「書籍一般」カテゴリの記事一覧

読書日記(2010年2月13日)

  • 2010年02月13日 (土)

ちょっと放っておいたらもう一週間も経ってしまった(このブログのことです)。
2006年に書き始めたこのブログもようよう満四歳となりました。ここ1,2年は更新も間遠になりがちなので、今年こそはと思いながら1月は久しぶりに10回以上更新してみましたが、月が変わって息切れした模様・・・。ここ1週間ばかりは読書日和(お天気があんまりよろしくないということです)が続いたこともあって読む方に専心しておりました。村上春樹の1Q84は続巻がでるとかで、文庫化されるのは当分先のようなのでそれまで気長に待つこととして、今は本棚から「つん読本」を取り出してきては暇を見つけて読んでおります。何冊か読んだ中で特に面白かった(というかまだ読みかけなので「面白い」とすべきか)のはジョージ・ソロスの『世界秩序の崩壊 〜「自分さえよければ社会」への警鐘』、2006年刊行の本なのでほんと「今さら・・・」という感じもありましょうが今読んでも非常に面白いですよ、ハイ。まだ読み終えていないので断言は出来ないですが、邦訳タイトルにある「自分さえよければ社会」というのは、もしそれが原著の文中にある”feel-good society“を訳したものなのだとするとどうも”違うよね”という感じを受けます。いずれにせよ読み終えてからまた書くことにします。
ではまた近いうちに。

世界秩序の崩壊 「自分さえよければ社会」への警鐘 世界秩序の崩壊 「自分さえよければ社会」への警鐘
ジョージ・ソロス
価格:1995円

原著:George Soros,The Age of Fallibility: Consequences of the War on Terror

ゴロ寝読書と雨の空

  • 2008年06月21日 (土)

昨日今日は布団の中でひたすらゴロゴロダラダラと幸福なひとときを過ごしていた。ああ、もちろん読書である。

「山口六平太くん」(とある漫画のキャラクター)ではないけれど、悠々自適・晴耕雨読こそ小生の理想とする生活であります。
もちろん現実の生活はといえば悠々自適なぞ遙か遠くにかすんでおり、わずかに晴耕雨読を(それもときどき)実践できている程度に過ぎない。それにまた「あれもこれもやらねば・・・」という状況におかれるとムラムラと闘志が湧いてくる(こともある)というのも事実ではある。

合理的期待というものは必ず裏切られる。人間は自分のことについてはよくわからない不完全で不確定な存在です。
(平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』洋泉社 2008年)

この際、文脈を無視した引用はご容赦を(本来は市場経済について述べられている箇所)。
数年前とは打って変わってやれ格差解消、非正規雇用の待遇改善・・・と言う言葉をよく新聞やらで見かける当今、それはそれで「けっこうだとは思うけどね・・・」と心中ぼやきつつも、同時に「ウン年前に言ってたことと反対だよなぁ」と思ってしまう私は単なる「なんでも反対野党もどき」ではないつもりだ。

私としては、「それっ右だ!!」「いやっ左だ!!」「いやっ真ん中だ!!!」と盛んにやっているところを見るにつけ、つい、「『正しい』ことって何すか?」「『結論としては』つーのは『とりあえず』ってことと同義っしょ? 時にはさ」などと言いたい気持ちがこんこんと湧きだしてきて抑えられなくなってしまうだけなのだ。そのような人間である私にとって、上の平川克美の一冊はまったくもって一服の清涼剤となったのでありました。この一冊(またその中で問われていたこと)についてはいずれ日を改めて真面目に考えてみたいと思っている。

ほかに読んだ本は、村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』(中央公論新社)、清水俊二訳の『長いお別れ』(ハヤカワ文庫)。(チャンドラーなら村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』という選択肢もあったじゃないかと言われればその通り。でも今回は敢えて清水訳を選んだ。)。奇しくもこの両訳者ともにそれぞれが翻訳した作品、すなわちフィッツジェラルドの”The Great Gatsby”、そしてチャンドラーの”The Long Goodbye”について、口をそろえてその文体の持つ音楽性に言及していた。

そんなことを言われると、原書を読むしかないよなあ。というのが今回の結論。むろん「とりあえず」という意味である。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
スコット フィッツジェラルド
価格:861円

長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1)) 長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))
レイモンド・チャンドラー
価格:987円

『もてない男』再論

  • 2008年01月01日 (火)

新年早々憎まれ口を叩くのも無粋であるからして、昨年からの積み残し(というか下ろし残し)で一席。ほろ酔い気分の鼻歌のようなもの。再論などというタイトルだけど、たいしたものではありません。ただの雑感です。

しかしあれですね、20年ですか。平成20年。いつのまにやら大きくなっちゃってさ。昭和はとおくなりにけり、か。やだね、まったく(いや、ぜんぜん厭ではないんだよ)。あの日のことはさすがによく覚えている。小渕さんが神妙な顔で掲げた「平成」の二文字、丁寧ではあるがあじもそっけない二文字を今でもはっきりと覚えている。
とーきーのーなーがーれーにみーをまーかせー
いつのまにやら二十年。

え、なんですと?話が見えない?
そりゃとうぜんです。もてない男は気が利かないのであります。わるかったね、空気読めなくてさ。いや、冗談ですよぉ笑うとこですって、ここは。
まあなにごとにせよ、てめえのことをあげつらってるうちはよそさまに害はなかろうからね、勘弁してくれ。

そもそも笑い話は無性に好きだが、他人を笑いのネタにするようなヤツは好きではない。これと同様、他人の不幸や失策をあげつらうヤツも嫌いである。すると当然(?)自虐的なヤツが好みに合うということになるわけだけど、この自虐というやつも「いいあんばい」でないと苦しい。見ているだけでも苦しくなる(島田さんはときどき苦しい)。この「自虐」のエネルギーがどこかで壁にぶつかって反撥してきたときに厖大な笑いのエネルギーが発散されることがある。そして私は『もてない男』にそうしたものを感じたのであります。

実際の著者(小谷野敦)がほんとうにモテナイのかどうか私は知らない。しかし彼はこの本のなかであくまでも自虐を貫いている。いや、確かに数人を対象にして毒舌を弄している箇所はあるのだが、それすらもなぜかイヤらしさがない。おそらくこれは著者の自虐エネルギーがそのようなイヤらしさをも圧倒していたせいではないだろうか。仮に筆者がこの本を書くにあって、(評論家にありがちな)自分だけは別世界の人的な立場をとっていたならば、そのような毒舌は読者をして辟易させることになったのではないだろうか。その点、この本は自虐と毒舌とがきわめて微妙なバランスを保ち続けていた(つまり良い加減であった)というのが私一個の感想である。

これは当然といえば当然のこと(違いますか?)
もしあなたが、モテル男(女でも可)がモテナイ男を揶揄し愚弄する文章を読んで楽しめますか?あるいは自分を中立者に仕立ててモテナイ男のモテナイ男たるゆえんについて蘊蓄をたれるのを楽しめますか?評者がある一人の人間のあり方なり活動なりを、まるで神の如き立場に立って論じるものを読むことで、その人間の生き様の一端にでも触れたと感じることができますか?そのような論を読むことで読み手自身の何かが変わるもんですかい?

一般論としてつけくわえておくと、確かに自分のことを棚上げしなければ語れないこと、自分のことを棚上げしてでも語らねばならないことというのはあるのかもしれない。しかしそれらについてはよほど謙抑的でなければ、この世には裸の王様が増えるばかりだ。少なくともこの著作において小谷野は裸の王様ではなくて、裸の道化を演じきって(あるいはさらけ出して)いるように見えた。著者の様々な見解のうちに、私の持つそれと異なる部分ももちろんないわけではないものの(結構たくさんあった)、面白いものは面白いのだから面白いのだ。

ついでにこの本のキャッチコピーを考えてみた。
「もてない男でも楽しく読める!」
UBSGW謹呈

ん、これだとレジに持って行きにくいかもしれぬ。
「モテる男の必読書!」
のほうが良い?

正月早々なに言ってるのかね。
ま、正月気分ということでどうぞご勘弁。

『でっちあげ』にかこつけた独り言

  • 2007年09月29日 (土)

いまさら教師の不祥事なぞ、メディアで取りあげられない日はないと言ってもよいほど、珍しくもない雑ニュースにすぎない。こと、三面記事チックな記事の信憑性には多大な疑問を持つ(今さら、だけどさ)私としては、そのような「不祥事」ニュースについては大抵の場合「スルー」が原則になってしまっている。

しかし、先頃小林秀雄賞関連のニュースをネットで検索していたときに、内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』と並んで紹介されていた本年度の新潮ドキュメント賞受賞作『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(福田ますみ著、新潮社刊)。これを読んでみた。

「教師の不祥事」に興味はない私でも、教育に関しては多大な興味と関心を抱いている。私はつねづね今の日本における喫緊の課題は教育である、と考えている。

そうはいっても、決して教育制度とか教育法規とかをチマチマいじり回してどうにかなるなどとは全く思っていない。それどころか、そのようなことをせっせとやっても殆んど効果はないだろうとふんでいる。それというのもいま、日本の教育はよってたかってぶち壊されつつあるからだ。口では「教育再生!」と掛け声をかつつ、まさにその当人たちが(当の社会が)やれ「今の学校はだめだ」「今の教師は破廉恥ねー」「おれっち保護者さまでござーい」「チ、チミ!そんなことしたら保護者様がなんとおっしゃると思っるのかね!たいへんなことになるぅぅぅ」などと楽しそうに教育をぶち壊しつつある(1980年代にテレビでよく見た、アメリカ人が「日本車をぶちこわすパフォーマンス」でもイメージしてね。背広着た議員もブルーカラーも総出でワッショイワッショイ、だったよね)。

まるでコメディ映画のワンシーンかと思えるほど滑稽な情景が私の脳内には拡がっているのだ。

「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」

この本はそうした滑稽な現状、悲劇的に滑稽な日本の教育の一断面を捉えているように思えた。

「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」

正直なところ、私はこの本を4分の1ほど読んだあたりで気分が悪くなっていったんは放り投げた。で、そのまま10日ばかり放置していたが、けっきょく読みとおした。

ドキュメントとしてこの本を見ると、視点が教師側にほぼ固定されていて説得力に欠けるところがないとはいわない。しかし、教育に関する情報が今のように「けしからんぞ!学校と教師は」という視点からのものが大半を占めるなかでは、それにも一定の意義があると思う。

平成15年に報じられた福岡での事件。担任教師が受け持ちの生徒を「血が汚れている」などといっていじめや体罰を加えた、とされた事件。

私もかすかに記憶している。これが事件として報道されたあとにも教師が生徒につきまとったり中傷を加えているなどという記事を見かけて「なんかへんなの・・・」と漠然とした疑問を感じたことも覚えている。が、それっきりもう忘れ去っていた。私は、教育に対する不信の声がまるで夏の日の蝉の声のようにがなりたてられていることに不審の念を抱いていたにもかかわらず、次から次に報道されるニュースの波に呑み込まれてしまっていた。

なにせそれ以後も教師の不祥事・教師によるいじめなどのニュースはひっきりなしだったんだから。覚えていられるはずもない。

・・・川上は、いくぶん伏し目がちになってぼそっとつぶやいた。
「保護者と教師は同等じゃないですよ。教師の方がなにごとも一歩下がって対処しないとうまくいかないんですよ」
教育現場の現状に疎い私にとって、この言葉はかなりの衝撃だった。最近の小学校では、そこまで保護者が強くなっているのかと驚いてしまったのである。

ちょいまち!これには私が驚かされたよ。そんなことはもうここ数年の間にはさびれた田舎においてすら床屋政談・井戸端会議ネタだったのだが・・・。ま、いいか。

いまはもう、保護者どころか一般人でも勝てるような状況になってんじゃないのだろうか、学校が相手なら。

今の学校は言ってみればサンドバック。叩き放題。

もちろんサンドバックの中には教師・教育委員会だけでなく子供たちも入っている。学校が壊れているのに、そこで教育される子供たちがまともでおれるはずがなかろう。それでもみんな叩く叩く。まるで憑かれているかのように叩きまくっている。

子供のいない私にとっては他人事といえなくもない。しかしそれでも私は今の教育を取り巻く状況に憂慮の念を覚えざるを得ない。学力が下がるだとかそんなことは言うつもりはない。どうせ今の学校で教えることは、極論すれば、答えが合ってるか間違っているかを教えるだけなんだから、そんな学力つけたってしようがない。問題には必ず「正しい・答」があるなどという盲信を植え付けられていずれ途方にくれるんだよ。

今、日本の学校のうちで「答えのない問い」について時間を割くことのできる学校なんてあるのだろうか。多分ないだろう。設問には必ず正しい答えがある式の教育が日本における「正しい教育方法」なのだろ?

たしかに無理難題を学校に押し付けるわけにもいかないのかも。
しかし、学校教育の殻を大人になってからもいつまでもいつまでも引きずるわけにはいかんでしょ。

最近私が思うのは「択一テストの呪い」。
択一テストには必ず正解がある。それもたった一つの。
もしも択一試験に正解がない、あるいは正解がいくつも合った場合、受検者はテスト作成者を糾弾するのが「正しい」。

でもね、ふつうそんな問題ないんだよ。それがどれほど特殊な形式であることを自覚しておかないと恐ろしいことになるのだよ。

それに、択一テストはそもそも正解を導く必要のないテストでもある。問題を見て、正解がさっぱり分からなくても、どれが「間違い」なのかがすべて分かれば自ずと「正解」が見える。「あれー、なんでこれが正解なんだろねぇぇ・・・」と内心思っていても、他の選択肢全てが誤りだということさえ判定できれば正解の中身なんかは分かる必要がない。つまりは、間違い探しが出来ればOK、というわけで。択一試験の本質は間違い探しにあり。間違い探し。アラ探し。

かようなわけで、次第次第に世は他人のアラばかりを探して回ることがあたりまえになっていく。

真理なんてそんな胡散臭いものはいらねえよ。
で、正解はなんなんだ?
なんだよ、ここ間違ってるじゃん!

