「海外文学一般」カテゴリの記事一覧

シェイクスピア『ハムレット』

  • 2009年1月30日

福田恆存の訳でハムレットを読む。実は初めて読んだ。
そもそも、シェイクスピアに限らず戯曲というものをほとんど読んだことがない。料理本を読んでも腹が膨れぬと同様、戯曲=ドラマの台本を読んだところでつまらん、と(シェイクスピアを読むまでは)思っていたのであった。恥ずかしながら「ハムレット」(父親の仇討ち)と「ロミオとジュリエット」(純愛もの?まだ読んでいない)の区別すらようよう出来ていなかったことに気づかされる。

劇は描写ではありません。「第四の壁」という演劇観は、シェイクスピアのうちには存在しなかった。一つの部屋の四つの壁のうち一つをとりはらって、観客に見えるようにしたものが劇だという考えほど、劇をつまらなくする考えかたはない。それなら観客は見ているだけです。のぞいているだけです。役者はのぞかれていることを知らぬふりをして、舞台と客席との間に壁があるごとく、すなわち人生そのままに芝居をするということになる。それなら、劇は描写です。(中略)が、シェイクスピア時代(中略)当時の観客が求めていたことは、同時にまたかれらに求められていたことは、劇中人物と同様の情熱を体験することだったのです。各場各場の展開にしたがって、刺戟と浄化の過程を味わうことだったのです。

福田恆存「シェイクスピア劇の演出」〜『ハムレット』新潮文庫より

ちなみにこの文庫本、文庫本の割りに付録が充実していて有り難い。福田による解題・中村保男の解説、上で引いた福田の演劇論、ほかにシェイクスピア戯曲の執筆年代、シェイクスピアの年譜も有り。

「シェイクスピア劇の演出」の最後に福田は次のように書いている。

シェイクスピアの原文は、ご承知のようにブランク・ヴァースで書かれております。(中略)が、翻訳では、ブランク・ヴァースの妙味はだせません。(中略)正直な話、日本語のシェイクスピアは、訳者の手にわたるまえ、すでにその美の九十パーセントは死んでおります。

同上

意外な言葉ではないが、「そこまで言う!?」という気もするので、実際に英文にもあたってみるとする。

それにしてもさすがにシェイクスピア関係のリソースは豊富。googleやwikipediaでざっと見ただけでも次々にヒットする。(日本)国文学にもこれに匹敵するものがあるのかどうか探してみよう。
折々、目を引いた台詞をこのブログに書き付けてみようか。

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男一匹犬一匹

  • 2008年1月20日

ひところ暖かい日が続ゐていたがけふは雨。日本列島凍結か・・・。「たいへんだぁたいへんだぁ」
 ・・・・などと、ここで騒いでもはじまらないからやめるとしよう。ほんと寒いぜ。

私のお気に入りの作家の一人であるスタインベックの写真を見るたびに「イヌ顔だなあ」と思っていたんだが、じっさい彼は犬好きだったんだななどと『チャーリーとの旅』(ポプラ社 2007年)を読みながら思ったことだった。晩年の彼がプードル犬チャーリーと「ふたり」で全米を巡った際の紀行文。なぜ「ふたり」なのかはここには書かない。
ノーベル賞作家といい文豪というも、この作家のちょっとトホホ感の漂うユーモアらしきものはたとえば ”うつくしい日本の” OA とか KB あたりにもあるのだろうか。どうも無いような気がするな。
いやいや、ごちそーさま!

なおこの本の原題は "Travels with Charley"(1962) だが、その邦訳はなんだか若き日の著者の職歴にも似て紆余曲折を辿ってきている。bk1のデータベースによると弘文堂(1973) →サイマル出版会(1987) →ポプラ社(2007)へとなっている。
なんにせよ、良書が再び世に出たことを欣快とするものであります。

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ドストエフ好き

  • 2007年12月22日

つまらん駄洒落で誤魔化すしかないほどに中身のないエントリですのでご注意ください。

しばらく前にドストエフスキーの『罪と罰』を読み、そして今回『カラマーゾフの兄弟』を読んでみた。でも読書感想文は昔から嫌いなので書かない。今までに、何かの本を読みながら思いついたことをパラパラとブログに書きつけたことはあるが、この2冊についてはちょっと今は書けそうにない。

ネットでちょいと調べてみたが、『罪と罰』は1866年、『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの最晩年1880年の刊行(2年越しの連載だそうで)とのこと。片眼で最近の世相を、そしてもう一方の眼でこれらの著作を見聞しあるいは読んでいると、いったいこの100年以上の間人間は何をやってきたのかと思ってしまう。まるで進歩がない。いや、そもそも人間は時代とともに進歩してゆくのだという根拠のない幻想に落ち込んでいただけなのだろうかという気になってしまう。もっとも今の私は、仮に人間が進歩向上を知らない生き物であるとしてもさほど驚かない。そもそも何がどうすればそれが進歩といえるのかということすら知らないのだ。誰かご存じの方、いらっしゃいませんか?

