「教育」カテゴリの記事一覧

久しぶりのコメント

  • 2009年02月09日 (月)

といってもこのブログへのコメントの事じゃあない。昨晩、「大学運営がビジネスライクになった本当の理由」という記事(正確にはそれに対するコメント群)を読んでいてフトコメントを投じたくなった。例の如く、いざ書き出すとコメントとしては図抜けて「長文」になるので、極端なくらい省略してコメントしてみた。いずれもう少しそのコメントを敷衍して書いてみたいと思ったが今日はやめておく。ただ、一言で言うなら、金払ったぶん、ちゃんとした(就職できるような、金が稼げるような、はたまた払ってやった学費分の)教育をしなさいよ!」というのはちょっと(大いに)違うのではないかな・・・、ということ。教えは請う(乞う)ものであって”要求”するものではないと私は考えている。学費なんざ所詮は薄謝に過ぎぬ。もしも、対価に見合うものを要求する「商い・取引」と「教育」とを同列に扱うのなら、学費はもっと高くて然るべきとさえいえるのではなかろうか。だいたい、頭(ず)の高い生徒の鼻っ柱が先生によってへし折られるところから教育は始まるのだともいえなくはない。

とはいえ当今、生徒にからかわれて激高したあげく感情的な体罰を生徒へ加える教師もいるがために、味噌糞いっしょくたにされ「強い」指導は目の敵にされ生徒の頭はますます高くなる・・・。やれやれ(一言じゃ終わらなかったか)。

近い落日

  • 2008年07月27日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

暑い。
突き刺すような西陽がそこらじゅうに降り注いでいる。暑い。飯食う気力もないのでソバを食う。う、うまい。喰ったら、書いて、寝る。久方ぶりの更新。3週間ぶりか。

このところ何かとホットな大分県で本日39度を記録とか。教員汚職事件で「熱い」大分県にふさわしい出来事(でもないか)。暑さのほうはまだまだこれからだろうが、事件の方は新聞報道によればどうやら終息に向かっているらしい。誰もが口をつぐんで事件の拡がりは掴めず、証拠がないの立件できず、いったん採用したからにはおいそれと解雇もできず。大山鳴動鼠一匹二匹三匹四匹、以上。

こうした汚職は何も大分県に限った話でないのは多くの人が予想するところ、しかし余所は「うちではそのような事実は確認されませんでした」「みんなに聞いてみたけど誰もやってないって言ってます」、と。
盗人に「あんた盗んだ?」と聞きますかい? あほらし。

私は、今回の事件の報道に接するたびに昨年だか一昨年の「未履修問題」を思い出す。富山県あたりで発覚し、調べてみればほとんどすべての都道府県で行われていたという。さらにはその懲戒処分の決定に当たって、とある県教育委員会は「うちだけ突出できない」と厳罰をためらった由。この未履修問題に絡む懲戒処分はどの都道府県においても「だめでしょ、そんなことしちゃ、もうやっちゃだめよ」程度で終わった。まさに横並びの処分であった。どこかの校長が自発的に退職したという話も、寡聞にして聞かない。

今回の教員汚職事件に関しても、そのように「余所がやってるならウチでもひとつ」「余所でやらないことはウチでもやれません」という”せかい”に於いて、「よそが何をやろうと誰がなんと言おうと、ウチではそんなことはやりません」という都道府県があるかどうかは大いに疑わしい。つまりは余所の都道府県でも同様の問題はあるだろう、ないはずはない、というのが私の所論(の前提)である。現に、合否が公にされる前に、議員らには事前に合否を知らせていたという事実は、次から次へとあちこちから出てきていた。

「だから大分県以外でもやっている」
ということを言いたいわけではない。
私が述べんとするところは、次の2点にある。
一つは、情実人事が大分県以上に酷いところはあるのか、あるとすればそれはどこか。そしてもう一つは、情実人事のどこが悪い(悪くない)のであるか、というところにある。

新聞などの報道によれば、大分県における教員汚職の背景には競争倍率の高さがあるのだそうだ。もしそれが事実なら(おそらく事実だろう)、ポストが少ない都道府県、ポストが少ない校種、ポストが少ない教科に関して不正が行われている可能性は高い、ということになるはずである。もし文科省が、かつての「未履修問題」のときのように、あとからあとから、あそこでもここでも、行われていたという事態を避けたいのであれば、ひとつ大分県よりも人口規模の小さい都道府県、そして採用人員の少ない校種・教科に的を絞って調査してみればよい。そもそも単に競争倍率の高低よりもむしろ採用ポストの絶対数の少ないところほど、不正の存在する蓋然性は高く、そしてそれによる悪影響の度合いも大きい。たとえ大手一流人気企業の採用試験の競争倍率がどれほど高かろうとも採用枠が大きければ、情実人事によって生じるマイナス面は大勢に影響しない(飼い殺しにすればよい)。

いっぽう、公務員・教員もまた「大手一流人気企業」と言えなくはないわけだが、万一にも「飼い殺し」レベルの教員に当たってしまった生徒への影響はあまりにも大きい。一人の「飼い殺し」教員が定年までに関わるであろう人間は、少なく見積もっても一年間で40人、30年で延べ1200人。少なくはない、また、彼ら教員が生徒へ与える影響力は生半なものではない。しかも生徒は「客」ではない。客は売り手を選べるが、生徒は教員を選べない。そこのところが、ふつうの「大手一流人気企業」と公務員教師とを隔てる。ま、公立なんぞに行かず私立へ行くという選択肢はあるが。

とはいえ、こんなことは私が改めて言うまでもないことか。そもそも人事が情実で決まったとしていったい何が悪いか。私は「人事は情実」と思っている(認識している)。
ただ、公務員(教育公務員も含む)と情実人事はなじまないと考えられたからこそそれが規制されているはずである。今回の事件で明らかになったことの一つは、「やはりルールは有って無きが如し」という実態であった。マスコミのなかには、今回の大分県での事件で「いちばんの被害者は生徒だ」と言っていた(最近よく聞く常套句だ)ものがあったが、彼らマスコミの言い分は多分に感情的であるように私は思う。彼らに聞きたい。なぜ生徒が被害者だと言えるのか。どういうわけだか知らないが、彼らはそこのところをさっぱり語らない。私が思うに、なぜ今回の事件が生徒に対して与える影響甚大か(「最大の被害者」かどうかはさておき)と言えばそれは、子供たちをして「ルールがルールとして機能していない現実」及びそれを体現した人物(教師)を文字通り目の当たりにさせ、かつその人物によって「ルールを守る」ことを強いられるというやりきれない環境に投げ込むところにあると私は思う。

ところで、「ルールがルールとして機能していない現実」は、なにも今回の件に限らずとも日本中あるいは世界中どこにでもあらゆる状況に於いて見いだすことができる(誇れたことではないが)。そして大人にとって理想と現実の隔たりは水のようなものだ。それはときどき涼をもたらし、ときには人間を飲み込む。上手く使えればよい。ただ、「ルールがルールとして機能していない現実」の中で育った子供がどのような大人になるのか、あまり考えたくはない。

そんなところから私には、最大の被害者は、生徒と言うよりはむしろ日本の未来とでも言える気がしている。ただでさえ中国その他の競争相手が台頭する一方で国内経済は失速、未来への展望が開けない現代日本。これはまさに内憂外患ではなかろうか。「ジャパンアズナンバーワン」から「近い落日」「日の沈む国日本」へ。いまさらか。
いっそ日本の未来を考えるなら、教員の解雇・採用を巡る一時の混乱など小さなことだと言えなくはない。文科省はトカゲのしっぽを切り落としては如何か。むろん、「みんなでやれば怖くない」「一致団結の精神」「長いものに巻かれることの大切さ」を子供に教えてやることで新しい日本の未来が拓かれると言って言えなくはない、のか。


ここまで書いて私に分かったことはといえば、分からないことを書くと分からない文章になる、というあたりまえのこと。しかし久しぶりに書いてみて結構頭がスッキリ。もう少し頻繁に更新したい。そうしよう。

死ぬまで勉強

  • 2007年11月25日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

いぜん山田詠美が「ぼくは勉強ができない」なんて作品を書いた。ところで今回のエントリは文学のはなしではない。教育というか先生のことについて。

学校の教員は唾棄したくなる存在・・・であった、ような気がする。かつての私にとっては。少なくとも好ましい存在ではなかった。委細は省略(ニコッ)。

しかし「勉強」や「学校」とは疎遠になった今の私の目で見ても今の先生方は大変そうだ。ごく一部の者がしでかした不祥事で肩身の狭い思いをさせられ、痛くもない腹を探られ、管理は強化され、時世に合わせて給与は一部カット。生徒の指導にビンタのひとつも張れず(体罰ダメつのはもちろんその通りだが、ね・・・相手に手の内見抜かれてたらそりゃあやりにくいわな)、これまた一部の生徒から足元を見られて生意気こかれる。やってらんねえぜ、と言いたくもなるのかもしれぬ。むろんそうした環境であるにもかかわらず、地道に励んでおられる方もおられるだろうが。

そんなところへ持ってきて教員免許に有効期限が設けられるのだそうで。

免許の有効期間は10年。幼稚園から高校までの現職教員に更新の際、大学などが開設する講習を30時間以上受けるよう義務付け(・・・)取得から10年を経過した場合、免許状は効力停止(以下略)
 教員免許更新 広がる不満 県教委「技術向上の機会」(河北新報)

技術向上の機会か。そりゃたしかにそうかもしれない。研修で少しは得られるものが(ときには)あるのだろう。しかしただでさえペーパーワークに忙殺されているらしい人たちの貴重な時間を削っても割に合うほどのものが得られるのかどうかは知らぬ。わたしの経験するところでは、お仕着せの研修・やらされる勉強から得るところは少ない、極微、皆無、時間の浪費。
「そんなことはない、それはおまえのやる気の問題だ、バカモン!!」と言われればそりゃ確かにそのとおりかもしれないが。がんらい私は教師とはソリがあわなかったので、しばしばそのように叱られた。

