「政治」カテゴリの記事一覧

星新一の対米開戦論と民主党政権

  • 2010年01月30日 (土)

昨日の鳩山首相施政方針演説を読んだ。演説の内容から(あらためて)明らかになったことは、少なくとも現時点で鳩山政権は(政治的に)身を切る覚悟を決めていないのだということだった。政権発足後、折に触れて「維新」だとか「新生」だとかの言葉を耳にしてきたが、政権発足後の経緯も踏まえてみれば、おそらく首相の言う「見直し」「組み替え」「再編」はどれも字義通りに読んだ方がよさそうだ。つまり単なる”模様替え”しかやりません、あるはもうそれしかできませんということであり、今回の演説で(ようやくと言うべきかとうとうと言うべきか)それを自ら鮮明にした。

鳩山政権は、発足直後から後退戰に次ぐ後退戦の連続であった。その最初の徴候は既に政権発足以前に浮上した鳩山首相自身の政治資金疑惑であった。結局この疑惑自体は昨年末に首相自身が検察に上申書を提出する形でひとまず沈静化したかに見えるが、おそらく今後も事あるごとに批判・揶揄されることは避けようもなく、まさに首相にとってのアキレス腱になるであろうことは想像に難くない。こうして民主党攻撃の橋頭堡を確保した検察庁は、本命小沢一郎への攻撃に着手した。その後の経過諸々委細省略すれば、こちらもようよう所期の目的を果たした、若しくは果たしつつあるとは言えそうだ。いずれにせよ鳩山首相も小沢幹事長も言ってみれば脛に傷持つ身となったことによって、当人たちは勿論のこと民主党政権そのものが検察庁(つまり官僚)から頑とした楔を深々と打ち込まれた。検察庁にとっては昔も今も「ベベンベン、あ〜政治家殺すにゃ包丁いらぬ 資金の出所洗えばよい、ベベベノベン」なのであった。

先日のエントリ(「『人民は弱し官吏は強し』再読」)でも触れた作家星新一は「官僚について」というエッセイの中で官僚に対する強烈な皮肉を込めて次のように書いている。

官吏ほど、このスリカエや身のひるがえし方のうまい者はない。(中略)官吏集団ほど強力な圧力団体はないはずである。それなのに、だれにもそうと気づかせぬ点、絶妙としか呼びようがない。もっとも、これは私たちが盲のせいかもしれない。
黒い霧のたぐいの責任は、すべて代議士に押しつけられ、官吏はいつも清潔である。自分の選挙区に橋や道路を優先して作らせ、あれこれ言われる代議士があるが、代議士の口ききでどうにでもなる側があればこそではなかろうか。どことなく変だ。官僚機構とは強いばかりでなく巧妙で不死身の怪獸である。民衆の手におえるのは、せいぜいママゴンとかいった程度の小怪獸ぐらいである。

官僚について 『きまぐれ星のメモ』角川文庫(1971) P263

このブログでも以前政治資金について「政治資金問題と浮気の効用」などいくつかの記事を書いたことがあるが、政治家とカネとが切っても切れない関係にあることはいまさら疑うまでもない。議員という職務がさまざまな「利権」と直接関わっているということ自体が、さらに様々な利権すなわちカネを”呼ぶ”のである。つまり、カネはカネを呼ぶ、とね。そしてそうした「利権に直接絡む」仕事は議員さんだけでないことは誰もが承知している。

政治家とならんで利権にまつわる仕事を為す官僚、そしてその周辺に存在する各種団体と官僚とのただならぬ関係を真っ正面から取り上げ、その改革・大掃除を主張して政権を取ったのがまさに今の民主党政権である。そして民主党が戦後(ごく短い期間をのぞいて)常に政権を担ってきた自民党との差異化を図ることの出来るポイントもここに存している。その理由は言うまでもなく、官僚と一心同体となってしまった自民党に行政改革は実行できない(なぜなら行政改革は自民党そのものの解体をも意味するからだ)のに対して、民主党には行政改革を実行できる「可能性」があるからである。

反共(反共産主義)という看板も既に意味を失った21世紀に入ってこのかた、自民党の存立基盤が単に「政権与党である」というその事実のみにあったことは、自民党が野党転落後、かつての支持団体の離反に打つ手無く、また理性的・建設的な政治的主張すらまともに出来ない、ただ議場でヤジを飛ばすか与党の揚げ足を取ることしかできない見るも無惨な(議席数とは別の意味での)泡沫政党に成り下がっていることからも窺うことが出来る。一方で自民党の野党転落という事実からは貴重な教訓が得られた。その教訓とは、いま有権者から最も強く求められているのは「バラマキ」「財政出動」では無いということである。なぜなら財政出動いわゆるバラマキ政策ごときなら、海のものとも山のものともつかない民主党でなくとも自民党政権にでも出来たことでありまた実際に自民党政権が実行してきたことである。民主党はなぜ自分たちが選ばれたのか、なぜ自民党でなく民主党が選ばれたのかをもう一度問い直してみた方がよいのでは無かろうか。

もし民主党が、規制緩和や郵政民営化、対米追従外交、新たな市場経済といったものへの対抗こそが政権を獲得し得た要因であるなどと考えているようなら、民主党が自らの過ちを思い知らされる時期はそう遠くないだろう。もしかすると参院選に勝利して盤石の体制を確立してから取り掛かるのだなど返答が返ってきそうだがしかし、あらぬ方向に走り出しそうな気配のある民主党にさらに「追い貸し」すべきがどうかは判断の岐れるところとなるはずだ。

星新一は先のエッセイを次のように締めくくっている。

私は最近、対米開戦論をとなえている。勝てるとは思っていないが、それでいいのである。やがて進駐軍がやってきて、行政改革をやってくれるかもしれないからだ。怪獸ヤクショザウルスを退治できるのは、それ以外にないにちがいない。
しかし、まあこんなことは起りえない。官吏は永久に安泰である。電子計算機が発達しても、そのための官庁がふえるだけだ。(後略)

同上 P264

(追記)
このエントリを読んで「官僚に抵抗しても無駄である」などと誤読する奴は、いっぺん死んでこい。という声を耳にした。その通り。

公務員ではなくリーダーとして

  • 2010年01月17日 (日)
  • キーワードタグ: 政治

政治資金問題を巡って改めて検察との対決姿勢を示した小沢幹事長に対して「信じています。どうぞ戦ってください」と述べたらしい鳩山首相、その後、野党その他の批判を受けて当の発言を若干修正した由。私はむしろ彼が首相になって以来初めて「リーダー」らしい姿を見せたと思った。たしかに行政府の長であるという観点からは批判の余地があるとしても、一党首として「信じる。戦いたいなら戦え」と述べること自体はリーダーとして当然の言と言うべきだろう。おそらく、もし彼が行政の長としての立場に重きを置いた発言をしていたなら、マスコミはかねてより言われていた二重権力構造に絡めて首相と幹事長との「仲間割れ〜」とでも書き列ねたはずだ。そもそも検察という組織がそれほどには(建前ほどには)首相すなわち行政府の長に対して従順でもなければ弱腰でもないことは、田中角栄の例やつい最近の鳩山氏自身の政治資金疑惑騷動からも明らかな、公知の事実ではないか。

これを機に鳩山・小沢の連携が機能しだせば民主党政権は今の党内体制を大きく変えることなく少しはまともな改革も実行できるかも知れない(ただ延命的なバラマキやあからさまな参院選向け政策はどうかと思う)。とはいえ民主党内の政策のばらつきや連立与党間の関係を見るにつけ、たしかに政界再編は必須だろうなと実感する。社会党社会民主党や旧社会党系民主党議員の発言を新聞で読む度に、「こういう人と議論しながら妥協点を見いだしてゆくことはまず無理だろ、だってハナから聞く耳持ってないもんね」と思うことがよくある(そうではなさそうな人もいるけれどそういう人に限って前回選挙で落選していたりするんだな)。
いや、書いた後で気分が悪くなる政治ネタはもうやめよう。

(以下、2010/01/27追記)

官吏は強し、か

  • 2010年01月16日 (土)

週末を
挟んで二日
経ったなら
疑惑は最早
既成事実か

(タイトルに「メモ」と入れるのを忘れた)

維新は遠くなりにけり

  • 2010年01月07日 (木)

杉山茂丸の著した『百魔』をようやく読み終えた。800ページを軽く超える人物誌はまるでスルメのように味わい深く、晩酌片手に読むには好適な一冊であった。1864年生まれの杉山が、彼の破天荒な生涯において関わりを持った有名無名の人物について手当たり次第に書き附けている。頭山満から始って、平岡浩太郎、品川弥二郎、星一、後藤猛太郎(象二郎の息子)・・・・・・と延々講談調で続いてゆく(なんでも留置場で同房者から講談を学んだ由)。ざっと勘定してみるとこの本の八割方はほぼ無名の人物について書かれている。無位無冠無職を誇った杉山の書いたものであることを考えれば当然なれど、日経新聞の「私の履歴書」とは全く趣きを異にする(当然です)。

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ところで最近大河ドラマ(幕末もの)が人気だとか耳にした(正確には、目にした)。総理大臣が国会冒頭「維新」を口にする時勢であることを考えれば、まぁそういうこともあるかもね、と思わぬでもない。私自身はNHKの大河ドラマを最後に見たのが何時なのか記憶にない。いまちょっとだけ思案してみれば、どうやら最後に(まともに)見た大河ドラマは太平洋戦争当時の日系アメリカ人を主人公とした「山河燃ゆ」(山崎豐子原作)だったような気がする。このドラマは1984年放送(Wikipediaで調べた)ということなので四半世紀前になる(まともな調べ物には頼りに出来ないWikipediaもことテレビや映画の記録としては大変便利で有り難い)。では何故に幕末・維新・時代劇を面白いと思えない私が昭和前半の歴史ドラマに多大の興味を覚えるのかをつらつら考えてみた。そしてひとまず達した結論はというと、時代劇(含む幕末もの)にはいわゆる「市民」が登場しないからつまらない、ということだ。

時代劇と云えばまあ御武家様が主役である。悪代官(これも御武家サマ)と結託する商人やら虐げられる百姓がほんの取るに足らない「その他大勢」として登場することはあっても端役はどこまでいっても端役でしかない。維新の元勲のように「御一新」以前は郷士だとか何だとかとして抑圧された人たちが主役であった場合も、その彼等の眼中には国家や天皇の行く末はあれど下々の名も無き百姓(ひゃくせい)は無いかの如きにしか描かれない(実際の所どうだったのかは知らない、もちろん)。一方で昭和前半の「軍国主義」の時代にあっては士農工商関係なく(まさしく十把一絡げに)国家というか社会というか集団化圧力というかそいういうものに大なり小なり抑圧される、と。つまりもし私がその当時に生きていたならば、(ただの土百姓である)私自身もまた無関係ではいられなかったわけだ。その相違点にこそ、私が明治以前の時代劇と昭和前半を扱うドラマとにそれぞれ共感を持ってみることの出来ない理由・出来る理由があるような気がするのであった。そんなわけで、維新がどうとか革命がどうとか戲れごとを言っている足下で「誰と言うことの出来ない”力”」が着実にそしてますます力を増していることを自分以外の人たちが今どのように考えているのかを私は是非知りたい、というか興味津々な今日この頃であります。つい最近のNHKドラマ「気骨の判決」を見逃したのが悔まれる。

以下ついでに。
開府以来300年もとい60余年の長きにわたり国政を預かってきた徳川幕府もとい自民党の支配の下、武士であって武士でない郷士もとい国会議員であって国会議員でなかった非自民諸政党が、経済発展の頭打ち人口構成の大変化という未曾有の国難に加うるに黒船もといグローバル経済の衝撃を奇貨として新たな政権を打ち立てることに成功した、と(あぁ息が切れた・・・)。で、ついつい維新の志士のイメージに自らの姿を重ねてしまうのであろうか、ね。
で、どうすんだ?

「キム王朝」と「財政改革」と「選挙の神様」

  • 2009年12月15日 (火)

この週末、録画していたドキュメンタリーを何本か見、一冊の本を読んだ。一度見た(読んだ)ものもあったし今回ようやく見たものもある。ひとつは北朝鮮の独裁体制成立にまつわるNHKのドキュメンタリー、ひとつは戰前の国会で”粛軍演説”を行った斉藤隆夫のドキュメンタリー、そして行財政改革に取り組み暗殺された浜口雄幸と井上準之助を取り上げた城山三郎『男子の本懐』。

北朝鮮の独裁体制成立の過程をたどったNHKスペシャルのシリーズ「ドキュメント北朝鮮」は2006年に放映されたドキュメンタリーということなので、丁度北朝鮮による日本人拉致がにわかにクローズアップされた時期に制作・放映されたわけだ。なかなか面白かった。一番印象的だったのは、金日成が(特に権力を確立するよりも前の時期に)彼の後盾であった各国の有力者に接するときのと立ち居振る舞いと金日成に対する金正日の振る舞いとがとても良く似ていたことだった。自信の無さ気な、相手に媚びるような視線・表情・態度がほんとうに瓜二つと言ってよいほどよく似ている。そして彼等二人がそれぞれ権力を確立した後の傲然とした態度がこれまた思わず笑ってしまうくらいに良く似ている。権力を握るまでの過程で見せる弱気とその後の豹変ぶりは、彼らが権力にのみ自己のアイデンティティを見いだしていることを容易に想像させる。その点で言うと、つい先頃までアメリカ合州国大統領として世界で最も強大な権限を握っていたともいえるブッシュ(息子)の、いかに一生懸命いかめしく見せようとしてもその能天気さが隠しようもなく滲み出ていた顔つきがとても可愛らしくすら思えた。

斉藤隆夫のほうもNHKだが、こちらは「そのとき歴史が動いた」というドキュメンタリーとしては出来の良くない番組(そもそもドキュメンタリーではないのかもしれぬ)なので、見た後に演説の詳細をネットで幾らか調べた。帝国議会の議事録がネットで閲覽できるようになっているものの画像ファイルのためテキストが簡単には抽出できないなのでここに引用しづらい。そこでネットで探索してみた所たいへん有り難いことに斉藤隆夫関係の情報をまとておられるサイトがあった。ちなみにwikipediaとは比較にならない程充実したサイトなのにgoogleではちょっとばかり見つけにくかった。
http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/
以下、同サイトより昭和11年5月衆議院における斉藤隆夫の「粛軍演説」前半部分を引用してみる。

敢然して国政改革の断行を誓わるるに当りましては、天下何人と雖も之を歓迎しない者はないのであります。併ながら翻って考えて見ますると云うと、国政の改革、国策の樹立、之を唱えることは極めて易いのでありまするが、之を行うことは中々困難であります。固より是等の題目は今日初めて現われたのではない、又現内閣の新発明でも何でもない、従来政府之を唱え、政党之を唱え又有ゆる政治家が之を唱えて国民に向っては何かの期待を抱かせて居たのでありまするけれども、之を具体化して以て其の実行に着手したる者は殆ど見出すことが出来ないのである。
(中略)
吾々は随分長い間行政刷新、即ち行政機構の改革と云うことを聞かされて居る、例えば省の廃合であるとか、或は無任所大臣を新設する、其他中央地方の行政組織を根本的に改革して、之に依って行政を簡易化する、行政を刷新する、行政費を節約する、繁文褥礼の積弊を芟除する、斯う云う議論は随分長い間聞かされて居る、政府も之を唱えるし、政党も亦之を唱えるけれども、今日までそれが実行せられた例はないのであります。
(中略)
或は又近頃各地に於て人権蹂躙の問題が起って居りますが、其事実を聞きますと、実に驚くべきものがある、所謂粛正選挙、選挙取締を励行することは極めて宜い事でありますが故らに……
(「内務大臣どうした」「大臣の出席を求めます」と呼ぶ者あり)
犯罪を製造するが為に法規を濫用して、濫りに人民の自由を拘束する、人民の自由を拘束するばかりではない、強いて虚偽の自白を求むるが為に之を虐待し、之を拷問し、或は人身に傷を負わせ甚しきに至っては拷問の結果、良民を死に至らしめたものがある
(拍手)
何たる野蛮の行為でありましょう

http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s13/
斉藤隆夫の演説記録を読みながら頭に浮かんだ言葉は「十年一日」。齋藤の演説のほんの数年前「構造改革」に取り組んで暗殺された二人の政治家を扱う『男子の本懐』の読後感もまったく同様である。行政改革・財政健全化・国家の成長戦略といった争点は80年前のあの頃も今もまるで変化がない。「選挙の神様」までがよく似ている、安達謙蔵という人物の来歴を眺めていてふとそう思った。

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(2009/12/23追記)
国会速記録から齋藤の粛軍演説全文をテキスト化してみた。
「斉藤隆夫「粛軍演説」全文(旧仮名旧字体)」

お辞儀と国旗と国家

  • 2009年11月16日 (月)

嫁入りしてきたばかりの小娘に小姑があれこれ難癖をつけるようなことは、半世紀前ならともかくとして今の日本ではもうあり得ないのかもしれないけれど、それに似たようなことは相変わらずよくある。

鳩山政権が始動したばかりの時期に「内閣の誰それは国旗に一礼したがだれそれはしなかった」云々ということがあった。さすがに大手マスメディアでは取り上げられることもなかったようだが、インターネット上ではそれについて喋々しつつ「国旗に一礼しないとはけしからぬ」という主張(?)がけっこうあるらしい。

こういうものは、自民党の残党どもが暇にあかせて書き込みまくっているのであらうか。先の衆議院選挙前のネガティヴキャンペーンアニメやらつまらない三行広告(これは総選挙メモとしてこのブログにその一部を記録した)などの前歴からして、それも無きにしもあらずという気がするなぁ・・・。

そもそも”国旗に一礼”という儀礼というか虚礼というか習慣を始めたのはどこの誰なのだろうかということが気になっている。こうした習慣もごく内輪の(「一礼あたりまえやろ〜」という人たちの集団)ものなら別に異論もないし、そもそも私自身出るとこ出たらやりますよ、そういうこと。ただ、それはあくまでもそれが自然な振る舞いだと感じられる限りにおいてのことであって、いつ何時も・誰もがそうすべきことだとは思わないし、ましてやそうした虚礼(おっと失礼!)を他人に強制したりしたくはないし、そうした虚礼(おっとまた失礼!!)を無視したり敢えて避ける人を糾弾しようとはまったく思わない。そしてまたそれはなにも国旗に一礼に限ったことではない。思いつく限りのあらゆることに関して、そうした「習慣の強制」は余計なお世話だし、薄気味が悪い。

ま、つまるところ(つまるほど書いてもないけど)、この国旗に一礼を始めたのはどっかの田舎の校長先生あたりではなかったかと勝手に想像している。で、たぶんそういうことを頼まれもしないのにやるような人は戦争中には他人を非国民とののしり生徒を戦場に喜んで送り込み、いざ戦争が終わったらコロリと転向して民主主義を語って得々としているような人間だろうな、と思う。国旗に一礼という習慣が決してそれ自体は悪いことでも非難されるような習慣でもないのだとしても、そうしたあれこれをさもそうするのがあたりまえで、そうしないやつは礼儀を知らんとか非国民とか変わり者とか言って他人をののしるような仕儀は既にそうした心性自体が礼儀からも道徳からもヒューマニズムからもかけ離れているのではなからうか。

この国旗に一礼のあれこれについてネットのどこかで見た後に、ふと見たテレビのニュースで今の防衛相(北澤なんとかさん?)と来日したアメリカの国防長官との面談風景が映し出されていた。一連のシーンの中で両国の国旗を素通りする米国防長官の後ろで国旗に一礼する防衛相が映っていたのをみて、感心するよりも先にその杓子定規な振る舞いからは、先に書いたような校長先生の滑稽な姿を連想させられたのであった。私はそのときの国防長官の振る舞いを失礼だとはそもそも思わぬが、なんなら「アメリカの国防長官は素通りしたのに我が国の防衛相だけが一礼するなどということは国家の体面上はなはだ怪しからぬ!!」とまぁ言えなくはないのだろう。しかしそもそも或る場所に居合わせたとして、そこにいる誰か一人でも「国旗」なり「ご真影」なりに一礼してしまえば、もうほかの人たちもなんとなくそうせざるを得ない雰囲気になってしまうのが日本人の習性でもある(違うか?)。その伝でいくと誰かに何かを(たとえば国旗に一礼とかを、ね)暗黙のうちに強制してしまうような振る舞いは避けるというのもまたスマートなやり方だと言えなくもない。なんだかだらだら書いている割にわかりにくくなってしまったが、要は、自分自身にとっては当然あるべき振る舞いであったとしてもそれを他の人に押しつけたり(暗にでも)強いたりするような真似は(躾や教育は別として)決して褒められたものではないぞ、とそう言いたい。

そしてそれをひっくり返せば、たとえ外交儀礼から見れば疑問符がつくようなことであっても人間儀礼(人としての礼儀)という観点から見ればとても好感の持てる振る舞いもあるな、と思う。立場や地位はさておき年長者を敬う(敬うような振る舞いをとる)という彼(か)の国の習慣を尊重する、郷に入れば郷に従うというような立ち居振る舞いは単に年長者を敬うということそのものよりもなお礼儀にかなっているように思う。表面的なものだけに目を向けてあれこれ難癖をつけるのはちっとも難しくない(それこそ阿呆なちんぴらにもできるような)ことである。もちろん、アメリカ人の視点で見れば「ちょっとどうかね、それは・・・」となるのも理解はできるし、当然の反応ではあるかもしれない。ただ、見る人によっては”卑屈な態度”ともとられかねないオバマ大統領の一件は、少なくとも私にとってはアメリカという国の印象をいささか変えるだけのインパクトがあった。

