官吏は強し、か
- 2010年01月16日 (土)
週末を
挟んで二日
経ったなら
疑惑は最早
既成事実か
(タイトルに「メモ」と入れるのを忘れた)
先日ちょっといじったときのミスが原因でブログエントリごとのmeta descriptionが露わになって(表示されてしまって)いたので修正。
目にとまったニュースをひとつだけメモ。取り調べ可視化と信頼関係構築論について。
「前警察庁長官が可視化で反対論 「取り調べを大きく阻害」」(キャッシュ)
吉村氏はこうした取り組みを紹介した上で、可視化が導入されれば被疑者との信頼関係を築いて供述を引き出すことが困難になり、事件関係者のプライバシーが公になる恐れから被害者が申告をためらう憂慮があると指摘。「すべての過程がオープンになったのでは、成る話も成らなくなる」と再考を求めている。
「信頼関係を築いて供述を引き出す」? 「恫喝・脅迫・詐術を用いて供述をでっち上げる」という方が適当なケースもあるだろうに。あったでしょ?。あまつさえ・・・(以下略)。
また後日書いてみるとしよう。
「ごめんください〜・・・・」。とと、一ヶ月も放置してたせいか、我が城のはずなのに何となくよそ行きの気分になるなぁ。
季節が変わろうと政権が替わろうと、こちとら何にも替わらず日々細々と生きております、はい。金にもならないことにかまけてブログの方もご無沙汰しておりました。「あ?地方分権??寝言言うなぃ」などと言ったばかりに土人の闇討ちにあったわけではありませんのでご心配なく。と、またなんだか憎まれモードになりそうなので気をつけとこう。
実際、しばらくブログを更新していなかった理由はそこらへんにあるのでした。つまりこのところなんとなく生来の毒舌に歯止めがきかないような「勢い」があったため、敢えて衆人環視のブログに書くことを避けていたのであります。どうやらまだその気配があるようなので今日は安全運転に徹することにする。毎回毎回うるさく書いてオオカミ少年見たくなりたかないので、何事も潮時を見極めながらやってゆくつもりであります。
さて、ここ一月の間の大きな出来事といえば民主党政権の誕生(遅れちゃってる?)ということになろうけれど気になるのはやはりその行く末(政権の行く末ではなくそれによって生じる変化の行く末)であって、ぼちぼちその方向性が見えてきたように思われる。そして新政権誕生という出来事自体はもう風化しつつあるということ(当然か)。したがって政治云々について書くことはしない。ではこの一ヶ月の間に何を考えていたのであるか・・・と自問してみるが、やはり大したことは考えもせず行いもせずという結論に達する。書も読まず映画も見ずウェブ上のやりとりにもいささか食傷気味で、唯一テレビで水谷豊の単発ドラマ「誰かが嘘をついている」を見ただけの一月であった。よってそれについてひとこと。
作り話を大まかに二分して、一つは実際よりも大げさに描くものと実際の話を(なんらかの都合に合わせて)一部だけ作り出してみせるものとに分けてみた場合、このドラマは明らかに後者であった。唯一、ドラマのクライマックスで偶然に「無罪の証拠」が発見された事なきを得る、という箇所のみは前者(ま、ふつうそんなことは有りえんだろという部分)であった。ただ、「無罪の証拠」がなければほぼ確実に有罪になってしまう、というドラマの台詞はまさしく現状を端的に表現していたと思う。同じくドラマの台詞にあったように、やっていないという証拠がなければ有罪とされるのは作り話でも何でもない事実であることは疑いを入れない。その点、先日出た福島県知事の「汚職事件」の高裁判決もまた興味深いものであった。一部で国策捜査と非難されているらしい福島の事件では東京地検特捜部が非難の矢面に立っているが、ことは既に東京(中央)だけにとどまらず地方に於いても同様である。それはかならずしも国策捜査ということではなくて、あらかじめ作成されたストーリーに物事を強引に押し込めるあれこれという意味である。
