「社会」カテゴリの記事一覧

(一言)泥舟とニッポン

  • 2008年12月22日 (月)
  • キーワードタグ: 政治

「景気優先!」という口実で借金(国債)を積み増し、積立金を取り崩し、最後の賭博。戦を経ぬ「敗戦」と、新たな「戦後」がやってくるのであろう。
「きっと神風が吹く!」「景気は回復する!」「お宝が絶対出てくる!」と、もはやどうにもならぬところまで行ってなおかつ「あいつのせいで・・・クソっ!」と責任転嫁。
これが日本の”常道”。
小泉は確かに自民党をぶっ壊した。そしてぶっ壊れたのは自民党だけではなかった。もっとも、小泉の言葉や力だけでそれが壊れるはずもない。小泉の背後には大勢の人間が控えていた。陰謀論とは無縁の大衆が控えていた。
右へ左へ迷走する現代日本。現下の現象だけ見れば事態は既に末期的とすら言える。ここからさき必要になるのは、モノでもカネでもない何かだと思われるが、それが何なのか書くことは叶わない。
お経ばかり書いてると窮屈になるので一言書いてみた。

現代の鬼平はいないのか

  • 2008年11月28日 (金)

今朝の朝刊にて、佐賀県武雄市内で昨年起こった、暴力団組員による入院患者射殺事件の控訴審に関する記事を読む。

そもそも控訴理由は、検察被告ともに一審判決の量刑不服としている。そこでひとつ気になるのは、被害者との間に示談が成立していることが一審の量刑に反映されていることである。もちろん、示談の成立により刑が軽減されていること自体になんの不思議もない。しかし、本件については、被害者遺族の被害感情はすこぶる強く、そのことについてことある毎にマスコミも報道している。今朝の控訴審に関する記事でも被害者の未亡人が敢えて顔をさらして、犯人への強い処罰感情を吐露しておられた。その処罰感情の強さは、何も今に始まったことではなく、報道によれば遅くとも一審の段階から、そして実際には、事件発生当初からのものであると考えるのが妥当であろうと思う。チンピラ暴力団が「ひとちがいでした〜」「いまでも組関係者とおもってまーす」等々再三再四供述を変遷させて、「反省してます」と言う一方で量刑不服で控訴しているという状況のなか、被害者遺族の処罰感情はますます募っているのが現状だろう。

しかしなぜそもそも被害者遺族は示談に同意したのであろうか。その点について、私は一審段階から疑問に感じていた。なぜなら「強い処罰感情」と「示談の受け入れ」とは両立しがたいと思うからである。強い処罰感情を持った遺族が、何故量刑が軽減されること疑いのない示談に同意することになったのか。当時、すなわち一審段階でその報に接した際に私が立てた仮説は、示談を決める時点で、遺族は示談成立が量刑の軽減につながることを知らなかった、あるいは知らされていなかったというものであった。

そもそもごくごく普通に生活している市民にとって示談成立=量刑軽減となることは常識的知識とは言えない。この事件発生後、佐賀県警は捜査本部が置かれた武雄署内に被害遺族の世話をする係を置いたとの新聞報道を記憶している(参照すべき記事を探すが見つからないので後日追記したい)。なにせこの件は事件発生直後に警察庁幹部が捜査本部を訪れて事件解決を督励するほどの社会的影響甚大な事件であったから、そうした世話係の設置も私には当然と思えた。しかしそれならば何故その担当者さらに言えば佐賀県警は、遺族に対して示談の成立が量刑の軽減につながることを教示しなかったのか。ここに私の大きな疑問がある。またぞろ「民事不介入」とでも言うのか? 理屈としてそれが決して立たないものでもないが、もしそれが事実ならそれは背信行為と言うべきである(論証省略)。

事件発生以降、この事件に関する報道を見ていると、どういうものだか、佐賀県警の対応の不自然さが言わず語らず浮かび上がってくるように思えてならない。しかしその理由は分からない。いまのところ、それは佐賀県の風土というものであろうと考えていちおう納得している。

ラクダ色のセーターに濃い茶色のズボン姿で出廷した今田被告は、被告人質問で「重症の肝硬変で余命1年しかない」と自らの病状を説明。「(宮元さんの)家族には申し訳なく思っている」と反省の言葉も口にしたが、発言のほとんどは「供述調書の日付が書き換えられた」といった不満の繰り返しだった。 一方、黒いスーツ姿で意見陳述した篤紀さんは、裁判長から証言席に座るよう促されたが、「被告と同じいすに座りたくありません」と強い口調で拒絶した。意見陳述は、A4判の用紙6枚に及んだ。宮元さんの一周忌法要を営んだ10月中旬から準備を始め、寂しさに耐える2人の息子たちの思いも込めたという。篤紀さんは、1審・佐賀地裁が懲役24年の量刑判断の理由の一つとした道仁会との示談について、「判決に影響することを判決後に初めて聞いた。知っていれば示談はしなかった」と述べ、示談金には手を付けていないことを明かした。

読売新聞九州版


(2008年11月28日追記)その後、示談に関して別の新聞に次のような記述を見つけた。

道仁会との示談については弁護士に一任していたことを明かし「お金を返せば刑が重くなるのなら、返してしまおうとも考えた」。

「凶悪事件防ぐ極刑を 入院患者射殺事件で遺族陳述」(佐賀新聞)[キャッシュ]

なるほど、この弁護士の氏名を是非知りたいものである。そもそも刑事事件に際して被害者が弁護士を立てることはそれほど一般的なことであろうか・・・。どのような経緯で受任したのか、なぜ示談に応じたのか。またひとつ疑問が増えた。ついでながら、佐賀新聞に関する個人的評価はこのブログの他のエントリを参照願う。

(2009年2月5日追記)
平成21年2月、福岡高裁にて無期懲役判決。
武雄射殺二審は無期 一審懲役24年破棄 遺族感情に配慮 福岡高裁判決(西日本新聞)

(2010年3月11日追記)
平成22年3月、最高裁が被告の上告棄却決定(3月8日付)。
佐賀の人違い射殺事件、元組員の無期確定へ(朝日新聞:2010年3月10日20時2分)

馬鹿正直から正直馬鹿へ

  • 2008年08月31日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

今月6度目の更新であります。来月はいま少し・・・。

サーバーの引っ越し作業はまるで進捗していない。表札(アドレス)だけ変わったものの、相変わらずseesaaブログにお世話になっております。お知らせには「当面旧アドレスでもアクセスできます」と書いておいたが、なんとなくズルズルとこのまま居残ってしまいそうな気がしております。なにせseesaaは使い勝手が良いもので。
他の無料ブログサービスも試しにいくらか触ったことはあるものの、どうもしっくりこなかった。一時期鬱陶しかったコメントスパムも、投稿時にアルファベット入力する認証をかけてからというものパタリと止んだ。なんといっても「ゴミ」の相手をしなければならないことほど無駄なことはない。
ゴミはゴミ箱へ。

矢部弁護士のブログを読んでいたら、朝日新聞の記事から次のような箇所が引用されていた。

小学4年の担任という女性(40)は「『正直な人になろうね』と言っても、『正直なら損をしてもいいの?』と聞き返される時代。(Asahi.com, 2008年8月30日)

ありそうなことだ。ところで私には、彼女にとって「損をする」とはどういうことなのか、少し気になった。
気になっただけ。

金を損する(或いは儲けそこなう)くらいのことなら何と言うことはないけどさ。いまどきそれどころじゃないだろうな。「馬鹿正直」という言葉にはどこか可愛げもあるが、「正直馬鹿」には侮蔑的な臭いがする。俺だけか?
逆は常に真ならず。

そう遠くないうちに学校で「正しい嘘のつき方」でも教えるようになるのだろうかね。
正しい嘘ってな、ヘンだな・・・。ヘンだろ。

悪人 VS 善人

  • 2008年04月29日 (火)
  • キーワードタグ: 教育

日が傾く頃にようやく目覚めた。といってもちゃんと朝飯食って新聞読んでコーヒー飲んでブログ読む、という日頃の習慣はそのまま。ただ、眠くなったら寝てまた起きてということが出来てちょっと一息つけた。それで今日の記事では、普段すぐには言葉にならないことをどうにか書き表してみようと思う(最近、そういう記事を書いていなかった)。

「悪を為す方が善を為すより楽である」
「悪人(悪貨)は善人(良貨)を駆逐する」

一言で言えばそういうことをこの頃考えることがある。「そういうことなのかもね・・・」、と。

ただ、それだけ書いても「そりゃそうさ」「だから何?」「そんなこと無い!」と言われてもやむをえないわけですね。で、ここで私の言う「悪ー善」「悪人ー善人」「悪貨ー良貨」とはどんなものかをお伝えしなければ何にもならない。が、これが私には難しいのだ。

善だの悪だのという極度に抽象的な概念は、それが古今東西を問わず普遍的な問題であるだけに、かえって人それぞれに違った風に理解され、感得され、実感される(と私は思っている)。いや、そもそも「善ー悪」という概念が「極度に抽象的である」ということそのものについて、「いや、そんなこたぁないぞ。簡単なことじゃねえか。」と仰る方もおられるであろう。まあ話を聞いてつかあさい。

話を変えてみよう。
私はいくつかのブログを愛読している。その中には、たくさんコメントがつく有名ブログもあれば、めったにコメントのつかない無名の、しかし質の高い(べつに自画自賛しているのではない。いま、自分のことはいちおう「棚の上」に置いてある。)ブログもある。だいたい私はコメントがたくさんつくブログのコメントを精読することはめったにしない(出来ない。根気がないからね)。それでもたまには読む。そしてそこにもまた世間一般と同様の現象を見る(当然の事ではあるが)。見るに耐えないコメントにも色々あるが、それらについてくだくだしく書いても気分が悪くなるだけで(私にとって)良いことは一つも無いので、さっさと一言で済ますとすれば、「汚い」。
これでは説明にならぬだろうか・・・・。

人が排泄物を汚いと感じるのは生来のものではなく習慣・教育によるものだとどこかで聞いた気がする。それはそれで「そうかもね」と思う。ただ、ここで一言言わせてもらえるなら言おう。「汚いものは汚い」。「汚いもの」の定義はこうだ。
—— 自分に向かって投げつけられたくないもの ——-
それが「汚いもの」の、私(わたくし)的定義である。

仮に「人が排泄物を汚いと感じる心性は教育によるものだ」ということが真実であるとしても、「汚いものも実は汚くはないのだ」「汚いという感性はひとそれぞれなのだぁ!!文句あっか?」ということにはならない。やっぱり汚いものは汚いのである。また、「汚い」と感じる感性が微妙なところで人それであるにしても、それを「それは君の主観だよ(遅れてるねぇ、分かってないねぇ)」といって汚いものを投げつけられてはたまらない。それこそ、「人が節度を知らないとすればそれは教育によるものである」(原典不知)。

私の観察するところ、既に節度というものは絶滅の危惧される、あんだーぐらうんどな、稀少種になりかけているように思われる。それどころか節度を持った人間が生きにくい社会になりつつある。”排泄物と教育”の伝で言えば、自己の権利を声高に(堂々と)主張し、他人を出し抜いて(機を捉えて)利益を得、何かにつけて我が身に都合の良い部分だけを都合の良いように解釈することが人としての正しい生き方だという教育を施された人々にとって、(ときには)自己の権利を敢えて放棄し(ときには)自己犠牲によって全体の利益を図るなどということは、人が「排泄物こそ美しい!」と感じるほどに難事だということになる。

ところで、節度のある人ならこんなことを書かこともなく黙って耐えるなりサラリと流すのだろう。

と、ここまで書いたらxfy blog editor上で日本語が入力できなくなった。つまらぬことは言うな、という天の啓示だろうか。中途半端になった気もするが、きょうはここまで。

神サマの足音が隣組

  • 2008年03月21日 (金)
  • キーワードタグ: 歴史

このところ、本もまともに読めない日々が続いていた。時間に追われながらあちこち走り回っているのも悪くはないけれど、まるで便秘のように、日を追って苦しくなっていく。で、こうして腰を据えてみると、「出したい」にもかかわらずこれがなかなか出ないのであった。く、くるしぃ・・・。

