インターネットラジオ局URLメモ
- 2009年11月22日 (日)
愛用のRhythmboxにラジオ局を追加登録したいときに局(そのURL)をいちいち探すのが面倒なのでまとめサイトを主ターゲットとして探してみる。おいおい追記予定。
愛用のRhythmboxにラジオ局を追加登録したいときに局(そのURL)をいちいち探すのが面倒なのでまとめサイトを主ターゲットとして探してみる。おいおい追記予定。
Oe1(オーストリア国営放送)ほか私のお気に入りのインターネットラジオチャンネル、これをいつもインターネットブラウザ上で再生していたところが、再生の度に「クリックしてクリックしてクリック」するのがだんだん面倒になったのでどうすべかと思案3妙。
で、手持ちの音源(MP3とかWAVファイル)を再生するときに使っているrhythmboxに「インターネットラジオ」という項目があるので、そこにOe1ほかお気に入りのチャンネルを追加すれば良いことに(いまさら)気づいた。
チャンネル登録時にアドレスを探すのがちょっと手間なぶん、一回登録してしまえばそれ以後はクリック一発、他の音源共々rhythmboxで一括管理できるので気分的にもスッキリする(iTuneでも同じことできるのだろ?←おぃ)。
というわけで「私的ラヂオ」欄は削除、ついでにブックマーク欄も「資料室」に放り込んだ。最近はフィードリーダーを使ってあちこちのブログを読むのでブックマークしておく意味が無くなってしまった。
で、やっぱりバロック音楽はBGMに最適。あたりまえか。
朝方までひたすら読み・聴いて、起きたらお天道様が高々と昇っていた。
だいぶん前からこのブログにはインターネットラジオのリンクを設置してるが、昨年のブログ移転の時にチェックしたら、あまり使用していなかったリンクのいくつかは既にリンク切れしていたので削除した。他にどこか良いネットラジオサイトがないかと探していたら昨日オランダの「Radio4」と言うチャンネルに遭遇した。このサイトでは大好きなRoyal Concertgebouw Orchestraのmp3が10曲もダウンロードできるようになっていて「おおおぉっ!」。で、私的ラヂオリンクに追加。
ベルリンフィルハーモニーの定期演奏会がネットで(有料)視聴できたり等々ほんと驚くしかない。有り難い。
(追記)
投稿を訂正する度にフィードが配信されてしまう不具合をどうにか修正できたようなので、テストをかねて投稿。
なし崩しに新年を迎えてしまったなぁ、などとフト思う。
エドウィン・フィッシャー著『音楽を愛する友へ』(新潮文庫)を読む。初めて読んだような気もするが、以前に読んだのに忘れているだけかも知れぬ。以前から背表紙を眺めるたびに、題名がどうも「らしくない」と思わぬでもなかったが、今回ようやく納得がいった。
この本、フィッシャーの二つの文にブルーノ・ワルター(ユダヤ系の指揮者)の講演原稿「音楽の道徳的ちからについて」を併収しているが、フィッシャーとワルターの関係はよく知らぬ。フィッシャーの文の原題は"Musikalische Betrachtungen"(音楽的観照)と"Johann Sebastian Bach"。訳者佐野利勝によるあとがきに、詩人尾崎喜八の霊に捧げる、とあるのをみてようやく『音楽を愛する友へ』という邦題に納得。よく見れば巻頭に献辞もあったのを見落としていたようだ。
楽曲の解釈一般についてのほかに、モーツァルト、ショパン、シューマン、ベートーヴェン、J.S.バッハについてそれぞれ書き綴られているが、そのどれもがしかも自らの体験に裏打ちされた格調の高いもので、凡百の音楽評論が哀れにすら感じられる。むろんそれは比べる方がどうかしているというもので、そもそも実作と評論とを同じ土俵で戦わせてもあまり意味がない。これとは幾分違った意味ではあるが、作曲家と演奏家とを同一次元で比較することにもまたあまり意味はないだろう。とはいえ評論にもまた「生きた評論」と「死んだ評論」があるのは事実だが。別段どちらが善いとか悪いとかいうはなしではないが、そうした違いは厳然としてある。が、それについては詳細を略す。フィッシャーはこう言う。
音楽自身が物語るものと、一人の作曲家が音楽を通じてわれわれに語るところのものとを厳密に区別して考えねばなりません(・・・)たとえ作曲家が音楽によって苦悩を語ろうとも、音楽自体は同時に幸福を小声で囁いている、そして、音楽の独自の声は作曲家の語る縷々たる物語よりも強力なのであります(・・・)わたくしは音楽を目して、作曲家がそのなかに自己の体験や感情を叙述するところの一種の私信と見なすことに対して警告を発せねばなりません。
フィッシャー『音楽を愛する友へ』新潮文庫
