今朝、ネットで必修科目未履修問題について眺めて回っていたところ、怒髪天を衝くような論説記事を目にしてこの記事を書くことにしました。
当の論説記事とは、佐賀新聞の
「必修科目の未履修 根本的なひずみ正せ」(園田寛)
佐賀新聞の論説記事は時々目を通しています。いつもはわりと納得できる記事が多いのですが、この記事に限っては呆れ果てました・・・。
根本的なひずみを正せ、という点では同感。しかし、何が根本的な歪みなのかという点では私の意見は異なります。
以下、私なりの感想を述べます。
限られた授業時数のなかで(地理歴史科に限って言えば)世界史が必修化されていることから歪みが生じている、ということならばその点は如何にもその通りかもしれない。
しかしながら、それは世界史という”科目”に問題があるわけではない。
限られた時間、大学入試合格を至上目的とする生徒・保護者の強い意向などの諸条件のなかで如何に教育目的を達成するか。そこにこそ、一方では指導要領というルールの遵守を求められ、また一方で進学実績をあげることを強く求められる高校教育(とくに、いわゆる進学校といわれる高校)の苦しい実情があるのではないか。
私は、今回取り沙汰されている問題の焦点は結局のところ、進学実績を追い求める余りついには指導要領というルールまでも踏み外してしまったというところにあると考える。
高校教育が、指導要領という全国共通のルール、全国共通の土俵の中で行われているはずであったにもかかわらず、一部の(大部分の?)進学校で「ズル」が行われていたという実態は、ルールを破った者が責められはしても、ルールそのものの当否は全く別の次元に存する。
インサイダー取引を規制するルールがあるにもかかわらず、投資実績を上げるという至上命題ためにルールを無視してインサイダー取引を行う者が出た場合に非難されるのは誰か。もちろんルールを破った者である。決してルールを設定した者ではなく、またルールそのものが非難されるものでもない(もちろん、あるルールの存在が、そのルール自体の妥当性を担保しないのは言うまでもない)。
どれほど結果を出すことを強く求められているにせよ、土俵からこっそり抜け出すような「ズル」が正当化される謂われはない。
現在の学習指導要領がベストなものとは思えないにしても、少なくとも未履修問題を考えるにあたっては、ルール破りこそを問題とすべきであり、指導要領を云々することは(原理的に)許されない。
ひるがえって、この論説記事は世界史という科目そのもの、さらには教養教育そのものを批判的な視線で捉えている。
世界史は1989年の指導要領改訂で必修科目になった。理由は「国際化の進展や社会の変化に対応できる資質を養うため」という。しかし、この中央教育審議会の決定が正しかったかどうかも見直す必要がある。
受験生にとって、世界史は暗記範囲が広く、カタカナの地名、人物名も覚えにくい。必修科目にもかかわらず、センター試験の受験生は親しみやすい日本史を多く選択している。また最近は「世界の歴史より、まず自分の国の歴史を知るべきだ」との声も強くなっているからだ。
なにをか言わんや、である。
よくもこのような痴れ言を掲載したものである。
よくよく考えてみれば、新聞を含めマスコミなぞは「まず結論ありき」であるから、見せかけ上の結論を正当化できるような材料を集めてきて事後的にくっつけるのは日常茶飯であるけれど。
もしこの論と同じ土俵に立ってものをいうとすれば、
「日本史は暗記範囲が深く、難しい漢字は読みにくく、人物名や地名も当用漢字表をはるかに逸脱した難解なものである。「自分の国のことだから既に知っていることが多い」などという浅薄な考えから日本史を選択する不届き者が多い。」
ということが言えようが、そこで気付くのは”日本史”だろうが”世界史”だろうが、ケチをつけるのはいくらでもできる。根拠を列挙することで一見して客観的・合理的であるかに装いながら、その実、恣意的に世界史を貶めているだけにすぎない。
そもそも歴史を学ぶ効用の大なるものに、「自らを相対化できる」ということがある。
太平洋戦争で日本が負けたことはおろか、アメリカと戦ったことすら知らない若年者が珍しくない昨今、日本人に誇りと自尊心があるのと同様に他国の人々にもそれと同等の誇りと自尊心とがある、ということを実感できる者が幾人いるだろうか。ただでさえ近視眼的なわれわれ日本人が、さらに内向きの世間知らずを称揚しだしては目も当てられない。
「おれはそんな近か眼ではない」なぞとは誰にも言わせない。少なくとも彼が日本人を自称するならば。
合理的に考えれば勝ち目の無い無謀な戦争に自らを投じたのはまぎれもないわれわれ日本人であったのだから。
私たち日本人のほとんどは既に戦争を知らない。
私たちが知っているのは写真であり書物に書かれたものでありテレビであり映画であるに過ぎない。
周知の通り当時の日本ではカラー映像はほぼ皆無であった。カラーフィルムは私の知る限りでは既に1930年代には存在した。しかし戦前の日本についての映像のほぼ100パーセントがモノクロのものだ。しかし当然のことながら実際の世界は当時の日本も天然色・総カラーであったのは言うまでもない。100年前も1万年前も世界は全て天然色の世界であった。
しかし、書物やモノクロ白黒の映像でしか当時の(戦前の)日本を知らないわれわれのうち、いかほどの人が実感をもって切実に感じているだろうか—-当時の人々も今の我々と同様、自分が時代の先端を生きていると感じ、また国の進路を選択する余地を持っており、日々生活し恋をし苦悩し人生を楽しんでいたかということを。
今を生きる我々は、はたして昔の日本がすべてがモノクロの世界であったと無意識のうちに思い込んでいないと言いきれるのか。
目先の得失に目を奪われて自らを破滅の淵に持っていった当時の日本はすなわち今の日本である。
大学に入ること、役に立つことを目先の利益とするならば、学校でまず教えられるべきは目先の利益に惑わされてもっと大切な何かを失うことのないようにすることである。
大人に必要な教養の習得は、大部分が義務教育の中学で終了している。専門的な数式や化学式はだれもが理解する必要はない。専門分野を目指す者が勉強すればいい。むしろ、音楽、美術、書道や体育など芸術系、体育系は、大人になって役立つことが多い。
おいおい
ちょっと待ちたまえ
義務教育で十分だと思う者は進学する必要はない。
そういう者にとっては高校進学も大学進学も金と時間と労力の無駄である。
大学進学を目的とするなら高校は不要である。すべて予備校とすればよい。
もちろん学費は全額自己負担である。当然のことである。
「大学に行きたいから高校に行く」、そのような者どもに貴重な税金を投入することは「国益」に反する。
極めつけはこの一文。
ルールが現実に即していないなら、ルールを見直すことも必要だろう。
社会の木鐸たる、しかも伝統ある新聞社がうかつな事を口にするものではない。
現状にそぐわないルールを改めることはアリであろう。ルールをより現実的(実効的)なものにすることは必要なことだろう。しかしながら、「現状にそぐわないから改める」というのと、「ルールをより実効的なものにするための改変」との間には大きな隔たりがあると私は思う。
単なる現状追認的なルール改変ほど危険きわまりない所業はない。
理想(理念)と、それを実現しようとする実践的な意志を欠いた”ルール”は、悪(不都合)を正当化する 「談合」 にすぎない。
以上
今日は日曜日で時間に余裕があったのでちょっとキバって書いてみました。
言論人にこそ歴史を踏まえた、より冷徹な視線を期待したい昨今です。
期待してますよ。
おすすめ記事:内田樹の研究室「教育破壊はどこまで続くのか」
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(2007/04/06改稿)