というわけで今日は知人から聞いてちょっとばかし驚いた話を書く。
何に驚いたかといえば、なんでも伊勢神宮が200億だか500億だかの金を集めて回っているのだそうだ。20年に一度の遷宮のための費用なのだそうで、なかなか大したものだ。去年度今年度と年間20億以上の奉賛金が集まっていると伊勢神宮式年遷宮広報本部のホームページにある。これはやはり「塵も積もれば山」となり、「賽銭も積もれば億」となる例証であろうか・・・。いや、どうやら違うらしい。

「隣組に供出していただく」のだそうだ。いまどき「隣組」だの「供出」などとは言わないのだろうが、今もってそのようなものがなくなったことはない。「うつくしいクニ」日本の麗しき伝統健在なり。かの大戦後のほんの一時期に冷遇されたことはあったものの、喉元過ぎれば熱さを忘れる・・、もとい神国日本の伝統は不滅なのである。かの日本国憲法は信教の自由をうたい公金の支出に制限を設けることで、かつて国家の保護のもとにあった神道を形式的には冷遇しているかに見えるが、公共団体が陰ながらそれを支援していたことは靖国合祀問題の経緯からもうかがうことができるであろう。

国家機関や地方公共団体がオモテに立ちさえしなければ、憲法上の問題はクリアできるどころか、「自治会のみなさんの自由意志は尊重されねばならぬ」ということで万事オーケーなのだから、懐に余裕のある方はいくらでも寄付なさってはいかがであろうか。ただ残念ながら私の場合はそうではないので、来年の正月に賽銭箱に「寄付」するくらいしかできないだろう。それでも、もう十年以上も初詣でに行ってない私であるから、それはそれでけっこう稀有なことであろうか。

着々と「あの頃」の権威を取り戻しつつある神道と隣組に対しては、もっともっと世間の注目が集まるべきであると私は思うのであった。それともそうした現象には大きな地域差があるのだろうか。

なんにせよ、もし「本物の」自由意志でそうした寄付がなされるのならば、誰にも文句は言えないし言う必要もない。そうだろう? 
なお、個人的には、日本における「自由」の概念とその歴史的変遷、これもまた追いかけるべきテーマであると思い始めている。右に左に揺れ動く「自由」。興味深いテーマである。せめて死ぬまでには手をつけたいものだ・・・。おもしろい参考文献をご存知のむきは是非ともご教示下さい。

歴史は堂々巡っている、か。

番組の予定を変更して・・・

  • 2007年12月16日 (日)

このブログの週末特別番組(エントリ)としてオープンソースに関するforumのことを取り上げるつもりだったが、急遽予定を変更したい。これ(オープンソース特番)については後日改めて。

また起きた。発砲事件。
暴力団のみならず一般人による発砲事件・事故までもが頻発しているようだ。つい先日は佐世保で二人が死亡、傷者多数、容疑者は自殺したとのこと。銃器による犯罪が(暴力団同士の抗争にともなうものを除外したとしても)最近になって起こるようになったわけではない。数は少ないにしろ過去にもその例はある。しかしわずか数週間のうちにこれほど立て続けに銃器による事件・事故が報ぜられた例がかつてあったのかどうかその詳しいところを私は知らない。いまのところ私はそうしたことについて何ら統計データも過去の新聞記事の類もチェックはしていない(今後する気もない)。したがって以下に書くことはすべて私個人の雑駁な印象に基づくものであるにすぎない。しかしそうであるからこそ私はここに(このブログに)書きつけておきたいと思う。

今回の佐世保事件について、私のお気に入りである新聞社のサイトを覗いてみた。なぜその新聞社のサイトがお気に入りかといえば、そこにマスコミの無節操さと驕慢と惰性を見出すことができるからである。大抵の場合は期待を裏切らずにきっと満足させてくれる、私にとっては有り難い一社だ。早速今回の事件に関する論説を読んでみた。その論旨は、まず最近起こった暴力団による一連の発砲事件に触れたうえで、今回の事件が暴力団員ではなく一般人によってひきおこされたことを指摘し、容疑者に与えられていた銃器所持許可の妥当性への強い疑念を呈して、警察庁に対し許可の厳格化を求めている。
これは暴論でも愚論でもない。いたって真っ当な論説であった。しかし最近の私はこの論のような、法や制度あるいはその運用によって事態を改善しようとする指向にいささか懐疑の念を覚えることが多い。少なくともそうした対策「のみ」によって何かが抜本的に改善するとは考えることができないでいる。
マスコミはしばしば「それでは臭い物に蓋をするだけではないか」と役所や会社を非難する。これとまったく同じ「非難」を上の論説に投げかけることはできるのではないかと思う。「臭いのなら蓋しておけばいいではないか、それでも臭うならもっとしっかり蓋しなさいよ、あなた」というのが「対策」「解決法」と呼びうるとすれば、たいていのことはいとも簡単に解決できることだろう。

たしかにこの論説もいう通り一般人の銃器所持をより厳しく規制すれば、それによって一般人の銃器による犯罪や事故は減少するだろう。ただ、その一方でいまアウトローたちによる非合法な銃器所持・使用が当然の如くなっている点を見落すわけにはいかない。

先手をうって言わせてもらえば、これはなにも銃器所持を一般人に解禁して自己防衛を認めるべきだというのではない。仮りにそうした場合、おそらく銃器犯罪は爆発的に増えることになると思われる。なぜそのように考えるのかその根拠を示せといわれても出せない。そもそも確たる根拠は無いとしか言えぬ。(まあそれでも書くよ、わたしは)

話が少し大きくなってしまうのだが、近未来の日本の姿を予測しようと思うなら、その時点ないしはほんの少し前のアメリカ合衆国に目を向けるとよい。なぜなら日本の現状はほんの少し前のアメリカの状況ときわめてよく似ているからだ。「そんなあやふななことで何か言ったつもりか」とおっしゃる方もおられるやもしれぬが、少なくとも私はそう感じている。そしてそれについて今書いている。学級崩壊、訴訟社会、その他もろもろの思考様式・・・。ざっと20年ばかり遅れてアメリカ合衆国の後ろからついていっているかのような現代日本。もし今後も日本において銃器所持が解禁されなかったとしてもその入手が容易でさえあれば、きっと日本でもショッピングセンターや学校で無差別的に銃弾をばら撒く人間が出現するだろう。

さまざまな報道によれば今の日本で既に暴力団員の銃器所持が当然の如くなっており、そしてまた現にそれを使用した犯罪が多発している。そのような状況の中、私にはもう一般人によってなされる銃器犯罪の急増という事態がすぐそこまでやって来ているような気がしている。既に、旧来のようにアウトローはアウトローたちだけの世界すなわち柵の向こう側で、そして一般人は柵のこちらがわで、(たとえそれが観念的なものにすぎないとしても)それぞれが截然と区別された世界に生活する光景は過去のものになっている。むしろ一般社会への犯罪組織の浸透という点に関しては合衆国以上に日本の方が「進んでいる」のであって、おそらく単純な銃器所持の許可要件厳格化は、有効な抑止策とは言えるにしろ事態の悪化を食い止めることは到底無理ではないか。むろんこれは私の直感にすぎない。言い訳じみるが、直感なき懐疑が新たな知見を生み出すことはまずないと思っている。

ここでふと、だいぶん以前に観たマイケル・ムーアの映画「ボウリング・フォー・コロンバイン(Bowling for Columbine)」を思い出した。コロンバイン高校で起こった無差別発砲事件に題をとり、笑いに紛らせながらもアメリカ合衆国における銃器の浸透と銃器犯罪を批判的に取り上げた映画。このコメディー風の映画においてすら、単なる銃器所持の難易が問題の本質ではないことを示唆していた。

結論なんてものはこの一文にはないが、放っておくといつまでも終わらないのでここらでキリをつけよう。もし現代の日本が少しばかり前の合衆国の姿であるとして(あるいはその仮定がそもそも誤りだとしても)、おそらくこと銃器犯罪に限って言えば、放っておけば合衆国以上に深刻な事態を招来することになる。私がそのように考えている理由は、ここまで読みとおされた方には重ねて説明せずとも了解していただけるのではないかと楽観している。

最後に付け加えておくと、佐世保での事件発生直後の情報の錯綜ぶりには非常に強い印象を受けた(「悪い」印象であったこともまたあえて念を押す必要はないと思うが)。そしてまたこの事件に関する未確認情報が次々と報じられているさなか、護衛艦しらね(これはかつて海上自衛隊主力部隊の旗艦であったと思う)艦内で火災が発生したとの報道が重なったとき、なんとも言い難い不穏な、まるで日本の崩壊を予兆しているかのような想念がちらりと私をかすめて飛びすさったことを付記しておく(火災が居住区でも調理室付近でもなく、戦闘艦としての中枢部である CIC で起こったというその後の報道に接して再び穏やかならぬ思いがした)。

およそ未確認情報がいたずらに飛び交う社会というのは、間違いなく不穏で不安定な、危機に直面した社会であることは疑いえないのではないだろうか。この点、「またまた起こった銃撃事件」に浮かれ踊った人たちが仮にいたとすれば、彼らほど社会の情勢が見えていない人はおそらく他に誰もいないだろうと思われた。
「待て、お座り!」と主人から命じられて制せられない限りもう条件反射的に餌にむしゃぶりついてしまう生き物は、人間というよりむしろ犬に限りなく近いと言う方が、よほど人間というものを尊重した態度だと言ってよい。

動く階段の珍談怪談

  • 2007年10月31日 (水)
  • キーワードタグ: 教育

書いておきたいことがいくつかあるけれどなかなか筆が進まない.ゆとり教育からの転換、高知で起こった白バイ隊員死亡事故をめぐる冤罪疑惑、佐賀で起こった警察官による集団暴行死事件(「正当な職務執行である」ということにされるのだろうが)、インド洋での給油のはなし等々。この他にもいくつかあったが、生憎このところ浦島太郎にやけに親近感を感じることの多い野人の頭は秋風のようにすぅすぅしていてそれらもすっかり忘れてしまった。運がよければモクモクと思い出すかもしれない。そんなことを考えつつモクモクと煙草をふかしながらこれを書いている。
「中教審:「ゆとり」検証ないまま 「総合学習」大幅削減へ」(毎日jp)
「佐賀県警:取り押さえた男性死亡 頭や顔に複数の傷」(毎日jp)
このあたりは近いうちに書くことにする。

ところで最近よく思い出す話がある。一昔まえに聞いた(うそかまことか知らない)アメリカでの話。飼い猫をフロに入れたあと、乾かしてあげようと電子レンジに入れてチンしたら死んじまったじゃねえかと家電メーカー(だったかな?)を訴えたのだとかどうとか。ひと昔だかふた昔くらいまえの話だったと思う。当時その話を耳にした私は爆笑しつつ美国とはまたなんと奇妙なお国だろうかなどと思いつつ、まあ他所人とは違った価値観もった人はどこにでもいるのであるなぁとも思ったのであった.このアメリカでの話が身近なところで話題にのぼることもあったが、一人残らず爆笑しつつ美国のうつくしさを讃えたものであった。なんと寛容な社会であることよ、とね(もちろん皮肉まじりにだが)。

夕食どきにテレビをつけたらNHKで「クローズアップ現代」をやっていた。この番組、毎日々々のことであるから大変なことだろうなあと思いながらときどき見ている。今日のテーマはエスカレーターだった。小さい子供がエスカレーターに挟まれる事故が多発しているのだそうだ.どこかの工学専門家が事故の再現実験をせっせとなさっているシーンを見ながら、ふと或る知人のことを思い出した.その知人、既に世間では中年とよばれる年齢に達していながら「エスカレーターは今だに怖い」と折あるごとに語っていた.彼と一緒に街を歩いていてどこかではエスカレーターに乗ろうとするとき、たいてい彼はあたかも今からバンジージャンプでもやるのかと思えるほど神妙な顔つきをしていたことを思い出す.
そういえば私も自身初めてエスカレーターに乗ったときのことをおぼろげに覚えている。エスカレーターを目の前にした私はしばらくそれを見つめながら、呼吸と階段の動きとを合わせるようにしてやけに大またぎに「動く階段」に身をあずけて、降りるまで脇のベルトを命綱ででもあるかのように握りしめていた。落ちるはずもなかったわけだが.あれはどこかのデパートであったか・・・。
そんなわけでその知人の恐怖心もけっこう分かる気がしたのだった。なにせ階段が上空に向かって(!)動いてる.エスカレーターの構造を知らない人間にしてみれば金斗雲にでも乗っている気がしても不思議ではない(不思議か?)。気を抜いたら落ちてしまうのではないかという不安、未知への恐怖、2001年宇宙の旅、ハルマゲドン.いやあ怖かったのなんの.