自分が大切に思っているもの(こと)を自分と同様に大切に思ってくれるという態度、あるいはまた或る人が大切に思っていることそれ自体を尊重する態度というのは、まさしく礼にかなっていると言ってよいような気がする。それはまた国旗に一礼するもしないもあくまで当人の意志に任せるのが本来の「礼儀」にかなっていると言うべきことのように思われるのであった。

FOXテレビは15日、オバマ大統領のお辞儀の場面と、2年前に当時のチェイニー副大統領が天皇陛下との面会で頭を下げずに握手する映像を比較。その上で、オバマ氏の今回の行動は「大統領として適切ではない」などと批判した。また、ロサンゼルス・タイムズ紙のウェブサイトは、今回の皇居訪問の際の写真と、オバマ大統領が4月にロンドンでの国際会議で会ったサウジアラビアのアブドラ国王に深く頭を下げたように見える写真を掲載して、「新しい米国大統領は、世界の王室にどこまで低姿勢で行くのか」と皮肉った。

「オバマ大統領の両陛下への「お辞儀」、米で波紋」(Yahoo ニュース)


How low will he go? Obama gives Japan’s Emperor Akihito a wow bow (Updated with video, pic)
(ロサンゼルス・タイムズ紙)

コメントの数がすさまじい・・・

(メモ)2009年総選挙備忘録

  • 2009年08月31日 (月)

昨日の選挙の結果、民主党が単独過半数獲得。自民党惨敗。
今回の選挙、特に自民党の苦戦が報ぜられていたが、あまりにも当然のこととして我が耳を素通り。
事前の、細々とした選挙情勢報道は、食事を終えた後に出される頼みもしない椀子そば。唯一、自民党がインターネット・新聞等に出稿した広告だけに目がいった。自民党の苦戦、というよりは「打つ手皆無・・・」の状況がありありと映し出されていて、良くも悪くも興味深かった。
以下、その一部を記録しておくとする。

(以下、掲載日順ではなく順不同)

景気回復を止めるな。
日本を壊すな。

回復への兆しが、またひとつ。
15ヶ月ぶりにGDPが年率3.7%に上昇。
自民党

継続は、力なり。
大きな賭けより
確かな政策こそ
景気回復への道。
自民党

日本を考える夏にしてください。

民主党による
「子ども手当の創設」
 ↓
増税になります
配偶者控除・扶養控除や児童手当が廃止になります。
子どものいない
専業主婦世帯は増税に。
よく考えてください。自民党

民主党による
「25%のCO2削減目標」
 ↓
各家庭の負担が
36万円増
目標達成のためには、
総合的な政策が不可欠で、
例えば、住宅への
太陽光発電の義務化、
次世代自動車以外の
購入禁止などの実施が
必要に。
よく考えてください。自民党

民主党による
「年金制度の一元化」
 ↓
自営業・農業者
イジメ
自営業者や農業者も
収入の15%が保険料に。
年収約400万円の場合、
現在の保険料から
月額5万円以上に。
よく考えてください。自民党

(2009/09/03追記)
確定投票率69%(前回総選挙67%) 
[※総務省発表データから端数切り捨て]

ほんと歴史はクリカエス

  • 2008年09月21日 (日)

ろくでもない出来事ばかりが見聞される今日この頃、暇さえあればC.G.ユングを読んでいる。とはいえ、その暇も今のところ余り無い。なにせ農繁期でもあるので、ここぞとばかりにせかせか働いている。疲れた身体を寝床に放り込んでユングを読んでいると、何とも言えず気持ちが落ち着いてくる。ちなみに今読んでいるのは『現在と未来』。ここ数ヶ月、こればかりを何度も何度も読んでいる。

自民党総裁選は、名ばかりが知られた泡沫候補たちと、「国民的人気を誇る」本命候補による出来レース状態であると新聞にはある。歴史はクリカエスノデアルナア・・・、と安倍さんの顔を思い浮かべながら嘆息する。「国民的人気」とはすなわち「これといった理由もない、なんとはなしの、単なる雰囲気に過ぎない人気」ということだと私は考えるが、自民党の人々はその程度の、埒もない人気者にあやかろうとゴチャゴチャやっておられるのだそうである。実体の伴わない「国民的人気」に賭ける自民党議員と、実体の伴わない(過剰に抽象的な)マネーゲームとその破綻とが、私の目にはだぶって見えてしようがない。巨大投資会社の破綻の次には、自民党の衆院選惨敗と下野というニュースが飛び交うことになるのだろうか。ありそうなことだ。

一口に国民的人気といっても、オリンピックの金メダリストやメジャーリーグのイチロー選手に向けて言われる「国民的人気」と政治家に向けられた「国民的人気」とは全く似て非なるものであることは、恐らく多くの人々の感じるところであると思うが、なぜだかそのような言に接したことはそれほど無いような気がする。

”政治家と人気”に関して言えば、ヒトラーだってムッソリーニだって当初は「国民的人気者」であったというちょっとした歴史的事実を知る者なら、「人気」というものが如何にあてにならないものなのか知らないはずはないだろうに、我が身かわいさ票欲しさ目先の欲得目当てから人気者に群がる(一部の)自民党議員たちは、もう見るも無惨と言う他はない。ただ、それでも私は、衆議院選挙を間近に控えた今だからこそ、「イツソノコト麻生(太郎)サンニ早イトコロ政権ヲ取ツテモライタイモノデアルナア」と思っている。

と、そんなこんなを考えた後には、ユングの一言々々がまことに溜飲の下るものに思われるのでありました。

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なるほど、そういうことか

  • 2007年12月18日 (火)

また大魚を逃した気分なり。昨晩も想念がふくらみすぎてふくらみすぎて困るくらいであったのに、布団から出ることあいかなわず。考えていたことといえば年金問題と島田雅彦。なおこの両者につながりはない。

「年金記録統合やっぱり無理です」問題でなぜあれほど公約違反公約違反と騒がれたのか(すでに過去形)。年内に完了する、一年以内に終えます、とは安倍前首相の「お約束」であったわけだが、当時から既にそれが単なる政治的発言(実現可能性を度外視した発言)に過ぎないことを少なからぬ人たちが指摘していた。なにせ実務上それ(記録の完全統合)がほぼ不可能であることは見えていたのであるから、それを「ぜったいやります」という発言の中には、文字通り(額面通り)ではない含意を読み取る方が理にかなってかなっていたからだ。

福田Jr.首相に対する公約違反非難の大合唱も改めて考えてみればなにも不審がることではなかったなと今は思う。公約違反を非難している人たちにとっての優先順位は時の政権に打撃を与えうるかどうかにあるにすぎず、したがって社会保険庁が過去数十年にわたってなしつづけてきた不始末をどのようにして解決するかという点は考慮のほかなのだ考えてみれば、あまりにも当然の公約違反非難スクラムである。問題(課題)そのものの解決そっちのけで「犯人」を探し求め「責任者を出せぇ」とがなりたてる人たちに対して、「あのさ、そんなことはじめから分かってたんじゃなかった?」と言っても無駄だ。あのスクラムを組んだ人たちをチンピラ呼ばわりするつもりはないが、やっていることはまるで同じなのではないですか? とひとこと言いたい気はする。

そもそも年金記録問題は政策課題ではない。なぜならそこにはそもそもほかの選択肢が存在しないからだ。「調べます、統合します、解決します」という以外の選択肢ははじめから存在していない。むしろ政策課題とすべきはこの問題を「今後どのような方法で解決していくのか」ということであって、「解決するか解決しないか」「(いつまでに)解決できるかできないか」ということが問題の核心ではない。しかしながらそのあたりの切り分けがマスコミにはできない(というより「する気がない」のだろうな)。官僚ならぬ政治家の本務は、錯綜する利害関係を調整し、選択可能な複数の選択肢にとりまとめ、国民に提示し、国民を代行して決定をなすというところにある。つまりはそもそも選択肢の存在しない問題(解決しますとしか言うほかない問題)についてそれを「公約って言ったじゃないか」と批判するのは「政治家」に対する批判としては的外れと言える。もちろん安易に「公約した」のなら批判は甘受すべきであろうしそもそも首相は行政のトップじゃないか、と言えば言える。しかし行政官に対して「公約違反」を咎めるのはいささか奇妙なことである。まあ問題の大きさが明らかになったところで次の首相が登場してくればちょうどよい、福田さんは掃海艇・地雷処理係としての任務は完遂したのだということになろうか。いたずらにほかを刺激しないというところはまさに「掃海艇」といえるかもしれぬ

もし大手新聞の一社や二社が「公約違反」とがなりたてているくらいなら私とてこんなことはたぶん書かない。ところが現実はそろいもそろってそればかりというのでは嫌味のひとつも言いたくなるというもの。なにせそれをやることで問題の解決に近づくとはちっとも考えられないのだから。ほんとうに物事を解決しようとするのならば、そもそも問題はどのようなものなのか、現状はどうなっているのか、原因(これは「責任の所在」ではなくて「機能的な原因」)は何か、そう考えるのが自然であろう。今の日本ではそうしたことが考慮されることがないまま、なんでもかでも「政治問題」「政権批判」に結びつけられてしまい、解決すべき問題の本質はいつまたっても閑却されたまま放置されてしまう傾向があるようだ。せめてどこか一社でもクールに問題を追及追究するマスコミがあっても良いと思うのだが。
それにしても大手マスコミはどこをとっても金太郎飴だ(ま、いまさらだな)。佐世保の乱射事件に関する12月16日付けの全国紙論説はそろいもそろって銃所持許可要件の厳格化一色に染まっていた(先日のエントリで引いた某地方新聞社もまったく同旨であったな)。その言うところに異を唱えるつもりはないものの、誰も彼もどの社もこの社も言うことは同じ、という状況は気味が悪いとは言える。本当に彼らが自分の頭を使って書いているのなら、もう少しそれぞれ違った視点から問題を捉えそうなものだが。まあ同じ人間の考えることがそれほどかけ離れたものではありえないとも言えるだろうけどさ。

ともあれ難癖つけられるのなら細かいことはどうでもいいということかもしれぬ。
もしそうならほんとにチンピラだよ。
知性の欠けてしまったマスコミの恐さを日本人がもう一度味わう機会がそう遠くない未来にやってくるのだろうか。

と、こう書いてみてやはりというべきか、当初の予定とはかけはなれたところに着地してしまった。しかもどうやら着地失敗。まあいい。なんだか「失敗して何か問題あっか?」と開きなおる習性は年々強化されていっている気がするな。態度の悪さは昨日今日からのものではないので。御免なすって。

ついでに
くおりあさんがまーちゃんといっしょになって某作家をチクリといじめていた。ちょっと思うところがあったけれどそれについてはまたいずれ。

不作為の罪

  • 2007年12月14日 (金)
  • キーワードタグ: 役人

あれもこれもせねばならぬというとっちらかった状況にちと苛立ちを感じているときは、たいていそのどれもが中途半端になって、墓穴というほどではないにせよ落とし穴を掘ってしまうことになる。そういうことは分かっちゃいるが、泡立ってくる感情を制御するのはなかなか厄介。修行が足りない。おいらのケツもまだまだ青いということだ。

既に前のエントリ「こうやくいかん」で書いたように、「約束したじゃねえかよ」とネチネチ責めることは、問題そのものの解決や再発の防止に毛ほどもよい影響をもたらさないどころかむしろ悪影響すら考えられるのであるからして、じっくり考えて欲しいものだ(他力本願ですまない)。むろん過去数十年に渡って溜め込んできた膨大なゴミの山をあらためて整理しなおしてそれぞれ数千万のグループに分別するということがどれほど困難、いや絶望的なことであるかくらいのことは私にも分かる。したがってデータの云々とは別の次元の解決法も考慮されなければならないのだろう。なにせ積極的な(前向きな)対策といえばそれしかないのだ。データの再整理に関しては、これはもうやり残した夏休みの宿題どころのハナシではない。過去のツケをうやむやにしてしまうはずがどうしたはずみか表面化してしまった。お天道様はだませない、のだ。

いったい社会保険庁は過去数十年間なにを「仕事として」きたのであろうか。

この年金記録問題はどうやら過失によるものではなく不作為の罪というべきだろう。「放っておけばいずれ片がつく」「黙っていればバレはしない」という組織的判断が下されたと考えなないことには理解し難い事件を、大手マスコミは今日まで大臣たちのパフォーマンスやら末端職員の横領事件(そもそも事件化すらされていなかったのだそうだが)というところに、そして「政府与党の公約違反」程度のことに矮小化し続けている。そう、矮小化し続けているのだ。これは私の筆の誤りではないよ。

むろんそれらが取るに足らないことだと言いたいわけではない。ただ、問題はそれだけにとどまらないのではないかと言いたいだけである。問題を先送りし続け、ほっかむりを決め込み、自分たちだけの利を追い求める。自らが果たさねばならぬ責務にはまるで盲自である一方でおのれのちっぽけなプライドとポジションを保つことを基準としてすべてを図ってきた。かりにそれによって他人がどのような悲惨な状況に陥ろうと、あるいは他人に時間的・金銭的・肉体的その他諸々の損失を与えようとも「オレ様の利益に比べればちっぽけなものだーい」と知らず知らずのうちにでも思っているのだと考えなければとても理解不能なことども。ましてこの年金問題は膨大な人間と莫大な金銭が関係している。大騒ぎにならぬほうがむしろ奇妙なくらいのものだ。このような不作為が同庁あるいは厚生労働省だけの特殊例だという証明が決して不可能であるところからかんがみるに、この年金問題以外にも同様の不作為があちらこちらに滞留していないと言うことはできないことになる。現に薬害問題が同時進行中のようだ。これもまた酷いはなしであって思わず拳が固くなる。

今の日本、国じゅうが背信と裏切りとで覆い尽くされている。せめて我が身の周囲だけでもそうしたものとは無縁のものにしたいと強く強く思う。しかしこれもほどほどにしておかねば結局自分自身が怒りに呑み込まれかねない。これには是非気をつけておかねば。なぜなら怒りは無駄に体力を消耗させるから。俺もまた自分だけの利益を考えてるとはたしかに言えるわけだ。

こうやくいかん

  • 2007年12月14日 (金)

もうとっくに視界から消えていた話題がまたぞろわさわさと薮の中から飛び出してきました。年金記録問題のことです。しかしあれです、「ないものはない」「(記録精査は)エンドレスです (=実現不可能だぁ)」とは舛添さんしか言えないでしょうね。いや、舛添さんというよりはタレント議員だけが許される発言。これがフツーの議員さん、まして2世、3世のおぼっちゃま大臣の発言であったら逆風どころか暴風雨になったでしょう。今の日本では本当のことを発言することは「道化師」だけに許されている特権なのでしょうね。ははは。

膨大な年金記録の照合をそもそも半年や一年で解決できないことは分かりきっていたわけですが、就任したばかりの首相にしろ厚生大臣にしろ「どうします?」と問われて「無理です」とはそりゃ言えない。「解決します!」としか言えるはずがない。それをいまさら公約公約違反違反と責めたところで、あまりに白々しいのではないだろうか。なにせ記録の完全照合が無理難題であることは自明のことだったのだから。この問題が明るみに出た当初からそれが遂行不可能なミッションであることを多くの人が指摘していた。私ですら書いた。
(過去記事)「年金記録照合が1年でやれるのか?」
その大意に「やれソース」だ「データ」だ「証明せよ」などと疑い深い現代人向けに(疑い深くて当然だ!)細かい数字をくっつけると次のようになる(毎日新聞と私とは縁もゆかりもないことをあらかじめお断りしておく)。

宙に浮く年金記録約5000万件の内訳(・・・)うち945万件(全体の18.5%)については氏名などの転記ミスがある記録で、相当数は今後手書きの原簿と照合をしても持ち主の特定が困難(・・・)「氏名」「性別」「生年月日」の3条件を、コンピューター上で5095万件の3条件と突き合せているが、まだ5095万件のうち1975万件は条件が一致していない。(・・・)

要するに「やばい、無理かなとは思ってたけどやっぱり無理でした」ということにすぎない。結論は最初から見えており、今回のはなしはそれを数字で表現しただけということだ。当たり前田のクラッカー、延べ2億件近い、それもそのひとつひとつがそもそも怪しげなデータが電子計算機のプログラム如きでどうにかなるものではなかった。

この記事によると3条件では名寄せできないものの内訳は次のようになっている。

▽死亡者の記録とみられる280万件(5.4%)
▽結婚などによる氏名変更510万件(10.0%)
▽氏名の漢字カナ誤変換240万件(4.7%)
▽その他945万件

これにしても死亡・結婚・誤変換であったと判明したのではなく、「たぶんそうじゃないかなぁ」という目星がついたというだけのはなし。数字が並ぶといかにも確からしく見えてしまうものだがそのじつ、上の数字はまるで確かではない。仮説・推測の羅列というだけのことだ。さらに最後の項目945万件とあるが、これなどは「まるででたらめでした」と数字が語っている。

手書き記録を入力する際、社保庁職員が誤った情報を打ち込んだものや、採用条件を満たすため年齢を偽って申請した人の記録などとみられる。こうした記録は原簿と照合しても情報を一致させるのが難しく

これは実際上、難しいのではなく無理だとはっきり言うべきだろうが、不可能であることを「証明することができない」からぼかしているだけと見える。与件がそもそもめちゃくちゃ(「誤り」ではなく「無い」に等しい)なら解決は不可能と言うしかない。

数字が並んでいかにも「調査らしく」見えるけれど、言っていることは単に
  やっぱり全部は無理
  一年以内なんてとんでもない
それだけのこと。

標高10万メートルの山に登ることを厳命された人が大金はたいてちっぽけな酸素ボンベを買い整え、レーザー測距機その他で山の高さを測定して「一年以内に頂上に辿り着きます、ぜったい!」と言ったところで信じる者などいるはずもない。

登りますと言わざるを得ないものをつかまえて登ると言わせ、「やっぱ無理そう」と彼が尻込みしたところで「おまえ登るて言うたやないか、あん」とはそりゃないだろ。

とはいうても、調べます言うたのもあんた、ちゃんと管理するから俺に金あずけなはれ言うたのもあんた。
自業自得。
ほんとに金まだあるんかね? とっくに使いこんだんちゃうのん?

間違いに気づいたら言い訳せんと逃げ道つくらんと「ごめん、まちごうとったわ」言わんとさ、あとが苦しゅうなるもんな。あれこれ小細工四の五の言い訳、たいへんよ。無駄な労力神経使うて得るもんはまるでなし。
「すまん」と言うてきっちり後始末、それでええんじゃなかろか。

さすがはATOK、賢いなあ・・・。買って良かった。
お、タイトルだけが「浮いて」しまった。膏薬と公約をね、「マッチング」させる予定だったのだが。。。

意識朦朧布団屁轟。

マッチポンプがいちばんおいしい

  • 2007年11月08日 (木)

台風一過、ってか?
嵐のように湧いて出た騒動がひとまず収束しつつあるようで。こちとらそれどころじゃなくて台風が荒れ狂っていることも数日前までは知りもしなかったが、一昨日だかにテレビで見かけた剛腕代表の表情からただならぬ雰囲気を感じてザッとニュースを検索して見てみた。
「ひでぇな、こりゃあ」
台風一過の青空とはいくまいね、これでは。死屍累々、家屋倒壊、堤防決壊、復旧の目途たたず。

剛腕が肘を痛めようが政治生命絶たれようがさほど興味は無い。それにしてもこの狂ったようなマスコミの騒ぎっぷりは目に余る。というより付き合ってられない。読む気も見る気も起こらない。とはいえさきほど一連の経過を確認してみるためにニュースの類を読み返していたが、そのほとんどは伝聞に基づく憶測記事ばかりであった。唖然呆然。これらの記事がバケツをひっくり返したかのように世の中に溢れかえったなら、「先行き不透明」「混迷」「不可解」の声ばかりになって当然だよな。なにせ憶測で書いた記事がほとんどなんだから。「不可解」なのは政治ではなくむしろ記事・ニュースの内容というべきだった。

かたや「自民党幹部は・・・」「与党関係者は・・・」と伝聞を語り、かたや秘密会談の内容をまるで自分の目で見てきたかのように書き散らす(情報源の影も形も見当たらず)。台風の目の中にいた例の二人の生の言葉は記者会見などほんのごくわずかしかないのに、その周囲の連中が「福田さんはこういった」「小沢さんはこう言った」と喋々し、これをまた「じゃあなりすと」様たちがまるで当人たちが語ったかのような大ニュースとして撒き散らした(S新聞とY新聞がとくにひどかった)。結局騒ぎ立てていたのは台風の目の周囲にいた連中。目の中にいる二人意外なほど静かで寡言であったようだ。

じゃあなりすと様はよく「情報源の秘匿」をおっしゃるけれど、しばしばそれを悪用してニュースを「作る」。そのテの連中がチャラチャラ書き飛ばす記事のなかから事実らしきものを抽出してみるとこれが極めて微量、どうかすると皆無。それでもページビューは増え号外が出て紙面が埋まる。結構なことであるなあ、おい。儲かったかい?