しかしどっちもどっちだよね。10年に一回の研修で何かが得られるというのもまあその通り、そしてやる気次第だってのもまあその通り。決してどちらも嘘ではない。正論ではある(しょうもないレベルの正論だけど)。したがって研修が役に立つ立たないなんて次元で論議してもまあ始まらない(と思っている)。むしろ気になるのは、そのような「研修の機会」、「技術向上」の機会を作ってお仕着せてやらねば今の先生たちが勉強しないのか、ということ。そうでないと思いたいところだが、これまた他の職種と同様に阿呆はどこにでもいる。一部の非行をあげつらってあまり意味のあることとは思えぬ(それがまかり通っている世相は見るも無残)。もし仮に自分なりの研鑽を積みたいと常々考えて居られる先生がおられるとすれば、その人にとってお仕着せの研修は無益であるどころがむしろ有害ではないのだろうか。ただでさえつまらないペーパーワークと会議に追われているところへさらに研修。やる気はひょっとすると無限かもしれないが時間は有限ですよ。

つまりお仕着せ研修は「勉強しなさい」と言われなければなにもしないボンクラ学生ならぬボンクラ先生にとってのみ”有益”ということになるのではないか(そんなひとがどれほどたくさんおられるのか私は知らない)。もしそうだとすれば、今の教育における大きな問題の一つは、そのような、強いられなければ己れを磨こうとしない人物が教壇の上から生徒に向かって「君たち、勉強しないか!!」と、自分を棚上げして能書きを垂れているところにあるということになろう。なぜそれが問題なのかといえば、そのような先生を日頃目前にしている生徒たちが勉学に対する意欲をかきたてられることはまずないであろうからだ。ちなみにその論拠はここにある。すなわち私自身(笑)。

つまりはこの研修、能書きはご立派だけど中身はちょっとどうかね、ということをふと思ったのでありました。10年に一度30時間ぽっちの研修で先生ヅラしてられんのなら悪いことじゃないのかもしれんが。
しかし教員の質向上をうたう文科省はどうして教員の雇用流動化を進めないのであろうか。自己研鑚の能力すらない教員なんか解雇して新しいのを入れたら良かろうに。それもだめならまた雇用。その循環が水を澄んだものにするだろう。澱んだ水は腐るのだ。公務員教師の雇用流動化策の方がちっぽけな研修よりよほど効果的だと思うのだが、
しかしこれは実現しまい。というのも文科省の役人も公務員だから。同病相憐れむ。

ノリ弁かシャケ弁か、それが問題だ

  • 2007年09月08日 (土)
  • キーワードタグ: 教育

 何とか審議会でまたぞろツマラン議論をやってるらしい。

そんなものはツマランに決まってはいるのでここで私がボヤいたところで始まらんわけだが・・。それでも(わたし的には)なかなか拡がりのありそうな(話が暴走しそうな)ネタなので一席。

で、なんでも中教審だか臨教審だかで「世界史と日本史、どっちを必修にする?」という議題があるらしい。つい先日どっかのニュースサイトで見た(gooだったか?)。そりゃこんな論題なら迷走して当然だわ。

「今度の会議の昼食はのり弁にする?それともシャケ弁にする?」と大差なし。「どっちにする?」
そもそも「議論」の余地なし。

「シャケ弁は塩分過多だ!」
「のり弁じゃ腹がくちくならん」
「今の子供は魚の皮は食えないんだよ」
「海草類は健康にいいのだ」

延々続くわな、こんな  ぎ・ろ・ん。

結局は全部後付けの理屈くっつけるだけの「議論」になるじゃろ。

「日本人ならまずは自国の歴史を知るべきだ」
「国際感覚が不可欠の時代なんだからさ」

(以下略)

いい齢した、しかもそれなりに地位も名声も得たオヤジどもが面つきあわせてアホなことやってるわけだ。それほどに暇なのか?彼らは??

いや、もちろん議論の詳細は知らない。

しかしね、「受験に関係ない科目は生徒がついてこないから」なんてハナシが出てるような会議がまともなはずはないべ。

日本史なのか世界史なのかよく知らないが、受験に関係のない科目を必修化すべきでないとのことらしい。生徒や保護者から苦情がくるのだそうで。

そうかいそうかい。
それほどまでに苦情が怖いのか?
なら大学受験しない子供やその親が、「そもそもおれは受験に関係ない(大学受験しない)から全科目勉強しない」と言えば通るのか?そんなはずはあるまいよ。

なら、なにかい?
大学を受験予定の生徒には受験に備えて便宜を図ってやって「受験していただく」方向でコトを進める一方で、受験しない生徒には彼らがやりたくもない科目を「つべこべいわずにやれ」ってわけか?

これ、おかしい。

俺の話自体もおかしいが、「お受験していただく」ってのもこりゃおかしいぜ。
この委員、いま高校生の子供でもいるのか?

シャケ弁かのり弁かなんて議論やってる暇があるんなら、「そもそも受験に関係のない科目に意欲をもてない生徒をどう指導すべきか」あるいは「受験に関係ない科目は全部やめましょ」とか「大学受験組とそれ以外の組は学校分けちゃいましょ」ってな議論でもどうぞ。それがなんちゃら審議会の仕事ではなかったのか。

いつのまに審議会が生徒・保護者の希望代弁会になったのやら。選挙対策か?

国家百年の大計とは、はたしてのり弁かシャケ弁かを議論することなのであらうか。甚だしく疑問におもふよ、わたくし。

なぜ今の日本においてはこのような「のり弁かシャケ弁か」と大差ないことさも大層な論題であるかのようにしかつめらしく議論するのだろうか。どうして「そもそも会議に弁当出す?それとも各自持参?という議論はなされないのだろうか。あるいは「あの会議やる?それとももう惰性になっちゃってるから会議そのもの廃止する?」という発意は生じないのか。

のり弁かシャケ弁か選びたいならそれはそれで結構だろうが、いい大人がそんなことで貴重な時間を浪費していられるほど日本は長閑だったのかね・・・。

そういえばこの件に関して昨年どこかの新聞論説で阿呆なことを書いていた。

世界史は暗記項目が多く、範囲が広くて大変だ。日本史ならそんなことないし日本史にすべきじゃーん、必修科目未履修問題の元凶は世界史にあり、てな論旨であったかに記憶する。余談ながらこの記事を見た時、わたしは新聞というメディアの末路をありありと想像できた。お先真っ暗。先の望みなし。ってかもう終わってる。

インターネット上にプロ・アマ問わず質の高い評論が溢れ、世界中のどこにいようとそれを読むことが出来る今、中学生の作文と見まごう新聞論説なぞまさしく「ゴミ」以外の何者でもない。事実上今の新聞論説が「誰も読まない、欲しないオマケ」に過ぎないとしても、「ま、タダだしね」で読んでいた者ですら「・・・・」と思わざるを得なかった(何を?)。言ってみれば刺身のツマどころか刺身パックに入ってるビニール製の笹の葉(あれ何てんだっけ?)。誰も食わない、そもそも食えない。役立たずの添え物。

余談はともかくとして、

乞ういずこかの具眼の士よ、この件、天にかわって理路整然と説破して下されんことを。

なんだか、なんちゃら委員よりも現役高校生の方がよほどまともな議論をしてくれそうな気がしてきたな。

関連エントリ:「今日は暴言」

「悪い方向に」教育がトップ??

  • 2007年04月08日 (日)

醜い自分の姿なぞ誰も見たくないし見ようとしない。もちろんこれはわたし自身にもあてはまるだろう。

「社会意識調査 『悪い方向に』教育がトップ 内閣府発表」(4/1)(yahoo news毎日)[キャッシュ]

「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップ・・・

悪い方向に向かっているとしてこのほかに「治安」「雇用・労働条件」「医療・福祉」「地域格差」などが挙がっている。

う~む
社会意識調査。ここでいう「社会」とは何を指しているのであろうか。てか、政治は? 教育よりもはるかに悪い方向に向かいつつあるのが今の日本の「政治」だと私は思うのだけど。むしろ政治が教育を悪い方向に向けているという側面がある。もっとも教育崩壊の要因は政治以外のものもあると思われるが、日本で暮らす者のひとりとしては、教育問題が最も喫緊の課題だとは思えぬ。

確かに未来のことを考えれば教育こそが最も重要な課題だと私も思う。それはあらかじめ言明しておく。ただ、今の日本で最も憂慮すべき点は、政治家(しかも偏見の塊のような一部政治家)や企業家(実績のある、つまりは金もうけの上手い一部企業家)らがよってたかって「あーじゃこーじゃ」いって教育を”集団レイプ”しているような状況にあるということではないかと思われる。

べつに「あーじゃこーじゃ」と議論するのが集団レイプだというのではない。教育の当事者である現場の教員たちの声がまったく聞こえてこない状況のなかで部外者(なんなら外部の有識者と言いかえてもかまわないが)たちだけがひたすら現状に難癖を付け、金は出さずに「リンリ・リンリ」と鈴虫のように鳴いている。当の本人をまるで無視してよってたかって衣服をはぎ取り諸悪の根源として晒し者につつ、「こうなったらもうおまえはおれに従わねばならんのじゃ」(未履修問題等)、「(教員)辞めさせられたくなかったらおとなしく言うことをきけ!」(教員免許法改正等)などともう無茶苦茶にされている。

そしてそのような緊急事態にもかかわらず周囲の人びとは誰もそれを助けようともせず、それどころかただ教師の職にあるというだけでもう「そーだそーだこのアバズレめ。世間知らずの箱入り娘がよくもいままでお高くとまりやがってよ~、ふざけんじゃねえ」と付和雷同。あな怖ろし。

もしほんとうに日本社会が悪い方向に向かっているとするならば、それは単に教育だとか労働条件だとか(あるいは政治だとか)いう単体の問題というよりむしろ、誰もが他人を責め立てるばかりで何ら支援しようとせず、(われ関せずとばかり)誰ひとり窮地に置かれた人を助け出そうとしない万人の万人に対する闘争状態、そんなバトルロワイヤル的な状況こそがもっとも由々しき問題だと私には見えている。


”社会”意識調査なんだし「社会」と「政治」はべつものじゃないか!?
そう、確かに政治は「おカミ」のなさることであって下々の者ども、無知蒙昧の民とはまったく別世界のものだとおっしゃるのならばこの意識調査に政治のセの字も見当たらないことも納得できるといえないことはない。

