストシステムさんが継続的にリナックス版atokをリリースしてくれることを祈るのみ。

ともあれ近日中にリリースされるUbuntu7.10とatok x3 for linuxによって私のささやかな計画はほぼ達成されることが確実。

以下ビルへの手紙。
前略
ビルよ、今までありがとう。確かにウィンドウズにはお世話にもなった。こいつは最初のうちはそこそこウイやつではあったが次第次第に横着かましはじめて、やれ「もうハードディスクがいっぱいだわ、新しいの買ってよぉん」「ねぇん、もっとメモリちょうだい、ねえもっと」「あなた、もう寝ましょうよ(@筒井康隆)」などと次から次へとよくもまあ・・・。俺もついにvistaの推奨環境を一見してついに先が見えた。「こりゃあかんわ」とね。
個々人が自分の使いたいアプリケーションソフトによってメモリやハードディスクをグレードアップを迫られるってんならまあ分かる。しかしね、君のようなOSそのものがあれくれこれくれってのはそりゃ僭越ってぇもんだ。それでもまあどうしてもってんのならそれ相応のやり方ってのがあるんでないかい?価格をちっと控えめにするとかイロイロさ。もちろん商売は商売、そりゃ分かっちゃいる。

まあ、ビルよ、ウィンドウズに費したいくばくかの金銭と莫大な時間は返してくれるには及ばない。なろうことなら私とは縁のないPC業界というところで”健全な”競争に参加してくれればそれでもう充分だ。ひょっとして俺もその余沢にあずかることもあろうさ。たのむぜ。
草々

ジャストシステムさんに足を向けては眠れない。

樹海通信〜ひとことだけのはずが

  • 2007年10月16日 (火)

カフカ樹海も短篇エリアに入ってみるとけっこう見通しがきくなあ。ジャングルのような長篇エリアとはちと趣きが異なる。そこでちょっとばかり交信を試みることにした。

昨日ふとテレビに目をむけたらちょうど国会中継があっていた(いや、ま、たぶん樹海でも見ることができる衛星放送なんだろ、ハハ)。オタク防衛相が給油法案とやらで答弁に立っていた。しかめっ面の学級委員みたいな顔で「集団的自衛権の行使ってんならそれを証明していただきたい」とかなんとか言っていた。ムチャ言うよ。矛盾の塊みたいな安全保障政策(含む憲法)を作り上げたのは自民党なんだし、そんな矛盾だらけの政策に対する批判はこれまた論理的整合性なんかあるわけないんじゃないの。口先ばかりの論戦。しかしこれはなにも自民党に限った話でもなさそうだ。近年の国会論戦は見ていて面白くないもの。

べつに私も国会論議に面白み・エンターテイメントを求めるつもりはさらさらないが、一昔前の国会論戦は端から見ていてもけっこう楽しめるものがあった。老キツネと老タヌキとがトボけつつ韜晦しつつ化かし合っている様子は見ていて飽きることがなかった(ま、飽きるほど長くは見なかったんだが)。「歳費をもらっていながらのったりのったり何やってんだ!」と思わないでもなかったような気もするが、少なくとも当時の国会論戦は、楽しもうと思ってみれば楽しめた気がする。

今はどうか。
つまらない。
小学校の「帰りの会」で、もっともらしい(ラ・シ・イ)ことをくっちゃべって得々としている三角眼ぇした学級委員みたいなやつらばっかし。
「はんせーしてくださぁ〜い」
「しょうめいしてくださぁ〜い」
ひょっとすると「でべーと」(ああごめん「でぃべーと」ねハイハイハイハイすいませんね)とやらはああして憎々しげなツラをつくって嫌味たっぷりな口調でやるものなのだろう。「あぁーあ、おめーはな〜んも分かってねーんだな〜あオイ」と言いたげな品のない顔顔顔顔・・・。たぶん、そのようなやりとりと顔を長時間見たいなんて人はあまりいないのではなかろうか。私は見たくない。胸糞わりいもんでね。

いや、もちろん私とてまじめな議論を尽くしていただきたいものだとは思っている。
しかし、ね。それぞれ相異なるスタート地点に立った人たちが、議論を通じてそのどちらでもない新たな知見・政策・妥協点を見出していくという形での国会論戦というものは今のような党内独裁体制ではもう不可能になってしまったのであろうか。仮にそうだとすれば、単に相手をうちたおすばかりの「でべーと」や自説を押し通そうとするばかりの国会「論戦」がおもしろみのないものになっているのは蓋し当然か?

論戦でいまふと思い出した。
昨今の国会風景はかつて軍部が専横を極めた時期のそれと似ている(ような気がする)。いや、戦後生まれの私は戦前の国会風景をつぶさに知る者ではない。ちらりチラと映像を見たばかりにすぎない。もし、「おまえの言うことが正当だってんなら証明してみせよ!」というお方がおられるなら、ためしに一度ご自分でご覧になってみてくださいね。 「ハナシはそれからだ!!」ちょいと話が逸れかけた。で、まあ鹿爪らしい顔で大上段の構えから語りつつ、不都合な真実については「軍機であるから答えられぬ」でおしまい、そんなカンジ。いまならさしずめ「テロリスト!」。これ魔法の呪文ナリ。ナントカ防衛相の顔を見ていたら彼にはどうも軍服がお似合いである。あ、そういえば彼は元自衛隊制服組か。さもあらん。

当時は当時でそれなりに不満もあったような気がするが、なんだか懐かしく思えてきたタヌキ親父ども。ま、論戦の中味はいまもむかしも五十歩百歩なのだろうが、どうせ中味がおんなじならちったあ楽しめるほうが愚民の一人としてはアリガタイ。
「物事はもっと真剣に考えるべきである!」ですか?
そうです。そのとおりです。おっしゃるとおり。
でもつまらないものはつまらない。私はべつに国会で猿回しをやれともいわないし一発芸を披露してほしいとも言わないよ、わたしは。ただ、自ずと滲みでてくるユーモア・余裕なんてのが滅法好きってだけのことなんでね。例えて言えば、そうね、「冬のソナタ」のキム次長みたいな、ね。別になくとも困りはしない、無駄な、でも人間味という「味わい」を持っている人が少なくなった。たしかに「無駄はよくない」、そのとおり。しかし、「なにが無駄なのか」というところで私たちは極めて粗雑な思考をしてはいないか。もしやそうしたことを考えることが既に無駄なことだとでもいうのだろうか?

生存確認のために一言だけ、と思って書き始めたら結構長くなった。当初の案では、「福田康夫サブマリン内閣」のバサロ泳法は鈴木大地(鈴木宗男@新党大地ではないよ)の指導のたまものであるというところに落としこむはずだったのだが、なぜかキム次長になった。おそまつ。
昨日冬ソナ最終話を見たせいか・・・。これ、日本語吹替版はもうそれだけで改竄にあたるという確信を深めた。これもまた近いうちに書きます・・・書くはず、書くかも。
イジョウ、コウシンオワリ。

絶滅危惧種の「文学」?

  • 2007年10月03日 (水)

もーれつア太郎・・・・・・いえ、猛烈に眠い。
ギャグをとばす余裕もない。
「んならさっさと寝ればよし」などとはおっしゃいますな。なんだか今日は、書かねばならぬような気がするので、書く。
プスリ。プスリ。

と、こう書き出すとあとが続かなくなる。「そこまでして書くのなら、いつもとちがって少しは実になることでも書くのだろ?オイ(ヒッヒヒヒ)」と、「邪魔」が耳元でささやく声が聞こえる。「書いている私」が「書こうとする私」の言葉を検閲しジャマを始める。

悪霊退散!

行きつけの某Iブログのコメントが面白い。といっても記事によっては100件近くのコメントが寄せらるようなのでとても全部は読めないんだが。で、なにが面白いのかといえば、まず「ニート関連の記事」とか「格差問題」のたぐいの記事ではコメントが激増する。で、さらにその場合、若年者とおぼしきコメントが大半を占めているのだが、その「語法」に際だった特徴がある。それをひとことでいえば「2父ねる風」。語尾につく「 wwwww」とか「・・・思われ」なんていう一目瞭然のものは言うまでもないことだが(てか「wwwww」ってどういう意味なのかね)、一見すると普通のコメントのように見えるものもある。しかしそれらにしても「普通に見えることは見える」んだが(普通のってのもヘンだが)、ちょっと読んでみると「事実らしきもの」「それらしい単語」がズラズラズラズラと並んでいて(それゆえ当初は興味を惹かれる)、でもそれだけ。それらしき単語、記事内容に関連した事実らしきものが並列しているのみで、コメント筆者の思考とか選択とか判断とかがきれいにマスキングされてしまっている。つまるところは「それは正しい」「それ間違い」ということだけを言いたげなコメントというわけ。「私の考えでは・・・」というものではないので、読む気が失せる(私の場合はね)。むろん、「私の考えでは、あなたの記事は間違いだ」などとやってしまっては結局形は変えても中身は一緒になってしまう。すくなくとも自分の意見の論拠を明確にしなくては「単発屁」から脱せない。そしてその論拠はなにも客観的データである必要は必ずしもない(「論拠は全て客観的検証に耐えるものでなければならない」という暗黙の前提が存在する業界でもない限りはね)。エッセイの類に「論拠だ、論拠を示せ」というのは痴愚の弁なり(だってエッセイなんてその人の主観の表出にこそ価値があるんだし、論拠は「おれがそう思った」というところにあるのがそもそもの前提なのだ)。算数のテストでもないんだから別に正か誤か白か黒かの結論部分よりも、なぜ自分がそれを白と思うのか(あるいは黒と思うのか)、なぜ正しいと思うのかを語ってこそ他人をして読む気にさせるというものだ。そのようなわけで、あるいは論拠云々よりも結論そのものの正誤(白黒)が大切なのか、あるいは結論よりもそれへ至るまでの道筋をわかりやすく語ることが大切なのかということを、その具体的状況を勘案して使い分けることはけっこう大切なことのように私は思う。しかしどうやら現実には、論拠とは「データソース」のことらしい。「あの本にこう書いてあった」「あの人がこう言った」果ては「社会の常識」。誰もが納得しそうな客観的体裁をとった模範解答が欲しいらしい。しかし私に言わせればそんなものは論拠にならぬ(ことが多い)。そこらで言われるデータソースなんてものは大抵の場合検証がなされておらず、かつ既に加工済みの色つきデータなんだから。思うに論拠とは究極的には、論者がどのような前提に立って立論しているのかを示すものでなければならない。逆に言えば、それが見えない「論拠」は論拠とは到底言えぬ。それが客観的な論拠(データ)なのかあるいは主観的な論拠(思考の足場)なのかは二次的な問題なのだ。論者の足場が明確に見えるていのものであるならばそれが主観的な感情であってもあるいは勘違いであっても誤報であっても論拠としては既に十分といえる。くだくだしくなったが、論拠は客観データを示せば足りるものではないしそれに尽きるものでもない、ということ。んなもんは「自然科学という宗教」の教義の一つでは?

ちなみに当の池田氏は、かつて、その手の面白みのないコメントを発する読者を「ネットイナゴ」と命名されたらしい。当の文章に即した読解をせぬまま、重箱のすみをつつき回して、なにひとつ生産的なことはせぬまま記事を食い荒らしたあげくに去っていく姿はまさに蝗。

うかつなことを書くと蝗の群れを誘い出すことになるのやもしれぬので物騒なことは書くまい。もっとも、これ以上ないほど痩せた土地にスカスカの稲穂が実を結んでいるだけの我が田畑であるから、杞憂に過ぎないだろうが。

ともあれ、間違いだらけ、事実に反すること、虚構であることによってたつ「文学」が売れなくなったのは蓋し当然と言うべきかもしれない。
「そんなもん、くだらないファンタジーじゃねえか」、とね。

仮に、文章を全体としてではなく逐語的にしか読まない、読めなくなったのだとすれば文学なんてそう遠くないうちに絶滅するだろうね。文学を世界遺産に登録するという話はまだ耳にしたことがないけれども、近いうちにそうなるのかな?

いや、そもそもネットと文学とでは棲息する種がそもそも異なるのであろうか。誰か教えて。

ん、天に唾してしまったかもしれない。

(2007年10月4日一部改稿)

断コメント宣言について申し開き

  • 2007年09月25日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

断コメント宣言について申し開きをしておかねば、と思いたち筆を取る。
きっかけは「この夏最後の出稼ぎツアーコメント」というエントリに対する次のような私のコメント。

いつものことながら「腑に落ちる」おはなしでした。

ただ、「ある年代から上」(あるいは下)でその労働観に差異があるというのはいかがなものでしょうか。

むろん、なんらかの差異がない、とは思いませんけれど、ただ私の知る限り、小学生や中学生ですら「誰かの役に立っている」と感じた(ような)ときにはなんともいえぬ誇らしげなえもいわれぬいい顔を見せてくれます。ですから私などはそのような感覚(人の役に立つことに喜びを感じること)は人間に本来備わっているのではないかとも思っています。

ですので私はこのエントリが主に「ある年代から上」(たとえば文藝春秋の購読者層)に向けられてるのだろうと想定することでまたまた「腑に落ち」たのでした。

ある日突然解雇を通告され使い捨てにされる若い世代の労働観が、終身雇用を前提としたいままでのそれとは違うものになっているとしても不思議なこととは思えません。しかしそれは世代間の差異というよりも多分に彼らが受けてきた教育によるものではないでしょうか。だからといって「俺をこんなふうにしたのはどこのどいつだー!」なんてのは勘弁、ですが。

ここで私は内田氏がその「差異」を生来的なものであるとしているかのように書いているが、その実、エントリ本文を読めば明らかなように、内田氏も「成人」と「若い世代」の間に生来的な労働観の差異があるとは一言も述べておられない。むしろ、

それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。

として、労働観の差異が後天的なものだとしておられる。つまりはこの点で私の見解となんら変わるところはない。

したがって、「「ある年代から上」(あるいは下)でその労働観に差異がある」というのは明らかに私の誤読であった。

とまあ、断コメント宣言のいきさつはそんなことであります。

ついでにもう少し書き足しておく。

内田氏ご自身が文藝春秋special向けに書かれた一文は(媒体の読者層がそうであるところから推せば)おそらく「成人」向けに(つまり、それを読んで「そうなんだよな~今どきの若い連中はさ、ったく」と感想を漏らすであろう人々に向けて)書かれている。したがってその筆致は「若い世代」にとっては仮借のない、そして「成人」にとっては溜飲の下がるものになっている。
人を動かす文章とはえてしてそういうものだ。
相手の置かれている状況、思考の傾向性その他を勘案しつつ言葉を替えて相手にメッセージを伝える。ただ伝えるのみならず、相手が行動を起こすくらいに強いメッセージを放射する。
そうでなければ人は動かない。

実際のところ私の経験に徴すれば、「『自分の仕事』の境界線の外に生じたミスやトラブルを『自分の仕事』として引き受ける習慣がない」のは決して若い世代に限ったことではなく、もうあと数年で退職予定というような年配者にも(あるいは働き盛りの壮年者にも)しばしば見受けらることであった。

余談ながら、むしろ彼らのように、「今さらとやかく言われてもねぇ・・・」的な年配者は、そもそも「知らない」「習慣が身についていない」だけの若者よりもよほど始末におえない。現在・未来の自己変革に期待できる若者に希望は見出せるが、そうした一部の年配者にはもう未来がない。希望がない。どのように言い聞かせ、働きかけてももう動き出すことのないガラクタに等しい。
そしてそのようなガラクタをいまだに多数保存している最後の砦がおそらく公務員の世界だ。そしていずれ「成人の仕事」を為すことのなかった彼らさえもが他の同世代の人々と同様に、ときには退職手当債という名の借金を若い世代にしょいこませて退職金を満額支給され、ハッピーリタイアメントを迎える。

馬鹿なハナシである。

閑話休題

内田氏の文章は(ときどき)ある意味で政治的だ。挑発的ですらある。もちろんこれは否定的な評価ではなく、「人を動かす」(@D・カーネギー)言葉という意味であるが。そもそも八方美人的な文章は読むには(かろうじて)耐えることはあっても、決して人を動かすまでには至らない。

このエントリもまた、(その外見にもかかわらず)若い世代に対する「キミらこそは”まっとうな”成人になれよ」というメッセージに見えなくもない。私はそう思う。ま、誤読を重ねているかもしれないけどね。

書き終えてみていまひとつ「よっしゃよっしゃ」という気持ちが湧かないんだが、ひとまずこれにて。

profitとwage

  • 2007年09月23日 (日)

いま読みかけのスタインベック『怒りの葡萄』も残りあとわずか、佳境に入ってきた。農場経営の機械化・大規模化によって代々守ってきた土地を奪われた1930年代アメリカの農民たちをとりまく悲劇。
野人としては(ちょっとだけ)身につまされる思い。

ここしばらくスタインベックのほかにA・スミス、F・カフカ、M・ウェーバー、D・ポイカート等々、常時5、6冊の本を同時並行して読み進めているが、やはり古典と呼ばれ得る著作には計りしれない力を感じさせられる。というのもそれらを読んでいると、私の頭の中にいろんな想念が生まれ再喚起され、そしてそれらが戯れケンカしつついつのまにやらこの私にそろって「ここから出してくれ~」と懇願し始める。そう簡単には出してやれるものか。出ない出せない時間も(ちょっと)ない。

スミスを読んでいてふと思ったことが一つ。それはなにかといえば、いったい今私たちは何を求めているのか、ということ。
「金が欲しい」「給料上げてよ」「もっと生活が楽にならんかなぁ」

やっぱりカネだろうか?