仮りに誰かが、一人の人間の思考や行動が全てその人物の自我から発するものとする”機能的な”人間観から物事を眺めるならばこのフィッシャーの言は理解しがたいかも知れぬ。しかし人間は意志のみにて生きるに非ず。人間が決して意志の働きによって生きている訳ではないと考える人にとっては寝ているあいだも人間は生きていることになる。が、人間の生を意志(自我)の面からのみ見るならば寝ている人間は意志がない故に「生きていない」ということになろう。こう考えてみると、現代社会が如何に「生きるということ」を軽視、いや見過ごしているかが分かる。これは一人ひとりがそうだと言うのではない(そうなのかもしれないが)。社会における「哲学の不在」といってもいい。なにもかも分解し分析してしまう専門家は数多いてもその逆を行う人は少ない。人間を分解し、心理を分析し、それでおしまい。まるで複雑な機械をためしに分解してみた子どもがそれを元に戻せずそのまま放置し、また別のものを分解し始めるようなものか。いま一体どこに幾人の哲学者がかろうじて存在しているのだろうか。
話が逸れた。
フィッシャーはここに一人の演奏家=再現芸術家として観照した音楽について語っている。したがってこの本からバッハやモーツァルトら作曲家に関する”知識”を得ようとしてもおそらく無駄に終わるだろう。もし偉大な作曲家の音楽を如何にして己がものとするかという観点を著者と共有することが出来るのなら、この著作から得られるものは計りしれないほど多いだろう。なお、1886年バーゼル生まれのピアノ奏者・指揮者であるフィッシャーだが、この本の叙述にはC.G.ユングの匂いが強く感じられる。1875年生まれのユングとは同世代とは言えないまでもまぎれもない同時代人でもありまた同郷人でもある。この二人の関係についてちょっと興味が湧いた。
ユングもしばしば老子の言葉を引くが、フィッシャーもまた次のように言っている。
いつの日か迷妄の夢はさめる。そして、モーツァルトの音楽においては、内容、形式、表現、ファンタジー器楽的効果など、いっさいがごく単純な手法によって達成されていることに気づくのである。この日が訪れるとき、君はあらゆる模索、あらゆる欲求から完全に救われるのだ。ここには、老子の言葉の意味で、真に超克をなし遂げたなんぴとかが立っているのである。老子はこう言っている。
欲せんとすることなくして欲し、
為さんとすることなくして為し、
感ぜむとすることなくして感じ、
小を大とし、
少なきを多しとし、
悪しきを善しとす。
是(ここ)を以て聖人は遂に大を為さず、
故に能くその大を為す。
君が人生においてこのことを体得しないかぎり、君は決して、神々のごとく現実と喜戯する芸術境地に達することはできまいし、モーツァルトの音楽に、彼が要求しているもの——すなわち人格の調和——をあたえることもできはすまい。だが、そこへと通じている道は、なんという労多き道であることだろう。
同上
意志こそ全て、とする限りは、このような二律背反はタワゴトでしかなくなる。このタワゴトめいたことを頭で「理解」するのは簡単だ。しかし頭で理解しても身体は正直だ。そういえばしばらく前のこと、図書館である総合雑誌を眺めていたらやたらと傍線が引いてあった。それは「品格こそが大事なのだぁ」といった内容の文章であった。皮肉なことではある。脚下照顧。
追記
この文庫本は現在絶版らしいが、増補版がみすず書房から『音楽観想』として出ている。値段は文庫の十倍もするがそれだけの価値はあると思う。
(2008年1月17日一部改稿)
![]() |
音楽を愛する友へ (新潮文庫 フ 10-1) |
| エトヴィン・フィッシャー | |
| 入手不可 |
![]() |
音楽観想 (みすずライブラリー) |
| エトヴィン フィッシャー | |
| 価格:2835円 |
早寝早起きは健康の秘訣である。
今、窓外はまだ闇である。
自分では分からぬがおそらくアルコールの匂いが芬々である。
したがって、やけに水が飲みたいのである。
よって書く。
注)理屈は別にない。
いえね、ざっくばらんに言えば酔いで朦朧とした頭で本も読めないので、次善のこととして書いているというだけのこと。未明にこっそりバッハの無伴奏チェロを聞きながらごそごそ。過去の宿題の中からお題を一つ持ってきた。
冬のソナタの吹き替えについてざっくばらんに。ただし余計な誤解の生じる余地を生まぬよう、猫歩きでいってみる。悠々と。
ガオーっ(@MGM)
今さら冬のソナタでもないのだろうが、まあ今は冬だからちょうどいいのである。冬のソナタ、原題はたしか冬の恋歌。私が初めてこのドラマを見たのが一年ほど前。それまでにもしばしばタイトルやよんさまじうひめの噂を耳にはしていたが、見向きもせずにいた。そこでここでは「純愛?ドラマ?へぇふーん」となる人間の眼に映る「冬のソナタ」の一例をお披露目しよう。着眼点は「吹き替え」。
同タイトルの映画・ドラマの吹替版と字幕版が並べてあったら迷わず字幕版を選ぶのが私のかわらぬ習慣だが、その理由は一言で言えば、可能な限り作者の意図をあますところなく読み取りたいという欲求にもとづいている。と、こう書くとどうも四角四面になってしまうが、ありていにいえば、「もったいないもったいない」というケチ臭さが身に染み込んでいるというだけのことではある。そもそも「鑑賞」の意図が「純愛感情を疑似体験したい」というより「純愛の描かれかた」の方にある以上、BGMその他の音声もきわめて重要な要素となるのは当然といえる(お、何だかセンセイ気分になってきた)。