「体罰を加えたんですか、加えていないんですか。イエスかノーかでお答え下さい」
「りんごがいい?みかんがいい?」「なに!?ぶどう!!?んな選択肢はないのよ」
「白でなければ黒でしょ。どこがおかしいの?」
「うちの子が怪我した」+ 「学校で」=学校が悪い

事実を一つ一つ吟味する手間を惜しみ、早々に答えだけを求める。そしてまたその答えとは単に「いい・わるい」「すき・きらい」「白・黒」「右・左」・・・。
いや、それどころか「白でないなら黒でなければならない」なんてところまできてるかも。

「答えのない問いなんてあってたまるもんですか!答えは必ず あ・る・ん・で・す!」

骨なし魚が売れるわけだ・・・。

あああ
でっちあげそっちのけでことあげばかりしてしもた。

「えぇじゃないかえぇじゃないかソーレわっしょいわっしょい」

寝よ。

答えのない問いへの応え

  • 2007年09月03日 (月)

酷熱の季節もようやく過ぎた。心なしか夜の虫の声もひところに比べると幾分おとなしくなったような気がする。消え入りつつあるのは声だけか、それとも・・・。

秋の日は釣瓶落とし・秋風索寞・秋高くして馬肥ゆ・秋霜烈日・秋茄子嫁に食わすな・読書の秋。

昨日は終日家にこもって読書にいそしむ。午前中は最近の日課となった『ワイマル共和国』を読み、午後は以前から楽しみにしていた平川克美の『株式会社という病』を一気に読んだ。満を持して読むというのはおかしな物言いだろうか。
平川氏のブログは私のお気に入りの一つであり、この本も刊行前から楽しみにしていた。ちなみに前著『反戦略的ビジネスのすすめ』も併せて読むつもりでいたらなんと品切れ、おまけに近隣の図書館にも所蔵がない。おいしそうな羊を一匹見つけて、「もう一匹近くに居るな、うむうむよしよし」と密かに一石二”羊”を狙っていたところで最初の一匹にまんまと逃げられてしまった間抜けなオオカミの気分を味わう。ま、一匹だけでも読めただけよしとしよう。重版に期待 >洋泉社。

日頃著者のブログの味のある文章を楽しみに読んでいることもあってイザ勢い込んで読み始めたが、なんだか様子が変。あっちこっちでけつまづく。前に進めない。そういえば文章のあちこちに小石(句読点)が転がっている。それも尋常な数ではない。「え?」「うわ!」「あいてて」。

文体の許容度が高いブログという媒体において「俺」と自称する著者もこの本では「私(わたし)」で通している如く、媒体にはそれぞれ特有の制約があるらしい。虚構であることを前提とした小説あるいはタレント本やエッセイならともかく、ふつう「俺」という言葉に書物の中でお目にかかることはあまりない。俺ではなく私と自称することにした著者の意図が奈辺にあるかは知る由もないが、最初のうちは「ブログじゃないしね、本だからね」というわりと消極的なものを憶測しつつ読み始め、小石の多さの理由もそうした著者の身構えゆえのことだろうと漠然考えた。

とはいえ、当然のことながら平川節は健在である。

金融それ自体は、新しい価値を何も生み出してはいない。価値の源泉はあくまでも、ものづくりやサービスの現場から湧き出ている。その現場で、製品やサービスと交換され、退蔵された貨幣こそが金融のベースである。この行き場を失った貨幣は、銀行や投資家に預託され運用される。そして、金融市場という巨大な賭場で取引されることになるのである。

そう言われてみれば当たり前だと思うようなことは、たいていのばあい私たちの視界から消えてしまいがちである。ましてや「経済成長なくして財政再建なし」のご時世、金融市場の興隆が望まれこそすれ決してそれが賭場と大差ないことなどということは公には語られることがないし、「経済成長しても財政再建できず」に終わるという可能性も強いて視界の外に放り出される。「なんのかんのと言ったってさ、それが現実なんだからさ、おれたちもやんなきゃね」というのがいわゆるグローバル・スタンダードというやつだ。
そして賭場は今後も拡大し続けるだろう。

もちろん著者はそれを糾弾しない。彼は弾の飛び交う戦場の真ん中で戦争について考察し始める馬鹿な兵士ではない。言ってみれば、決して戦争を肯定することなくまた闘争そのものに惑溺することもない知性を併せ持った軍人といったところか。むしろ戦争の本質について批判的に考察できる軍人であるところに彼の言葉の重さの根っこがあるのだろう。

確かに首尾一貫煮え切らないのがこの本の特徴と言えないことはない。そこには今後採られるべき施策の提言もなく会社経営の秘訣もない。会社・資本主義・技術革新といったものの本質に関する「答えのない問い」が繰り返されるばかりである。原理的な問いに向けられた彼の眼差しには憎悪も憧憬も軽侮の色も含まれていない。とはいえ、ただとにかく知りたいのだなどという軽々しい知的関心というものでも(恐らく)ない。文面には自身がその渦中にありながらも受動的に流されるがままになることを拒もうとする反骨、いやしたたかさが匂う。

世の中にはでっかい声で「レジームを打ち倒せ!!」と叫ぶ人もままあるが、そのような「スローガン」は物事を動かさない。強いて言えば、事が既に始まり勢いよく進んでいくときにようやく力を持つばかりの、軽々しい騒々しい言葉に過ぎない。そして万に一つでもそのような言葉で何かが動き始るとすればそれは多分ろくな結果をもたらさない。

思想の質は、その思想の内実が如何に精緻な思考に基づいて生まれてきたかとうよりは、むしろその思想の敵対者に対しての批判の言葉遣いのほうが遥かに雄弁に物語るものである。

こうしていざ読み終えてみて、改めて文中のあちこちにばら撒かれたたくさんの小石について考えてみるにその役割がなんとなく分かるような気もした。読者の誤解を最小限にとどめようとする著者の周到な配慮であると同時に、ひょっとしてすーすらすいすいと前のめりに進もうとする一読者その他へのそれとない訓戒であったのかもしれない。

どうやらまたとりとめのないことを書いてしまったようだ。しかしこの本に私の内の何かが反応したのは間違いない(これは主観ではない、「事実」だぁ)。
ただそれが何なのかを明確な言葉に移せずに独り言に終わらざるを得ないのが、歯痒いなぁ。

株式会社という病 (NTT出版ライブラリーレゾナント) 株式会社という病 (NTT出版ライブラリーレゾナント)
平川 克美
価格:1680円

辺見庸『いまここに在ることの恥』

  • 2007年08月14日 (火)

出版直後に新聞の書評欄で目にし、気にはなりつつも読まずにいた本をようやく読んでみた。辺見庸『いまここに在ることの恥』。

そのときの書評は著者に好意的なものではあった。しかしながら、いやそれゆえに私はその本をなんだか読みたくなくなった。ほんとうは読みたいのだが読むことが躊躇われる本となった。

資本や市場、またそれらの潤滑油でしかないマスメディアにまつわること、そのなかにじつはもっとも深い恥辱がある。

そう語る著作が当のメディアで好意的に評されている奇妙さ。だからといって著者を批判するつもりは毛頭ない。毛ほどもない。善悪、正誤、そのようなところでグダグダ言うつもりはこの際全くない。私は、メディアをコキおろした著作が当のメディアで好意的に評価されるというところに興味を覚えた。いや、「なんだかひっかかった」と言う方のが実感だった。己を批判する者に対しても門戸を開く公平さ、をそのメディアの度量を示すものとして評価するのか。それとも単なる節操のなさとして蔑むべきか。いまから思えばそのようなことを無意識のうちに感じつつ、結局読まずに今まで過ごしてもうほとんど忘れかけていた。

そうしたところが先日この本をふと手に取ってみた。読んでみた。そして、この著者、どんどん「自虐的」になっておられるような気がした。肩を並べて語り合おうと思っていたら相手はどんどん先へ、あるいは後ろへ遠ざかり、読者の私は置いてきぼりを食わされた。そんな戸惑いは確かにあった。が、彼の問題意識には深く共感するところがずいぶんとある。

 こんないたって大真面目な話をしていると、臭い息をして、腐った目つきをした男たちがヘヘンと笑う。なんだかがんばってるね、でも意味ないよ、と。

「意味がない」という言葉そのものをかつて一度たりとも吟味したことのない人間の吐く「意味がない」にはまさしく意味がない。
ああ、この人の語る言葉はなんだか軽い、そう思うことが時々ある。語彙の豊富さだとか饒舌さだとか周到なレトリックだとかそういうものとはまったく違った部分で、軽い。そのような言葉にしばしば出会う。野太い声、作為の透けた緩慢な語り口などで誤魔化そうとしてもどうにもならない軽薄さというものがある。自分の語る言葉の持つ意味についてフト考え込む、恥ずかしいと思う、そうした経験を経た人々の言葉はどうも自然と重厚な響きを帯びていくもののようである。

「(そんなことしても)意味がない」。

そこには主語(主体)が欠けている。しかしいま、世の中には主体のない言葉が溢れ、そういう言葉におそらく誰もがうまく説明できないなんだか微妙な違和感を感じながらも、主語不明の言葉があちこちで吐き出され続けている。

世間の常識では「不穏当」とみなされる言葉を記事中で用いた著者に部内の者が言う。

「私はいいですけどね、これは社内でとおるかどうか・・・・・・」(中略)婉曲に慇懃に、かつやや威圧的に。自分という主体を隠して、同時に何かを無傷で裁定しようとする。非常に不快でした。

こうした物言いが官民問わずどこにもかしこにも溢れている。

主体のない言葉には歯向かえない。抵抗できない。私がしばしば用いるカッコつきの「正論」とはまさしくこのような”主体性を持たない言葉”のことだ。私はこのような「正論」が厭わしい。この点、著者の言葉に強い共感を覚えた。

主体性(キンタマ)を隠してモノをいうことしか出来ないことへの羞恥心、それがあればまだ聞く耳も持てるのかもしれない。しかしそもそも自分が一個の主体で在ることを放棄し、鵺のような「世間」「常識」に従うことこそが正解であり「大人」になることだと信じられる社会においては、そのような「羞恥心を持たないことへの羞恥心」すら生まれようがないのだろう。

そうして結局は「やったもの勝ち」の社会が延々と続いてゆく。誰もが我知らぬうちに自分たちの住処すなわち社会をよってたかってぶち壊してゆく。そうして言うのだ。「犯人はだれなのだ?」と。

だれからも指弾されることのない、むしろ祝福されるかもしれない行為のうちにひそむ罪ならぬ罪。明証的ではない罪。これこそがむしろより深い恥辱ではないのか。

いまここに在ることの恥 いまここに在ることの恥
辺見 庸
価格:1260円

『神谷美恵子 聖なる声』

  • 2007年06月08日 (金)

精神科医神谷(前田)美恵子の評伝。

ずいぶん前のことだが、美智子妃と縁のある方だということを耳にしたことがあった。そのせいで野人にはあまり縁がなさそうに思われた本ではあったが、何気なく手に取ってみたところ大層面白く、あっという間に読了。

「皇室とのご縁」などと聞いただけでもうなんだか、良い家柄に生まれたお嬢さんがすんなりお医者様になってすんなりハンセン病に携わり、すんなりご結婚なさってすんなり業績を上げられすんなり皇室に出入りなさったのであろうよ、などと思った私はこの女性を見誤っていたようだ。
この本を読んだ限りでは神谷美恵子という人は挫折に次ぐ挫折をも経験した人であったようだ。

父は内務官僚から後藤新平の引きで東京市助役に転じ、新渡戸稲造との縁で国際労働機関日本代表に就任、ニューヨーク日本文化会館館長を経て戦後は文部相にもなった前田多聞。幼少の頃よりスイス・日本・アメリカに学び英仏語のみならず古典語にも秀で、バッハを愛し文学にも造詣の深かった才媛。
と、彼女の閲歴を書いてみる。

まるで曲折がない。

しかしその実、曲折だらけの人生。
婚約者との死別、結核罹患、回復後、迷いを抱え込んだままのアメリカ留学、ハンセン病との出会いと周囲の反対、二十代半ばからの医学修行、日米開戦を目前に帰国、秀でた語学能力が災いして雑務に追われる生活、三十路すぎての結婚・育児。創作意欲を発散できぬ現実生活。四十を過ぎてようやく年来の宿願であるハンセン病への取り組みを開始するも育児や食い扶持稼ぎに追われる。

淑やかな表情のまま自らのデーモンを馴致し、不屈の意志で自らの人生を切り開いた女傑がここにもいた。
温容の女丈夫なり。

神谷美恵子 聖なる声 神谷美恵子 聖なる声
宮原 安春
入手不可

異端の言説

  • 2007年05月24日 (木)

小島直記『異端の言説・石橋湛山』を読む。

戦前、東洋経済新報で健筆を振るったジャーナリスト石橋湛山の評伝。次第に色濃くなる軍国主義的風潮に抗して自由主義的言説を貫きとおした反骨人。戦後、短期間ながら首相を務めるも病に倒れて早々に勇退。ちなみにその跡を襲ったのは”ウヨキスト”(コレ勝手な造語です)であった。

著者である小島の言葉と湛山の言葉が錯綜している本なので引用は控えますが、「おお、まさに・・・」の連続でありました。せっかくなので一つだけ(舌の根が乾きがちなもので)。「中正を欠く思想界、之れ言論自由圧迫の結果」(東洋経済新報1933年9月9日号社説)をひきながら書かれた小島の一文。