そんなこんなの記憶があったもので、NHKの番組を見ながら、おれたちのエスカレーターに対する恐怖心はあながち故なきものではなかったのだと少しばかりアゴが上向いた(かもしれない)。彼は今どこでどうしているだろうか。

それにひきかえ最近の子供たちはまるでなにものをも恐れないかのようなたくましい(ときには不遜とも思える)顔つきをしているように見えるのは俺だけだろうか。たぶん彼なら肯いてくれそうな気がする。エスカレーターを前にしたときのように神妙な顔つきで「そうだそうだ」と言うだろうな、きっと。

農地買いますか?(改)

  • 2007年10月04日 (木)

今日も快晴。秋とは思えぬ陽射しが続く。

中山間地にあたる我が家の回りでは米の収穫がたけなわ。高齢化の進む地方の農村地帯では、農業後継者は少なく、在住の壮年者もたいてい勤めに出ていて、基本的に農作業は高齢者の仕事。で、今日は隣のお宅から「息子がどうしても勤めの方を休めない!」と急遽動員がかかって収穫作業のお手伝いに行く。実は、うちもようやく昨日収穫作業が一段落したばかりで今日は休養日のつもりだったがそうも言っていられない。力仕事くらいなら私でも少しはお役に立てる(はず)。私はなにも力自慢のタチではないが、なにせ回りは老人ばかりで働き盛りは片手で数えられるくらいしかいないのだ。

生産性が極めて低い小規模農業はそう遠くないうちに日本から姿を消しそうな気配だ。それはもう肌で感じている。キャベツ一玉の小売価格が百円程度では、仮に人件費を度外視しても利益なんてまず出ない。もちろん人件費を考慮すれば大赤字。薄利多売のスーパーマーケットならぬスーパー大規模経営で大型機械を導入するなり外国人労働者を時給ウン百円で酷使するなりして人件費比率を極限まで抑えぬ限りは利益なんてまず出ない。つまり零細農=趣味の園芸に限りなく近い。当然そういう農家は農業専業なぞ無理。よって平日サラリーマン&日曜農家の二足わらじがあたりまえ。しかし利益がでようが出まいが農地を放置するわけにはいかないのだ。ほっておけば田畑は荒れ果て、果ては猪の住処となって周辺農地を食い荒し近所迷惑。やむなく食い扶持は勤めで稼いで農繁期の休日は農作業で休み無し。これがこのあたりの現状なのである。先祖伝来の農地を休日だけの作業で維持していくために、無理しても農機を買い整え(だって限られた時間で作業を終えるにはどうしても機械化せざるをえない)、休みはなし。

そういう農家は日本全国、たくさんある(はず)。

したがって今の日本にはそもそもわずかな農地だけを耕して生活している人という意味での「零細農」、文字どおりの意味での零細農というものはもうほとんど存在しない。そんなものはもうとっくに"兼業農家"になっている。

「ほかに食い扶持あるんならさっさとやめちゃえば?」「そんな連中に補助金じゃぶじゃぶ使うのはおかしいじゃないか」と思われる方もおられるかもしれない。消費者としての立場から言えば割高な農産物は有り難くない。とっとと農産物輸入を自由化して安いものが買える方が消費者利益にかなう(金銭的にはね)。ただ、農村部居住者の目から見ると、(ほんとうに補助金じゃぶじゃぶかどうかはさておき)兼業農家における農作業はいってみれば先祖の墓掃除・法事のようなもの。利益のことなぞそもそも眼中にはない(そもそも赤字なんだから)。したがって営農は生活手段というよりもまあ先祖供養に近いものがある。一種の宗教行為というわけ。

民主党の戸別補償制度にはいささか疑問を感じる私だが、しかしまあ、近年農家の立場はかなり微妙。一部からは蛇蝎の如く悪罵を浴びせかけられる。たとえばこれ。
「農家切り捨て論のウソ」(日経ビジネスonline)

「農業問題に詳しい神門善久・明治学院大学教授」の弁。

マスコミは「零細農家イコール弱者」のような形で描きたがりますが、現実には彼らほど恵まれた人たちはいない・・・農地を売却すれば大金を手にできる。「田んぼ1枚売って何千万円も儲けた」なんて・・・「農業に行き詰まり、生活苦のために零細農家が一家心中した」などという話は聞いたことがありません。零細農家には切迫感がない・・・彼らが本当に求めているのは公共事業なんです。公共事業で道路などを作ってもらえれば、自分たちの田んぼや畑が高く売れる・・・

このあとも延々この調子が続く(この学者さんの専門領域はアジテーションなのかと思う)。

公共事業縮小が続くなかどこの農家がそんなものに期待しているというのだろうか。もしそんな農家があるとしたらノーテンキ極まりないと私も思う(「とれぬ」タヌキの皮算用)。そもそもかつての地方公共事業大盤振る舞いの時代にさえ、そんなものに引っかかる農地なんてそうそうなかった。たぶん宝くじに当たる(あるいは冤罪に巻き込まれる)くらいの確率だったんじゃなかろうか。そりゃ宝くじ買った数十万か数百万の人たちはみんな当選を「期待」するわな。だいいち代々続く農家は公共事業にかかったところで嬉しくはないぞ、たぶん。いっときだけの大金と先祖伝来の土地に対する愛着(いや、義務感・使命感に近いな)をゼニカネだけで比較されても困る。そりゃそんなもんがアナクロだってえこた百も承知。しかし現にそういう心情はあるんだよ。自分一代限りで跡形もなく消えてしまう「知識」のコレクターには全く理解の外だろうが。そういうコレクターでも自分の著書が後代に伝わるとなったら嬉しいだろ?それほどの「著作」があればの話だが。

農地を売ってウン千万?いったいどこの話をしてるのか。大都市近郊?農地のうちでそんな高値で売れるものが全体の何パーセントあるの?「論拠を示せ!」。たしかにこの学者さんが後ろの方で書いているように、農地法の縛りがあるために農地はそうそう簡単に宅地等に転用は出来ぬ。使い勝手の悪い商品が安く買いたたかれることぐらいは経済が専門でなくてもわかるでしょ(ひょっとして経済専門?まさかね)。坪ウン千円だそうですよ、地方の農地って。いくら安かろうが、大枚はたいて機械を買い整えて休日つぶして働かねばならぬ土地をウン千万だして買いますか?千円なら買う?どうぞどうぞ買って休日つぶして精一杯働いてください。

いやはや、これではキリがないのでやめとこう。言いたいことは山ほどあるが。

学者つーのはもちっとマトモだと思ってたんだが・・・。いや、どこの業界にも●●はいる。木を見て森を見ずってのは中学校で習ったっけ・・・。この人、初めて聞く名前だけど、マスコミに名前が出るつんで嬉しくてよほど調子に乗ってしまったんだろうな。お調子もんもやっぱりどの世界にもいるのだろう。メディアの力つうのも罪なもんですわ。合掌。しかしこの方にとって、学者としての資質に欠けると看做されかねない論を公にすることで何か益するところがあったのだろうか。はなはだ疑問ではある。

うん、これただのボヤキ。ちょっと反省。

あああああ、世にあまたおられる良心的な学者の方々に対してなんと無礼な物言いをしてしまったことか・・・。阿部先生、池田先生、ウォーターマン先生、ウチダ先生、蕩尽亭先生、ハインペル先生、白頭庵先生その他諸賢の御方々、御無礼の段、何卒お許し下さいませ・・・・。決して学者を十把一からげにするつもりなどございません。絶対に。

ほんと、こんなんではまるでどこかのゴロツキみたいではないか。まったく、「お里が知れる」というもの・・・。え、とうの昔に知れてた?。そうですか。むむ。

ネーミングの罪

  • 2007年06月17日 (日)
  • キーワードタグ: 政治

へとへとグーグーモヤモヤとした気分でネットを覗くとこんな記事。。

「こんにゃくゼリー『もちと同じ』」

こんにゃくゼリーによる窒息事故が相次いでいることはニュースですでに聞いていた。その時の私の感想がまさに上のタイトル通りだったので興味を覚えて読んでみる。
フムフム。

こんにゃくゼリーによる窒息死事故が相次いでいる問題で、消費者団体などから製品の回収や販売禁止を求める声が高まっている・・・食品衛生法には窒息などの事故に関する規定がなく、同省は回収命令などは不可能との立場・・・制度上の不備が明らか・・・

  「<こんにゃくゼリー>事故相次ぐも、各省は法的措置取れず」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070617-00000033-mai-soci)

(以下、とりたてていうこともない程度の感想です)

亡くなられた方のことを思えば同情の念を覚える。
が、モチに類する食品を”危険な食品”として規制できないことが「制度上の不備」とは腑に落ちぬ。
メディアのひとびとはいつも賢しらに結論を急ぐね。

ご老人がモチを喉に詰らせて亡くなったなんていう事故記事はときどき目にするが、そんなときに「制度上の不備」などとメディアが口にすることはなかった(今後もそうだろう)。

そういえばどこかの地方では、なが~く連なったモチを丸呑みする(危険な)伝統行事らしきものがあったなぁ。

もとへ。

いったい「モチ」と「蒟蒻ゼリー」の違いはどこにあるのか。

農水省によれば「コンニャクイモから精粉したグルコマンナンは欧州では食品添加物扱いなので規制できるが、日本ではこんにゃくの原材料として使われているため禁止できない」のだとか。

なるほど。食品添加物なら規制できるが原材料は規制できないわけか。いちおう納得。唐辛子に含まれるカプサイシンの過剰摂取が危険だからと言ってキムチを「危険食品」として禁止されてはかなわぬ。もっとも、「添加物」と「原材料」との区別はどのように設定されているのか私はしらない(調べる気も今のところない)。
含有率?製造者の自己申告そのまま?
農水省の見解に納得しつつ、同時に、よく分からないながらも危うさをも覚えたことをここに記しておこう(危うさというよりも「ルール設定」の難しさ、とでもいうべきか・・・)。

私自身の無知ゆえの「???」はそれくらいにしよう。しかし、「制度上の不備が明らか」という言葉にはひっかかりを感じてしまう。
むしろ、「制度というものは本来不備なものであることが明らか」というほうが ”腑に落ちる” 。

やはり「蒟蒻ゼリー」は「モチ」でしょう。
もし蒟蒻ゼリーに罪があるとすればそのネーミングかもしれない。

何も知らずに只のゼリーと思って食ったところが、ゼリーみたいにはグジュグジュになってくれずに丸呑み!あービックリ。

そんなことが私にもかつてあった(ような気がする)。

「なんじゃゃぁこりゃぁぁあっ!!!ゼリーじゃねぇ」

蒟蒻入りゼリー。ゼリー的蒟蒻。ゼリー蒟蒻。
考えているうちに「ゼリーってなんだっけ?」という気になってきたのでwikipedia検索。
ゼリー

嫌いな人間に「カレー風うん○」ライスを食わせた場合は犯罪か。見た目に騙された者に落ち度があるのか、それとも食わせた奴が悪いのか?
A:「よく確かめないから悪いんだろ~」
B:「ふつう、ご飯にうん○かけて出す奴いるわけないだろが!!」

ええ、蒟蒻はもちろんうんこではないですよ・・・。
ええ、食品と排泄物とはまったく別物ですよ・・・。

ここはどこ??