冬ソナに関して言えば、字幕版(「冬の戀歌」)とNHKの吹替版(「冬のソナタ」)の両方を見てみた.この二つは声だけでなくBGMも(著作権の制約で)異なっているのだそうだ。これらを見比べてみて私は以前「これ、日本語吹替版はもうそれだけで改竄にあたるという確信を深めた」とこのブログに書いた。もちろんこれはもののたとえですよ、たとえ。たとえば主役俳優ペ・ヨンジュンの立体感のある声が日本語版ではまるで別人の声になっている。「吹き替えを日本人声優がやってんだから別人の声に決まってるだろ」とおっしゃるなかれ.吹き替えの声一つでキャラクターの印象は恐ろしく変わってしまう。例えば映画『ダーティ・ハリー』シリーズの主役ハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)の吹き替えがそうだった。むろんこれは聞く方の慣れ次第と言えなくもなかろうが、それでも吹き替えの声一つで役柄の印象が大きく変わることは否定できまい。
筋骨隆々の肉体ながら声はソプラノという組み合わせはそれだけで滑稽さを表現しうる。
冬のソナタの主役の吹き替えは、ソプラノとは言わないまでもいかにも細い高い声になっていて、意地悪な言い方をしてしまえば「腹話術」を連想させるものになっている。もしこのドラマが純愛とやらを表現しようとするものならば、そこに「腹話術」の手法を持ち込むのはあまりに奇抜なやり方に思われた。まるで動物園のライオンの檻の中にぬいぐるみのライオンが一匹混じっているような奇妙さは容易に拭えない。少なくとも私自身は、あえて主役を「オンナ男」に仕立てた日本語吹替版に込められている(かもしれない)深い意図を読み取ることができなかった。したがってそのような「意図」を忖度せずに見ることができる字幕版の方が見ていて楽であったのは事実だ.
THE END
(エンディングテーマ流れる)
(「なんだ、つまんね。金返せ~」とヤジが飛ぶ)
以下、エピローグ
しかし、あの吹替版が日本全国津々浦々で放映されて絶大な人気を博したらしいことはなんとも興味深い.
一見しがないサラリーマン + スーパーマン
一見ムキムキマッチョ+うつみみどりの声
一見野性的な挌闘家+じつはただの悪ガキ
一見真面目な聖職者+じつは性的倒錯者
一見無性にいい人+じつは詐欺師
落差が大きければ大きいほど笑える。
落とすものは高ければ高いほど爽快。
あやしげな素材を太らせてから食う。
騙して欲しいがため詐欺師に近づく。
ひょっとすると今、日本人はこうした「落差の魅力」に取り憑かれているのかもしれないな。格差はこれなかなかぶち壊すことが困難だが、落差ならどこにでも作りだすことができる。たとえそれが嘘でもよい。落差があるようにさえ見えればよい。それだけでも楽しめる。実際に落差があればもっとよい。そして高所でも低所でも落差が作られる。子供がおもちゃで遊んでいるようなものか.後片付けのことは考えない。その場限りのお遊び.後は野となれ山となれ。
自分の力ではどうにもならぬと観念してしまい、見かけ上の落差だけに倒錯的欲望を募らせて行く。そしておそろしいことに「消費者」は欲望を満たされることに慣れきっている。倒錯的欲望すら誰かがきっと満たしてくれる、というわけか?
いかん、どうやら迷走し始めた.
我に返って考えてみれば、そもそも落差は笑いの源泉の一つである.ならば誰もが落差を求めても不思議ではない。誰もが笑いを求めている。落差を暴露してほしい。笑いをもたらしてほしい、たとえ自分以外の誰かが犠牲になっても。つまりはとことん受動的に笑いを求めているというわけだ・・・。
いや、しかしそもそも笑いの質が以前とは変わったのだとすれば・・・。
いやいや、これ以上読む人を樹海に引き込むのはやめよう。はっきりしているのは、どのようなものであれオリジナルには明白な印がある、ということ。たとえ目には見えなくともそれは必ずある。耳に聞こえなくともそれはある。そして私は常にオリジナルなものを見たい、聞きたい、つくりたい。もちろん、アレンジ物でもパクリでさえも「オリジナル」と言い得るものもある。
「オリジナル」でない物は大抵すぐにそれと分かる。なぜなら「オリジナル」なものはきっと腹に響いてくる、厚みと重みを持っている。頭脳ではなく感覚で捉えられるもの。
脳みそは簡単に騙されるが「腹」は騙されたりなどしない。騙されようがない(その点、オレオレ詐欺の多発は非常に興味深い現象なり)。自分の体を使って何かを作りだし表現することに勤しんできた人は、そのことを知っている、いや身につけている。これは理屈ではない。
だからもし自分の腹に響いてくるものがあるのならそれは試してみる価値はある。
見てみるだけの価値はある
聞いてみるだけの価値はある
溺れてみるだけの価値はある
他人の頭が下した評価よりも自分の腹の言い分を信じるほうが、たぶん「頭が良い」。
ところで吹替版にはそうした「腹」がない。
言葉だけが切り取られ置き換えられることによってキャラクターが分裂してしまう。頭と腹が別々に踊り出す。ひょっとするとスプラッタ映画なら吹き替えでも違和感がないのかもしれないな。スプラッタはともかくとしても、キャラクタが分裂することなくしっくりくる吹き替えは稀有のものだといえる。
いまさらながら、実際に冬のソナタの吹替版が好評だったなのかどうか私は知らない。そもそも「声なんてどうでもよい」ってのかもしれないのだし。
「ヨンさまあ~」
恋は盲目ならぬ恋は聾唖、か?