わが国には、社会精神としての思想に対する寛容がない。自説とちがえば異端邪説として排斥するばかりでなく、その背後には金銭その他の不純の力が潜在するかの風説を立てる。はなはだしきは売国奴の汚名をきせ、暴力を用いてまでその主張を圧迫しようとするものさえ現れる。しかも社会はこういうものをあえて強くとがめようともしない。社会全体が、言論の自由、思想の寛容の大切なことを知らない。その結果、思慮あるものは、沈黙を余儀なくさせられる。批評は跡を絶ち、残るは或る党派の勝手次第の主張だけだ。 

どこまでが小島の言葉でどこまでが湛山の言葉なのか判然としませんがそれはそれとして、ここに書かれていることは誰の言葉なのかなどと言うことを超えた重い意味を持っていると感じます。

最近は何を読んでも現代の世相とダブって見えてしまう。というよりダブりそうな書物を選んでいるだけなのかもしれないが(意識的ではないのだが気がつけばそうなってしまってますね)。

自由主義者であり戦時中に政府から圧迫を受けた人間であるにもかかわらず、どういうわけか戦後公職追放の対象となった湛山(この本によるとGHQや吉田茂の意向らしい)。ちょうど公職追放について知りたかったことが書いてあったので以下メモ。

公職追放に関するメモ

公職
国会の議員、官庁の職員、地方公共団体の職員および議会の議員ならびに特定の会社、協会、報道機関その他の特定の職員の職をいう

(追放対象基準7項目)

A
戦争犯罪人
B
職業陸海軍職員(陸海軍省の特別警察職員および官吏)
C
極端な国家主義的団体、暴力主義的団体または秘密愛国団体の有力分子
D
大政翼賛会、翼賛政治会および大日本政治会の活動における有力分子
E
日本の膨脹に関係した金融機関および開発機関の職員
F
占領地の行政長官等
G
その他の軍国主義者および極端な国家主義者
(P536)
異端の言説・石橋湛山 (小島直記伝記文学全集)
小島 直記
入手不可

いまbk1で見てみたら、新刊として『気概の人石橋湛山』(「異端の言説石橋湛山 上・下」の改題合本)が入手できるとのことでしたので紹介だけ。

気概の人 石橋湛山 気概の人 石橋湛山
小島 直記
価格:2415円

黄金週間に読んだ本

  • 2007年05月06日 (日)

遁世に徹した黄金週間。
転がっていた本を片端から読み飛ばし、意想外の掘り出し物に出会う。至福。

まずは一冊目。今まであまり触手が伸びなかった村上龍。
表現者としての特異な才能を持った女性と中年男との関わり合いを通して現代社会の病巣を描こうとした作品。物語としての構成はともかくその問題意識には共感するところ多し。

その中から何かが生まれてくる可能性のあるムダじゃなくて、ムダだということを知らずにやり続けるムダだから、そこには何もない

言ってみれば子供はみんな軽い神経症なんだ、その神経症を治そうとせずにほとんどの人は、より大きな神経症的な集団に同化することで解消しようとする

ストレンジ・デイズ (講談社文庫) ストレンジ・デイズ (講談社文庫)
村上 龍
価格:650円

次。著者の顔が見えてくるようなイキのいいエッセイ。

人生勉強 (幻冬舎文庫)
群 ようこ
価格:520円

はい、次。いわずとしれた辺見庸のルポ。
”自虐的”文体といえばそうかもれない。
イマドキ流行らない「自虐」なのかもしれないが、そこらの「オレ様」文体なんぞ読む気もしねぇ。自虐は自省に通じるぞ。自虐史観だの猿岩石だのと一緒にされてはたまんねえよ。

もの食う人びと (角川文庫) もの食う人びと (角川文庫)
辺見 庸
価格:720円

そして次。これまた言わずと知れた城山三郎の名著。生一本・不器用極まりない高級官僚の栄光と挫折。たしか中村敦夫主演でNHKドラマになったはず。なぜか妙に記憶に残っている。あれは中村のハマリ役だったなあ。
城山作品の多くは、ある個人を主題に取り上げつつも必ずといっていいほど個人と組織との関わりという副主題が浮かび上がってくる。
著者の冥福を祈りたい。

官僚たちの夏 (新潮文庫) 官僚たちの夏 (新潮文庫)
城山 三郎
価格:580円

最後の次。これまた言わずと知れたゲーテの自伝。10年ほど前に手にしたときはさほど面白いとも思わなかったが、今回改めて手に取ったらまるで病み上がりにお粥を食ったときのように身にしみた。切り落としの肉のような村上の『ストレンジ・デイズ』とは対照的といえばとても対照的な印象ではあった。しかしこの本もまた品切れ。読みたい古典の多くは大抵品切れ。そういえばこの本もリクエスト復刊のときに入手したはず。なんと良書の稀少であることよ。

と、つらつら思いつきを書き連ねるばかりでは・・・いかんね。
ともあれ黄金”読書”週間はかくして過ぎぬ。

詩と真実 (第1部) (岩波文庫) 詩と真実 (第1部) (岩波文庫)
ゲーテ
価格:840円

ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』

  • 2007年05月02日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

ほぼ読了。

前のエントリ「Leeくん、君はいま何を思うか」に頂戴したドクトル(Dr.Waterman)のコメントへの応答がどうも長くなったので新たなエントリとしました。

>ドクトル
私も検索してみました。たしかに内田樹が以前言及されていますね。過去ログはひととおり通読したはずなのですがあまりよく覚えていません。しかし別のところ(内田樹とその畏友平川さんの対談「TFK」)で『アメリカの~』への言及があったのは記憶に残っています。

まだあと数ページを残していますがひとまず感想らしきものを。

福音主義をテーマとした部分は今の私にはいささか難解でした。そもそも「福音主義」「メソジスト」などに関する基礎的理解ができておりませんので。その部分に関しては感想すら述べることが出来ません。

しかし、エンターテイナー的説教師の存在は私にはとてもアメリカらしく感じられました(「やっぱアメリカだね~、そういうとこ」という印象です)。

もっともアメリカに限らずとも宗教家・説教師などという人びとには一般にそのような能力というのか資質がそなわっていることが多いと思っていた方がよいような気もします。一種のカリスマ性とでもいうべきでしょうか。しかしそれでも「エンターテイナー」「人気」「大衆」という言葉がアメリカという国のイメージに(少なくとも私の頭の中では)すんなりと(安易に)結びつこうとします。

"anti-intellectualism"に関してですが
>2、3世紀頃より既に anti-intellectualism という動きとそれに対抗する動きが教会にありました

この時期のanti-intellectualismというとたとえばグノーシス派などが関わってくるのでしょうか。
体系的な宗教と”アンチ体系”神秘思想といえば(時代はだいぶ下りますが)イスラムのスーフィー信仰なども頭に浮びます。

ところでこれらのanti-intellectualismが神への没入・神との合一、言ってみれば一個人と神との一体化に主眼を置いたものであったと(私の胡乱な知識にもとづいて)仮定するとしたら、Hofstadterの言うanti-intellectualismは少し違ったニュアンスを感じなくもありません。

Hofstadterはanti-intellectualismという言葉を否定的なニュアンスで用いていますが、その矛先はanti-intellectualismそのものを突き抜けて「anti-intellectualな大衆」に向けられているようにも感じられます。知的な神学者よりもエンターテイナーを求め、世俗的な実利にのみ重きを置くような態度への疑問。いってみればキリスト教史におけるanti-intellectualismが(どちらかといえば)個人の内面におけるintellect的なものとanti-intellect的なものとの関係に主眼をおいているようにも見えるのに対して、Hofstadterのいうそれは個人の対社会的・対集団(教会)的な態度について(それもかなり批判的に)考察しようとしているように思われました。

なにせ宗教・政治・文化・教育と多岐にわたる考察でもあり、読む者の興味に応じて多様な相貌をみせるであろう一冊。この本の題名は『アメリカの反知性主義』であって彼は『反知性的なアメリカ合衆国』とは言っていない(はず)ですが、文面から察すると、もしも彼が学者ではなく(たとえば私のような)暴論を平気で吐けるショボいブロガーならはっきりとそう言い切ったかもしれません。なんとはなし「執念」(怨念?)らしきものすら文面から漂っていたような気がします。

wikipediaでチラッと見たところ彼は一時期共産党に加わっていた由。1963年に刊行された本が何故40年もったってから日本語に訳されたのかその経緯は知りません。しかし今読んでも(今読むからこそ)非常に示唆に富む一冊でありました。

「専門職の興隆」などの章はケディ『アメリカの公共生活と宗教』に通じるものがあろうかとも思って読んでみましたが、どうもまだ生煮えのものが(自分の中に)残っております。さしあたりアメリカの近現代史についてもう少し勉強した上でいずれ改めて感想など書いてみたいと思っております。

追伸
メールアドレス、ファーストネームを加えられたのですね。お知らせ有り難うございます。(@のあとの "cp" は何かの(@とか.とかの類の)略ではないですよね?)

アメリカの反知性主義 アメリカの反知性主義
リチャード ホーフスタッター
価格:5040円

アメリカの公共生活と宗教 アメリカの公共生活と宗教
リネル・E. ケディ
価格:4200円

『秋霜烈日』~その1

  • 2007年03月12日 (月)

読了。

元検事総長伊藤栄樹氏が死の直前まで書きつづり朝日新聞に連載された回想記をまとめた一書。個人的な来歴はほとんどなく、検事任官後の「仕事」に関する記述のみ。

私は著名人の回想録といえばつい日経新聞の「私の履歴書」を思い出すのだが、この本は、まだ存命の人物が選りに選ったエピソードだけをつづる「私の~」とは微妙に違った印象を受けた。一言で言えば虚飾がない(見えない)というべきかもしれない。それどころか思わず「え?そんなこと書いちゃっていいの?」と言いたくなるような記述もあった。既に死期の迫っていた伊藤氏は、自らを飾ることもなく、」ただ残された者、未来の日本を背負う者への遺言としてこの回想を書き残したのだろうか。そんなことを想像しながら読み終えた。

つい先だっては富山と鹿児島で真っ白無罪の人たちが服役しあるいは逮捕されていた事実が公になった。以前のエントリで私は彼らのことを幸福で不幸なひとたちと呼んだのだが、なぜ彼らが幸福だといえるのか、そのエントリを読んだ方には伝わりにくかったかもしれない。

もちろん彼ら(冤罪の犠牲者の方たち)は不幸な「事件」の犠牲者であった。そして私が何故彼らを幸福なひとでもあると言ったのかといえば、(くどいようだが)彼らは不幸な事件の犠牲者であったことが後日判明し、そしてそれが公に認められた(無罪が確定したという)からだ。

真犯人が明らかとなり、あるいは捜査の杜撰さが白日の下にさらけだされるなどということはテレビドラマでならありきたりの結末だろうが、現実にはそうそうないことだろう(現に富山のケースでは無実の人が服役なさっていた)。めったにないことだからこそ今回、ある程度はニュースとしてわりと大きく取り上げられたわけだ。

『秋霜烈日』のなかには次のような一節がある。

私は、東京地検次席検事の時代、二度ほど公判部の検事に無罪の論告をしてもらったことがある。どちらも多数回の窃盗を犯したとされる事件である。警察が背負わせたわけでもないだろう。泥棒の常習犯になると、ときに親切にしてもらったお礼に、その警察の管内の未検挙の事件を背負ってくる。検事がそれを見抜けないと、そのまま起訴してしまうことになる。

ここに引いたケースに限って言えば泥棒の常習犯が少しばかり重い刑に服したところで大勢に影響はないようにも思える。しかし伊藤は「被告人の利益」という観点から見ればこれは無罪とされるべきだという。伊藤氏はこうした検事の在り方を「公益の代表者」という言葉を用いて表現している。

この言葉自体はごく一般的に用いられる言葉ではある。しかし何を以て公益というかとなると各々微妙に異なっていることが多い。伊藤氏が「公益の代表者」という言葉を用いながら、被害者は勿論のこと加害者(被告人)にすら目を配るべきだとしている点は看過すべきではないだろう。

回想録のその他の部分も含めてその全体から受ける伊藤という人物の印象は「フェア」だということだ。被害者–加害者、取調官–被疑者、取締当局–取締対象者・・・・、そうした種々の局面において、伊藤氏のプリンシプルはフェアネスというところにあったように思われた。

翻って現代。
「社会がおまえを許さない!」と法廷で芝居がかった台詞を吐く検察官、導入が決まっている裁判員制度、取調べの可視化論議などを見聞きして私はどうもそれらからフェアネスを感じることが出来ない。三文役者の(一部)検察官はバカにも見えるし、裁判員制度で言われる「市民の視点」「被害者の心情への配慮」、取調べ可視化がもたらす「弊害」、それらに関する賛否両論を耳にするにつけどうも両者の言い分がそれぞれ別次元にとどまって結局は「正論」だけが一人歩きしているように思えてならないのだ。

ちょっとばかり長くなってきたので、裁判員制度と取調べの可視化については稿を改めて書くことにしようと思うが、可視化と伊藤氏との関連で一つだけ挙げておきたい。

取調べの可視化への反対論者が言う「(取調べ担当者と被疑者との)信頼関係の阻害」。

「被疑者が真情を話しにくい」その他云々というのが主な反論のようだが、どうも反対論者の言い分を聞いていると、被疑者が「真犯人である」ことを前提としているように思えるものが多い。もし被疑者が無辜の人ならば録画(可視化)されて困るようなことはひとつもないのではないだろうか。

取調べ担当者と被疑者の信頼関係が重要になってくるのは恐らく被疑者=真犯人であるケースなのではないだろうか。

 知能犯についていうと、検事と被疑者との間に醸し出される信頼感情、これこそが自白の最大の原因と思う。そのためには、検事と被疑者がお互いに胸襟を開いて、身の上話をし、同じ社会的関心事について語るといった経過をたどることも多い。相互の信頼感情なしには、ほんとうの自白は出て来ない。
 いずれにせよ、検事と被疑者がのちに街角で再会したとき、笑って手を握れるような調べによって得た自白だけが、信頼できる自白である。検事の良心に照らし、このことだけは忘れてはならない。