まあ、「制度上の不備」などと安直に言ってしまうのはいかがなものでしょうね、ということか。
上のAもBも決して「制度上の不備」を問題にすることはないだろう。もちろん、誰かを責めるときに「制度」を後ろ盾に出来れば都合がよい、有利ではあろうが。

制度上の不備などと言ってるヒマがあるのなら、蒟蒻とゼリーの違いをでも大々的に番組で取り上げたらよかろうに。納豆の時みたいに売れるのでは。。>毎日新聞

味噌も糞も一緒くたにして無闇と「制度」のせいにする心性はまるで「根拠法規がありません」とのたまう官僚のそれと同一ではなかろうか。大新聞の記者が官僚化してても驚きはせぬが。マイニチ繋がりで思い出したが、しばらく前に毎日の記者さんがこんなことを。

「警察の交番制度が日本で始まり、全世界に広まったように、記者クラブ制度も世界で最も先進的な制度だ。この制度は、日本のメディアが明治時代以降、1世紀以上かけて作り上げてきたものだ。新聞記者と放送記者が官庁に常駐すること自体、権力をけん制し監視することになり、それが否定されれば、マスコミの役割はなくなる」

  「記者室統廃合:日本記者クラブの委員が見た韓国の取材制限」(朝鮮日報)(http://www.chosunonline.com/article/20070602000030)

記者クラブがそうならば、談合だって「世界で最も先進的な制度」だと言えぬことはありませんぜ。まあ、この記事は大統領府のメディア規制に反発している韓国マスコミの事情も勘定に入れるべきでしょうが。
それにしてもね・・・。

とまあ、今日もまとまらず。
いやここ数日、冗談抜きでヘトヘト。

おっと、ボヤキついでにもういっちょ。

安倍さんのように「乗用田植機にでんと座ってハンドル片手にもう片方の手で有権者にアピール」して見せる政治家もおられるが、どうせ農業人へアピールするのなら、過疎地の棚田で腰折り曲げて炎天下のなか日がな一日田植えでもしてみて欲しいものだ。
おそらく安倍氏や彼の周辺の人々が彼らの言う「農業」ってのは、大資本が大農場でオペレータや機械を使って行う「工業的農業」でしかないのだろうな。
参院選を目前にして突如農業者へのアピールに余念のない彼らだが、彼らが零細農を切り捨てるつもりでいることは過去の発言記録を見れば充分すぎるほど読み取れる。

(選挙後)
「あん?ハナシが違うじゃないかって?・・・あのさぁ、おれが言う農業ってのはアメリカみたいなさぁ、バーンっと機械ぶち込んでダーッとだだっ広くて四角い農地でやるもんなんだよ。勝手に誤解したのはアンタだろ?」
「だいたい、おまえらみたいにクネクネしたせまっくるしい、まるで日本列島みたいな田んぼでやってるこたぁおれの言う「農業」なんかじゃないんだよ。分かるかね、田吾作くん?やっぱアメリカだよアメリカ。え、年金?農業法人に雇ってもらって厚生年金に加入しな。そのほうがあんたも嬉しいだろ!?安定してるしさぁ。美しかろ?にっぽん」

さすが政治家。策士だよなぁ・・・。ぐうの音もでないよ。

眠い。グゥグゥ。

虚構と現実

  • 2007年04月19日 (木)

バージニアで銃乱射、長崎で市長暗殺 射殺。

ここ数日ろくに新聞も読んでいないのでこれらの事件に関しても詳しいところは知らない。
今、世界中に「敵は殺せ!」と叫ぶ「お子ちゃま」が跳梁跋扈している。筆頭は西部劇のヒーロー気取りで顔に似合わぬ勇ましげな言葉を乱射する(していた)ブッシュ米大統領。日本の一部政治家もまた例外ではないが。いまさら言うまでもないかもしれない。

自ら作り出した敵(虚像)にミサイルや銃弾を撃ち込むなどという蛮行がアフガンでもイラクでもソマリアでもバージニアでも長崎でも起こったということか。

自らが作り出した虚像・虚構をいつのまにやらホンモノと信じ始め、いったんそうなるともう顧みることをしない。
「敵は敵なのだ、と。犯人は犯人なのだ、と。
彼は立ち止まることを怖れ、また引き返すことを拒む。

彼はおそらく自らの信念に忠実ではあったのだろう。しかし、信念に忠実であるというだけでそれが善きことかどうか話は別だということはしばしば忘れ去られる。そしてまた世には虚構と現実が錯綜し相互浸透し、あるいは「信念に忠実である」「ブレない」などという綺麗にラッピングされた言葉に騙され、そして現実を見ていないという事実にはいっかな気づかぬ「現実」がそこここに溢れている。

暴走する警察であれ銃を乱射する青年であれそのどちらも、ときには立ち止まって省察してみようともせず引き返そうともしなかったという点では大差がなかろう。ありもしない大量破壊兵器、ありもしない犯罪、ありもしない敵意。
ミサイルで、強権で、銃で、「虚構に向かって撃て!」

ところで、今夕のテレビニュースでバージニアの発砲青年が、かつて教師を殺害するとかのストーリーを書いていたと報じられていた。とくに論評とてなかったが。
しかし、報道者はおそらく「そんな物騒なものを書いていたくらいだから今回の事件を引き起こす必然性があったのだ」と了解する視聴者がいるであろうとは考えたはずだ。まさか「いいえ、ただ事実を報じただけですよ」とでも仰るだろうか。べつにそれはそれで構わないのだが。ただ、受け手の解釈可能性を度外視した報道なんてものがあるとは私は信じない。そんな報道が可能だとも思わない。「ただ事実を報じるのだ」などという言葉もまた一つの虚構だろうと思う。別に虚構だからいけないとは言うつもりなどないが。

もし虚構が存在することで現実の生活がマシになるというのならば虚構はむしろ有難いものではないのか。ときに虚構の有り難さが(おそらくは)敢えて無視され、あるいはまた各自の都合に合わせて切り取られた情報の切れ端が「事実」として報道されているように見えて仕方がない。もしも自分たちだけが虚構の上にあぐらを掻いて、そのくせ他人様のささやかな虚構や愛すべきユーモアを弾劾するような腐れ外道がいるのならそいつらをこそ撃ち殺してやりたいものだ。

もしもバージニアの彼が、教師を(牧師でも看護婦でも学生でも構わない)殺しつくし焼き尽くし残虐の限りを尽くす物語をでも書くことによって、自分の内のどす黒いなにかを幾許かなりともゴミ箱にほうりこむことが出来たのならばひとまずそれはそれで結構なことだったというべきではなかろうか。紙に怒りを叩きつけようがキーボードを打ち割ろうが誰も迷惑しない。銃をぶっ放すくらいならもっとどんどん書くべきだ。書くべきだった。

しかし結局、彼が現実世界で他人を殺めたことによって彼の書いた物語は「物語」としての価値を完全に失ってしまったのかもしれない。彼の物語は、彼の「生来の」残虐性を証するものになり果ててしまった。残念なことだ。
言うまでもないことかもしれないが、どれほどグロテスクであろうと残虐であろうと非道徳的であろうと、それが物語にとどまるのならば誰からも非難されるいわれはない。われわれはむしろあり得ないことを語ることによって現実を豊かなものにしてくれたかもしれないさまざまな物語を失い、そうして深みのなくなった世界に生きてるということを嘆くべきなのかもしれない。

裁判長説諭のメッセージ性

  • 2007年03月18日 (日)

昨日の記事に追加しようかとも思ったけれど、長くなりそうなので稿を改めて書くことにする。
堀江氏は一審の法廷でその違法行為を指弾され、実刑判決がひとまず下された。罪状は風説の流布とか虚偽記載とかいうことのようだが、判決文朗読後の裁判長の説諭の言葉はなかなか意味深長であった。

「有罪としたが、生き方すべてを否定したわけではない。罪を償い、能力を生かして再出発してほしい」

「堀江前社長に実刑判決」(サンケイスポーツ)

ここで言われる「生き方」は多様な解釈を許してくれそうだ。それは前後の文脈を無視している(知らない)という点は割り引かなければならないのだろうが、そこに次のようなメッセージを読み取ることは牽強付会とまでは言えないように思われる。
「資本市場に投資して株価に一喜一憂する生活、株主利益率の向上だけをやみくもに追い求めるような経営方針、とにかく金が欲しい、稼ぎたいという欲望は悪いことではないんだよ」。

これを言い換えれば、堀江氏のごく私的な生活スタイルであるとか違法性のない経済行為だとかはまったく何の問題もないし、むしろ推奨しても良いくらいなのだ、というメッセージをこの説諭は発してはいないか、ということなのだがもちろん正解はないだろう。
しかし、そこで取り上げられたある母親からの投書の内容と合わせてみるとこの説諭は誤解の余地がないほど明確なメッセージ性を帯びてくるとは言えないだろうか。「夢」「希望」・・・。子供らしい綺麗な言葉を紹介する大人の側には底意が皆無だったのだろうか。果たして今回の事件に関係する投書が何通ほど裁判所に届けられていたのか(あるいはそれが唯一のものだったのかもしれないが)寡聞にして知らないが、もしも複数あった投書の中から裁判所が選択的にその投書を取り上げたのだとすれば、説諭のメッセージ性はより明確になるだろう。

もし仮に堀江氏の生き方が子供たちの世界観に多大な影響を及ぼしていたとすると、やはりどう控えめに見てもわれわれ大人たちが既に堀江氏とは大差のない(生き方の)志向性を持っているからだと言わざるを得ないのではなかろうか。

(メモ)「堀江被告に実刑判決 「狙い撃ち」論一蹴」(yahoo news 産経)

「アッ!」と思って書き始めたのですが、なんだか当初の意図とはまるで違う一文になってしまいました・・・。(またいずれ)

(メモ追加)
「ライブドアの判決」カフェヒラカワ店主軽薄

関連エントリ:「看板に押し潰される現代日本」

(2007/03/20追記)
「あなたに勇気もらった子も=裁判長が堀江被告に説諭」(yahoo news 時事)

看板に押し潰される現代日本

  • 2007年03月17日 (土)

昨日、前ライブドア社長堀江氏に実刑判決が下されたそうだ。何の縁もない彼のことを私はほとんど何も知らないが、一時期は昇龍の如く経済界で暴れまくりラジオ局だのテレビ局だのに買収を仕掛けてその心胆を寒からしめ、はたまた自民党によいしょと担がれて選挙に出馬したかと思えば私生活では美女を侍らせてウハウハであった、などとマスコミが騒ぎ立てていたことくらいは承知していたのだが。

マスコミを通じて見聞する彼の言動のほとんどは、カネか女に関係したものだったかと記憶する。実際の彼がどうなのかは知らないが、少なくとも彼が「この世に金で買えないモノはない」「人の心は金で買える」というようなことを公言したことは事実なのだそうだ。

だがそうした彼の言動は一部の人たちの不興を買いはしてもそれほど世間は騒がなかった。それはたぶん彼が企業家という、お金を稼ぐことを生業とする人物だったからだろう(企業家全てがそうだという意味ではもちろんない)。言い換えれば、世間はお金を稼ぐ人には廉恥心など求めないぞ、バンバン稼ぎなさい、ということだったのかもしれない。彼の世評が高まったのはまさに彼が若くしてどんどんカネを稼ぐ有能さを発揮したが故だった。

金が欲しい奴はしゃかりきにやってどんどん稼げばいい。株や相場で小銭を稼ぎたいのなら好きにすればいい。自分の時間をどう使おうと、自分の金をどう使おうとその人の自由だ。それは確かにそうかもしれない。少なくとも端からとやかく言う筋のものではないようだ。

ただ、儲かっても損してもその始末は自分でやったほうがいいとは言えないだろうか。そうせねばならない、とは言わないまでも。儲けたら自分のものだが損した場合は他人のせい、などというのは見下げ果てた餓鬼といわざるをえない。

しかし、そういうことは敢えて誰も言おうとはしない。堀江実刑判決に関する新聞記事を見ているとどこの新聞社も基本的には同じ論調だ。
「拝金主義に警鐘」
「法令遵守が求められる」
「金の亡者よ、さらば」
という論調のものが多い。

誰も言わない。
堀江も投資家も同じ穴のムジナである、と。
いや、むしろ同じ穴のムジナであるからこそ堀江氏が「法令を遵守」していなかったことを以て彼を断罪しているのだろう。投資家たちは彼を拝金主義者と罵ることには躊躇せざるを得ない。カネを追い求めている点では投資家たちは堀江氏と同じ穴のムジナなのだ。肥ったムジナか瘠せたムジナか、どちらがどちらなのかは分からないが。そして投資家たちは、堀江氏を指さして「この金の亡者め」とは言えないからこそ彼の「法的」「道義的」な責任を追及するのだ。彼らが堀江氏を非難しようとすればそうするしかないのだ。「俺に損させさやがってさ、あの野郎が」という言葉は表には出て来ない。少なくとも報道されることはない(報道するまでもないほど当然の反応だと言うことかもしれないが)。