今後は、そんな日本に住み続けたいと思えなくなってしまった能力のある若い人たちがさっさと日本を脱出してしまうだろう(私ですらそうしたくなる)。そうなれば「歴史と伝統」なぞ便所紙くらいの扱いしか受けられなくなるぜ。教育というものが将来への期待と畏れを含むものとしてでなく単なる過去への追憶、懐かしきわがニッポンを取り戻さんとして語られている限りは、何の期待も持てないし持つまいと思う。

ところで歴史認識問題にせよ教育問題にせよどういうわけか歴史家(研究者)や教師の声(現場の声)があまり聞こえ(見えて)てこないのはどういうわけだろう?
たんに私が知らないというだけならそれはそれで安心できるのだけど。
もし彼らが小さな声すら上げられないほど仕事に忙殺されておられるようなら、なおのこと今後の教育に期待はしないほうがよさそうだ。残念ながら。
口ばかりで金は出さない教育改革関係者の諸君にひとこと。
「なにごとも要はカネだよ」
いまこそこのありふれたあなたの(日頃の)言葉を実行に移したまへ。

from 貧乏人より

田村哲と教育論

  • 2007年02月12日 (月)

先日のエントリで、古森義久の『嵐に書く』に描かれた河上清について私の思うところを書いたところ、以前何度かコメントを頂戴したことのある Dr.Waterman(勝手ながらドクトルと呼ばせていただいているが)より一つのご教示を頂きました。

私が以前書いたエントリでは触れなかったのですが、『嵐に書く』の中には河上清の友人田村哲についての記述があります。同書によれば田村哲は河上とは青山学院の同窓で、河上より早い時期に渡米、アイオワ大学で地球物理学を学んで将来を嘱望されその後アメリカで気象庁に勤めたのち日本に帰国、海軍大学などで教鞭をとった人物で、河上の渡米実現はこの田村哲との縁や後藤新平からの援助に与っていたとされています。

河上と後藤新平の縁を知った私はそのとき、後藤との縁が深かったもう一人の名前を思いうかべたことでした。そのもう一人の人物とは、みなさんご存じあの「気まぐれロボット」の作者星新一のそのまた父親である星一(ホシ ハジメ)。アメリカで苦学して帰国、星製薬を創業して戦前までは「クスリのホシ」として名高い一大企業を築いた人物(彼については星新一『明治・父・アメリカ』『人民は弱し 官吏は強し』に詳しい)

だいぶ以前に私も読んだことのある『明治・父・アメリカ』のなかに、星一(以下、星)がアメリカで “Japan and America” という雑誌を発行したと記されていたことを微かに記憶にとどめていたのですが、今回、その”Japan and America” に田村哲の教育論が掲載されたことがある旨 Waterman博士からご教示いただいきました。星~後藤~河上~田村らの人的ネットワークというのか人の縁というのか、なんだかそんなものを感じることしきりでした。

官吏であった後藤、田村。他方、在野にあって独立独歩の星、河上。それぞれ立場は異なれど、彼らはみなある種の共通点をもっているように私には思われます。それは「じぶんのつるべで思想の水をくむ」人であったこと。この「じぶんのつるべで・・・」というのは後藤の孫鶴見俊輔の言葉です(もっともこの「つるべ」の喩えはもともと哲学者アランからきているとのことですが)。星、後藤、河上、田村、鶴見。私には、彼らにそうした共通項があるように思われてなりません。そして今、現代に生きるわれわれ日本人に欠けているものを見つけたような気がしています。

1903年、すなわち日露戦争開戦直前にJapan and Americaに掲載された田村の論文 ”A Plea for Academic Freedom in Japan”に次のような一文があるそうです。

今こそ学問の自由を重んぜよ。そうすれば、それが、我らが未来の偉大な国民を涵養することになる。この真理の重大なることを十全に理解するためには、我ら学界に在るものが、今日、官吏による干渉と財界による横柄とに辛苦していることを認識するにしくはなかろう。

今からおよそ百年前に書かれた田村の論文は、日本とアメリカの高等教育について論じられているそうですが(私自身は未見)、すでにそれから一世紀を経た今日、日本の教育は”進歩”したのだろうか。

「歴史と伝統を重んじる態度を養う」のは結構なことだと私でも思う。しかし、重んじられるべき歴史と伝統とやらの具体像はいったいどこにあるのだろうか。もし、さきの田村の言が当時の日本の教育事情、学会事情を踏まえたものであるとするならば、まさに今の日本は「歴史と伝統に忠実」であろうとしているようだ。

産業界の強い要請を大義名分とした実学志向の高等教育。必要な研究費は自前でなんとかしろといわんばかりの独立採算制。その根底にあるのは経済的合理性こそがすべてにさきだつという「思想」だろうと私は思っている(学術文芸を支えるだけの財源がないという側面もあろうが)。そしてそれらを、官吏による干渉・財界の横柄ととらえてもそれほど不当ではなかろう。

文科省や財界の言うところにも一片の理はあろう。たしかに先立つものがなくては研究も教育も不可能だろう。自分で辞書すらひいたことのない受け身一辺倒の学生が大量生産されては産業界も困るだろう。私自身もそれを認めるにやぶさかではない。

しかし文部官僚や産業界の居丈高な物言いを見聞する限り、どうも彼らは学術研究や教育の価値をきわめて過小に評価した上でその非効率性を罵倒しているように思える。対価の得られない研究などやめちまえ、教育制度という”生産ライン”を構築しさえすればそれに応じた人間が完成する(出来た製品がつまらないなら生産ラインを再構築・変更すればよい)のだ、と。

むろん非効率なありかたは改善されるべきだろう。正論である。しかし、はたして”短期的な効率性”の追求がそのじつ”長期的な非効率性”をもたらさないと言い切れるだろうか。単位投資額あたりの収益、単位時間当たりの成績を重視するのはけっこうだけれど、その「単位」(の選択)はあくまでも任意のものにすぎないことを忘れていやしないか。短く設定するのも可、長く設定するのも可。物差しの長さ(短さ)にはとりたてて意味はない。ミクロンメーターを使って自分の身長を測定しようとする愚か者にはなるべきでなかろう。あの、数々の画期的な発明をなしたエジソンはどれほどの時間と費用をドブに捨てただろうか。人生のある時期、ある期間にに人並みの成果すらあげ得なかった(=小学校での成績不振)エジソンはまさに”無駄な人間”だったのではないだろうか。

日本とアメリカの高等教育の違いを身をもって経験したであろう田村哲。日米どちらの高等教育が優れているのか、それは私などには分かるはずもない。しかしすべての教育を日本で授かった私にも一つだけわかることがある。それは日本の教育は「じぶんのつるべで水を汲む」「エサの取り方を学ぶ」かたちのものではないということだ。言うまでもないことだが、誰れに教えられずとも自然な形で「じぶんのつるべ」を実践している人もいるだろうとは私も思う。あちこちのブログをのぞくだけでもそれは実感できる(すべてのブログがそうだとは言わないけれど)。思った以上にたくさんの人びとが、自分自身の井戸から自分のつるべでくみ出した思想の水を、惜しげもなくわれわれに差し出しておられる。面識があるわけでもなく、対価を支払ったわけでもないにもかかわらず、だ。

しかしながらまた一方で、どう贔屓目にみての空疎にしか見えないことばが世に溢れているのもまた事実であろう。「歴史と伝統の重視」という言葉はそれだけではいかにも空疎だ。スローガンはスローガンでしかない。それで腹は満たされない。

かつて「ゆとり教育」なるスローガンがあった。そして今、ゆとり教育は教育の荒廃をもたらした主犯として貶められている。もっとも、私には「ゆとり教育」と「規律重視の教育」のどちらが正しいのかわかりはしない。わかるのはどちらも正しくどちらも間違いだろうということだけだ。

ゆとり教育をやれと言われればそっちへ靡き、いやそれは誤りだといわれれば反対方向へ靡く。いつまでそんな「効率の悪い」ことを続けるつもりなのか。もうそろそろその「あれかこれか」「正解はどっち?」「正解がたった一つだけ存在する」というところから卒業してもいいのではないだろうか。だれにも批判されないですむような「正解」を探し続ける子供じみた大人がいったいなにを子供に教えようとするのか、なにを子供に教えうるのか私には解らない。

「じぶんのつるべで水を汲む人間を育てる」という大目標(そのような人間を果たして「育て」られるものかどうかという疑問もあるが・・・)を見据えた上で、敢えて周囲から批判を浴びることを覚悟しつつ「じぶんのつるべで教育方法を探し出」そうとする、そういう大人が今の日本にいないわけではないだろうとわたしは思っている。ただ、そういう人が活躍できるフィールドが今の日本には少ないのだろう。

昨今の”凛とした”政治家の方々に私は「自分のつるべ」で水を汲む姿勢を見ないでもない(錯覚かもしれないが)。ただ、政治家であれ誰であれ、「あなたの汲みだした『水』を飲むか否かは相手次第だよ」ということを忘れないでいて欲しいと思う。且つ、私自身、自らにその水を飲むか否かの選択権があるのだということを忘れないでいたいと思う。

上記田村の論文には次のように記されている。

統制された教育からは、独創的な研究も真の愛国心を持った国民も育たない

なんだか当初書こうとした内容から逸れたのが不本意だけれどひとまずこれにて。末筆ながら、田村の論文についてご教示下さったDr.Watermanのご厚意に感謝申し上げます。

教育再生会議の素案と緊急提言

  • 2006年12月03日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

教育再生会議の中間報告素案といじめに関する緊急提言とやらの新聞記事を2、3読みましたが、「ゴチャゴチャやってらっしゃるのね」という感想しか出てこなかった私は”意識が低い”のかもしれません。

教育再生会議第1次報告の骨格(西日本新聞)
・ 優良教員の給与、昇進などでの優遇と、不適格教員の排除を狙った教員免許更新制の導入
・ 児童・生徒の基礎学力を向上させるため授業時間数を増やすなど「ゆとり教育」の見直し
・ 国の責任明確化と、教育行政の地方自治体への分権化促進