どうも上手くまとまらなかった気がするな。
後日汚名返上致したいと思います。

秋霜烈日―検事総長の回想
伊藤 栄樹
入手不可

最近読んだ本

  • 2007年03月09日 (金)
  • キーワードタグ: 文学

以下、ここ最近読んだ本を列挙し感想を一言。いまのところメモ代わりです。後日いくつか取り上げて書いてみたいと・・・。

脳と魂 脳と魂
養老 孟司
価格:1680円

一気に読了。スッキリします。

エイミー・ショウズ エイミー・ショウズ
山田 詠美
入手不可

私は、ほとんどのテレビ業界の人たちが苦手だ。それは、彼らがテレビの威力を過信しているからだ。テレビを観ない連中は山程いて、しかしながら、彼らはそのことを主張しない、という事実に気付いていないのだ。選択される立場を忘れて、ものを創る人はどんどん傲慢になって行く。

いまだに業界の人は気付いていないのか、それとも気付いたからこそそれまで以上にハチャメチャなのか・・・。

ブラッドベリがやってくる―小説の愉快 ブラッドベリがやってくる―小説の愉快
レイ ブラッドベリ
価格:1631円

これほど軽快な文章は初めて読んだかも。

ブラッドベリはどこへゆく―未来の回廊 ブラッドベリはどこへゆく―未来の回廊
レイ ブラッドベリ
価格:1937円

同上。
美術史の老大家B・ベレンソンとの交友録は軽快な中にもホロッとさせられた。

秋霜烈日―検事総長の回想
伊藤 栄樹
入手不可

ナショナリズムと時間意識

  • 2007年02月26日 (月)

しばらく前に森喜朗が「日本は神の国」とのたまったことはよくおぼえている。あの馬鹿ヅラを思い出しながら「アホなこといってんなあ」、と思った記憶がある。そして今回、教育行政を司っているらしい人物がどうでもよい(「それがどうした?ん??」的な)ことを地方での講演で述べたのだそうだ。「神の国」発言ほどではないものの、どうも最近の政治家は浅薄な歴史認識を堂々と開陳することが多いようで恐れ入る。

「日本は同質的な国」「人権メタボ」と文科相発言(朝日新聞)

「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。極めて同質的な国」(・・・)改正された教育基本法に触れて「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」とも語った。同法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについては、「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため」と説明。人権をバターに例えて「栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」

言わんとするところは分からなくもない。たしかに。ただ、この発言からは伊吹さんが直接言及していないながらも滲み出してくる何かがあるように感じられる。

「日本は日本人がずっと治めてきた」。まあそうなのだろう。そうもいえるだろう。しかし「では、あなたのいう日本人とは何を指すのか」と問われたときに伊吹さんが何と答えるのかという点にこそ私は興味を覚えるのだが、その点については朝日の記事を徴する限りよくわからない。まあ、そのうちはっきりするだろう、多分。ま、いいけど。

ちょうどここ数日読んでいた本のなかに「時間のネットワークでつながる」という一節があった。

 時間のネットワークのなかでつながっていくと、ナショナリズムは出てこないんだよ。空間だとかならずナショナリズムになるんだよ。
時間なら、遡るとみんな同じになっちゃうから、ナショナルじゃなくなっちゃう。

内田・平川著『東京ファイティングキッズ・リターン』
いまの日本には、ナショナリズムを鼓舞したくなる、あるいは鼓舞せざるを得ない何か特別な事情でもあるのかもしれないが、よくわからない。ひょっとすると日本にはもうナショナリズム以外にはその構成員としての私たちを相互に結びつける紐帯らしきものがなくなりつつあるのだろうか。あるいはもうなくなってしまったのだろうか。

別段、歴史や伝統に敬意を払うという意味での「ナショナリズム」には文句もないが、私が気になるのは、ナショナリズムは排他性と結びつきやすい(親和性が高い)というところなのだ。上の伊吹さんの発言にはそうした排他的なナショナリズムの萌芽が顔を覗かせている。それを当人が意識されているかどうかはし知る由もないが。

愛国者だという点では私だって伊吹さんにおとるまいと思う。ただ、それでも私は日本を誰が「治め」てきたかなどにはまるで興味がない。どうせ日本人だかクマソだか知らないが、過去から現在にいたるまで、いまわれわれがニホンと呼びならわす土地に私と同様赤い血をもった人間が暮らしてきたことは事実だろう。彼らあるいは私たちがナニ人であるかということなどいまさらどうでもよいことのように私は思うのだが、どうだろうか。伊吹さんはあるいは誰が「治めてきた」のかに焦点を当てているのかもしれないが、それこそ「それがなにか?」だ。

しばしば大陸系の顔立ちと言われる私はもしかすると伊吹さん的には非日本人なのかもしれないな。
まあ、「なぜか日本国のパスポートを保持する非国民」呼ばわりされようがどうしようが、私は私のなすべきことをするしかない。
伊吹さんにも「余計なこと言ってる暇があったらもっと前向きなことしましょうよ」、そんなことを言ってみたい気もする。

失言だか暴言だか知らないが、底の浅さを露呈するような言葉には食傷気味かな。誰が何を言ったのかということは知っておきたいとは思うのだけど・・・。

いかんね。
どうも最近パワーが足りない。
追記)よくよく記事を読めば「大和民族」とも仰っていますね。そうか。クマソの末裔は被征服民というわけかな・・・。

そんなところでいい薬になりました。この二冊。
とくに「リターン」採録の言葉論というか言葉に関する省察は私にとっては「!!!」なものでした。

東京ファイティングキッズ 東京ファイティングキッズ
内田 樹
価格:1680円

東京ファイティングキッズ・リターン 東京ファイティングキッズ・リターン
内田 樹
価格:1575円

内田樹ほか『9条どうでしょう』

  • 2007年01月10日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

昨年末、杯を干しながらいちいち「うんうん、そうそう」と思いながら味読した一冊。

今なにかと話題にのぼる「憲法改正」について四人の著者がそれぞれの視角から語る。彼らに共通しているのはおそらくいい意味での「余裕」と「偏り」。

憲法改正大賛成!
憲法改悪絶対反対!

著者らはそのどちらにも与しない。
「バスに乗り遅れるな!」と足をもつれさせながら駆け出そうとする同輩に、「おいおい、あわてるこたぁねぇさ」と鷹揚に語りかけるだけである。しかしその鷹揚さは見かけ倒しではない。”自分の頭で考えるしたたかさ”とでも言えばよいのだろうか、(別の言い方をすれば)自らを「主体的」に非主体化しようとすることへの懐疑が背後に控える。

理想を高々と掲げることこそが、憲法の第一義的な役割なのである。(・・・)なるほど青臭い点についてはご指摘の通りだが、君たち政治家が実現すべきは、憲法が示した理想を現実化する仕事だ、という、それだけの話である。〔小田島隆「三十六計、九条に如かず」〕

憲法はリアルポリティクスに合わせた都合の良いルールというよりは、リアルポリティクスそのものにコミットメントする人間に規矩を充てるテキストでもあったはずだ

そんなことは現実的ではないという理由によって、あるいは、それが押しつけられたものであるという理由によって、憲法を改正しなくてはならないという。だとするならば、戦後六十年間の現実とはなんだったのか。(・・・)郵政民営化というよく分からない争点で争われた選挙に大勝した政府与党がここを先途とばかりに、改憲のキャンペーンを始めていることに違和感を持たざるを得ない。(・・・)もともと憲法は、現実の世界の変化を想定したうえで考えられていると思う。しかるに、「彼ら」は憲法を変えたいという。しかし、わたしは、「彼ら」には憲法を修正していただきたくないと思うのである。〔平川克美「普通の国の寂しい夢」〕

ここで述べられている考察はきわめて真っ当だと私は思う。
私自身、「憲法改正絶対反対」論者でもなければ「絶対賛成」論者でもない。そんな私でも「彼らには改憲していただきたくない」と思わざるを得ない。

もっとも「彼ら」自身、もし自らが改憲の真意を公言すれば誰もそれに同調しないであろうという確かな予測のもとに、敢えて真意を隠して綺麗事(一見綺麗に見える言辞)を並べているだけだということは自覚しているのかもしれない。もしそうなら彼らの暴挙を押しとどめることは国民の責務であろうし、また、もし「彼ら」が自らの真の欲望に気づいてすらいないとするならばやはりこれを察知するのも国民の責務であろうと思う。少なくとも私は改憲論者(非改憲論者)を罵倒する気はない。ただ、勢いに任せて突き進むような真似だけはしたくないと思う一国民である。

蛇足ながら
「わたしたちの戦後六十年はなんだったのか」を市井の生活の中から考察する平川氏の姿勢には強い共感を覚えました。
本の中でも紹介されている平川氏の憲法論はこちら(「ひとりになって憲法を考えてみる」)。

9条どうでしょう 9条どうでしょう
内田 樹
価格:1260円

コーンフォード『ソクラテス以前以後』+漫画

  • 2007年01月08日 (月)

F・M・コーンフォード(1874~1943)著『Before and After Socrates』の翻訳。1932年にケンブリッジで行われた夏季公開講座における講義を収めたものだそうで。著者に関しては何の知識もありませんでしたが、題名に惹かれて入手しておいた書物で(積ん読歴約10年)、ようやく読了。マリノフスキーやユングら(講義実施当時の)最新の知識を幅広く援用しつつ、いたって平易な語り口で西洋思想史におけるソクラテスの特異性を照らしだし、かつ彼の思想がプラトン、アリストテレスにどのように受け継がれつつまた変容していったのかが端的に語られています。その文面には、ソクラテスの果たした大仕事に対する著者の敬意が溢れ出ているように感じられました。イオニア哲学からアリストテレスまでを概観するには適当な良書ではないかと思います。

以下感想及び考えたことども。

著者は「ソクラテスによって哲学が自然研究から人間の生の研究へと方向転換したことの意義をわかりやすく伝える」ことをこの書物(講義)の目的として序文に掲げる。その後、叙述はもちろんソクラテスを軸としてイオニア哲学→ソフィスト→(ソクラテス)→プラトン→アリストテレスへと進む。

古代についての説明として次のように言われることがある。科学的精神に欠けた古代人にとって自然は畏怖すべき恐怖するしかないとりつく島もないような存在だったが、科学の誕生によって自然は畏怖の対象から征服の対象となった、と。確かに古代人の生活をイメージさせ、科学の誕生がどれほど人類に光明をもたらしたのかを理解させるためにはいかにも手っ取り早い説明ではある。しかし、このような説明には決定的な誤謬が含まれていることは語られることが少ない。
古代人にとっては自己と自然との未分化状態こそが常態であって、それ故自然を自己とは切り離して畏怖することも讃仰することもあり得なかった。もちろんそれは古代人が恐れや敬いの感情を持たなかったというのではない。「古代人にとって自然は畏怖の対象・・・」という説明そのものに、現代人の思考のフレームワークを無条件に古代人にも適用するという誤謬が既に胚胎していることが看過されがちなのだ。

事物を対象化して(突き放して)考察する

それこそが科学の始原であった。
自分自身の背中は見えない。
自分自身の顔も見ることは出来ない。
その「見えないもの」を見ようとする態度こそが哲学であり科学だと言えなくもないだろうが、より本質的なのは「自分に見えていないものはどこにあるのだ?」という疑問を持つことなのだ。見えていないものがあるとは思いもしない者はどこまでいっても見えない。いや見ることがない。ソクラテスは「今の自分に見えていないものは何か」を丁寧に吟味していくことになる。

既に対象化され誰もが難問であると認識し、あるいは誰もが解決しなければならないと思うような問題に勇敢にも立向かってこれを解決し得た者はヒーローとなるだろう。一方で未だ対象化されていない未知の問題に取り組む者は周囲の無理解に苦しむだろう。あるいは波風立てるはた迷惑な者として蔑まれ疎まれるだろう。ソクラテスはまさしく後者であった。

事物の始原状態(アルケー)を探求することによって人間を取り巻く自然(世界)に秩序を見出そうとしたイオニア哲学は、確かにひとつの革命を人類にもたらした。大勢の学者が多様な説を唱えたらしいイオニア哲学は一見すると何もかもが錯綜しており雑然としていてその意義が見えにくい。アルケーについて、ある人は「火」と言い、ある人は「水」と言い、またある人は「原子」と言う。「結局どれがほんとうじゃい!」「ケッ、どれも間違いじゃん」と言いたくもなるだろう。しかし次のような賢者の一言で、そのもつれた糸がひとつの「意味」を織りなしていることにようやく気づく。

このような宇宙生成論の意義は、それが何を内容として含んでいるかよりも、むしろ何を排除しているかということのほうに存する

神々の排除、超自然的なものの排除。それはイオニア哲学が人類にもたらしたひとつの創見であった。

著者はイオニア哲学の意義を次のようにまとめている。

対象を主観から完全に切り離し、それを行動上の利害関心を払拭した思考によって思索しうるような精神態度の成立である。この態度から生み出された果実は世界についての最初の体系的説明であって、真実あるがままの世界の合理的構築たることを標榜しうるものだった

しかしソクラテスはさらに歩を進める。

この早い時期の自然学(イオニア哲学)においては、ある物理的な事象が(いわば)ばらばらに分解されて、それに先行するかあるいはそれを構成している他の物理的事象によって記述されるなら、それで「説明される」ことになるのだと想定された。そのような説明はその事象がどのようにして生起したかということのより詳細な描像を提供する。しかしそれはなぜ生起したかをわれわれに教えはしない、とソクラテスは考えた。ソクラテスが求めていた種類の原因説明は「なぜ」という問いへの理由づけだった。