何かといえばやれ「利益」やれ「コスト削減」・・・の時代。
ほんとうに「利益」とはカネのことなのか?「コスト削減」とは無駄ガネを削るということなのか?

スミスを読みながら、私は自分がこのあたりのことをちっとも考えてこなかったことに気づいた。そもそも私の興味の対象は歴史、文学、つまりは生粋の文系人間(アジモフなんかは楽しく読めるが)。経済に関してはまったくの門外漢。経済原論でマル経もチラ見したが覚えていることなどほとんどない。その上で私の疑問というやつを開陳してみる。

というか、「利益」「儲け」「利潤」「対価」「労賃」・・・と、カネに関していろんな言葉を思い浮かべることはできるのだが、実際のところ、「カネ」に関して今この世に流通している言葉の「意味」が私にはわからなくなった。というか今までろくろく考えていなかったことに気づいた。

手がかりはprofitとwage。
国富論は手持ちがなかったのでとりあえずインターネットでテキストを入手("The Project Gutenberg EBook of An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, by Adam Smith")して読み始め、まっさきに眼にとまったのがこの二語。
profit(利益)とwage(労賃)。日本語版でそれぞれなんと訳されているのかはまだ確認していないが。

果していま、わたしたちが「カネ」「金」という言葉を用いるとき、その意味(語義)はこの2語のどちらにヨリ近いのだろうか。そんなことを考え始めた。profit、wage、salary、これらはどれも計るとき、表現するときはいずれも「何円」「何ドル」というふうに区別なくいっしょくたにされてしまうのだが、ときには立ち止まってそれらの持つ意味、それらの違いをちょっとばかりでも考えてみた方がよいのではないか。もし人が、利益も労賃もサラリーも(あるいはこれに類するさまざまな言葉)すべてを単に、多い、少ない、高い、安いといったスケールでしか捉えられなくなっているとすれば、そこには意外に大きな問題が腰を据えているのかもしれない。

額に汗して得たwage、僥倖と(幾ばくかの知恵)によって得られたprofit、その間には金額の多寡以外の差異は誰にも見出せないものなのだろうか。

web版のウェブスターでprofitの項を見ていたら、Near Antonymsとしてcostとかlossとあった。利益の対義語は損失。うん、これには納得。
では、労賃(wageやsalary)に対義語はあるのか?類義語はあれども対義語はなさそうな気がする。

そんなとりとめのないおもいにふけりながら読書三昧の日々。

言わずと知れたこと

  • 2007年09月14日 (金)

言わずと知れたことながら、突然の辞意表明ではあった。遠からず辞職するであろうという点においては衆目の一致するところであったと思われるが、それにしても施政方針演説を行った直後というタイミングでの辞意表明を予測できた者は皆無に近いのではないか。もちろん私にとっても意想外であった。

今回の安倍首相の辞意表明に関してマスコミは相も変わらず惚けたことばかりを取り上げている。「前代未聞の辞任劇」「コソコソ病院に」「ぼっちゃんがポキッと折れた」「気まぐれ病」・・・。およそ下世話な話に終始している。むしろ大手メディアよりもネット上のマイナーなジャーナリストにこそ見るべきものが多い。いつものことではあるが。
米朝関係の急速な改善傾向やイラクからの米軍撤退計画、原油価格の高値更新にサブプライムローン問題等々、日本の経済・外交政策上重要と思われるトピックが安倍辞意表明の前後に立て続けに表に出てきているが、どうやら今回もまたまっとうな報道は(少なくとも大手メディアには)期待できぬようだ。「ポキッ」「支持率」云々。 辞める人間への支持率調べてどうすんだ?!

今回の騒動の中で私にも思うところ考えるところが多々あったものの、それについてはいずれおいおいと書くつもりでおります。野人はいま、落語でも聞くかSF小説でも読んでいたい気分なり。

それにしても今回のマスコミの報道ぶりは、「歴史に残る」・・・ことはまずあるまいが・・・・、少なくとも私の記憶にはしっかりと焼き付けられた。忘れることは出来まいよ。  政治家を罵倒するのも結構だが、彼らをその座につけたのは誰なのか、なぜ彼のような人物がそのようなポジションに就き得たのかというところに考えが及ばぬ限り、今後も似たようなことが繰り返されることは避けられまい(現に繰り返されている)。
むしろ安倍首相が「無能で」「空気の読めない」「総理としての資質を欠いた」人物であったとすれば、私たちはまさにそのことに感謝せねばならないのではなかろうか。もし”彼”が政治的カリスマ性と実務能力を備えた稀に見る政治家であったならば・・・と。
今のところ、そのような趣旨の言葉を私はマスメディアのどこにも見出せないでいる。そしてそのことに危惧の念を覚えなくも、ない。

そんなわけで今は落語でも聞いて笑い呆けることにしたいのでありました。

切なる願い

  • 2007年08月29日 (水)
  • キーワードタグ: ATOK

今日は辛気くさいタイトルで始めてみたが、なにも縷々心情を述べようというわけではありません。せいぜい我が欲望を一片ばかり開陳してみようかと。

以前もちょいと書いたのだが、  linux の日本語入力、も少しなんとかなりませんかね。
そもそもlinux使おうってもんが他力本願ではいかんのかもしれんのだが、おれっちの腕ではどうにもならんのだよな。
免許取ったらば、ほんのそこまでちょいとタバコってときでも車使っちゃうように、人間、楽しだしたらやめらんないんだな、これが。

日本語入力に関しては linuxではAnthy、windowsではATOKを使ってますがやはりどうにもATOKの便利さに慣れた身には linuxの日本語入力は正直言ってかったるい・・・。そりゃ、片やフリーソフト、片や有料。贅沢言えた義理ではないとは重々承知。それでもやっぱり欲しい・・・です。なんといっても辞書が、ね。連携が、ね。いいんだよね、ATOK。

linuxの機能には十二分に満足しつつも、画竜点睛を欠くのは日本語入力と言い切っては不躾すぎるだろうか。
日本に限らずお役所その他でのオープンソース利用が促進されはじめたものの、この日本語入力周りの物足りなさは大きな障害ではないか(とジャストシステムさんに取り縋ってみる)。欧文を入力する分には(当たり前のことながら)何の問題もない。しかし実際にlinuxをデスクトップ用途で使ってみて感じるのはやはり日本語入力機能の物足りなさでして、これが解決すればlinuxの普及は格段に進むはず。いや、ひょっとするとそれがなくても浸透してはいくのかもしれないし、ユーザーがそれなりに増えれば自然とフォローされていくのだろうが、ここはひとつ先手を打って新版 ATOK for Linux出しませんか、ジャストシステムさん?

windows版、 mac版から1世代も2世代も後れをとる旧版では・・・・やはり物足りなさすぎ。半年、いや一年遅れでもなんとか我慢します、是非ともlinux版ATOKを継続的にリリースして く だ さ い お ね が い で す。

いや、正直なはなし、日本でのlinuxデスクトップ普及の鍵は間違いなくジャストシステムが握ってる。と思うんだが、どうでしょ!?

以上、しがないPCユーザーUBSGWの切なる願い、でした。

ついでに予言。
向こう三年以内に官公庁・教育機関ではオープンソースがwindowsに取って代わる。

大量発注すればwinのライセンス料も大幅値引きで微々たるもの、linux導入のメリットも大したことないのかもしれないが、そうじゃなかろ。linuxがシェアを拡げれば windowsも値が下がって国民(私)は喜ぶ。(で、もしかしたらwindowsとヨリを戻すかも)。
それともmicrosoftの売り上げ減は景気悪化の原因にでもなるからだめだとでも言うのか?
そもそも競争原理信奉者なんでしょ?>お役所。
ぜひとも率先垂範されたし。

そんなわけで、
がんばれ  リナックス!
おねがい ジャストシステム!

どこまでも他力本願なUBSGW。

主観と客観

  • 2007年08月27日 (月)

「確たる根拠がない」
「それは空理空論だ」
「根拠を示せ」

この手の言葉は曲者である。

いつごろからのはなしか知らないが、「主観的」「客観的」という二つの語句を並べてみたときに後者をよしとする向きがある。かつてのわたし自身がまさにそうであった。その頃のことを思い出すことが最近とても多いので少しばかり書いてみようと思う。ただ、ここのところ他のことに気を奪われがちで、また独り言めいたことに終わりそうな気がするが、その点、あらかじめお断りしておきたい。

主観的な見方であれ客観的な見方であれ(ほんとうに客観的なものの見方ができればの話であるがそれはさておき)、そのいずれの見方もこれを他人様に伝えるとなるとこれがなかなか難しい。

どうやら昨今の流れを見ていると(主観的な物言いだなぁ)、客観的な言説はそれだけでもう既に説得力があって他人に明確にその主張するところが伝わるのだ、あるいは客観的な言説は客観的であるがゆえにそれ自体で既に価値のあるものだという含みが感じられることが非常に多い。極めて多い。それに対して主観的なものの見方というのはいささか旗色が悪い。「それはあなたの主観だ」とさえ言えばそれでもうまともな”反論”に見えてしまう。全くそのようなことはないにもかかわらず。もちろん良心的な人ならば「それはあなたの主観だ」という言葉のあとに「客観的な」データ・根拠を示すことによって当の主張が主観的だということをクールに示してくれることが多い。ところが中には「それはあなたの主観だ」と言うのみで終わる者も少なからずおられるが、そうした態度ははたから見れば、主観・客観のはるか以前に「他人に何かを伝える」「他人と何かを共有しよう」という大前提が見失われているようで余り説得力がない。

もちろんそうした「根拠がない言説は説得力に欠けますよね」という主張自体はそれなりに見るべきものがあると私は思うのだが、根拠がないという言葉だけで相手の主張を全否定できるものではあるまい。

アベさんではないけれども、ある事件に関して釈明するにあたり「証拠がないではないか」「そんなん言うのなら証拠出してみろや」という”反論”は、言葉自体は客観的(正確には客観風)であってもその実客観的ではない。また、証拠がない(見えない)以上は主観的なものだとも断定はできないだろう。つまりは主観だの客観だのという以前に既にコミュニケーションのあり方そのものに難がある。

「空」といえば「雲」と連想するがごとく客観性といえば学者・科学者という言葉が浮かぶ(はいはい、主観ですよコレ)。もし学者・科学者たちが客観客観と念仏を唱えるばかりで学者同士の討論・コミュニケーションによって学的真理を追求するという大目標を忘れてしまえばそんな学問には大した価値はなくなるのではないだろうか。もし彼ら科学者が客観性を重んじるのであるとすれば、それは客観的であることそのものが目的ではなく、客観的であることによってコミュニケーション・学者同士の切磋琢磨が可能になり、結果として学的真理に少しでも近づける蓋然性が高いからなのではなかろうか。つまり客観性というのは円滑なコミュニケーションを図るための方便であって、なにも「客観的」でさえあれば誰がどうやってもそのうち真理に近づけるというものではないのだろう。私自身はアカデミックなトレーニングを受けたことのある人間ではない、しかし何人か尊敬する学者がいる。そして彼らには共通点(もちろん私の主観ではある)があり、それは道具に踊らされていないということである。ここで言う道具には客観的手法(統計だとか史料だとかその他もろもろ)とやらも含んでいる。彼らは自分自身が抱える疑問を解明するためになら何でも使ってしまうような貪欲なところがある(私はそう感じている)。決して彼らは手段と目的とを混同しない。道具をいじることに熟達しさえすれば何か自分が真理というものに近づけるなどと考えてはいない。道具はどこまでも道具、そういう割り切りが彼らの文面からは透けて見える。

つまるところ、客観的な根拠をどれほど積み上げていったとしてもそれで何かが分かったことにはならないはずだ、そういうことを私はここで言いたかった。そういえば私が尊敬する歴史家の一人である阿部謹也は若き頃、その師上原専祿から「知るとはそれによって自分の中の何かが変わることである」と教えられたことをどこかで書いていた。
それによって自分の中の何かが変わる。私はこれを読んだとき、知ることとは自分が何かを失うかもしれないリスクというものを引き受けることでもあるのだと理解した。知ることとはおそらく単に知識を掻き集めることなどではない。知ること、すなわち単に「知識」などというありふれた言葉では言い表すことのできない或るものによって、ときにはなにがしかのものが得られまたあるときは何かが損なわれる、そういうことなのだろうと私は考えた。阿部は研究テーマの選択にあたって上原からこうも言われたという。「それをしなければ自分が生きてゆくことができないものを選べ」。
もしも学問が単に知識を掻き集める作業に過ぎないのならば上原の教えを実行することなど誰にも出来まい。しかしもちろん、分野によっては膨大な知識なくしては語ることを許されない学問もあるだろうし、微細な資料をコツコツと蒐集・整理する必要があったりもするだろう。そうした作業に生涯を捧げる覚悟が求められることも在るのだろう。言ってみれば捨て石・同僚の踏み台となる覚悟を要求される、とでもいえばよいだろうか。こうした地道なテーマもまた上原の言うそれをすることなしには生きてゆけないテーマであるということは充分にありうると私は思っている。

なに一つ賭けることなく、ただただデータを集めればそのうち何かがポッと出てくるほど学問は甘くはないだろうし、客観的でさえあればそれだけでもう何か一つのことを達成したなどとは到底言えまい。

思うに「はたしてこの見方は客観的であるか?」という懐疑の視線は他人に対して向けられるよりも自分自身に向けてこそ意味がある。しかしどうやら現実にはそれが他人に向けられることの方が多く、ときには「『客観的でない』という主観」が幅をきかせている。なにをかいはんや。客観性など見かけほど大したものではない(もちろん私の主観。他人に示すことのできるような根拠は皆無。)。
より客観的であることは望ましいこととはいえ、客観的でない・主観的なものを全否定できるほど絶対的なものではない。既成の価値観やいわれのないドグマに囚われていないかを常に自分に対して問いかける。そうしてこそ何か価値あるものが生まれてくる可能性が開けるのではないだろうか。

もちろんこれは私の主観である。おわり

(追記)
少しばかり時間を置いて読みかえしてみて、恥ずかしくなってきた。「客観」だとか「客観性」だとかに含ませた意味がかなり混乱してますね。そのあたりおいおい考えていくとします。余計なことは書くまい・・・

今日もタコツボ掘り

  • 2007年08月21日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

ひところに比べるとブログの更新もだいぶ間遠になってしまった。

飽きてきたのかといえば決してそうではなく、・・・・うーん・・・単に手持ちのネタ(それまで心ん中に堆積してたものの大部分)を吐き出し尽くして、さしあたり言うこともなくなったというところか。もちろん、いまだ言葉にできない諸々あるわけで(黒板純くん風)、むしろ「肝心なこと」ほど言葉にし難い。そんなわけで今はアンテナをあちらこちらへ向つつ、そちこちのブログを眺め、本を読み、そして申し訳ばかりの思索にふける毎日。そして時々おのれのブログに書き付けつつ、そこにおのずと浮かび上がってくる自分自身の思考態度に対して、飽き足らぬ思いが募ってくる。

「賑やかな此岸から人影疎らな対岸に跳び移る」

たぶんこれが俺の変わらぬ習性なのだろう。みんなで楽しくワイワイも、総出で喧々囂々(けんけんごうごう)侃々諤々(かんかんがくがく)も、一歩どころか二、三歩四歩五歩離れたところから眺めときたい。

冷静だとか客観的だとか言えばそれも悪くはなさそうだが、むしろ死んだ魚のような眼でテレビを眺めつづけるガキとさほど変わらない気もする。いい年こいたテレビっ子。テレビを見ないテレビっ子。賑やかな此岸よりも人気のない彼岸、いや対岸に行きたがる捻くれ小僧。ここはやはり彼岸ではなく対岸と書くべきだろう。なんでも反対野党と同じこと。俺にとって「彼岸」は死ぬまで辿り着けぬ約束の地。まさしく「お彼岸」。ナンマイダ。