以前このブログで対話とディベートについて書いたことがあった(*1)が、まさしく相手をたたきつぶすためだけのディベート、それも相手方の手足を縛り上げ口をふさいだ挙げ句に為されるディベート(それをディベートと言えるかどうかはともあれ)が今の日本社会におけるデファクトスタンダードとなっている。(はなしはさらに広がるが)そうした状況下に取り調べ可視化への反対者から為される「信頼関係構築論」(*2)はもうブラックジョークでしかない。
国家にしろ組織にしろ個人にしろ、過去の失敗から学ばず、体面も権威も世論の支持をも失わずにどうにか切り抜けようとする行き方は、早晩行き詰まることになるだろう。実際のところそうした行き詰まりを薄々感じている者はその失地を何とか回復しようともがけばもがくほど窮地に陥るであろうことに一日も早く気づいた方がよいと思うが、金銭に対する欲望に見られるが如く、およそ欲望といったものはそれが何に対するものであれ限度というのを知らないことも多分事実に相違ない。私だって脛はそれほど綺麗じゃないからね、それくらいのこたあ分かりまさぁね。
こういう物言いを見つけるや否やまるで鬼の首でも取ったみたいに訳知り顔で語る奴は逝ってよし、だぜ、佐藤さん。
(追記)
フィードを一部配信から全文配信に戻しました。
死刑執行された受刑者の氏名公表なのだとか。「直言居士」と評判の法務大臣の強い意向なのだそうだ。なるほど、悪名高き官僚組織とはいえ事と次第によってはトップの一存で過去数十年の伝統だか旧弊もぶちこわすことができるということなのだろう。
法務省はもともと、死刑を執行した事実も公表していなかった。98年からは執行したことと、対象となった人数だけ明らかにしてきたが、氏名の公表にはかたくなな態度を崩さなかった
朝日新聞サイト[キャッシュ]
世間の人びとからは窺い知れぬベールの向う側におかれていた死刑、死刑囚。
鳩山法相は「人数(の公表)だけではブラックボックスという感じ。法にのっとり執行していることを明らかにした方が、国民の理解を得られる」と説明(中略)「どんな罪を犯した人なのかを公表すれば、死刑執行は当然という理解が広まるはず」と法務省幹部 (同記事)
私自身は死刑制度についてとくに賛成でも反対でもない。かといって関心がないわけではないものの、正直なところよく分からないというところ。ただ、死刑制度を含んだ裁判というか司法制度に関しては強い関心を持ち続けている。この件に関して言えば、この決定そのものの可否ではなく、これを目下のところこの死刑制度というものを含んでいる日本の司法制度の「実情に即して」みると拙速ないしは愚行、蛮行とも見えなくはない。
なぜかといえば今、裁判とくに刑事裁判というものがまるで信用の置けない茶番に見えているからだ。刑訴法の精神には麻酔をかけて納戸にしまい込み、ただただ前例踏襲のやりたい放題ともいうべき取り調べが今、日本のあちらこちらで当然のようになされていることは富山・鹿児島の冤罪事件からも窺われる。周防正之の映画「それでもぼくはやってない」はそれなりのデフォルメはなされているとしても決して作り話ではない、決してない。刑事裁判制度は、ときとして茶番だ。あとで「ああ、面白かったね」だけではすまない茶番だ。信用の置けない司法システムによって裁かれんとする状況に立ち至った時に、通常なら(もっともらしい理屈から言えば)奇妙にも見える決断を迫られることもある。あった。富山冤罪はその一例であろう。司法制度に対する不信感がこれまでにないほど高まりつつあることに現法務大臣や法務省幹部がどれほど思い至っているのかいささか疑問を感じざるをえない今回の決定であった。
死刑制度以前の、司法制度そのものについてその妥当性を維持するための努力がなんら払わないでおいてやれ「ブラックボックスけしからん」というのはあまりに都合のいい話というべきだろう。そもそも今、司法制度自体がブラックボックス=非合理的システムと化しているのだから。したがって今後そうした観点からどのような施策がとられていくのか目が離せないと私は感じている。