なぜイオニア哲学はソクラテスを満足させ得なかったのかという点について、著者は「クセノポンの報告を信頼してよいのなら」という限定つきで次の二点を挙げる。

「自分たちの話すことが真実であると知りうるはずがないのに自信たっぷりに教える人々の話を信じるように求め」ている

「人間の主要かつ本来的関心事だと彼(ソクラテス)が思っていたもの——-自己自身と正しい生き方についての知識——-のためには役に立たない」

イオニア学派は世界を「理解」せんがために自己を世界から切り離した。一方、ソクラテスは、世界を自己から切り離して対象化するというイオニア学派の作法に則ったうえでさらに「では私は如何にすべきか」を考えようとした。これを著者は「始元の探求から終極の探求へ」と表現する。「人生の終極目的とは何か」。

(医者は)「はたしてこの患者は治療を受けるべきか、それとも死んだほうがよいのだろうか。他の大切な事と比べて、健康であること、あるいは生きていることそのことにどんな価値があるというのだろうか」などと自問したりはしない。商売をしている人も「わたしはもっとお金を儲けるべきだろうか。富の価値とは何か」などとあらためて考えたりしない。そんなふうにわれわれは、定められた目的のための手段を工夫しつつ、その目的ははたしてそのために生きるに値するものかどうか問うてみることなどせずに、一日々々を過ごしていく

うん、それが普通だよ。日々仕事に追われていたら「あれ!?おれ今なにやってんだろ?こんなことに何の意味あんの?」などとは考えていられないよ、という人もあろう。確かにそういうことはあると思う。そして自分自身が気づかぬまま何かを失っていたということもあるだろう。

他人に教えることができるようなことは自分は何ひとつ知らないとソクラテスは言い、同時にまた人間としての完成は善悪の知識のうちにあるとも宣言した。なぜこの知識は他の種類の知識のようには教えることができないのだろうか。それは、他人が私に教えることができるような知識はすべて、何か外的な権威あるいは社会そのものによって、これこれの事柄は善いと信じられています、これこれの行為は正しいと信じられています、ということでしかないからだ。(・・・)最後的には、いかなる個人も自分は何をするのが善いのか、自分自身で観て、判断しなければならない。個人格は、いやしくも欠けるところなき人間になろうというのであれば、道徳に関して自律的でなければならず、自分自身の人生を自分自身の統御のもとに置かなければならない

しかしこれは危険な考えではある。「自分は正しい」と信じて他人を殺すことは許されるのか? 「誰にも迷惑かけてね~じゃん!」なんてヌケヌケと(何の含羞もなく)言えてしまうような人間のままでよいのか? そんなはずはあるまい。

確かに、「あなた自身の眼で見て正しいことを行いなさい」と言うのは危険である。それを聞く人々のなかには、「したいようにすればよい」と言われているのだと早合点する者、そして「しかしまず、何が本当に善いのかということをあなたの眼が完全な明晰さで見ているかどうかを確かめなさい」という決定的に重要な留保条件を理解しない者もいるだろうからだ

戦後、外国人から「自由」「民主主義」を”押しつけられた”日本人はまさしくそうした「早合点する者」であったのか。もちろん「きまりは守りましょう」とは教えられてきた。しかし早合点する粗忽者は「決まりを守ってればあとは好きにしていいんだろ~」となるのだ。

「違法行為はありません(問題ないだろが!)」「懲戒基準に従ってます(だからいいでしょ!)」

決まりを守るだけでよければガキでも出来る。「きまりはちゃんと守ってます」は”子ども”の言い分。大人は守って当然なんだから(と同時にペナルティ覚悟で「立ち小便」するのも大人だろうけれど)。最近よく聞く「規範意識の確立」ってのは単に決まりを守りましょうってだけのことだったのかい?いい大人がまさかそんな当り前すぎることを言うとは思いもしない私はも少し違った意味で受け取っているのだけれど。

かれ(ソクラテス)の使命の内実はひとえに、一般に認められた人間的能力の境界を超えゆく精神としての人間という理想によって、後ろ指指されぬ順応という子供じみた道徳を超克することだった

「後ろ指指されぬ順応という子供じみた道徳」。

もちろん、小さな子どもにまずは「後ろ指指されぬよう」教え込むことは必要なことかもしれない。しかし「それが全て」、「それでOK」ではないだろう。いい大人が「お金儲けのどこが悪いの?」「べつに法律に違反するところはないぜ」などと言えてしまう社会は、成熟していない「子供じみた」社会だと言わざるを得ないだろう。

「そんなこと言うんなら何が足りねーのか言ってみろよ」と言われても困るのだけれど、一つだけ言えるのは「分からないなりに(それでも)自分の頭で考えてみる姿勢」ではないかと私は思っている。そしてそうした姿勢は「教える」ことが困難なのではないかとも思う。別の言い方をすれば、それを身につけようとする者は、「教える人」から学ぶことは出来ず、「学ぶ人」からのみ学ぶことが出来る、そういうものではないだろうか。「自分は何も知らない、分かってない」と自己評価している人(師)からだけ学べる「知ることへの愛情(フィロソフィー)」。師と「対面して」伝授されるのではなく、知へ向かう師の背中から、師の背後に立ち(師と同じ方角を向いて)自分の足で歩みだそうとする弟子だけが学ぶことが出来るのではないだろうか。そうした「知」もあるのではないか。

そんなことどもを考えました。

最後に一言引用。

何らかの実際目的に転用されるがゆえに注意をひく事物にだけ知性が限局されているというのは、いまでも未開人種に特徴的に見られることだ。

読みながら、自分自身の生きている時代と世界について考えるところも多々ありましたが、それについては日を改めていずれ。

ついでながらこの本を読みながら合間にフト思い出して取り出した漫画がありまして・・・。

不思議な少年(2) (モーニング KC) 不思議な少年(2) (モーニング KC)
山下 和美
価格:720円

これに収録されている「ソクラテス」、すごくいいです。ソクラテスは現代人から見れば偉大な哲学者。でも当時は・・・”ヘンなおじさん”。「おお、まさしくこうもあったろう!!」と納得。一読おすすめ。

ソクラテス以前以後 (岩波文庫) ソクラテス以前以後 (岩波文庫)
F.M.コーンフォード
価格:525円

(平成19年1月13日一部改稿)

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』

  • 2007年01月04日 (木)

読了。

読んでいるうちに自分の脳みそが活性化していくような気にさせられる書物。
広い意味での
「愛」
について考えさせられた・・・。

詳細についてはしばらく塩漬け保存で発酵待ちとする。(「んなもん発酵させてから書けよ!」なんて野次はどうかご勘弁を)

値が張るところが難点と言えば難点。しかし二読三読に堪えるであろうところで推奨。「ありがちな恋愛にチョット疲れ気味~」という向きにはとくにお奨めかも、です。

私たちのほとんどは、人を殺そうとしたが、その眼から「汝、殺す勿れ」というメッセージを聞き取ってためらった、というような極限的な経験を有していない。にもかかわらず、レヴィナスが「私たちが真に殺したく望むのは他者である」と書くとき、その対面の緊張は固有のリアリティをもって私たちの思考を領する。(・・・)実際の私たちのすべてが、レヴィナスが書くような劇的なエロス的経験を有しているわけではない。にもかかわらず、例えば、「官能の官能」という概念は、私たちを、私たちが経験したことのない劇的事況の根源的な「意味」についての考察へと私たちを執拗に誘うのである。

一冊の締めの言葉はこれ。

人間性の条件とは、まさしく「一でありつつ二である」こと、引き裂かれていることによって、知性と自由を確保する困難な選択のうちに存するのである。

「あれか、これか」「改憲か護憲か」「A君かB君か」「白か黒か」
そのような状況に置かれている人にこそ、この本は手に取ってもらえることを待ち望んでいるのだ。そんな気もします。

レヴィナスと愛の現象学 レヴィナスと愛の現象学
内田 樹
価格:2940円

黒田清ほか『権力犯罪』

  • 2006年12月24日 (日)
  • キーワードタグ: 政治

読了。

敗戦直後の隠退蔵物資問題がらみで読んでみました。戦後(から2000年頃まで)の主要な汚職事件のアウトラインが手際よくまとめられています。

ときに最近、地方の談合問題はともかくとして、中央政界の汚職聞こえてこないなぁ・・・。 
ひょっとして政界浄化に成功したのだろうか。(万々一そうなら慶賀の至りなのだけど)。

「政治には金がかかるんだ!」

ほんとにそうかい?
金がかかるのは「政治に」じゃなくて「権力を掴むのに」じゃないのかね。
いっそ国会議員は世襲禁止ね。権力の世襲は腐敗の温床だから。職業選択の自由侵害?議員は「職業」じゃない、ということにしようよ。それなら問題ないでしょ。「現状に即してる」と思うんだけど、ね。

しかし、ま、この本で戦後の主要な汚職事件のアウトラインを確認してみて思うことは、21世紀に入って汚職の構造もかなり変わったのだろうなということ。

ま、庶民は庶民として細々と充実した毎日を送ることにします。
ただねえ・・・予算足りないからって増税すんのは勘弁ね。
子どものお小遣いじゃないんだからさ。足りなきゃくれてやるよってわけにはいかないんだよ。収入の範囲内でやり繰りするのが大人ってもんでしょお?

よろしくね。

権力犯罪
黒田 清著 / 大谷 昭宏著

税込価格 : \1,890 (本体 : \1,800)
出版 : 旬報社
サイズ : 四六判 / 287p
ISBN : 4-8451-0667-1
発行年月 : 2000.12

内田樹・池上六朗『身体の言い分』

  • 2006年12月01日 (金)
  • キーワードタグ: 教育

読了。

内田樹がどこかで、自分の「言い分」は全てブログに載っけている、ということを書いていらしたと思いますが、やはり書物になったものはまたひと味違った含蓄がありました。

「これこれのことを達成したら愛してあげる」という・・・子どもに対して承認を取引材料に使うようなことをしてしまうと、子どもはもう一生その呪縛から逃れられない・・・何か基準がないと、自分自身がなんだかよくわからない、という人間が育つ・・・人から評価されないと、安心感が得られない・・・

どこかの段階で、そういうほうが、効率的な子育てだとみんなが思ったある時代があったと思う

子育て、教育において「動機づけ」は必要なことだと私は思います(もちろん内田樹等も動機づけそのものを批判されているとは思いませんでしたが)。
しかし「適切」な動機づけとはどうあるべきか、となるとちょっと考えてしまいます。このへんはもう少し考えてからいずれ書いてみます。

利己的なふるまいというのは、多数の人が公共の福利を配慮していて、少数の人だけが利己的にふるまう場合には非常に功利的に有効なんだけれど、だれも公共の福利に配慮しない社会では、利己的なふるまいというのはぜんぜんおのれに理をもたらさない

この部分を読んで思わずニヤッと笑ってしまいました(笑ってばかりもいられないのですが)。

ちょっと言い足りないのですがとりあえずこれで。

身体(からだ)の言い分 身体(からだ)の言い分
内田 樹
価格:1575円

ニーチェ『悲劇の誕生』

  • 2006年11月26日 (日)

終日ニーチェを読む。

ことによると—-と彼(ソクラテス)は自問せざるをえなかった—-私には理解できないからといって、それがただちに不合理なものだとは一概には言えないのではないか?ことによると、論理家を追放しているような英知の国がどこかにあるのではないか?ことによると、芸術とは、科学にとってなくてはならぬ相関物、なくてはならぬ補充物ではあるまいか?

ニーチェ著 西尾幹二訳『悲劇の誕生』中公クラシックス 2004

合間にチェックした「内田樹の研究室」も。

自分がいかに迫害され、疎外されてきたか、親により学校により社会により、能力の開発を阻まれ、健全な成長の機会を奪われてきたか、その結果自分がいかに無知で非倫理的で、社会的に無能な人間になったかを人々は「競って」ショウ・オフするようになった

合理性(経済的合理性、合理的判断・思考、合理的子育て・・・)を最も確かな判断基準だと錯覚しつつ、実はわれわれはいたって”合理的に”不合理の世界へ落込みつつあるのではなかろうか。

仮にもしそうだとして、それを私は悲劇だとして悲痛な口調で述べたいとは思わない。悲劇を悲劇として観ずることの出来るのは、悲劇の当事者ではなく傍観者(観客)だけだと私は思う。もし仮に自らを悲劇の主人公と考えるような奴輩がいたとすると、彼はむしろそのことによって喜劇の主人公となるだけだろう。

べつに人生が悲劇でも喜劇でもどうでもよいけれど、私はそれを一種の喜劇として呵々大笑してやりたい(私自身も含めて)。なぜならわれわれは、足を伸ばせば立ち上がることの出来る浅瀬でジタバタしているだけのような気がするからだ。

ついでにいえば、人間の人生は喜劇でしかあり得ないからこそ、バランスを取るために(何のバランスか知らないけど)フィクションとしての(慰み物としての)”悲劇”が必要な気もする。
そんなことを考えつつ『悲劇の誕生』読んでいます。

悲劇の誕生 (中公クラシックス) 悲劇の誕生 (中公クラシックス)
ニーチェ
価格:1418円

養老孟司『バカの壁』再読

  • 2006年11月10日 (金)
  • キーワードタグ: 教育

再読。

この本、すごく売れたんですよね。もちろん買った人は読んだはず・・・。
そのわりには・・・。どうして??
どうしてこの本でいうおバカの典型みたいな人ばかりが政権の要職についてるんだろう。コイツメ・アベシ・ンカガワ放言会長etc

「どうせバカとは話してもワカランさ、あいつバカなんだから」というバカな態度はお隣のキムさんと同じレベルに立ってることがどうしてワカラン?