などが挙がっているのだそうです。

これに加えて

いじめや学力不足などの問題に対応するため教員の資質向上が必要だとして、多様な分野で高い専門性を持つ民間の社会人や博士課程修了者を数値目標を設定して一定割合、教員に登用

というのもあるのだそうですが、大いに疑問を感じます。

教員の資質向上と民間人や博士の登用促進は一体どのように結びつくのでしょうか。穿った見方をすれば、現職の教員は能力不足で使えない「お役人」だから、民間人や博士課程修了者といった有能な人びとを積極的に登用するよ、と言っているようにも聞こえます。

しばらく前に文科省がさかんに「教員の資質及び専門性の向上」を唱えていたと記憶しますが、文科省は方針転換したのでしょうか。

「教員の資質向上」とは”使えない現職教員”を排除して、市場原理を身にまとった民間人様や博士様をして学校現場に活を入れていただくということ?。素人を登用しなければならないほど現職の教員たちは無能力だと?。

もちろん、民間企業の経験者や博士課程修了者がその経験を生かすべく教職に就くのは歓迎すべきことだと思いますが、数値目標を設定して半ば強制的に登用させることには大いに疑問を感じます。それは「民間人」「博士」なら教師としての能力も高かろうと考えているようにしか思えません。

むしろ教育の再生に今もっとも必要なのはまずなによりも現職教員が能力を発揮できる環境を作り直すことなのではないでしょうか。

「新しい血」を入れ、「異物」を排除するのが教育再生会議の既定路線なのでしょうね、おそらく。

緊急提言も読んでみましたが「ふーん」でおしまい。通達や提言を一本出したからといって改善できるほど皮相な問題ではなかろうし、むしろ「通達通り提言通りにやってますよ」というエクスキューズを与えるだけかもしれないなというのが私の感想です。

教育再生会議 いじめ緊急提言全文(中国新聞)

学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
-学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を
-徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す

学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然(きぜん)とした対応を取る。例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保するため校内で全教員が一致した対応をとる

果たして今の学校には生徒が声を上げる場所がないのだろうか。訴える”場所”がないのではなく訴える”相手”がいないのではないかと私は思う。なんだかハコモノ行政と通じるお役所的体質を感じるばかり。

そしていじめた側の生徒を他の生徒と「隔離」して指導(?)するというのもまた「いじめ問題」の解決に効果があるとは全く思えない(刑務所並みに24時間外界と隔離するというなら話は別だが)。社会奉仕も同様。教育現場の先生方のお考えを伺いたいところではあるが。

教師による懲戒権ははるか以前から認められているのに、それがなぜ実効的に機能していないかを考える必要があるはずだ。
結論を言えば、教師による懲戒が世間や保護者(そしてマスコミ)からの批判にさらされることを怖れて学校側が腰の引けた対応しかできないところに大きな問題があると私は思う。

もっとも、余所からの批判を覚悟の上で自らの責任において懲戒権を行使することが教師には求められる、とも言えようが、いざ実行するとなるとかなりの覚悟が必要になるでしょうね。今のような「他罰的な」時勢であれば。

誰もが承知の如く、決してルールや指針を定めるだけでは解決しないでしょう。
「人を殺した者は死刑又は懲役」というルールさえあれば世の中から殺人がなくなる、というわけではないようにね(もちろんルールは必要ですが)。

実際のところ隔離指導については再生会議でも議論があったとのこと。(12/3付佐賀新聞論説記事

モラルってなんだろう

  • 2006年12月02日 (土)

今、ヘルマン・ハインペルの『人間とその現在』という本を読んでいます。
その中に「ルターは市民と違ってモラリストではなかったのである」という一文があって、ふと「モラル」について考え初めました。

道徳・倫理・モラル(moral)・モラール(morale)・・・。
昨今様々な形(言葉)で復権が叫ばれているこれらの本質は一体何処にあるのか、考えてしまいます。

辞典をひくと次のようにあります。

モラル:
道徳。倫理。人生・社会に対する精神的態度。

倫理:
人として守るべき道。道徳。モラル。

道徳:
ある社会で、人びとがそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

以上『大辞林』三省堂より引用

それぞれの言葉の意味は分かったような気になれないこともないのですが、今ひとつピンと来ないです。

「善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範」などといわれても、「じゃ、何が正しいのか」となると人それぞれで千差万別かもしれないし。
「個々人の内面的原理として働くもの」といっても、その内面的原理はどのように獲得されるのか、如何にして教育しうるのかとなるとまたまた疑問が溢れてきます。とくに「外的強制力としてではなく」働くものとしての道徳=内面規範を、公教育という「外的強制力」を以て育成しようとすることには些か疑問を感じなくもないです(にもかかわらず公教育はこれからドンドン法的規制が強化されていくだろうしね)。

明確には語り得ない”モラル”を、公教育において教えることは如何なる条件の下に許されるのか・・・(いかな文科省とはいえ、まさか国旗国歌に象徴される”国家への敬意”こそが「モラル」だとは言わないと思いたいですが)。

ひとりの市民として自分や子どもに”モラル”教育を施す権能を公教育すなわち「国家」に委任することは極めて危険な所業にも思えます。かといって「じゃ、それぞれ自己責任でよろしくね」ともいかないようだし(過去の経緯からするとね)。

なんだか訳が分からなくなってきましたのでそろそろとりまとめますと、

・公権力が法に基づいて「ああせい、こうせい」言うのはご勘弁願いたい。
・モラル育成が必要だと言うのであれば、それは「ああせい、こうせい」「こう考えろ、ああ考えるべし」という教育ではなく、”自らが範を示す”形で行って欲しい。

こんなところでしょうか。

師たるに相応しい教師たちの振舞いに接した子供達が自発的に自らの行いを正すような教育。親たるに相応しい愛情と厳しさを持った大人の振舞いに子どもが感応していく、そのような訓育。

なによりもまず自分自身が行動する。
それが必要なんだろうね。

だからもし私がここで

「『教育が問題だ!!』なんて行ってる政治家諸君。たたけばホコリのでないはずのない君たちに教育を語る資格なぞ無いよ」

などと言ってしまうと自己撞着になるので言わないことにします(あ、言ってしまった。ので今後は言わないことにします)。
※こんなこともありますが・・・。学級崩壊ならぬ「国会崩壊」?

はてなブックマークで「モラリスト」を検索したところ次のような結果でした。そのうちの一部を抜粋すると

・道徳的関心を持つが、自らの道徳規範で人間の善悪を裁断する「道徳家」ではない。
・自己の生きられた体験を重視する。
・社会改革を意図する「革命家」ではない。
・個人の内面的な改善を重視する。

この伝でいくと今の日本で「道徳」「倫理」「モラル」などを声高に言い立てている人の多くは、我が身を振り返るという型のモラリスト的思考よりもむしろ、他人の非を言い立てて断罪する型の「道徳家」的思考に傾いているのではないかと思わなくもありません。

同じ伝で、内田樹は”現代のモラリスト”とお呼びしてもさしつかえない気がするのですが・・・。

このへんで。

未履修問題の責任と処分

  • 2006年11月27日 (月)
  • キーワードタグ: 教育

高校における必修科目履修逃れ問題に関してボツボツと各校長に対する処分がなされつつあるようですね。

島根県(山陰中央日報記事

「責任を問うべきかどうかは、処分を検討するかどうかも含めて時間をかけて考えたい」と述べ、現時点では念頭にないことを明らかにした

佐賀県(北海道新聞記事)(佐賀新聞記事

学校長の処分は、懲戒戒告が7人、文書訓告が10人

吉野教育長は・・・「今回のような事態が起きていることを指摘する声があがらないことにこそ問題がある」と指摘

島根は時間をかけて他県の様子も眺めつつ・・・といったところでしょうか。

佐賀の方は、公務員の世界で文書戒告や訓告がどの程度重い(軽い?)処分なのか私は知りませんがどうなんでしょうね・・・。

どうも私の予想は見事に外れそうな予感がします。たしか佐賀では未履修問題が大々的にニュースになって後にも調査すらせずに(?)「問題なし」などと虚偽の報告をしていた高校も複数あったとの報道もありましたから、その佐賀ですらこの程度の処分ということは他は推して知るべしという気がします(ま、まだ”自発的な退職”という道は残されているんでしょうが・・・辞めないよね、「普通は」・・・。)

いずれにせよこの問題そのものもあれなんですが、今後の生徒指導に差し支えなどないのでしょうか。ま、校長なぞ直接生徒と顔を合わせる機会もなさそうですし、たいして影響はないのでしょう、たぶんね。

以下追記

紀伊民報「高校長の屁理屈」

奥村弁護士の見解 「必修逃れ」の刑事責任
佐賀県教委に文科相が苦言(西日本新聞)

コミュニケーションと「聴くこと」

  • 2006年11月11日 (土)

2005年4月8日付 「内田樹の研究室」より 

コミュニケーションの基本はまず「聴くこと」である。
君たちの耳にはとりあえず「ノイズ」にしかきこえないシグナルを「メッセージ」として読み解くこと、それがコミュニケーションの基礎である。

ノイズをメッセージに繰り上げるためには、聴く君たちの「理解のスキーム」のどこかに「外部へひらくドアをあける」ことが必要だ。
それは「理解できないことばに耳を傾ける」という構えによって示される。

他者から到来する「理解できないノイズ」に敬意をもって耳を傾ける習慣をもつことができる人間だけが、自分の中からわき上がる「理解できないノイズ」に敬意をもって接することができる。

自分の中からわきあがる「理解できないノイズ」をメッセージのかたちに組み立てる能力、それがそのまま「表現する力」に結実する。

敬語とコミュニケーション

  • 2006年11月11日 (土)
  • キーワードタグ: 教育

文化庁の「敬語の指針(報告案)」(pdf)とやらがまとまったようです。

いちおう斜め読みしてみましたが、典型的なお役所文を読み通すだけの忍耐力は私にはないことを再確認しました・・・。

が、その中で「敬語の使用は,飽くまでも『自己表現』であるべき」

という一文が目に留まりました。要は「こういうシチュエーションでは敬語を使え」などと強制するようなことはしない、らしきことを言っているようです。

ん~ 如何にもお役所的。
毒にも薬にもならぬお言葉。

でもまあこうして”敬語とは何か、どうあるべきか”を考えることは決して無駄ではなかろうとは思います。しかし、「敬語を正しく使おう!」と唱えても、それだけでは動機づけとしては弱いのかな。