たしかにわたしたちの身の回りにある「もの」はドストエフスキーの時代から比べると大きく変ったのだろう。では果たして人間そのものは? はたしてどれほど変り得たか。そもそも変り得るものか。

この2冊の(あるいはドストエフスキーの)重要なテーマの一つはどうやら無神論にあるらしい。信仰の対象としての神を喪失した人間の脆さ、危うさ。そしていや増す苦悩。ここでいう「神」をユダヤ・キリスト教的な神とだけ捉えてしまっては、日本人にとってドストエフスキーはいつまでも「お客さん」「海の向こうの過去の人」。べつに「神とは何か」なんぞと深刻になるまでもなく、いま、日本でも神の喪失とその帰結が露わになっている。誰かさんたちは「規範意識を再建せよ」と唱えているが、そもそも彼らが規範意識とはどのようなものかをどれほど真剣に考えているのかは大いに怪しむべきところ。はっきり言ってまるで見えていないのではないか。

そんなこんなのあれこれをいやでも考えさせられることになった今回のドストエフスキー体験だが、いまのところ独り言以上のことは書けそうにない。ここまで書いてみてそれがはっきりした。よってしばらく発酵待ちとする。だまっていても、肝心かなめの大事なことは必ず浮かび上がってくる。要らないものは放っておいても沈む。大事がなんなのかははそのときはじめて分かるはず。「これこそがおれにとって一番大事なものだ!」というものを抱えこんでしまった頭の良い人たちは往々にしてそのゴミといっしょにドボンする。

ふとおもいついたこと。
並ぶものなき権威を誇ったかつてのキリスト教に反逆した人々の真の後継者は、いま「無神論教」という新たな権威・宗教に立ち向おうとしている人々であって、決して軽薄に無神論に飛びつき怪しげな小理屈を振りまわしている阿呆どもではない。

ドストエフスキーは登場人物のひとりに次のように語らせている。引用は原卓也訳『ドストエフスキー全集』1978年 新潮社刊。

「俗世の学問は、一つの大きな力に結集し、それも特に今世紀に入ってから、神の授けてくださった聖なる書物に約束されていることを、すべて検討しつくしてしまったため、俗世の学者たちの冷酷な分析の結果、かつて神聖とされていたものは今やまるきり何一つ残っていないのだ。しかし、彼らは部分部分を検討して、全体を見おとしているので、その盲目ぶりたるや呆れるほどだよ。全体は以前と同じように目の前にびくともせずに立ちはだかっているというのに、地獄の門もそれを征服できんのだからのう。」

「はたしてこの全体が十九世紀間にわたって生きつづけてこなかっただろうか、今も個々の心の動きの中に生きつづけているのではないかね? すべてを破壊しつくした、ほかならぬ無神論者たちの心の動きの中にも、それは以前と同じように、びくともせずに生きつづけているのだよ! なぜなら、キリスト教を否定し、キリスト教に対して反乱を起している人たちも、その本質においては、当のキリストと同じ外貌をし、同じような人間にとどまっておるのだからの。いまだに彼らの叡智も、心の情熱も、その昔キリストの示された姿より、さらに人間とその尊厳にふさわしいような立派な姿を創出することができないのだからな。かりにその試みがあったにせよ、できあがるのは奇形ばかりなのだ。」

無神論者といおうが狂信者といおうが、他人の話にまるで耳を傾けないような人間すなわち自分自身に疑いの目を向けることのできない人間が多い時代なんてものは、間違いなくかつての中世暗黒時代とまるで変るところがない。歴史は繰り返しつづける。もちろんこれは単なる認識。それも私だけのね。

シュタウダー『ウンベルト・エコとの対話』

  • 2007年10月26日

ふと手に取ってみた一冊。イタリアの「作家」ウンベルト・エーコとそのドイツ人研究者シュタウダーの対話集。エーコの創作にまつわる内幕話だがこれがなかなか面白かった。著者によって付された丁寧な注釈がいかにもドイツ人、てなかんじでありました。注釈は丁寧でもほんらい対話集なもんでスラスラと読了。文章というのはそれを「文字の集まり」と単純化すればこれを文字数・単語数・ページ数で計ることができる。しかし同じページ数でもそれが対話ならスイスイ読めるし日記なら一気読みはする気にならない小説ならスイスイ、論文ならトツトツ。つまりは文章それぞれの性格(ピンとくる言葉が思い浮かばず)が自ずと含まれている。文章がその書き手の生活・思考・生(生きること)の実相を表現するものであるとすれば、その生の凝縮度の差が文章の個性ともなる。星新一が一ページ幾らの原稿料に異議を唱えたことをふと想起する。いま私がダラダラと書き綴るこの文章はさしずめ物置に雑然と詰め込まれたダンボールの中のガラクタといったところ。

今日のマスメディアは絶えず知識人を使ってさながら神託みたいに「本当のことを言え」と命令しようとしています。たぶん或る時点では知識人の義務の一つがどこにあるのかと言えば、考える暇もないのにあらゆる出来事について発言させられること、神託になることを拒絶することにあるのでしょう。(P218)