これ以上くだくだしいことは書くまい。一言で言ってしまえばかんたんだ。
「理屈と膏薬はどこにでもつく」と、そういうことだ。
(追記)裁判制度(司法)と警察(行政)をいっしょくたにするのは適切でないかもしれない。せめて司法官には”法の精神”を汲んでほしいものだと思っている
ひところ秋の気配を感じて以来いささか油断していたせいかここ数日の暑さに足元を掬われた気分。日は短くなり陽射しもなんとなく鈍っているように思うのだが、暑いものは暑い。まだ夜の9時にもならんのにウトウト。
ついさっきまで死んだ魚のような眼でNHKの「クローズアップ現代」を見ていた。お題はサブプライムローン。信用度の低い人たち向けに高金利で貸し付けてハイリスクハイリターンを狙うのであるからコケるときはコケるわな、そりゃ。
当世、紳士然とした「じつは、高利貸し」はそこここにいるようだ。彼らと「文字どおりの高利貸し」(テレビとか映画に出てくるような悪相たち)の違いを探せばそれは債権回収手法の違いくらいといえよう。そして共通点はなにか。「借りた金は返さなあかんでしょ!」。これが金貸しの「正義」であるらしい。
正義といえば、TVA日の鹿爪小僧フルタチ1ロウは相変わらずシカツメらしいツラをさらしているのだろうか。私は7月の参議院選挙直前にチラとあれを見て以来アレを見ていない。見たくもないが。あの面もどうやら「正義」の匂いがする。
「ご利用は計画的に!」
「ワタクシは視聴者の皆様方の味方ですぅ!」
「おれたちゃ市民の代弁者なんだよ、オラ、分かってっか、コラ!」
「借りた金は返さなあかんだろが、あ」
二つ(三つ、四つ)の顔をその場その時次第で使い分ける連中というわけ。
貸し付けるときはエビス顔、取り立てるときは鬼の顔。
1ロウ君がどれほどテレビでもっともらしいことを喋ったとしても、彼の全身から滲みでているカメレオン臭が彼の「正論」を全て無効化していることに彼はいったいいつになったら気づくのだろうか。久米ヒロシの後を引き継いだばかりのころは、「ま、プレッシャー感じてんのかな」くらいに思っていたがその後もずうっとあの調子だったので「ああ、この人は猿だったのね」と気付いた次第。前任者の表面的なスタイルだけを猿真似するばかり。仏作って魂入れず(違うな)。
1ロウ君に限ったことでもないのかもしれないが、マスコミ連中はどうしてあんなに「正義の味方」ヅラ出来るのか私は不思議でしょうがない。それとも自分こそが「正義そのもの」なんて思ってんじゃないの?ま、そりゃ言い過ぎか。
良き法律家は悪しき隣人である、なんて言葉もあるが、それはともかくとしても自称正義の味方は間違いなく悪しき隣人である。「正義の味方」を自認したとき、その者は「正義」そのものになる。
しばし遠吠えをさせていただく。
正義は決して過たない。 そして人間たちはしばしばそのような無謬性を備えた存在を「神」と呼ぶ。 「私は決して過たない」とは不遜な人間のみが語り得る言葉である。 これは個人に限らず組織にもあてはまる。 では人間は「完全な組織」を作り得るのか。「完全無欠の組織」すなわち無謬性を備えた組織を作れるのか。それは、無理だ。 なぜなら万一にもそれが完成したとすればそれ(組織)が人間を越えた存在、無謬の存在、すなわち神となることになるからである。 結局、人間が無謬ではおれない以上、人間が作ったいかなる組織も無謬ではあり得ない。 したがって人間に残された手段は過ちを認め、そしてそれを改善することだけである。たとえそれが終わりのないシジフォスの労役であるとしても、それだけが人間に残された道である。 人間が作り出したさまざまな組織の打ち、とりわけ官庁組織は無謬性(常に過たないこと)を指向する。そしてそれは市民・国民の要請でもある。 しかし現実には、先に述べた如く無謬の組織であることは不可能である。重ねて言うが、組織にせよ人間せよ神になることはできない。そこには理想と現実との乖離がある。どれほど努力を傾けても埋め尽くすことの出来ないクレバスがある。 ところで、官庁の中でもとりわけ無謬性を要請する(される)のが警察という組織である。