「べっつにいいじゃんよ~」
「意味通じるんだしさ~」
で終わるかも。適切な動機づけというのはなかなか難しそうです。以下、敬語とコミュニケーションに関して内田樹のブログから。

学生にスピーチをさせると、いちばん印象的なのは「敬語」が使えないということだそうである。
パブリックスピーチの場合は、英語でするときも冒頭には「本日はこのような場で意見を発表する機会を与えて頂きましてありがとうございます。しばらくお耳を拝借して、私見の一端を述べさせて頂きます」というような定型的な挨拶をする。当然のことである。
だが、K先生のスピーチクラスで去年一年間、スピーチの冒頭で「挨拶」をした学生は一人もいなかったそうである。
would could should といった助動詞を使った「あいまいな表現」ももちろんできない。
「英語というのはきっぱりと言いたいことを言い切る言語である」ということをおそらく幼児期から教え込まれていて、「英語話者も人間である」ということを教え忘れたことの結果なのであろう。
  (中略)
言いたいことをきっぱり言ったせいでことが紛糾するということがあるし、あいまいにぼかしたせいで、話が前に進むということもある。
問題はコミュニケーションに投じる資源のコストパフォーマンスである。
「敬語」はコミュニケーションのコストパフォーマンスを飛躍的に向上させる利器である。
だが、そのことを学校の英語教育では教えない。
言いたいことをきっぱり言い切らないことによって、してほしいことをしてもらう。
そんなことは大人の世界では当たり前のことだが、教育プログラムとしてこれを具体化するとなると、ほとんど不可能なのである。

2005年1月7日付 「内田樹の研究室」より

指針のように敬語を”自己表現”と捉える限り、それを使う使わないは当人の意思一つにかかってくるわけですから、「おれはそんなの使う必要認めねーよ」という人間には敬語を使えとはいえないわけだ・・・。
それだと現状から大して変わらないような気もします。
その点、敬語を一種のツールと捉える方が敬語使用の動機づけとしては適切なのかもしれません。

「敬語とは『相互尊重』の気持を表すものであるべきで、そのように利己的な目的をもって使うものではない」という考え方もあるでしょうが。

「そんなの俺しらねー」

という者を土俵に引き込むことこそ教育の真骨頂だとすれば”ニンジンで誘う”手もアリでしょうね。

外国語にせよ敬語にせよ根っこにあるのは人とのコミュニケーション、相手とのコミュニケーション。敬語も勿論大切でしょうけれど、そもそもコミュニケーションとは何ぞやという視点もおさえる必要があるのかもしれません。

今日はいつも以上に何を言いたいのかまるで分からない文章になりました。
原因はただ一つ。
本当に書き残しておきたかったのは次のことだけなのです。それだけ書いとくとなんだか単なる剽窃のようでイヤだったのでクドクド書きました。

コミュニケーションというのは、語り手が「言いたいことを言う」ためのものではない。
メッセージを送った聴き手に「何かのリアクションを起こさせる」ためのものである。

怒りの真相 ~未履修問題論説記事

  • 2006年11月08日 (水)

必修科目の履修逃れ問題もそろそろ旬を過ぎてきたようで・・・。

先日私もこの件に関する佐賀新聞の論説記事に怒りを感じたことを記事にしました。
数日経って読み返してみましたが、別段言いたいことに変化はありません(まっ、当の論説委員がこんな記事を読むこともないでしょうし)。
ただ、念のため私があの記事で言わんとしたことを書き残しておきます。

あの問題の犯人が誰なのか(責任の所在はどこか)、今後どうするべきかについては私個人としてはとりたてて意見もありません(今後の動向には注意を払うつもりですけれど)。日本史が必修になろうと世界史が必修になろうとそれ自体もまた私の興味の外です。もう私には直接関係ないし。(でもまあ強いて言えば世界史、かなぁ)

記事を書いたときからずっと私が考えているのは、議論のあり方そのものにあります。

ポッと出て来た問題がワッと大きくなって、そいでもって一部のイケイケドンドンおぼっちゃま政治家たちの言動にマスコミの報道洪水が相まって、

「あらら、いつのまにかこんなとこにきちゃったね~、まっ、いいよね!?」

なんてことになりはしないかいうことを危惧するのです。

今回の問題でなかば政治的に解決が図られた結果、こと教育問題に関して今後教育現場(学校であれ教育委員会であれ)の発言力は小さくならざるを得ないと思われます。

考えてみれば、この件に限らず福岡のいじめ問題でも教育現場の人間はメッタヤタラに叩かれています(もちろん、それだけのことをしでかしたわけですが)。安倍内閣成立ののち露見した教育現場の末期的状況は、「もう現場にまかせておれない」とばかりに政治家たちが介入してくる恰好の口実になるでしょう。

教育基本法の改正はほぼ既定路線、日本史必修化もすでに十分視界に入っているでしょう。そして教育委員会制度の改変(中央集権強化?)・・・。

そうした見通しは一連の出来事を眺めていれば、とくに考えるまでもなく誰にでも見えていると思います。とりわけ報道人には。だってプロですもん。

であるにもかかわらず、佐賀の論説委員はいともあっさりと(私にはそう見えた)日本史讃美、世界史貶して、挙句現状にそぐわないルールは見直せなど軽口をたたく(私にはそうとしか見えない)。

ましてや、もう古いから、実情にそぐわないからという口実で国の根本法規である憲法までがいとも軽々しく改正されようとする状況であるにもかかわらず。それとも各マスコミには内閣府からこの問題に関する具体的な報道マニュアルでも送付されていたのだろうか。

「棒読みにならないようにね」「いかにも自説のように書いてね」

あるブログで靖国参拝問題への政治家の関わり方に関して次のように書いてあった。

「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」記事「信念でもなく、国益でもない何か 」より。

政治家は潮目を読んだつもりで行動して(行動することで)、自らひとつの潮目に加担し、それを後押ししているということに自覚的であるべきだということである。

私があの記事で言いたかったことはこの一点に要約できる。

マスコミはニュースを選択し報道するという行為を通じて当事者となる。
そして世論に対するその影響力は極めて大きい。というよりも世論そのものを形成するだけの力を持っている。

起こった出来事を的確に要約して迅速に伝えてハイおしまいですますことはもうできない。上の言葉をもじって言えば

マスコミは潮目を読んだつもりで行動して(行動することで)、自らひとつの潮目に加担し、それを後押ししているということに自覚的であるべきだということである。

なんてこんなこと購読料を払ってもいない非定期購読者が言ってもナンですね。申し訳ない。

でも、本当にマスコミには自らの影響力の大きさに自覚的であって欲しいとは強く思います。

こども=チンピラ説 

  • 2006年11月06日 (月)
  • キーワードタグ: 教育

規範・節度・倫理観・・・。

麗しい言葉だと思います。
厭味や皮肉でなく、私はこういうの好きなんです。

た・だ・し
それを他人から強制されるのは大嫌い。
逆にそれを他人に強制するのも大嫌い。
基本的には。(例外あり。信頼する師匠・友人等々の忠告は有難く拝受する)

自分自身は節度を持った人間でありたい。そのために自分自身に義務や忍耐を課すことにやぶさかでない。
しかしながら、他人から「それはあんたの義務でしょ」「あんたのせいでしょ」と言われたならば、必ずしも心穏やかでおれるほど出来た人間では(まだまだ)ない。
と同時に、自分が大した人間だとは思わないので、他人様に「あ~だこ~だ」言うようなことは可能な限り避けたい。言わない。

相手が(呆れて)反論して来ないのをよいことに調子づくような「おめでたい」人間にはなりたくないしお近づきにもなりたくないけれど、なかなかそうもいかないことはある。悲しいことに。

ここ数年、しきりに目につくようになってきた。
「恐るべき子ども」が世間的に認知されてしまったのか?と思わざるを得ないような出来事が頻繁に目につく。

内田樹のブログでまたもや発見。

子どもは「ペナルティがある」と思う行動は慎重に回避し、「エクスキュースが効く」と思う行動は図に乗ってやる。

「親が悪い」「社会が悪い」「学校が悪い」という他罰的な説明に対して、にこやかに耳を傾けてくれて、その告発の理路を支持するような言動をする人間が一定数いれば、子どもは必ずこのチープでシンプルな「物語」にとびつく。

2003年11月19日付

世間の出来事を見渡せば、ここでいわれる「子ども」をいろんな言葉に読みかえることが出来るように思う。

”子ども”も”大人”も関係ない。

「正義漢を気取って張り切っているその勇ましい言動で、その実ちっとも前向きなところがなくて他人の揚げ足取りに終始するチンピラ君たちを調子づかせるようなことばかりやってるのが今の○○○○じゃないのか!?」と思うこともある今日この頃・・・。

いや、べつにいいんですよ。それがオシゴト(ドウラク)なのでしょうから。
ただ、私もまだまだこの世に未練があるものですから、時々愚痴りたくなるだけです。どうぞお気になさらず・・・。

しかし、どちらがより罪が重いのか・・・。
チープでシンプルな物語にとびつく子どもの方か?
それともチープ&シンプルな物語を作ったり支持したりする大人の方か?