ひとしきり自分自身を腑分けしてみて犬猫の轢死体をまじまじと見た気分に陥ったら、今度は様々な人たちの様々な発言を腑分けしては「此岸」と「対岸」とに分類して遊んでみよう。
上から物言う奴、下から物言う奴、対岸から「こっちに来ねぇやつらは馬鹿どもだ」と叫ぶ奴、此岸から「通説はそうではない」と澄ましている奴。もちろんは此岸と対岸との間を流れる川に架橋すべく一人で黙々作業を続ける者の姿もある。人さまざま。それはそれで人間どもらしい、か。しかし奇妙な者の姿も時々見かける。此岸にも対岸にも”同時に”顔を見せ(人間わざではない)、そのくせどちらに在っても自分自身の都合にあわせて此岸でもない対岸でもない「自分だけの世界」を作り上げて悦に入っている奴。アベ、アカギ・・・・・その他。

「証拠はない」「断定できない」

一国の首班としての自分に求められているのが価値判断なのかそれとも事実判断なのかすら”判断”できないのか、いや、それとも空とぼけて煙に巻いているのか。そりゃ判断能力がないとすれば馬鹿にもされよう、あるいは空とぼけているのなら誠実さを疑われて当然なのだろう。

「国会で与野党が議論したうえで今のルールがあり、ルールに従って対処することが大事」

「今のルール」=今の政治資金規制法
「ルールに従って」=ルール一般

「概念の混同」は無知の故か?いや、そんなはずはあるまいよ。なんせ彼は「東大卒」なのだそうで。それとも東大つーのはその程度のことも分からぬ奴を量産してるのかね。もしそうでないとすれば彼の行為は故意だろ?つまりは詭弁だよ。もしそうなら・・・(以下略)。
そりゃ馬鹿と鋏は使いよう。詭弁もときには有用だろうさ。しかしそればっかりじゃうんざりなんだよ。
対岸から彼らは叫ぶ。「おれはそっちの人間じゃないもねー、アッカンベぇ」。

「事実」とやらを一億兆個並べたとて対岸には渡れぬ。各々があちらがわでこちらがわで地面を掘り下げ、自慢の宝(事実)を並べ立てることもそれはそれで結構だろう。だが、タコツボ掘りだけではあまりに虚しい(もちろんそれがこの世に二つとない見事なタコツボなら見てみたい気もするが)。

安部も赤城も逝ってよし。

いや、そんなことはどうでもよい。

此岸と対岸との間に橋を架けること。

たぶんそれが必要なのだ。彼岸に近づくために。彼岸に打ち寄せられる前に。

そうでなければ生きている甲斐がない。

「そうだろ?俺」

なんだなんだ、またタコツボ掘っちまったよ・・・・。

夏の陽射しと死の静寂

  • 2007年08月18日 (土)

むうううううぅぅぅぅ・・・・・・暑い。
むうううううぁぁぁぁ・・・・・と暑い。

今日も暑かった。
日中のあまりの暑さにたまりかね、日がおちてからようやく一日が始まる。
そんなわけで、深夜1時を過ぎて気分はまだ宵の口である。もはやこの暑さ、クールビズ如きではどうにもなるまい。サマータイム、それも1時間、2時間などと半端なことはいわず昼夜逆転にでもしてはどうだ、と言いたくもなる。ま、そんなことすると電気の消費量も莫大なものになるのか。しかし、日中にエアコンばんばん焚くのもかなりのものになるのだろうな。

涼風を生み出すエアコンを「焚く」ってのも変な言い方だが、エアコンの室外機から吹き出す熱風のことを思えばまさにエアコンは「焚く」ものだという気がしてくる。生暖かいなんて生易しいものではない。まさしく熱風である。

「おらとこには寄らねでくんろ、あっちいけ」と熱を押し出し束の間の涼を得る。エアコンとはなんとも我がままなシロモノなり。そりゃ温暖化にもなるわな。
オフィスビルから押し出され、家庭からも押し出され、学校から車内から押し出された熱風よ、おまえはどこへゆく?
エンガチョ、エンガチョ。
寄るな触るな消えうせろ。

まあそういうわけで温暖化は当然なのだろう。とはいえ熱波で死者多数となれば冗談ではすまされぬ。
どうしたものか。
我慢できる者は我慢しちくり。工夫できる者は工夫しちくり。

というわけでひとり昼夜逆転生活を始めてみようかと夢想する今日このごろ。

山の麓の夏の夜。開け放った窓からは虫の声。
絶えることのない賑やかな虫の声を聞いているとよほど日中の方が静かだったことに気づく。そしてその静けさはとても暴力的だ。

熱風に  踏みつけられて  虫の息

なわけだが、日が落ちるとまたぞろ騒ぎ出す。

深夜のしじまに虫どものしたたかさが浮かび上がる。

事実と真実のスキマ

  • 2007年08月07日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

かつての私にとって、根拠の無い主観的・独断的な文章を読まされることははなはだしい苦痛であり難行苦行であった。したがってそのような文章は読まない、破棄する、無視することにしていた。独り言を延々と聴かされるのはたまらない。なぜ「たまらない」のかといえばそれは、書くことそのものや書いている自分自身に酔っているようにしか思えぬ書き手に敬意を感じることは難しく、またそれゆえその言に耳を傾けようなどという気が起こらないからである。敬意を向け得ぬ書き手の文章を読まされることはまさしく苦痛以外のなにものでもない。

しかしこれは逆説的にいってみれば、たとえある文章が一見して主観的・独断的な文章であるとしても、私がその書き手を尊敬し尊重できる限りで読むに耐え得るということになるのだろう。

もちろんこれは私一身に限ってのはなしではある。幸いなことに私は嫌いな文章、読むことが私に苦痛をもたらす文章をなにがあってもまなければならぬという立場にはいない。たとえば私が学者であったならば、毛嫌いしている他の学者が冗漫な文体で書いた、焦点のぼやけた長大な論文でさえも、同じ村(研究分野)の住人のものであれば全く読まずには済まされない場合もあるのだろう。なにせ批判(クリティーク)するにもまず読まねば始まるまい。「あいつ嫌い!」では済ますことは出来ないことを呪い、せいぜい自分の心のうちで彼が村から出て行って(この世から消えて)くれることを願うしかないのかもしれない。

ある意味、幸せな境遇だと言える(そして不幸だとも言える)。

しかし、この世にはクリティークを目的とした文章しか存在しないわけではない。否、むしろそうでないものの方がはるかに多く存在する。
それともこれは不当な断定だろうか。確かにいま私がなした断定には根拠が無い。あえてあるとすれば私の実感というしかなく、統計的手法も論理的必然性もない。反証可能性の有無でいえば、「まったく無い」。したがって公の論議には値しないというわけだが、私は断然そう言明する。「存在している」と。

長くなるのではなしを端折ることにする。

公の論議、学術的討議にはそぐわない文章(言説)であってもそれが「わたしの意見」「わたしの見解」と明示して表される限りでそれは公にされるだけの価値があると私は考えている。
こう言うと、「そんなことは当然だろ」と言われるかもしれないが、この私の言葉は「公にされる価値があるか否か」を問うものではなく私自身の見解の表明であって、こうした「一見解の表明」に対してそれが正しいとか間違っているとか反論されても困ってしまう。そして敢えて親切にも(これは決して皮肉ではない)反対の論をなすのならばまずは「私の見解はそうではない」という言明をなした上でその所論を述べていただきたいと思う。決して「定説はそうではない」とか「教科書に○○とある」とか「根拠を示せ」とは仰らないで頂きたい。なにせそんなものはもともと無いのだから、無い袖は振れぬ。語るのならあなたの所論を語ってほしい。正解など要らないのだから。

ここまでのことを短くいえば、
それが個人名の元に(つまりは個人的見解であることを明示して)なされる言説であるならば、それに対する反論はまずなによりも先にその言説(見解)が個人的見解であるという「事実」を受け入れた上でなされるべきではないか、ということだ。

ここで問題となってくるのは、その個人的言説がどのような媒体に載っているかということかもしれぬ。その媒体がたとえば新聞のように「公平・客観」をいちおうの旗印にしているものである場合、そこで表明される言説は「個人」の名が示されてたとしても「公平・客観」な”公器”の為すものに見えてしまいがちである。それ故、新聞社・マスコミあたりが「断定」を避けたがることもうなずけないことはない。しかしながらマスコミが個人的見解の表明を避けたくなる要因は、彼らがつねづね「公平・客観」を売り物にしているところから来ているのであって(これまた不当な断定だろうか)、はっきり言えばマスコミの一身上の都合であるに過ぎない。つまり、マスコミが被傭者ならぬフリーの書き手に、「おらとこの都合にあわせてくれろ」というのは、その良否はともかく当然のことと言える。大言壮語は我が身を縛るのである。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。自縄自縛。自縄自爆!。

例のごとく話が逸れてきたようだ。これまた大言壮語と言うべきか。

確かに「不当な断定」は避けるべきである。しかし「断定が不当」であるわけではない。

断定的にしか語り得ぬことは少なくない。客観的根拠を示すことが出来なくとも敢えて断定的に語るしかないこともある。表現の冗漫さや曖昧さが文章の存在価値そのものを無に帰さしめるであろうとき、語ることをやめるか、それとも「不当な断定」という非難を甘んじて受けるかを選ぶ自由くらいは書き手に残されて然るべきだろう。

最後に。
これを書くにあたって内田ブログに自分が書きこんだコメントを読みかえしつつ改めて思ったことがひとつ。
右寄り政治家は「事実」「証拠」が大好きらしい。しかし「事実」「真実」を語るにあたって客観性を過度に重視する危険性というのがあるのではないだろうか。「証拠は無い」「事実かどうか断定できない」という物言いはいかにも客観性を重視しているようにも見えるが、彼らの為すべき仕事は「客観的事実」を究明することではさらさらなく、事実関係の曖昧さを乗り越えて難事を片付け、事を処理することであるはずだ。「それは不当な断定である」という批判は甘んじて受けよう。それでも私は繰り返して言う。それはあなたの仕事では無い、と。

当初の予想通り冗漫な文章になってしまいました。こんなダラダラした文章、さすがに他人様のブログには書き込めないわな。

opera on Ubuntu7.04 快調

  • 2007年07月31日 (火)
  • キーワードタグ: Ubuntu

参院選も終わり、首相退陣論がかまびすしいようですね。まさか純チャン再登板?しかし今回は政治がらみの話題は控えるとします。政治関係の話題を扱った後はなんとなく気分がよくないと以前書きましたが、それはいまこうして書いている文章の語尾に表れているのかもしれません。ま、それはまたいずれ。

話かわって、
ひそかにwindowsからlinuxへの乗り換えを図っている私ですが、インターネット閲覧とメールに関してはlinuxに完全移行しました。linuxへの移行は正解!windowsとlinux(Ubuntu7.04)を同じPCにインストールして適宜どちらかを起動するデュアルブート環境ですのでハードウェアの条件は全く同じというわけですが、ことインターネット閲覧・メールに関しては明らかにlinuxの方がストレスなく使えています。

ブラウザはopera9(時々firefox)、メーラーはthunderbird2を使っています。ふたつともwindows環境でも使っていましたが、動作は明らかにlinux版のほうが早い!とくにメール(thunderbird)は断然早いです。

私の環境においてoperaの一部動作(日本語入力辺り)が不安定だと以前書いていましたが、この点は無事解消できました。原因はQtとやらにあったようです。Cross-Platform Rich Client Development Frameworkとかいう仕組みだそうですが、並のPCユーザーである私にはよくわかりません。ともあれQt関係のパッケージをテキトーにインストールし(あと、operaデフォルトキーバインドのshift-spaceがanthyのそれと干渉するのでoperaの方のを削除)たところ、operaは極めて快調です。windows版operaよりも軽快に使えています。

(参考サイト)How to get Flash working in Opera 9.20

総じてwindowsよりもlinuxのほうが私には便利。音楽を聞きながらブラウザタブを5、6個開いたうえにxfyを動かしつつthunderbirdでメールをチェックなどとあれもこれも動かしても動作が重くなるということがありません。windowsなら・・・・、でしょう?まあメモリを1、2ギガバイトも積んでたら問題ないのかもしれませんが。ハードウェアが同一なら明らかにlinuxのほうがリソースを有効活用できるようですね。

とはいえ、不都合もいくつか。
windows media player向けのストリーミングは再生不能(どうにかすれば出来るのかもしれませんが)、動画サイトgyaoとかは見ることができません。you tubeとかの動画共有サイトなら普通に閲覧できますが。

日本語環境もwindowsと比較すればちょっとばかり不便。ATOKのlinux版はwindows版のそれよりも1世代、2世代遅れてますし。類語辞典が使えないのは苦しい。

いやまあ、このようなことは知っている人にはあたりまえのことなのでしょうが、初心者の私としては「なかなかやるじゃないの~」というところです。

確かに大勢を占めているwindowsを使ってさえいれば何の問題もないといえばないわけですが・・・。
しかし、私はどうも一企業の製品にまるまる依存するというのが気に入らないものですからね。そういえば来月あたりUbuntuの新版が登場する予定のはず。いまから楽しみではあります。

もっとも、私の場合はいまのところwindowsから完全に脱却するのは難しいのも事実です。今までにfile makerで作ってきたデータベースとか、通常adobe acrobatで作成・管理する新聞スクラップなどではwindows向けのアプリケーションソフトを使わざるを得ません。もちろん、linuxでなにもかもwindows並に実現できるほどの知識技術と技術があればよいのでしょうが。

なにごとによらずalternativeがあるってのはそれだけでも精神衛生上よろしいわけで。政治だってそうでしょ!?

ああ、でもalternativeといえば既にMacがありましたね。使ったことないなぁ。こちらもそのうち試してみよう。

いい調子じゃないか、xfy

  • 2007年07月26日 (木)
  • キーワードタグ: Ubuntu

毎度のことながら政治がらみのことを書いたあとはなんとなし気分がわるい。単に私の表現のしかたが適切でないだけのことなのかもしれないが、このテのはなしは言わずもがなのことをくどくど述べつらねているような気がして後味がよくない。ま、ともかく政治のことは忘れてしまうとしよう、いつものように。

Ubuntu7上のxfy blog editor は少しづつではあるけれど安定して動き始めた。文字が見にくいという問題はようやく解決。どうやらJDKのデフォルトフォント設定ではsazanamiフォントになっているがこれがどうも私の目には合わなかったようで、IPAフォントに変更することでかなり見やすくなった。おかげで筆(キー)が軽い。久しぶりの一日二エントリ投稿。フォント設定変更の参考にさせていただいた「Ubuntu日記」さんに感謝したい。
ときどき日本語入力が受け付けられなくなる(xfyを再起動すればいちおう回復するが)問題もこの調子でゆけば遠からず解決できるだろうと期待{Ubuntu7.10へアップグレードし、同時にJDKも6にアップグレードして以降、日本語入力もまったく問題なく行えています}。operaでもときどき入力に問題が生じるところからして、そもそもこの問題はxfyとは関係なさそうだ。

しかし暑かったですね、今日も。体の内側から煮えそうでした○

試験投稿テステステス

  • 2007年07月25日 (水)
  • キーワードタグ: Linux

今回はなんのヒネリも芸もない、文字どおりテスト投稿です。もしも(わたくしと同様)羊頭狗肉は大嫌いだとおっしゃる方はどうかスルーしてくださいませ。このエントリは狗頭狗肉です!

ダメもとでxfy blog editorの新しいバージョン(ver.1.5)を試してみる。OSはUbuntu7.04。

過去の経験上、どうやらインストールの成否を握るのは
「Java 2 Platform Standard Edition(J2SE) 5.0 Update 10 以降」らしいのだが、今回はこれをOS付属のパッケージ管理ソフトからインストール。

Sun Java(TM) Development Kit (JDK) 5.0
ちなみにバージョンは1.5.0-11。

JDKのインストール完了後、xfyを起動。blog管理設定までは問題なく終了。しかしいざ記事を書こうとするところでつまづく。タイトル・本文とも入力できず。

そこでJDK5.0をアンインストールした上で6.0に上げてみるが今度はxfyそのものが起動せず。そこでまた5.0に戻すことにし、その際に5.0周辺のパッケージを手当たり次第にインストールしてみる(ただしsun-java5-docだけはインストール中にエラーが出たので外すことに)。で、どうやらインストール完了。    

OK.
入力画面のフォントが見づらいがなんとか入力はできている。が、果たして無事投稿できるだろうか・・・。

そんなわけで今エントリは(予告どおり)ただの試験とメモでした。

追伸
今朝、自民党の参議院「敗北宣言」の新聞記事を読んですこしガッカリ。このブログのネタにするつもりだったのだが・・・。

linuxのブログエディタで試し書き(泣)

  • 2007年07月24日 (火)
  • キーワードタグ: Linux

ブログエディタxfyがバージョンアップしたらしい。
windows上ではxfyを有難く使わせていただいているのだが、linux版xfyはわたしが使っているディストリビューション上では相変わらず動いてくれない。xfyのバージョンアップに期待していたが、今回もわたしの望むかたちでの改良は見送られたようで至極残念。
とはいえ更新せぬまま4日も5日も放置はできぬ。おてんとさまが許しちゃくれまい。

なにより、いつもたらされるかもわからぬ朗報を座して待つほど私は気長ではない(むしろ短いと断言すべきか?)。そんなわたしであるからここらで浮気を試みた。linux版のブログエディタを試してみる。
いくつか試した中で使えそうなのが出てきた。

bloGTK1.1
synaptic(アプリケーションマネージャのことね)であっというまにインストール完了。

ちゃかちゃかと文章入力完了(「anthy、もっともっと賢くなってくれたまぇ!)。
で、プレビューしてみるが日本語が文字化けしてるではないか・・・。そういえばseesaaブログの文字コードはshift-JISだったはず。こんなところでローカルコードの悲哀を味わう(?)