もちろんこれは当然の要請ではある。それというのも、生命・自由・財産の保護という人間の持つ権利のうちでも最も重要なものにかかわる組織であり、そしてまた(法的にはともかく)人々の自由・名誉・人生そのものをも左右する権能を有するという現実があり、ゆえにこれに対して無謬性を求めるのは人々にとってきわめて自然な感情といえる。 しかし、もちろんそれはかなえられることのない要請でもある。なぜならこの世に無謬の組織は存在しないからである。 しかし、決して実現することのできない「無謬への要請」に応える簡単な方法が実はある。「実はある」などと賢しらな言葉を書いてみたが「その実」なんでもないことだ。それは過ちを断固として認めないという道である。そしてこの方法は官庁、とりわけ捜査機関にとってははるかに通りやすい道である。 そして、この道を選んだ警察・捜査機関は「正義の味方」ならぬ「正義そのもの」すなわち(形式的なものではあれ)無謬の存在となる。 もちろんそれが「嘘」であることは大人であれば(誰でも)知っている。が、また多くの人が捜査機関の無謬性への願望をおそらく無意識のうちに現実のものとして見ようとしている。見たがっている。それは当然の願望なのだ。 「他の官庁の決めたことにコメントする必要はない」 神を目指す組織は他人どもの言うことにわずらわされるつもりはないらしい。たとえその「他人」がもう一人の神であっても。 神は一人だけでよい。 彼らはそう言っているのか。 オォーン
正義は常に正しい。
無謬の存在こそ正義なり。
そしてまた、人間は決して無謬性を手にできない。
そもそも完全ならぬ人間の作った「不完全な組織」なぞが無謬でいられるはずはない。
と、遠吠えはここまで。
書いているうちに長くなった。
ま、「正義の味方」はありがたい存在だが、自ら「正義の味方」を名乗る奴の中味は、まず間違いなくその言葉とは正反対のものと思ってよい。彼らは「おれは正義の味方だ」という言葉によって「おれが正義だ」と漏らしているのだ。
仮面ライダーも月光仮面も決して自らを「正義の味方」などと自称しない(違う?)。それを言うのはナレーターだったでしょ?ほんとうに正義の味方と呼んで差し支えないような存在は、自らのことを「正義の味方である」とも「おれが正義だ」とも、まず言わない(はず)。正義の味方は、悪を打ち倒しやるべきことやったあとは無言のまま(ときには弱き者に優しい言葉の一つもかけて)颯爽と立ち去るのみ。
この世に「正義」は存在しない。
正義の味方は一人称では語れない。
「犯罪者なぞその場で射殺せよ」
これは確かに暴論だろう。ではなぜ暴論と言うべきか。「そりゃ加害者とはいえ人間である以上は(基本的)人権があるさ」とでも言っておくか? しかしそもそも彼は他者の人権を侵害したのではなかったか。加害者によっていわれなき侵害に晒された被害者は果たしてその加害者の人権を尊重せねばならないのだろうか。そのような道学者的な要求はこの際むしろ理不尽というものではないのか。
しばし考えてみた。
おそらく「その場で射殺」が暴論でしかない理由の一つは、その場で射殺される人物が「ほんとうに犯人か否か」が明瞭でない場合があるからだと言うべきだろう。(「加害者にも人権を」という綺麗事は、当事者の「クソくらえ!」という言葉にはとてもではないが対抗できそうにない。)
もし仮に無辜の人が射殺された場合、いったい彼は何のために命を奪われたのか。彼の死は社会の安寧を守るためのやむを得ざる犠牲だということになるのだろうか。そんなはずはあるまい。私たちの社会はそうした「理不尽な犠牲」を否定することを学んだはずだ。無垢な処女を、年に一度海の向うからやってくる「海神さま」に生け贄として捧げることで自分たちの村の平穏を保障して貰うと云うような話は昔ばなしでしかないはずだ。
「犯人をその場で射殺」することは、犯人の人権を尊重するためにというよりもむしろそうした(海神様への供犠に類する)理不尽な犠牲が生じる恐れがあるからこそ否定されなければならない。「被害者のために是が非でも検挙を!」という姿勢は、ひとつ間違えば若い娘を海神様の前に引き据える、村の長老の愚行につながる。