ついでにいえば、訳者あとがきが面白い。日本におけるエーコ研究を批判する批評家の名前(イニシャルのみだが)をあげて「チンピラ」と喝破。ちょっと爽快な感じもした。もひとつついでに、この本、失礼ながらそのテーマからしてさほど部数がはけるとは思えぬのだが、丁寧な造本にもかかわらず良心的な価格で、他人事ながら「だいじょうぶ?」などと思ってしまった。而立書房はなかなか良心的な出版社なのかも。
 トーマス・シュタウダー著,谷口伊兵衛ほか訳『ウンベルト・エコとの対話』而立書房2007

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『怒りの葡萄』を読み終えて

  • 2007年9月26日

怒りのぶどうは甘かった。と、これではなんのことやら意味不明か。先日私はこの作品を悲劇と書いたが、そうではなかった
(いや、そうか!?)。ま、悲劇でも喜劇でもそれはどうでもいい。物語の終盤にこれでもか!これでもか!とうち続く不幸なできごと。ふだん物語に感情を移入させて読むことの少ない私ですら「おいおいおーい」(これは泣き声ではなくて慨嘆)。
最後の最後、まさにどんづまりのところで訪れる救済。そうはいってもハッピーエンドとはとても言えないが。

物語は常にハッピーエンドでなければならない。
不幸な出来事、不条理は現実の世界だけでたくさんじゃ。
しかし、スタインベックは(私にから見れば)きわどい結末をつけてみせた。

と、こんなことを今頃になってこれを読んだ私がクドクド書いてもちょっとね・・・。一言で言えば、「悲劇」というより「叙事詩」であった。ママゴトみたいな私小説なんぞとは一線を画す、いや、次元を画す。いやいや、しかし・・・当時のアメリカでこの作品がどのように評価されたのか気になる。もちろん随分と売れたのは承知してるが。私情をまじえないハードボイルドな文体ながら、明らかに資本主義への批判が読み取れる。いや、もう少し正確にいえば、スタインベックは資本主義批判へと読者を導いている。読者がそう読むであろうことを知って書いている。しかしまたこの作品はどこをどう読んでも「プロレタリア文学」ではない。

おそらくスタインベックの特徴の一つはそのラディカルさにあると見る。彼は、資本主義だとか社会主義だとか、はたまた共産主義だとかその他諸々の、誰が言い出したか言っているのかよく分からないような枠組みには頓着しない。しかし、おそらく彼のようなラディカルな人間は、端から見ればたぶん「胡散臭い」。「あいつは資本家のイヌなんだろーよ」「あいつはアカじゃねえか?」などと出来合いの物差しで計られ、出来合いの枠の中に無理矢理押し込められてしまうだろう。手足がはみ出していようが頭部がだらりと垂れ下がっていようが、そんなことには殆んど誰も頓着しない。とりあえず枠の内にあるように見えればいいのだ。それによって社会の平穏は保たれる。

そんなことを考えて、wikipediaをざっと覗いてみた。日本語版には当たり障りのないことしか書いていなかったが、英語版にはやはり、あった。

Steinbeck complained publicly about government harassment. In a 1942 letter to United States Attorney General Francis Biddle he wrote “Do you suppose you could ask Edgar’s boys to stop stepping on my heels? They think I am an enemy alien. It is getting tiresome. The FBI issued ingenuous denials that Steinbeck was not “under investigation”. In fact, Mr. Steinbeck was indeed the object of intense FBI scrutiny. He was not under investigation, which is a technical term used by the FBI when they seek to collect evidence in connection with a specific crime.

Wikipedia(en)
(以下、拙劣訳)

「スタインベックは政府のいやがらせについて公に抗議し、1942年に彼は連邦司法長官フランシス・ビッドル宛に次のように書き送った。『私のかかとを踏みつけないように[訳注]エドガー・フーバー(連邦捜査局長官)の手の者に言っておいてもらえませんかね。彼らは私を敵性国人とでも考えているようです。うんざりしております』[原註] これに対して連邦捜査局(FBI)は、スタインベック氏について「捜査中ではない」と言下にこれを否定したが、そもそも「捜査中」とはFBI部内の用語法で「ある特定の犯罪への関与を示すような証拠を収集するための捜査」を意味するのであって ーーーしたがってそもそも犯罪に関与したという具体的な嫌疑のないスタインベックについては「捜査中ではない」のは言うまでもないのであったのだがーーー 実のところスタインベックはFBIによる厳重な監視の対象となっていた。」

UBSGW訳

[訳注]:「私のかかとを踏みつけないよう(“stepping on my heels”)」とはもちろん「尾行されている」ことを皮肉っている。

(以上、wikipedia(!)英語版スタインベックの項の一部を私が翻訳したものですからそれなりに読んでください。)