そうはいっても私自身、投資家たちや資本主義経済そのものを非難するつもりは毛頭ない。ムジナなどに喩えたらそう受け取られるのはあたりまえかもしれない。よってムジナではなく同類項だと言い換えよう。
堀江氏は1000a、巷の2aも3aもまあ同類。
a は何でもよい。拝金主義でも株主利益でも投資家利益でもよりどりみどり。

堀江氏に関して、彼の法的あるいは道義的責任が声高に追及されればされるほど、いかに今の日本が「効率化」だとかその類の「看板」を背負った拝金主義に覆われているかが明白となる。そして投資家だけに限らずとも、貨幣なくして生活できない現代人は誰一人として「効率なんぞ知ったことか」「おれはカネなんかいらねえよ」とは言うことができないのだ。せいぜい「金もうけ(効率化)は悪いことではないんだけどさぁ・・・」とモゴモゴ言うしかない。

苦渋の書き付け

  • 2007年03月06日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

 従軍慰安婦問題に関して安倍首相に対する(=日本に対する)批判が高まっているらしい。安倍首相は、「広義の強制性はあったかもしれないが狭義の強制性はなかった(証拠はない)」という非常に政治家らしくない(官僚的な)言い回しでつまるところ強制連行ではなかったのだということを仰りたいのだろう。

 「おれのマンションの部屋に黙って付いてきたからOKなんだろうと思ったんだけど、なにか悪いことした??」という大学生が逮捕されたとき、安倍首相は彼をどこまでも弁護されるだろうか。それとも「問題は相手の気持ちだよ」として逮捕を是認されるだろうか。どちらなのか些か興味のあるところだ。

 安倍首相のこの発言がなぜ現在のように微妙な情勢の中で飛び出してきたのかという点もまた非常に興味のあるところだ。北朝鮮をめぐる6カ国協議でアメリカに「裏切ら」れ、おまけに「本国」アメリカ議会で慰安婦問題非難決議が上程された。言うまでもないが慰安婦・靖国問題に関しては、韓国・中国を筆頭に周辺アジア諸国が日本に注ぐ眼差しはアメリカ以上に厳しい。日本政府としてはニッチモサッチモいかないというところか(自業自得なのは先刻ご承知だろうが)。そのような情勢の中で敢えて”啖呵を切る”ような威勢の良さはないにしてもグジグジと「狭義では」「広義では」などと言っておられる。

 私のような素人には慰安婦問題に強制性があったか無かったかについてはいまのところ分からないとしか言えないし、アメリカの決議案上程にしても「まだどう転ぶかわかんないし様子見るしかないんじゃないの」としか思えない。外交当局としては打てる手は打っておくべきなのだろうが私に出来ることはなさそうだ。

 ともあれ広義だの狭義だのという言い方には美しさの欠片もないとは断言できるのかもしれない。それこそ政治家は先走って私見を述べるよりも歴史家たちによる実証的な研究を多面的に助成・支援する方策を整えるべきように思われてならない。首相自身、内閣総理大臣の私見が対外的にも「私見」で通るなどとはよもや認識されてはいまい。

 安倍首相は戦後レジームの打破には熱心のようだが、国民の権利を守る(尊重する)ことにはいっこうに興味がないように見えてしようがない。安倍首相をはじめ、私権の重視が戦後の宿痾だと言いつのっている方々が増えているようだが、富山・鹿児島と立て続けに明らかとなった事態を見れば、そのようなことが言っていられるとはとても思えないのだが。

 戦後の私権尊重というのはどこまでも雰囲気なのではなかったか。実体がなかったとは言わないが。私権尊重の雰囲気の中でなんとなく失われてしまった倫理観、どことなくおかしくなったように見える社会。しかし戦後日本が私権を本当に尊重していたのか、出来ていたのかは別の話だろう。確かに戦後民主主義はそれはそれとして再検討・総括の余地はあろう。しかし、いかな安倍首相でも現実に起こった人権侵害から目を背けることはなさるまいと信じている私は阿呆だろうか。

 規範意識の低下を嘆くのに忙しくて現に生じている人権侵害が軽んじられるようでは日本の再生は期待できまい。

 今朝、ある新聞が一面コラムでどこぞの神社の賽銭泥棒を口を極めて罵っていた。その心情は分からなくもない。かといって共感もしないが。
私権尊重が諸悪の根元だと言い募っても現実には尊重されない私権が存在している。窃盗は犯罪だと誰もが知っているのに後を絶たない。
大上段にコソ泥を非難するばかりで世の中がよくなるのなら世話はない。そんなことを自分用の雑記帳でもあるまいに何のひねりも芸もなく叩きつけた駄文を一面コラムに掲載する新聞社の良識を疑う(そんなものがもしあればの話だが)。窃盗が悪なのをいまさら教えて貰わねばならぬほどバカだと読者を侮っていませんかね(これは少し勘ぐりすぎだろうけど)。

 自説を語るのはそれはそれで結構なことだろう(私も今やっているから言うわけではないけれど)。しかし、自分たちが現に生活している社会の矛盾について安倍首相やコラムニスト氏はいったい何をお考えなのだろうか。なにが出来ると思っておられるのだろうか。嘆きケチをつけるだけで何かがかわるものではあるまい。

 さしあたり安倍首相は行政府の長として警察・検察の構造的問題を率先して改善し、コラムニスト氏は冤罪と判明した事件について逮捕以来マスコミがどのように誤報を垂れ流してきたか、そしてそうした過ちがなぜ生じたのか、マスメディアには持ち合わせのない「マナーやルール」について総括し記事にしてはいかがだろうか。とてもではないがあなたがたは嘆き激高していられるほど余裕のある状況ではないと思うのだがどうだろうか。

 などといいながらこんな記事をダラダラと書いている私は何者か。

 私だって余裕はないのである。
ただ、「お呼びでないよ」と言われるのを承知でこうして書かざるを得ない心境にあるためやむなく書き付けた次第。いっとくけどこちらは文字通りの日記、雑記帳。読むも読まぬもご随意である。
御免。

鞭打たれる死者

  • 2007年01月20日 (土)

私にとって最近気になるトピック
期限切れ食品、バラバラ、富山冤罪・横浜冤罪、教育再生会議、共謀罪、宇宙軍拡。

昨日今日と週刊誌広告が新聞に(いつもの如く)デカデカと掲載されてた。「セレブ」でもない私にとっては、僅か数百円の週刊誌といえどもわざわざ買ってまで読むのは金と時間の浪費だ(で、煙草代に回すんだけど)。

しかし週刊誌がどのような記事を掲載しているのかは気になる。非常に気になる。私の興味の的は、たとえば「セレブの呆れた実態」とか「有名人の不倫」とか「他人様の私生活」ではない。多くの場合、週刊誌の記事は有名無名の人々の私生活をあばく(あるいは捏造する)ことに注力されている。そのてのコンテンツに私は触手が動かない。その理由は、そうした「顔の見えない」「お顔を拝したことのない」方々の私生活に関する情報が私の生活や仕事、あるいは思考・行動にになんらかの生産的な(前向きの)影響を及ぼす可能性がほとんどゼロに等しいと予測するからである(読みたいテクストは既に山ほどあるのだし)。

ただ、週刊誌には興味がある。非常にあると言ってもよいだろう。恐らく玉石混淆虚実半々(であろう)情報がどのように取り扱われ、どのように情報(商品)として”陳列”されているのかという情報に私は情報としての価値を見出している。

自分のことを書くのは次の機会に譲るとして話をもとに戻そう。

ここ最近、メディアではバラバラ殺人が話題になっている。どちらも兄妹間あるいは夫婦間で起こった殺人。片や被害者、片や加害者。
殺人事件、というだけでも悲劇だがそれが親族間となると尚もって悲劇だと私は思う。もちろん普通の(ありふれた、というと語弊があるかもしれないが)殺人事件は大したことではないというのではない。ただ、最近の二事件の当事者やその近親の人びとの心情に思いをはせるとき、彼らに対する第三者の無責任かつ徒な好奇心があまりにも非情なものに見えるのだ(ちょっと今言葉が見つからない)。

別段、殺人などいまさら珍しい事件ではない(なにせわれわれはカインの末裔だ)。死体の損壊・遺棄も新奇なものではない(だいぶ以前には、バラバラにして食べていた日本人青年がいた)。おまけに親族間殺人などほとんど毎日報道されている。その意味では二事件もありふれた出来事(悲劇)だといえなくもない。
にもかかわらずここまで当事者の、とくに被害者の生前の言動・プライバシーがあからさまかつ執拗に世間に流布されたことがあっただろうか。もっとも、私が知らないだけでそんなことはそれこそ「ありふれた話」なのかもしれないが。

生前の当事者間にどのような感情のもつれがあったのか私は知らない。もし、一つ屋根の下に暮らす人間同士の間に感情のもつれが皆無などということがあるのなら、そのハウツー記事こそ是非とも週刊誌には掲載していただきたいものだ。販売部数が飛躍的に伸び、急いで単行本化されベストセラーになるのは間違いないだろう。しかるに現に為されている報道といえば被害者及び加害者その周辺の「(おそらく)人に知られたくない」、文字通りの”プライバシー””そっとしておいて欲しい話”があっちのほうからこっちのほうから暴き出されている(繰り返しすがその真偽を私は知らない)。

不幸にも犯罪の被害者となってしまったが故に、なにごともなければ「家庭内のよくある話」で終わったであろうプライバシーが巷間に流布される。もしやそこには常人からは窺い知れない何らかの隠された意図・計画が含まれているのだろうか。それほどにも今回の二事件に関するマスコミ報道は常軌を逸しているように私には見えている。

こうなってくると人は可能な限り犯罪の被害者になることを忌避したいと願うようになるだろう。そもそも犯罪の被害者になりたいなどという人間はいないだろうけれども、今後、既に為されてしまった犯罪の被害者がそのことを訴え出ることをためらわざるをえなくなる恐れが、はたして全くないと言えるだろうか。そして仮にそうした風潮が生まれたとき、今度はそれを狡猾に利用する犯罪者が新たに生まれるだろう。

死んでしまえば後はない。
二事件に関してはそう言ってしまうことは可能だろう。ただ、死者に鞭打つような真似は端から見ていていたたまれない。もしかすると当事者・近親者にはなにがしかの言い分があるのかもしれないが、生前の被害者たちが何らの関わりも持たなかったような「世間の人びと」からまるで汚物でも見るかのような視線を向けられるような状況は極めて非人間的状況だというべきだろう。

殺人を「社会に対する罪」として考えるとき、殺人を犯した加害者のプライバシーが捜査機関等によって細大漏らさず調べられることはその目的に照らして許容されるのだろうが、「なんとなく」「おもしろそうだから」「こりゃええ儲け口だわ」「よかった、これで紙面が埋まるよ」的な目的(?)から、被疑者・被告とはいえ他人のプライバシーをほじくり返し、また世間に流布することにどれほどの意義・公共の利益があるのか私には未だに理解できないでいる。まして被害者をや。
仮に殺人を「個人(被害者)に対する罪」として考えたとしても、今回のように加害者のみならず被害者のプライバシーまでが何の必要性もない(公共の利益に資することがない)にもかかわらず暴き出されるような事態においては、「被害者に代わって悪を懲らす!」という正義の味方づらは出来ようはずもないし、おそらくするつもりもないのだろう。徹頭徹尾第三者として、傍観者として、間抜けにも加害者・被害者となった者どもを肴に猟奇的好奇心を満たそう、それがマスコミ報道に潜在している欲望だと私には見えている。

私としては口にしたくないことだけれども、既に現状はマスコミその他による人権侵害は国家権力を以て強力に規制するしかないところまで来ているのかもしれない。それほどまでに一部マスコミの報道は醜悪極まりないように思える。
「言論の自由」は、それが公共の福祉に資するが故に尊重されるべき権利だとされている。よってマスコミが真の意味での「言論の自由」を標榜するつもりならば、同業者として一部マスコミの非行を矯正するだけの見識を示すことなくしては、自由の守護者として語る言葉もその力を失わざるを得ないだろう。もしも積極的に非行を押しとどめることが無理だとしても、すくなくとも(消極的にでも)広告掲載の拒否などで自発的な是正を促すことはできないものか。今回のような事態を前にしてマスコミが拱手傍観しているばかりにおわるのなら、今後マスコミがどれほど正論(らしきもの)を述べたてても恐らく私は鼻で笑うしかないだろう。「いじめは絶対悪」などという言葉が虚ろに響く。