(しかしいったいいつになったら取調べ可視化のはなしに結びつくのだろう・・・)
日弁連の論文によれば取調べ可視化反対論者の主な主張は次のようなものだそうである。
日弁連「取調べの可視化(録画・録音)の実現に向けて」(pdfファイル)
各々の詳細は省略するけれどもあえて一言附言すれば、この論文の中で紹介されている(捜査機関側の)導入反対論は「無罪推定原則」を一切考慮していないと言わざるを得ない。そのいずれもが「被疑者=真犯人」という(暗黙の)前提のもとに立論している。或いは犯人との信頼関係を構築して供述を得て悔悟を促す、犯行に至るまでの心理その他を詳細に立証する必要性がある、供述内容が外部に流出する恐れがある、等々。
とってつけたような立論としか思えないようなものもあり、また捜査機関による「取調べ内容が外部に流出する恐れがある」などという主張にいたってはある種の「脅迫」ではないかとさえ思いもするのだが、それについてはいずれ機会があれば書くことにする。
おそらく捜査機関にしてみれば無罪推定原則などというものは建前にすぎないのだろう。だってお茶の間のテレビで警察の記者会見を見ている私のような素人が「実は無罪かもしれないけれど逮捕しました」と言う言葉を耳にしたら、きっと「じゃ、なぜ逮捕するんだよ!ちゃんと捜査してから逮捕すりゃいいだろうが!」と茶々を入れるところだ。結句、社会一般の「逮捕者=真犯人」という通念もまた捜査機関の立論を裏から支えている。
冤罪を防ぐための取調べ可視化を主張する者と、社会通念を後ろ盾にして被疑者=真犯人という前提でものを言う(言わざるを得ない?)捜査機関との間の議論にはどこまでいっても話が噛み合わない不毛さを感じさせられる今日この頃。
捜査機関はあくまでも被疑者=真犯人という前提でのみ思考し行動するのだということを示すような言葉を見かけたので紹介。
「北方事件控訴審判決 県警、詳細コメント避ける」(佐賀新聞)
無罪判決で苦悩の日々を送り続ける遺族に対しては、「犯人検挙まで時間がかかったのは申し訳ないと思う」としながらも、現段階で謝罪するかどうかは「コメントできないとしか言えない」と回答を避けた
二審での判断なぞものともせず、ということのようだ。ひょっとするとこのケースは、真犯人かどうかは問わず単なる「犯人」の検挙だけが目的(市民向けのパフォーマンス)だったとでもいうのか。
側聞するところでは(今回再び無罪とされた)被疑者が検挙されるまで一向に進展を見せなかった北方殺人事件の捜査に関して「さば県警」「さばけんけい」(仕事の出来ない”ボンクラ”県警の意)という罵声が飛んだらしい。
敢えて穿った見方をしてみれば、このいささか強引ともいうべき検挙は捜査機関の汚名返上が主目的だったのではないかとすら思えなくもない。法治国家に住んでいると素直にも(間抜けにも?)信じているものとしてはそうではなかったと思いたいところだが。
最後になったが、この際、冤罪を防ぐためにもまた審理の場での無駄な水掛け論を避けかつ真犯人を取りこぼさないためにも取調べ可視化の導入を検討すべきではないだろうか。(常日頃から当為の言葉は使いたくないと思っているものの、ここは行きがかり上・・・。御免)
そしてその検討にあたっては「被疑者=真犯人」という社会通念に寄り掛からない、フェアな議論が為されるべきであるはずだ。
司法システムにおけるフェアネス。
『秋霜烈日』を読みながらそんなことを考えました。
(2007年3月24日夜一部改稿)
先日のエントリ(リンク下記)で取り上げた元検事総長伊藤栄樹の回想録『秋霜烈日』の感想の続きを。
伊藤氏が亡くなられてからもうの幾星霜、あらためて調べてみたら1988年没ということですでに20年近くも経っていて少しばかり驚く。彼に何の縁故もない私ですらどういうわけか彼のことがやけに印象に残っている。歴代の検事総長が何人なのか知らないが(調べろよ)、そのうちで私がご芳名を存じ上げているのはこの人ひとりだ。