剛腕氏は「恥ずかしながら撤回」らしいが、今回の騒ぎに関してはむしろじゃあなりすと様たちのほうがよほど「矩を越えてしまいました(いつものことですが)」と恥じ入ってみてはどうだろうか。Y新聞のある記者あたりは、マスコミ批判した剛腕氏に「どこの報道がどう間違っているのか。党首会談に至った経緯について、わが社の報道は複数の情報源から取材した根拠のあるものだ」と啖呵をきったそうだが、もしや自社が流布した記事を読んでいなかったのだろうか?情報源が複数なら信憑性があるわけではない、ということは自明だろう。たとえば(じゃあなりすとではない)一般の人が、ある事件について複数の新聞やテレビ(情報源)から情報収集したばあいはこの記者の言うような「根拠のある」情報といえるのか。否。たいていの場合、事件事故に関する報道のソースは一つしかない。捜査機関の発表を各社がちょろちょろアレンジして書いた記事なぞ、たとえそれが10社分でも100社分でもカスはカス。ソースは一つ。与党やその取り巻きあたりからどれほどたくさんの情報を集めたとて情報の精度は上がらないよ。複数の情報源は、それぞれが(いろんな意味で)離れていれば離れているほどよい。それでこそ始めて「複数の情報源」といえる。いや、もしかするとY新聞の記者はそのことを充分ふまえ、実践したうえで上記のような言葉を吐いたのかもしれないが、実際の報道を見るかぎりまずそのようなことはなさそうだ。

騒動そのものは一瞥した限りでは「アホくさ」の一言に尽きるが、今回の出来事は事実上マスメディアの「死亡公告」であったように思われた。おそらく数十年前にも同様のことがあったのだろう。つまりマスメディアは何度でも死んできたしこれからも死につづけるのだろう。ああ、つまるところ彼らは不死身というわけか。なるほど。てか、初めから死んでるのか?

「ええじゃないかええじゃないかそ~れわっしょいわっしょい」

ここまで書いてきてふと最近読んだ本の一節を思い出した。

あまりにも急速に肥大した騒ぎの中で、それに火を点けたのが、飾磨の何の計画性もない「ええじゃないか」という一言だったことは誰も知らない.そういうものだ。
~森見登美彦『太陽の塔』新潮社2003

一言付言すれば、今回の騒動が誰かの「計画性」にもとづくものだったのかどうか、そんなことは私は知らない。知らないことは「存在しないない」ということを意味しない。分からないこともまた同様。私に分かるのは「自分が知らないことを知っている」ということだけだ。なにもべつに自分をソクラテスになぞらえているわけじゃない。知らないものは知らない。それだけ。でも想像するのは自由、でしょ!?

消されたカード

  • 2007年11月06日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

干天の慈雨とはこのことか。乾ききった大地がまるで甘露をなめているようにも見える。

しかしまあ日本(日本語)と「大地」て言葉はどうにも噛み合っていないような気がする、つねに。借りてきた猫、借り着、よそゆきの言葉。パールバックの名作はまだよんだことがないが、たぶんおれには鬼平犯科帳あたりのほうが好みに合うだろうなあとなんとなく思う。それでもまあ何事も経験なんても言うし、そのうちパールバックも読んでみるか。

借り着といえば民主政治なんてのもそう。対立する勢力の拮抗が「ねじれ」とはね。そりゃないだろ。

小沢氏、やめるのかやめないのか知らないしどっちでもいいけれど、本気で大連立なんて考えてたんだろうか?もしそうなら結局はこの人、その程度だったというわけか。「政策を実現するためには・・・」だということだそうだが、先の参院選で民主党に投票したひとのうち本気で彼らの公約の実現を信じていたひとはどれほどだったのだろうか。あれは結局のところ妻が、自分を顧みない夫に浮気をして見せたというくらいのものだと私は思う。夫を振り切って鞍替えするほどの魅力を持った男ではなかったということか。「これを機に化けることなきにしもあらず、か」と思わないこともなかったが、どうもね・・・。

口で二大政党制を唱えつつ大連立なぞ、まったくお里が知れるぜ。「だれも俺たちに政策そのものの実現なんて(まだ)求めてないんだ」と理解してやってるのかとおもいきや、さにあらず。

あくまでも給油法案に反対し続ける姿勢を眺めつつ、その結末に期待と憂慮を覚えていたものだが、まさかこんなつまらない芝居が繰り広げられるとは思いもせず。ポッキリ折れた安倍氏にせよプチンと切れた(?)小沢氏にせよ、アメリカにとって不都合な人物はたちまちにして挫折する。これが戦後日本政治の「公式」だとすれば、小沢氏の辞任を理解するにはどうもカードが一枚足りない気がする。一項足りない。イカサマ臭い。

臭いといえば、「大連立は小沢さんが持ち出してきた」とニヤニヤ語った先の自民党総裁候補(当初優勢を伝えられたオタクの教祖)の顔面からは強烈な腐臭が感じ取れたのであった。

「政界の混迷」云々の見出しが踊るアカ新聞(朝日のことではないよ)を眺めつつ、安倍氏がやめたとて大勢は変わっていないのだと実感。時代はまるで昭和初期。けっきょくのところ、肝心カナメの勘ドコロは誰も書いちゃあくれないようだ。そんなことを今さら期待する私の方がよほど時代が見えていないのかもしれない。「またまたポッキリ」がマスメディアの売り文句なのかもしれないが、おいおいそれではまるで風呂屋の呼び込みだよと憎まれ口の一つも叩きたいぞ、野人は。

安倍氏は信念の人であった、のか

  • 2007年09月19日 (水)

なんだか今さら今までの数々の前言を翻すようなタイトルですが・・・。今回ばかりは(読んでいただけるのなら)是非最後まで読み通していただければありがたい(アタマだけ読むってのは今回のみご勘弁を)。

「なぜ“ポッキリ”折れたのか 安倍首相の「心」を分析」[キャッシュ]という記事を見かけた。精神科医や臨床心理士といったいわゆる「専門家」の「分析」ということになっているが、その内容は、失礼を顧みずに言わせてもらえれば、まあ、下らないお伽話というやつである。

むろん彼らの分析自体は決して荒唐無稽とは言えないだろう。しかし、彼らは誰一人として安倍氏を直接診察したわけでも面会したわけでもなく、われわれと同様にテレビで彼の最後の演説を見たというだけにすぎず、その点では私のような素人と同じ地平に立つ「只の」専門家に過ぎないわけだ。陸に上がった河童ならぬ陸に上がった専門家。いや、もっとはっきり言おう。そこでの分析はお世辞にも分析と呼べる代物ではなく、一つ二つ精神分析学の専門用語(に見える程度のもの)がまぶされているだけで中身は床屋政談以下の代物だ。別に彼らが精神科医である必要などどこにもないようなお茶うけ話である。おそらく読売新聞にとっては彼らの肩書きが欲しかっただけと見える。また、私の見た映像ではこの記事が言うような「涙目」(退陣表明会見の際の安倍氏の表情のこと)には見えなかった(首相官邸HPにある映像を見た)し、施政方針演説の際の映像もこれまた同様(若干滑舌が悪かったようだが)この記事が言うほどの異常な点は見出し得なかった(「涙目」については私も確言は出来ない)。

ちなみに今回のエントリはマスコミ批判でも専門家批判でも、そして安倍擁護でもない。大手メディアがなかなか語ってくれぬことを私自身が書いてみようという試みである。

安倍氏は退陣表明以後、まるで溝に落ちた犬(失礼!)のように叩かれまくっている。曰く「坊っちゃん」「ポキッ」なのだそうである。上の記事も趣旨はそのようなものだ。もちろん私も、安倍氏がポキッといったという点に関しては認識を同じくする者ではある。が、私は別に聖人君子などではないにしろ、彼をいまさら小突き回すことにはまったく興味がない。

そもそも安部氏が1年前の自民党総裁選挙で圧勝し得た要因は、「改革の旗手」と見なされていた小泉が自らの後継者と位置付けたこと、そして対外的な、特に北朝鮮に対する「毅然とした態度」が自民党員の圧倒的な支持を得たこと、そして総裁選挙には直接には関係のない一般市民の熱烈な支持が「選挙の顔」として”使える”と自民党議員に確信させたところにある。なかでも対北朝鮮強硬姿勢は度々メディアによって流布されたため、少なくとも世間一般の少なからぬ人々にとっては安倍氏の人物イメージを形成する上で重要なファクターとなったと私は見る。

就任後の安倍政権は、やらせミーティング、閣僚による数々の失言をものともせず着実に「実績」とやらを作っていった。是非はさておき教育基本法改正、防衛省昇格、国民投票法成立・・・。安倍氏は「戦後レジームからの脱却」という自らの信念を着々と現実のものにしていった。そしておそらく安倍氏は「北朝鮮に対する軟弱外交」もまた戦後日本の病弊と考えており、彼にとって対北朝鮮強硬姿勢は単なる人気取りのためのポーズにとどまらない重要性を持っていたはずである。いつの頃からか「ぶれない小泉」「ぶれる安倍」と前任者と比べられ貶められるようになった安倍氏であるが、彼が徹頭徹尾貫いたのは対北朝鮮強硬姿勢でもあった。この点に関しては今もなおその評価は衆目の一致するところであろう。

仮りに安部氏が任期満了の日までその座に留まっていたとすれば、この対北朝鮮政策に大いに頭を悩ませることになったであろうことは容易に想像できる。既に関係6ヶ国協議においては日本がこだわらざるを得ない拉致問題が「埓が明かない」として「埒の外」も同然の状況にあり、さらにここ数週間の報道に接する限りで米朝関係を軸とした北東アジア情勢は確実に妥協と(なんだか怪しげな)緊張緩和へと向かっているようである。

これは対北朝鮮強硬政策を一貫してきた安倍氏にとって容易ならぬ事態である(いや、容易ならぬ事態であった、か)。「ぶれてる」「ぶれてる」と言われながらも、安倍氏自身はおそらく常に自らの信念に忠実であった、はずである。少なくとも彼自身は人が言うほど「ぶれている」とは考えなかったのではなかろうか。

彼が常に信念に忠実であったことの傍証として、政権末期に巷間に流布した「KY(空気が読めない人)」という評価を挙げてもそれほど奇異ではないと思うのだがどうだろうか。

空気が読めない人というのは必ずしも感受性が鈍いとは言えない。問題はその感受性がどこを向いているのか、どちらへ向けられているかということだ。私は「空気が読めない人」とは「内向的な人」と言いかえてもよいのではないかと思う(むろん、常にそうだとは言わないし「読めない」「読まない」「気にしない」はそれぞれ微妙に異なる)。内向的な人はしばしば外交的外向的な人よりも感受性が鋭い(こともある)。繊細、敏感、デリケート、神経質、扱いにくい、変人・・・、いろいろ言いかえがききそうだが、ここでいう「内向的」「外向的」という言葉にはネガティヴな含意はない(そしてもちろんポジティヴな含意もない。ちなみに私は強い内向型である 関連エントリ:「MBTI心理テスト」)。

私たちの日常生活においては「内向的な人」という言葉にそれほど良いニュアンスは含まれない。むしろ「暗い」「何を考えているか分からない」「薄気味の悪い人」という含意さえあり、それに対して「外向的な人」の方には、「人付き合いの良い」「明るく」「楽しい人」といった含意がある(ことが大半である)。

しかし改めて確認しておくと、本来 C.G.ユングのいう「内向」「外向」にはそのような価値判断的な要素は含まれていない(疑問の向きは直接原典にあたってみてください)。ユングの言う「内向」「外向」概念を私なりの言葉で言えば(畏れ多いことではあるが)、

・内向的人間:自分自身の内面的規範を行動の準則とする人
・外向的人間:周囲の環境・状況(すなわち事実)を行動の準則とする人

となる。

さしあたり、このエントリを読むにあたって「内向」「外向」という言葉になんら価値判断(どちらが「良い」とか「嫌い」とか)が含まれないことを了解していただければ私の言わんとするところが誤解なく伝わると思う(思いたい)。

つまり、安倍氏は(良くも悪くも)常に自分自身の内面規範すなわち信念に忠実な人であったのだということである(単なるワガママという説もあろう)。この、自分自身の心中にあるルール(信念)に忠実でありつづける型の人は、周囲の状況の変化次第で評価が大きく変化する(左右される)。安倍氏の対北朝鮮強硬政策に即して言えば、これが政権発足当初は「毅然たる姿勢」として積極的に(ポジティヴに)評価され、その他の要素とあいまって彼を政権の中枢に押し上げたのだが、周囲の情勢変化(たとえば米朝接近、たとえばもう政治生命も長くはないなというひそかな(?)評判)によって以前と全く同じ強硬姿勢が「頑な」「柔軟性を欠く」「空気読めない(KY)」という消極的な(ネガティヴな)評価に変化していった。

何度も繰り返すが、安倍氏の対北朝鮮政策そのものは政権発足当初から今までほとんど変化していない。首尾一貫して「強硬な姿勢」を貫いた、といえる。むしろ、変化したのは安倍氏自身ではなく明らかに彼を取り巻く(そして日本を取り巻く)環境の方である。米朝の緊張緩和という北東アジア情勢すなわち「環境」の変化があり、また参議院選での大敗という「事実」が生じたことによって、安倍氏に対する国内外からの評価は一変したのである。アメリカは安倍の対北強硬姿勢が邪魔になり、国民は年金問題その他の対応ぶりを見て遅まきながら「安倍つかえねぇ」の判断を選挙で明示した。

元来、内向型の人間は何を考えているのかが外からは分からない。一見しただけでは彼がどういう内面規範を持ち、ある状況において彼がその規範を現実に対してどのように適用するかが周囲の人々には皆目分からないのである。その点、外向型の人間はそもそも「内面」規範などという「見えないもの」よりも周囲の人々が共有する(共に経験する)状況・環境に柔軟に(無定見に)合わせていくが故に、周囲の人々は彼の行動を容易に予見し得る。そしておそらくそれ(驚かされることがないという安心感)故に周囲の人々は(彼ら各々が内向型であれ外向型であれ)内向型よりも外向型の人間を好むのだろう(もちろんそれは「一見さん」に限ればのことであって、付き合いが深まるうちに「こいつ実は軽薄なヤツ」とか「こいつ頭んなかカラッポじゃん」へと、外向型に対する評価が悪い方向に変化することがないわけではない)。

このエントリはそもそも安倍氏を擁護するつもりで書いているのではない。けなすつもりもないが。

そろそろ、結論が見えんぞとのお叱りを頂戴しそうだが今しばらくお付き合いいただきたい。

内向型の人間はしばしば「突飛な行動に走る」「何を考えているか分からない」

これはおそらく事実だ。

しかし彼の行動は実は当人にとってはいたって合理的な行動だということも充分にあり得る。そしてそれが周囲の人々の目から見ても(彼の思考の理路が判明すればのはなしではあるが)合理的だと評価される可能性も残されている (その点、上記記事はこのようなことを知ってか知らずかはともかくすっぱりと切り捨てていて一面的に過ぎ説得力がない。むしろ彼らがそうしたことを知らぬはずのない「専門家」であるからこそ余りに不誠実さが際立つ)。

このことはひとまず措くとしよう。

では、あらためて。というか今回のエントリの眼目は以下。

安倍氏は常に信念の人であった。

そして「信念」とやらは、それを大事にしている当人にとっては堅固不変のものであっても、その評価は周囲の環境あるいは風向き次第で白が黒になり陽が陰となる。

安倍氏の辞任表明ののち、唐突な辞任が国民の不興を買っており(それが当然の反応だとしても)、どうやら精神的欠陥の持ち主であったが如き言説まで喋々されるに至ってはいささか奇異の念を抱かざるをえない。それは私が彼と同じ内向型だからでも安部氏の病状を知っているからでもない(そんなものほとんど全く知らない。そのての記事なんかチェックしていないのだ)。
彼を首相の座に押し上げたのは、まさしく彼の「信念に忠実な態度」を「毅然たる態度」として称揚した人々であった。万が一にもその同じ人々が彼を「KY」として非難するようなことがあればそれは余りにも主権者として情けないと言えないだろうか。信念に忠実な人は往々にして「KY」であらざるをえない。良くも悪くも。

むろん、今回ような馬鹿げた辞任という事態は想定外だ、として安倍氏に全責任を負っていただくというのもアリではあるのだろう。安倍氏も政治家としてそのくらいの覚悟はお持ちであろうから。しかしながら、今回のように「あのボンボンめ!」で済むような事態ならばともかく、一旦「国のトップ」として不適格者を担ぎ上げたが最後、その選択が招来する災厄は国民全員に降りかかってくることに思いをいたすことなく、またその時どきの「風まかせ」で軽々に選択をなせばひょっとすると自らの首を締めることになるかもしれないという自覚を持つことがなければ、いずれまた日本人は「私たちは騙されていたのだ」「一部の者が独走してやったことだ」と、荒廃した国土にしゃがみ込んで呪詛の言葉を漏らし涙をこぼすことにならないと誰が断言できるだろうか。

そして新たな自民党総裁選がもう始まっている。

誰が総裁になっても大勢は変化しないのかもしれない。しかしそれはそれとして、たとえば麻生太郎氏があの年にして漫画が好きだとしてこれを「精神の柔軟さ」だと評価することは可能だろうが、これはまた容易に「ただの馬鹿」という評価に転化することは充分考えられることだし、福田康夫氏のような一見そつのない実務家風の人が「粛々と」国民を破滅の縁に連れ出さないとは誰にも確言出来ない。

「で、結局どっちなんだよ、おまえは」

と聞かれてもちと困る。

俺はどっちでも良いしどっちになっても気色悪い、としか言えない。私はシロでもクロでもアカでもない。そしてそれは決して私の優柔不断さゆえではないと思いたい。

無駄に長いエントリ

  • 2007年08月02日 (木)
  • キーワードタグ: 政治

初手を誤ってしまうと、あとはなにをどうやったとしても深みにはまるばかりで抜け出せなくなる、ということはしばしばあるらしい。

政治資金というぬかるみにスタックしてしまった赤木大臣、結局は更迭だとか。たとえ名車ポルシェでも泥沼から抜け出すことはかなわなかったというわけだ。

古今東西、政治にはカネがかかる
ものなのだそうで、あらためて政治資金規制法とやらを改正したところで根本的な解決は難しそうだ。
いっそのこともっと革新的(イノベーティブな)方策を見出せないものか?

赤城さんの不明瞭な支出の大半は(本人曰く)支持者への接待費(飲食費)だそうだ。とすると、選挙民にタカられてたのだということなのか。まあ、ぼっちゃま面でポルシェを転がすような人間なら多少の金銭的余裕があるだろうと見込まれてしまったのかもしれない。かわいそうに。

テレビ辺りで時々見聞する限りでは、数代続く政治家の私邸はたいてい御立派な構えをしているが、政治家の仕事というのはそれほどにお金になるものなのだろうか。それとももともと資産家であったからこそ政治家になれたというわけか。まあいずれにせよ、政治と金とは金輪際切り離せないもののような雰囲気がそこはかとなく漂ってはいる。

いっそのこと、政治家とはなべて極貧の生活を送っているのだという社会的コンセンサスを作ってみてはいかがだろうか。なまじっかお金を持っているから(持っていそうに見えるから)たかられちゃうのでは!?だーれも貧乏人にメシをタカったりはしないよ。

さしあたり、国会から村会議員まで全て無給。そりゃあんまりだというのならまあ生活保護世帯と同レベルもしくは法定最低賃金のみ日給月給で支給しよう。どうだね?

「それでは有能な人材が集まらない」ってか?

結構じゃないか。高給でなければ御国のために働く気はないなどという御仁なら来てもらわずとも結構。この日本、たとえ金にはならずとも御国の為、共同体のために身を粉にして働こうという人材は掃いて捨てるほどいるんだから。なにせ「美しい国」であるからして。違う?それとも今の日本には高給と引きかえでしか働かないような人間しかいないのかね?