・・・・・・・

そりゃま、やっぱりどちらかといえば大人でしょうかね。やはり。

いっけん物わかりのよさそうな”大人”が一番信用できないことを子どもはよく知っており、また、それを知りつつ利用するのが”子ども”でしょう。

自分自身が正義の味方であると信じて疑わない人間ほど始末に負えないものはない(もちろん真の正義の味方なら大歓迎ですが)。そう云う意味でもやはり”大人”の方が罪が深い、かな。

嗚呼

なんだかチンピラの影が薄かったような・・・
ま、「まっとうに話が通じない」が「悪知恵だけ働いて」「すぐ調子づく」子どものような大人ということで。

馬鹿につける薬はなし

なにはともあれ前向きに日々を楽しむしかないか。

愚痴になってしまったなぁ・・・

今日は暴言 ~ある論説記事への怒り

  • 2006年10月29日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

今朝、ネットで必修科目未履修問題について眺めて回っていたところ、怒髪天を衝くような論説記事を目にしてこの記事を書くことにしました。

当の論説記事とは、佐賀新聞の

「必修科目の未履修 根本的なひずみ正せ」(園田寛)

佐賀新聞の論説記事は時々目を通しています。いつもはわりと納得できる記事が多いのですが、この記事に限っては呆れ果てました・・・。

根本的なひずみを正せ、という点では同感。しかし、何が根本的な歪みなのかという点では私の意見は異なります。

以下、私なりの感想を述べます。

限られた授業時数のなかで(地理歴史科に限って言えば)世界史が必修化されていることから歪みが生じている、ということならばその点は如何にもその通りかもしれない。

しかしながら、それは世界史という”科目”に問題があるわけではない。
限られた時間、大学入試合格を至上目的とする生徒・保護者の強い意向などの諸条件のなかで如何に教育目的を達成するか。そこにこそ、一方では指導要領というルールの遵守を求められ、また一方で進学実績をあげることを強く求められる高校教育(とくに、いわゆる進学校といわれる高校)の苦しい実情があるのではないか。

私は、今回取り沙汰されている問題の焦点は結局のところ、進学実績を追い求める余りついには指導要領というルールまでも踏み外してしまったというところにあると考える。

高校教育が、指導要領という全国共通のルール、全国共通の土俵の中で行われているはずであったにもかかわらず、一部の(大部分の?)進学校で「ズル」が行われていたという実態は、ルールを破った者が責められはしても、ルールそのものの当否は全く別の次元に存する。

インサイダー取引を規制するルールがあるにもかかわらず、投資実績を上げるという至上命題ためにルールを無視してインサイダー取引を行う者が出た場合に非難されるのは誰か。もちろんルールを破った者である。決してルールを設定した者ではなく、またルールそのものが非難されるものでもない(もちろん、あるルールの存在が、そのルール自体の妥当性を担保しないのは言うまでもない)。

どれほど結果を出すことを強く求められているにせよ、土俵からこっそり抜け出すような「ズル」が正当化される謂われはない。

現在の学習指導要領がベストなものとは思えないにしても、少なくとも未履修問題を考えるにあたっては、ルール破りこそを問題とすべきであり、指導要領を云々することは(原理的に)許されない。

ひるがえって、この論説記事は世界史という科目そのもの、さらには教養教育そのものを批判的な視線で捉えている。

世界史は1989年の指導要領改訂で必修科目になった。理由は「国際化の進展や社会の変化に対応できる資質を養うため」という。しかし、この中央教育審議会の決定が正しかったかどうかも見直す必要がある

受験生にとって、世界史は暗記範囲が広く、カタカナの地名、人物名も覚えにくい。必修科目にもかかわらず、センター試験の受験生は親しみやすい日本史を多く選択している。また最近は「世界の歴史より、まず自分の国の歴史を知るべきだ」との声も強くなっているからだ。

なにをか言わんや、である。

よくもこのような痴れ言を掲載したものである。
よくよく考えてみれば、新聞を含めマスコミなぞは「まず結論ありき」であるから、見せかけ上の結論を正当化できるような材料を集めてきて事後的にくっつけるのは日常茶飯であるけれど。

もしこの論と同じ土俵に立ってものをいうとすれば、

「日本史は暗記範囲が深く、難しい漢字は読みにくく、人物名や地名も当用漢字表をはるかに逸脱した難解なものである。「自分の国のことだから既に知っていることが多い」などという浅薄な考えから日本史を選択する不届き者が多い。」

ということが言えようが、そこで気付くのは”日本史”だろうが”世界史”だろうが、ケチをつけるのはいくらでもできる。根拠を列挙することで一見して客観的・合理的であるかに装いながら、その実、恣意的に世界史を貶めているだけにすぎない。

そもそも歴史を学ぶ効用の大なるものに、「自らを相対化できる」ということがある。
太平洋戦争で日本が負けたことはおろか、アメリカと戦ったことすら知らない若年者が珍しくない昨今、日本人に誇りと自尊心があるのと同様に他国の人々にもそれと同等の誇りと自尊心とがある、ということを実感できる者が幾人いるだろうか。ただでさえ近視眼的なわれわれ日本人が、さらに内向きの世間知らずを称揚しだしては目も当てられない。

「おれはそんな近か眼ではない」なぞとは誰にも言わせない。少なくとも彼が日本人を自称するならば。
合理的に考えれば勝ち目の無い無謀な戦争に自らを投じたのはまぎれもないわれわれ日本人であったのだから。

私たち日本人のほとんどは既に戦争を知らない。
私たちが知っているのは写真であり書物に書かれたものでありテレビであり映画であるに過ぎない。

周知の通り当時の日本ではカラー映像はほぼ皆無であった。カラーフィルムは私の知る限りでは既に1930年代には存在した。しかし戦前の日本についての映像のほぼ100パーセントがモノクロのものだ。しかし当然のことながら実際の世界は当時の日本も天然色・総カラーであったのは言うまでもない。100年前も1万年前も世界は全て天然色の世界であった。

しかし、書物やモノクロ白黒の映像でしか当時の(戦前の)日本を知らないわれわれのうち、いかほどの人が実感をもって切実に感じているだろうか—-当時の人々も今の我々と同様、自分が時代の先端を生きていると感じ、また国の進路を選択する余地を持っており、日々生活し恋をし苦悩し人生を楽しんでいたかということを。

今を生きる我々は、はたして昔の日本がすべてがモノクロの世界であったと無意識のうちに思い込んでいないと言いきれるのか。
目先の得失に目を奪われて自らを破滅の淵に持っていった当時の日本はすなわち今の日本である。

大学に入ること、役に立つことを目先の利益とするならば、学校でまず教えられるべきは目先の利益に惑わされてもっと大切な何かを失うことのないようにすることである。

大人に必要な教養の習得は、大部分が義務教育の中学で終了している。専門的な数式や化学式はだれもが理解する必要はない。専門分野を目指す者が勉強すればいい。むしろ、音楽、美術、書道や体育など芸術系、体育系は、大人になって役立つことが多い。

おいおい
ちょっと待ちたまえ

義務教育で十分だと思う者は進学する必要はない。
そういう者にとっては高校進学も大学進学も金と時間と労力の無駄である。

大学進学を目的とするなら高校は不要である。すべて予備校とすればよい。
もちろん学費は全額自己負担である。当然のことである。
「大学に行きたいから高校に行く」、そのような者どもに貴重な税金を投入することは「国益」に反する。

極めつけはこの一文。

ルールが現実に即していないなら、ルールを見直すことも必要だろう。

社会の木鐸たる、しかも伝統ある新聞社がうかつな事を口にするものではない。
現状にそぐわないルールを改めることはアリであろう。ルールをより現実的(実効的)なものにすることは必要なことだろう。しかしながら、「現状にそぐわないから改める」というのと、「ルールをより実効的なものにするための改変」との間には大きな隔たりがあると私は思う。
単なる現状追認的なルール改変ほど危険きわまりない所業はない。

理想(理念)と、それを実現しようとする実践的な意志を欠いた”ルール”は、悪(不都合)を正当化する 「談合」 にすぎない。

以上

今日は日曜日で時間に余裕があったのでちょっとキバって書いてみました。
言論人にこそ歴史を踏まえた、より冷徹な視線を期待したい昨今です。
期待してますよ。

おすすめ記事:内田樹の研究室「教育破壊はどこまで続くのか」

http://blog.tatsuru.com/archives/001970.php

(2007/04/06改稿)

日本史必修化への布石?

  • 2006年10月27日 (金)

高等学校での必修科目未履修問題が世間を騒がせているようです。

なぜにいまさらこんなことが騒がれるようになったのか・・・。
もちろん、ルールに反している点は釈明の余地はないでしょう。

しかしながら、

表向きの時間割の裏で闇授業をやることは昔から(少なくとも数十年前から)行われていたように記憶します。(具体的データはありませんし、今のところ調べるつもりもありませんが、「私の高校時代も(世界史ではありませんが)そうだった」という実体験はありますし、そうした話は友人等に聞いても珍しくもなんともないことでした。)

なぜ、今なのか。

そこでひとつ気になる発言があります。

10月20日の衆院文部科学委員会で伊吹文明文部科学相が、野田佳彦氏(民主)の「日本史必修化するべきだ」との指摘に対して

「日本の伝統や社会が建設された過程をマスターすべきだ」

と応じて、日本史の必修化に言及していることです。
(首相語録)
(goo news産経)

世界史が必修化されたのはそう昔のことではありません。なのに今度は日本史も必修化?と私は不審に思ったことでした。

  追記)東京都教委も9/28に文科省宛て日本史必修化の要望書を出していました。(東京都報道発表資料)
    

ただでさえ「ゆとり教育の弊害」「授業時間数不足」が言われる状況の中で、世界史も日本史も共に必修科目とすることは現実的ではないようにおもわれます。

とすると、歴史と伝統・美しい日本を目指す昨今の情勢からして、「世界史なぞよりもまずは自国の歴史をしっかり勉強すべきだ」という主張が力を持っても不思議なことではないでしょう。

そこで本題

必修科目である世界史の未履修問題の発端は10/24の北日本新聞記事が発端であったように記憶します。

北日本新聞。
同新聞の所在地を調べてみると富山県富山市安住町2-14。

富山県と言えば

長勢甚遠(ながせ甚遠)法務大臣

が富山1区選出。したがって富山市はずばりお膝元です。
小泉内閣の官房副長官、安倍内閣成立で法務大臣に就任。
所属派閥は町村派(旧森派)

いわゆるタカ派と言ってさしつかえないようです。
関係する議員団体を調べると、
・自民党歴史・検討委員会
・日本会議国会議員懇談会
・日本の前途と歴史教育を考える議員の会
・神道政治連盟国会議員懇談会
・憲法調査推進議員連盟(超党派の改憲議連)
等々
参照:子供と教科書全国ネット21より「小泉第3次改造内閣の超タカ派の大臣たち」