養老さんの言ってることはすごくまっとうだと思いますよ。決して「バカとは話すだけ無駄」なんてこと言ってないし。(そう読もうと思えば読めないこともないけれど、ごく一部だけ読めば。)

話は変わりますが
「ゆとり教育」を推進した文部官僚が辞職だとか。
(yahoo news)

格下ポストに左遷されたりいろいろあったようですね。
まるで石もて追われるような印象がなきにしもあらず。

問題とすべきは「ゆとり教育」そのものではないことぐらい、アベシも文科相も分かってらっしゃるのでしょうが、どうして!?
ま、右旋回を誤魔化すのが目的かな。

「ゆとり教育」の当否はさておいて、信念にもとづいて理想を追求する意欲を持った文部官僚がまた一人減ったことは確かでしょう。

辞職と言えば
来春には全国の高校長数百人が定年を前に一斉に退職されるのは既定路線ですよね、勿論。万一彼らが職にしがみつきでもしたらそれこそ教育上壊滅的なダメージを生じることになりますからね。指導要領に背いた理由はさておき違背は違背。「校則を守れ」と言えない教師が何人いても無駄、それどころか有害でしょ。

んー
なんだか笑いに欠けますね。書いてることが。皮肉混じりでいやらし。
こういう部分も持ってます(いやや、こっちが主ですな)。反省。

バカの壁
養老 孟司著

税込価格 : \714 (本体 : \680)
出版 : 新潮社
サイズ : 新書 / 204p
ISBN : 4-10-610003-7
発行年月 : 2003.4

高杉良『小説消費者金融』

  • 2006年10月24日 (火)

消費者金融とくれば苛酷な取立てというのが通り相場。
街金、サラ金、闇金、取立て、借金地獄・・・・。
消費者金融業界が可愛い女の子を多用したテレビCMを打ちまくったところで、この業界にはどうしても負のイメージがつきまといます。そしてそうした負のイメージの根源が主に債権回収の手段・方法にあるのはほぼ間違いないでしょう。先頃も大手消費者金融による団体生保を利用した回収手法が問題化しました。「死んでも払え!」とまっすぐ言わずとも、よりソフィスティケートしたやりかたで同様の効果をあげられたというわけですね。
貸すときニコニコえびす顔、取立てのときゃ鬼の顔。

今回読んだこの本のモデルは実在の人物、玉木英治氏(前シーシーシー債権回収株式会社社長)。
「鬼玉(おにたま)」と呼ばれた街金経営者時代とその挫折を経て、より合理的かつ消費者志向の債権回収手法を実践しようと試みた人物。
その手法とは

  • 「実効的なデータバンクの構築による入口(与信)と出口(回収)の連動」
  • 「取立て(回収)手法の合理化」

すなわち債務者の人格を無視したような強引な取立て手法の否定。そしてそれは、俗に”ムシャ”などと蔑称されることの多い債務者を”カスタマー”と呼ぶところから始まる。
債権回収の手法に関しては、ご自身の手でかなり以前から問題提起的な著作を発表されているようです。

世間的には今も債権回収にまつわる負のイメージがつきまとっている気がします。1998年にサービサー法(債権管理回収業に関する特別措置法)が施行されて以後も、相変わらず”債権回収”という言葉を聞いただけでギョッとする人の方が大多数だと思います。”銀行”と聞いてえげつない取立てを連想する人は少数派であるにもかかわらず。この点は、”警察”と聞いて「正義の味方」を連想する人もいれば、「裏金まみれのお役所」を思う人もいるのと同様でしょうか。
実質よりもイメージが先行するのは世の常。やむを得ないことだと思いますが、それはそれとして、この作品は一読の価値があると思いました。

物事をあるがままに見ること。
ちょっとだけ目を見開かれる思いがした一冊です。

小説 消費者金融 (講談社文庫) 小説 消費者金融 (講談社文庫)
高杉 良
価格:800円

野田敬生『CIAスパイ研修』

  • 2006年10月08日 (日)

読了。

表題がちょっとおどろおどろしくてなんですが・・・。
公安調査庁職員がCIAに(半分は物見遊山の)短期研修に出掛けたときの記録です。”スパイ”などと銘打っていますが、内容は情報の分析・統合やレポートの書き方など、一般の仕事にも通用するものが主で、残りの部分は公安調査庁の現状についての批判的考察でした。はっきり言ってスパイのスの字も出てきません。

なにはともあれ情報の分析手法について得るところがあるかもと思い読んでみました。私としては新聞記事などの文字情報に関する分析手法の体系などを期待していましたが、ちょっとお門違いだったかもしれません。
ほかにはブレーンストーミング、マトリックスなどについての記述もありますが、基本的には情報そのものの分析よりも情報をいかに統合・加工・レポートするかという点に力点があったように思います。

読みながら思ったことを一つだけ。
「今のマスコミが仮にセンセーショナルな報道に傾いているとすれば、それはマスコミにのみ原因があるのではなく、情報の受け手がそうした報道を求めているのかもしれない」

なぜそういうことを感じたかと言えばこういうことです。
この本の中に、CIAでの研修内容を紹介する文脈の中で「分析者の使命」に関しての記述があります。

  • 情報分析上の課題を明確に設定する
  • 今後の傾向と進展を予測する
  • 政策決定者(情報消費者)に鋭敏に反応する(何が今求められている情報なのか常に意識する)
  • 生情報を批判的に評価し、妥当性、信頼性、証拠としての重要性を決定する
  • 生情報からキー・ポイントを抽出する。大量のディテールのなかから何が重要かを特定する。
  • データを統合し、元のデータ以上のものを引き出す。意味あるようにデータを特徴づける。
  • 諸判断の間にある関係を見分けることで、秩序正しく思考を整理し、筋の通った推論を展開させる。

詳述は避けますが、まあ、「玉子が先なのかニワトリが先なのかわからんなぁ」と感じたわけです。

とすると問題になってくるのは、たとえばある報道機関が自らの報道姿勢を「真実の追求にあり」と称しながらその実、真実よりも情報の受け手(情報消費者)の期待する”加工済みの”情報を垂れ流すような、”看板に偽りアリ”の場合ということになろうかと思います。事実も噂も意見もクソも味噌もいっしょくたの情報洪水に溺れないようにするには一体どうしたものでしょうか。

それにつけてもメディアの役割は大きいものだと思います。メディアリテラシー、でしたっけか?
実際のところ日々の膨大な国会審議の内容なんて、一般人がそうそうフォロー出来るものではないですし。新聞でトピックだけ読み、興味があれば自分で議事録を調べてみる。そういうところは「新聞さん、有り難う」って感じです。もちろんそれは、その記事が事実を歪曲していない場合に限っての話ですが。

とくに、新聞の事件事故に関する記事なんてほとんど定型文と化してますもんね。収賄者は”甘い汁を吸うため”に賄賂を懐にし、飲酒運転で逮捕された容疑者は”自分だけは大丈夫だから”飲酒運転することに半ば決まっているようなものですから。ほんとかなぁ・・・。
例:「ほんまかいな?」(元検弁護士のつぶやき)

事実を伝える難しさ、私もまだまだ勉強不足です。
あ、それとこの本にある「レポートの書き方」は、短いですがとてもわかりやすかったです。

CIAスパイ研修―ある公安調査官の体験記 CIAスパイ研修―ある公安調査官の体験記
野田 敬生
価格:2415円

中村雄二郎『対話的思考』

  • 2006年10月08日 (日)

読了。

中村雄二郎をホストとした対談集。

スラスラ読み進んでいく、という本ではありませんが面白かったです。
なじみのない術語やらが結構たくさん出てきますが、”対談””対話”として読み進めていくとわりとすんなり頭に入ってきました。もしこれがモノローグだったらちょっと読むのが億劫になったかも。

ヴォランティアについて話の弾んだ金子郁容との対話、言葉についての富岡多恵子との対話の二篇がとくに印象に残りました。

金子郁容との対話 「人間の強さと弱さ」より引用

全然領域の違う人たちなのですが、私も相手の発信している情報を最大限に受け取ろうという気があるので、こちらのレセプターとは違うからといってはね返すということはしないで、できるだけ相手の話を受けとめようとする。それをやったら、少々くたびれましたが結果としてはとても心地よかった。それは自分がヴァルネラブルになるからで、こっちがよほどうまく受けとめるレセプターにならなければ、普通自分が使っている言葉とは違うコンテクストで語られたら、全然わからない。しかし、こちらのレセプターをうまく生かせればつながる。

ヴォランティアとは・・・
・物事を主体的に引き受けること。
・”それ”への関わりを避けることが出来る状況であるにもかかわらず敢えてそれに自らの意志で関わっていくこと。
・敢えて”面倒事”を引き受ける、すなわち「主体的な受苦」である。

ということなのかな、と私なりに理解しました。
そして、”理解する”ことと”受苦”がいかに遠いものであるかを。

正直なところ私自身はヴォランティア、まったく経験がありません。
この本を読みながら私が考えていたことといえば、「義務として課された奉仕活動なんて、受苦というより授苦じゃあないか・・・勤労奉仕と何が違うんだ、まったく」みたいなことでした・・・。

物事に能動的に関わっていくこと。行動すること。
こうして多弁を弄している暇に身体を動かすこと。

それはともかく
脳みそを揺すぶられる本ではありました。

対話的思考―好奇心・ドラマ・リズム 中村雄二郎対談集 対話的思考―好奇心・ドラマ・リズム 中村雄二郎対談集
中村 雄二郎
価格:3360円

辺見庸『永遠の不服従のために』

  • 2006年09月25日 (月)
  • キーワードタグ: 政治

読了。

サンデー毎日に掲載された「反時代のパンセ」(2001年7月~2002年8月連載)を集めたものだそうです。ということは、ちょうど9・11テロとそれに続くアメリカほかのアフガン攻撃の時期にあたっているんですね。

今までにも度々「9・11以後世界が一変した」という言葉を耳にした記憶がありますが、私自身は「そうかなぁ?」くらいにしか思っていませんでした、正直なところ。私の記憶では、「変わった、変わった」と言っていたのは親アメリカ的立場の人々に多かったように思います・・・うろ覚えですが。

昨日今日と辺見庸の著作を読みながら、「そういえば日本の右傾化、といって悪ければ”美しい国、尊敬される国”志向は9・11テロの直後から始まったかなぁ」などということを考えました。そういう意味では確かに9・11以後何かが大きく”変わった”のかもしれません。

異論をばっさり切り捨てる、単純明快すぎる言葉の連呼、恥ずかしげな様子もなく正義の味方を自称する厚顔などが溢れだしたのはあの頃だったか・・・。
暇を見つけてからもう少しあの当時の記事などを確認してみるつもりです。

この本の中に、著者がチョムスキーと対談した際の様子が記されていますが非常に興味深かったです。
著者がブッシュ政権の戦争政策を非難したことへのチョムスキーの反応は次のようなものだったそうです。

「他人の犯罪に眼をつけるのはたやすい。東京で『米国人はなんてひどいことをするんだ』というのは簡単ですよ。あなたたちがいましなければならないのは、自身を見ること。鏡を覗いてみることです。そうしたら、それほど安閑としてはいられないでしょう」

ここで留意すべきは、チョムスキー自身が反アメリカ(政府)的な主張ゆえに批判にさらされている、またアメリカの介入主義に否定的な見解を持っているにもかかわらず、著者のアメリカ批判に対して同調せずに上記のような反応を示した点です。ここに、批判のための批判をすることへのチョムスキーの怒り、拒絶反応を私は読みとりました。(但し著者が批判のための批判をしているとは思いませんが。)

政治が悪い、マスコミが悪い、誰それが悪い・・・。
それなら、自分自身はそれにどう関わっているのか。
政治家を批判する当人が実はまともに投票にすら行ったことがなかったりしていないか。自ら行動し、または意思表示することもなしに他ばかり批判していないか。
もちろんこれは自己批判を含みます。
今の自分に何が出来るのか。何を為すべきなのか。

暗く陰惨な人間の歴史をふり返ってみると、反逆の名において犯されたよりもさらに多くの恐ろしい犯罪が服従の名において犯されていることがわかるであろう
(C・スノー)

この本の著者は、徒労感を感じながらも叫ばずにはいられないと度々漏らしながら読み手に”おまえはどう思うか”と語りかけている。そんな気がしました。

きたるべき戦争の時代を生きる方法とは、断じて強者への服従ではありえない。人間の集団化、服従、沈黙、傍観、無関心こそが、人間個体がときに発言する個別の残虐性より、言葉の真の意味で数十万倍も非人間的であることは、過去のいくつもの戦争と大量殺戮が証明している。

汝自身を知れ
汝自身について考えよ

(ソクラテス)

永遠の不服従のために 永遠の不服従のために
辺見 庸
価格:1500円

辺見庸『自分自身への審問』

  • 2006年09月24日 (日)
  • キーワードタグ: 政治

ここ数年、経済的復調の一方で日本が、また世界が政治的に激変しつつあるという感じを持っていますが、この本を読んでみて目から鱗が落ちる思いがしました。

久方ぶりに復帰した社会は、清貧も精励も美徳ではなくなっただけでなく、いまや嘲られかねない。消費と投資がもてはやされ、射幸心をもつも煽るも罪悪視されなくなった。以前からそうだったと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、劇的に変わりつつあるのは疑いない。

市場におけるゲームのルールとは・・・人の心や躰は断じてお金では買えない、というふりをすること。市場はあくまでも厳正な法治下にあり公正に運営されている、というふりをすること。起業家や資本家は社会や弱者に貢献している、というふりをし、それらのまっ赤な嘘を最後まで貫きとおすことです。そういう意味ではIT成金のあの青年は海千山千に見えて、その実、素朴すぎるほどの資本主義観しかもちあわせていなかった、ということでしょう。

そのほか、大病を抱えた著者の血を吐くような叫びが聞こえてくる本です。

中村稔という詩人の、

物言うな、/かさねてきた徒労のかずをかぞえるな

という言葉に感応しながらも、それでも叫ばずにはいられない著者の葛藤というか、苛立ちに共感を覚えました。

最後に、

私は怒ってばかりいた。何よりも自分自身に、だ。人との関係のあらかたを壊してしまう私自身に、だ。心の底から慈しむつもりが、逆にずたずたに傷つけてしまう私自身を憎んだ。

この言葉が最も心に残りました。というか、まさに自分自身がそうだ。

自分自身への審問 自分自身への審問
辺見 庸
価格:1200円

ラング『りこうすぎた王子』

  • 2006年09月19日 (火)

再読。

生まれた時に仙女に魔法をかけられて「りこうすぎる」人間にされた王子が主人公。長じて、小理窟を並べ自分を正当化し他人の言を封じる、そういう”イヤな奴”になってしまいます。当然、周囲の人びとからは蛇蝎の如く嫌われてしまいます。この呪われた王子が、ある女性との恋がきっかけで大きな変化を遂げます。

あとがきによれば作者のアンドリュー・ラングはかなり早熟かつ博識の人物だったようで、ひょっとしてこの作品には作者自身が悧巧馬鹿を自己批判する意図があったのかも、などと考えもしました。

運命の女性との出会いの後、お約束の化物退治を経てめでたくハッピーエンディングというストーリーは、ありきたりといえばありきたりな話です。私自身、以前読んだことをすっかり忘れていて、裏表紙に記入していた読了日を見てようやく、もう十数年前に一度読んでいたことを思い出したくらいです。はっきりいって記憶に残っていませんでした。

しかし、今回再読してみて色々考えさせられました。
悧巧すぎる王子を「イヤな奴だ」と感じる自分の内にも、じつは王子と同質のなにものかがあるのではないか?
自分は正しいという思いこみが自分の中にはないと断言できるのか?
(真理が存在するという前提で)ある考えが論理的に正しければ、それは”真理”といえるだろうか。

そんなことを考えました。

かつては、ゆとり教育も戦争放棄も日本国憲法もそれが”理想の実現”であるかのように語られた(主張された)一時期がありました。そのどれもが自らの”正しさ”を論理的に(論理的であるかに装って)唱えていたはずです。

では、今は?