ま、とにかく投稿してみるとする。
奇妙な文字・記号がずらずらと表示されていたら文字コードが原因の文字化けだとご了解ください。
って、文字化けしてたらこのお詫びすら読んでいただけないのか・・・。ま、とにかくup。

プッシュ、投稿!!

・・・・
投稿失敗。文字化けの嵐。
しかたない、ブラウザから再投稿せねば。と思ったらこちらも挙動がおかしい。本文をやっとこ書き上げてタイトルを書き込んだ途端にブラウザがおちる。おちる。何度も落ちる(泣)その都度いちから書き直し。
今度はブラウザ(マイナーなopera)の不具合らしい(泣泣)。

しっかりしているようでいて未だどこか頼りないlinuxに翻弄されているUBSGW・・・。
好んで脇道を歩いてしまう者の宿命なのだろう、これが。

いいもんね、これで。

七月のメモ

  • 2007年07月17日 (火)

まるで文章が出てこない。
どういうわけだろうか。暑さ?ちがうな。

このところずっとその調子ではかどらず、軽い本ばかり読み返している。まともな文章がかけないのでリストアップしてみる。

松永市郎『思い出のネイビーブルー』
ゲーテ『詩と真実(第四部)』
城山三郎・佐高信『男たちの流儀』
藤枝静男『凶徒津田三蔵』
三好徹『まむしの周六~萬朝報物語』

なんの脈絡もない。手当たり次第。

祖国の城垣に己れの青春を埋め、それでもなお戦っていった、大正生まれの真実の数々、傷あとの痛ましさが、社会の底辺に累々と横たわって涙を流しているのを、果たしてどれだけの人が肌に感じているだろうか。「戦さ」の持つすべてを体験し、生の尊とさ(原文のママ)を知った人が段々と少なくなっていく。私は夭折した戦友に代わって、遺族の安穏を守ることに少しでも役立たなければならないと思っている。
『思い出のネイビーブルー』

こうおっしゃっていた元海軍大尉松永氏も数年前に物故された。嗚呼。

現実に詩的な形をあたえることだ。ほかの人は、いわゆる詩的なもの、空想的なものを現実化しようとつとめる。そんなことをしてみたところで、ろくなことになるわけがない。
『詩と真実』

天才とは、その行為によって、法則と規範とをあたえる人間の力である
(同前)

凡人とはいえ、いささかなりとも新たな枠組みをつくりだしてみたいものだが・・・。

石橋(湛山)は・・・非難を甘受すればよかった。面子とか、自分のいままで言ってきたことの潔さみたいなものを大事にするのではなくて、自分はボロクソに言われるだろうけれども・・・残るべきだったと思う。(城山)
『男たちの流儀』

そうかもしれない・・・・。

自分は一オクターブの表現と材料しか持っていないという貧しさを痛感した
『凶徒津田三蔵』

心臓に良くない言葉だね。おいらなんか「ド・レ」くらいのもんか。

そういえば著作権法の非親告罪化が検討されつつあるとのこと。引用ばかりのこのエントリなんざ一発でやられちゃうのか!?
余計なお世話はやめとこうぜ。

自分のことには手がつかずまた他人様のブログばかり覗いている。だって断然おもしろいんだもんな・・・。つい嬉しくなってコメントを置いてくる。

(続きを読む…)

ラジオチャンネル追加

  • 2007年07月15日 (日)
  • キーワードタグ: 音楽

あー、よう寝た。しかしまだ足りぬ。ねむい。

ゴソゴソ起き出しスパスパしながらネットラジオを探索してみる。
オーストリア国営放送(ORF)のストリームを発見。
ORFオーストリア国営放送”でgoogleのトップに来る「ぴあの猫のらくがき in Wien」さんによれば、ウィーンフィルも時々かかるのだとか(ちなみにORFはたしか自前のオーケストラもあったはず)。
曲目解説が読めるのも有難し。これはいいね。

>ドクトル
これはお奨めです!(もしやチェック済み?)。

いやはや、
なんと有難いご時世であるこつ・・・wunderbar!!

今日も支離滅裂

  • 2007年07月11日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

ねむい。
まだねむい。
なにせねむい。
日本経済なみにネムい。

いや、回復の実感に乏しいなぁ、と。

私と同様に眠たげな、トボけた顔をした「とっつぁんボウヤ」は「領収書だしません」と繰り返しているそうな。

「国会で与野党が議論したうえで今のルールがあり、ルールに従って対処することが大事」
なのだそうだ。なるほどね。

とすると、建設会社の談合もOKなわけか。内輪で決めたルールが全て、と。
そうね、たしかに違いがなくは、ない。談合は犯罪。いっぽう領収書は出さなくても適法。しかし前者を犯罪とし後者を適法と定めたのはいったい誰だ?
・・・・・・
そう、あなたがただよ。

ま、泥 ○ に縄をなわせるわけにはいかぬからこそ選挙があるのかも。昨今厳しい局面にたたされている安倍さん赤城さん共々そうした「選挙」という大事をくぐり抜けてこられた選良であるからつまらぬ心配はいるまい。

ただね、「領収書出せってルールがないから出せません。(そういう)ルールですから」って類の言い訳にゃ私コケたよ、残念ながら。
昨今いやになるほど目にするこの手のロジック(?)については後日あらためて(エンジンかかってから)書くとする。

いやはや、なに書いてんだろうね俺は・・・。理性も眠ってるのか?ちょっとばかし気合を入れ直さねば。
エイッ。


と、そんなわけで(どんなわけだ?)最近は眠い目をこすりこすり活動しております。惰眠のお伴はもちろん書物。
古諺に「三日書を読まざれば語言味なし」(三日の間書物を読まねば語る言葉も味わいを無くす)とあるが、私の場合これはあてはまらぬ。だって読んでるもんね。読むだけは・・・(そうだよ、読むだけだよ)。
ちなみに最近読んだ本はと言えばマルケス『落葉』、ベイリー(村上春樹訳)『最後の瞬間のすごく大きな変化』、阿刀田高『新約聖書を知っていますか』ほか。

阿刀田本は昼寝のお伴に最適、ベイリー本は酒のお伴(スルメみたいに歯応え有り)。マルケスのは初期作が時系列に配列された短編、図らずも(いや、図ったんだろうけど)作家としての変化が目に見えてくるようで興趣がありました。

しかしbk1の「簡単リンクくん」サービスがなくなってリンク貼り付けできずフベンだぁ。amazon行く?
サービス再開してくんねえかなぁ。アフィリエイト要らんからさ、書誌情報だけでいいんだけどね。

ここんとこ書くネタが溜って頭われそうです。っても、まとまりのないものばかりですが。

三年寝太郎

  • 2007年06月29日 (金)
  • キーワードタグ: 政治

そうですか・・・保険庁を解体ですか。
そういえばそんなこと言ってたような気がしますな。
ま、妥当じゃないですかね。入金記録を捨て、闇に葬り「払ったってんなら証拠だしやがれ」なんてそしきは金輪際無用の長物、ヤクザも顔負けの反社会的組織しょうしね。当然でしょう。
きちんと記録を復元してもらった上で全員解雇、年金保険は各自で民間保険会社を使えばよかろうさ。

え?さっさと解体して新しい組織に衣替え?ご冗談を。記録はどうなる!?不始末の処理も終わらぬまま解体なんて
「臭い物にふた」どころか
「入れ物ごと破壊してポイ」じゃないかあ!

一年で完了させる?
やれるもんならやってみ。

そか。戦後レジームからの脱却というわけか。「おれがやったんじゃないもーん」とね。なるほど。
「証拠はない」
「記録はない」
「断定できない」
お役所が四角四面なのは今に始まったことじゃないが、”新体制”とやらはどうやらいままで以上に四っ角四面に振る舞うことを良しとするもののようだ。

かたや学者さんの言葉遣い”だけ”をを真似て自説を押し通そうとする連中が、本物の学者さんには「カネにもならねえ研究にカネは出せんぜぇ」。
まったく、半可通のガキほど始末におえねえものはねぇよなぁ。


などと、2週間ぶりの更新にもかかわらず大人げない憎まれ口をたたいてますが皆々様方におかれましてはは如何お過ごしでしょうか。初夏の暑さが身にこたえる時節、どうぞご自愛くださいませ。

季節の変り目は温度や湿度などの変化がつとに身に堪えるものですが、小生もまた一年の内で今の時期がもっとも「谷底な」時期でありまして、ボンヤリした頭を抱えたまま御無沙汰いたしておりました(その間、他人様のブログにお邪魔しては愚にもつかないコメントを好き勝手に書き付け去るという不埒なことを繰り返しておりました。もちろん、他人様のお庭で立ち小便するなどというほどのことはしていないつもりではありますが、ここに謹んでお詫び申し上げます)。

しかしまあ、そのあいだに拝読したブログ記事には出色のものが多数ありました。内田樹氏の倍音論、平川克美氏の一連のエントリ、Dr.watermanの"the Secret Gospel of Mark"等々。白眉とはまさにこういうときに使う言葉でありましょう(なお各々への”一方的”リンクは当ブログの「ブックマーク」にありますので省略)。

いやいやほんとにぐうたらな日々を過ごしておりました(やることはやっての上でのハナシです、念のため)。

そのようなわけでまたマメに更新したいと思っております。ネタに不自由はありません。社保庁解体は「臭い物に蓋」どころではない、まるで「臭い物はゴミ箱ごとポイ」の所業だと感じるのは私だけでしょうか。これも近々・・・。

「物言わぬは腹ふくるる業なり」(兼好法師)

シキの言葉

  • 2007年05月31日 (木)

今、森銑三の『明治人物夜話』を読んでいる。読みながらフト思ったことを少しだけ書いておくことにする。大した話でもないが、つね日頃感じることの多かった或ることについて他人の言葉に仮託して吐き出しておこうかな、と。

この本の中の「わが読書の記」で寒川鼠骨の『随攷子規居士』が取り上げられている。もちろん(?)わたし自身は未見の本だが、鼠骨が正岡子規から与えられた言葉が目を惹いた。
若き鼠骨翁が三つの新聞社の口に会して迷っていた際に子規は言下に、一番月給のすくない新聞社に行けと命じたのだそうである。そのわけは「人間は最も少い報酬で、最もおおくはたらくほどエライ人ぞな」ということであったと。
森曰く、

読んでその条に到つた時、私もまた病床の子規から、親しくその言を聴くの思がした。少しでも少くはたらいて、少しでも多くの報酬を得ようとする。そして幾ら貰つても満足しないで、不平不満を抱き続けて、結局不愉快な一生を終つてしまふ。それはあまりに情けないことではあるまいか。俳句和歌の革新者としてよりも、かやうな言葉を以て鼠骨翁に諭した子規に、私は一層頭が下る。

給料僅少労働過多。
骨折損之草臥儲
報酬乏少疲労困憊

なにをわざわざ安月給を選ぶ必要あるのかい?
貰えるものなら弊履でももらっとけ?
濡れ手の政治家、高級官僚?

小学校の道徳教室でならば「子規ってエライ人ですね~、みなさん」とでも教えるだろうかも。しかし、そう教えられた小学生が長じたのち「ぼく、おかねなんて興味ないんです、ほんとに」などと言いつづけてたら周囲の人は「コイツ、馬鹿?変人?嘘つき?」。

おまえはどうかって?
おかねたくさんほしいです、もらえるものならば。
です。
おかね持ってて困ることないし。新しいキーボード買えるし。旅行行けるし。本買えるし。
正直なとこ、金は欲しい(そこそこでいいけど)。なにもヒルズに一室欲しいとは言わぬし自家用ジェットでも一つ、などとは言わないが。
(一番買いたいのは「時間」。睡眠時間分くらいをオプションとして買えるものなら是非買いたい)

このままだと脱線しそうなのでもとへ。
金は欲しいね。(またかい!)
いや、たしかに欲しいものは欲しいんだけど、じゃ逆にもらえるもの(カネ)もらえないんなら働かないのかと問われたらこれは言下に「働くよ」と。
ここらへんを別の言葉で言いかえると

労働→高報酬→意欲UP→もっと労働
これ普通。
となると
労働→低報酬→意欲DOWN→クビ・退職・無気力
となるのか?

いや、それは微妙に違うでしょ、と。
で、これについては多くの方にご賛同いただけるのではないかと思いますが。

しかしこれが次のようになるとどうでしょう。
たとえば公務員の給料が相対的に高すぎるという批判に対して「そんなことはない」「安月給では良い人材が集まらない」とはよく耳にすること。
確かに給料が高い方が人は集めやすいだろうとは思う。給料が高ければ高いほど猫も杓子も集まるだろう。ピンもキリも蝟集するだろう。その質はともかく。
いや、なにも公務員の給料を引き下げよという話ではないのです。
ようは、給料が高い方が人材が集めやすいのは首肯するにしても、その逆に給料が安ければ良い人材が集まらないちうのはちょっとどんなもんだろうかな、ということなのですよ。公務員に限った話でなく。

いま、現に高給取ってるひとがみな、高給に惹かれてその職についたかといえばけっしてそんなわけではなかろう。金銭以外のたとえば意欲、使命感、興味、適性その他もろもろに従ってその職に就き、結果として高禄をはむに到ったという人も少なからずいるはずである。

にもかかわらず、なにかといえば「安月給では良い人材が集まらぬ」というのはちとおかしくないかい?
ま、そんなもんは次回から言い回しを変えてしまえばそれまでのはなしになっちゃうんだが。しかしどうもそういう言葉が違和感無しに通用してしまう社会そのものにこびりついているものに目がいってしまうのですよ。

もらえるものならいくらでももらっとくけど、かといってもらえないからってさぼるつもりも手ぇ抜く気もないってのが大方の心情ではなかろうか。「安月給では”良い”人材が集まらん」と仰る方はおそらくもらえなければさぼるし、手も鉄筋も抜いちゃうんだろうか。で、やけに働く人が近くにいるともう「カネの亡者」にでも見えちゃうのか。

世の中、ゼニカネだけじゃないってこと、あるでしょ?

しかしながらどうも世は高給取り=出来る人、ワーキングプア=能力ない人って感じになってるようないないような。
それはそれ、これはこれではないのだろうか。

「で、だからなんなのだ?」ですと??

いや、ソレはソレ、コレはコレですよ(汗)。
おそまつ。

もはや戦後ではない

  • 2007年05月23日 (水)

(一部で)戦後レジームの打破が叫ばれる現代日本。
おらびあげている人々の目には「戦後」日本がいかなる姿に見えているのだろうか。中韓に弱腰?規範意識の欠如?押しつけ憲法?

「もういいかげん戦後から脱却しようぜ」と言いたいわけか?よしんば戦後から脱却したとしてその次に何が来るのだ?「真の戦後」?「日米新時代」?