ざっと眺めても「美しい日本」を体現する議員であろうということがはっきりと見えてくるように感じます。

この未履修問題はその北日本新聞の記事で火がついた後、その日のうちに読売毎日も追随し、さらに北日本新聞はその後も(翌日以降)立て続けに続報を出しています。
それまで公然の秘密であった未履修問題がわずか数日のうちに全国で問題化するという、ある意味で快挙。

そこで次のように考えることはあながち絵空事とは言えないのではないでしょうか。
安倍首相の唱える”うつくしい日本”政策を実現するために、一閣僚が地元新聞社を起点としてマスコミを利用して日本史必修化への布石を図った。

「そんな阿呆な・・・」

そうかもしれません。
ただ、ことを地理歴史科に限れば生徒の人気は(某新聞によると)日本史・地理に集まっていて世界史はダントツ不人気だそうです。

「受験科目だけ勉強した~い!」
「受験に関係ない科目を勉強する必要がどこにある!?」

などという生徒の声も相まって、日本史必修化・世界史外しが現実化していくのかなという気がしています。

くわばらくわばら

もし私の推測か事実から大して逸れていないとすれば、いかにも姑息な気の滅入るお話です・・・。

追伸
いまさら高校卒業資格剥奪なんて御免ですよ~。

教育における歴史と伝統

  • 2006年10月23日 (月)

わが国の美しい歴史と伝統をあらためて認識すべし、という言葉を耳にすることの多い昨今です。

ところで、それに類する発言などを耳にするときに、各人がおぼろげに持っているに過ぎない過去への憧憬をもとにして”歴史と伝統”の復活(?)をうたっているようにしか思えないことが多いのは私のような偏屈人だけでしょうか・・・。

少し前に古典素読の復活を!などという話も出て来たように記憶しますが、それに関して面白い文章を読みました。

或人たちは反対していわれるでしょう。文章語は単純なる意志表示の手段ではなく、それには日本国民の貴重なる伝統的精神が含まれている。文章語の廃絶はやがて国民性の廃絶であると。恐らくこれは保守主義者の拠って以て自ら守る有力な反対理由であろうと思います。

ここでいう「文章語」とは、すでに生活の中では使われることのなくなった文体という意味では”古典”と読みかえても差支えないかと思います。
ちなみにこの箇所は、普通教育においては文語体よりも口語体を重視すべし、との文脈で語られています。

さらに、

しかし私は、手段たる言語に依って国民の精神が左右されるものとは考えません。その貴重な伝統的精神は現代人の言語であるところの口語に新訳することが出来ます。現に私たちは和漢の古文を読んだり、その講義を聴いたりする時、もとの古文のままでは受用していず、それを一々現代の言語に意訳して理解しています。日本人の古代精神がすべて『古事記』や『万葉集』の言語に依るのでなければ理解が出来ないというものでない限り、今日にもなお必要だと思う古代精神は、それを自由に現代の口語に新訳して教育すれば好いのです。古文を教えないという事は決して古代精神を教えないという事にはなりません。また古文の教育は大学その他の高等教育機関において特別に施しさえすれば決して反対論者の杞憂のように廃絶するものでないと思います。

果たしてこの一文を書いたのは当時の進歩主義者か?文学や古典の価値を解しない石部金吉か?と思いきや、
与謝野晶子。

それこそ日本人ならば知らぬ者とてない詩人です。
題は「教育の民主主義化を要求す」。

彼女はこの一文の冒頭でこうも言います。

現在の教育は文部大臣と、それに属する官僚的教育者とに由って支配されている教育です。・・・私は・・・我国の教育制度を各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任し、これまでの官僚的画一制度を破ると共に、普通高等一切の教育を国民自治の中に発達させて行きたいと思います。
(太字強調は引用者による)

この文章が書かれたのは1919年。今の私たちから見れば既に”歴史と伝統”の一部分といってよい時代でしょう。今時語られている”歴史と伝統”に含まれるかどうかは定かではありませんけれど。

歴史と伝統を軽視することは論外としても、ただただそれを美化し讃美することもまた奇妙なことのように思えます。
漠然としたイメージでしか語られない、各人に都合の良い部分だけを抜き出してきたような”歴史と伝統”についつい懐疑の目を向けたくなる私にとっては興味深い一文でした。

出典:日本語テキストイニシアチブ

(紹介)「学校のことは忘れて欲しい」

  • 2006年10月21日 (土)
  • キーワードタグ: 教育

いじめに関して、とても腑に落ちるというか納得できる記事を読みました。

「内田樹の研究室」より
学校のことは忘れて欲しい

http://blog.tatsuru.com/archives/001961.php

「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。

 注)お友達の「平川くん」の書いたものを引用されています。
   多分こちら。「カフェ・ヒラカワの店主軽薄」

引用させて貰った部分も含めて、まったく同感です。

私が紹介するまでもなくたくさんの読者がついているブログのはずですが、僭越とは思いつつ念のため紹介させてもらいます。

『エンデ全集8 鏡のなかの鏡』

  • 2006年10月19日 (木)
  • キーワードタグ: 教育

悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖でないのと同じである

『エンデ全集8』解説より孫引き(ミヒャエル・エンデ「悪の像」『エンデのメモ箱』)

福岡県筑前町のいじめ自殺事件で、全校生徒に謝罪した校長先生。
「先生たちが手を抜いていた」「(彼に)プレッシャーを与えた」
しかもなぜ生徒達に謝罪するの?

「生徒達の心のケアを」
「彼を忘れない」
「頑張りましょう」

この言葉自体は決して悪くない言葉です。
今回の件で露わになったのは、綺麗事をならべる一方で生の人間即ち教師と生徒一人一人とが真剣に向き合っていない学校での日常、さらには一人の生徒の心のケアすら出来ず、やろうともしていなかった現実。

「いじめは悪だ」
「いじめをやめよう」
「勉強しよう」
「努力しよう」
「感謝しよう」
「正直であれ」
「誠実であれ」
・・・・。

そうした言葉は吐き出したそばから空っぽになってしまった。
「きみのことを思って」
「おまえのために」
「社会はそんなに甘くないぞ」
・・・・。

言葉だけで教育が出来るのならば、学校なんて必要ないでしょう。カセットテープでもCDでもネットでもいいんじゃないですか。
愛情と媚は大違い。
指導といじめは大違い。
全校生徒の前に教員全員立たせて「ごめんなさい」なんて・・・。ある種の媚に過ぎない。そうした機微すら感じ取れない人が”教師”として人を教え導けるとは思えない。少なくとも私が生徒なら嘔吐しかねない。

「黙っていても見るところはちゃんと見てるぞ」
浮ついた言葉を並べるよりもそうした態度や行動の方が幾層倍も強く生徒に思いが伝わることもあるのではないか。
もし彼にそうした気持ちが伝わっていれば彼も救われたかもしれない。もちろんそうした不器用なやり方はひょっとすると周囲やマスコミの反感・誤解を招くかも知れない。けれども「周囲の人々からどう見られるか」よりも「目の前の一人の生徒への思い」「目の前の一人の人間に伝えたいもの」を第一義に考えることこそ”生徒のため”になるのでは。口に出してしまえば空疎になってしまう言葉、敢えて口にしないからこそ伝わる真意というのもあるのではないだろうか。

この期に及んでも生徒の方に目が向かない、目を向けているポーズを取っているだけにしか見えない教師の姿には言葉を失うしかない。もっとも、世の多くの先生方は日々真剣に生徒と向き合っているはず。そのことは銘記しておきたいけれど。

ついでに、いじめたガキどもはどこへ消えた?
人権尊重?
被害者の一人のフリして人権尊重の言葉の向うに雲隠れ?

はたして誰が被害者で誰が加害者だったのか。
いじめたのが事実ならばいじめた加害者たちの実名こそ公表に価する。被害者の名ではなく。
そんなことを考えました。

エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡 エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡
ミヒャエル エンデ
価格:3360円

学校は社会の縮図か

  • 2006年10月16日 (月)

福岡で起こったいじめによる中学生自殺の記事を読みました。級友らから罵られた上に教師からも嘲りを受けていた少年が学校の中で孤立感を深めていったであろうことは想像に難くありません。前年度の担任教師に不適切な(言語道断な)言動があったということですが、ほかの先生方は何一つ気付かなかったのかどうか気になります。

しかし、「からかいやすかったから・・・」というのはあまりと言えばあまりの話です。そもそも保護者から受けた相談事を、当人どころか級友達の前で暴露したのはどういうわけだったんでしょうか。当人にしてみればそれをネタに級友らからいじめられるようなことがもし仮に無かったとしても、教師や学校に対する信頼感は完全に失われてしまったのではないかという気がします。暴露された時点で既に。教師はそこで二重三重の過ちを犯してしまったように思います。

  1. 保護者からの相談があったことを本人に知らせたこと
  2. 同じく級友に知らせたこと
  3. それをからかいのタネにしたこと

特に後者二つは無条件に×だと私は思います。1についても、そうした対応が必要とされるのは極めて例外的な場合に限られるような気がします。

教師(権威者)が自らの言動をつうじてある人間に対するいじめを承認する。そして生徒(その他大勢)の一部は積極的にいじめを実行する、また一部はわれ関せずを決め込む(ちょっと乱暴な言いざまかもしれませんが)。そこにはもう教育なぞというものは欠片も存在していません。また、教師をマスコミと読みかえ、生徒を世論と読みかえれば、われわれ社会の状況を表しています。「弱い者は叩け、ドブに落ちた犬は打て」。もしこれが実態ならば、まさに悪しき意味での社会の縮図だという気がしてなりません。「からかいやすかった」というのはまさに本音だったのでしょう。そして今度はこの教師がマスコミや世間から「からかいやすい」ドブに落ちた犬のような扱いを受けることになるのでしょう。因果応報といえばそれまでですが。

最後に

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061015-00000056-mai-soci

ここで記事の末尾に次のようにあります。

 自殺した男子生徒と仲が良かったという生徒の母親は「1年ごとに担任は変わるし、担任はきちんと一人一人の生徒を見てくれていたのだろうか……。今、子供はとても傷ついている。学校は今わかっていることを説明してほしい」と不安そうな表情で語った。