奥が深いね、なかなか。
迷子になりそう。
ようやく明るくなってきた。
なおタイトルは「倒錯した日本の、私」と読んでいただきたい
ネットでラジオを探してウロウロ。一時期はよくストリーミング放送を聴いていましたが、その後なんとなく聴かなくなっていました。先日、ちょっとしたきっかけがあってまた音楽が聴きたいなぁ、と。
まえはmusic matchというプレイヤーをよく使っていましたが、これいつのまにやらyahoo系列になってました(そういえばどこかでmusic match買収!の記事を見かけた覚えも)。
聴くのはたいていクラシック。バッハもベルリオーズもドビュッシーも武満徹までもいっしょくたに「古典」よばわりするってのもちとばかし落ち着かないけどまあとりあえず「クラシック」。一口に言えば生音というかアコースティックな音が好みなので室内楽やオーケストラ曲を好んで聴きます。
いくらかCDも持ってはいますが、どうせ聴くならいままでに聴いたことのないものをと思ってネットラジオを物色中。とりあえずいくつかをリンクに追加。
北ドイツ放送協会
バイエルン(南ドイツ)放送協会
中部ドイツ放送協会
surfmusic.de(音楽全般のラジオリンク集)
(追記)この際なのでラジオカフェ改めラジオデイズもこちらに移動予定(こちらは知る人ぞ知る、「語り主体の」ネットラジオです)。
いまのところドイツの放送局関係ばかりですが気に入るのがあればぼつぼつ追加していく予定です。ちなみにドイツばかしというのもまた私の好みの反映です。
ドイツ好みに理屈はなくて、ただもう生理的にドイツの音が好みというくらいのこと、です。なかでも南ドイツミュンヘンとかバンベルクあたりのオーケストラの音はもうそれだけで私を気持ちよくさせてくれます。CDショップでも指揮者問わず曲問わず無条件で触手が伸びるくらいに好きですね。ちなみに日本アメリカ韓国でも喜んで聴きます(でまたこれがシカゴ響だったりドイツで勉強した人だったりもするんですが)。
ドイツに限らずお奨めのネットラジオ、ありませんか?
アメリカならロスフィルの透明感のある弦楽器の音もかなり好き。フィラデルフィア響の枯れた木管の音、モントリオール響のきらびやかな音色・・・書き出したらキリがないのでやめ。・・・あ、個人名ならカサルス! まさに不世出の芸術家。
念のため書いておきますが、ドイツの放送局のストリーム放送はけっこう長い曲目の説明があったり、曲間にはニュースとかが流れますので、「ひたすら音楽だけを聴きたいひと」向きではないです。もっとも、どこかの国のようにやたらたかーいテンションでまくしたてるような話しぶりではなくて、いかにも落ち着いたトーンなので私は大して気になりません。偏屈人の私は、ストリームの開始ごとに「ウエルカ~~ム$$$レ~~イデオ!!!!」などとやられるだけでスイッチOFFにしたくなります(無料なのにね・・)。
で、昨日今日はドイツのネットラジオを聴きながら、本棚から引っぱり出してきたフルトヴェングラー『音と言葉』をぼけ~としながら読んでおりました。読み手は気を抜いてますが、フルトヴェングラーの言葉はなかなか(いや、かなり)先鋭的でした。おのれの不明を恥じ入らされた箇所もちらほら。いずれ感想をまとめてみたいと思って(は)います。
さあて、目を覚まさねば・・・眠。
などと書いてるうちに、(北ドイツ放送で)おおなんとカルロス・クライバーのヴェルディがかかるではないか!!らっきい!