戦後レジームから抜け出せばバラ色の、あるいはせめて「普通の国」としての新時代がやってくるかのように唱えられる楽観性はいったい何に由来するのか。60年前の戦争を何時までも引きずっているのは一体誰なのか。それはまさしく今、戦後体制を「戦後レジーム」と罵っている連中なのではないのか。

古今東西、文字通りの意味での「戦後」なぞあったためしはない。歴史は常に戦中、そうでなければ戦間だった。「戦いの後」にやってくるのは常に「新たな戦争」でしかなかったしおそらく今後もそうだろう。「戦後レジーム」から脱却したあとにやってくるのは間違いなく「戦前レジーム」でしかない。

そしてそれは「戦前」とは1945年8月15日以前への回帰などでは最早ない。新たな戦争への序奏であり戦争前レジームなのだ。もっとも、その序奏がいつまで奏でられるのか、いつ終わるのかは、何度も何度もリピートするのかはもしかすると今の我々次第なのだろうが。

普天間基地移設先での環境調査に海上自衛隊が投入された事件は今後の日本の行方を見事に暗示するものであったと私は思う。その指揮官たる防衛大臣は「(自衛隊投入を正当化する)理屈なぞどうにでもつけられる」とのたまったらしい。まったく同感だ。同感だが私と彼との隔たりは余りにも大きい。「まあ、持ってる技術を活用しただけであーる」という最高指揮官たる総理大臣の言葉もまた同様であった。確かに彼の言うとおりではある。なんちゃって軍隊「自衛隊」とはいえその武力は「国体」を大変革するだけの破壊力を備えているのだからいっそレジームチェンジといきますか?。

1930年代初頭の日本と今の日本が二重写しに見えているのは私だけではないはずだ。長引く不況の後にやってきた戦乱の時代。自由な言論が暴力によって押し込められる時代。もはやマスメディアとしての誇りを失い他に先駆けて政府御用新聞と化した新聞社もある。

60年という時間は充分に長かった。そして何時までも戦後だ戦後だと言っているうちにまた戦前になろうとしている。しかしまた希望もあるのだろう。既に歴史となった「戦前」は変えようもないが、新たな「戦前」はじゅうぶん可塑的なのだから。

空疎な言葉を吐く者にはうまずたゆまず、分かるまで問いかけ続けなければならない。政治家は痴呆者ではない。自らの分身なのだ、否が応でも。彼らの言葉が分かった気になって知った気になって理解した気になったところで無益だ。せいぜい「お利口だね~」と言われたからとて子供ならばいざしらずいい大人が喜んでいても始まるまい。

あえて言う。
戦後レジームなどという言葉には汲みとるべき意味など一切ない。それは自らの過去への呪詛の言にすぎず、過去の自分を否定することでしか今の自分の存在意義を見出すことの出来ない負け犬の遠吠えにすぎないのだ。

真に誇り高い者としてありたいのならば、自らの過去というものは決して否定し去り得るものなどではない。それはそこから教訓を汲み取るべき井戸である。そしてそれは自分のつるべを繰ることでしか出来ない作業であることは疑うべくもない。

自らの過去を否定する者はすなわち現実から目をそむける者であり、現実を直視できないボンクラに未来を語る資格などは決して無い。

P.S.
どうも独り言に終始した感がありますが今日のところはこれにて退散。ここのところそんな気分が続いておりますもので・・・。

イノベーション万歳!

  • 2007年05月18日 (金)

ノートパソコンにlinuxをインストールしてみた。
一口にlinuxと言ってもけっこうたくさんの種類があるようで、私が選んでみたのはOpen SUSEというフリーOS。フリーソフトとはいえなかなか美しい外観。中身の方はまだ使い始めて間もないのでWindowsとの違いに戸惑うことはあるけれど、さしあたりテキストをカタカタ打つ分にはまったく申し分なし。日本語入力ソフトもなかなか賢い(がやはりATOKの便利さには遠く及ばないのも事実)。

普段文章を書くときはテキストエディタ(winなら秀丸)で打っているが、ブログを書くときはJust Systemのxfy blog editorというソフトを利用することが多い。こちらはテキストエディタに比べると若干動作が鈍い点が難点といえば難点だけれど、その分、段落構成やリンク、引用等々がワープロ感覚でチャッチャと出来るので重宝している。ちなみにこれもフリーソフト(いまのところ)。

「タダより高いものはナイ」とはよく言われるけれどもなかなかどうして、大したものだと素直に思ってしまう。まあ実際は有料化される前の「人柱」なのかもしれないが、命を失うでなし、しっかりお蔭は蒙っているのでにこやかに人柱に甘んじている。

しかしこうしたフリーソフトというのかオープンソースというのか、そうした一面ボランティア的な「ものづくり」の在り方というのはとても興味深い。ことITの世界においてはごくふつうのありふれたことなのかもしれないのだが、私のような門外漢にとてみれば驚くべき事態だといえる。対価を(とりあえずは)求めることなくなにかを作りだし改善してゆく動機はなんなのだろうか。「いずれビッグビジネスに・・・」というのもあるのかもしれないのだが、しかしそればかりではなさそうな気もする。
「こういうのがあったら便利かもな」
「よし、いっちょおれが改良してみるかあ」
「これは私にしか出来ないはずだぁ」
そんなところからはじまるのだろうか。
お仕着せに甘んじない自主性。自らの手でつくり出そうとする意欲。そうしたものが世界を大きく変えてゆく。変革しつつある。まさしくイノベーション。

イノベーションを辞書でひいてみると「革新」という訳もある。革新政策、革新官僚、昭和維新、平成維新。「イノベーション」を叫ぼうが「革新」を唱えようがそれだけでは絵に描いた餅。ともすれば革新という名の復古にもなり維新という名のクーデターにすぎないこともある。未来を見据えつつ過去に向かって退歩することだってできるのだ。歴史は後戻りできないなんて言いぐさは正しいようでいて必ずしもそうではなかろう。山手線の終着駅なんてあるのかね?

世にはそれとしりつつ画餅を描いて見せるばかりの人間ばかりではないと実感できるところに(まったくお門違いの)有難味を感じた昨日今日でありました、マル

P.S.
今のような教育の在り方からほんとうに革新的な人間は生まれるてくるのだろうか?整った(ガチガチの)制度の中から生まれる革新性なんてのなんか考えにくいんだけど。
いや、たしかに生まれはするのかもしれない。しかしそのときは「生まれた」というより「はみ出した」「はみ出てきた」というほうが適切なのだろう。しかしそれももしはみ出しを許容できるだけの度量が社会にあればの話だが。
ハミダシといえば『はみだし数学のすすめ』の森毅さんは今もお元気でいらっしゃるだろうか?そうであって欲しいな。

獣どもは刈れ ~ 長谷川平蔵

  • 2007年05月09日 (水)

獣には人間のことばが通じねえわさ。刈りとるよりほかに仕方はあるまい
  ~(鬼平犯科帳「むかしの女」)

Leeくん、君はいま何を思うか

  • 2007年04月29日 (日)

バージニアの銃乱射事件に関して先日私は書いた。
「どれほどグロテスクであろうと残虐であろうと非道徳的であろうと、それが物語にとどまるのならば誰からも非難されるいわれはない」と。

シカゴトリビューンによると高校生Leeくんが授業の課題として書いたものの中身があまりにも暴力的であるとして逮捕されたのという(おまけに彼は中国系)。少しだけ驚き、同時に「やはり」とも思った次第。
”Student writes essay, arrested by police”(4/26付)
”Student’s writing brings disorderly conduct charge”(4/27付)
  ~Chicago Tribune(電子版)

酒・ドラッグ・セックス・屍姦等々。確かに穏やかとは言えない。
しかしだ。彼はcreateve-writingの授業で"Write whatever comes to your mind. Do not judge or censor what you are writing."という指示に忠実に従ってそれを書いたわけだ。にもかかわらずエッセイを読んだ教師は本人・保護者の頭越しに警察に通報して、当人は後日登校途中に逮捕されたそうだ。当人は「いったいどういうわけなんだよぉ・・」というところだろう。彼のことを「馬鹿正直」と言うべきなのか?

大事件の直後というタイミングの問題か?彼はTPOをわきまえなかったとして責められるべきなのだろうか。

学校側としては「なんか問題起こったら責任問題だぁ」という危機感があったのだろう。そうでなければ通報する以前にやれることはいくらかあったはずだろうに。ひょっとして当人に真意を確かめるなどということは怖ろしくて出来ないほど彼は日頃から怪しげな言動をとっていたのか?。どうもちがうらしい。成績は優秀、問題行動歴もなかった(卒業後は海兵隊入隊を志望しているのだそうだ)。にもかかわらず指示通りに書いた作文が暴力的だとして突然逮捕。

もちろんバージニアの事件の衝撃はそれほど強烈だったといえるのだろう。しかしこの逮捕劇は異常と言うしかない。

わかる。もちろんわかる。危機管理だかなんだかしらないが「とりあえず処置」したくなるのは分かる。転ばぬ先の杖は大切かもしれない。が、彼の(空気を読めない?)行為よりもよほどそちらの方が異常な事態であることは認識しておくべきだろう。

昨今の”なりきり道徳家”連中は「(いまどきのわけえもんは)ゲームのやり過ぎで現実感覚が希薄だ」などと知った風なことをしばしば仰る。わたし自身、漠然と「ま、そうなのかね」などと思ったりもしたのだが、最近はどうも違うような気がしてきた。というか、むしろいい年をした(しかも社会的地位の高い)連中の方がよほど現実感覚が乏しいように見え始めている。現実と理想、現実と願望なんてものがゴッチャをごっちゃにして「理想が理想としての機能を果たしてないんだからもっと”現実的な”理想に改変しようよ」とかその他もろもろ。自分が見たいものだけを見てそれがすべて。自分が見たくないものはすべてハナから存在しないもの、ケシカランもの、タワ言、言い訳、内政干渉・・・。彼らは現実と虚構の別がわからない。

ちょうど今、『アメリカの反知性主義』という本をボツボツ読んでいるが、(ちょっと脈絡が違うけど)今、再び反知性主義という恐竜がアメリカでも、そして日本でも大暴れしている。名の知れた大学を出てついでに南カリフォルニアあたりの大学に遊学して(ロンドンでも可)一見とても知性があるように見える方たち(ここは、ま、行きがかり上)であってもその実知性など大嫌い。だから ○ ○ 面のブッシュ君ととっても話が合う。「ヘイ、ジョージ」「兵、心臓」。BGMはプレスリー?

「Leeくん、TPO弁えないとダメだよ」

それは確かにそうだ。

しかしそれは同時に非常に危険でもある。

「この非常時に文学なぞにうつつを抜かす非国民輩がァ!!!!」
「みんながショックを受けてるときにそんなこと書いちゃダメだよ」
「挙国一致で聖戦貫徹を目指しているのにおまえのそのだらしなさはなんだぁぁ!!!!!」

ま、もちろん常識さえあればそんな極端なことにならぬはずだ。そうだろ、おい。

なにごともホドホド、中庸が一番。

しかし、今の日本ではそのようなバランス感覚を最も必要としている(求められる)人たちが率先して竹ヤリ振りかざそうとしているんだな・・・。

村上さん、書けるうちにたくさん書いてくださいね。

そんな心配せずとも世界的文学者だから特別許可されるかな。

ともあれLeeくん、めげずに海兵隊でガンバレ!

とか書きながらも私は現地の雰囲気知らないからね

単なる外野のヤジにすぎないか・・・どうだろ。

ついでながらこの本を読みながら強く思うのは「アメリカの歴史って盲点だよなぁ」。
高校世界史のアメリカなんてピルグリム=ファーザーズがワシントン大統領になって南北戦争、米西戦争、モンロー主義であと現代史。「かけがえのない同盟国」のことをほとんどなにも知らない。戦争関係以外は。よし、今度の指導要領改定の目玉にしますか?安倍さん。
いや。じつは知らない方がシアワセなのかも。誰にとってのシアワセかは・・・・以下沈黙。

(2007/04/30追記)
続報:Marine Corps drops student after violent essay draws charges(Chicago Tribune,4/27)

本日の記録(4/15)

  • 2007年04月15日 (日)

気忙しい。なぜかは知らぬ。が、つぎつぎバタバタあれもこれも。
たぶん、端から見てもそうは見えてないだろが。原因は”春”? ”spring?” ”Frühling”?
知らんけど。
貧乏ヒマなし。
あいまあいまに「公共性」「保守革命」に関する本をボチボチ読む。数日前の新聞でどっかの大学教授が裁判への被害者参加に関してトボけた論評してて心中毒づく。
そんなこんなの無風状態ながらも(あるいはそれ故に)落ち着かず。
なんだか書きたいことはかずあれど手に付かず。また近いうちに・・・。

crazyなエントリについて

  • 2007年04月01日 (日)

昨日のエントリ「日本はcrazyなのか」を読み返し、余りの散漫冗漫さにガックシ。どうにかまとまりをつけようと試みるも、挫折。箸にも棒にもかからず。柱の曲がった家はどうにもならんと観念す。

不貞寝。

インソムニア

  • 2007年03月31日 (土)

さほど早寝したわけでもないのにやけに目覚めが早かった。うう、眠れない・・・。暇。

なもんでPCを立ち上げて音楽でも聴こうかとonkyoのサイトを覗いていたらこんなものが目に留まる。
「超静音ハードディスクオーディオコンピューターHDC-1.0(S)」

マイコン搭載電子ジャー!!」に驚いた時代ならいざしらず、今どき「オーディオコンピューター」という単語に「おお、すげ」などは驚かない。デジタルアンプなら随分前から普及してるし(うちのはいまだにアナログだけど>マランツ万歳!)。

ま~た羊頭狗肉の広告だろ、などと思いつつも暇なので見てたらどうもこれが文字通りのオーディオPCなのだそうで。ぬぉぉおお。

・「世界最高クラス22dBってどのくらいの静かさなのでしょうか?分かりやすい例でいくと、「図書館の静けさ」よりも小さい・・・」
・「デジタル機器内で必ず発生するパルス性ノイズを完全除去したサウンドボード」

が売り文句。
PCとしてのスペックは
CPU インテルCore2 Duo T5500(1.66GHz)
OS Microsoft Windows Vista Home Basic
チップセット インテル945GM+ICH7M
メインメモリ 1GB
ハードディスク容量 120GB

ま、PC的にはこんなもん?

しっかし、「超静音」・「デジタルノイズカット」とはいいでないの~。てか消費者としての欲望をくすぐられてる、かなり。すでに
"I want you!!" "I need you!!" 状態。買うか?!

隣の芝生は青く見える。
ちなみにうちのPCなんて超爆音仕様。
ペンティアム4とかいうホットプレート並(ちょっと大げさ?)の発熱CPUのせいで冷却ファンがツインで回りっぱなし(これが一番うるさい)。
おまけに3つか4つか付いてるHDDのうちの一つがやけにうるさい。seagate製。HDは全部seagate製で静かなやつはかなり静かなんだけど一つだけうるささに定評(悪評)ある型番のが混ってて、これがもう
「ガリガリ、ガ~リガリガリ・・・」
たとえていうなら耳元でアイスクラッシャー使われているようなうるささでして(知ってたら買わなかったぞ)

とまあ
そんな環境にもかかわらず音楽はすべてPCで聴くという暴挙。PCにcreativeのサウンドボード(E-MU0404)載っけてアナログアンプ繋いで聴いております。これでもまあ以前使ってたCDデッキと大差ない音質なので今まで不満に思ったことは一度もなかった。

超静音オーディオPC、欲しい。かなり欲しい。欲慾欲欲慾欲。
販売価格(税込)210,000也。
高級サウンドボードとPCあわせて買うのを考えればそれなりのお値段?ディスプレイは別売だけど。

と、ひとしきり書き付けてきたらだんだん冷静になってきた。
一応今でも音楽聴けてるし。
20年選手のアンプもいまだ元気だし。
そもそもお金ないし・・・。
超々静音冷却ファンでも探すかね。

しかし人生にはときとして奇妙な巡り合わせが訪れるらしい。
まさかこんなことを書いたその日にベテランアナログアンプが昇天などということがないことを祈ろう。
これからもよろしく、我がmaranz。

なお、上のリンクは小生のアフィリエイト経由になってますので「そんなもん気色わりぃ」という方は直リンクでどうぞ。HDC-1.0(S)

お、5時半だ。
いい夢を見たかな、ということで。おそまつ。

※アフィリエイトとは

特にインターネットのWWW上における広告形態をさし、ある広告媒体のウェブサイトに設置された広告によってウェブサイトの閲覧者が広告主の商品あるいはサービス等を購入し、生じた利益に応じて広告媒体に成功報酬を与える一連の形態をさす用語。(wikipediaより)

へぇ。

志士の密航なら賞賛されるのに・・・

  • 2007年03月30日 (金)

「豪華客船オーロラ号でハワイへ フリーター逮捕」(yahoo news 毎日)(キャッシュ)

「大きな船に乗って遠くへ行きたかった。ホノルルへ行くとは知らなかった」と供述

いいんじゃないですかぁ、夢(?)があって。
苦笑しながらお引き取り願うって程度で済まされないところが現代的か。ま、世が世なら打ち首かもしれないでしょうが。

いや、そりゃ確かに不法出国でしょう。建造物侵入罪なんでしょう。強制送還もやむなしなんでしょう。分かりますよ。それはそれで。

しかしこの記事、ほんと見た瞬間に幕末の志士を連想しました。
「いい年してなにやってんだぁ」
「そんな馬鹿げた目的でさぁ」
「あとさき考えろよ」
志士たちもそんな風に蔑まれたのだろうなあ、きっと。

おいおい、志士たちとフリータを一緒にすんな!?