ともあれ、マスコミに限らずとも人が自らの権利を守るためには自律・自制が不可欠のように思える。厳罰化、法規制の徒な強化、倫理観の強調、共同体への奉仕・・・。そうした状況の中であらためて国家と市民、国家と市民共同体について考えてみたいと思う。国家の利益と公共の利益との違い。さしあたりこのことが手掛かりだと私のなかの誰かが呟いている。

日頃書くときには幾許かのユーモアをと思いながら書いていますが、今日ばかりは全くその欠片もない一文になってしまいました。自分の死については笑い話にも出来よう(論理的には不可能なのだが言わんとするところは察していただけると思う)けれど、他人のそれを笑いや侮辱に紛らして書くことはおそらく私には今後も出来そうにない気がします。組織や集団を罵倒し揶揄し嘲笑することはあっても、一個の生身の人間に対してそれをやることは避けたいと改めて思った次第。

腐った素材とバラバラ殺人

  • 2007年01月14日 (日)

私はテレビを見ない。
とくに理由らしい理由はないが(てか考えたことがない)。
テレビがないわけではない。一応居間に据えてある。でもほとんど見ない。家族がいるので食事時に時々「目に入る」のと、年間に数度ドキュメンタリや映画を観るくらいである。

ちょっとだけ見ない理由を考えてみる。
ひとつは、テレビを通じて入ってくる情報によって「なに!?そうか、そんな見方もあったのか」という体験をした記憶がないこと。「へぇ」「ふーん」「それで?」「いやいやもう結構ですよ」。そればっかり。時々、気になっているテーマについて「お、そういう本があるのか」「お、そういうサイトがあるのか」なんてことはあるけれど、テーマそのものについて目を見開かされるような情報に接したことはほとんどない。

もちろんそうだからといってテレビ独特のメリットを否定はしない。有用な場面もあるだろうから。
ただ、私はほとんどテレビを見ない人間だというだけのことである。
今のところ私にとってはテレビよりもあちこちのブログなどのほうが余程発想を刺激してくれる存在なのは間違いない。

この記事自体、折々読んでいるブログの一エントリを見て書きたくなったものの一つだ。
先日読んだ『9条どうでしょう』の著者の一人、小田島隆氏のブログ「偉愚庵亭憮録」の「ファミリーズ」と題したエントリでバラバラ殺人が取り上げられている。

でも、肉食獣たる取材記者が血と鉄と毒を恐れないのはそれで良いとして、彼らが取材してきた結果を番組として流す段階では、もうひとつ別の判断基準があって然るべきなんではなかろうか。つまり、真相は真相として、公共性のない事実は、あえて庶民の食卓に供さないのがまっとうな放送業者としての態度……

テレビをほとんど見ない私にも、ここしばらくテレビから頻繁に「バラバラ殺人」の声が聞こえてきた。
昨日だったか一昨日だったか、NHKが加害者(妻)と被害者(夫)について双方の異性関係がどうとか家庭内暴力がどうとか報道していたのだが、それを偶々見た私はその内容よりもなによりも「それがどうしたのだ?」と思うほかなかった。事件そのものよりもその報道にこそゾッとするものを感じただけであった。小田嶋氏の一文を読んだことで、その「ゾッ」の理由の一つが少し明確な形で私の中に浮んできた(ので最初はコメント投稿させていただこうと思ったのだけれど長くなったのでこちらに書くことにしたのでした)。

「彼らが取材してきた結果を番組として流す段階では、もうひとつ別の判断基準があって然るべきなんではなかろうか」。この氏の一文に私は強く肯く者である。
株主利益だのコストパフォーマンスだのなんだのというのが錦の御旗になっているらしい社会においては、仕入れたネタ(原料)は全て有効に余すところなく活用しなければならないのだろう。無駄の排除、効率化・・・。おそらくジャーナリズムにおいてもそれは例外でないということなのだろう。そう(勝手に)解釈すれば納得はいく。
そういえば「バラバラ殺人」の隣には「消費期限切れ原料使用」の見出しが踊っている。
誰も好んで食べようとは思わない消費期限切れの素材、出来れば一生縁のないまま過ごしたい事件。どちらも「腐れた材料」とも言えよう。
腐った(腐りかけた)原料を使用してしまった食品会社はこれでもかとばかりに叩かれる一方で、それをリードする報道機関は腐れた材料をこれでもかとばかりに食卓に送り込む。皮肉な話だ。

おっと、時間が・・・
今日はこれにて(後で文章に手を入れるかもしれませんが一応これで)。

ハラスメント?晴らすメント?

  • 2006年12月16日 (土)
  • キーワードタグ: 教育

医師に「くたばれ」メール、看護師逮捕(goo news)

昨晩この”事件”をyahoo newsで読んで「これで逮捕??」と思うことしきりでした。goo(産経新聞)の記事を読んで少しだけ疑問がほぐれましたけど、それでも腑に落ちない部分、ありますね。

腑に落ちないと言えばこちらも。

国立大助教授に停職4カ月、「不正」請求、「アカハラ」(西日本新聞)

厳しい指導への恨みをはらすメント?

学生計5人に対し「卒業させないぞ」としかったり
机をたたいたりし
学生5人が、学内のハラスメント相談窓口に相談したため、一連の問題が発覚
大学側に無断で購入(・・・)業者に架空の請求書を作成させ(・・・)研究成果を急ぐあまり(以下略)

学生らを過度にこき使っていた、ということなのかもしれませんが、記事だけ読むと「卒業させないぞ、卒業したくないのかな?キミは」ってのもこれからさき禁句になっていきそう。

「机たたき」?ダメ?
じゃ、ろくな教育・躾も受けぬまま将来会社に入ってからあかつきには、強く叱る職場の上司はパワハラで訴えるしかないね。ただし出世はあきらめなさいな(もしくは肩を「たたかれる」だろうね)。

そしたら上司、経営陣、株主をみんなまとめて訴えちゃおうか?これ、何ハラって呼ぶことにする?
そんでもって経営陣と株主は「重税ハラ」で国と自治体訴えればいいよ。
そして国(日本)は近隣諸国に対して「戦争責任ハラスメント」には耐えられない!と武力に訴えることが出来る環境が整っていればなおよろしいかも。

若者たちにとっては、低賃金でギュウギュウ「首を絞められる」社会に旅立つまでは優しくスポイルしてもらわないと割に合わないのかも。

冗談はさておき
このテの記事には大抵、書かない方がマシな「事実」もあるような気がします。(もっとも、読者にリテラシーがあれば問題ないのだろうが。すいません、持ち合わせてないもので)

「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」・・・。
いじめだって言ってみれば「スクハラ(スクールハラスメント)」

人の嫌がる行為、いじめはもちろん非難されるべきでしょうが・・・。
何にでも「ハラ」付けて排除する(排除を容認する)傾向には、ちょっとばかり気色の悪いものを感じることもります。

気色悪さの原因はおそらくその「ヒステリックさ」にあるな、私の場合。
おお、そういえば「ヒステリー」という言葉も既に”色モノ”扱いされているのだったな。

言葉が一人歩きしているかのような「ハラ」問題を耳にするたび、「まず言葉ありき」だなぁ、などと思う次第。
しかしそこはほんとのところは「言葉」以前に「神がある」と思うのだが・・・(聖書の記述者は神の存在をアプリオリなものとして全く疑っていないはずだから)。
神、善きもの、愛・・・なんと名づけてもよいのだけれど。

「ハラ」君好きの人々の立場からすると子羊を殺して神に供えるような敬虔な人間に対しては、神はこれを拒否して天罰を下さねばなるまい。
「”なんの罪科もない”いたいけな生き物を殺すしてはならない」はずだろう?。

供える対象が神だから許される?
では我々にとっての「神」とはなんなのだろうか。
「国家の秩序」「規範意識」「おらがむらの安寧平穏」?

神無き日本の未来に繁栄あれ!

「セクハラ」と教育長を脅迫、3人逮捕

  • 2006年11月24日 (金)
  • キーワードタグ: 事件

「過去にセクハラ(性的嫌がらせ)行為があった」と福岡県二丈町の教育長を(中略)「公になったら大ごとになるぞ」と脅迫。示談金として6000万円を要求した疑い(中略)3人は「金銭の要求はしていない」と容疑を否認

共同通信(2006年11月23日)

6000万円ってちょっと法外な金額では? というよりそもそも恐喝そのものが”法外”ですが。
セクハラ行為が事実なのかどうかという点、この記事からは読み取れませんが、仮にただの言いがかりだとすると一層タチの悪い話でしょうね。

(追記)
11/24付西日本新聞朝刊に被害者側のコメントが掲載されていました。

この3人、自分らこそ「公になったら大ごとになる」ことをやっているという認識はあったのかなかったのか。それ以前の問題として警察を侮っていたか・・・。

なにはともあれ福岡県警バカではなかった、ということは言えそうです。至極あたりまえのことではありますが(そうでないこともあるということ)。

眠れぬ夜に

  • 2006年11月01日 (水)

眠れぬ夜に
宝の山らしきものを
みつけました

最近折に触れて読んでいる内田樹氏のブログ「内田樹の研究室」。
(h)ttp://blog.tatsuru.com/
かなりの量の過去ログがあって、最近の記事以外はとてもまだ目が通せていませんけれど、今日少しばかりログを読んでみました。これはどうも私にとっては宝の山になりそうです。(別に剽窃してどうこうってわけではないので念の為・・・。)
以下、2005年02月17日付の「『原因』という物語」より引用。

私が気になるのは、この「管理責任」の追求をする父親の発言を選択的に報道しているメディアの姿勢である。
共同通信の記者は何を考えて、この父親たちの発言を報道したのだろう。
それが事実だから?

なにがしか事件事故が起こったとき、当事者以外の人間の言うことはほぼ一定してる。はっきり言えば「聞くまでもない」「読む価値もない」と言いたくなるものが殆どである(ひどいときには遺族に向かって「今の心境を」などと尋ねるような鬼畜もいるが、この場合は「聞きたくない」ではなく「聞くに忍びない」である)。しかし、なぜかそれが日常茶飯事であるところが私には理解しがたい。

内田氏は至極紳士的に次のように書いている。

おそらく記事を書いた記者はこのような発言に・・・「社会性・批評性がある」と考えたのだろう。

そしてその後に続けてこう言う。

批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。
批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。

このように静かに、しかし極めて鋭く問いかける。

何かあればハンニン捜しにやっきになってミゾに落ちた犬をメッタ打ちにするような正義感アフれる人々が『国家の品格』をコワキに抱えて「うつくしいクニを~ッ!」などと絶叫しながらアカ信号の横断歩道をミンナで渡っている光景は、決して「美しい」とは言えないだろう。

「悪いのは誰だ?」という問いが有効な場面は、人々が信じているよりもはるかに少ない。

私は・・・「ささやかだけれど大事なこと」をていねいにやってゆくことでしか世の中はよくならないと信じている。
他者の責任を追求する言葉を「吐き捨て」たり、「腹が立つ」人間だけがいても、世の中は少しも住みやすくならない。

メディアに携わる人々はもう少しそういうことにもご配慮頂いて、「他罰的な語法で語られる原因究明の言説」の批評性について、一度ゆっくり考えて頂きたいと思う。

生徒や保護者は学校を責め、結果実直な校長は自死し、また教育委員会が責められ文科相が責められついでに野党は首相の責任を追及し、そしてそれらをまとめて今度はマスコミが責める。真摯に自らの落ち度を認めでもしようものなら「それみろ!」とばかりに一層責められることは必定。
まさしく「他罰的」と言わずして何と云おうか。

現に公開されているブログの記事から引用するのは非礼であろうと思いつつも、

「ほめ批評」は「なぜ私はこの人をかくも尊敬するのであろうか?」「この人のどこが私の琴線に触れるのだろうか?」という私自身への向けての問いかけをつきつめるものだ

という内田樹の言葉を援用させてもらいつつご容赦いただければと思います。
暇をみつつ過去ログを熟読させて貰うつもりでいます。

追記
下に、別のエントリにコメントを頂いたDr.watermanのブログより引用させてもらいます。

生身の人間は生身の人間として扱う心が欲しい。人を殺すほどの主義主張とか、社会の木鐸と嘯くジャーナリズムがあっていいのだろうか。

イーホームズ社長による告発

  • 2006年10月22日 (日)

「きっこの日記」で公開されている、イーホームズ藤田社長の動静。

藤田社長が首相官邸に赴き安倍首相に面会を求めたが拒否され、マスコミではそのことが半ば黙殺もしくは情報操作されているとのこと。

耐震強度偽装問題については不勉強で大したことは知らないのですが、マスコミ報道のあり方・現状はどのようなものなのか、という観点かこの件をウォッチしていくつもりです。

”事実を伝える”はずの報道機関が本当に”事実”を伝えているのか・・・。

通常、報道内容からは当事者自身の生の姿は殆ど全く見えてきませんが、この件に関しては一方当事者の藤田社長の主張が「きっこの日記」で公開されていますので、なにか実態が見えてくるかも知れないと思っています。

もし、広く伝えられるて然るべきニュースが検証されることもなく隠匿・改竄され、その埋め草としてつまらない出来事ばかりが言挙げされるようになったら、”戦後レジームからの脱却”も半ば果たされたといっていいのかもしれません。

藤田社長の主張が真っ当なものかも含めて、この件を眺めてみたいと思っています。

たしかに今回の首相官邸訪問に関しては主要新聞に記事が見あたりません。スポーツ新聞などには出たていたようですが。
スポーツ報知
goo news

ネット検索した限りでは(今のところ)ニュース記事が僅かしかヒットしないところをみると、確かにマスコミが黙殺しているというのは事実なのでしょう(ネット上の情報の有無だけで事を語るのは穏当でないでしょうけれど)。

「ニュースバリューがない」ということ?少なくとも、警察官がFAX誤送信したことよりは価値があるのでは!?