ゆとり教育は教育の崩壊をもたらした、戦争放棄は国際社会の実態にそぐわない等々・・・。実際にそうした側面があった、あるいは現にあるのかもしれませんが、かといって”それがすべて”ではないような気がします。

「ゆとりがだめなら厳格に」では浅薄ではなかろうか。それこそ”論理的は”、より理想的なゆとり教育を目指す方向もアリなはずです。どちらが望ましいのかは万機公論に決すべし、でしょうが・・・。

万機公論と言えば、

「押しつけ」憲法であるが故に改正すべしと主張する方々は、それが国会両院で審議・可決された上で公布されている事実をどう捉えているのでしょうか。当時の日本が占領下にあったから、とでも言うのでしょうか。

・押しつけられたものだから改憲
・占領状態であったからしかたなく新憲法制定
・欧米列強の帝国主義的アジア侵略に対抗するために開戦
というのでは、なんでも他人が悪いから、環境が悪いからしかたなくやったんだという”子どもの理屈”にも思えます。「僕わ悪くないもん!!」

憲法が押しつけられたものであることを理由に改憲する唯一の機会は、日本の独立回復直後にのみあったのかもしれません。中国・韓国との国交回復は改憲を済ませた後にするべきだったのかも。でないと”遅出しジャンケン”と非難されても返す言葉がないのでは。

などと、いまさら言ってもはじまりませんが。
しかし、改憲論議にあたっては「押しつけ」は今さら理由にならないと考えます。改憲が可能になった後も数十年にわたってこれをせず、かえって無理な解釈を重ねて誤魔化し続けてきたわけですから。それこそ白洲次郎的に言えば、この期に及んで”押しつけを理由に”改憲することは、ゲスの所業でありプリンシプルの欠如ではないのか。

改憲するならするで自らの責任を自覚した上でするべきだろうと思います。
他人のせいにせずに。

原因を他国にばかり求めるかのような主張がなんの違和感もなく唱えられるようになったり、自由な言論が不可能になったら歴史は再び繰り返されることになるのではないでしょうか。はたしてそれはかつての戦争で犠牲になった方たちの望んだところなのでしょうか。

あれあれ?童話の話だったはずなんですが・・・・。

童話からもけっこう思考のヒントが得られるもんですね(^_^;)

何を言いたいのかよく分からない文章になってしまいましたが、ただの遠吠えということでこのままにしておきます。(byおろかすぎる管理人)

りこうすぎた王子―プリンス・プリジオ (昭和26年) (岩波少年文庫〈7〉)
ラング
入手不可

田中澄江『この愛はそれでいいのか』

  • 2006年09月18日 (月)

読了。

身近な人間関係についてあらためて考えさせられるところがありました。

(夫婦の生活は)毎日毎日が危機の連続である。意識下にも意識の上にも危機はひそむ。・・・父と母が不和であると知らせることは、子どもたちの将来において、愛情というものに不信を抱かせるもとになるし、何よりも幼い子どもたちは、親の庇護を受けてのみ育ってゆくものであって、か弱い子どもの神経に、父母の不和についての傷心を与えることは、犯罪にも似ている。

私の姑は、私にとってかなりきびしい、厳格なひとと思われ、ことごとに注意されてばかりいるように思っていたのだけれど、・・・まことの愛情があれば、ひとは、ただ甘い言葉で語り、寛大な態度で許すばかりでなく、ときには辛い言葉で告げ、きびしい態度で拒否することもある。いや、後者のほうが、はるかに相手のためを思う愛情のほとばしりである、と教えてくれたのは、姑なのであった。私は・・・自分が即座に、私もまた姑をいとしい、と言えなかったのを大きな恥とした。

それぞれが孤独な自分という認識をしっかりと持ち、なお仲間と助け合うとき、人間として一番よい関係が生まれるのではないだろうか。はじめから仲間に荷物を持たせて、自分はらくな道をゆこう、仲間が注意してくれるはずだから、自分はただだまってあとをついてゆけばよい—というような甘えたひとは、やがてあいてにとってやりきれない存在になる。

出版 : 青春出版社
サイズ : B6判 / 221p
ISBN :
発行年月 : 1975

『戦闘機パイロットの空戦哲学』

  • 2006年09月14日 (木)
  • キーワードタグ: 政治

再読。

著者は元自衛隊戦闘機パイロット。明記はされていませんが主に支援戦闘機F1に乗っていた方のようです。訓練の様子や空戦の歴史がいろいろと書かれていますが、プロフェッショナリズムや武人としての心構えについても多くを割かれています。

尊敬されるということには、おもしろい効能がある。それは、自分自身を厳しく律するようになり、自分を磨き仲間をも磨こうとするようになる

逆に、尊敬されていないと自分自身に甘くなり(倫理観に乏しくなり)、妥協に走り仲間を蹴落とそうとするようになるという反対解釈も成り立つ・・・かも!?

そういってみると、いまどきの政治家や学校の先生なんてまるで尊敬されていないような気が・・・。(誰か特定の)政治家を尊敬してるなんて言う人、あんまり身の回りに居ないような気がします。
玉子が先?それともニワトリが先!?

もちろん、政治家などに限らずとも、尊敬されようがされまいが自らを律するのが本筋でしょうけれどね。

しかし失礼を承知で言えば、この本、戦闘機パイロットというちょっとマイナーな職業を扱うノンフィクションでもあるので、ベストセラーとはまず縁がないような気がしますが、刊行から6年経った今でも入手可能です。こういう本が絶版にならずに生き残っているのを知ってちょっと嬉しく思いました。

戦闘機パイロットの空戦哲学 戦闘機パイロットの空戦哲学
服部 省吾
価格:1785円

(続きを読む…)

プロフェッショナル・シンキング

  • 2006年09月05日 (火)

読了。

とくに目新しい事が書いてあるわけではありませんが、納得できる言葉がたくさんありました。

確立された理論はある意味、無責任である。なぜなら、それが一見、万人に通用するようにつくられているためである。並の人間はそれを頼りにするあまり自己を歪めてしまう。

人生は勝ち負けの連続である。ただし、その勝ち負けは自分で決められる。相手のパンチに打ちのめされて何度マットに沈もうが、自分が「負け」を宣言しない限り人生に負けはない。

税込価格 : \1,470 (本体 : \1,400)
出版 : 二見書房
サイズ : B6判 / 219p
ISBN : 4-576-04041-3
発行年月 : 2004.4

アレン『「思い」が現実をつくる』

  • 2006年08月29日 (火)

自分で買った覚えはないんですが、書棚にあったので手にしてみました。

本の題名に何か見覚えが・・・と思ったら、中村天風の著作でも繰り返し繰り返し同じことが言われていたのを思い出しました。(原題は”Out From the Heart”)

著者のジェームズ・アレンについて調べてみました。

http://en.wikipedia.org/wiki/James_Allen_(author)

天風は1876年生まれでアレンは1864年生まれ。

アレンが勤めを辞めてデヴォンシャーのイルフラカム(ここはどうも結構なリゾート地のようです)に移ったのが1902年頃(同年に『As a Man Thinketh』を刊行)。
一方、中村天風はこの年に陸軍の軍事探偵として満州に潜入。『Out From the Heart』が刊行された1906年、既に帰朝していた30歳の中村天風が結核を発病。

救いを求めて中村天風が欧米に旅立ったのが1909年、その帰途にインドに入ったのが1911年。(ここまで、天風に関しては中村天風『盛大な人生』(経営合理化出版局)巻末略年譜による。)

盛大な人生 盛大な人生
中村 天風
価格:10290円

そんなわけで、天風がヨーロッパに滞在していた時期にはアレンの『Out・・・』が出版されて既に数年経過しているということになるので、このとき天風がアレンの著作を目にした可能性もあると言えそうです。

天風に関する著作を数冊読んでいますが、私の記憶ではアレンに関する記述はなかったように思います。今度再読するときには気をつけて読んでみることにします。

閑話休題
なんだかこの本には直接関係のないことを書き連ねてしまいましたが・・・。
さらっと読めて、その実、結構深いことを書いてあったなぁと思います。

「思い」が現実をつくる―なりたい未来を引き寄せる10のステップ 「思い」が現実をつくる―なりたい未来を引き寄せる10のステップ
ジェームズ アレン
価格:1260円

『肝つ玉』より

  • 2006年08月26日 (土)

・・・彼れは千金が欲しかつたのでもない。栄華が望ましかつたのでもない、翁の美しい気裸(気肌)を知らなかつた事が、彼が千古の恨みとして、其の涙に赤き血を濯いでゐた・・・。

 
「散る櫻」より引用

頭山満述吉村岩吉編 『頭山満清話 膽もつ玉』 泰山房 1917年 

『風の男 白洲次郎』

  • 2006年07月21日 (金)

再読。
当ブログにはキーワード”白州次郎”で多くの方に来訪頂くんですが、特に昨日今日と急激にアクセス数が増えていたのでなぜかな?と思いましたら、テレビで特番があってたんですね。そんなこんなで改めてこの本を書棚から取り出して眺めてみました。

「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に積極的に嫌われるように努力しないと、ちゃんとした仕事はできねえぞ」

青柳恵介著『風の男白洲次郎』
ところで、ある人の評判が高まると逆にけなしだす人もおられるようで・・・。
某オンライン書店の投稿書評で典型的なのを目にしました。白洲次郎個人を貶しているというわけでもないようですが・・・。
良書は、武器や道具ではなく心の糧にしたいものです。しかしこの本を読んでアレだとナンですか・・・
(あえてその書評を読んでみようと思われる向きは http://www.bk1.co.jp/product/1913763/review/437773)
別段他意はありません。そういう読み方も出来るのか、と勉強しました。

私が白洲次郎をとりあげた著作を読むたびに思うのは、「自分なりの思想・価値観を持つ」ことの大切さです。周囲から好かれる人だろうが嫌われる人だろうが、評価の高い人だろうが低い人だろうが、人だろうが本だろうが思想だろうが、まずは自分の目・耳で聞いて見て読んで、そして自分なりの評価を下す、学ぶ、楽しむ、よろこぶ。もしも自分が読んでみて気に入らなければ、一般的な評価が高かろうがベストセラーであろうがそれなりの評価しかしないし(それを公言する必要は必ずしもないでしょうが)、一方で世間からそれほど認められていないようなものでも、自分が良いと思えば高く評価する。私はそういう姿勢を好みます。自分自身もそうありたいと(半ばないものねだりでしょうが)常々思っています。そういう意味では白洲次郎人気というのはとても逆説的なのかも知れません。自分なりのものの見方を大切にした白洲に集まる関心が、もし一種の流行に過ぎないとすれば、ですが。

最後に。自分なりの見方にこだわったという点では、骨董の目利きであった白洲夫人正子と次郎ははやはり似た者夫婦ということになるんでしょうね。

風の男 白洲次郎 (新潮文庫) 風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
青柳 恵介
価格:420円

ドクサ(doxa)

  • 2006年07月12日 (水)

今日は漫画です。
その中からひとつ。

doxaとは・・・
 ”根拠のない盲信”、これが転じて”純化された愛情”

ドクサ。そういえば昔、倫理学で出てきたな~と懐かしく思いました。
後者はキリスト教の考え方だそうなんですが。

盲信=愛情、なにか納得させられました。

確かに、もし「根拠のないものは認めない・信じない」という姿勢を突きつめると、もはや何ものも愛することが出来なくなる・・・・のかも。

そんな事を考えました。
ちょっと今日は変な感じです。

出典は

イリヤッド 1
魚戸 おさむ

税込価格 : \530 (本体 : \505)
出版 : 小学館
サイズ : /
ISBN : 4-09-186671-9
発行年月 : 2002.12

『日本の危機』 その2

  • 2006年07月10日 (月)