だってあいつら(志士たち)だって当時の秩序紊乱者だったのは間違いない。でしょ?!

ん?お呼びでない?
こりゃまた失礼しました~(@植木等)

P.S.
この新聞記事を読んで「なに馬鹿なことやってんだか、いまどきのわけえもんは」と慨嘆するじいさんも幕末小説を喜んで読むんだろうなあ、きっと。

やっと一息・・・

  • 2007年03月25日 (日)

昨夜取調べ可視化について書こうと試みた一文を書き改めたあと、珍しく深夜まであちこちのサイトを渉猟して(うろつき回って)おりました。『秋霜烈日』の感想という名目で刑事裁判について思うところを書いている中に段々とストレスがたまったせいで、文学やら芸術関係のブログばかりを読みふける。スッキリ。

畑違いの分野について素人が知った風なことを書いているとどんどんドツボにはまっていくもんだ。しかもあらかじめまとめた文章を分載するのではなくてその場の思いつきで書くもんだから先に進むにつれて進む方向が限定されてしまってそれがストレスに・・・。作家が新聞連載小説を書くときもこんな感じになるのだろうな。もっとも作家なら本にするときに大幅加筆訂正するのだろうが、私の文章に関してはそんなことをする予定はまったくない。放置。ま、日記だし(と言い訳)。

しかし昨夜はかなり夜更けまでウロウロ。世の中読みごたえのある記事はあちこちあるもんだ。びっくり。なもんでブックマークにいくつか追加しております(「蕩尽伝説」さん、弁護士さんのブログを二つほど。弁護士さんのはかなり前から読ませて貰ってた。蕩尽さんはつい先日知ってこれがとっても読みごたえあり)。

今日はこれにて。
また読みまくります。

苦汁から煮汁へ

  • 2007年03月08日 (木)

昨日今日と「煮汁」って言葉が頭から離れない。
干し椎茸の戻し汁で炊いた御飯。
ガンモから滲み出すおでんの出汁。
醤油が少しだけ淡くなった煮魚の煮汁。
せこいか?いいんだよ。
煮汁。
含蓄あるよね。

くどいようだが、煮汁の味の深みを言葉にできるか?

賽銭泥棒のコラムに腹を立てたことをつい先日書いたのだが、その後今度は自分に腹が立っていた。あほらしいが。ってかアホだけど。

いや、わかってたんだよ。
どっかの親父がもっともらしい顔して四の五のたれる説教にハラ立てて怒鳴り返してもさ、結局そいつと同じことやってるだけなんだってことはさ。
わかってたんだよ。腹立ちをそのまま紙面に(画面に)ぶちまけたって誰も喜ばねえし世の中が明るくなるもんでもない。
わかってたんだよ。
それでまあ、書いたあともずっと頭のすみにコゲついてたのだ。
せっかくだからそのコゲをこそいでマジマジと眺めてみた。

そんで分かったのはこういうことだ。
味のしない、深みのない料理出されて
「んなもん、食えっか!コラ」って卓袱台ひっくり返しただけなのだ。
腹へってんのにバカだね。
実際のとこ、食えないわけじゃなかったのだ。その気さえあれば。
ただ、あっちでもこっちでもさ、味けのない料理ばっかり出されてさ、たまたま卓袱台に坐ったときに爆発しただけなのだ。
「じゃ、自分で料理しろよ」
そうなんです。
で、いま四苦八苦してるよ。
味のしない料理は食い飽きた。
もうたくさん。
俺は、お湯に醤油たらして茹でた麺ぶちこんだだけのラーメンなんぞ喰いたくもねえ。作りたくもねえ。お客はさ、お湯を飲みたい訳じゃねえ、醤油飲みたいわけでもねえ、カンスイのきいた麺を喰いたいわけでもねえ。
ラーメンが食いたいんだ。味のある旨いラーメンが食いたいんだよ。
お湯100円、醤油100円、麺200円、調理料200円、サービス料100円しめて700円。そんな合成食料じゃないもんを。
原価200円+旨み500円のラーメンを食いたいんだよ。
客は旨みに金を出す。違うかい?

どうせなら旨みのある文章が読みたいし書きたい。
この前の俺の文章には旨みなんぞかけらもなかった。わかってるよ。わかってて「タダだからよ、喰いたいなら勝手に喰ってくれ」って出したんだよ。

タダでもさ、旨いラーメンはそこらじゅうにあるんだよね。魚の煮汁のように滋味に溢れた複雑かつ繊細な味をもったラーメンがさ。「ブックマーク」にお奨めのラーメン屋載せてますが(含製麺所)。
いくらでもあるんですよ、いまどき。おどろくほど。
図書館に行けば歴代の旨いラーメンが選びきれないほどたくさん冷凍保存されてるし。
ほんとは世の中旨いもんにあふれてんだが、マスメディアにのっかった「流行りのラーメン屋」ばかりに目を奪われてしまうんだよね。もったいない。
「ドロボウは悪い」
「水は液体である」
ああそうかい。
んで、煮汁はどこにある?
世間には深みのない味のない言葉ばかりが漂ってるように思いがちだが、そんなものは上澄み、いやアクだよな。そんなものはヒョイとおたまですくって捨てちまうか。もったいなけりゃ畑にでもまくかな。何かの役には立つかもしんない。

煮汁。
いい言葉だなあ。
たった二文字からいろんなもんが滲み出してくるよ。
と、書き付けてもおそらく煮汁の深みは伝えきれていないだろうな。
なので、煮汁については「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」の方をお訪ねください。

煮汁を味わおう。
俺もうまい煮汁が出るように仕込みをせねば。
苦汁もね、飲みたい人はいるよ、たぶん。青汁ってのもあるし。ただ俺が飲みたくなかっただけさ。今の俺に必要なのは甘露だってことだ。それだけのことだった。
バカだね。

尻馬リニューアル

  • 2007年02月08日 (木)

このブログを読んでいただいている方々からすればどうでもよいことなのですが、seesaaブログが昨日リニューアルオープンしたのです。
なもんだから、尻馬に乗って当ブログも少しばかりデザイン変更プラスαの変更を致しました。

(続きを読む…)

(資料)安倍晋三首相施政方針演説全文

  • 2007年01月29日 (月)
  • キーワードタグ: 政治

戦後レジームを脱し「ふつうの国」になることを目指す安倍政権。憲法改正による「真の独立」達成は日米安保体制とどのように関わるのか・・・。
首班指名直後の所信表明演説では敢えて避けたといわれる「戦後レジーム」の言葉も今回の施政方針演説では顔を覗かせている。それにしてもまだまだ安倍首相の真意はなかなか見えてこない。それを知るためには彼の祖父岸信介がかつて目指したところ、実現したことを再確認する必要があると思う今日この頃(根拠はと問われても答えられないが)。ひとまず資料として今回の演説全文をメモ。

首相施政方針演説全文(産経新聞)

(以下抜粋)

憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることは、もはや明らかです。我々が直面している様々な変化は、私が生まれ育った時代、すなわち、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器ともてはやされていた時代にはおよそ想像もつかなかったものばかりです。

 今こそ、これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべきときが来ています。「美しい国、日本」の実現に向けて、次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描いていくことこそが私の使命であります。

「世界とアジアのための日米同盟」は、我が国外交の要であります。日本を巡る安全保障の環境は、大量破壊兵器やミサイルの拡散、テロとの闘い、地域紛争の多発など、大きく変化しています。こうした中で、日本の平和と独立、自由と民主主義を守り、そして日本人の命を守るために、日米同盟を一層強化していく必要があります。米国と連携して、弾道ミサイルから我が国を防衛するシステムの早急な整備に努めます。

 さらに、世界の平和と安定に一層貢献するため、時代に合った安全保障のための法的基盤を再構築する必要があると考えます。いかなる場合が憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な類型に即し、研究を進めてまいります。在日米軍の再編については、抑止力を維持しつつ、負担を軽減するものであり、沖縄など地元の切実な声によく耳を傾け、地域の振興に全力をあげて取り組むことにより、着実に進めてまいります。

(補足)国債の保有内訳について

  • 2007年01月16日 (火)

昨日書いた「ニッポンの未来」は、言うまでもなく事実を極端に簡略化した「フィクション」であり、かつ私自身が「戦争やろーよ!」と言いたいわけでもありません(なんだか書いていて気恥ずかしいが)。念のために国債の所有内訳について少しだけ調べてみましたのでここに記しておきます。
財務省のデータ(H18年速報値)によれば国債所有者の内訳の主なものはおおよそ次の通り。

・日本銀行
12%
・その他金融機関等
70%(※)
・家計
4%

(※)資料項目のうちの郵便貯金、銀行等、簡易生命保険、生損保、公的年金、年金基金の合計値
「今後の国債管理政策の課題」(財務省)[pdfファイル]

つまり既発国債の過半は国民が「直接」所有しているわけではない。しかし、これはいってみれば金融機関などを通じた間接所有と考えることができる。なんとなれば国債の紙クズ化による打撃が巡りめぐって最終的に落ち着くさきは結局のところ一人一人の個人であるからだ。
銀行への公的資金投入、なきに等しい預金利率、保険金の不払い、リストラ、ボーナスカット、公共サービスの質低下・・・。様々な形をとりながら結局は私たち自身がツケを精算することになる。

もっとも、いざ戦争となれば国民は国債の紙クズ化などという経済的被害どころでない深刻かつ甚大な被害を被ることは言うまでもない。

ついでに「国債とは?」(エキサイト・やさしい経済講座)

(2010年3月2日追記)
経済学者である岩本康志氏が戦前戦後を通じて(1885年〜)の政府債務残高の推移をまとめておられるのをWeb上で見つけたのでメモしておく。21世紀初頭にかけての政府債務残高激増を1945年までのそれと対比して「戦争」と表現されている。2008年までのグラフは「景気との戦争」、2010年までに更新・拡張したグラフは「国の借金973兆円」 〜岩本康志のブログ(外部リンク)。

ニッポンの未来

  • 2007年01月15日 (月)

昨夜、夢うつつの状態でニッポンについて妄想にふける。やけにイメージのはっきりした「夢」だった。
以下、その一部を記すがこの文章は私のものであって私のものでない。そのことを冒頭でお断りしておく。尚、文中に出てくる「太平洋戦争後の日本における預金封鎖およびインフレ」は紛れもない事実であることを言い添えておきたい。

はたして少子高齢化が着実に進む一方で国・地方公共団体の借金残高は年間3%以上の割合で増え続けている日本の現状を変革することは可能なのでしょうか。

経済成長?子育て支援?
「今年の借金増加額は年収比30%!去年より1%低下!素晴らしい!!」そんな状況で税収が10兆20兆増えたくらいでは焼け石に水でしょうよ。とてもではないが抜本的解決とはかけ離れていると言わざるを得ないでしょう。

私が出した答えを聞いてみてもらえますか?いえいえ、ご迷惑はおかけしません。ま、ちょっとばかりお時間拝借ということで。

ええ、それでね
結論言っちゃうとね
答えは戦争するに限る、ということなんですよ。
そう
確かに戦争となれば戦死者もでようし戦費も莫大なものでしょうね。貿易も途絶かそれに近い状態になるやもしれませんからね、収入減と支出増のダブルパンチで間違いなく借金は増えるでしょうよ。
ん?それじゃ解決にならないって?
あわてなさんな、話はこれからですからね。でね、勘どころはってえと、その借金の貸し手はいったい誰かってことなんですよ。銀行?外資?トヨタ?そんなわきゃありませんや。日本でね、一番お金持ってるの、誰だと思います?

国民ですよ、国民。一人一人は貧乏人だろうともそれがあわせて何千万人ともなりゃあそれこそ塵も積もれば山となる、ですよ。現に国債ってあるでしょ。長期安定低リスク、なんたって親方日の丸ですからね。国にとっちゃあ借金でも国民からすりゃ財産ですよ、立派に。
そんでね、戦争になりゃ戦時国債っての発行するんですよ、国が。おそらくね。お国のために是非とも買いなされってね。しかも「この非常時だ!」ってなもんで利率は普通よりも低めにしといてさ、ついでに購入しないやつぁ非国民だってことにすりゃあよ、ただでさえ付和雷同しがちな日本人、みんなそろって喜んで買ってくれるさ。なんたって戦争なんだから。お国の危機だよ!

そんでさ
ここんとこが大事なんだがね
戦争、絶対勝っちゃダメなんだよ
日本がさ、どっかと戦争して仮に勝っちゃってもね、領土やら賠償なんて期待できないんだから。ヴェルサイユ会議の時でもあったでしょ?民族自決って。今どき戦争で新領土獲得なんてどだい無理なんだよ。だいいち竹島やら魚釣島に何がある?な~んもねーよ。200海里EEZ?ガス田?そんなんで700兆円からの借金がどうにもなるもんかい。あんなん所詮メンツだけの問題さね。ん?ハワイ?・・・そうだな、ハワイならちったあいけるかね。んでもあすこは実入りの大半が日本のお客が落とす金なんだろ?大して期待は出来ねーと思うよ。だいいちアメリカが死守するだろうさ。日本にはおとせっこないよ。いまふと思ったんだけどさ、アメリカさんに「ハワイと日本、どっちが大事なのか」って究極の選択させたらどういう答え返ってくるのかね。意外とハワイ?もしやニッポン?ま、いいけど。

けっきょくね、日本にとってみりゃあ負け戦が一番なの、借金なくすには。これ絶対確実ノーリスクな方法なんだよ。え?戦時国債で更に借金増えてるじゃないかって?だいじょうぶだいじょうぶ。敗戦と同時に国民の預金口座凍結・インフレ誘導であっというまに国債なんて紙切れ同然さ。これ、歴史に実例あるんだから本当だよ。太平洋戦争直後の歴史調べてごらんよ。ああ、うん、大東亜戦争って言ってもいいけどさ、べつにどっちでもかまいませんよ私は。でね、結局国の借金ほとんど雲散霧消、チャラ。これってもちろん債権者は国民だよ。つまりさ、敗戦のおかげで政府債務の大半が消せちゃうわけなのよ、国民の犠牲の下にね。そりゃ国民は怒るだろうさ、当然だよ。でもさ、「敗戦によって」「占領軍の意向で」っていうことになりゃあ国民もそれいじょうどうしようもないさ。下手に占領軍のご機嫌そこねでもしたら命にかかわるからね。

ま、それはおいといても結局ね、いつの時代も国の中の問題に手を焼く政府にしてみりゃ国の外に敵を作るのが一番確実なのよ、簡単だし。相手のいやがることわざとやって挑発していつでも暴力、軍事力に訴えるぞって見せかけつくるのさ。これってまるでチンピラだけどね。それに万がいち戦争にならなくてもさ、国民の関心釘付けに出来るってだけでも大した効果なんだし。そんで戦争で人口減って社会インフラ破壊されて国民がシャンと凛々しくなりゃあもう万々歳だよ。少子高齢化も低経済成長も教育問題も一挙に解決。最高だろ、戦争ってさ。
ん?戦争で死ぬのは若者のはず?そうね、普通はそうだよ。でもね、今回はね最初から負け戦狙いだからね、年長者に御苦労願うのさ。徴兵年齢は60歳以上。若者はみな予備役後備役として後方支援&訓練。将来に備えてね。

でもね、一番のメリットはね、これあんまり言いたくないんだけどさ・・・なんだと思う?

分からないかい?