さもありなん。

原著の刊行は1939年。この年は(村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』で取りあげた)ノモンハン事件で関東軍がソ連に大敗、さらに安倍晋三の先達とも云える平沼騏一郎がヨーロッパ情勢の激変に対応できずに「ポキッ」と政権を投げ出した年であり、さらには欧州で第二次世界大戦の戦端がひらかれた年であった。
はたしてこの70年の間に人類はどれほど変わったのか。日本でも、持てる者と持たざる者との二極分化が言われ、警察・軍部を含む行政機構の暴走・迷走が後戻りのできない地点を越えつつあり、「国民総役人根性」が猖獗を極めている。いまの私にとってはなんとも示唆に富む一冊でありました。

福田康夫新政権誕生の日に記す。


(追記1)
このエントリへのコメントにてDr.waterman氏がご指摘下さったとおり、ドイツ(を含む枢軸国)からの移民とその子孫は(しばしば?)FBIの監視対象となったので、これだけを以てスタインベックの”政治的”背景が当局から問題視されたと言うことは出来ない。なお原註によれば彼は妻が共産党に関わることに反対して、自身は民主党に加入したとのこと。

(追記2)
「悲劇」というより「叙事詩」と書いてみたもののどうもしっくりこない思いが残っていたのだ。あとで、まさにこれだっと思える一文を見つけたので記しておく。「悲劇の本質は、決して不幸にあるのではない。ものごとの仮借のない働きの厳粛さのうちにある」(ホワイトヘッド)「白頭庵熱弁〜文明論的熱弁その参」。直リンクはまずいのかもしれないのでトップページのアドレスのみ記す。

http://www.geocities.jp/hakutoshu/civilizationlog3.html#topofthispage

ウェルテル

  • 2007年8月12日

このブログのどこかに書いた通り、文学なんつうのは軟弱ものの慰みものだという大きな勘違いからかつてこれを避けに避けていた私が、遅まきながら「いい湯だなぁ」。どっぷりとつかって鼻唄まじり。知らぬ間に茹であがってしまう前に湯から上がるべきか。
恥ずかしながらウェルテルを初めて読んだ。積ん読歴は・・・高校生の時分から書棚に眠っておりました、ハイ。

どうして君たちはそういきなりある事柄について愚かだの賢明だの、善いだの悪いだのいわずにはいられないんだろう。

高橋義孝訳『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫)より

チャペック『未来からの手紙』

  • 2007年2月11日

何をするのも何を考えるのも鬱陶しい折々に、少しづつ少しづつ読み続けていた一冊。とうとう読了。カレル・チャペックのエッセイ集。

収録されている作品は以下の通り。

  • 「未来からの手紙」
  • 「言葉の批評」
  • 「低俗的エロス」
  • 「小話の自然誌」

暖かみのあるクールな文体でつづられた世相観察。「ビッグ・ビル」というギャングが支配する”未来のアメリカ”なんていかにも風刺が利いてると思う。Big Bill(紙幣)。ポルノグラフィーについて語られた「低俗的エロス」もまた単なるポルノ論ではなかろう。私にはむしろマスメディア批判とも読めた。

ポルノグラフィーは、秘密漏洩という性格を非常に好んで受け入れる。そのお気に入りの形は、若い娘の日記とか横取りされた令嬢の手紙である。(・・・)ポルノグラフィーのもっとも目につく性格の一つは、異常な、そしてほとんど非人間的な倒錯性を求める傾向である。(・・・)ポルノグラフィーが読まれる理由の一つは、刺激ではなくて羞恥であるとわたしは思う。(・・・)ここにポルノグラフィーがその卑しいなぐさめをたずさえて登場するのだ——–ごらんよ、あんた、なんと空しく狂気じみたことがここで起こっているかを。それにくらべたら、あんたの羞かしい経験なんてなんだっていうの?なんにもそのことを気にしなさんな。あんたが見るように、ここではもっと悪いことが起こってるんだから。

「低俗的エロス」

かたやポルノグラフィーが「道徳の研究」「科学的な目的」などという建前を掲げて自己正当化を図っているとすれば、マスメディアもまた「世論の喚起」「時代の記録」などという”もっともらしい目的”を掲げて自己正当化を図っている。まさか本気でそれを信じているわけではあるまいが・・・。
ポルノなら、ちょっと申し訳なさそうな、後ろめたそうな、あるいは反社会的なものとしての引け目を多少なりとも持っていそうだがマスメディアにはどうやらそういうものはないらしい。しかし、なにも女性の裸だけがポルノ・猥褻なものというわけではあるまい。私としては、「すでにコード化済みの猥褻さ(裸体、差別その他)でさえなければ何でもありなのだ」とメディアが明言してくれれば少しはスッキリしそうなのだが。少なくとも「マス」メディアにのって流通する情報は面白さに欠ける。それは、彼らが公にする情報が、笑い事でない「重要な」「真実」を伝えていますよ、ということに「なっている」からだ。

女というものは考えが足りない、首尾一貫していない、おしゃべりだ、とかなんとか言われている。わたしとしては、それよりはるかに恐ろしいことで女性を非難する。ご婦人方はユーモアをお持ちにならない。