いまどきの一厘事件ですら主要新聞にしばしば掲載されるご時世ですし、この藤田社長の件こそ載せてみてもよさそうですが・・・・。相手が権力者だと腰が引けるのはやむなし、でしょうか。それとも密かに裏付け取材の真っ最中につき敢えて掲載しなかったのか・・・。

こうしてみるとegawa shoko journal の指摘はもっともだという気がします。
「フェアではない」

http://www.egawashoko.com/c006/000197.html

藤田氏への非難は、誰も被害者のいない見せ金増資への批判として、適切なものなのだろうか。

権力を監視する役割を果たすべきメディアとしては、行政の処分や捜査のあり方、なによりもこんな偽装を許した国の責任を厳しくチェックをしなければならないのではないか。

自らは安全な場所に身を置き、水に落ちた(落とされた?)犬を叩く姿は見苦しい。

チョムスキー・辺見対談

  • 2006年10月17日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

以前書いた辺見庸とチョムスキーの対談日本語訳を見つけました。
(但し原文と対照して訳文を確認することはしていませんので念のため。)

9・11テロ直後のアメリカにおいて、反テロ一色に染まったマスメディア。辺見庸は再三その事に関するチョムスキーのコメントを引き出そうと試みていますが、チョムスキーはその問いにストレートに答えることはせず、アメリカにおいてはあくまでも言論の自由は保たれている、と強調します。

批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こりうる、という現実に不慣れな人は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てて言うこと自体、「不面目」なことです。

しかしながら彼は、現在のアメリカが真に”自由な国”だとは考えていないようです。
(ブッシュ大統領の「悪の枢軸発言」に関して)

富裕層対象の減税や軍事費の膨張は必然の結果をもたらしています。例えば、一般の人びとに対する社会政策費は削られている。これは、すでに限られたものでしかない社会援助をされに痛めつける攻撃です。こうまで痛めつけられては、政策を維持することができないでしょう。そういう事実から、国民の目をそらしたい。
・・・・・・
また政府は、今日の石油会社を利するためなら、明日の子供達が生きる環境を破壊してもまったく平気だという事実に、国民の注目を集めないようにしたい。

そしてそうした為政者たちの目論見は成功していると考えているようです。

この国(アメリカ)には言論統制はない。しかし、情報が表に出てこないということです。ただし、これは選択の結果です。統制ではありません。

ここで彼が言う「選択」の主体は誰か。それはマスメディアであり情報消費者すなわち一般市民だということです。
この点、アメリカに限った話ではないようです。日本にも挙げれば切りのないくらい多くのタブーがあるのではないかと思うのは私だけではないと思うのです。

日本の保守政治家が「わが意を得たり」と言いそうなことも言っています。

負けた国だけが「悪いことをした」と言わされる。第二次世界大戦後の東京裁判が行われたのは、日本が負けたからです。ワシントン裁判などというものは開かれませんでした。毒ガスを使ったチャーチルに対する戦争裁判もありませんでした。敗れたときにだけ、自らの罪を見つめる。そのように仕向けられるのです。

ただし、この後に彼は昭和天皇の戦争責任を強く肯定している点だけは「いただけない」ということになりそうですが。

一体9・11テロは何だったのか。これについては

9月11日のことで人びとが何よりショックを受けたのは……あの行為は大変に残虐でした。しかし衝撃的なことはあれだけではない。残虐非道な行為はほかにもたくさんあります。ただ西側で起こったのはあれが初めてというだけのことです。世界の他の人びとに対して、我々がやってきたことなのです。他の人びとはこれまで、我々にあんなことをしなかった。だからショックだったのです。

と述べています。

日本の戦後についても彼は明快に断罪します。

日本はこれまでもアメリカ軍国主義に全面的に協力してきました。戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担したことによっています。朝鮮戦争までは、日本の経済は回復しませんでした。朝鮮に対するアメリカの戦争で、日本は供給国になった。それが日本の経済に大いに活を入れたのです。ヴェトナム戦争もまたしかり。アメリカ兵の遺体を収容する袋から武器まで、日本はありとあらゆるものを製造して提供した。そしてインドシナ半島の破壊行為に加担することで国を肥やしていったのです。そして沖縄は相変わらず、米軍の一大軍事基地のままです。50年間、アメリカのアジア地域における戦争に、全面的に関わってきたのです。日本の経済発展の多くは、まず、その上に積み上げられたのです。

 
少なくとも日本の一部政治家の継ぎ接ぎだらけの言説よりも明快で分かり易いのは確かです。

最後に彼は言います。

他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」と言っているのは簡単です。日本の人たちが今しなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。

これなどは、私たちの身近な出来事に関しても通じるものがありそうです。
いじめを断罪するのはたやすい。
いじめを助長した教師を吊し上げるのもわけない。
しかし、同様のことが自分の身の回りにもありはしないか。

いじめっこの犯罪に目をつけるのはたやすい。PCの前にいて「教師はなんてひどいことをするんだ」と言っているのは簡単です。その人たちが今しなければならないのは、自分の職場や教室を見ること、自分の内面をを覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。

いまさら私ごときが紹介するまでもない”戦う知識人”ですが、覚書を兼ねて書いてみました。

チョムスキー自身のサイトは

http://www.chomsky.info/

丸谷才一『文章読本』~敬語細分化その2

  • 2006年10月04日 (水)

読了。

先日書いた敬語細分化のエントリの続編としてもう少し。

この一世紀の日本は、伝統の否定をはなはだ大がかりに実験したのである。・・・型の排撃とは、何のことはない、今出来の粗悪な型で我慢することの謂にほかならなかつた。・・・口語文が貧弱なのは現代日本文明が劣悪なことの結果である。

近代の日本は西洋技術文明を殖産興業・富国強兵を果たすためにのみ導入したつもりであったにもかかわらず、いつのまにか欧米的な価値観をも無批判に取り入れ始め、第二次大戦の敗戦がそれをさらに加速した。そんな気がします。

欧米列強のアジア進出という脅威を面前に控えた危機的状況を考えれば、当時の日本人が性急に外来文明との同化を図ろうとしたことを非難することは酷なことのようにも思えますし、また、敗戦の衝撃が日本人の自信と誇りを叩きのめしたことも疑うに足りません。

しかしながら、過去の失敗から何一つ学ばないとすれば日本は今後も同じ過ちを繰り返し続けるのではないだろうか。

一世紀半の間に日本が犯した過ちとは、自己が犯した過ちの本質を突きつめて考えることをせずに、右から左へ左から右へと文字通り右往左往したところにあったのではないだろうか。そして戦後体制からの脱却を自称しだした現在の日本は、その過ちをさらなる(そして本質的には同じ)過ちで塗り替えようとしているだけではないだろうか。

昨今、”歴史””伝統”という言葉が今までとは異なった文脈で用いられることが多くなってきたように思います。
この本の出版は1979年、丸谷さんは明治維新以後の日本の特質を「型や伝統の否定」と看破しています。

ほんの数年前まで、”個性の重視”だの”ゆとり教育”だのとあっちでもこっちでもさかんに言われていたような覚えがありますが、最近は”秩序””規範”が決まり文句みたいです。

どれも正しい。しかしそのどれも完全ではあり得ない。

というのが私の実感です。

個人が尊重されると同時に集団内の秩序を維持する、という問題は古くて新しいものなのでしょう。そしてこの問題は”こうすればこうなる”式の単純素朴なものではないはずです。

(ん~、あやふやな考えを文章にすることが面倒になってきました)

最後に

口語文の未熟はたしかにわれわれの生き方の反映にちがひないが、しかし、口語文を成熟させることはわれわれの生き方を豊かなものに改めてくれるはずである。文章が人間の精神の最も基本的な表現である以上、さういう期待と信頼を寄せることは充分に正しいだらう。

敬語の細分化、そのこと自体を否定はしません。ただ、この件に限らず、最近の様々な論調に独善的、といって悪ければ余裕のなさ・遊び心のなさを感じることが多いのは私の僻目なのでしょうか。

「そもそも遊びじゃないんだよ、ゴラぁ!」

なんて言われてしまいますかね・・・。

ヒステリックで独善的な物言いはいつの時代でもどんなところでもイヤなもんです(某国のテレビアナウンサーの口調はその典型かも)。
特にその主張に些かなりとも正当性が”ありそうに見える”ときには始末に負えません。(これって私たちの日常でもよく見聞きすると思いますが、違います!?)

しかしまぁ、つまるところは「汝自身を知れ」かも・・・。

文章読本
丸谷 才一
入手不可

文庫本で現在も入手可能
文章読本 (中公文庫) 文章読本 (中公文庫)
丸谷 才一
価格:800円

敬語の細分化

  • 2006年10月03日 (火)
  • キーワードタグ: 敬語

敬語の性質を厳密に分類することで日本語の乱れを防ぐつもりだそうですが。

http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20061002&j=0031&k=200610026102

「敬語の性質を厳密に分類することで、使い方の混乱を防ぐ」というのは的外れだという気がします。
「24色入りの絵の具を持っている子供のほうが、12色入りの絵の具しか持たない子供よりも上手な絵が描ける」のだろうか?
もちろん、いろいろと試行錯誤することは非難すべくもないですが、道具立てよりももっと考え直すべきものがあるような気がします。

文明が成熟してゐれば街談巷語は正されるしむしろ逆に、平談俗語が社会の性格をしやんとさせる事態さへあり得るだらう。

 丸谷才一『文章読本』より
もしかしたら、審議会とやらを開く以上はなにがしかの結論を得なければならないということがあるのだすれば、いまさら言葉の乱れの是正に大して効果があるとは思えない細分化案が出てきたことも腑に落ちなくもないです。
と、そんなことどもを漫ろ心に考えていたら朝刊にこんな記事を見つけました。「メディアと民主主義」というシンポジウムに関する記事でしたが、

興味のある分野だけを知りたがる人が増え、新聞で思考力を磨こうとする意識がなくなってきている(加藤千洋朝日新聞編集委員)

という発言が紹介されていました。「新聞で思考力を磨く」だって??「新聞を素材として(ネタにして)思考力・批判力を磨く」ならまだ分りますがね。まさかとは思いますが、この朝日の編集委員は新聞がそれほど大したものだと考えて居るんでしょうかね。まぁ、字数の制約やらもあるんでしょうから、揚げ足取りみたいなことはやめますが。しかし、文脈からしてなにか尊大な印象を受けましたよ。国語に関して言えば、当の新聞にしてからが、明晰性にかける文章や「んっ!?」と感じる表現が散見されることは恐らく当事者である新聞社の人間が一番よく承知しているはずです。分っていても印刷物として一旦出荷されてしまえばもう引っ込められないですから。