議員と同様、全体の奉仕者たる公務員だってそうだ。天下り?四十、五十になって民間に天下って活躍できるほど有能な人材ならばむしろ職業生活の初めから民間でどんどんイノベーティブな仕事をやっていただいて利益を上げ株価を上げ国家の税収アップに貢献していただく方がよほど御国の為ではないか。

いささか暴論ではあるが。そもそも議員・公務員の仕事は何かを生み出す仕事ではない。彼らの仕事を一言で言えば「調整」。所得の再配分という調整であったり企業活動が円滑に進められるような調整であったり、諸外国との調整であったりと様々だが、その本質は「調整」にある。もちろん、それらには現業が付随することはままあるにせよ、公務員の大半はその労力を様々な意味での調整に費している。けっして自らの手で何かを生み出すわけではない。いや、たしかに彼らの仕事だって私たちの生活が円滑に回っていくような環境を生み出しているとも言えるわけだが、その分、われわれは税を納めている。つまりは差し引きゼロというわけだ。公務員が身を粉にして真摯に職責を果たしたとしても差引き勘定は常にゼロとなる。ゼロになってくれなければならない。

そのように調整を本務とし自らは何かを生み出さぬ公務員であるから、労働力人口に占める公務員の比率が高まれば高まるほどに国家全体の活力が萎んでいくのはむしろ自明のことといえるだろう。どれだけ働いてもトータルでは差し引きゼロになる職種に高給を支払いつづければ借金が増えていくのもまた当然のことといえる。

議員にせよ公務員にせよ、自らは何も生み出さない仕事に金銭的・人的リソースを過度に消費することは結局のところ亡国につながる。ましてや労働力人口は今後縮小するばかりである。したがって議員・公務員の削減は不可避と言うべきだが、「イノベーション」を唱える自民党政権は相変わらず旧弊を温存している。この点では野党も変わりはない。

一方で小泉改革以後、なにかにつけて「民間信仰」「競争万能」が言われることに食傷している人は少なくない。確かにお役所の仕事ぶりは変わった。腰が低くなり、愛想が良くなったのは確からしい。聞くところでは内部でも業務の効率化がやかましく言われるのだとか。それはそれで結構なことだし、民営化が吉と出ることもあるのだろうが、それでもやはり民営化には馴染まない仕事はあるのだろうし、そういう仕事こそやれ利益だとか効率だとかで計らずに実のある仕事をしてもらわなければ共同体の存在意義そのものが失せてしまう。

長くなったのでそろそろ。

共同体のため、社会のためにたとえ報われることが少なくとも尽くす、そういう人はわれわれが考えている以上にたくさんおられるはずだ。議員諸氏にしても選挙の時はたいてい国の為、我が町のためにとおっしゃるではないか。それがもし本心なら高給だろうと薄給だろうと構わぬのだろう?高給もらわなければ国の為おらが町の為には働けぬというのなら彼のやろうとしていることは只の賃仕事に過ぎない。只の賃仕事ならば、やろうという人間はいくらもいる。べつにあなたでなくとも構わぬというわけだ。

本来なら無給に甘んじるべき議員諸氏が高祿を喰み、あまつさえ様々な名目で金員を懐にしていれば、「メシぐらい食わせろよ、カネあるじゃろ!」と言いたくなるのは人情ってものだよ、旦那。もちろん誉められた話ではないがね。

「政治家つーのは偉そうなこと言ってても貧乏なんじゃな」

そういう社会的合意ができてくれれば、領収書ごまかしてまで飲み食いさせる必要はなくなるかもよ。
もしそれでも「つべこべ食わせろー」と言ってくるような者が出てきたら、そんときゃ

「ひっくくれー!!」

高給出さなきゃ人材が集められぬ、だと!?
アホいいなさんな。
高給出さなきゃ来てくれないような有能な人材を官界に滞留させるのは「国益」に反しますぜ。何度も言うけど差し引きゼロの仕事だからね。まして薄給でも私はやりたいのだ、という殊勝かつ有能な人材だって日本には少なからずおられるのですから(たぶん)。

さて、台風対策をせねば。仕事しごと。

拝金主義ならぬ拝数主義

  • 2007年07月29日 (日)
  • キーワードタグ: 政治

今朝の新聞テレビ欄を眺めてみたところ、各局とも軒並み参議院選挙特番を組んでいるらしい。ま、当然か。

年金問題、教育再生、競争原理、格差社会・・・。
争点は山盛り状態。

親政府与党(いや、親安部総理というべき)某新聞あたりは、自民党の敗北は「改革の後退」であり「北朝鮮の思うつぼ」だと臆面もなく述べている。さらに「年金問題は解決済み」とも。社会の木鐸が聞いて呆れるばかり。いまだ精査に着手すらしていないという年金記録問題のどこが「解決済み」だというのか。政府与党が「○○します」「調べます」「払います」と手形を振り出したことをもって「よしよし、万事オーケー!」とでもいうのかね?おめでたいネ。もちろんわたしだってそれが「空手形」でないことを祈っているが、政治家のお言葉を頂戴しただけでもう何かが実現したかのように信じるほど暢気ではない。

改めて振り返ってみれば今日までの現政権の「実績」とやらはその多くが「言葉だけ」、「振り出されただけの手形」にすぎない。教育問題をとってみれば、たしかに教育関連法の改正はなされたとはいえそれで本当に教育を建てなおすことが出来るかどうかは全く未知数だ。現時点ではそれらの法改正がさらなる教育の荒廃をもたらすことも十分に考え得る。私見ながら私自身はそうなるだろうと予想している。教育問題に限らずとも最チャレンジ、イノベーション、北朝鮮問題・・・実績と称されるものの多くは(いまのところ)形ばかりの改革にすぎず、それがほんとうに実績と呼べるものになるのかどうかは今後数十年の時日を要することはいうまでもない。単に現状をいささかなりとも改めるることを以って「改革」だの「実績」だのと臆面もなく言える者なぞむしろ詐欺師と呼ぶべきかもしれぬ。

「政治家とはそういうものだ。未来を見据え、敢えて甘言をなすのも政治家の仕事だ」という向きもあろう。そうなのかもしれぬ。しかしこの国には、繰り返し繰り返し念仏を唱えているうちにいつのまにやらそれが現実だと思い込むような癖がある。「民主政治」「人権尊重」「法治国家」「経済大国」。バブル期に"Japan as No.1"なぞと言われてその気になっていた日本はまさに「阿呆まるだし」であった。日本は自由な国、民主国家だと言いつつ、そのかたわらでは経済的困窮から餓死する人がおり、冤罪に苦しむ人がおり、そして言論の自由とやらもどうやら怪しい。「改革」「改革」と念仏を唱えているだけにもかかわらず、あたかもそれが既に実現したかのように信じ込むことなぞ造作もないこと。

前置きが長くなりすぎた。

何気なく口にする(口にされる)言葉を、ときには深く掘り下げ、吟味し、自省すること。これは獣ならぬ人間が持つべき習慣であり、教育というのはそうした習慣を身につけさせ深化させることだと私は思うのだが、浮世においてはそのような態度をうかつに示してしまうと面倒事になることもある。

曰く
うざい
そんなことない
おまえは間違ってる
偏屈、変人、ヒネクレ者

「獣ならぬ人間、だと!?あたりまえでしょ。獣はケモノ、人間はニンゲン。ばっかじゃないの?」

いやぁ、そういうことじゃないんだけどぉ・・・(ぶつぶつ)。
馬鹿いうやつがバカなんじゃ、おんどりゃ~!!

(ま、どちらでもいいんだが。ヒネクレ者はヒネクレ者の道をゆくのみ。)

おっと、はなしが脱線してきた。

「あなたの言う実績ってなに?」
「あなたの言う格差ってなに?」
「あなたの言う競争ってなに?」

・・・・・・・・

どうも一向にタイトルに結びつかぬ。

いや、ま、格差とか年金とか、「カネカネカネ」が争点だとマスコミ(サンケイ除く、ね)は言うが、もちっと掘り下げてみるとカネつーよりか、金持ち貧乏人問わず「数字数字数字」に追いまくられることに疲れ果ててるってのが今の世相かな、なんてことを考えたものですから。

売上げ、利益、合格者数、達成率・・・・・・・・。
それはそれってことじゃ、だめですか?

片や数字(実績)を求められて悪戦苦闘する庶民。
片や納めたはずの数字がいつのまにやら消えていた不思議。

そのとき生じた怒りはなにも金や数字に向けられたものではない。

「じゃ、おまえたちは何をやったのだ?何を残したのだ?」
「口先ばかりの強硬姿勢か?空手形の乱発か?」

瑣末なことを争点にしてはならぬなどと一体どの口で言うのかね。
瑣末な事しか見えていないのは君自身ではないのかね?

はて。まとまらぬ。どうにもならぬ。

ま、とにかくマスコミは野党優勢を伝えているがどうなることか。

「政治の夏」「選挙の夏」は今日を境に「実りのない秋」へと移りゆくのか。

ふぅ
しょぼーん・・・。

白昼夢の政治

  • 2007年07月26日 (木)

さて。
どうやらlinux版xfy blog editorが使えるようになったので、ここらで今次参議院選挙について一席ぶってみようか。
と思ったけれど、既に自民党の敗北宣言も出たことだし(というか正確には「選挙敗北でも僕やめませんから」ということらしいが)、やめておこう。

とはいえ、気にはなっている。
先日の「政治の季節」で私は次のようなことを書いた。
今次選挙の争点は年金問題でも格差問題でもなく昨今の政治が本当にフェアな議論(言論)に依って立っているのなのかどうか(以下略)
いささか舌足らずな物言いではあったといま思う。そこで少しばかり言葉を補っておきたい。

今次選挙の争点は、
「生活実感」と「空疎な言論」とのどちらを選びますか?
そういうことだ。
今日の晩ご飯のオカズ、明日に迫った懸案のプレゼンテーション、子供の受験、親の介護だとかいう、ありふれたものでありながらも切実な種種の問題を抱えた個々人にとっては、もしかしたら起こるかもしれない戦争に備えた法改正だとかひょっとするとやってくるかもしれない「実感の伴った」好景気だとかいうことどもは、(1年や2年程度の短いスパンでは)しょせん「おもちゃの兵隊ごっこ」「とらぬ狸の皮」に過ぎない。少なくとも私にはそう思える。

とっとと結論にもっていこう。
いまの政府与党は言葉ばかりが勇ましい。そしてまた数々の失言問題に見られる如くその言葉はあまりにも軽い。そこにはフェアネスも惻隠の情も見えない。その欠片さえもなさそうに私には見えている。

経済成長こそが現状を打開する唯一の方策だとのだと彼らは言う。イノベーションに基づく経済発展こそが日本の未来を築くのだと。それ自体は確かにもっともな言葉ではあろう。しかしその内実はあまりにも貧しい。ほとんど白昼夢の世界に等しい。

すでに旧聞に属するが、しばらく前に政府筋が策定した「イノベーション25」中間とりまとめ」とこれをもとにした(子供向けらしい)小話は、彼らがどれほど真面目にくだらないことを喋々しつつ多くのリソースを浪費しているかを非常にわかりやすく示してくれる。
「伊野辺(イノベ)家の1日」

ユビキタス、電気自動車、新薬発明・・・。一読ながらそこには革新性の影すらない。いま既にあるものの延長でしかないものばかり。ほとんど新聞正月版の「未来はこうなる?」的なものでしかない。イノベーションそのものは望ましいことだとしても、どうやら「彼らの言うイノベーション」とやらはその程度の白昼夢レベルのものらしい。ましてや、このような代物におそらくは日本でもトップクラスの人材が投入されている。なんとか会議の委員なぞどうでもよい。しかしあまたあるなんとか会議の周辺にはボンクラ委員が足元にも及ばぬ優秀な官僚がひしめいている。あまりにも悲しい。悲しすぎて笑えてしまうほどに。

このような悲劇的喜劇が生じた原因はただひとつ。「革新」「イノベーション」という言葉の持つ語感だけを欲しがるボンクラ政治家の存在だ。なにもイノベーションに限らずとも、彼らの吐き出す言葉のほとんどは中身の伴わない「キーワード」に過ぎず、国会ではそのような空疎な言葉を用いた空騒ぎの挙句に強行採決で幕。小選挙区制の下、議員一人々々は員数合わせのための存在でしかなく、国民の代表者としての重みなどもはやない。そしてあまりにも軽い言葉と軽い論議。

当然のことながら白昼夢状態の政治家どもと国民一般とはまるで別世界の住人の如くなっている。彼らの目には支持率とかいう「数字」と周囲の仲好し同志くんたち以外のものなぞ映っていない。だから彼らは国民一般の反応がまるで読めない。まして彼方にある諸外国のハラも当然読めるわけがない(既に証明されたと言ってよかろう?)。
昨今の政治家たちの失言の数々や年金問題とそれに対する政府の頓珍漢な対応ぶり等々がはしなくもこうした政治家・官僚と国民一般との乖離状態を白日の元に晒すことになった。

そして政治家たちによってそこらここらに取り残された1億国民のうちには、さらに「ワーキングプア」として経済的にも「放り出された」人々が数多く含まれている。はたして、困窮する人々を「自助努力の足りない者」として放り出すような社会は共同体としての存在意義を持っているのだろうか。私たちの社会が共同体としての意義をすでに失っているのならば、その社会を維持するための金銭的負担や倫理的規範を放擲する人間がぞくぞくと生まれたとて誰が責められるのか。何が彼らを押しとどめられようか。

これ以上脱線する前に区切りを付たほうがよさそうだ。。

今回の選挙の争点を単に年金問題だとか格差問題だとかいう個々の問題に限定してしまうことは、わかりやすくはあってもいささか危険なことだと私には思える。言うまでもなく今回の選挙結果がどうであれ、それですぐなんらかの具体的成果(年金問題の解決だとか格差解消だとかが)に結びつくことはまずない。まず問われるべきはそうした個々の問題に通底する「元凶」はなんなのかということであろう。敢えてそれを一つだけ挙げるならば、それは官民を問わずあちこちに瀰漫している責任回避・問題先送り・リソースの浪費等々であり、国民の誰もが漠然と感じとっている「組織」「共同体」の存在意義に対する疑念ではないだろうか。にもかかわらず「革新」を唱えて登場したはずの現首相は相変わらずの責任回避。そして彼の周辺もまたしきりに彼を擁護し、なおかつ国家そのものは革新どころか復古の嵐。声なき民衆(国民)の感情は文字どおり行き場(はけ口)を失っている。
結局のところ、今次選挙の最大の眼目は、(政治家たちの思惑は別として)こうした「民意と政治の乖離状態」を看過してよいのか否かであり、復古政治と民意との乖離状態の解消こそが今回の選挙(有権者の投票)の意義を生ぜしめるのだと私は思っている。

白昼夢を見ながら自慰に耽る政治家はさっさと引退してよし。
もっともそのような政治家を枢要な地位に押し上げた「民意」とやらもまた批判されるべきではあろう。そしておそらくそれ(批判・反省)もまた投票行動によって為しうるということなのだろう。
一票の重みという言葉がやけに切実な意味を帯びているような気がする今日このごろ。かつてこんなことはなかった気がする。

けっきょく選挙のはなしになったようで・・・。

(2007年7月27日一部改稿)

政治の季節

  • 2007年07月13日 (金)

参議院選挙が公示されて新聞テレビは選挙その他の政治関連記事が目白押しである。私の自宅近くにも早速候補者のポスターが貼り出されていた(朝おきたらもう貼ってあった)が、あらためて見るまでもなく如何にもそれらしい胡散臭さげなお顔だったので「ホッ」と一安心した。

というのも、松岡前農相の例を見るまでもなく、ひとたびあの世界に足を踏み入れたものは遠からず泥にまみれカネにまみれて無惨な姿を露呈してしまうので、善人らしき人が政治家を志すと聞くとこちらの方がいたたまれない気持ちになってしまうのだ。

なろうことなら(うん、なろうことなら)今度の選挙では人格識見ともに優れた方々に当選して欲しいと切に願っている。

昨今の政界のように、まっとうな「論議」がなされることもなく多数党が強行採決を乱発し、(愛国者にさえ)愛国心を強要する法律作るわ、はたまたザル法作って「実績」と強弁するわ(以下略)という状況ではではなはだ薄ら寒い思いがする。

昨日も書きかけたことだが、
「国会で与野党が議論したうえで今のルールがあり、ルールに従って対処することが大事」
(某有力政治家談)
とのお言葉にわたしは賛意を表す。なんの異論もない。
国会でなされたフェアな議論の結果もたらされた議決に関してわれわれ国民は仮にそれが我が意に反するものであっても従わなければならぬ。それが民主主義というものなのである。ルールは守らねばならぬのであーる。

そう、たしかにこれは立派な看板である。

「いのちを大切に」
「ご利用は計画的に」
「喫煙は、あなたにとって脳卒中の危険性を高めます」

問題は、だ。昨今の政治が本当に「フェアな」「議論(言論)」に依って立っているのなのかどうかであって、今回の選挙で問われているのもまさにこの点なのだろうと私は考えている。争点は、年金でもない政治資金でもない改憲論議でも集団的自衛権でもない。今、果たして公正で自由な言論に基づいた政治が為されているのか否か。その点について有権者が評価(判定)を下すというのが今回の参議院選挙の隠れた(隠された)目玉といえるのではないか。

地方に住んでいる方は思い当たる節がおありになるだろうが、選挙のたびによく耳にする「パイプ」という言葉がある。町会議員選挙では「県とのパイプ」、知事選・国政選挙では「国(あるいは中央官庁)とのパイプ」。
「パイプ」が候補者のアピールポイントになるという現実は、政治家や官僚がどれほど公務に於ける公正さや透明さを謳おうとも、彼らの世界でもまた世間一般と同様にコネ付き合い面識地縁血縁学閥その他の「インフォーマルな契機」によって物事が左右される世界であることを如実に示している。そしてそれが当然のこととして何の臆面もなくメディアやスピーカーを通じて公言される現実がある。もちろんここで言わんとするのはその是非ではなくあくまでも事実の認識にすぎない。
わけもなく同郷人に親近感を覚えること、血縁者間の親愛の情、今さら切り離せと言われても困惑するであろう旧友・学友との交友関係。そうしたものは職業を問わずあって当然持っていて自然であり、もしもあなたは政治家なのだから官僚だから縁を切れと言われても無理なことだろう。しかしそうしたインフォーマルな関係があからさまに「売り」に出される現実にはいささか奇異の念を覚えるのもまた事実。

どうもはなしがまとまらない。
今次参院選の私的位置づけが「パイプ」に逸れたのが一因か。というより原因はBGMにあるようで・・・。
結論。ryuの冬ソナテーマ曲は書き物をしながら聴く曲としてはいまいち相性がよろしくない!

ああ、そうさ。書き捨てさ。
近いうちに衝撃的なやつupするとしよう。

いやね、もともと選挙そのものよりもその周辺の「自由な言論」とか「公権力の濫用」とか「知性」について書くはずだったのだ。純愛BGMじゃ書けねえよな。やはりこのてのテーマのBGMはマーラーあたりかな。テーマは「怒り」。

今日はこれにて。

指令!浄水器を再チェックせよ。

  • 2007年06月13日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

毎日毎日ニュースは絶えない。いや、ニュースは絶たれることがない、と言うべきか。ひところピークに達した観のあった政治資金問題も松岡全農相の自殺とともにどこかに消え入ってしまった。もちろんきっとどこかには地道な取材に励み真相を究明せんとするジャーナリストたちがおられるだろうが。近々その成果を見てみたいものだ。

しかしまあほんとに人間の情報受容量つーのは意外なほど小さい気がする。金権政治・公金横領・憲法改正、集団的自衛権・・・・などと次から次へ「あれも食え、これも食え」「前菜は中華、メインは和食、デザートはステーキ、ついでに食後のお煙草はご遠慮下さい」とばかりにやられると
「あ、もういいっす」。

人間の脳みその情報容量は無限大だとどこかで聞いたこともあるが、こりゃウソだ。いや、ウソでなくともまやかしだ。「人間には無限の可能性がある」と同程度にね。

ま、無限大でもいいや。で、人間はPCである。大容量のハードディスクと極小のメモリを備えたPCである。
その気になればいくらでも情報を詰め込むことが出来る。が、いちどきに扱えるタスクはちょびっとだけ。つぎからつぎにあれもこれもと言われているうちにハングアップ。判断停止。思考停止。

「あれ?おれ、いま何しようとしてたっけ??」

現にいまこれを書いている私がそうなりかけていた。
ここはどこ??


さて
そんなこんなで(これってまさに万能接続詞だなぁ)

政治家が自分の手足を縛る法律を作ることなぞ(有権者がほっとけば)金輪際ありえないというのが私の深く信じるところだが、松岡農相生前の国会のやりとりはまさに私の確信を深いものにしてくれた。

(野党議員)「松岡農相の政治資金支出を首相はどう思うか」
(安倍さん)「法にのっとって適正に処理されていると考えます」

この類の遣り取りを見ながら私は思った。
いったい不明瞭・不自然な支出であるにもかかわらず政治資金規正法上は「適正な処理」とされてしまうのはどういうわけなんでしょ?