「小話の自然誌」

ユーモアとは、自らを笑いものにすることだと多くの人が言う。もしその通りだとすると、確かに彼ら(マスメディア)にはユーモアが欠けている。まるでゲストをイジって視聴率を稼ぐタレントではないか。たしかにマスメディアにはユーモアが欠けているという点で、チャペックの言うとおり女性的なのかもしれない。などと書くと「女性蔑視」ということになってしまうだろうかね・・・。チャペックを「女性の敵」呼ばわりする間抜けがもしいるのならば是非会ってみたい(気もする)。

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フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

  • 2007年2月9日

ふと思い立ち『ギャツビー』を読む(ただし村上春樹ではなく野崎孝訳のもの)。

原著の刊行は1925年。「黄金の20年代」アメリカの頽廃を背景にして一人の青年の破滅を描く、と言ってしまえばそれまでだけど、ひとことで言えばそのような物語。まあ実際、その程度のストーリー(書き物)ならその辺にゴロゴロしてるかな。
カバー裏に「滅びゆくものの美しさと青春の光と影」などと紹介文があったもんだから今までずっと読みもせずにあなどっておりました、正直言って。

だってそうでしょ? 滅びゆく者が美しいわきゃないでしょう。
つまらない女に入れあげて金も名誉もなにもかも蕩尽した挙句、誰れからも顧みられることなくこの世から消えたギャツビーのどこが美しいものか。冷めた目で見ればただのバカ間抜けじゃないの。もちろん、間抜けな人間をどこまでも傍観者として哀れむことに徹すれば、そんな破滅的な人物の物語を美しいなどと言ってられようけれど(そもそも宣伝文とはそういう万人向けの「きれい事」ではあるのだが)。

汚いもんはきたない
つまらんもんはツマラン

あたりまえのことである。人間は汚い、人間は愚か。はっきりしてるじゃないか。だから「そんなことはない、きれいなとこもある」などときれいごと言ってもはじまらない。
「そのようなことは口にすべきでない」
「ひじょ~にケシカラン!」
「そんなこと言ってい~んですかぁぁッ!」

やかましい! 汚いものは汚いものとして、愚かなものは愚かなものとして受け取り、書き、観念すれば(あきらめれば)よいではないか。こんなことを書くと「愚かなのはおまえだけだろ」「後ろ暗いところあるんだろ」などと言われるのかもしれない(いや、確かに愚かなんだけど)が、私が言わんとするところは「まぁまずは目ェ見開いておきたい、耳かっぽじっておきたい」、ただそれだけのことなんだよ。

さて、本題に入ろう。
フィッツジェラルドはこの作品の中で二人の登場人物に自己を投影している(と思う)。無難に社会に適応していくフィッツジェラルド(A)=キャラウェイ、破滅に向かうフィッツジェラルド(B)=ギャツビー。そう私(の場合)は読んだ。もしキャラウェイが単なる傍観者であったならこれほどつまらない低俗な(!)物語はない。

キャラウェイは単なる傍観者としてではなく、光と影の双方に「当事者として」相対し、かつ影(=ギャツビー)をも受け入れ、ただ一人その破滅を惜しむ。そこには、自分の愚かさ、あるいは自らと切り離すことの叶わない「影」から目を背けつつ、自分だけはまともなのだと言ってのける者たちに対する静かな怒りをたたえたキャラウエイがいる。

実際のフィッツジェラルドがどうだったのか私に知るよしもないが、彼の中にも光と影の二つの人格があったろうと思う。影なきところに光なし、だ。フィッツジェラルドは影をどこまでも影として描きだした。たったそれだけのことだ。それほどのことだ。

フィッツジェラルド(B)(=ギャツビー)の本質にはまるで関心のない有象無象がてんで勝手に憶測し、批判し、利用し、そして忘れ去っていく。そうして影を押し隠して生きる者たちが虚偽や偽善や肉欲に取り巻かれたまま「しあわせな人生」をたどる一方で、愛という「光」を目指したギャツビーは破滅の深淵に落ち込んでいく。
そのような皮肉さにいささか感じるところがありました。
いいね、フィッツジェラルド。

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チャペック『いろいろな人たち』

  • 2006年12月23日

チェコのジャーナリスト兼作家カレル・チャペックのエッセイ集。日常生活や文化や政治などに関わる多岐にわたる事柄が、そこはかとないユーモアを感じさせる言葉で綴られています。そしてそれらからは、彼が活躍した1920~30年代のヨーロッパの空気感が感じられますような気がします。

生涯の大半をジャーナリストとして過ごしたチャペック。自分の目で見て聞いたことを、自分自身の頭で考えて、身に付いたユーモア精神溢れる文体で語る。そこにはセンセーショナリズムも、ポリティカリー・コレクトな”正論”も顔を覗かせることがない。漢字を知らない中学生でも読めるように書かれた今どきの新聞を見慣れた眼には、彼の極めて上品な文体がまとう修辞は些か跨ぎにくい敷居のようにも感じられることがあるが、独り静かに彼の言に耳を傾けていくうちに自分が如何に身の回りに起こるどうでもよい瑣事に囚われていたかに気づく。とくに彼のコミュニズム、アメリカニズム、ファシズムに関するエッセイを読みながら、目の前の事象に囚われない彼の透徹した視線を感じる。