これを書いた記者は読者に何を伝えんとしているのでしょうか。
「子供はとても傷ついている」
もしかしたら子供こそが犠牲者だと言いたいのかもしれませんが、この記事の文脈でそういうことを書いても余計な予断や勘違いを生む危険性のほうが高いというか、読者を誘導しようとしている気配を感じます。
この保護者がそう云う意味のことを言ったというのは”事実”なのでしょうが、脈絡から外れた”事実”だと私は感じます。敢えて書いたのはどういう意図からでしょうか。
もちろん私の新聞じゃありませんし、書くのは自由ですが。毎日の記事には違和感感じることが多いです。そういう方針で書いてるんだと思って読めば何と言うこともないですが。

尻切れですが、また後で書いてみます。

戦後民主主義教育と愛国心

  • 2006年09月06日 (水)

自由主義・民主主義がよしとされれば、その美点のみに目を向けて欠点というのか危険性というのかそうした点には思い至らずに盲目的にこれを讃美し、そうかとおもえば今度はいざその欠点が露わになり始めると反動的に規範・規律の重視に走る。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというわけでもなかろうが、このような、極端から極端へはしるという傾向は戦前・戦後を問わず変わらない日本人の悪い癖なのだろうか。

たしかに、規範・規律の遵守という題目そのものはいちおう是とされるべきであろう。ではなぜ”一応”なのか。

極端な例ではあるが、かつてナチスは法令を遵守してユダヤ人をはじめとする”異民族”その他を合法的に殺害した。国会で適正な手続に則って法律が制定され、公務員はそれを忠実に実行し、司法に携わる者はこれに異を唱えることはなかった。(もちろん一般市民の反ユダヤ感情も存在していたわけだが、それについては今は述べない。)

自国の市民を殺害するという蛮行は、手続き上は何らの瑕疵もなかったということになっている。そして対象者の移送、殺害も含めて一連の行為が極めて合理的・系統的すなわち「合法的に」行われたところに(偶発的な大量虐殺とは異なる)ナチ・ホロコーストの特異な徴がある、と言われている。

こうした歴史的事実からは、あらゆる場合に規範・規律の遵守が是とされうるわけではないこと、少なくとも人が「人間的」であろうとするならばその意思が規律・規範を守ることと両立しない場合があるということを読み取ることができる。

そこで必要になってくるのは規範・規律の”実質”を吟味することであろうと思う。

「きまりは守りましょう」という言辞はいちおう正しいと言えるが、それだけでは諸刃の剣となる。

戦後民主主義教育の問題点は、民主主義あるいは平等や権利を教えるにあたって、その実質を吟味することなくあたかもそれが自明のものとして教えるのみで、平等や権利という観念が諸刃の剣であることを看過してしまったところにあるのではないだろうか。

そして、実質の吟味を置き去りにしたという点では戦前の国粋主義教育と同質のものであって、つまるところ、戦前・戦後の教育は外皮のみが異なるだけで中身というか心性そのものは些かも変化していなかったとも言えるのではないだろうか。

与えられた教えを何の疑問も持たず無条件に正しいものとして受け入れることの怖さがここにあるように思われてならない。”滅私奉公””民主主義””愛国心”。そのどれも決して誤りではない。はたして個人が自由であることと社会秩序の維持はどのようにして両立されうるのであろうか。

それは既に自明のものとして受動的に教えられるよりも、ひとひびとりの人間が主体的に考えることを要求しているのではないだろうか。そして「主体的に」考えること・行動することは、”教えられる”ことの対極に位置するものではないだろうか。

「主体的に考えることができるように教育する」「国家(郷土)を愛することを学ばせる」などという言葉は時として言語矛盾もはなはだしいのかもしれない。そもそも愛するという行為は、私的かつ主体的なものの極みであろうから・・・。

今のわれわれに必要なのは、答えがすぐには出ないであろうことを覚悟の上で、それでも自らの頭で物事を吟味してみるという”主体性”なのかもしれない。

以上、本の内容と直接的には関わりませんが、この本を読みながら考えたことをちょっとまとめてみました。

(2006年12月13日一部改稿)

ヒトラー政権下の日常生活―ナチスは市民をどう変えたか (そしおぶっくす)
H.フォッケ
入手不可

文科省、古典素読の復活を検討

  • 2006年08月19日 (土)
  • キーワードタグ: 教育

外国語も古典も小学校で・・・。小学生も忙しくなりそうですね。

(以下、夢物語です)
少子化や保育所不足の問題が取りざたされる昨今、いっそのこと児童は全寮制の保育所兼学校の共同生活を義務づける。もちろん経費一切は公の負担。公共心の涵養・子育てに関する金銭的ないし精神的負担の軽減・愛国心教育などなどメリットは数えきれず。
これぞまさしくスパルタ式教育!!!
もちろん毎朝古典の素読をやるんです。
ついでに剣道or柔道の朝練もやればどうでしょう。武士道を体得した”新しい日本人”が続々と生まれましょうか・・・。

週に2.3回数十分程度の素読じゃあ、効果のホドは・・・。
”何事もやらぬよりやったがマシ”、なのかどうか疑問に思わなくもなし。

遅刻100円騒動~その2 事実は小説よりも奇なり

  • 2006年07月13日 (木)

http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060710-58627.html

宮城隼夫工学部長は「学生はすでに学費を納めており、学生と教授の平等の関係も崩れてしまう。遅刻する学生が多いのは問題だが、強制的に金銭を取ることは認められない」と批判した。

学生と教授の平等??
学生と教授って平等だったの???そりゃお互い人間なのは確かだろうけど・・・。まさか、ねぇ・・・・・

学生は既に学費を納めてる??
そりゃ当然でしょうね。お金払って授業さぼったり遅刻してくれるお客さんは有難い存在であり、文句を言うなどトンデモナイ!!あなたは学生様の学費からお給料貰ってるんでしょ!!!!!なんてね。

「市民は既に税金を納めており、市民と警察官との平等の関係も崩れてしまう。スピード違反する市民が多いのは問題だが、強制的に罰金を取る事は認められない」(○×県警本部長)

なんて、こんな記事、エイプリルフールにでも是非見てみたい・・・気もするなぁ。

しかし、部長さんはホントにこんな冗談みたいなこと言ったのかなぁ!?「おれはそんなこと話してないよ。継ぎ接ぎすればこんな風にも書けるんだろうけど・・・。マスコミって恐いよなぁ」なんてボヤいていらっしゃったりして。

遅刻で百円徴集は常識外れか??

  • 2006年07月11日 (火)
  • キーワードタグ: 教育

講義に遅刻した学生からその都度¥100徴集している教授に対して、
1.学生から苦情
2.大学が教授の処分を検討
3.人権協会の弁護士も(教授を)批判

と、この教授に対して非難の大合唱のようですが・・・・。
なにか違和感感じます。

(沖縄タイムス)

100円徴集を遅刻に対する指導措置と捉えれば、いたって常識的な指導ではないですか??

宮城隼夫工学部長は「いかなる理由があっても、教室で学生から金銭を取る行為は認められない」とし

とありますが、それこそ”浅い考え”なのでは・・・。
ましてや教授が徴集したお金を私的に浪費してたということではないようですし。
”いかなる理由があっても(病気だろうが事故だろうが)学生の遅刻は許されない”と云われれば「そんな馬鹿な・・・」と誰しも言うでしょう。今回のような場合、逆も亦然りと思いませんか?

教授を批判する気になれば幾らでも理屈はつけられますよ。
・学生から金銭を徴収するなどもってのほか。
・貴方の授業がつまらないから学生が遅刻するのだ。
・教授という立場を利用したパワーハラスメントだ。
etc

何時の時代もで何処の学生でも、学生は教師に対して不平不満もってて当然。
そんな不満をさももっとものような顔をして取り上げて一教授をつるし上げるのは卑怯者ではないのかな。教授が100円徴収止めてしまえば解決??遅刻する学生への指導はどうやるの?きちんと説明・指導すれば学生さんはわかってくれる??そういう学生もいればそうじゃない学生もいるのは世の常。誰から見ても理不尽な論理でさえも、とにかく自己の正当性を主張することは可能でしょう、北朝鮮の例を見るまでもなく(笑)。

なにげに「誰から見ても」なんて書いてしまいましたが・・・。ちょっと書いてて自己矛盾してますね。どんな突飛な内容であれ、論理的に(理屈をつけて)さも正当であるかのように主張をすることは出来る、と言うべきでしょうか。牽強付会は決して北朝鮮の専売特許ではない・・・と思う今日この頃。私たちの身の回りでも日々目にし耳にさせられてること。

教師は学生の為に自己研鑽に励んでよりよい教授を行い、学生は勉強に励む。
相互に尊重し学問的進歩に資し、社会の発展に貢献する。これが教育本来の在り方ではなかろうか。
人間の成長に資するという本質を置き去りにして、あれはするなこれもするな世間様が・・・なんて環境ではだれも真剣に教育には取りくんでくれなくなりそうな気がします。

社会全体が、いろいろな面で”犯人捜し””あら探し”に興じすぎて窮屈になっているような気がしてなりません。日本沈没??
というか、そういうのばかりがニュースとして流通してるだけ??

この教授にしても、万が一やましいところがあるようならここまで事が大きくなる前にとっくに徴集やめてらっしゃるはずですよね!?。

酔っぱらいの戯言でした。

何と云う名の教授か分りませんが、(実体のない)”世間の非難”に負けず頑張って下さい!

文科相、敬語なしを批判 

  • 2006年06月09日 (金)

(goo news)

国体明徴運動を想起しました。

愛国心

  • 2006年04月12日 (水)
  • キーワードタグ: 教育

(goo news)

ここまでくるともはや言葉遊びの世界のようにも思えてしまいます。
教育基本法の”改正”ですか・・・。

法律の文言が子供たちの成長にどれほど意義を持つのでしょうか。
~歌を忘れたカナリアは~
~教育を忘れて愛国心~

本筋はそこにはないはず。
”愛国心”を挿入できるのであれば教育基本法に出はなくても良かったのかもしれませんね。

子供は置き去りですか。

Home > 時事雑言 >> カテゴリ >> 教育

フィード(更新通知)
窓口(Mail & Twitter)

このページの先頭へ戻る