野党議員がそれ以上何の追求もせぬまま質問を終えるシーンを何度か見た気がするが、いかにも解せないと思わずにはおれなかった。
(松岡農相の不明朗な政治資金支出は政治資金規正法の粗漏さを示しておりませんか、安倍首相?)
野党議員の質問を私はそのように理解したのだが、やりとりが終わったあとには常に「あれれ?」であった。
「違法でない。適正である」
そんなこと聞きたいんじゃないんだよ!!と。

いや、現時点で違法ではないというのならソレはソレで結構。そんなら不明朗な支出が適法とされる奇妙さをどうするのだ?
もしや野党議員の攻めのつたなさは自縄自縛を怖れたためなのか。そうかもしれない。考えてみれば政治に金がかかるのに与党も野党もないだろうからね。まるで出来レースのような国会論戦。ひょっとすると松岡農相ももう少し頑張っておられれば切り抜けられたやも知れぬ。あたら一命を・・・。

そもそも松岡農相は決して国会議員の内でもそれほど飛び抜けて悪辣だっわけではない。ふつうのギインさんだった(と私は思う)。
おそらく松岡氏の失策は事務所にはしっかりナントカ還元水だか浄水器だかを取りつけていたものの政治資金の方はちゃんとした浄水器・濾過器を取りつけ損ねていた点だろう。
安倍首相は事実上の上司としてそのあたりもしっかりと指導すべきであった。テキストはもちろんお祖父さまのお言葉集。。

政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん

政治資金濾過の達人たる岸信介の令孫が首相を務める内閣の閣僚が「濾過器」を発端として苦境に立たされそして自死に至ったことはまさに歴史の皮肉だと言うべきか。

ま、いまさら・・・のトピックではある。
が、このような話もあるので・・・。

参議院選挙まであと40日、目先を変えるような出来事が必ず仕込まれているし、すでに表沙汰になっているかもしれない。スキャンダルを消すのは、スキャンダルでしかないという法則がある
  ~「保坂展人のどこどこ日記」

泥仕合に持ち込めば金と権力を握る自民党の有利?
そんで安倍内閣御用達産経新聞あたりが得々として書きまくるだろう。
コップの中の嵐。
肥溜めの中で糞試合。
内輪もめ上等。

しかしダーティーな選挙戦ともなれば安倍自民党が勝利したとしても(あるいは勝利したことによって)安倍氏の清新さへの懐疑の念を呼び起こす。いまさらと言うなかれ。
もちろん安倍氏がダーティーだろうと清新だろうとどうでもよいという人や国だってある。たとえばアメリカ。
アメリカは安倍氏を歓迎するだろう。安倍氏は祖父である岸信介への敬慕の情をつねづね公言している。昭和の妖怪岸信介。安保条約改定に際し、国民に向かっては「自主独立の達成」を訴えかけながらそのじつ裏ではアメリカに「自主独立」を骨抜きにする密約を持ちかけていた岸のクローンをアメリカは諸手を挙げて大歓迎するだろう。彼を「悪辣な右翼である」と評価(判断)しつつも自国の利益のためにシレッと付き合ったアメリカ。その姿勢は今も昔も変わるまい。。

仮に安倍自民党がなりふり構わぬ選挙戦を実行に移せば、アメリカのように日本と緊密な利害関係を有するが故にドライ(自分とこに有利になるのなら何でもオッケイ)な国は別として、それ以外の諸外国が安倍政権を見る目は一段と厳しさを増すであろうことを安倍氏は覚悟しておく方がよかろう。ダーティーな勝利は安倍政権にとっては痛し痒し。
ま、もっとも安倍自身さんは「うつくしい国」が作れるのなら他国からの評価なぞ気にならないのかもしれないが。信念に忠実。それはそれでうつくしい・・・か。

フェアな選挙戦になりますように。
って、なに言ってんだろオレ。

寝よ

年金記録照合が1年でやれるのか?

  • 2007年06月11日 (月)

年金問題で世情は騒然としている。
団塊世代の受給開始を目前に、隠居部屋を増築しようと床下を見てみたらシロアリに屋台骨がボロボロで建物そのものが崩壊の危機に瀕していることが判明した、というところか。

ただでさえ少子高齢化を原因とする構造的問題を抱えている年金制度が、「ありうべからざる怠慢」によってもまた空洞化していたことが世人の怒りを招いている。当然だろう。
一時期、年金問題を参院選の争点にしないと突っ張っていた政府・与党の思惑などあっという間に吹き飛ばされた。これもまた当然だろう。現時点でも数千万件に上る未名寄せデータの存在が判明しているとのこと。週刊誌あたりではさらなる「宙に浮いた」データが存在していると報じている。この機会に、(当然の)世論に圧倒された政府与党が示している対策にいささか不審の念を禁じ得ない部分があるのでここに書いておく。

  1. 古くて書証がない納付データの確定を第三者機関に委ねる。
  2. 1年以内に名寄せを終了させる。

まず1に関していえば、「あてになるのかね?」
教育問題、集団的自衛権問題、憲法改正問題、耐震強度偽装問題等々のように、第三者機関・有識者会議とやらが如何にも胡散臭くてあてにならないものだと思わせる事実には事欠かぬ「もう払ったはずだ」という庶民の主張をそのまま呑んでくれる「第三者」機関になるなどと楽観は出来なさそうに思われる。悲観的に見れば第三者ゆえ庶民の正当な主張を情け容赦なくゴミ箱にポイ出来る機関でもあるのだ。

2についてこんな新聞記事を目にした。

該当者不明記録の氏名などにある程度のミスがあっても、該当する可能性がある対象者を検索できる新しいソフトウエアを導入する方針(・・・)政府はこのソフトの活用により、「1年以内に全件の調査を完了させる」との方針を実現させたい考え(・・・)政府が行う調査は、年金の加入者(約7000万人)と受給者(約3000万人)の計約1億人分の「氏名」「生年月日」「性別」の3条件と、5000万件の記録上の3条件が一致するかどうかをコンピューター上で照合する作業が基本(以下略)

「不明5千万件の年金記録調査に新ソフト、政府が導入方針」(yahoo news 読売)[キャッシュ]

だいぶ以前のことだが、私はある種のデータベース(数百万件程度のデータベース)を調査・整備する業務に従事したことがあったのだがその経験上「氏名・生年月日・性別」(以後「3要素」とする)を基礎とした照合作業の進捗に大きな疑念を抱いている。その大要は次の通り。

  • いまさら3要素での名寄せを行わなければならないほど杜撰極まりない年金データがなぜ今まで放置されてきたのか。
  • 数千万件というオーダーのデータを3要素だけで名寄せすることはおそらく不可能だろう。

第一の疑念についてはひとまずおいて第二の疑念について。
周知の通り3要素は人定項目の基本中の基本だ。これ人定項目としては極めて基礎的な項目である。そして基礎的であるが故に実際上、取り扱いに細心の注意を要する(要注意の)人定項目でもある。

単にコンピューター上で3要素を元に名寄せを行うプログラムなどは、気の利いた小中学生でも作れる程度の初歩的なものだと思われるので、かりにも政府の対策として新聞に載るほどご大層なものではないだろう。おそらく名寄せ作業上の大きな問題となってくるのは次のようなものだと思われる。

  1. 文書データを電子データに変換するのにかかる手間とその際に生じるミス
  2. (ミスのない完全な電子データを前提として)基礎的3要素では名寄せできないデータをどのように処理するか

かりに未名寄せデータの大半をこの三要素を元にして名寄せ出来るとしても問題は残る。数百万、数千万とデータの規模が大きくなればなるほどに当然のことながら僅かな人定項目で確実な名寄せを行うことは困難になってくる。データ量が万を超せば同姓同名どころか同姓同名同生年月日というのも稀ではあるがないわけではない(これは経験則。数学的にもわりと簡単に証明できそうな気がするのだが私には無理)。

まして女性であれば結婚で姓が変わる。名と生年月日が同一というのなら一気に数が増える上に、姓の変更履歴はコンピューター上のデータをどれほど精巧に扱っても(入力されていない限り)出てきようがない(しかも下の名だって手間は掛かるが変えられないわけではないし変わった人も現にいると思われる。結局、変えようがないのは生年月日と性別だけだがこれにも誤記などで記録上の齟齬が少なからずあると考えるべきだろう)。

と、挙げればキリがない。そのようにデータ処理だけでは名寄せできない場合にまさか(手書き原簿にあたる等)なにがしかの確認作業も抜きにして単に名前と生年月日だけで名寄せするわけにはいくまい(そもそも基礎となるデータなしにはコンピュータはなにもしてはくれない)。こちらの確認作業には途方もない手間(マンパワー)が必要になるはずだ。

結局、年金記録の名寄せ作業がコンピューター上で完結するものではないことは社保庁ほか当事者がいちばんよく承知されているだろうから、上記のような新聞記事は多分に世間に向けたアピールに過ぎないと受け取っておきべきだろう(ついでながらマスコミが政府のアピールを掲載するだけではあまりにも情けないと思った次第)。

時間が無くなった。3要素での名寄せすら行われないままに年金データがなぜ(どのように)今まで放置されてきたのかという点についてはまたいずれ。というかほんとならマスコミにそのあたりをキッチリ取材・記事化して欲しいところだ(今日まで私はそのような記事を見た覚えがない)。まさか某政権与党のように他人の所為にしてお茶を濁すことはあるまいね。
責任の押し付け合いや糾弾からは日本の未来が改善される希望など決して生まれてこない。責任問題とは別次元の精細な調査報道を期待したい。

国体護持ならぬ国益護持

  • 2007年05月09日 (水)

今日は硬い本を読む気力無し。こちらがだらけた気分なので歯がたたないのっす。で、『鬼平犯科帳』を読む。面白かった。実は鬼平初体験。カネのために人の命を奪い欲望を満たすために騙し強請り女を犯す獣どもを蹴散らす火付盗賊改方長谷川平蔵。

江戸時代を舞台とした約40年前の作品を読みながら、少しばかりの隔世の感と庶民の暮らしの変わらなさ加減を実感。あとがきに電車の中でオール読物をひろげて池波作品をむさぼるように読むサラリーマンのことが書かれていたが、最近はいないね、オール読物拡げている乗客なんて。

話はコロリと変わるが、近年(といってもせいぜい去年くらいからの話ですが)よく耳にする言葉、「国益」について一言。

先日テレビで「ナマイキ」中川ヒデなんとか(あの辺は似たような名前似たようなツラばかりでよー区別つきませんわ)政調会長とやらが憲法関係の会議で「国益」「国益」と仰っておられるのを耳にして改めてその感を強くした。

国益とはなんぞや?
さも周知の言葉であるかの如く用いられる「国益」とは具体的にはなんなのだろうか。それなりに報道やら出版物やらに目を通している私だが、どうにもそれが分からない。
「ネットで調べろよ」?

さて、昨今「ネット」と言えば(日常会話においては)「虫取り網」のことでも「ゴールネット」のことでもなくて、「インターネット」のことを指すのはまあ常識と言ってもよいのだろうが、はたしてその程度には自明のものとして「国益」という言葉が用いられているだろうか?否。
猫も杓子も国益国益と仰る割りにはどうもこれ(国益とやら)がよくわからない。

確たる定義も共通理解も存在しないままに「国益」という言葉があふれかえっている日本。なんともヘンだこと。説明しにくい、説明したくないことは全て「国益にかなう」「国益に反する」という(実はただの白布でしかない)錦の御旗で覆いかくされている。

ひょっとしてもう「国益とはなにか」が明確になっていたのか?まるで自明のことのように国益という言葉が持ち出されてくる状況には戸惑いを覚えてしまう。テレビに映し出された中川氏の発言シーンを見たときには「国益」という彼の言葉はむしろ「国体」という言葉の方がよほど似つかわしく思われたよ。

国体といっても国民体育大会のことではもちろんない。詳しくは文部省発行の「国体の本義」をお読みいただければお分かりに・・・ならないと思う。おそらく。少なくとも私にはさっぱり分からなかった。畢竟自分には理解不能だということだけは分かったのだが。

「国体の本義」には、「大日本国体」「国史に於ける国体の顕現」などが肇国、国民性、国民文化等々もっともらしい言葉を用いながら書き連ねてあるが、読めば読むほどso what?。外国人が日本と日本人を知るにはこれほど適切なテキストも無いのかもしれないが。実に曖昧模糊。形式のみ。ただの形骸、骸骨。現代の日本人のうちで「国体の本義」を読んだあと「なるほど、そうか」と言う人はおそらく極めて少数だろう。天皇制そのものに反対する人々はもちろん、象徴天皇制を承認する人であってもこの「国体の本義」は極めて理解しがたいものなのだ。

「国体の本義」からだけでは不分明な国体概念をそれ以外の資料から総合すると、ま、一言で片付ければ「絶対的主権者としての天皇を戴いた統治体制」のことを指すようだ。数百年もむかしならともかく20世紀に生きる日本人(の為政者たち)もまたおもてだって「絶対君主政」を唱えるほどのcrazyさはさすがになかったようだがしかし、「国体の本義」あるいは当時政府が押し進めた国体明徴運動が唱えた国家体制は、ほぼ天皇を神聖不可侵の君主として戴く絶対君主政と言えるような体制(レジーム)であった。「国体の本義」は、まがりなりにも近代民主政治を知る国民や諸外国に向けて「日本国は天皇を戴く神の国であーる」とはさすがに明言できなかった人々がそれを糊塗(誤魔化す)しつつ実質的な”絶対君主的”天皇国家レジームを唱道する役割を担っていた。よってそもそも誤魔化しが隠された目的であるが故に結局何が言いたいのかまるで不明の典型的悪文とならざるをえなかった。

今の日本の政治家の多くは(森ナントカ元首相あたりを除いて)いまさら「国体」概念なぞを持ち出してくるほど時代錯誤ではないかに見えるが、なんのことはない、かつての国体はいま「国益」という言葉に変じただけのことなのだ。

国益=「国家の利益」( 大辞泉)って書いてある?
いや、そのような抽象的な話ではない。近代民主制における国民の政治参加とはすなわち「何が国益なのか」「何をもって国家の利益とするのか」の決定に参画することであり、まさにそこにこそ大きな意味があるはずだろう。にもかかわらず国益についての共通理解が形成されぬまま、ただ「国益」という抽象的な言葉だけがフワフワと漂う今の日本の政治状況は、かつて「国体」概念がもっともらしく語られていたかつての日本とどれほど違っているのか。私にはその違いが見えない。

現代日本の政治家の役割とは国民に国益を尊重すべきことを教え込むことなのだろうか。国益とはいったい誰にとっての利益なのか、利益であるべきなのか。何が国家の利益なのか。

政治家の仕事は「国益を語る(騙る)」ことではなく「国益に関する国民の共通理解を形成する」ことのはずだが、どうも現実に彼らのやっていることはと言えば「国民の代表者」を騙り国益を騙ることばかりのように見えてならない。

国民の代表者として国益を騙る人々は都合の良いときだけ私人を騙るのが今の日本の流行のようだ。

靖国神社にかかわることが外交、政治問題化している以上、私が参拝するしない、お供え物を出した出さないということは申し上げない

黙秘ですか?
首相が靖国神社に参拝することはそれが仮に「私人として」のものであれ、他の者には決してそうは見えない。見えるはずがない。ときとして私人としての思想信条の自由などという理屈が持ち出されるがそれはあまりにも人を喰ったはなしだ。首相が奥さんと週に何回ベッドを共にしているかなどという下世話な話ならば「私人としてのプライバシーですから」で済まされようが、政治問題・外交問題化している靖国参拝を「私人だから」では誤魔化しようもなければ黙秘してかたのつく卑小な問題ではなかろう。

つくづくその卑怯さに腹が立つ。

鬼平さんにひとつ説教頼みたいね。

おっと、暴走はここまで。勢いに任せて書き連ねてしまった。

(2007年5月9日夜一部改稿)

yakuza国家ニッポン?

  • 2007年04月25日 (水)

この本(カプラン・テュブロ著『ヤクザが消滅しない理由。』)の初版の日本語訳『ヤクザ~ニッポン的犯罪地下帝国と右翼』が第三書館から刊行されたのは1991年(原著の刊行は1986年)。初版刊行の後15年を経てさらに三つの章を追加した新版として2003年に刊行された。初版は未読だが、新版つまり『ヤクザが消滅しない理由。』ではヤクザの経済的影響、海外進出について大幅に加筆されている由(原題は”Japnan’s Criminal Underworld”)。初版の日本語訳は著者らの望みにもかかわらず日本の大手出版社が二の足を踏んだために、原著刊行から5年後にようやく第三書館というマイナー出版社からの刊行となったとのこと。

ヤクザの歴史的生い立ちからときはじめた本書は、現代の日本社会にどれほどヤクザ勢力が浸透しているのかをあきらかにしていく。極右勢力とヤクザの結びつき、右翼思想とカネと選挙を媒介としたヤクザと政界のズブズブの関係、社会に浸透したヤクザ勢力・・・。

取り上げられている著名人は数多い。政治家なら岸信介、大野伴睦、田中角栄、竹下登ほか。政界のフィクサーと目された笹川良一、児玉誉士夫ら。

そういわれてみれば戦後の日本、私の知る限りでも政界とヤクザの結びつきを示す傍証は枚挙に暇のないほどではあった。しかしその時々で通り雨の如き報道がなされはしたものの、その後も政治家たちが反社会的勢力と絶縁したようには見えない。そしてわたし自身がそうした生臭い話にはさほど関心を持たなかったことも告白せねばなるまい。

バブル崩壊後の数百兆円に及ぶ莫大な公共投資にもかかわらず一向に回復の兆しを見せない不況にあえぐ日本人は、威勢の良い小泉という男に希望を託した。危なっかしさを感じつつも「とりあえず」彼に望みを繋いだ。一見勇ましげな言動や強引な靖国参拝は彼を一流のリーダーだと人びとに思わせるだけのインパクトをもっていたとは私も思う。しかしやはり危ないものは危ない。小泉政治の危うさに人びとは眼を瞑って郵政解散直後の選挙でも彼に信任を与え、その後は危なっかしさばかりが露わになり始めた。

その頃、小泉のあとを誰が襲うかがその後の日本の行く末をかなりの確度で占うだろうということをおそらく多くの日本人は感じていたと思う。そして結果は小泉路線の踏襲、否、小泉以上に危なげな道を日本人は選択したのだった。

しかしたとえば北朝鮮の核、好戦的な中国といったような東アジアの事案が統制の効かない状態に万一なってしまうとか、あるいは世界経済が恐慌におちいってしまうなどしたら、こうした団体が不安定な状況を作り出すのに効果的役割を演じることは十分あり得る

『ヤクザ~ニッポン的犯罪地下帝国と右翼』
現首相は、一部歴史家が「悪辣な右翼」と呼びならわす岸信介の孫とはいえ、岸の悪行にも善行にもなんらの責も負う者ではない。たとえ岸が植民地満州で麻薬取引の元締として暗躍し、かつ右翼やアウトローたちと結託して勢力を築き上げ、満州で培った財力と人脈によって戦後日本の枢要な地位を占めたのだとしても、それについて現首相はまったく無関係である(岸については原 彬久著『岸信介―権勢の政治家』岩波新書1995年に詳しい)。当人の責によらずして(祖父の功罪をもって)彼を弾劾することも賞賛することもできないし、また為すべきではないだろう。彼は彼自身の言動についてのみ権利を行使しかつ責任を負わねばならないだけだ。もっとも、もし彼が祖父とそっくりな人間であったとしても驚くには足らないのかもしれないが。

話が本から逸れた。
この一書はヤクザを主題としつつもその視線は日本社会そのものを捉えようとしている。談合・示談・汚職・選挙。

ヤクザは世界のどのギャングよりも、犯罪組織として受け入れられているだけでない。ヤクザの役割がもっと公然と制度化されているのである。ほかの社会であれば弁護士や裁判所関係者にゆだねられているさまざまな仕事を、ヤクザはおこなう。もめごとの示談の場合などは特にそうである。(中略)ほとんどの日本人は暴力団との接触を避けるため最善を尽くすが、どうしても避けられない場合も多い。

同上
反社会的勢力には毅然とした対応を取るべし、とは巷間当り前のように言われている。しかし、実際にその現場に立ち至ったときにそれを実行することはときとして大きな困難を伴う。場合によっては味方であるはずの者からまで後ろから一刺しにされることにもなりかねない。その程度には彼らも狡猾なのなのだから。ましてや万人の闘争状態であるかのような社会情勢にある現代日本、残念ながらアウトローの活躍の場はそこかしこにつくられてゆきつつある。意図せずして一般民衆が彼らアウトローの悪行の後押しをしているというわけだ。

政治的選択にしろヤクザ活動の温床づくりにせよ、それがもし意図せぬものであったとしてもその結果は我々自身が負担することになる。

日本の政財官界あらゆる場所にはびこるヤクザ勢力。肥溜めの中で生まれた人間は、汚物にまみれて生活することこそ人間的な生活なのだと思うほかはない。外の世界を知らないわけだから。ひょっとして日本人は肥溜めの中で生活しているのだろうか。肥溜めの中で内輪もめし続ける阿呆どもか?そうなのかもしれない。

この本の中で元警察庁長官江口俊男の言葉が紹介されている。元ネタはは1964年の毎日新聞連載記事なのだそうだが。

社会から暴力を根絶するため、われわれは暗黒街に政治的配慮を加えてはならないのである。四方八方から情け容赦なく叩きつぶすべきなのである

同上(孫引き)
警察のトップの言葉としては当然すぎるとも思われる。なにをいまさら、と。しかしどうも実態がそうではないからこそこのような言葉が出て来たのだとも言えるだろう。暴力的集団に「政治的配慮を加え」「四方八方から彼らを後押しする」のが現実の姿であるからこそこの警察官僚は(まっとうにも)このような言葉を吐かざるを得なかったのかもしれない。

一般市民の微罪をあげつらう暇があるのなら、ありもしない犯罪を作り出すだけの力があるのなら、まずは市長を殺し市街地で玩具を振り回す悪党を片付けてくれ。
それとも君自身がその黒幕なのか?ひょっとして君も悪党どもの手先なのか?