ちょっと締まりのない一文ですが今日はこれにて。

木から落ちる人間は足を折る可能性があるという主張は、けっして悲観主義的ではない。悲観主義的なのは、「木に登ってはいけない、神様の罰を受けるから」と信ずることだ。(・・・)真正の悲観主義は、物事は悪い、または悪くなるという見方のなかに存在するのではなく、全体にそして原則的の物事が悪くならざるをえないという見方のなかに存在する。(「悲観主義について」)

「森は黒い」と実に容易に言える。しかし森の中には黒い木は一本もなく、赤か緑なのだ。一般には松の木かモミの木なのだから。「社会が悪い」と実に容易に言われる。しかし根本的に悪い人間がどこにいるか探し出して欲しい。野蛮な一般化なしに世界を判断するよう試みて欲しい。しばらく後には、原則的主張などは一かけらもなくなってしまうだろう。(・・・)人間精神のもっとも非道徳的な贈り物は、一般化という贈り物である。(「政治的動物」)

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メレディス『喜劇論』

  • 2006年10月22日

1877年に行われた、「喜劇の観念と喜劇的精神の効用」と題する講演をもとに出版された『喜劇論』。旧字体の漢字で読み辛いといえば読み辛いですが、面白かったです。

読みながらいろいろ考えました。「怒りが湧いたとき、とっさに自分自身を客観視して怒りを笑いに転化するテクニックというか心構えがもし私に備わっていれば、人生もっと豊かになる(なった)だろうに・・・」そういうものを全く持っていないとは思っていませんけれど。怒りの度合が大きいときは駄目ですね、まだまだ。まさに愚かだとしか言いようがありません。仕方がないのでメレディスを読んで笑い飛ばすしかありません・・・。

ところで、メレディスについては情報が少ないようです。wikipedia日本語版には見あたりませんでした。英語版も参照してみましたが、巻末解説に書かれていた以上のことは書かれていませんでした。夏目漱石が彼の著作を愛読していたのは確かなようです。岩波文庫で『エゴイスト』がまだ入手可能のようです。

侮蔑とは喜劇的理知の喜び得ない感情である。それは怠惰な心、独りよがり、偏狭な満足に対する弁解であって、完全に情け深いものでないではないか

我々が愚味を卑しむという時、もしそれが偽りでないなら、我々は頭脳を閉鎖しているのである。喜劇性の知覚に訴えてみると、狂愚の存在する所には、同じく愚かな侮蔑の態度がある。怒りも侮蔑に劣らず愚かである。

風刺の笑いは背中、または顔に加えられた打撃である。喜劇の笑いは個人に向けられないで、比類なく鄭重である。

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ゲーテ『ファウスト 第二部』

  • 2006年10月7日

読了。

ファウスト第一部を読んだのはいつだったか・・・5、6年前だったでしょうか。内容はもうすっかり忘れていますが、没頭して読んだ覚えだけは残っています。

しかし、当時は第二部に入って早々に挫折しました。第一部とは全く違った雰囲気で、ストーリーが見えず掴み所のない思いで巻を閉じました。

ユングがファウスト第二部から多くのインスピレーションを得たと聞いて、今回改めて読んでみる気になりました。今回はなんなく読了。これがもしゲーテの作でなければ読み通すことはなかったかもしれません。

鎖に繋がれた品のいい夫人が歩いて行きますが、ひとりは不安そうで、もうひとりは愉快そうにしています。
つまりひとりは自由を求め、もうひとりは自在を得ているのですね。

↑この部分、なんだか禅に通じるものがありそう。
自由を求めるが故に不自由になる。不自由な状態にありながらも自在(自由)で在り得る。

「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに価する」
・・・
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、俺は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。

悔いを知れるなべての優しき者よ。
感謝しつつ己が性(さが)を変え、
清らけき福を得くべく、
われらを救わせ給うおん方を仰ぎ見よ。
心すぐなる者はみな、
おん身に仕えまつるべし。

この作品についてあれこれ述べるだけの力は私にはありません。思うところは多々ありましたが、それをありきたりの表現しかできない私の言葉に移すことは無駄、というか作品に対する冒涜のような気がします。

「じゃあ、なぜブログにこんなこと書いてるの?」

・・・・・・それは・・・ですね、
以前は受け入れきれなかったファウスト第二部ですが、今回は読めた。
ということは「その気になって耳を傾けてみればなにか伝わってくるものが必ずある」のかもしれない、ということを書いておこうと思ったから、です。
おそらく以前の私は、今以上に感性の間口が狭かったと思います。いや、狭めていたというのが正しい、でしょう。それはこの本に限ってのことではありませんが。深く反省。