昨夜ふと思い立って書棚の奥から一冊の本を取り出してきた。うっすらと積もった埃を払いながら、去る者は日々に疎しとはよくいったものだなぁなどと少しばかり感慨にふけった。音楽が私の生活の中心からはずれてもう随分と経っている。打ち明けたはなし、音楽を聴くことすら最近は稀だ。しかし、音楽に限らず芸術への関心は最近ますます嵩じてきている。ここでいう「芸術」の定義は自分の中でもじつは定かでない。定かではないのでいま試みにこれを書いている。
少なくとも私がいまここで芸術という言葉に見ているものは、音楽・絵画・舞踊その他もろもろという意味での”表現手段”のことではない。「音楽は聴覚に、絵画は視覚に、舞踊はその両方に訴えかける芸術だ」とも言えなくはなかろうが、そのような他人事めいた説明・能書きにはまるで興味がない。
もしも芸術にとって不可欠な何かがあるとすればそれはいったいなんなのか。
なるほど、私の興味はここにあった。
そしていまのところその答えはどうも見出せそうにない。「芸術とは何か」ということも、「芸術にとって不可欠なものは何か」ということも私にはよく分からない。
音楽、絵画、舞踊、文学、映画・・・
情動を惹起する、理性の枠を超える、美を感じさせる・・・
そのような通り一遍の答えが欲しいわけじゃない。「説明」が欲しいわけではない。
ここまでつらつらと書いてきたような堂々巡り、答えのなさげな問いに小さな頭を始終悩ませている人間をすら彼岸へと誘い出す、有無を言わさぬ力の依って来たるところを知りたいのだ。
しかしあらためて考えてみるに、芸術の力などは思ったよりもちっぽけなものだとも言えるかもしれない。というのも万人が納得する芸術、万人を満足させる芸術家がいまだかつていた試しがあっただろうか。世に出ることなく野垂れ死にした画家や毀誉褒貶相半ばする音楽家は数あれど、誰からも批判されず万人に受け入れられた芸術家がかつていただろうか。やれ、俗物大衆迎合技術に劣る時代錯誤ナルシスト傲慢偏屈ユダヤホモ・・・。尽きせぬ罵詈雑言の類のどれ一つとして浴びせかけられることなく生を全うした芸術家がかつていた試しがあったのだろうか。
どれほど名の通った芸術家であっても、否、名の通った芸術家であるほど常に批判に晒されてきたのではなかったか。誰に頼まれたわけでもなく観衆の前に進み出て時には悪口雑言投げつけられたにもかかわらず彼が表現し続けた理由を単なる自己顕示欲やナルシシズムに帰してしまうことはその芸術家のみならず人間一般に対する冒瀆(ぼうとく、です。表示できませんね)とさえ言えるのではないか。人間というものの弱さ汚さは否定せぬまでも、それが全てではないことは各人がもっともよく知るところではないか。
もっとも、芸術の皮を被った自己顕示欲、ナルシシズム、自己愛がそのままの形で観衆に受け入れられることなどなさそうだ。観客は自分自身の欲求の満足をこそ求める。したがって芸術家の自己愛は、聴く者見る者が自身の自己愛と同一化できる場合にのみ受け入れられ得る。別の言い方をすれば、ときに観衆は芸術家の自己愛すらも貪欲に我がものにしてしまうとさえ言える。つまりは、芸術家の差し出すものが「本物の芸術」であれ芸術を装った只の自己愛であれその価値は観衆によって新たに創出される。観衆から遊離した「芸術そのものの価値や意味」などというものがあるとは私は信じない。逆に言えば彼の演奏を(あるいは作品を)露骨に貶めることは、ときとして聴く者観る者自身の「見る目のなさ」を暴露することになる。
思うに芸術とはそこに出来合いのものとしてあるのではない。それは自らの傲慢さ醜さ弱さを剥き出しにすることすら辞さない強い表現意欲を持った芸術家と、彼の表現から貪欲に何かを汲み出そうとするオーディエンスとがいて、しかも彼らが幸運にも時と場所を同じくし協働(競働?)して初めて創り出されそしてはかなく消える、極めてactualな出来事なのだ。そしてそれは明確な形を残さないまでも演奏者・聴衆の双方に(それぞれ独自のあり方で)忘れがたい刻印を残す。時には人生観、人間観をすら揺るがす。文字通り人間の生に直接働きかける。
とはいえ芸術家の中には公衆の面前で演奏することを避けたグレン・グールドのような奇特な人物もいないわけではない。それでも私は芸術のactualityを信じて疑わない。グールドはたまたまふつうとは別の形で自身の芸術をかたち作ろうとしたのだろうと好意的に解釈するのみ。彼のピアノの音が異質であろうと録音に鼻歌が混っていようと目が狂気に血走っていようと解釈が常人離れしていようとまるで頓着する気はない。
音楽に限らず、絵画にせよ文学にせよ凡そ如何なるジャンルの芸術に接したときにも、私はただ彼が何を表現しているのか、何を表現しようとしているのかに耳を傾けたい。彼の演奏に飽き足らなければまた別の演奏家を聴くまでのこと、なにも彼の演奏や彼の人間性について論評し判定するするのは私の仕事ではないし出来ることでもない(好き嫌いの判定は出来るとしてもそんなものは他人に訊かれでもしない限りは口にするまでもない)。まして自分が好まない演奏家のファンに「どこがいいのか、あんなもん」と言葉を投げつける気もない(なお、ふつう芸術とは見なされない評論・論説であってもそこに論者の真率な思想的格闘の痕を見出したときには、私はその論にさえ「芸術」を感じることを言い添えておく)。
聞く耳を持つ者だけに聞こえる。より正確に言えば、聞こうとする意欲を持つ者だけに聞こえるてくる。
おおよそ芸術とはそうしたものではないか。どうもそれがいまの私の答えのようだ。
はて?