ヤクザが消滅しない理由。 ヤクザが消滅しない理由。
デイビッド・E. カプラン
価格:1995円

いやいや、面白い本だった。
P.S. ハルバースタムの不慮の死を悼む。

(追記)
「首相、週刊朝日記事に激怒」(産経新聞)[キャッシュ

「週刊朝日」(5月4日・11日号)が、長崎市長銃撃事件の発生に首相秘書のトラブルが関係していたと受け取れる記事を掲載したことについて

(追記の追記)
「週刊朝日報道を安倍首相が批判」(朝日新聞)

山口一臣・週刊朝日編集長の話 一部広告の見出しに安倍首相が射殺犯と関係があるかのような不適切な表現がありました。おわびいたします。

ヤクザが消滅しない理由

  • 2007年04月22日 (日)

長崎市で暴力団員が現職市長を射殺してからまだ数日。今度は4月20日には町田市近辺で暴力団がらみの発砲および立て籠もり事件が起こったとの報道に接する。

  • 「暴力団組員が別の組員射殺後、都営住宅立てこもり銃撃」(読売新聞)[キャッシュ

ここ最近、おかしな事件が目につく(それほどでもない、か?)。市に相手にされなかった恨みだ?「死んでお詫び」だ?どうにも理解に苦しむ。暴力団員同士のもめ事のあと、なぜに市街地でパンパン撃ちまくったのだろうかね?不可解といえば4月はじめのこの事件もまた不可解。

なぜ彼はそうした犯行に及んだのか、あるいはまたなぜ彼は(おそらくは意図せぬ)死を迎えることになったのだろうか。しかしそれを知恵も情報網も持たない私が知ることは難しかろう。だからというわけではないのだが、どうもこれらの理解し難い事件からは(言葉になりにくいのだが)”意味のない意味”というのか”不可解さの創出”とでもいうのか、胡散臭い匂いが立ち上ってくるように感じられててならない。ひとびとが、ある日突然背後から撃たれるかもしれない、刺されるかもしれないという恐怖を覚えたときにどうなるのかは言うまでもない。人は直接身体に迫ってくる暴力よりもむしろ「ひょっとしたら襲ってくるかもしれない災難」の方をヨリ恐れる。その意味ではそうした恐怖感の醸成こそが暴力の持つ真の恐ろしさだという気がしている。

暴力が社会に被いかぶさりのしかかりひとびとの不安感が煽られた時代がかつてあった。すでに100年近く経とうとしている21世紀初頭の今になってもあの頃と変わりなく暴力がのさばり、独りよがりの信念に凝り固まった自称愛国者や自称任侠の徒らは時代を超えて生き延びているらしい。

長崎市長射殺の直後に与野党問わず諸政治家のコメントが新聞紙面に掲載されていたが、私が共感できるものは一つもなかった。
「まずは捜査の進展を」
「言論の自由に対する脅威」
「民主政治への挑戦だ」
或る言葉は鈍すぎ、また或る言葉は鋭すぎて響かなかった。ベチョ、ひゅう~ん。

標的が「政治家だから」、あるいは「選挙中だから」民主主義への挑戦なのか? 彼は市長の日頃の言動に「思想的な」反感をでも抱いていたのか?どうもちがう、ちがうらしい。彼はいってみれば「あいつのせいでオレは・・・」「ふざけんなよコノヤロー」という自己の欲望・僻み・感情に忠実ないまどきの市民の一人であって、それが(偶然にも)暴力団員でありまた(それ故に)拳銃を手に入れる悪知恵とルートを持っていたということなのではないのか。とてもではないが彼は言論だとか民主政治だとかいう高尚な(というかいい意味で観念的な)なにものかに対して刃を向けたわけではなさそうに見える。

他人を陥れ背後から突き刺しあとは知らぬ顔で押し通すなどということはべつだん珍しくもないありふれた話ではないか。刃物も拳銃も用いなければ少なくとも法的には罪に問われることもない(法的に責任を問われないのなら問題ないという感覚にそもそも問題があると思うのだがそれは今回さておく)。市長を撃った彼は人並み以上の政治的信念や自己犠牲の精神を持ち合わせているわけではないように思われる。あるのは自己の欲望に対する忠実さのみ。とてもではないが言論の自由だの民主社会なぞを破壊するつもりはなかったはずだ。少なくとも彼自身はそのような意図は持ち合わせていなかったと私は思う。そして彼はきっと今回の犯行に対する世間の反響の大きさに驚いているに違いない。彼は自己の欲望のみを追いかける、いまどきありふれた人間の一人であるにすぎないだろう。

仮にそうであるとしての話だがしかし、彼の今回の行動や、いまのところ事件の背景が見えない相模原の事件あるいは(単なる事故死かもしれないという)読売記者の変死などにしても、いずれもわたしたちの社会に得体の知れない不安感を与えた。くりかえしになるが、いずれの事件に関しても犯人等の主観的動機に関わらず、社会に対して大きな、そして後を引くダメージを与えたと私は思う。選挙期間中の候補者の安全管理だとかもまあ課題ではあろう。政治家たちは自分に降りかかってくる問題だから当然これに熱心だが、一般市民としては政治家の身の安全以上にそうした社会的影響もまた重大な問題ではないだろうか。

ここでちょっと脱線。
率直なことを言わせて貰えれば、はっきりいって大抵の選挙なぞ拡声器で騒音を撒散らすだけの公害の一種にすぎん。選挙期間中、入れ替わり立ち替わりでひたすら名前を連呼し、日を追うにつれて哀願調の叫び声に変わりつつ最後は絶叫!その中身は候補者の名前と「お願いしますッ!」のみ。どこが民主政治、言論の自由なんだかね、まったく。もしも名前を連呼するだけの政治家が襲われるとすればその原因は言論とか民主政治とはまるで無縁のもっとなまなましい理由だろうさ(そんなこともあって政治家のコメントには冷淡になってしまう)。

閑話休題。
言いたいことを口にする自由がない社会。そんな社会が夢だの希望だのを持ちうる社会としてあり得るだろうか。冗談ではない。無理だ。
「べつに言いたいこと言うのは自由だよ。(でも命の保証はしないけどね)」
「あなたに自由を与えよう。口を噤んで平穏に暮らすのかそれとも敢えて口を開いて破滅の道を歩むのか、自由に選び給え。それがあなたに与えられる自由だ」
勘弁してくれ。

一見勇ましげに見える愛国者や勢いに呑み込まれた群衆が社会にどれほどの危害を与えそしてどのような末路を辿ったのかを、私たち日本人は既に身を以て知っている。一旦転がりだしたら止まらない。転がり始めてからではもう遅いのだ。ここ数年そうした危惧をずっと感じてきた。ここ数日来の事件の報に接し、もう転がり始めているのだろうかという悲観的な思いにとらわれている。

ついでながら
市長銃撃に関する報道が言論の自由だとか民主社会を守れだとかいう論調で覆われているところがこれまた奇妙。どうも横目でなにか別のものを見ながらモノを言われているような。田夫野人の知らぬところで日本はいま大きく動いているのだろうか・・・。

そんな気分でいま『ヤクザが消滅しない理由。』(カプラン・テュブロ著 不空社)を読んでます。たしかにこんなきわどい本、大手出版社は及び腰になるのもやむなしかも。力作なのにね。

ヤクザが消滅しない理由。 ヤクザが消滅しない理由。
デイビッド・E. カプラン
価格:1995円

空気嫁、ニッポン?

  • 2007年04月04日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

はじめに。
「カテゴリ」を整理しました。細分化しすぎて見づらくなっていたので。
そのかわり今後はタグクラウド(キーワード)でアクセスしやすくなるよう、各記事にこまめにキーワードを設定することにします。


先日「日本はcrazyなのか」というエントリで触れた沖縄戦での住民虐殺命令問題について少しばかり考えていた。自決命令の真偽についてはよく分からないまま当の記事を書いたわけだが、その後(昨日だったか)「池田信夫blog」で「大江健三郎という病」と題する記事を読み、「ほぅ」と思わされた。

池田氏のblogは日頃よく読ませていただいている。IT関係がご専門のようだが、経済・歴史などに関しても該博な知識を持っておられるようで、世の中にはすごい人がたくさんおられるのだなあと感心しきり。時おり散見されるストレートなモノ言いも不思議と「ま、そういうのもアリだよね」と思える。

その「大江健三郎という病」のなかで、沖縄戦における自決命令に関する曾野綾子の著作『ある神話の背景』が紹介されていた。この本はまだ手に取ったことがない。もう30年以上前に刊行されたのだそうだが(1973年、文芸春秋社)。それによると日本軍将校の少なくとも一人は住民に「自決するな」と諭していた、そういう証言があるのだそうだ。当の本を読んだことがないので事件に関して、さしあたりこれ以上の言葉を慎んでおこうと思う。

ところで、自決命令問題がこれまでどのような経緯を辿ってきたのかいささか気になる。私も以前ちらと耳にした記憶はあるのだが、詳しいことは知らない(ここまで読まれた方は言うまでもなくご承知だと思う)。ただ、少なくともこの問題についての認識はいまだ衆目の一致するところにまで至ってはいないとはいえるのかもしれない。

近年、一国内においてもまだ認識が分かれている問題について異論を(あたまから)排除する形で国としての「公式な」見解が示されがちにも見える。これは私の気のせいだろうか。
「常に異論はある(だからいちいち構ってられないよ)」
そうだろうとも。常に異論はあろうとも。しかしだからといってこの言葉を異論排除のための「封印」「護符」にしてよいわけではもちろんない。しかも、国としての公式見解となれば(よく見うけられる)政治家たちの発言のようにいとも気楽に「撤回」「抹消」できるものではなかろうし、それが対外関係に関わるものであればなおのこと正論というだけでは押してはゆけまい。

外にも眼ぇ向けてる?
内向き過ぎない?
内側だけ見てるのって危なくない?

などと考えながら、今ふと思ったことがある。
従軍慰安婦問題等での対日批判は、(本来なら日本とは直接関係のない)ブッシュ批判とどこかでつながっているようだ(根拠はなし)。

当今世界最強の国アメリカ。この国は(というよりブッシュさんは)、かりにも国際的に承認されている(いくつかの)国家に対して「ならず者国家」と呪詛の言葉を投げつけ、あまつさえ国際社会のコンセンサスを得ないまま武力侵攻を繰り返している(イランも危うい)。異論を排除し国内世論を一つにまとめ上げ(染め上げ?)一路目標に邁進した9・11テロ以後のブッシュ政権。その信念の具体像は私にははっきりと見えないのだが、少なくともブッシュ政権は自分たちの「信念」に極めて忠実であったと私には思える。国際社会の批判など蛙の面に小便だったではないか?英・西・伊・東欧各国は別として仏・独・露あたりはブッシュ政権の対外政策を白眼視していた(おそらく今もそうだ)。

小泉以来の日本は脇目もふらずにブッシュを追いかけている。「おーい!そのバス、待ってくれ~」

第三者的立場の人たちからは「信念に忠実な」安倍日本とブッシュアメリカとが二重写しに見えているのか。口先だけ勇ましい者(スネオくん)と実力に訴える者(ジャイアンくん)との違いはあれ、他者の声に耳を傾けないという点で同質の二人がそれ以外の人たちから冷たい視線を浴びている(マンガの中のスネオ・ジャイアンはもっと人間的だけど)。
おそらくアメリカの政治状況の変化によって、そうした状況が露になってきた。ブッシュにひたすら付き従っていたらいつのまにか彼との間に(本家)民主党が割り込んできた。「な、なんだよ、キミ・・・(怖)」
いっそ(民主党が多数を占める)アメリカ議会の日本批判はブッシュ大統領批判のとばっちりとでもいうべきか。そんな中、いま日本がいきりたてばたつほど状況は悪化しそうな気がする(ま、私の生活には関係ないけど)。
いまや「世界の憎まれ役」となったブッシュの身代わりとなって各国から袋だたきに遭っている日本。各国のブッシュ政権との親密度が慰安婦問題への反応ともリンクしている(”利害関係人”とも言える中国・韓国は別としてのはなし)。

そんな微妙な情勢のなかでわざわざ火中にガソリンを投じるような真似はなさらないほうがよいのではないかと思うことしきり。教科書の書換えがそれほど緊急を要する問題とは思えないのだが。なんにせよ時機を見定めるということは結構大事なことのような気がする。(ま、もちろんのんびりしているうちに新たな真相・疑惑が浮かび上がってくる恐れもあろうが)。

一言でいえば「日本はもっと空気嫁」!?

コロッと話が変わるが、

英国人女性講師殺害事件に関連して被害者の父親が出したコメントは、なんともまあ時宜を得たというのか痒いところに手が届くというのか、それとも「近代外交の故地」ヨーロッパの面目躍如というべきか・・・。コメントの内容云々よりもまえにタイミングがねぇ・・・。生前の被害者女性が口にしていた(らしい)、日本や日本人に対するネガティヴな言葉(「crazy japan」等々)がマスコミその他で取り上げられはじめた矢先、駐日大使が被害者の父の口を借りて(表向きは父が大使の口を借りた形だが実態は逆だろう)すかさずフォロー。もちろんこれで被害者女性もまた無用の反感を持たれずに済んだはず。

被害者父が声明「犯人は日本を侮辱した」(yahoo news毎日)[キャッシュ]

ま、日本の外交官も当然のようにどこかの国でやっているのでしょうけどね。

それでも僕わ悪くない

  • 2007年04月02日 (月)

まるで子供の喧嘩ですね。

たしかに、誤解がもとで軋轢が生じているのならば、相手の誤解を解く必要はあるでしょう。
どっかのチンピラがありもしないことを事挙げて脅迫・恐喝紛いのことを仕掛けてきているのならば毅然と反論することはもっともなことでしょうが。

不幸なことに、人間社会と同じく国際社会にもまた少数ながらチンピラ的国家が存在することは否定できそうもない。だから他国の主張を唯々諾々と受け入れるべきとはもちろん思わない。

しかし、そうした「ならず者国家(!)」からのみならず仮にも外交関係を保持している他国なかんずく最も大切な同盟国(宗主国?)からまで批判の矢を浴びせかけられている現状はどうしたわけだろうかと訝しくもある。それは確かだ。

ただし、それに対する反論はそれなりに相手に対する敬意を保っているべきではないのだろうか(少なくとも相手がチンピラではないのであれば)。
「あいつらだってスネに傷あるじゃねえか」
「人のこと言えた義理がこのバカヤローが」
「俺は間違ってねぇ。俺に反対するやつはそもそも俺に対して悪意があるにちげぇねえ」

「ぼくの周囲は悪意に満ちている」
これではまるで子供の言い分ではないか。

「安倍首相の発言は暴力的、組織的に軍が直接に関与したのかという疑問の提示だった。しかし、世間には政治家の発言を悪意をもって待ちかまえる人々がいる」(産経抄3月30日付

自分の言いたいこと言うだけの坊ちゃんだってさ、当人には(主観的には)悪意はないのかもしれないが、端から見れば恐らく充分悪意に満ちているように見えていると思うんだけどね。

しかし、日本にとって真の友邦はどこにいる?そうした友邦、協力者を作り出すことは政治家の重要な仕事の一つではないのか?内だけ向いて歴史と伝統を取りもどしたいのなら教育者としてのほうがやりがいがありそうですが。むしろそうするべき。 ”政治家”のやるべき仕事は、不満はあってもなんとか折り合いをつけることではないのだろうか?
自分の家の中に閉じこもって「歴史と伝統」をつまみ食いするのに忙しい人物にとってはそんなことすら見えないのかもしれない。彼には確かに外界が「悪意に満ちた世界」に見えるのだろう。

あなたがたはひょっとして、バランス感覚を欠いた奇形的な精神こそが「日本の歴史と伝統」であるとでも言いたいのですか?

いまどきの狂信的「政治家」や浮き草マスコミのヒステリックな言辞に踊らされるような阿呆な国民なんて一人もいないよ、たぶん。

真の意味での政治家が見あたらなくなった日本の当処のない漂流は今度の参院選で終わりを告げるか・・・。

願わくは他国を「チンピラ」と罵る自分たちもまたもう一つの「チンピラ国家ではないか」と言われることのないよう、より誠実で知性的な「大人の対応」がなされますように(おとな=たいじん)。

日本はcrazyなのか

  • 2007年03月31日 (土)

従軍慰安婦問題に関して日本は四面楚歌になりつつあるようだ(というより既に四面楚歌だと言うべきか)。安倍首相のお詫び発言も沈静化にはつながっていない様子。中韓は言うに及ばず、欧米からも聞こえてくるのは非難の声ばかり。もちろん個人的には日本の立場に同情的な論評もないことはない。日本との縁も深いジェームズ・アワーが産経新聞に寄せた評論(キャッシュ)を偶然見かけて読んでみた。これが産経の言うような「正論」かどうかはさておき、個々の意見は日本でも海外でもそれなりにまちまちであることは当然といえば当然のことだろう。

しかしながら現状では日本政府の言う「正論」は海外においては「暴論」と受け取られていることもまた疑い得ない。カナダ下院の決議は僅差での可決だったが〔注1〕、公式謝罪や保障実施を日本に促すよう(カナダ外相に)要求する内容〔注2〕とのことだ。また、朝鮮日報はドイツの新聞論評を引用する形で暗に日本政府を批判している〔注3〕

どうも安倍首相は自分の発言が否が応でも海外にまで届くのだ(そして多様な受け取られ方をする可能性があるのだ)という点に配慮が欠けているように私の眼には見える。いっぽう今の日本には安倍さんの強気の発言を歓迎する空気が確かにある。朝鮮日報によれば上記南ドイツ新聞が次のように論評しているらしい(南ドイツ新聞のサイトでは当の記事が覗けなかった)。
「支持率が急落している安倍首相は、かつて性の奴隷となった高齢の女性には心の傷を負わせながらも、日本国民の半数には民族主義的な発言が支持されるだろうという卑劣な計算をしている」
安倍さんの強気の発言を当然のこととして受け容れる日本人は少なくない(というより多いとはっきり言うべきだろうか)。

もちろん、安倍氏の国内向けパフォーマンスはそれ自体非難されることでもないだろう(たとえそれが下手くそな演技者のそれであるとしても)。なにせそれが政治家の仕事なのだから。しかし安倍さんはどこかのゴロツキ政治屋ではない(はず)。首相という立場に(今は)いる。ゴロツキ政治屋はそこらじゅうにいて、それはなにも日本に限った話ではない。わざわざ海の向こうのマスコミがある国のゴロツキの言動についていちいち論評することもまずなかろう。

それどころか日本一国の動向など、諸外国にとっては日本人が思っているほどには重要なトピックではないだろう。それは自分たちについて振り返ってみれば分かる。カナダで何が起ころうと、バスクでテロが起ころうとまず日本ではニュースにならない。外国で何が起ころうとまずは「邦人は無事」「邦人乗客行方不明」というわけで、日本・日本人に関わりがあればともかく、そうでなければ誰の興味も引かない。それが自然な反応だろう。

しかし、日本政府の言動に逐一諸外国が反応を示すことはないにしろ、彼らには何も聞こえない・何の興味も持っていないというわけではもちろんない。一朝事あらば情報は瞬時に筒抜けになるご時世なのだから。

先日の英国人女性講師殺害事件を知ったとき、すぐさまgoogle newsで海外での報道をチェックしてみたが、日本での報道とほぼ同時にイギリスはもとよりカナダ・オーストラリアほか英語圏の国々でも詳しく報道が為されていた。そんな時代にわたしたちは生きている。

この講師殺害事件は日本にとっては具合の悪いタイミングで起こったと私は感じている。様々な異論はさておき女性を性的に虐待した従軍慰安婦問題に関して総スカンをくらっている中で起こった女性講師殺害。共通するのはさしあたり「女性」という点だけだろうが、この二つが混じり合って日本への悪感情が醸成されても不思議なことではあるまい。

女性に関する問題で「いわゆるバッシング」を浴びている最中、パフォーマンス好きの安倍首相はいっそのことこの事件捜査の陣頭指揮をとるくらいの姿勢を対外的に示されてはどうだろうか。確かに捜査の進展には毫も寄与しないだろう。邪魔になるだけかもしれない。たぶんそれは事実だろう。しかし世界は事実だけで成り立っているわけではない(事実は所詮は素材である。もちろんそれはとても重要な素材ではあるが)。

「慰安婦は金を目当てに自分から飛び込んできたんだからさ」とあくまでも突っぱねた挙句、自分たちのテリトリーで起こった外国人女性殺害も通り一遍の捜査しかしない日本人に対して世界は北朝鮮に向けるものと同じそれを向けはしないか。それは一面不合理かもしれない。日本人だろうが外国人だろうが同じ捜査をやるのだ。特別扱いは不平等であり、また逆に日本人を逆差別することにつながるとも言えよう。それこそ「正論」かもしれないが、正論だけで世の中渡っていけるはずもないことは政治家の方々が一番よくご存じの筈だろう。「政治には金がかかる」。

法的には問題はない
合理的に考えるべきだ
事実か否か疑念が残る

そんな言葉は人間の感情の前には何の力もない。安倍さんを筆頭に、今の私たち(日本人)には人の感情に対する配慮が決定的に欠けているように私は感じる(もしそれが私一身の欠点に過ぎないのなら喜ぶべきことだ)。誰しも身近な人間(や選挙民の如き利害関係者)の感情を慮ることはさほど難しいことではない。問題は姿や顔の見えないまったくの他人へのそれだろう。

見ず知らず、会ったことも存在することすらも知らない赤の他人の感情に配慮することにはある種の能動性が必要になる。想像力が要る。しかし現実には親殺し子殺しがめずらしくもなく、姿の見えない赤の他人への配慮などは希少価値すら持ち始めたかに見える。よく言えば自己の信念に忠実な、そしてそれしか見えない安倍さん型(ストーカー型?)のあり方が最早ありふれたものになりつつあり、病的なまでに昂進している。そんな日本に対する一般的な印象がこの際さらに悪化しても私は不思議とは思わない。

先の講師殺害事件に関連して、イギリスの新聞に次のような文言を見つけた(同様の記事は日本の新聞も報じていたが、その時は気にも止めなかったが改めて英文を読んでいささか考えさせられた)。

Ms Hawker later mentioned the stalker in an email home to her boyfriend, describing the incident as an example of “crazy Japan”.