前回も書いたことだけれども、私が彼の言動から受ける印象は「フェア」であるということだ。なぜそう思うのかと問われてもあくまで私(という偏見溢れる)個人が受けた印象だから特段の理由はないとしかいえないのだが。
つい先日控訴審判決が出た佐賀の連続女性殺人事件は今のところ大したニュースにはなっていないようだ。まだ判決が確定したわけではないし、富山・鹿児島の冤罪事件とは幾分違った事情があるのだろうが(「同一」の事件などそもそもありえないわけだけど)、それらに共通する確かなことが少なくとも一つある。
それを一言でいえば捜査機関による取調べの前近代性ということになろう(「近代」などという”あやふやな言葉”を使うしかないくらい私の語彙が乏しい点は平にご容赦を)。限度を超えた長時間の取調べ、(被疑者本人のみに止まらない)種々の圧力、ときには不当とも思えることのある身柄拘束。身体的自由を奪い、精神的圧力を加えることによって被疑者の自白を引きだすことをして「適正な捜査」とされる不可解さ。
もしそうした取調べ・捜査手法が「まことの」犯人に対して為されるというのならば、法律家ならいざ知らず、素人(私)ならばおそらくそれを黙認する。
暴論を承知で言えば私は「犯罪者なぞその場で射殺すべき」とさえ思っている。犯罪者がうまうまと法の網をすり抜けてデカイ顔をしていられるようなケッタイな規則・制度などクソ食らえとさえ思う。但し、一つだけ限定条件がある。
そいつが「真犯人」である場合に限る、
という条件だけは何があっても外せない。
司法制度を論ずる際に被疑者・被告の人権が考慮されるのは当然のことだろうが、ひとが「被疑者」・「被告」と言うとき、同じ言葉を用いる一人ひとりが各々そこに異なった意味を持たせているように思われることがある。
たとえば、ある人は被疑者・被告を「いまだ刑の確定してないだけの犯罪者」の意味で用い、別の人は「嫌疑を受けているが(ひょっとしたら)無辜かもしれない人」の意味で用いている。
前者と後者では、「被疑者・被告にだって人権がある」という近代法治国家としては当然の認識でさえ、その受け止め方には大きな隔たりが出てくるのは当然といえよう。もちろん理性に訴えればそのどちらもが被疑者の人権を当然のように(或いはいやいやながらも)承認するだろう。「そういうことになってんだから」と。
しかし、当然のことながら「悪人」の利益を守れと言われてそれをなんの躊躇もなく実行できる人というのはよほど人間の練れた人物、寛大な宗教家くらいではなかろうか。もちろん(小人の)私には到底実行不可能だ。
ここで、もし私や私の家族・友人が運悪く何らかの犯罪の被害者なったと仮定してみる。私がもし犯人に復讐をしないとすればそれは犯人を赦すからでは決してないだろう。、むしろ復讐をなすことによって自分自身が新たな犯罪者として断罪されるであろうと予見してやむをえず自分の行動を抑制する(せざるを得ない)というだけのことでしかない。そして復讐を実行できない私は当然に公権力による厳正峻烈な犯人処罰を求めるだろう。
被害者や被害者の親族にしてみれば犯人が検挙され処罰されることは当然の願いだろう。そして捜査機関がそうした被害者・家族の心情を踏まえて事に当たることは社会的にも是認されることだろう。
問題は、「真犯人」か否か。
被害者にしても(あるいは捜査機関にしても)真犯人の逮捕・処罰を望み追求しこそすれ、無辜の人を断罪することを望みはするまい。
それどころか無辜の人が断罪されることによって真犯人がどこかでのうのうと同じ悪事を繰り返すことを許してしまうことにでもなれば、それこそ痛憤極まりない事態だと言うしかない。
と、書いてきましたがまた長くなってきたのでまた次回・・・。
つい先日のエントリで、数年前(18年前!)に佐賀県の北方町(現武雄市)で起こった連続殺人事件の控訴審について触れたのだが、そのあとすぐに落合弁護士のブログで明日控訴審判決が出される予定であることを知ったので思うところを書いておこうと思う。