印刷物の信用度(というよりも正確には通用度、世間的な信用度と言うべきか)は内容そのものよりもまずはその外見に大きく左右されると私は考えています。
手書きより印刷
粗い活字よりも美しい活字
紙質の高低
装幀の堅固さ・美しさ
発行部数の多寡
発行母体の知名度
などなど

要は”金のかかる”メディアであればあるほど信用度が高まる。それはおそらく「これほどまでに大金を投じて(作為を弄して)嘘をつく者はまさかいないだろう」「ここまで費用をかけてるんだからまさか嘘ではなかろう」という世間一般の(善人であれば)持つ前時代的感覚に相応しているのではないだろうか。
またまた話が見えなくなってきました・・・。
とどのつまり、新聞は比較的まともだとしても、ともかくメディアをつうじて誤った言葉・言い回しがこれでもかこれでもかと垂れ流される現状を変えなければ、敬語の分類を増やそうが減らそうが全く無意味だという気がしてなりません。
書きたかったのはただ一言。上に記した丸谷さんの言葉でした。今日はまさに書き散らし。御免下さい。

飲酒運転と昨今の報道

  • 2006年09月26日 (火)

飲酒運転についての喧しいとすら思える昨今の報道にわずかばかり疑問というか懸念が兆していたところ、こういう記事を見つけました。

「飲酒運転事故は増えているのか」~池田信夫blog

交通事故は、日常生活で直面する最大のリスクだが、あまりにも日常的であるため、ふだんはニュースにならない。それがちゃんと報じられるのはいいことだが、飲酒運転だけを針小棒大に騒ぎたて、事故も起こしていないのに飲酒運転だけで懲戒免職にするのは(以下略)

飲酒運転に関しては弁解の余地がないのは言うまでもありません。私自身、福岡での三児死亡事故のニュースを聞いたときはなんともやりきれない思いがしました。
ただ、この事件以来の怒濤のような報道を見ていると、なんとなく違和感を覚えてきました。マスコミが作り出す”世論の波”のすさまじさを感じるのです。

そういえば、
昨日ある新聞を読んでいると、ある自治体の飲酒運転防止への取り組みが紹介されていましたが、その記事なかで(自治体の取り組みを)「市民は注視している」というくだりがありました。なんとなくひっかかってしまいました。

「市民は注視している」

ということは「市民」のなかにその自治体の職員は含まれていないようです。(このケースに限って言えば)「市民」は他人(自治体)の取り組みに目を光らせるほど大した存在なのか。飲酒運転は自治体による権力の行使ででもあるのか。この記事を書いた記者はそこまで意識していないのかもしれません。しかしここに何らかの”断絶”を感じます。飲酒運転に関してだけ言えば、他人を注視する暇に市民自身が(私自身が)取り組まねば。もちろん自治体職員も市民です。

自らのことを棚上げして他人の非をあげつらうことが恥ずべき事ではなくなったのが今の日本、だとは思いたくありません・・・。
もしかして政治家も市民もマスコミも”一億総ブッシュ化”

こんなこと書いている自分自身が最もブッシュに近いのじゃないか?・・・嗚呼。
なんだかまた気が滅入ってきました。
さっさと自分のやるべきことをやらねば、ですね。

物損でも匿名公表 千葉県警

  • 2006年09月12日 (火)

http://www.sankei.co.jp/news/060909/sha006.htm

公務員の飲酒事故に関しては物損でも匿名公表とのこと。
千葉県警が「飲酒事故を減らすために、まずは規律を守るべき公務員が模範を示すべきだと考え導入を決めた」んだそうです。

ひき逃げ誤認逮捕~関連記事2

  • 2006年08月01日 (火)
  • キーワードタグ: 冤罪

検察が無罪求刑

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060801

ひき逃げ誤認逮捕~関連記事

  • 2006年07月23日 (日)

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060703

 「弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」」より

http://www.yabelab.net/blog/2006/07/02-150903.php

 「元検弁護士のつぶやき」より

誤認逮捕

  • 2006年07月10日 (月)

「元検弁護士のつぶやき」より

http://www.yabelab.net/blog/2006/06/29-171028.php#more

続報~ひき逃げ犯誤認逮捕 

  • 2006年07月03日 (月)

(警視庁)物証に乏しく、難しい事件だった。供述に頼ってしまい、裏付けが不十分だった
(goo news)

〈松田弁護士の話〉 接見段階で無実の予感があった。供述に争いがあったのだから、双方の言い分に慎重に耳を傾けるべきだった。適切な裏付け捜査をしていれば、10カ月も不当に勾留されることはなかっただろう。

不謹慎な言い方かもしれませんが、物証がないときは、(嘘の)証言する人間の”数”で「事実」が作られるんじゃない?

ところで、

逮捕時にさもこの方が犯人であるかの如く報道したであろうマスコミはどのように謝罪したんでしょうね・・・。それとも、”警察が発表したという事実”を報道したのであって我々には非はない、と考えるのでしょうか。逮捕される事は勿論ですが、当事者にとっては、報道の在り方もまた(最も)影響大だったはずですが。

事実関係についてはマスコミ経由の情報しか知らない私に語る資格はありませんが、しかし、一個のの事象に関して、あるときは犯罪者(とされた者)のプライバシーを必要以上とも思えるやり方で暴露し、あるときはまた役所のミスをあげつらう・・・・そんなイソップ物語の蝙蝠みたいなものが報道機関と云われるものであるならば、最も罪の重いのは果たして・・・。

村上氏逮捕とミルケン

  • 2006年06月06日 (火)

(goo news)

先日の小金井良精のエントリで引用した記事の中に、マイケル・ミルケンの名前があり、その時はあまり気に留めていなかったのですが、村上氏逮捕のニュースを聞いたところでちょっと調べてみる気になってきました・・・。
詳細は後日、多分。

日本がアメリカの後追いしているのはこの頃始まったことではなさそうですね。

取調べ録画、警察は行わず

  • 2006年05月11日 (木)

やはり、です。

(goo news)

永田氏に唖然・・・

  • 2006年03月25日 (土)
  • キーワードタグ: 政治

なんだか一層グジグジしてきたようですね。
(goo news)

国会議員の方々はどうしてこうも潔くないんでしょうか・・・。

永田氏の謝罪に関しては以前同情的な記事を書いてますが、それにしても情報提供者との信頼関係云々を持ち出して今更提供者の実名を公表して、かつ自らは議員辞職を拒否するに至っては、呆れてしまうほかありません。

たしかに辞職するか否かの判断は永田氏自身がなさるべきことでしょう。
しかし上記記事を読む限りでは、永田氏の言動は責任転嫁・言い訳だとしか解釈できないのですが・・・・。

「だまされた」???

では、騙されたことについて永田氏にはなんら過失がなかったと言えるのですかね

「政治生命をかけて・・・」「自分で傷つけた国会や政治の権威を取り戻す作業に全力を尽くす。私の人生をかけた・・・」

自らの言動にすら責任を持てないような人物の言葉は、どれほど美辞麗句を駆使したとしても軽いです。

一旦辞職して有権者の信を問うのが常道ではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。(もっとも、その後”禊ぎは済んだ”といけしゃあしゃあと言うような人物もどうかと思いますが。)

つまるところ、議員は辞めたくありませんということなんでしょう。
永田氏に限らず、国会議員がすっぱりと辞職した、という話を聞かないのは、それだけ議員が”おいしい”お仕事だということを暗に公言(変な表現ですが。)しているように思えてなりません。

与党追及がうまく運べば英雄。
失敗したら責任はとらない、とれない、騙されただけ。

唖然呆然。

ネットで上記の記事を見かけて、なんとなく書き殴ってしまいました・・・・。御免下さい。

本日の記録 3/22 (普天間基地移転問題)

  • 2006年03月22日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

終日刑法。息抜き読書の余裕なしです。

普天間基地移転問題に関して与党自民党の一部から出されている微調整案についての新聞記事をみて唖然。
微調整案に対する一部政府筋の見解が掲載されていましたが、内容は「アメリカ政府から何をやっているのか!と言われる」んだとか。

(関連記事)
goo news共同
goo news産経
北海道新聞

アメリカ政府からの圧力(?)が事実だとしても、日本政府の政策決定に関してそうした事実を論拠(理由)とするのはなんだかヘンだと思いますが。

単に「急げと言われているから・・・」ではなく、他国からの圧力や問題解決の遅延が、日本の国益にとって如何なる不利益をもたらすかという点を、まずは明確にして国民に伝えるのがわが国の政治家・官僚に求められる役目であるはず。

日独伊三国同盟締結問題に際して、ドイツ政府から「はやく結論を出してくれ」と言われているとして国内の意思統一を性急に求めた官僚が居たそうですが、あのころと今の日本は大して変わっていないということですかね・・・。

今日は走り書きでした。
読み飛ばしてください。嶺

堀江メールと謝罪行為

  • 2006年03月06日 (月)
  • キーワードタグ: 政治

堀江メールで謝罪広告掲載へ、ですか・・・。
議場で武部氏に深々と頭を下げる永田氏の姿が先日の新聞にも掲載されていましたが先日書いてみたプリンシプルに絡めて”謝罪”行為について書いてみます。

だれしも、会社の上司・同僚・友人・後輩、相手にかかわらず、日常生活のなかで、自分の行為について何らかの謝罪せねばならない時がありますが、謝罪とは礼(礼儀)の一つです。感謝にせよ謝罪にせよいかなる類の礼をとってみても、肝心要になるのはやはりそれを表現する型(形)以上に、感謝の”気持ち”、謝罪の”気持ち”であると思います。
「とりあえず頭だけ下げとけばいいんでしょ」では駄目なのは自明のはずです。  (※永田氏がそうだということではありませんので念のため。)
ところが実際にはそのようにしか受け取りようがない”謝罪”が巷には溢れているような気がします。例えば政治家がよくやる失言問題ですか。とくに戦争犯罪や靖国問題に関して、中国や韓国の反発を招く発言が、とくに近年多くみられるようになってきました。そうした場合に、失言の当事者が前言を撤回したり(一応の)陳謝の意を表明することがありますが、あきらかに”これっておかしいぞ”と思うことがしばしばあります。
「世間を騒がせた」「我が党に迷惑をかけた」から謝罪します、などというのは子供から見ても論点のすり替えでしかないのは明かであるにもかかわらず、さほど問題視されないことが多いのは一体どういう訳なんでしょうね。

ちなみに、今回のメール問題に関しては、(ちょっと極端な物言いになるかもしれませんが)永田氏が謝罪すべきであるとするならば、それはメールが”偽物”であった点に関してではなく、メールの信憑性を確認(調査)するにあたって重大な過失があった点にあると思います。もちろん永田氏の謝罪の真意がどこにあるのかは知る由もありません。また、謝罪を行う当事者の意思はともかく、相手方に対してはメールが偽物であった事に関しても謝罪の意を表さなければ相手が納得しないのは当然でしょうけれども、永田氏自身はメールが偽物であったことよりも、むしろ自らが重大な過失を犯した点を反省されるべきだと思いますし、そうであって欲しいと思います。
メール自体は偽物であったとしても、武部氏に関する疑惑そのものが偽物・事実無根であったと証明されたわけではないですし。なんにしても今回の件は自民党を追及しようとした民主党にとっては大きな痛手であったと思います。

はて、プリンシプルの話はどこにいったのか?
そうでした、プリンシプル principle。

何事かについて謝罪するとしても、「どういう事に関して、どの点に関して謝罪するのか」が大事なのではなかろうか、ということを書きたかったんですが・・・。こうしたところが不明確なままで単なる謝罪をしても茶番でしかないし、問題は(根本的に)解決しないのでは、ということなんです。
ちょっと観点を変えて、もっと卑近な例で言えばこういうことです。一方がどういうところに不満を持っているのか、どのような対応を求めているのかが分かれば、つまり、対立点が明確であれば、相手方の釈明や謝罪によって解決できるのに、そこのところが不明確なままであるが故に問題はこじれるばかり、なんてことが往々にしてあります。思うに、双方に解決の意思があり、かつお互いのコミュニケーションを通じて対立点が明確になれば、解決は可能、少なくとも決着はつくはずです。(分かりきったことですが)

今日は書き進むうちにテーマを忘却していつも以上に支離滅裂な文章になってしまいました・・・。ま、自分自身の気分転換でやっていることなので・・・(言い訳です)

以上、この本を読みながら考えたことを羅列してみました。

武道の礼儀作法 武道の礼儀作法
野中 日文
入手不可

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