フルトヴェングラーもカラヤンもどこへやら。
いまさら言い訳めきますが、この本も単に「フルヴェンとカラヤンのどっちがすごい?」的なものではなく彼らの芸術観の違いに焦点を当てたものでした、ということで(お茶を濁す)。ちなみに著者は作曲家・元ベルリンフィル首席ティンパニスト。その語り口からはフルトヴェングラーへの親愛の情が溢れてます。
機会があれば改めて書いてみます。きっと多分おそらくもしかするとかも・・・。
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フルトヴェングラーかカラヤンか |
| ヴェルナー テーリヒェン | |
| 入手不可 |
デビット・L.カニンガム監督「エンド・オブ・オール・ウォーズ(原題:To End All Wars )」(2001年)を観る。公式サイトというものではないようだけれど
To End All Wars ~クワイ河収容所の奇蹟に詳しい。9・11テロの余波で劇場公開が見送られたという曰く付きの作品。憎悪の応酬の不毛さを端的に表現した作品ゆえ、公開が見送られたのもむべなるかな。
この作品は、日本軍の捕虜となった連合軍兵士の姿を通して、「愛と赦し」をもってしか憎しみの連鎖は止められないというメッセージを差し出す。作中のキャンベル少佐(ロバート・カーライル いい演技者だと思う)の言を借りれば、「愛」や「赦し」など甘ちゃんの戯言であり、軍人としては敵への愛など不正義だと言うことも出来ないわけではない。また、そうした道学者ふうのメッセージもその差し出し方によっては時に観る者をして辟易させることがあるけれども、この作品に関して言えば「愛」や「赦し」を直接的に語るのではなくむしろそれが要求する「受苦」「自己犠牲」に焦点をあてている点で品の良さを感じた。
カウボーイの恰好で自由や正義の体現者を気取るような恥知らずからはまず感ずることのない含羞と知性を随所から思い做して、さては監督はカウボーイの国のお人ではないのだろうと思いきや、さにあらず。カウボーイは皆お気楽ノーテンキだとの独断に陥りつつあった我が身を省みて冷汗三斗。監督はデビット・L.カニンガム (wikipedia)。
キーファー・サザーランド演ずるアメリカ人捕虜ヤンカーの人物造形(目端は利くが自己中心的で金に汚いオポチュニスト)などは、ヨーロッパ人のアメリカに対する皮肉ではなく知的アメリカ人自身の自己省察であったか・・・。そう考え始めると、ある事件を契機にこのヤンカーが回心して犠牲的精神を体現していく姿は、まさにこの作品が発するアメリカに対する強いメッセージだったようにも思えてくる。
原作はアーネスト・ゴードン著『クワイ河収容所』。
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クワイ河収容所 (ちくま学芸文庫) |
| アーネスト ゴードン | |
| 入手不可 |
泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜を題材にした映画と言えば(フランス人ピエール・ブール原作の)「戦場に架ける橋」を思い出す(内容忘れちゃったけどかなりエンターテイメント性が強かった気がする)が、「エンド・オブ・・」はかなりシリアスかつメッセージ性が強いという印象をもつ。
この映画は実話に基づくが、そのなかで重要な役割を演じるのがナガセ軍曹。戦争前にケンブリッジに留学していたとの設定で登場する通訳官。
[講演録] 「僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言―」
最後に。やはり日本兵による捕虜虐待のシーンには、作りものとは承知しながらも複雑な感情が湧いてきました。捕虜の管理を統括するナガトモ中佐の登場シーンなんて、まるで「地獄の黙示録」に出てくる狂気のカーツ大佐を彷彿とさせます。土人(土着民)に曳かせた荷車(人力車)にナガトモ中佐がふんぞり返って坐る姿、デスクの上に置かれた馬鹿でかい徳利、執務中にもかかわらず着衣の乱れた将校・・・etcに、「おいおい、悪役とはいえそれはあまりにも・・・」と言いたくなったのは事実です。私が日本人でなければ決してそんな気持ちにならなかっただろうなぁ・・・。ま、その辺りのことについては稿を改めていずれ書こうと思います。
とはいえ決して恨みつらみや人種的蔑視などとは無縁です。一例を挙げれば、捕虜を苛酷に取り扱って彼らの恨みを買いまくり、捕虜解放後に復讐されて切腹する鬼軍曹イトウは、捕虜ばかりでなく職務上の失策をした日本人の部下をも厳しく遇する(フェアな)人物として描かれています。
追記)カニンガムが監督したABCテレビの番組「9.11への道」は何かと物議を醸したようですが、詳しくはまだ調べていません。今度探してみてみよう。
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エンド・オブ・オール・ウォーズ【字幕版】 [VHS] |
| 入手不可 |
シリーズ第3作「オースティン・パワーズ ゴールドメンバー」(2002年)を観る。
爆笑!
この馬鹿々々しさがなんともたまらない。
映画の冒頭に登場するビッグネームの面々がまた馬鹿々々しくてよろしい。
映画のつくりそのものはいたって馬鹿々々しい(笑いに充ちている)のだが、主役マイヤーズ(一人四役!)の表現力には圧倒されるばかり。微細な身体的動作、表情の変化が如何にも雄弁。日本人俳優で彼ほどの表現力を持ち合わせた俳優(コメディアンでもいいけど)が何人いるだろう?