誰も責任とらなくていいってことさ。

天文学的金額に及ぶ公金の無駄づかいもチャラ。
公共事業と談合で肥え太った企業も免罪。
金権政治家もいまさらとやかく非難されまい(ついでに、おじいちゃんの亡霊に取り憑かれたような政治家もね)
自分の頭でモノ考えることしなかった庶民にも責任はあるまい。
一億総懺悔さ。つまり一人あたま一億分の一の責任ってこと。微々たるもんでしょお。

だって戦争だったんだから。しようがなかったんだから。悪いのはね、戦争。せんそうせんそうせんそうせんそう・・・・・・。だから官僚も政治家も国民もみーんな犠牲者。被害者。

だいじょうぶ、半世紀後にはまた元に戻るさ、たぶんね。

自己放下

  • 2007年01月12日 (金)

折々読んでいる田口ランディさんのブログで「「手放す」って、どういうこと?」という記事を読みました。

ぎりぎりまで追いつめられた人間、ドン底に落ちた人間が、ある瞬間にぱっと自分を手放すことがある。この「自分を手放す」という感覚は、手放せない者には永遠に理解できない。宗教的感覚に近いものである。手放せない者は手放した人間を理解できない。時として憎んだりもする。この「手放す」ことの本質について、私は知りたいと思っていた。長いこと。

痴呆老人施設で、水俣で、べてるの家で、チェルノブイリで、私が出会ったきた人たちはごくごく普通の人間だった。ただ一点のみをのぞいては。彼らは「手放して」いた。

読んでいてなんだか解るような気がした。そして少しだけ戸惑った。

自分を手放す感覚、これは分かる気がする。それは「解離」「トランス」あるいは「自己放下」と言ってよいのかもしれない。トランス状態で物を書くような経験は私にはないけれども、すごくよく分かる(気がする)。楽器の演奏などでもトランス状態みたいなものはあり得るだろうと思う。自分が「自分なんだけど自分じゃない」ような不思議な感覚。そしてそうした時のパフォーマンスは極めて質が高い。「神が降りてきた」かのような至福の時間。自分で自分のパフォーマンスに驚くなどという、他人様に聞かせたら「おいおい自惚れるんじゃないよ~」と言われるような事態なのだが、確かにそうした実感があるのだからしょうがない・・・。

一方、物を書く人が「自己を手放す」ことについて述べられた前段と、水俣やチェルノブイリの人々が「自己を手放している」ことについて述べられている後段とでは「手放す」ことの意味が異なっている。
これもまた私は実感とともに理解できる(水俣やチェルノブイリの人々ほどに大変な経験をしたというのではないけれど)。
降ってわいた災難。泣こうが喚こうがどうにもならない現実に突き当たったとき、他人様に八つ当たりしたり自分を哀れんだりしても仕様がない。残された(積極的な)道は自己放下のみ(消極的な方法は他にも様々あろうけど)。いってみれば「やむを得ざる自己放下」とでも言えばよいのだろうか。解離?

ここまで書いてようやく田口さんの文章がすんなりと私の中に入ってこなかったわけも分かったような気がした(もちろんこれは私の受け容れ能力の問題にすぎないのであって田口氏の文章に問題があるというのではない)。

もちろん、べつにとんでもない事態に立ち至らなくとも「自己を手放すこと」は不可能なわけではないけれども、それはなかなか難しくもあるような気がします。子どもや老人ならばやりやすいのかもしれないですが。凡人であるが故に苦しくて苦しくて仕方がないのでやむなく「解離」状態になっているのに、「あっ、なんだかキミ余裕ありそうね。じゃこれも頼むわ~」「いいんじゃない?余裕ありそうだし」なんてことになっちゃうかも。そんなん勘弁。下手に「自己放下」しちゃう凡人の哀しさよ・・・なんてね。

自己放下しつつもそのようには見せない高等技術が必要?
というよりも、本当に自己放下が出来ていれば「誰にも有無を言わせない」強靱なオーラが身体から発するのであろう。おそらく。

精進精進。

著作権についてのメモ

  • 2007年01月12日 (金)
  • キーワードタグ: 政治

青空文庫を覗いていてふと目に留まった著作権に関する一文。
ちょっとばかり私のアンテナが反応するところがあるのでここにメモしておくことにします。

以下、リチャード・ストールマン「自由 – それとも著作権?」

むかしむかし、印刷機がようやく普及したころ、書写や出版を職業とする人々 を対象にある産業規制が制定されました。それが著作権です。著作権の目的は、 多様な著作物の出版を促進することにありました。出版業者がある作者の最新 の著作を再版するには、その人から許諾を得なければならないことにする、と いうのが著作権の仕組みです。

これに対し、一般の読者が賛成しない理由はほとんどありませんでした。とい うのも、著作権は出版のみを制限していたのであって、当時の読者ができるこ とを制限するものではなかったからです。多少本の価格は上がったかもしれま せんが、それは単にお金の問題です。著作権は当初の意図通り、公衆にほとん ど負担を与えることなく公共の福祉に寄与しました。そう、著作権はうまく機 能していたのです-このころは。

さて、その後情報を流通する新しい手段が登場しました。コンピュータとネッ トワークです。デジタル情報技術の長所は、それがソフトウェア、音楽の録音、 書籍といった情報の複写と操作を容易にするという点にあります。ネットワー クはありとあらゆる種類へのデータに対する無限のアクセスの可能性を提供し ました。まさしく情報のユートピアです。

しかし一つの障害が道をふさいでいました。著作権です。法的には、コンピュー タを出版された情報を共有するために利用する読者は著作権侵害者ということ になります。世界は変わり、かつては出版業者への産業規制だったものが、本 来規制が奉仕すべき公衆への制約となり果てたのでした。

民主主義社会では通常、人気があって、当然で、かつ有益な活動を禁止するよ うな法はまもなく緩和されるものです。しかし出版業者たちはこれまで強力な ロビー活動によって公衆が自分のコンピュータの力を最大限に生かすことを妨 げ続けてきましたし、著作権がそのためのうってつけの武器になると考えてき ました。彼らの影響を受けて、政府は著作権を新しい状況に会わせて緩めるど ころか、かつてないほど厳格なものにしてしまい、共有のかどで捕まった読者 に厳しい罰を課そうとしています。

しかし話はこれだけでは済みません。人々が自分のコンピュータで行うことを、 ごく少数の人々がコントロールできるとき、コンピュータは強力な支配の道具 となり得ます。出版業者は、特別に指定されたソフトウェアでのみ電子書籍 (e-book)を読むよう人々に強制すれば、前代未聞の権力が手に入るということ に気づきました。読者が本を読むたびに、彼らは読者に支払いを強いることも できますし、その本を誰が読んでいるかを特定することすらできるのです!

これは出版社の夢でしたが、彼らはアメリカ合衆国政府を説き伏せて1998年、 「デジタルミレニアム著作権法(Digital Millenium Copyright Act)」を制定 させました。この法は出版業者に対し、読者が電子書籍を使ってすることのほ とんど全てに関して完全な法的権力を与えています。許可なく読むことすら犯 罪なのです!

紙の本を利用するときには、依然として私たちは昔と変わらぬ自由を有してい ます。しかし電子書籍が印刷された書籍に取って代わるとき、この例外はなん の役にも立たなくなるでしょう。新しいテキストを、外見上は印刷された紙の ように見える媒体上にダウンロードすることを可能とする「電子インク」によっ て、新聞すらはかなく消滅するかもしれません。想像してみてください、もは や古本屋は存在できなくなりますし、もはやあなたのお友達に本を貸すことも できません。もはや公共の図書館から本を借りることもできませんし、支払う ことなく人に読む機会を与える「漏洩」もなくなります。また、Microsoft Readerの広告から判断するに、名前を知られないようにして本を購入すること もできなくなります。これが、出版業者が私たちに押しつけようとしている世 界です。

このような重大な変化に関して、公の議論がほとんど行われていないのはなぜ でしょうか? それは、この超現代的な技術によって喚起される政治的問題が、 多くの市民の関心を惹くようになるような状況が依然到来していないからです、 加えて、公衆は著作権が著作権保有者を「保護」するために存在し、公衆の権 利など価値がないと教え込まれています。

しかし公衆があまねく電子書籍を使い始め、出版業者が人々に対してたくらん だ体制に気づいたら、彼らは抵抗し始めるでしょう。人間はこのようなくびき を永遠に受け入れられるものではありません。

出版業者たちは、抑圧的な著作権こそが芸術を生かし続ける唯一の道だと信じ させようとするでしょうが、私たちは、出版される著作の多様性を促進したい からといって、「違法コピーとの戦争」を戦う必要はないのです。Grateful Deadが示したように、ファンの間でのプライヴェートなコピーが、常にアーティ ストの悩みの種になるという必然性はありません。友達の間での電子書籍の複 製を合法化すれば、私たちは著作権を、かつてそうであったような産業規制の 域に押し戻すことができます。

ある種の著作に関しては、私たちはこの考え方をさらに推し進めるべきです。 学術的な論文やモノグラフは、内容的に改変しないという条件の下でオンライ ンでの再発行を推奨すべきです。これにより、学術的な業績はきちんと保護さ れる一方で、成果によりアクセスしやすくなります。教科書や参考図書の大半 に関しては、改変されたバージョンの出版もまた許可されるべきでしょう。そ うすれば改善が促進されるからです。

やがて、コンピュータネットワークによって誰かに少額のお金を送る簡単な手 段が提供されるようになれば、内容的に改変されていないコピーを制限する根 拠は完全に失われるでしょう。もしある本が好きならば、ダイアログボックス があなたのコンピュータに現れて「作者に1ドル払うにはここをクリック」な どと表示されたとき、クリックしないということがあるでしょうか? 書籍や音 楽の著作権は、内容的に改変されていないコピーの頒布に適用されるわけです から、完全に時代遅れになるでしょう。そんな時代が早く来るといいですね!

Copyright (C) 2000 Richard Stallman. 本文に一切変更を加えず、この著作 権表示を残す限り、この文章全体のいかなる媒体における複製および頒布も許 可する。

おもちゃの兵隊とお伊勢参りに思う

  • 2007年01月06日 (土)

正月恒例だとかいう現役首相の伊勢神宮参拝。
いつ頃からの恒例なのか知らないが・・・・。
首相動静記事によれば、たまたま首相という地位に就いている人間の私的な参拝というわけではないようで。
【首相動静】1月4日 (産経新聞)

閣僚始め側近を引き連れて、政財官界お歴々の見送り・お出迎えにボーイスカウト観閲のおまけつき。ボーイスカウトってのがカワイイね(私がもし首相ならウムを言わさず自衛隊を呼びつけて閲兵するだろうけど。でなきゃ最初から閲兵なぞしたくないもん)。

そんな冗談はさておき・・・。

「おもちゃの兵隊」に夢中で遊んでいたらしい、どこかの国王を思い出しましたよ(その国、戦争で崩壊しちゃったけど)。もちろん、なにもボーイ・ガールスカウトの諸君を貶める意図はない。私自身は、寒空の下、”私人”安倍晋三の私的参拝を出迎えた彼らに同情を寄せる者の一人である。安倍さんが呼びつけたのか、側近が「気を回しすぎた」のかは知る由もないが(タウンミーティングその他の例からして後者のような気がするが・・・)。

しかし実際のところ、口先ばかり勇ましい匹夫は眼にするのも鬱陶しいばかり(だと思う)。

それとは対照的に、読んでいて心に染みいる貴人の発言もあった。

戦後に生まれた人々が年々多くなってくる今日、戦没者を追悼することは自分たちの生まれる前の世代の人々がいかなる世界、社会に生きてきたかを理解することになり、世界や日本の過去の歴史を顧みる一つの機会となることと思います。過去のような戦争の惨禍が二度と起こらないよう、戦争や戦没者のことが、戦争を直接知らない世代の人々に正しく伝えられていくことを心から願っています。

天皇陛下:誕生日会見詳報

陛下のこのお言葉を読むにつけ、(今の政治情勢で)もしほんとに憲法改正やるのなら是非次のように変更して欲しいと思ってしまったよ、私は。
「首相のすべての行為には、天皇の助言と承認を必要とし、天皇が、その責任を負ふ。」

追記)
明治神宮を参拝 森元首相以来(毎日新聞)

周防正行最新作、テーマは”冤罪”

  • 2006年11月21日 (火)
  • キーワードタグ: 事件

「Shall we ダンス?」はもう11年も前の話だったんですね・・・。時の経つのは早いなぁ

来年1月公開の周防正行監督最新作。

「それでもボクはやってない」

http://www.soreboku.jp/

テーマは冤罪事件。

<ストーリー>

「いま痴漢したでしょ」
「えっ?痴漢?」
ホームの駅員も騒ぎに気づいてやってきた。話せばわかってもらえる、そう思って、駅員に促されるまま駅事務室へと向かった。しかし駅事務室ではなにも聞かれないままに警察官に引き渡されてしまう。会社の面接があるんです、そう警察官に言った。「話は署で聞くから、すぐ終わるから」言われるままにパトカーに乗り込んだ・・・。しかし、それは長く困難な運命の始まりだった。

<周防監督のメッセージ>

疑わしきは罰せず、という言葉を聞いたことがあると思います。犯人であるという確かな証拠がない限り、無罪である(NOT GUILTY)、ということです。ところが現実には、疑わしきは罰せよ、としか思っていないような判決があることを知りました。しかし、それはもしかすると、今現実に日本に生きている多くの人たちの気持ちの反映かもしれません。多くの人にとって、「疑わしきは罰せず」よりも「疑わしきは捕まえといて」の方が本音に近いのかもしれません。

しかし、疑われるのが自分自身だったらどうでしょう。

『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ』

人が人を裁いてきた歴史の中から生まれた法格言です。この刑事裁判の原則について今一度考えてみたい。そう思ってこの映画を作りました。

(以上、公式サイトより)

『おれはそんな目に遭わないように常に気を配ってるもんね~(だから大丈夫!)』と思ってるそこの貴方!
「自分は大丈夫」なんて思ってるとホントに危ないよ

もし「疑われるのが自分だったら・・・」

公開が楽しみです。

脳と身体 ~内田樹

  • 2006年11月06日 (月)

脳の本性は「暴走すること」である。身体の本性は「均衡を保つこと」である。
身体は決して暴走しない。

ときどき「刹那的な身体的快楽を追求」というような表現を見掛けることがあるが、これは言葉の使い方が間違っている。
身体は決して刹那的快楽など追い求めないからだ。
刹那的快楽を追い求めるの脳である。

脳はあまりに過激である。
脳は基本的趨向性として、自己保存より自己損傷に向かう。安定より壊乱を好む。
だから、「何か」が脳を統御しなければ、私たちは生きてゆけない。
身体はそのための抑制的機能である。

2003年7月22日付

審問と正義の暴力 ~内田樹

  • 2006年11月02日 (木)

審問の語法で語るものはいつか<正義の暴力>を制御できない局面に立ち至ることになる

MBTI心理テスト

  • 2006年10月31日 (火)

最近、ユングにちなんだ記事ばかり書いていますが。

以前、別のエントリで書いた『CIAスパイ研修』で紹介されていたMBTI心理テスト。ユングの理論をもとにしたテストだそうですが、その私家訳版サイト(日本語)が目に留まったので試してみました。

http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/mbti.cgi

私の判定結果はおおよそ予想通り。INTJ型。
UBSGWのMBTI性格テスト判定結果画像

しかし、内向度がかなり強い点が気にかかるといえばかかります・・・。

ユングによれば意識と無意識とは常に補償関係にあるそうなので、意識における内向性が優位を占めれば占めるほど、逆に無意識においては外向性が優位を占めるということになります。

とすると、内向度が高い私の場合は自分で意識しないうちに「自分自身を周囲の環境に同化させよう」、「周囲の状況次第で物事を決断しよう」とする強い(無意識の)力が作用していることに・・・・。
思い当たるフシはナキニシモアラズ、という気がしないでもありません。

いまのところまだ外向性-内向性以外の概念についてはあやふやなので、少しずつ勉強しようかと思っています。
一応ご参考まで。

人間ってのは結局どこかでバランスをとっている生き物なんでしょうね。

いじめ・子殺し・想像力 ~<もしも>の力

  • 2006年10月30日 (月)

昨日の西日本新聞朝刊に掲載された小田島雄志「<もしも>に偉大な力」。
現代の世相を考える上でも、また我が身を振り返ってみても考えさせられるところがいろいろありました。

小田島氏に対してあるとき女性編集者B嬢が

「……小田島さんねェ、シェイクスピアを全部訳したって、そんなの、意味ねェよ」

とのたまったのだとか。シェイクスピア研究に打込む小田島氏に対しては非礼きわまりない物言いであったろうと推察します。
対する小田島氏は以後、当の雑誌からの原稿依頼を拒否されたということです。

しかし小田島氏はその事に関して冷静に振り返ってこう言います。

この(もしも)という想像力が欠けていたために喧嘩別れをしてしまったことは、実は、血圧が高くて短気だったぼくにも、すぐにいくつか思い出せる。

・・・あるいはまた、もしもB嬢がA嬢を通してではなく、本人が電話で「ごめんなさい」と言ったとしたら、・・・本当の気持ちはなんだったのか尋ねたり、ぼくの訳によるシェイクスピアの舞台を一度見てほしいと誘ったりはしただろう。

あのころのぼくは、まだ<もしも>と考える余裕がなかった。修行がたりなかったのである。

親が子を虐待し、子が親を殺し、教師が生徒を虐めるような出来事が珍しくもない現代社会ですが、小田島氏はそうした現象を時代や世の中のせいにすることはできないだろうと述べたうえで、事にあたって<もしも>と考えてみることの効用を説きます。