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スタインベック『創作日記』読了

  • 2006年10月6日

読了。

「エデンの東」創作日記。
編集者へ宛てた書簡の体裁をとったスタインベックの日記。
エデンの東を執筆していた彼が毎日ウォーミングアップ代わりに書き付けたものだそうです。実際に編集者(パスカル・コヴィチ)が読むことはなかった、一種の自己内対話。

日記という形式のせいか、一気に読むことは出来ませんでした。文章というのは量でばかりは計れないと実感。やはり書かれた内容に即した読書法というものがあるのでしょうか。

「エデンの東」を既に読んでいれば「あ~、あの場面にはそういう意図があったのか」などと楽屋裏を覗く感じでけっこう楽しめます。

われわれは、自分たちが何をしているかについて、ほとんどまったく知識を持たず、自分自身の暗闇の中で仕事をしている

それ(生きようとする意志)をぼくはほんの僅かしか持っていない。・・・これは死へのあこがれではなく、生れていなければよかったという一種の渇望なのだ。このことを述べたことが何回かあるが、その時ぼくは、・・・率直な不信から一種の憎悪に至までのあらゆる形の攻撃を受けた。・・・その限りで僕は、キャシーのような怪物である。

人間の誤った態度の一つは、小鳥は幸せな時に歌うと想像することだ。人間はそうではない—人間は苦しんでいる時、熱望している時にもっとも美しく歌うのだ。

彼女は怪物だが、それは実はぼくたち皆の中にいる怪物だから、それで彼等は彼女を憎むようになるのだ。人々が興味を持つのは、彼女が異質だからなのではなくて、そう(異質)ではないからなのだ。

この本の最後の方にある、スタインベックと架空の編集者との対話は笑えます。「エデンの東」を脱稿したスタインベックが架空の編集者たちの批評に対して自作の弁護をするという一見まじめな遣り取りですが、そのまじめな分だけユーモアに溢れているように感じました。”ユーモアここにあり”

創作者の自己内対話を読むのもなかなか面白いものがあるようです。
この本を読み、また先日『影の現象学』を読んだことを考え合わせるとどうも今の私の興味関心は”自己内対話”にあるような気がします。
決して意識的にそうしているわけではないのに、ふと気がつくと自分の言動がなにがしか一貫性を持っている。
これもまた無意識のなせるわざでしょうか。

創作日記―“エデンの東”ノート (1976年)
J.スタインベック
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スティーヴン・キング『小説作法』

  • 2006年9月15日

山田詠美のエッセイで知った、スティーヴン・キングの自叙伝というか文章論。題名にちょっと恐れをなしつつも読んでみました。書くことが好きで好きでたまらないキングの文章論を読みながら、私自身は物事に取り組む姿勢について考えさせられました。

ある時、キングの息子がサックスを習いたいと言い出したのでやらせてみたが、息子が先生に指定された時間しか練習しないのを見ていたキングは彼にサックスの才能はないと悟った、と。

楽しくなければ何をやっても無駄である

同感。ただ、今の私ならば同様のことを「何事をやるにせよ、そこに楽しさを見出すべし」と言いたいです。若さ故!?

才能は練習の概念を骨抜きにする。何事であれ、自分に才能があるとなれば、人は指先に血が滲み、目の球が抜け落ちそうになるまでそのことにのめり込むはずである

小説作法 小説作法
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スタインベック『エデンの東』

  • 2006年8月25日

少し前にこの著作について書いてみましたが、もう少しだけ。

全四部構成。(ジェームズ・ディーン主演の映画は第四部のみを映画化したものだそうです)
この作品、今年になって読んだ本のうちで最も気に入った本です。今後とも座右に置いて折々再読したいと思っています。
訳者は土屋政雄さんで、翻訳本であることを忘れるくらいスラッと読める、とてもこなれた文章です。

読んで感じたことをまとめてみようかと思いましたが、どうも意欲が湧きません、今日は。
もし気が向いたらまた書いてみるかもしれません。
今日は尻切れトンボでした・・・・

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スタインベック『エデンの東 下』

  • 2006年8月17日

読了。

”east of Eden”といえばジェームス・ディーンの映画しか知らず(しかも未だに未見)、「ちょっと甘えた少年の成長物語なんだろな~」くらいに思い込んでいましたが、浅はかだったようです・・・。

主要テーマ(原型)は旧約聖書創世記の”カインとアベル”の物語。

神との約束に違背してエデンの楽園を追放された夫婦アダムとエヴァ。その間に生まれた兄弟がカインとアベル。長じて兄カインは農業を営み弟アベルは羊飼いとなる。
あるとき、兄弟は神へ捧げ物をした。カインは農作物を、アベルは子羊を。しかし神はアベルの捧げた子羊だけに目を留め、カインのそれを無視した。嫉妬に狂ったカインの怒りは、神に対してではなく弟アベルに向けられた。
カインはアベルを殺した。その事を知った神によって追放されたカインはエデンの東にあるノド(さすらい)の地に住みついた。カインの末裔は永遠にその罪を背負い続けることになる。