”British teacher died from suffocation”(The Independent)

“crazy Japan”
何と訳すのが適当なのかわからない(ちなみに朝日新聞はこれを「日本は変わった国」と訳していた)。日本で生活している私たちは自分たちの社会を狂った社会だとは思ってはいない。そう思いたくない。しかし「あなたたち、おかしいよ」と言われてみればそれを否定できるだけの確信が少なくとも今の私には持てない。

そうしたなかで今朝新たにcrazyな言い分を報ずる記事に接した。

「『軍強制』検定で修正 沖縄戦集団自決の7カ所 08年度採用高校教科書」(西日本新聞)

文科省は「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」と説明

尚、ここで言われる民事訴訟は産経新聞によれば「作家の大江健三郎氏らの著書で自決を命令したと名指しされ名誉を傷つけられたとして、座間味島の守備隊長だった元少佐らが17年に大江氏らを大阪地裁に提訴」したことを指している。〔注4〕

慰安婦らとこの元少佐の両者については、どちらも名誉や尊厳を傷つけられたとして訴え出たという点で等価というべきだろうが、片や鋭敏に過ぎると思えるほどの配慮を見せるかと思えば他方では諸外国の批判を「あっちとはそもそも議会制度の成り立ちが違う」などという(反論としては)頓珍漢な遁辞を弄して批判を批判として受けとめない。

また、両者は強いて言えば「証拠がないから断定できず」という点が共通しているとも言えようが、彼らどちらも単に事実を確定させたいが為に提訴したわけではなかろう。彼らにとっては事実か否かということは自らの尊厳を回復せんがための副次的な要素に過ぎないと思われる。それにもかかわらず近年の一部政治家たちが常套句とする「事実かどうか」「断定できない」という言葉はまるであさっての方角を向いているように感じられるが、そんなものは「学者の言葉」ではあっても「政治家の言葉」ではなかろうと素人の私は思うがどうだろう。
ここで念のため言い添えておくが、これは何も学者や政治家を貶めようとするものではない。学者は学者の言葉を、政治家は政治家の言葉を使えばよい。しかし都合のいいときにだけ政治家が学者・歴史家の言葉を使って言い逃れを図る卑怯さに途方もない醜さが感じられはしないかということだ。

もちろん、政治家は学者ではないと言うことくらいは「歴史認識は後世の歴史家に委ねる」と述べられた安倍首相もよく承知されているだろうから、(証拠の有無は専門家に任せて)政治家として適切な対応を今後はなされることを期待している。それとも安倍さんは行政府のトップでありながら「文科省の言い分は私のものではない」と仰るのだろうか。

注1
「『日本政府に圧力』 慰安婦めぐり決議 カナダ下院小委」(朝日新聞)

野党・新民主党の議員が提出し、27日の採決は賛否が3対3で割れたが、与党・保守党の委員長が賛成に回った

注2
「『慰安婦問題』カナダ下院小委が動議採択」(読売新聞)

旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で、日本の国会の公式謝罪決議や補償の実施を安倍首相や国会に促すよう、マッケイ外相に要求する動議を採択

注3
「慰安婦:『日本は謝罪すべき』 世界各国で非難の声」(朝鮮日報)

日本政府による強制連行を否定する発言を強く批判する声が、米国のみならずドイツやカナダからも
(中略)
ドイツの日刊紙「Sueddeutsche Zeitung」は28日、「安倍首相は内政での失点を挽回(ばんかい)するため、日本軍がアジアで性の奴隷を搾取した事実を公の場で否定した」と非難

注4
高校教科書検定 沖縄戦集団自決「軍命令」を修正 否定説有力、方針変更」(yahoo news産経)(キャッシュ


なんにつけ、あまりにもご都合主義が過ぎないかい?
素材(事実)の吟味に拘っていつまでたっても飯を出さない料理人なぞただの馬鹿だ。餅は餅屋に任せなよ。そうしてつまみ食いもやめときなよ。

(2007年4月1日夜一部改稿)

(追記)
沖縄戦集団自決に関する参考記事:
「大江健三郎という病」(池田信夫blog)
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会

閣僚全員、起立!礼!!

  • 2007年02月20日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

あの「農業青年も厚生年金をほしがってる」発言の中川秀直自民党幹事長がふたたび。

「忠誠心ない閣僚は去れ」=中川自民幹事長が苦言(yahoo news時事)

首相を引き続きしっかり支えたい=幹事長発言で官房長官(yahoo newsロイター)

中川幹事長苦言 首相官邸も神経とがらせ…指導力問われ(yahoo news毎日)

首相の支持率が上がろうと下がろうとわたしの知るところではない。政治家がよく言う「政治家は結果責任」ではないが、”結果としての”支持「率」などは必ずしも有権者が知っておく必要のあることとは私は思っていない(知っていて損はなかろうけれど)。

その数字は単に「有権者が政権をどう思っているか、支持しているかどうか」を推測するためだけの指標なのだから。数字がどうあれ、それで有権者のなにかが変わるわけではないし変わるべきではない(できればのはなし)と私は思っている。

・・・いや、ただ数字などおれの知ったことじゃねえよ、と。それだけ。

ただね、絶対的忠誠だのなんのという言葉を聞いちゃうとね、気持ち悪いのよ。幹事長先生に叱られてシュンとなって、安倍先生に形ばかりの「起立、礼!」。
べつにいいんだけどね・・・、それはそれで。

閣僚、会話やめ一斉に起立=20日午前の閣議で(yahoo news時事)

安倍晋三首相を迎え「おはようございます」と大きな声であいさつ

首相入室で機敏に起立 閣僚、中川発言に反論も(西日本新聞)

あ、そこの女性閣僚、そんな神殿に詣でているのでもあるまいに・・・。
まるでこれは人徳に欠けてて生徒に嫌われてる教師が、かたちばかりの礼儀を生徒に求めているような・・・。

「児童たちは安倍晋三先生を迎え『おはようございます』と元気な声であいさつ・・・」

どこかのローカル新聞のヒマネタ・学校記事そのままであることに吃驚するばかり。これがほんとうにどこかの小学校での出来事ならばほほえましいばかりだが、かりにも内閣ですぜ。「国家の品格」はいずこ??

諸外国の情報担当者は日本の主要紙には目を通しているはず・・・。元気な声でごあいさつ、なんて出来事が自称クオリティペーパー各紙に掲載される奇妙さにきっと驚いていることだろう。

こんなネタはスルーするのも一つの見識かもしれないと思わずにはいられない。これほどまでに幼児化した(政治家・マスコミ・そして国民からなる)日本の有り様を知らしめて大丈夫なのか?

なにはともあれ

馬鹿げた風景が、ようやくぬるみ始めた風に吹かれてぶ~らぶら。あたたかくも寒々とした、そしてよく見受けられる光景である。

春だなぁ。

農業青年は敗残者か? ~その1

  • 2007年02月12日 (月)

ここしばらくのあいだ、私は不安な日々を過ごしている。
そのわけは、けっしてつまらぬわが身の一身上のことではない。
私が次代の首相候補と考えている(国会議員なら、いや日本国民であれば皆首相候補である)政治家の一人が、先日の宮崎県知事選挙のさなか非常に気になる発言をなされたからである。

「農協の営農会社化を検討 自民・中川党幹事長」

「農業をする青年たちも厚生年金をもらったほうが生き生きする」 (goo news

「現行制度では農協自体は営農できない。大農業会社に変身させ、農業地帯の青年たちも厚生年金をもらう仕組みが正しいのではないか」 (sankei web)

「農業の合理化をすすめるべし」との文脈のなかでの発言のようである。

が、

「農業青年たち」も「厚生年金をもらえるほうが喜ぶであろう」

ともとられかねない発言は穏当ではないようにおもわれる。
どうかすると言葉じりをとらえるかのようにマスメディアが食いついてきかねない政治家受難の時代にあって、日本一の政治党派である自民党の大幹部、中川秀直幹事長の農業観に関するこの発言がいったいどのような波紋を巻き起こすのか、私は夜も眠れないほど心配していたのだが、どうも全然まったくなにごともなく終わろうとしているようだ。それでもまだ安心して良いのか悪いのかはわからないが。

国会でも大問題となった厚生大臣の「女は産む機械」発言についてはスルー気味だった私であるが、この中川発言は非常に気になる、とてもではないがスルーなどできない発言である。
言葉じりをとらえて云々するのはまさに「言葉狩り」につながりかねないのであるからして、中川氏の発言をできるだけその文脈に即した形でここにご紹介申し上げたいと考える次第である。

そのようなわけで、以下、日頃の中川氏の主張を同氏のウェブサイトから転載させていただくことにする。世間知らずの私にはよくわからないが、もしかすると著作権等の問題が発生するのかもしれない。しかしながら中川氏も清濁併せのむことを身上とする政治家である以上は、こうして氏の主張を広く報ぜんとする私の真意を必ずや理解して下さるであろうと思量する。それでも万一不都合があればただちに当ブログから削除させていただくつもりであるが、ひとまずはご了承頂けるものとしてはなしを進めたい。

以下「HIDENAO NAKAGAWA official website」より引用。

(・・・)第二に、台頭する隣国・中国が責任ある東アジア共同体の一員となることは、日本の国益にかなうものです。そのためには、アジアで最も古い民主主義国家である日本が、インド、豪州など価値観を共有する国などとともに、アジア全体が経済・報道・信教の自由、人権、法の支配といった普遍的価値や国際的規範を受け入れ、民主的プロセスを尊重する地域になることを支援し、将来、「成熟した民主主義国家同士は戦争をしない」という考え方に基づいて、東アジアがモデル地域になることを日本の中長期の戦略目標とすべきです。

こうした戦略的発想から、私は、東アジア共同体構想で日本がリーダーシップを発揮すべきと考えます。

問題は、リーダーシップの手段です。深刻な財政事情の中で、もはや政府開発援助に依存すべきではありません。日本のリーダーシップの源泉は、日本がアジア経済の需要者となることであり、「輸入の拡大」と「労働力の受け入れ拡大」を行うことであると考えます。

東アジア共同体構想で日本がリーダーシップを発揮出来るかどうかは、国内農業構造改革と外国人労働者受け入れ体制の確立という、国内問題にかかっています。これは、リーダーシップのための自己犠牲ともいえますが、私は単なる痛みとしてではなく、日本経済を強くするためのテコと考えるべきだと思います。

農業でいえば、自由貿易協定により、国内農産品の輸出拡大、日本の食品安全基準のアジア拡大、農協の経験を生かした農業組織づくりなどの「攻めの農政」への転換を図ることができるし、国内においても、担い手がいなくなった地域での大規模な企業的農業経営で生産性を上げることも可能でしょう。

サービス業においても、例えば国内では人口が集中する都市にサービス業を集積させつつ、一方で、拡大するアジア市場においてサービス業のビジネスチャンスをつかむことも可能です。

このような農業とサービス業の生産性アップは、日本の経済を強くし、日本の各地域経済を強くするはずです。自由貿易協定等をテコとして、日本の農業とサービス業の構造改革を進め、生産性を上げて潜在成長率を高めていく、という戦略的発想を持つべき時です。

また、世界中から能力のある人が日本に集まってきて、その能力を発揮してもらうことで日本の豊かさにつなげていく、という戦略的発想を持つべきで、自由貿易協定等をテコとした「専門的・技術的分野」の外国人労働者受け入れ拡大を真剣に検討すべき時です。
以上 「2006年の決意」より

1、日経の社説に「生産性向上へ農地集約化に全力を」が書かれている。

「すべての農家を対象に品目ごとに価格保障する制度をやめ、一定規模以上の担い手に絞って所得補償する農業の新しい経営安定対策が2007年度から始まる見通しだ。残された時間は少ない。自治体や農協は地域の農家の理解を得て、農地集約化に全力をあげてほしい。新対策の支援対象は個別経営では農地面積が4ヘクタール以上(北海道は10ヘクタール以上)、複数の農家からなる集落営農では原則20ヘクタール以上に限定される。従来の『ばらまき農政』から脱却し、中核的な担い手の育成を通じて生産性を高める狙いがある。日本の農家(都府県)の平均農地は1・3ヘクタールに過ぎず、『小規模農家の切り捨てだ』と批判する声もある。しかし、今回の改革なしに日本の農業は再生できない。農業就業者の6割は高齢者なうえ、耕作放棄地は東京都の面積の1・8倍以上に上る。主要国のなかで際立って低い日本の食料自給率を高めるためにも競争力のある農家の育成が欠かせない。高関税による保護策は国内農業の基盤強化をむしろ阻害している。高い関税のツケを払っているのは割高な農産物を買わされている消費者である。世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)は農産物などを巡る対立から難航しているが、WTO交渉の状況にかかわらず、危機感をもって一層の市場開放に備える必要がある。

 営農面積を拡大できるのは『後継者がいる一部農家などに限られるとみて、農協や自治体が集落営農の組織化に力を入れるのはやむを得ない面はある。しかし、その一方で集落営農に加わるために兼業農家が農業法人や専業農家から農地の返還を求める『貸しはがし』が問題になっている。支援対象はあくまでやる気と能力のある専業農家などを中心に据えるべきだ。集落営農で支援を受ける場合、経理の一元化など面積以外にも条件があるが、審査が甘くなれば経営の効率化は望めない。農林水産省が6日発表した『食料・農業・農村の動向』(食料白書)では食の安全や地産地消への取り組みなど幅広く紹介している。地域ぐるみで安全で安心な農業を育てることは重要だが、肝心な担い手の経営が安定しなければ十分な効果は期待できないだろう。政府の新政策に対抗し、民主党の小沢一郎代表は規模に関係なく農家所得を補償する改革案を打ち出す意向という。それでは財政負担が膨らむだけで生産性は高まらないだろう。甘い言葉に迷わず、地域農業の構造改革を進めてほしい」。

 正論であると思う。問題は小沢民主党の「新農政プラン」という改革案である。改革案ではなく、政府・与党の新経営安定対策を阻止するところの対立軸路線に拠るものなのである。いわゆる規模に関係なく農家の所得補償制度を大幅に補充するものであり、従来の「バラマキ農政」の延長線上でのものなのである。何故、小沢氏が「新農政プラン」をテコに、地方に攻勢をかけるのかは、参院選の1人区対策のためなのである。昨日の東京の「スコープ2006政局」に「小沢代表、新農政プラン作成指示」「民主党、地方へ攻勢」「参院1人区対策」との記事が載っている。「小沢氏は最近党内の若手らに『農村地域は政治への期待が強く、関心も高い。その分、なんぼでも入り込める』と繰り返し説く。地方の農村地域は小泉政権の5年間で、自民党離れが進んだと見ているのだ。・・農林漁業政策は、与野党逆転を狙う来夏の参院選で、政策面の目玉と位置づけている。小沢氏は既に、『参院選は1人区の勝負。農家に分かりやすい、インパクトのある政策を打ち出してほしい』と、党の農業政策担当者に指示も与えた。民主党は昨年、現在40%の食料自給率を10年で50%、将来的には60%以上に上げる、農家の所得補償制度を大幅に拡充するーなどの『農林漁業再生プラン』を策定済み。今国会にはこのプランに基づいた法案を提出したが、廃案になった。小沢氏の指示は、このプランをさらに充実強化させようというものだ。周囲には『食料自給率60%というけちな目標を立てていてはだめだ。100%自給する目標でやれる』『政府の農業振興策と同じ用語は使わない方がいい』などと注文をつけ、政府・与党との<対立軸>を意識する」。1人区29の選挙区で、小沢民主党が20以上を取り、参院での与党の過半数割れを追い込むために、政府・与党が進める農業の構造改革路線を全否定する、「従来のバラマキ農政路線の拡充」をもって、「なんぼでも入りこめる」としているのである。社説でも指摘しているように、「今回の改革なしに、日本の農政は再生できない」にも関わらず、その再生を潰す小沢民主党は、国益を損なう抵抗勢力そのものではないか。だから、政権担当能力がないと民意からみなされるのである。(6月7日記)
以上 06年「6月7日」

引用文がかなり長くなったので本論は次回に。

政治資金問題と浮気の効用

  • 2007年01月28日 (日)

昨年末以来、政治資金に絡んだ醜聞がメディアで取り沙汰されているようだ。ただ、私にはどうもメディアが言うほどには際だったトピックとは思えないのが正直なところだ。「なにをいまさら」というところか。

命題:政治にはカネがかかるのだ

しばらくまえに「クイズ百人に聞きました」とかいうテレビ番組があったが、その伝でいけばおそらく政治家全員が上の言葉に同一の回答を寄せるであろうと思う。だからこそ議員歳費とは別に様々な名目で議員に対して金員が支給されているわけだ(もっとも議員たちは必要額に遠く及ばないとのたまうだろうが)。ともあれ政治にカネがかかるという点については衆目の一致するところであるのはいまさら多言を要しない。現在行われている政党助成金制度にしても、政治にカネがかかるという事実を前提に制定されたかに私は記憶しているのだが。

昨年末以来の政治資金問題のポイントは、政治にカネがかかるという今更言うまでもない金権政治体制よりもむしろ、政治資金規正法が文字通りのザル法であり、国庫から支出されている金員がいかにもどんぶり勘定で扱われていたという放漫さにあるように思われるのだ。確かに一部メディアがのたまうが如く、政治にカネがかかること、あるいは政治がカネで左右されかねないということ自体がそもそも「ケシカラン話」ではあるのだろうが、その点に関しては政治家ばかりが非難される問題ではなかろうし、一朝一夕にどうにかなるものでもあるまい。なにせ数百億の助成金を投じているにもかかわらずいまだ解決していないのだから。

いや、確かにケシカラン話ではある。それは分かる。党によっては数百億の助成金を国庫から支給され、さらにはこれまた国民の税金の結晶ともいえる議員会館・議員宿舎その他(よくは知らないが)さまざまな特典(曰く”必要な道具・経費”)を与えられていながら、議員さんらは「足りない」「足りない」とあの手この手で誤魔化す。一般論としては(つまり議員さん方に限ったことではないが)そもそも使途を明らかにする必要のない金員が如何に浪費されるかということについては、それを裏金と呼ぼうとあるいは機密費、調査活動費、政務調査費と呼ぶに関わらず、今までに明らかになった(数少ない)事例を見ればもはや明白と言って良い。

今回取り沙汰されている問題から引き出される一つの結論は、(これまた言うまでもなく)議員たちが自らの手で自分たちを縛るような規制法を定めるはずがない、ということだ(その彼ら自身がどういうわけかこのところ盛んに世の「自律」「規範」を論じている点についてはひとまずおいておく)。
そうした彼ら(議員さん方)に自律を促すインセンティブはただ一つ、議席の確保。つまり選挙で勝てないようなことは彼らはしないであろうし、(逆に言えば)選挙に勝つためにはなんでもやってくれるだろう、ということだ。したがって、こと政治資金問題に関しては(空論だとの批判を承知で言えば)有権者が投票行動で意思表示することが最大の特効薬だといえる。であるからしてマスメディアが為す報道についても、ことさらに反感を煽ることよりもむしろ冷静に、特効薬がいかに効くのかを説けばよいようにも思われる。ひょっとするとメディア関係者からは「市民は理性ではなく衝動で動くのだからセンセーショナルな報道のほうが効果的なのだ、バカめ」と言われるかもしれないが。

ただ過去の経緯からみて(例:細川政権誕生)自民党に限らずおよそ政党というのは政権獲得が最大の目標であるわけだから、仮に今後の選挙次第で非自民党が政権を取れば、(目下の政権与党である)自民党は有権者の意向を改めて忖度せざるをえないだろう。「自民党には不滿もあるがしかし非自民党もつまらない党ばかり」だと言う声も聞こえてきそうだが、そのときはその時でまた有権者の投票行動によって自民さんに政権をおまかせすればよいわけだ。そのように、政権がどっちの手におちるか分からないというドキドキ感こそが政党政治の勘どころであり、また市民の権利を担保するのであり、そういう意味では不安感こそが民主政治の要諦なのだろう。

したがって有権者の立場からすれば、自らの有権者としての価値を高める(維持する)ためには「もうあなたしかいないの。くびったけよ~!」(今どき聞かないけど)と一政党一政治家にゾッコン惚れ込んでしまうよりも、「あなた次第ではどうなるかわかんないわよん」という姿勢をチラチラ見せるほうがよほど効果的ということになる。ま、もっともそういう分かりきったことがなぜ実現しないのかという点はよくよく考える必要はあるのだろうが。

改めて明言できるのは、「終極的には有権者次第である」という民主政治の大原則はまだ(かろうじて?)生きているということだ。市民の権利を軽視するかのような法案続出の昨今、ちょっと浮気でもしてダンナの気をひくのも一興なのかもしれない。

政治資金の話から少しばかり話が逸れた感があるが、言わんとするところはただ一つ。
「政治にはカネがかかる」(らしい)
ダンナの無駄づかい、放蕩を戒めるためには言葉でなじるよりも遙かに効果的な方法があるだろうし、そのためにはあまり感情的な言動は逆効果をもたらすこともあるだろうというのが今回のお話。

最後になったが、政治資金に関しては現安倍晋三首相が敬愛する祖父岸信介が慧眼をもって次のように語っておられる。議員諸氏は拳々服膺されたし。

「諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」(『私と満州国』)

原彬久『岸信介~権勢の政治家』岩波新書1995 より引用

政治にカネがかかるのは当然のこと、アシのつくような稚拙なやり方がツマランのだ、ということのようで。
(原氏の著作を元に岸信介とその政治について書くつもりが政治資金のはなしになってしまいました。またいずれ・・・)