<もしも>ってやつは最高の仲裁役だよ、<もしも>には偉大な力があるんだ」
 ~シェイクスピア『お気に召すまま』

他を非難し、犯人捜しに躍起になるのも一興ではありましょうが、「じゃ、どうするか」を考えるとき、この<もしも>という想像力の力はとても大切なことだろうと改めて感じました。

我が身を振り返ってみても、まさにこの<もしも>という想像力が私自身のちっぽけな激情に呑み込まれてしまったことの数々を思い出して忸怩たる思いがします。

血圧は決して高くはない、平常値なんですけどね・・・。

読後感爽やかな記事でした。

自殺について ~E・フロム「正気の社会」

  • 2006年10月21日 (土)
  • キーワードタグ: 心理

現代人の心の中に新しい疑問が起こってきた。その疑問というのは、「人生は生きるに値する」かどうか、したがって人生は「失敗である」か、「成功である」かという感情である。

こういう考え方は、人生を、利益を生むはずの企業だと考えることにもとづいている。・・・ビジネスマンが破産を宣言するのと同じように、ひとは自殺する

人生を、「儲けた」「損した」「成功した」「失敗した」などという観点から図る思考様式が、高度資本主義社会に引きずられた現代人の(自分自身が気付かない)謬見だとフロムは言っているようです。

あって困ることはない金銭、地位、権力、名誉・・・・

もう半世紀も前の著述ではありますが、”現代社会”についてのフロムの考察は緊々としたものがあります。

愛国心 ~E・フロム「正気の社会」

  • 2006年10月20日 (金)

国家主義は、われわれの近親愛の一形式であり、盲目的崇拝であり、一種の狂気である。「愛国心」は、国家主義の礼讃である。

一人の個人だけを愛して、他のひとへの愛情を除外するような愛情が本当の愛情ではないのと同様に、人間愛の一部でないような自国への愛情は、本当の愛情ではなくて、偶像崇拝である。

同一感をもちたいという欲求は、人間の存在条件そのものから生まれ、もっとも激しい努力を生む源泉である。

税込価格 : \1,529 (本体 : \1,456)
出版 : 中央公論社
サイズ : 新書 / 558p
ISBN : 4-12-400686-1
発行年月 : 1979.6
収録作品:ユング「心理学的類型」(抜粋)、フロム「正気の社会」

市場における競争原理 雑感

  • 2006年10月07日 (土)

最近よく読ませてもらっている「晴耕雨読」というブログで、こんな言葉を目にしました。

競争原理は、「労働価値」(=生産性)を上昇させる原動力ではあるが、市場原理と同じく、それ自体が利潤を生むわけではない

「近代経済システム」における競争」

http://sun.ap.teacup.com/souun/172.html

まだ読みかけですが、「ピンッ」とくるものを感じます。

私は、経済について深く勉強したことがありませんけれども、いま真の意味で”価値”を生み出す産業は農業などごく限られたものだけではなかろうか、という素朴な疑問を感じています。ここで言う価値とは、ある個人やある企業やある先進国にとっての利潤・利益ではなく、もっと広い意味での(全)社会的な、あるいは普遍的な経済的価値のことを意味します。

上の記事はそうした私の問題意識を深めてくれそうな予感がします。

前のエントリを読み返してみて

  • 2006年09月28日 (木)

なんだかまた今日も地に足のつかないことを書き散らしてしまったと反省。

辺見庸さんの新聞記事や著作を読んで以来、どうも筆が滑りがちです。
正直なところを言えば、今の日本の状況に危機感を感じている人が居ることを知ってうれしかったから・・・かもしれません。

このテの(政治や世相に関係する)話はどうも語った後にこっぱずかしい心持がしてなりません。なぜだかうまく説明できませんが。
しばらくはその、なぜ説明できないのかという点について一人で考えてみようと思います。こんなことを言いながらまた明日筆が滑らないとは限りませんが・・・。

今、スタインベックの『創作日記』を読んでいます。

愛と信頼のちがい~『創作日記 “エデンの東”ノート』より

  • 2006年09月26日 (火)

愛とは同化であり、嫉妬とか疑惑を含むものだ・・・信頼というのはこいつは全然別のもの・・・愛は信頼を弱める。

自分が愛している自分の政府は、あらゆる種類の嘘や言い抜けをやりかねないと思っている。ところがアメリカ人としてのわれわれは、クレムリンのいうことはすべて信じ信頼しているんだ。・・・敵方の宣伝の方が自国のものよりいつだってはるかにほんとうらしく見える

iTune7の不具合

  • 2006年09月21日 (木)

ついに安倍新総裁誕生ですか。これについては後日。

ところで、

いつもiTuneで音楽聴いています。
今日もいつもどおりiTune起動。すると7.0へのアップデートを勧めるメッセージが。
とりあえず何も考えずにインストール。
すると、

「アレ!?音、出ない。てか、音飛びしてる・・・」

何度が再インストールを繰り返して見るも同じ現象が・・・。
あれをいじり、これをいじりしても変わらず。
どうなってるの???

で、「iTune7 不具合」で検索してみたら、続々出てくる・・・

「し、しまった、早まった・・・」

やはりきちんと事前に調べるべきでした。
結局、6.05を再インストール。幸運にもゴミ箱の底に残ってたから良かったようなものの。appleのサイトを見てももう6.05見あたらないし。どういうこと?

まぁ、音楽聴けるようになったので良かったですが。しっかし、一時間半も無駄にした・・・

何事も、鵜呑みにせずにきっちり自分で確認せよ、ってことですね。
「ま、今回も大丈夫だろ~」と思ったときこそ、今そこにある危機!
ふぃぃ、ぃ・・・・・

「九州の百冊」

  • 2006年09月04日 (月)

フラッと覗いた西日本新聞社のサイトで見つけました。

九州に関わりのある著作の紹介記事。紹介とはいえ記事の内容は濃いと思います。

最新記事は佐木隆三。
佐木が犯罪小説を手掛けることになったきっかけが私の目を引きました。

九州人以外の方一目してほしい気がします。別に私は西日本新聞に縁はありませんけども。

web2.0って何?

  • 2006年08月31日 (木)

よく読ませて貰っている落合洋司弁護士のブログ「日々是好日」
ふと、こういう文が目に留まりました。

”国民が国民を監視する、というのは、治安の上でのWEB2.0のような面もあり”

??web2.0って何だ??
IPv6とは違うのかな?
治安の上でのweb2.0ってどういうこと?

知っててあたりまえの概念なのかもしれませんが、実際のところホントに初耳でした。web2.0。
そこでネット検索。

ありますあります。たくさんあります。
その中で・・・コレ。「61歳人気ブロガーが語る、Web2.0時代のアクセスアップ術」 
これ読んでなんとなく分かってきました。

ところで、
ネット上に流通する情報は玉石混淆。真偽不明。従来ならば”情報は”そのプロフェショナルたるマスコミが取捨選択・裏を取った上で流通するものであった。それが常に適切であるかどうかはともかく。ところがネットの普及によってそうした作業抜きで情報が流通する、させることが容易になるわけですよね。

そんなわけで
個人にとっても、あるいはマスコミその他の組織にとっても、様々な情報に対する目利きが今まで以上に必要とされる、のかなと思いました。

濾過されない情報の真偽は疑うべし
とはいえ濾過されすぎた情報も危険

最後に
○ちゃんねるのようなネット上の掲示板における書き込みを眺めていると、物事を様々な観点から吟味した上で言葉を選び表現する、というのは今の時代とそぐわないのか、などと考えさせられます。言いたいことは放言するべし、なのかな・・・。放言の集積の末に一つの真実が見えてくる、ということはあるのか?

「日本は高齢化社会。マスメディア主導で情報を供給する仕組みに慣れている中高年にとって、ブランドのある会社がおすすめ記事を提供する“Web1.0的”な仕組みの方が安心できる。日本では古いメディアが長続きするだろう」

「61歳人気ブロガーが・・・」より引用

これも放言?
姜尚中氏の福岡応援に石原知事反発 「怪しげな外国人」

気になるブログ

  • 2006年08月25日 (金)

いいな~と思う記事を見つけました。
勝手につけたお題は”寛容について”
思わず「そうそう」とうなずきました。

先入観~『エデンの東』より

  • 2006年08月21日 (月)

あなたは先入観と事実とを混同なさらないまれな方だ。現実をあるがままにご覧になる。でも、たいていの人は見たいものしか見ないものです

盲目~『エデンの東』より

  • 2006年08月20日 (日)

たぶん、私たちの心の中には秘密の池がある。そこで醜悪な何かが発生し、しだいに力を増して、池に巡らされた柵をよじ登ろうとする。だが、普通は柵が高く、登りきれずに、また池に落ちていく。まれに、とくに暗い水溜りを秘めている人がいて、とりわけ強い悪が育ち、柵を乗り越え、外に逃れ出る。そうした人を、私たちは怪物と呼ぶのではなかろうか。だが、秘密の水溜りは誰にでもある。天使だけでなく悪魔も人間の発明物だ。ならば、両方をともに理解できるのが当然であり、できないというほうがおかしい。(中略)アダムの目には(イヴの)真の姿が見えなかっただろう。美しさと繊細さのイメージだけが心に焼きついた。キャシー(イヴ)は優しく神々しい、考えも及ばないほどに尊い、清楚で愛情豊か・・・それがアダムの抱くキャシー(イヴ)像であり、キャシー(イヴ)が現実に何をし、何を言っても、焼きついた像が歪むことはなかった。

新時代~『エデンの東』より

  • 2006年08月20日 (日)

なるほど、二人がかりなら一人より大きな石を持ち上げられよう。集団でかかれば、一人でやるよりよい車を早く作れるだろう。大工場で生産されるパンは安くて均質かも知れない。だが、衣食住のすべてが大量生産という複雑な機構から生み出されるようになるとき、私たちの思考にも大量生産方式が入り込むことは避けられない。それは他の思考方法を排除する。大量生産の時代、集団生産の時代だ。経済にも政治にも大量生産が入り込む。・・・人類は、唯一、創造する生物種だ。創造のための道具は個人の心と精神であり、それ以外にはない。何であれ、二人がかりでの創造などあったためしがない。音楽であれ、美術であれ、詩であれ、数学であれ、哲学であれ、協同による創造などはない。ひとたび創造の奇蹟が起これば、集団がそれを敷衍し、発展させていくことは出来よう。だが、集団が何かを発明することは決してなく、価値は個人の孤独な心の中にこそある。だが、いま、自由で放浪する心は追跡され、捕縛され、鈍らされ、薬漬けにされる。人類は、種として悲しい自殺への道を選択したように見える。

完璧~『エデンの東』より

  • 2006年08月20日 (日)

完璧でないものは憎めない。完璧ではない兄は、だから暖かく接するべき対象になった。

物語と嘘~『エデンの東』より

  • 2006年08月20日 (日)

物語は、真実に付随する飾りや外見に注目し、聞き手・話し手双方のためにそれを脚色する。物語ることには損も得もない。一方、嘘は利益や逃避を第一の目的とする。・・・キャシーの嘘にはいつも邪気があった。罰を免れ、仕事をさぼり、責任から逃れる為の嘘であり、自分を利する為の嘘だった。

 キャシー:キャシー・エイムズ:登場人物の一人。エデンの東のモチーフである旧約聖書創世記でのイヴにあたる

正常と異常~『エデンの東』より

  • 2006年08月19日 (土)

怪物とは、程度の差こそあれ、正常形からのずれだ。片腕のない子が生まれるなら、親切心や良心の種を持たない子が生まれても、少しも不思議ではなかろう。もともとあった腕を事故でなくした人は、腕のない状態に慣れるのに苦労する。だが、生まれながらに腕のない人には、その苦労がない。・・・誰にとっても自分こそが正常である。それは怪物も同様であり、怪物には、われわれの正常こそ怪物的に見えるに違いない。精神的怪物の場合は、目で見て他と比べるものがないだけにわかりにくいが、生まれつき良心を持たない人には、良心の呵責など滑稽の一語だろうし、罪人には、正直がばかばかしく思えるかもしれない。怪物は正常からのずれ。怪物には、われわれの正常こそ怪物的に見えることを忘れてはならない。

エデンの東(上) エデンの東(上)
ジョン スタインベック
価格:2415円

正義~チャーチル語録 その6

  • 2006年08月13日 (日)

人は寛大である前に公正であらねばならない。

チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ
ジェームズ・ヒュームズ
入手不可

指揮権~チャーチル語録 その5

  • 2006年08月09日 (水)

油断してはならぬが、用心深くしすぎてもいけない。立派な生き方をすべきだが、それを鼻にかけてはならない。自分が笑うのは少しにして、部下に笑うことを教えよ。ーーー砲火を浴びている最中でもユーモアを解する力をもつことを教えよーーー。戦争は頬笑みながらするゲームなのだ。頬笑めないなら、無理矢理ニタリと笑え。指揮官たる者、それもできないなら、できるようになるまで邪魔にならないよう後ろに下がっていろ。

チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ
ジェームズ・ヒュームズ
入手不可

War is a game that is played with a smile. If you can’t smile, grin. If you can’t grin, keep out of the way till you can.

自己紹介?

  • 2006年07月21日 (金)

黒猫のつぶやきさんで紹介されていた”データで分かる辛口性格診断”やってみました。

当ってるところは当ってますね・・・

(続きを読む…)

坂口安吾の言葉

  • 2006年07月17日 (月)

人は予感を実現する動物である。
  ~「処女作前後の思ひ出」より

「覚悟しろ!社会がお前を赦さない」

  • 2006年07月03日 (月)

檢察官が公判廷で被告人を指弾したというニュース。

ブッシュ(息子)&小泉さんの影響力甚大・・・かな

判断 ~チャーチル語録 その4

  • 2006年07月02日 (日)

正直であるのは結構なことだが、正義にかなっているということもすこぶる重要なことだ。

ほとんどの人が誤った判断と呼んでいるものは、自分とは違う判断だということにすぎない。

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希望 ~チャーチル語録 その3

  • 2006年07月01日 (土)

希望をはぐくみたまえ。だが、現実から目を逸らしてはいけない。

夜明けは希望というメッセージを伝えてくれる。

忍耐と勇気を合せれば、余裕と希望が生れる。

夢を棄てるとき、この世は存在しなくなる。

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警視庁によるひき逃げ犯誤認逮捕

  • 2006年06月30日 (金)

(yahoo news)

逮捕時にマスコミがどのような報道を行ったのか、そして今後マスコミがどのような訂正報道(警察を批判するだけかもしれませんが)を行うのか調べてみたいと思います。

葉巻と恋~チャーチル語録 その2

  • 2006年06月27日 (火)

葉巻を吸うのは恋に落ちることに似ている。まずその姿形に魅せられ、やがて、その香気なしではいられなくなる。そして、忘れてならないことは、絶対に火を消してはならないということだ。

チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ
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絶望 ~チャーチル語録 その1

  • 2006年06月25日 (日)

絶望するのは罪である。未来の力となる方策を逆境から引き出す術を学ばねばならない。

決してひるんではならない。音を上げてはならない。絶望してはならない。

守るべき極めて重要な約束がひとつある。「断じて絶望するなかれ」ということだ。絶望という言葉は禁句である。

チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ チャーチルの強運に学ぶ―断じて絶望するなかれ
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入手不可

原題”The Wit&Wisdom of Winston Churchill”の方が格好良いなぁ・・・

W杯と中田

  • 2006年06月20日 (火)

人生と執行猶予

  • 2006年06月12日 (月)

芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」より。

僕等は皆ペエタアの言つたやうに確かに「いづれも皆執行猶予中の死刑囚である」。この執行猶予の間を何の為に使ふかは僕等自身の自由である

改題宣言

  • 2006年05月08日 (月)

突然ですがBlogタイトルを変更することになりました。

今後ともよろしくお願いいたします。

契約行為?単独行為? その2

  • 2006年02月28日 (火)

先日データがトんでしまった駄文のつづきを。

人は一人では生きてゆけない

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契約行為?単独行為?

  • 2006年02月25日 (土)

ここのところ民法に夢中で、所用以外では一切外出することがなかったせいか、ちょっとネガティヴ=シンキングに犯されそうな予感がありましたが・・・。
(以下、司法試験には関係ありませんので。)

(続きを読む…)

佐賀のゲーム店主殺害とか

  • 2006年02月08日 (水)

8年前に佐賀県江北町で起こったゲーム店主殺害の被疑者逮捕の背景に、佐賀地検の幹部交代があるとの報道があったとか。次席検事壬生隆明氏(2005年10月~)、検事正井内顕策氏(2005年12月~)。さて、事件の今後の展開が気になります。そういえば同じ佐賀県の北方町で起きた連続殺人事件がありましたが。今ネットで調べてみたら、これは2002年に被疑者が逮捕されたのち、2005年5月に一審無罪判決が出て検察が控訴してるんですね。なるほど。

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