この作品、とにかくキャストは豪華絢爛。ビョンセ美しい。マイケル・ケイン渋い(マイヤーズとケインの掛け合いのシーンなんて最高です。笑いの「質」の高さを感じる)。
「父と子の葛藤」「親の愛を求めて得られない可哀想な息子」みたいなのを茶化すようなところが随所にあって笑ってしまいました。「あぁ、これって日本だけの傾向ではないのだなぁ」と勝手に納得。
マイヤーズの一挙手一投足に笑いのツボを刺激されつつ、ついつい「笑い」「ユーモア」について考えて始める。いずれここに書いてみたいと思います。
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オースティン・パワーズ ゴールドメンバー [DVD] |
| 価格:1977円 11個の新品 |
キム・ヒョホン監督「二重スパイ」(2003年公開)を見る。
キャスティング(ハン・ソッキュ他)に費用の大半とられたのかな。多分その分だけシナリオが割りを食わされたのだろうと勝手に邪推。どうして??なぜこんなにストレートなの?!? まるでヒネリが皆無・・・。ま、有名スターのビデオクリップと思えば上出来。「映画」としては韓国内では評価が高くなかったらしいけど、残念ながら納得・・・。
しかしコ・ソヨンはいとうつくし。びっくり。初めて見る人だったけどね。。
あ、そういえば
「あれ、ヨングク!茶髪やめたの?!」ってのもありました、ハイ。
映画「JSA」を見ました(今さらですが)。
公開されたのは2001年だそうですが、この映画を見ていると朝鮮半島の統一は決してもう絵空事ではないのだろうな、と感じます。
そういえば今年の9月には米韓連合軍の戦時作戦統制権がアメリカから韓国へ返還されることが決まったというニュースを読んだ覚えがあります。
以前から韓国がその返還を求めていたのに対して当初アメリカ側は難色を示していたそうですが、急に返還に同意して、しかもそれが韓国の要求よりもかなり早い時期に返還すると言い出して今度は韓国が慌てているような情勢のようです。
韓国の対北朝鮮太陽政策は韓国内では(韓国のメディアでは)不評のようですが、少なくともここ数年で朝鮮半島情勢は統一へ向かって着実に進んでいるような印象を受けます(とはいえキムさんがああですし、まだ大きなヤマが残っているのも確かでしょうが)。
日本とアメリカが(日本だけが?)日米同盟関係の強化を盛んに言っていますが、お隣の韓国は方向としてはアメリカとの間合いをかなり慎重にとっているようです。
朝鮮半島情勢に関する私の乏しい知識によれば今の状況は
運命の恋人北朝鮮(チュンさん)とのようやく想いを遂げることが出来そうな韓国(ゆじんさん)が、それまで反共という幻想を共にして付き合ってきたアメリカ(サンヒョクさん)との間で揺れ動いてる
そんな感じに見えますね。
※「冬のソナタ」の放映時期を調べてみると、2002年初頭に韓国KBSで放送(翌年には日本でもBS2で放送)、となっていました。
2000年初頭に当時の金大中大統領が「南北経済共同体構想」を発表するなどして、西ドイツの「東方政策」に範をとった”太陽政策”が唱えられ、アメリカや国連その他の国際社会においても南北対話を勧奨するような状況でした。
韓国の世論・野党には北朝鮮宥和政策への批判の声もあったようですが、2002年後半から野党指導者として盛んに太陽政策を批判していた盧武鉉は、同年の大統領選直後に「太陽政策以外に代案はない」と表明して以後、今日まで政策は維持されてます。
つまり「冬ソナ」が韓国で放映された時期には与党が太陽政策を推進し、これに大統領選を控えた野党と世論の一部が批判的視線を送っていた時期だと言っても良いようです。そんなわけで「冬ソナ」は、北朝鮮に対する太陽政策を国民意識の深いところに浸透させる役割を果たしたと考えることはできなくもなさそうです。
私もつくづくヒマな人間ですね。こんな事を今さら・・・。
サンヒョクさんはゆじんさんがチュンさん(ミンヒョンさん)とくっつくのはとりあえず許せない。(「小さいときから面倒見てきたのに~ぃ。今さらチュンさんなんかに取られてたまるか!お金も命もかなり使ったんだぞ!!」)
戦争という事故のあと、チュンさんが38度線の彼方に消えてから数十年後、独裁者キムさん=理事ミンヒョンさんとして現われたとき、ゆじんさんはチュンさん(=ミンヒョンさん)に想いを告げることは出来ない(揺れてるけど。だって中身はチュンさん=”同胞”だから)。
想いを告げられないわけは、チュンさんがチュンさんとして(同胞として)ではなく、ミンヒョンさんすなわちキムさん(を頂点とする独裁国家)として存在しているから。それともう一つ、サンヒョクさんとその家族(西側諸国)の手前もあって、チュンさんと添い遂げるなどと言い出すことは行きがかり上言えなかった(サンヒョクには何かと助けてもらったし)。
ところが反共産主義という名目が消え去って外野の思惑を気にする必要が薄れた今、運命の赤い糸で結ばれた二人にとって障害はチュンさんがチュンさんとしてではなくミンヒョンさんとして存在しているというその一点だけとなったのであった。