防衛省発足と安倍首相訓辞

  • 2007年01月17日 (水)
  • キーワードタグ: 政治

冷戦期、厳しい東西の対立構造は、国内政治にも少なからず影響を及ぼしました。一部には防衛庁・自衛隊の存立自体にすら異議申し立てのある時代。(中略)冷戦終結とともに、我が国を取り巻<安全保障環境は一変しました。我々が直面する危機を正面から見据え、防衛力の役割を根本的に見直す必要が生じたのです。(中略)

今、我が国は、正に 「新時代の黎明期」 にあると言っても過言ではありません。私は、これまで、「戦後レジームからの脱却」 ということを繰り返し述べてきました。「美しい国、日本」を造っていくためには、「戦後体制は普遍不易」とのドグマから決別し、二十一世紀に相応しい日本の姿、そして新たな理想を追求し、形にしていくことこそが求められています。(中略)

若き日のド・ゴールは、その著書「別の刃」 の中で、「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。このように自らの方針にのっとり、自己の責任において事を断行する態度は行動に強烈な刻印を押す。・・それは決して、・・忠告を踏みにじらんとするものではない。彼には、止むに止まれぬ気概と、断行せずにはおれない心の疼きがあるのである。」 と述べています。私も、これと全<同じ気構えで、「美しい国造り」 に全力を挙げて取り組んでまいります。

集団的自衛権の問題についても、国民の安全を第一義とし、いかなる場合が、憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な事例に即して、清々と研究を進めてまいります。

今回の法改正により、防衛庁を、省に昇格させ、国防と安全保障の企画立案を担う政策官庁として位置付け、さらには、国防と国際社会の平和に取り組む我が国の姿勢を明確にすることができました。これは、とりもなおさず、戦後レジームから脱却し、新たな国造りを行うための基礎、大きな第一歩となるものであります。一方、防衛庁省移行法の成立は、我が国の民主主義国家としての成熟、そしてシビリアン・コントロールへの自信、さらには国際社会の中で平和と安定のために責任ある役割を担ってい<という国家・国民の意志を内外に示すこととなりました。(以下省略)


防衛省発足と安倍内閣総理大臣訓示(全文 pdfファイル)

私なりに要約すると、

「自分だけを頼みと」して「戦後体制というドグマ」を粉砕し「戦後レジームからの脱却」を完遂して「美しい国をつくる」

そういうことのようです。

ドグマ、レジーム・・・。
政治家らしい物言いといえば言えそうですね。

ところで、安倍さんのいう「戦後体制」とは一体なんぞや。そこに彼はどのような意味を持たせているのかどうにもはっきりとはわからない。そして彼が目指すらしい「美しい国」も同様に美しくて言葉になにならない(なっていない)。

「おまえたちは間違ってる、なにひとつ分かってない!」

そう彼は言っている、のかな。

自分自身がどのようなドグマに囚われているのかを考えたことすらない者だけが他人のドグマを糾弾出来るのだ、恥ずかしげもなく。

なにはともあれ防衛省発足、おめでとう。

以下、訓辞全文(上記pdfファイルからテキスト化)

(続きを読む…)

防衛省発足と戦後レジーム

  • 2007年01月09日 (火)

いよいよ防衛省発足。おそらく主要官庁が統廃合・名称変更した数年前よりも歴史的意義は大きいでしょうね。教育基本法改正も合わせて安倍さんが歴史に名を残すことになるのはもはや間違いのないところでしょうか。もっとも歴史は歴史でも”日本史”限定なのでついでに日本史の必修化もやったほうが安倍さんのためにはよろしいかも、です。

防衛庁の省昇格関連法の施行に伴い防衛省が9日、発足した。安倍晋三首相は同省内で行われた記念式典で訓示し「国防と国際社会の平和に取り組むわが国の姿勢を明確にできた。戦後レジーム(体制)から脱却し、新たな国造りを行うための第一歩となる」と述べ、省昇格の意義を強調(中略)
 その上で、首相は「美しい国と国民の未来、世界の平和と安定という崇高な使命のため、さらに献身的な貢献を切望する」と求めた

(yahoo news)

以前「戦後レジーム」について書いたときに調べようとしたこの言葉の来歴ですが、今のところよくわかりません。参考までに国会における発言を調べてみましたが、国会議事録にこの言葉が初めて登場するのは平成18年10月2日(鳩山由紀夫氏の質問)が初めてで、安倍氏自身の発言は同年10月4日(首相就任の約一週間後)が初出です。

 (安倍晋三)
戦後レジームからの脱却の意味についてのお尋ねがありました。
 我が国は、半世紀以上にわたって、自由と民主主義、そして基本的人権を守り、また経済的な繁栄も成し遂げてまいりました。私たちは、こうした我が国の今日までの歩みを誇るべきであると考えています。
 しかしながら、この国の基本を形作る憲法や教育基本法などは、日本が占領されていた時代に制定されたまま半世紀以上を経て現在に至っています。私が戦後体制からの脱却という言葉で申し上げたかったことは、当時決まったものは変えられない、変えてはいけないという先入観のある時代はもう終わったということであります。
 私は、初の戦後生まれの総理大臣として、二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を追求し、皆でそれを形にしていきたいと願っております。
 憲法改正についてのお尋ねがありました。
 現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、六十年近くを経て現在にそぐわないものとなっております。そのため、私は、私たち自身の手で二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として新しく書き上げていくことが必要であると考えています。

平成18年10月04日参議院本会議における発言
国会議事録より引用
強調表示は引用者(UBSGW)による

「防衛省法案」衆議院通過~その2

  • 2006年12月02日 (土)

はたしてお坊ちゃま軍団はどこまで暴走するのか。

核武装、集団的自衛権、自衛軍創設・・・。

とりわけ核武装に関しては非常な疑問を感じる。私の言う疑問とは「核武装は是か非か」という形のものではない(有り体に言えば是か非かと問われれば言下に「非」と答えるが)。自衛隊と米軍との一体化を図る流れと独自核武装はどのような形で整合するのだろうか、という疑問である。

すでに米軍と一体化しつつありまた過去数十年にわたって米軍の核の傘の庇護下にあった日本がなぜ今頃になって独自核武装などする必要があるのか。

「いや、議論は必要だ」と言う者があるかもしれない。とはいえ実現可能性のない議論を政権中枢にいる者が今行う必要性はそれほどまでに高いものなのだろうか。
現在のところ、核兵器を保有している国はほぼ安保理常任理事国5カ国と重なっている。もし国際社会において「ぼくも核兵器もつことにしま~す」と新たに言い出した国があったとして、すんなりと承認される国が(日本に限らず)一国たりともあるだろうか。

確実に言えるのは二つ。
・五大国は自分たち以外の国が核兵器を保有することを許さない。
・五大国以外の国々もまた今以上に核保有国が増加することは望まない。

つまり新たな核保有国は誰からも歓迎されないということである(イランや北朝鮮にしても核保有への意欲は「むざむざやられたくはない」という消極的なものだと考えるのが妥当ではないか。なぜなら通常使用されることが想定されない兵器に莫大な費用を投じることは、いかなお金持ち国でさえ積極的にやるとは考えにくい(その点、そうした”経済的”思考法は現在の日本国首脳陣がお得意であろうと思う)。もちろん、「あいつは悪い独裁者だからなにをやるかわからない」と言う人はいるだろうけれど)。

北朝鮮には核保有は許されないが日本が持つのは許される、とでもいうのだろうか。政治体制の違い、経済的キャパシティ、民度、技術力云々、どれをとっても彼の国よりも日本の方が遥かに上だ、という向きもあろう。しかし仮にそうであるからと言って果たして国際社会が日本の核保有を認めるということがあるだろうか。私にはどうもそうは思えない。

以下 videonews.com「日本核武装論を嗤う」より引用

日本では殆ど報道されないが、日本はIAEA査察官が8人も常駐するれっきとした核査察対象国だ

そもそもIAEAという組織が、戦後日本とドイツの核武装を防ぐことを最大の目的に結成された組織であることを、日本人の多くが正確に認識できていないのではないか

(発言者は元IAEA広報部長吉田康彦氏)

仮にも日本国を代表する行政府のトップ及び政権政党のリーダーたちたるもの、国際社会において核保有のニューカマーが歓迎されることなどあり得るかどうかは十分すぎるほどの検討を既になされていることは疑うまでもない(たぶん)。
それらの衡量をなしたうえで、敢えて何らかの目的があるからこそ核論議をなそうとされているのであろうが、どうもそのあたりの真の意図が(残念ながら)見えてこない(知られて困ることがあるわけでないだろうに)。

日本でも核保有の可能性について論議すべしという方たちは、日本があたかも北朝鮮のように国際社会から爪弾きされることを覚悟の上でそのような論を述べておられるのだろうか。もしも「ボク(日本)だけは特別だい!!」などとお考えなのであればあまりにもお目出度い限りであるが。

日本では拳銃の所持は禁止されている。例外的にごく少数の人(警官etc)が所持していることもある。
さて、ここでお隣のチト怪しげな御仁が

「おれ、ハジキ(拳銃)持ってるからな!なんかあったらいつでもぶっぱなすぞ、コラ!!」

などとしばしば無体なことをおっしゃっているとする。

「じゃ、おれも対抗して持たせてもらうぜ」
とか
「おれも持ってるぞ、ゴラァ!!」

などと言い出す奴は馬鹿である。

周囲からは

「阿呆ちゃうか!?」
「太郎ちゃん、ああいう人には近づいては駄目よ、危ないから」

などと言われる(かもしれない)。

そんなときはさっさと警察に通報するのがまっとうな市民であろう。
(ハテ、いまふと思いましたが、個人がもし拳銃ではなく核兵器を持っていた場合の通報先は警察?それともIAEA?どちらでしょうね??  な~んてね。これこそまさに無駄な議論だよ。中川会長さんにも教えてあげよう。)

わざわざご近所さんに痛くもない腹を探られるようなことをする馬鹿は・・・ほんまもんの馬鹿である。

口調がだんだん地金を露わにしてきたようなのでそろそろ結論。

今の日本で私が一番恐いと感じる人たちは全て文民である。軍人よりも自衛官よりもよほど恐いのが文民なのです。

「羊の皮を被った オオカミがきたぞ~ぉ」

などと言ってたら「おまえは馬鹿なオオカミ少年だ」と言われましょうか・・・ハハ。

「防衛省法案」衆議院通過~その1

  • 2006年12月01日 (金)
  • キーワードタグ: 政治

教育基本法につづいて防衛省法案もあっけなく衆議院を通過。

産経新聞記事

シビリアンコントロール確保の観点から、自衛隊の最高指揮官は引き続き首相が務める

だそうですが、

今の日本の状況は、文民統制(シビリアンコントロール)が確保されるから問題ないなどとは簡単には言えないような気がしますが。

wikipedia日本語版によれば文民統制とは

文民である政治家が国家戦略を担い、軍部による不当な干渉を排することである。国家戦略の軍事戦略に対する優越を中心とする

ということになっています。

ここで暗黙の前提となっているのは、軍人は暴走しがちだが文民は戦争(軍事力の行使)をしたがらない(乃至消極的である)ということである。
過去を顧みれば、軍事国家プロイセンあるいは軍部大臣現役武官制に象徴される日本軍部の専横などのように軍人が政治に介入し国家を破滅に導くという先例が確かにある。
そうした先例に鑑み、文民(シビリアン)こそが軍隊を統御すべきであり、そこでいう「文民」とは選挙によって民主的に選出された国会及びこれに責任を負う政府であって、これが軍隊・軍人の行動をコントロールすべきだとされたのである。

ここで考えておく必要があるのは、文民が必ずしも軍事力の行使に消極的ではないケースもあり得るということである。
(自分自身が銃弾に命を曝すことのない文民だからこそ戦争になってもまあいいやと考える、そういうことも考えられないではない)

日本の現状に即して言えば

今の日本において軍事力の増強、軍隊(自衛隊)の海外派兵に最も積極的なのは一体誰だろうか、ということを考えておくべきではないか、ということなのだ。イラク派兵にせよ核武装論議あるいは集団的自衛権の行使にせよこれらに最も積極的だと思われるのは、”文民”たる政治家(の一部)である(しかも驚くことには彼らが政権の中枢に位置している)。

文民統制が確保されているんだからOK!なのではない。
「軍事力の行使に消極的な者」が軍隊を統御可能な権限を与えられているか否かが問題なのである。
文民が軍事力の行使に積極的である場合、「文民統制」は本来の意味を失う。

果たして国会の論戦(そんなものがなされたのかどうか知らないが)において文民統制の本質が顧慮されたのだろうか。私は甚だ疑問である。

管見ではあるが、いまのところ自衛官たちは力を恃んで暴走してしまうほど自らを過信してはいないように見える。(ついこのあいだまで「税金ドロボー」「張り子のトラ」などと鬼っ子扱いされてきた彼らにすれば、国民が自衛隊を認知してくれることを喜びはするかも知れないが、いきなり「んじゃ、ひとつ戦争でもやるべえか!」なんて調子づくとは私には思えない)

問題は、「そういえば昔は防衛庁なんてのがあったんだってさ」などという2世、3世が登場し始めたときにどうなるか、なのだ。

戦争を知らない世代が多数派となったとき、平和主義は抵抗する間もなく過去のものとなった(ように私には見える)。そして自衛隊がかつて日陰者呼ばわりされたことを知らない世代が多数派となったとき、日本にどういう変化が生じてくるのか。

(つづく)

憲法記念日改め文化の日

  • 2006年11月03日 (金)
  • キーワードタグ: 政治

今日は憲法記念日 文化の日。60年前の今日、日本国憲法が公布されたんですね。(「憲法、憲法」と思いつつ書いていたら、つい”憲法記念日”になってしまいました。帝政もとい訂正。)
果たして現行憲法の余命はあと何年でしょうね・・・。

いったん決めたルールは何があっても槍が降っても核ミサイルが落ちてきても変えるべきでない、などとは思いませんけれど。決めても守られない学習指導要領などとは違って、憲法は国法の根幹でしょう?さすがにノリや勢いやらで変更されることはないであろうと一国民は思っておりますがいかがでしょうか。
「あのときはああ言ったけどさ、事情が変わったんだ」
そういうことですか?
「それならそうと最初から言っててくれればよかったのに」
などというのは引かれ者の小唄、でしょうか。

こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。
この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。
それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
主権は日本國民ぜんたいにあるのです。ひとり/\が、べつ/\にもっているのではありません
みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。

文部省著作発行「あたらしい憲法のはなし」(青空文庫)より抜粋

お国の言うことは状況次第で如何ようにも変わるのだよ、ということを日本国憲法が今度はその死を以て教えてくれることになるのでしょうか。

附記(2006/11/16)
「あたらしい憲法のはなし」は1947年発行。慶応大学の浅井清氏らが実質的な執筆者だそうです。発行直後には中学生の社会科教科書として使用されたものの、GHQ・日本政府の保守化に並行して1950年(朝鮮戦争勃発の年)には副読本に格下げされ、51年以降は全く使用されなくなったのだそうです。(参照:ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下巻』)

今どきはやりのことばでいえば、「占領されてたから仕方なかった」というところでしょう。私がこの記事で言わんとするところが伝わりにくくなるような気もしますが、公平を期して記しておきます。

戦後レジーム

  • 2006年09月28日 (木)
  • キーワードタグ: 政治

先日予告していた辺見庸さんの記事について書いてみます。
「言いたい聞きたい 自民党総裁選に注文」第5回(西日本新聞 月 日朝刊より引用)

「この国の戦後の成り立ちを根こそぎ否定する姿勢に危ういものを感じる。安倍氏の言う『戦後レジーム』からの脱却とは、行き着くところ、不戦平和の誓約の破棄になりかねない」

実はまだ、安倍氏がどこでどのような文脈の中で”戦後レジーム”という言葉を使ったのかをよく調べていません。
ただ、ここではすくなくとも「アンシャン・レジーム」という言葉が極めて否定的な意味で用いられるフランス革命を強く意識しているように推測します。良くも悪くも、日本の戦後のありかたに対する安倍氏の嫌悪感が明らかににじみ出ているようです。

”戦後体制からの脱却”ではなく敢えて”戦後レジームからの脱却”。

ここには、日本の戦後体制はそれ自体が全否定されるべきもの、そこから抜け出すことなしには(あるいはそれを破壊することなしには)未来への展望を開くことのできない”旧体制(=アンシャン・レジーム)”である、という安倍氏の見解が示されているように思います。

(蛇足ですが、「アンシャン・レジーム」という言葉そのものに、単に旧式、古いというにとどまらない極めて否定的なニュアンスがこめられていると学校で習った覚えがあります。必ずしもそうではないという説も耳にした気がしますがこれ以上は立入りません。すくなくとも安倍氏の言には強い否定的ニュアンスが読み取れます。)

はたして日本の戦後は全否定されるべきものなのか。そこには何の見るべき価値もなかったか。
私はそうは思わない。個人の尊重、両性の平等、民主制等々、(それが本当に実現されたかどうかはともかく)理念としては見るべきものが多々あるのではないのか。いや、間違いなくある。

いっそもっとくだけた物言いをすれば、

わがまま勝手に育ってきたボンボン(日本)が、隣家の(太平洋の向う側の)おじさんからもらった玩具の使い方がよくわからないからといってそれを投げだした挙句、あつかましくもおじさんに別の玩具をねだってる。そんな気がします(ちなみにこのボンボン、かならずしもY県出身とは限りませんからね)。

「ちゃんとした使い方を知ろうとしないのか、このクソガキが!」ってなもんです。おまけにそのおじさんがここ数年ばかり狂ってるらしいところがどうも恐い・・・。玩具どころか本物の散弾銃でも与えてくれそうな・・・。
そしてボンボンは、言う。
「じつはボク、核も欲しいんだ」

十年後にはこんな皮肉すらコワくて言えない「凛とした日本」になっていないことを祈ります。
安倍首相の政治手腕と良識に期待しています。本当だよ。

「侵略戦争の反省という立脚点を欠き、平和憲法の精神を尊重する人々を異端視する。まさにバックラッシュ(逆流)がいま押し寄せてきています」

「現在の翼賛政治もメディアの加担なしには不可能です。政治とメディアの協調という一見つつがない成り行きのほうが、とてつもなく異様であるということを私たちはなぜか忘れがちです」

最後になりましたが、

過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる
(ヴァイツゼッカー)

(関連エントリ)防衛省発足と戦後レジーム

阿部総裁誕生へ もとい安倍総裁誕生へ

  • 2006年09月20日 (水)

今日午後には安倍晋三自民党総裁誕生へ、との記事が新聞・TV・ネット上に溢れているようです。

私は安倍総裁誕生が、戦後生まれが初めて自民党総裁に選ばれるというにとどまらない重大な意味を持つことになるのではないかと思っています。このことについては総裁選の結果が出てから改めて書いてみるつもりです。

総裁選に関して、昨日の西日本新聞にとても興味深い記事が掲載されていました。
「言いたい聞きたい 自民党総裁選に注文」
昨日が連載第5回目で、元共同通信編集委員辺見庸さんの意見が載っています。

外務省の2000人増員計画!

  • 2006年08月30日 (水)

(西日本新聞)

外務省全体の人件費は現状維持のままで人員数を増やすのなら他省庁からの批判もかわせませんか?
しかし現職員数5000人に対して増員要求2000人って・・・40パーセントも・・・・。のりしろも含んでるんでしょうが。売り上げ頭打ち&債務(超)超過の企業ならばそんな大胆な増員無理でしょう。せめて他部門からの配置転換じゃ・・・。首切りはせずに自然減に頼ったリストラしかしない企業ですからね。しょうがないのかなぁ。また増税!?

首相の靖国参拝 

  • 2006年06月29日 (木)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060628-00000044-jij-pol

靖国神社の国家管理を提言 2

  • 2006年06月23日 (金)

6/23西日本新聞朝刊

麻生外相の発言
”国がきちんとしたかたちでやるべき(戦没者追悼の)まつりごとを、1宗教法人に任せていたことが問題”

靖国神社の国家管理を提言 1

  • 2006年06月23日 (金)

6/21西日本新聞朝刊

古賀誠元自民党幹事長
”国家護持の施設として宗教法人格を外す”
”国家護持』という大きな旗を、もう一度掲げたい”

小泉首相と退職金返上

  • 2006年05月11日 (木)

相変わらずの論理です。
(goo news)

小泉首相の物言いはなんとなく吉田茂を彷彿とさせますが、いかんせんユーモアが感じられないのは私だけでしょうか。

白洲次郎~NHKそのとき歴史が動いた

  • 2006年04月06日 (木)

昨晩、NHKの番組で白州次郎が取り上げられてました。
とくに日本国憲法の成立過程・通産省の設立に果たした白州の役割に焦点があてられていたようです。
なかなか興味深いものがありました。

ただ、憲法制定の過程について、日本側草案の提示を契機に占領軍側がわずか10日足らずで新たな草案を作って日本側に押しつけた、といわんばかりの番組構成には少しばかりひっかかりを感じました。諸文献によれば、連合国側はかなり早い段階から憲法草案の作成に着手していたということですので。

通産省設立が白洲の胸先三寸で設立されたかのような解説も含めて、”分かりやすさ”の点ではこんなものなのかな、という感じでした。

ともあれ彼のような、ある意味日本人としては異質な人物が、番組で取り上げられることはそれなりに意味のあることなのかな、と思いました。

今回の放送に、改憲論議に関する政治的な意図が隠されていると感じるのはあまりにも穿った見方でしょうか・・・。

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