平和の象徴の鳩は、実は戦い始めると、相手が死ぬまで攻撃を続けるという。獰猛と思われている狼は、相手が降参し、急所である首筋を自分の前に差し出す時は攻撃を止めるという。攻撃しようとする本能を剥き出しのきばと今にもとびかかろうとして震える筋肉に表しながら、狼は、紙一重のところでふみとどまるのだ。「力」を有するものが限りなく殺し合いをすれば種は滅びるとの分別が遺伝子の中に刻み込まれており、それが相手を倒したいという本能に勝ってしまうのだ。片や鳩には「力」がないため、そのような抑制装置は備わっていない。だからこそ、攻撃が始まると、最後まで突き進んでしまうのだ。「力」を追放してきた日本は、自らが力なき存在になりつつある。物理的な力だけでなく、困難や問題に直面した時に戦うだけの心の強さ、意志の堅固さもなくしつつある。立ち上がらなければならない時に、勇気をふるって立ち上がることもなくなりつつある。
 まるでおとなしい羊のようにほんのちょっとの力を持つ存在によって、如何様にもコントロールされる国民になりつつあるのだ。一体私たちはそんな人間集団であり続けてよいのか。それはとどのつまり、平和を愛する形をとりながら、実は残酷な鳩の国になるということではないのか。自らに厳しく問いたいものだ。

『日本の危機』

  • 2006年07月10日 (月)

読了。

「畏れる神をもたない日本人は、果てしなく堕落していくのです。恐れるものがないために真に謝罪することも知らないのです」
 このような精神風土の中から、皆が責任をとる振りをしながら、事実上誰も責任を取らない全体責任の体制が生じたというのだ。
 だからこそ、物言わぬ人々が勝ち残っていく。

日本の危機
桜井 よしこ著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新潮社
サイズ : 四六判 / 281p
ISBN : 4-10-425301-4
発行年月 : 1998.8

弁護士 正木ひろし

  • 2006年07月08日 (土)

『正義に生きる』読了。

戦中から戦後にかけて活躍した正木・ 旲(ひろし)弁護士を扱った児童向け評伝。著者は児童文学者の石川光男。

弁護士開業当初は民事事件を多く扱い、金銭的にも恵まれた弁護私生活を送っていた正木が、ある時期から刑事を専門として特に数々の冤罪事件を手掛ることになった人生が子供向けに描かれています。しかし、児童書ながら(児童書だからこそ)人間社会に対するプリミティヴな疑問について改めて考えさせられました。

以下、著者(石川光男)のあとがきより引用

生来わたしはうそがきらいで、うそがまるで生活に必要不可欠なもののように大手をふってまからいとおっている社会が、とてもがまんできませんでした。小さなお世辞のたぐいのうそから、国家間の大きなうそまで、この世にはじつにうそがみちみちています。冤罪事件だって、うそがもとでうまれるものです。・・・商業界ではうそが目にあまるほど流通しています。「うそに乗りおくれるな」とまるで競争しあっているほどです。・・・生活上でも、「ウソも方便」としてこれを許容し、ことをうまくはこぶため、またいやな目にあわないために、どれほどみながシャーシャーとしてうそをついているかしれません。しかも日本の法律はウソには寛大で、他人によほど大損害をあたえるもののほかは、たいがいゆるしているので、うそは風のように自由に日本の空をかけめぐっているのです。

P.S.本書の前半に、高校あたりの世界史教科書には必ずと言っていいほど載っているドレフュス事件が取り上げられています。事件のあらましがとても簡潔平明に書かれています。そんなこんなで、この本は、児童向けとはいえ大人でも高校生でも読んでみる価値のある本だと思います。

いずれもう少しこの本について書いてみるつもりです。

正義に生きる (1978年) (ノンフィクション ブックス)
石川 光男
入手不可

人物クロニクル

  • 2006年06月23日 (金)

1984年、ソニーの大賀典雄社長に絡めて、株主総会紛糾についてのコラム

せっかく大英断で会社法を改正し、日本産業の身中の虫、総会屋退治を始めたのだ。ヤツらが何十時間ねばろうと、徹底的に戦おうじゃないか。マスコミが総会の紛糾した会社を揶揄するから、連中ははびこるのだ。ソニーで出た質問にしたって「総会への出席通知の封筒には、なぜ郵便番号をつけなかったか」…冗談じゃないよ。大半の質問は脅迫でなければ、オトシマエの要求ではないか。

以上、雑誌『諸君』連載のコラム「紳士と淑女」をまとめた下記書籍からの引用。

紳士と淑女〈2〉人物クロニクル 1994‐1996 紳士と淑女〈2〉人物クロニクル 1994‐1996
入手不可

笑えます。そして時々考えさせられます。

ランパ『第三の眼』

  • 2006年06月04日 (日)

第三の眼
ロブサン・ランパ著
白井 正夫訳
税込価格 : \1,260 (本体 : \1,200)
出版 : 講談社
サイズ : 四六判 / 237p
発行年月 : 1979.7

副題にあるラマ僧の自伝とありましたが・・・あとがきによれば、実際にはイギリス人のシリル・ホスキンという人物の著作なのだそうです。そしてホスキンは一度もチベットにいたことがなく、出版後、ペテン師呼ばわりされたとのこと。本人は、奇妙な霊感を受け、一チベット人の記憶が湧いてきてこの本を書いたと弁明したそうです。

補足
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロブサン・ランパ

失望。

『宇宙の根っこにつながる人々』覚書

  • 2006年06月03日 (土)

羊と山羊の問題

  • 2006年05月28日 (日)

超能力を信じている科学者(羊)が実験した場合は、超能力があるという結果が出ます。ところが、超能力がないと信じている科学者(山羊)が実験すると、超能力がないという実験結果が出る。・・・懐疑論者の想念が、目に見えない「無意識」の力によって、被験者が超能力を発揮するのをじゃましてします。そういうことは大いにありうることが、ということが「集合的無意識の仮説」をヒントにわかってきたのです。
 たとえば、一つの社会があって、その社会の全員が超能力を否定していたとします。その場合、全員が懐疑論者ですから誰も超能力を発揮できません。本来もっていたとしても抑圧してしまうのです。

宇宙の根っこにつながる生き方―そのしくみを知れば人生が変わる (サンマーク文庫) 宇宙の根っこにつながる生き方―そのしくみを知れば人生が変わる (サンマーク文庫)
天外 伺朗
価格:550円

 超能力はともかく、”信念の力”について考えさせられます。

スラムダンク勝利学

  • 2006年05月13日 (土)

読了。
思考法について参考になる記述が多々ありました。
特に、ラニー・バッシャム(Lanny Bassham(http://www.lannybassham.com/))について調べてみようと思います。

税込価格 : \1,050 (本体 : \1,000)
出版 : 集英社インターナショナル
サイズ : 四六判 / 181p
ISBN : 4-7976-7024-X
発行年月 : 2000.10

石坂泰三

  • 2006年05月12日 (金)

再読。
第一生命、東芝の社長、経団連会長を歴任した石坂泰三の評伝。

もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界 (文春文庫) もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界 (文春文庫)
城山 三郎
価格:570円

心に残った言葉をひとつだけ。
”無事是貴人”
とりたてて言うほどのこともない、なんの変哲もない日常のあれこれが、いかに有難いものかを知る人の言葉だと思います。サラリーマン社長であった石坂らしい言葉とも思います。

そういえば、しばらく前に石坂のお孫さんがテレビのドキュメントでとりあげられていたのを思い出しました。なんでも、ゴルフダイジェスト社という会社をなさっているそうで。

荘子

  • 2006年05月10日 (水)

再読。
中国の思想 第12巻
税込価格 : \1,890 (本体 : \1,800)
出版 : 徳間書店
サイズ : 四六判 / 315p

徳の充実に関する”木鶏”の話に感じるところがありました。
大相撲の連勝記録が途絶えた際に、「我未だ木鶏たりえず」と語ったという双葉山に関する本を探してみようと思います。

谷沢永一『達人観』

  • 2006年05月10日 (水)

読了

達人観 達人観
谷沢 永一
価格:1680円

言に訥、行に敏

  • 2006年04月01日 (土)

「君子は言に訥にして行に敏ならんと欲す」

君子でない小人とは、いい事ばっかりべらべらエラそうにしゃべるけど、結局なんにもやらない人をいう(みなもと太郎)

以前紹介した、みなもと太郎『風雲児たち 幕末編8』リイド社からの引用です。上記の言葉はもちろんあのお方。

風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス) 風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス)
みなもと 太郎
価格:550円

全く同感。
近いうちに原典にあたってみようと思います。

とうとう四月・・・。
心機一転、このブログも改題しようかと、フト思いました。
”司法試験?本とか?・・・嘘でした”(案)

武士道と国家の品格

  • 2006年03月11日 (土)
  • キーワードタグ: 政治

昨日は武士道について書きましたが、その後フト家に家に転がっていた『国家の品格』を読んでみました。昨年11月の発行以来かなり売れたようですね。売れ筋の本は敢えて読まない天の邪鬼な私ですが、試しに読んでみたところ、「やはり・・・」と「へー!なるほど」の2通りの感想を持ちました。

国家の品格
藤原 正彦著

税込価格 : \714 (本体 : \680)
出版 : 新潮社
サイズ : 新書 / 191p
ISBN : 4-10-610141-6
発行年月 : 2005.11

講演記録が下敷きということで、随所にジョークがちりばめられ、かつ非常に読みやすい本でしたので、2時間もかからずに読了しました。読み進めながら、最近新渡戸『武士道』が話題に上る理由は『国家の品格』の売れ行き好調とつながっているのかな、と想像しました。(最近は書店を覗くこともないので実態は知りませんが。)

第1章から第3章(近代合理主義の限界、論理だけでは世界が破綻する、自由・平等・民主主義を疑う)までは、「まさにそうだ!!」と共感しました。カルヴァン主義→ジョン=ロックの社会契約論→米国式民主主義を批判的に展開するあたり、単なる物知りではない、著者の教養が感じられました。(叙述内容の正当性には異論もあると思います。ここで私がいう”教養”とは、もっともらしいことをもっともらしく述べることが出来ることではなく、歴史を断片的な知識の集まりとして理解するにとどまらず、歴史的な事象を一連の流れとして把握しようとしている点です。)

「論理」だけでは世界は破綻する、この点も非常に強く共感したところです。私が論理の限界を感じ始めたのは大学に入学した頃だったと思います。今、なぜそうした限界を当時感じ始めたのかを思い返してみますと、その主因は、私が高等学校まで受けてきた教育にあったと感じます。

著者も言う如く、「論理」は道具に過ぎません。思考を展開するために必要なtoolであり、コミュニケーションのtoolです。論理からは決して”価値観”が生まれることはありません。価値観とは、著者の言葉で言えば”出発点”です。

パンを盗むという行為にたいして、「日本は法治国家である」ところから出発した場合と、「ああ、可哀想」から出発した場合、どちらも論理的には正しい結論をはじき出したとしても、出てきた結論は正反対であったりする、という風に著者は説明しています。

「材料(知識の断片)」をかき集めてきて、それを論理という道具でいくら料理(操作)したところで、できあがる料理は味が濃すぎたり薄すぎたり固すぎたり・・・etc まぁ、まともに食べることの出来る料理がたまたま出来上がることがあるかもしれませんが。(確固たるものが出来ることはないでしょうね。)

私は二十才過まで日本で教育を受けた人間ですが、学校では”何故(why)?”という質問はあまり歓迎されなかった気がします。分かりやすい例として、(著者も挙げておられましたが)【何故人は他人を殺してはならないか?】

いろいろな説明が考えられますが、それに対して”何故?””なぜ?””ナゼ?”と論理的に追及していくと必ず行き詰まるはずです。学校では、論理的に説明できる範囲では生徒の”何故”に答えてくれることが多いですが、論理で行き詰まったときに、”駄目なものはダメ”とは言われた記憶がありません。

教養ある人間は、学校の先生たるものは物事を冷静に、論理的に説明できなければならないというドグマがあったんでしょうか・・・。そういう先生方を斜に見ていた自分が確かにそこに居ました怜 何故行き詰まるのかを私自身がそのとき分かっていたわけではないので恥ずかしい限りですが。

駄目なものはダメと言うことが出来るためには、論理を超えた何ものかが必要です。まったく同感です。ちなみに著者はその一つを”情緒””武士道”と表現しています。

しかしながら、この著作、ちょっと気になるところがあります。

『国家の品格』
内容を読む限りでは、”国家の○○”でなくとも他に適当な文句があったんじゃ・・・と思います。著者自身、手垢にまみれた”愛国心”ではなく、敢えて”祖国愛”という言葉を使いたい、と語っています。大いに共感する点です。

偏狭かつ排他的な”nationalist”ではなく、郷土・祖国を愛する”patoriot”でありたいと私は思います。だからこそ、過去数年間のうちに大きく様変わりした(保守化)した政治状況にある日本において、”国家の○○”という題は内容に必ずしも沿っていない気がします。もちろん、そのような状況であるからこそ、仮に消費者へのアピール、商業的意図からつけられたタイトルであるのならば、ある意味適切な選択だったと思いますが。

さらに第4章以降
著者の日本に対する愛着心溢れるとても興味深い記述が続きますが、読む人によっては「日本は特別な国なんだ」、「日本文化は世界一」というふうに受け取られることもあるのではないかと感じる箇所が散見されました。
著者の語り口からして、恐らく著者自身にはそのような意図はおありにならないだろうとは思いましたが、ちょっと気になりました。講演が下敷きになっているせいか、くだけた表現もあり、読みようによっては誤解を生む恐れありと思います。

帯には「全ての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論!」とあります。
この文句に排他的ナショナリズムの臭い(可能性)を感じるのはあまりにも穿った見方でしょうか・・・。

なにはともあれ共感するところも多々ある本でした。
インドの数学者ラマヌジャンも初耳です。調べてみようと思います。

蛇足ながら
「当時(昭和初期)、九州や北海道や四国に住んでいた人の多くは、一度も富士山を見たことがなかったでしょう。まあ、銭湯の壁で見ていたかもしれませんが。」とあります。

平成18年3月現在、私は未だに富士山を見たことがありません。

さてさて勉強

たまには外に出たいなぁと思う今日この頃・・・

Home >> カテゴリ >> 書籍一般

フィード(更新通知)
窓口(Mail & Twitter)

このページの先頭へ戻る