いまさら教師の不祥事なぞ、メディアで取りあげられない日はないと言ってもよいほど、珍しくもない雑ニュースにすぎない。こと、三面記事チックな記事の信憑性には多大な疑問を持つ(今さら、だけどさ)私としては、そのような「不祥事」ニュースについては大抵の場合「スルー」が原則になってしまっている。
しかし、先頃小林秀雄賞関連のニュースをネットで検索していたときに、内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』と並んで紹介されていた本年度の新潮ドキュメント賞受賞作『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(福田ますみ著、新潮社刊)。これを読んでみた。
「教師の不祥事」に興味はない私でも、教育に関しては多大な興味と関心を抱いている。私はつねづね今の日本における喫緊の課題は教育である、と考えている。
そうはいっても、決して教育制度とか教育法規とかをチマチマいじり回してどうにかなるなどとは全く思っていない。それどころか、そのようなことをせっせとやっても殆んど効果はないだろうとふんでいる。それというのもいま、日本の教育はよってたかってぶち壊されつつあるからだ。口では「教育再生!」と掛け声をかつつ、まさにその当人たちが(当の社会が)やれ「今の学校はだめだ」「今の教師は破廉恥ねー」「おれっち保護者さまでござーい」「チ、チミ!そんなことしたら保護者様がなんとおっしゃると思っるのかね!たいへんなことになるぅぅぅ」などと楽しそうに教育をぶち壊しつつある(1980年代にテレビでよく見た、アメリカ人が「日本車をぶちこわすパフォーマンス」でもイメージしてね。背広着た議員もブルーカラーも総出でワッショイワッショイ、だったよね)。
まるでコメディ映画のワンシーンかと思えるほど滑稽な情景が私の脳内には拡がっているのだ。
「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」
この本はそうした滑稽な現状、悲劇的に滑稽な日本の教育の一断面を捉えているように思えた。
「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」
正直なところ、私はこの本を4分の1ほど読んだあたりで気分が悪くなっていったんは放り投げた。で、そのまま10日ばかり放置していたが、けっきょく読みとおした。
ドキュメントとしてこの本を見ると、視点が教師側にほぼ固定されていて説得力に欠けるところがないとはいわない。しかし、教育に関する情報が今のように「けしからんぞ!学校と教師は」という視点からのものが大半を占めるなかでは、それにも一定の意義があると思う。
平成15年に報じられた福岡での事件。担任教師が受け持ちの生徒を「血が汚れている」などといっていじめや体罰を加えた、とされた事件。
私もかすかに記憶している。これが事件として報道されたあとにも教師が生徒につきまとったり中傷を加えているなどという記事を見かけて「なんかへんなの・・・」と漠然とした疑問を感じたことも覚えている。が、それっきりもう忘れ去っていた。私は、教育に対する不信の声がまるで夏の日の蝉の声のようにがなりたてられていることに不審の念を抱いていたにもかかわらず、次から次に報道されるニュースの波に呑み込まれてしまっていた。
なにせそれ以後も教師の不祥事・教師によるいじめなどのニュースはひっきりなしだったんだから。覚えていられるはずもない。
・・・川上は、いくぶん伏し目がちになってぼそっとつぶやいた。
「保護者と教師は同等じゃないですよ。教師の方がなにごとも一歩下がって対処しないとうまくいかないんですよ」
教育現場の現状に疎い私にとって、この言葉はかなりの衝撃だった。最近の小学校では、そこまで保護者が強くなっているのかと驚いてしまったのである。
ちょいまち!これには私が驚かされたよ。そんなことはもうここ数年の間にはさびれた田舎においてすら床屋政談・井戸端会議ネタだったのだが・・・。ま、いいか。
いまはもう、保護者どころか一般人でも勝てるような状況になってんじゃないのだろうか、学校が相手なら。
今の学校は言ってみればサンドバック。叩き放題。
もちろんサンドバックの中には教師・教育委員会だけでなく子供たちも入っている。学校が壊れているのに、そこで教育される子供たちがまともでおれるはずがなかろう。それでもみんな叩く叩く。まるで憑かれているかのように叩きまくっている。
子供のいない私にとっては他人事といえなくもない。しかしそれでも私は今の教育を取り巻く状況に憂慮の念を覚えざるを得ない。学力が下がるだとかそんなことは言うつもりはない。どうせ今の学校で教えることは、極論すれば、答えが合ってるか間違っているかを教えるだけなんだから、そんな学力つけたってしようがない。問題には必ず「正しい・答」があるなどという盲信を植え付けられていずれ途方にくれるんだよ。
今、日本の学校のうちで「答えのない問い」について時間を割くことのできる学校なんてあるのだろうか。多分ないだろう。設問には必ず正しい答えがある式の教育が日本における「正しい教育方法」なのだろ?
たしかに無理難題を学校に押し付けるわけにもいかないのかも。
しかし、学校教育の殻を大人になってからもいつまでもいつまでも引きずるわけにはいかんでしょ。
最近私が思うのは「択一テストの呪い」。
択一テストには必ず正解がある。それもたった一つの。
もしも択一試験に正解がない、あるいは正解がいくつも合った場合、受検者はテスト作成者を糾弾するのが「正しい」。
でもね、ふつうそんな問題ないんだよ。それがどれほど特殊な形式であることを自覚しておかないと恐ろしいことになるのだよ。
それに、択一テストはそもそも正解を導く必要のないテストでもある。問題を見て、正解がさっぱり分からなくても、どれが「間違い」なのかがすべて分かれば自ずと「正解」が見える。「あれー、なんでこれが正解なんだろねぇぇ・・・」と内心思っていても、他の選択肢全てが誤りだということさえ判定できれば正解の中身なんかは分かる必要がない。つまりは、間違い探しが出来ればOK、というわけで。択一試験の本質は間違い探しにあり。間違い探し。アラ探し。
かようなわけで、次第次第に世は他人のアラばかりを探して回ることがあたりまえになっていく。
真理なんてそんな胡散臭いものはいらねえよ。
で、正解はなんなんだ?
なんだよ、ここ間違ってるじゃん!
「体罰を加えたんですか、加えていないんですか。イエスかノーかでお答え下さい」
「りんごがいい?みかんがいい?」「なに!?ぶどう!!?んな選択肢はないのよ」
「白でなければ黒でしょ。どこがおかしいの?」
「うちの子が怪我した」+ 「学校で」=学校が悪い
事実を一つ一つ吟味する手間を惜しみ、早々に答えだけを求める。そしてまたその答えとは単に「いい・わるい」「すき・きらい」「白・黒」「右・左」・・・。
いや、それどころか「白でないなら黒でなければならない」なんてところまできてるかも。
「答えのない問いなんてあってたまるもんですか!答えは必ず あ・る・ん・で・す!」
骨なし魚が売れるわけだ・・・。
あああ
でっちあげそっちのけでことあげばかりしてしもた。
「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」
寝よ。