チュンさんがチュンさんとして現われてさえくれればゆじんさんはその胸に飛び込んでいける(チュンさんを受け入れることができる)。
しょせんサンヒョクさんはゆじんさんとは添い遂げられない運命なのよ。サンヒョクさんの役割はラジオで”民主主義と正義”を垂れ流すことだけ。
チュンさんがミンヒョンさんとしてではなくチュンさんその人としてゆじんさんの前に現われたとき、サンヒョクさんに出来ることはもう身を退くことだけ。そのとき婚約(作戦統制権)などは反故にするしかないのだ。
サンヒョクさんが
「そんならええわぃ。とっとと解消しちゃるわい」
と、ゆじんさんの予想よりも早めに婚約解消しても大勢に影響はないのでした。ゆじんさんもちょっとだけ慌ててるけど。
それはまだ二人の(チュンさんと自分との)関係が確定してないから。ただそれだけ。
ゆじんさんとチュンさんが両思いなのは(サンヒョクさんも含めて)周囲の誰もが認めているのだ。
チュンさんがミンヒョンさん=キムさんでさえなければ全てが解決する、と誰もが思っている、分かってる。もちろんそれを快く思わないサンヒョク、チェリン・・・・。
でも運命には逆らえないのだ。
そんなこんなで「冬ソナ」は統一を果たしたいという韓国の人々の無意識の願望を象徴するドラマなのでありました。
ん
とすると、核に関するイザコザはチュンさんとサンヒョクさんのつばぜり合いと見ることも出来るな・・・。
なるほど。ともするとゆじんさんがキムさん(ミンヒョンさん)の肩を持ってるよう(宥和的に)に見えるのもむべなるかな??
おーおー
すると美女をめぐるつばぜり合いを演じる二人の男の(下世話な)戦いを以て「ミンヒョンさんの脅威」をみっともない有様でヒステリック気味に叫んでいる日本は、サンヒョクにベタ惚れしていることに自分でも気付いていない、恋に盲目状態の可哀想な一人の女、ということか?
「そうよ!あなたのいうとおりよ!!サンヒョク。ふたりでやっちゃいましょうよ、あのミンヒョンの奴!!あなたの敵は私にとっても敵よっ!」
あなたには可哀想(に見える)なサンヒョクさんに助太刀したところで、コトが済めば忘れられちゃうのになぁ・・・(だってサンヒョクさんは自分の欲望に忠実なだけだから。)。
あっ、後で捨てられないように今から尽くしに尽くしているのか。なるほど、日本はサンヒョクにベタ惚れしてる(脇役の)女なのだ(脇役ってのは朝鮮半島問題に限っての話)。脇役がいくら叫んでも相手にされんわなぁ(安保理では確かにそうだった)。
なんだか話が大きく逸れた感もありますが・・・
結論はといえば
「冬ソナ」にしろ「JSA」にしろ、これらは韓国の北朝鮮(というよりも北に住む同胞たち)との統一への熱い想いが込められているような気がした、ということでした。(冬ソナは低く、JASは高い声でね)
今頃になって「冬ソナ」初体験の私が言うのもナンですが、一見の価値あるドラマです。試しに見るならこちらでどうぞ。
http://www.aii.co.jp/contents/sonata/fuyu_vod.html
「そんなもん、わざわざ金払ってまで見るのもねぇ」と思っているアナタ(昨日までの私のことですが)、無料ですから試しにどうぞ。(あ、Macでは見れないんだって。どこか他でも見れるところがあるのでしょう、多分。)
これって釈迦に説法、かな・・・。
などといいながら私自身「冬ソナ」はまだ全部見たわけではないんですが。
全部見たらまた新バージョンを書いてみようか・・・
(サンヒョクさん(アメリカ)にベタ惚れしてる日本に該当するキャラが出てくるのだろうか?)
これを書く前には日本の学力低下がお隣にまで聞こえている、ということを書くつもりだったんですが、「JSA」と書いた瞬間に話が脱線しました。
子どもたちを新宿のインターナショナルスクールに通わせるのは、もはやいじめの問題ではなく、勉強をさせないことで有名な日本の学校に通わせたら、劣等生になってしまうと懸念するから
日本でのんびり暮らしたあと、韓国に戻ってくると、子どもも学校でバカ扱い、親も社会でバカ扱いされる可能性が高い
人間の本質的な側面で、われわれが日本の国民に比べ、明らかに肩の凝る毎日を送っている
出典:朝鮮日報
「のんびり」「勉強させない」ことで有名なんだな~
しかし、なんだか向うの新聞の語り口はこちらのそれよりも断然歯切れがよい気がします。日本のマスコミは既に自主規制体制か!?
俳優さんの演技もなんだかあちらのほうが・・・
隣の芝生は青いだけ、であって欲しいかも。
今、CDを聴きながらこれを書いてます。
お気に入りのクラリネット奏者エディ・ダニエルズ。
サウンド&テクニック共に抜群。私自身はとくにこの人のサウンドが大好きです。この人ほどの美音はそうそういません。ジャズもクラシックもこなすオールランドプレイヤー。
このアルバムに関しては、穏やかかつ大人のムードが漂ってます。これ聴いてると自然と気持ちが落ち着くので、クサクサした時によく聴いてます・・・。
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