この原型を下敷きにして、アイルランド系移民であるスタインベック家のルーツを交えながら父と子の葛藤(親子間の葛藤というより親(父)の愛を烈しく求める息子自身の内面的葛藤)・呪われた血筋、一人一人の人間の中に併存する善と悪、等々が描かれています。

弟子の準備が調ったときに師が現われる、という意味のことわざがあるそうですが(中国だったかインドだったか失念しました)、この本を読んだ私には、書籍もまた同じようにまさに必要となったときに巡り会う、そんな気がしてなりませんでした。
この本についてはまたいずれ書いてみたいと思います。
関連エントリ:スタインベック『エデンの東 上』

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スタインベック『エデンの東 上』

  • 2006年8月15日

読了。
実はスタインベック初体験。読んで良かったと思える本でした。
詳細は後日。

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関連エントリ:スタインベック『エデンの東 下』

ヘミングウェイ短編集Ⅰ

  • 2006年8月2日

ガルブレイス『小説アメリカ外交』

  • 2006年7月20日

読了。

南米の一小国における革命と、それに対するアメリカ政府の対応を描いたフィクション。

世界中の出来事を共産主義者との戦いという観点からしか見まいとする、そういう硬直した固定観念がどんなに危険で、非現実的であるかを、ガルブレイスはここでキャンベル国務次官補以下の群像を駆使して描きだして見せる。(訳者あとがきより)

官僚組織のカリカチュアとしても読めました。微笑というか苦笑というかそんなところが随所にあります。

役所で勝ちを制するのは、高い地位プラス自信満々たる態度である。

アメリカ外交政策の危機はいつでもおなじ方法で解決される・・・大統領の強硬な書簡と高額の小切手と・・・

外交にとって政策の継続性ということがいちばん大切であるというのが長年の体験に基づくキャンベル[主人公]の信念であった。アメリカの過失につけいろうと虎視たんたんとしている者が世界中にいっぱいいるのだから、方針変更によって過失に目をつけられるよりは、むしろ過失を続ける方がいいという場合も多い。

物いえば唇寒しということは民衆はよく知っているが、その一方で、自分が思うことをいい、人が思うままに話すのを聞いて喜ぶ人は驚くほどたくさんいるものだ・・・そういう自由の好きな人たちは、皆が一緒に話していればいちいち拘引されるようなこともなく、身の安全を保てることを知っているのだ

新聞記者たちは、行動を思想の代用にすることを正当化しなくてはならぬ人種であった。それが彼らの飯の種だったからだ。

議会での問題は、議員たちが無暴無益(ママ)な、極端な行動に走らないように手綱をとることであった。国務省の政策をあまりにも向こう見ずだとか、強硬だとか批判する反対論者にはそれほど気を使わなくともよいのである。そういう批判は、キャピトル・ヒル[”官庁街”くらいの意でしょうか]では非常にまれだし、万一あっても、用心深く声も小さいので、無視してかまわないのだ。警戒しなければならないのはむしろ正しい政策に賛成だが、それを極端まで押し進めようとする人間だ。つまり、悪者との貿易を中止せよ、外交関係を断ちきれ、空軍を送れ、原子爆弾を投下せよ、などと論じ出し、少しでも異議をとなえる人間に対しては、よくて、腰抜け呼ばわり、ひどい場合には、思想調査が必要な人物だなどと決めつける人々である。

公務員というものは、国務長官さえ、下劣で陰険な国会議員を相手にしては下手に出るのである。あくまでも頑張ったりすれば、議員側は要求を提出して、その官吏を罷免させたり、過失の責任に対して公式の処罰を加えさせたり、あるいは国事犯として法廷に引っ張り出したり、法律の条項を適用して、J・エドガー・フーバー氏の前でいっさいの行動について尋問を受けさせたり、いろいろなたくらみをしたからである。下劣さというものは大いに勢力の助けになるものだ。

こわいのは彼ら[共産主義者]を判断しそこなったときの結果なのです。アメリカの政府では、ある人物を安全だと判断して、その後でその人物が共産主義者だったと判明するほど決定的なマイナスはないのです。容赦なくやっつけられますからな。判断を間違えやしないかと恐れると、考えも行動も動きが取れなくなるのです。

なんとなく星新一のショートショートを読んだ時の笑いと通じるところがあります。なかでも秀逸は・・・・ケント博士のエピソードでした(抜粋しても笑気が抜けるだけだと思いますので書きません)。

 著者はF.D.ルーズヴェルト、J.F.ケネディらの民主党政権において主要な地位を占めたハーバード大学教授。今年の4月に死去。
 原著が発行された年の出来事を拾ってみると、テト攻勢、パリ和平会談開始などヴェトナム戦争関係の重要事項が並んでいます。

小説アメリカ外交 (1979年)
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原題:The Triumph -A Novel of Modern Diplomacy- Houghton Mifflin Co.1968

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