一審で無罪判決が出たものの2005年5月に検察側が控訴して以来まるまる2年近く何の音沙汰もなかったこの事件(地元新聞社が特集記事など組んでいたのかもしれないが寡聞にして知らない)。最近ちょうど富山や鹿児島での冤罪事件が大きくマスコミに取り上げられたこともあってこの事件のことが記憶の隅からよみがえってきた。
「佐賀3女性殺害、19日に控訴審判決」(読売新聞)
時効成立直前に被疑者が逮捕されたのが2002年。別件で逮捕された被疑者が出した殺害を認める旨の上申書が検察側の有力材料だということだけれど、これが控訴審でどのように評価されるのか気になるところ。
元東京地検特捜部長井内顕策氏の佐賀地検検事正就任は、この事件を含む一連の(佐賀の)未解決事件解決のためであるとの新聞記事を以前読んだ記憶がある[註1]が、結果はどうでるのだろうか。
富山や鹿児島の冤罪事件では捜査機関による自白強要など強引な捜査手法が問題とされたが、この北方の事件でもし再び無罪判決が出たならば検察・警察としては頭の痛いこととなるのかもしれない。
これまたつい先日のことだが、今月23日付で富山県警本部長が九州管区警察局総務監察部長に転任するとのこと(これも落合弁護士のブログ経由で知ったいや、これは新聞で見たのが先でした)。
「県警本部長人事異動」(北日本放送)[キャッシュ]
もしうまく事が運べば、前任地でミソが付いた警察キャリアは、強引な捜査か否かが問われている類似の事件の控訴審判決を抱える新天地で成果を上げることによってその汚名を濯ぐことが出来るかもしれない。もっとも新監察部長が一地方警察の不始末を明るみに引き出すことで実績を残されるのか、はたまた前任地での経験を生かして警察という組織を守ることによって実績とされるのかは今のところ不明だが。
いずれにしてもマスコミは明日の判決に向けて取材に追われていることだろう。富山、鹿児島から佐賀と続くのか、それとも捜査機関の体面が守られることになるのか気になるところだ。
ついでながら、ひとつの事件が有罪になるにしろ無罪になるにしろ、裁判に掛かる期間の長さはそれだけでも被疑者にある種の心理的圧迫感を与えるをあたえるのだろうなあなどと思った次第。
とまれ、明日いかなる判断が下されるのだろうか。
と、
書いた記事をupする前に控訴審判決「無罪」が出てしまいました。
「【速報】被告に再び無罪 北方連続殺人控訴審判決」(47news佐賀新聞)
(続報)「自白上申書「違法性高い」」(共同通信)(キャッシュ)
[註1]昨年(2006年)春頃の西日本新聞朝刊。日付不明。
【追記】
井内氏は無罪判決確定後の2007年6月25日付で最高検検事に転任。(その後最高検刑事部長→2009年1月16日付横浜地検検事正へ転任)
元検事総長伊藤栄樹氏が死の直前まで書きつづり朝日新聞に連載された回想記をまとめた一書。個人的な来歴はほとんどなく、検事任官後の「仕事」に関する記述のみ。
私は著名人の回想録といえばつい日経新聞の「私の履歴書」を思い出すのだが、この本は、まだ存命の人物が選りに選ったエピソードだけをつづる「私の~」とは微妙に違った印象を受けた。一言で言えば虚飾がない(見えない)というべきかもしれない。それどころか思わず「え?そんなこと書いちゃっていいの?」と言いたくなるような記述もあった。既に死期の迫っていた伊藤氏は、自らを飾ることもなく、」ただ残された者、未来の日本を背負う者への遺言としてこの回想を書き残したのだろうか。そんなことを想像しながら読み終えた。
つい先だっては富山と鹿児島で真っ白無罪の人たちが服役しあるいは逮捕されていた事実が公になった。以前のエントリで私は彼らのことを幸福で不幸なひとたちと呼んだのだが、なぜ彼らが幸福だといえるのか、そのエントリを読んだ方には伝わりにくかったかもしれない。
もちろん彼ら(冤罪の犠牲者の方たち)は不幸な「事件」の犠牲者であった。そして私が何故彼らを幸福なひとでもあると言ったのかといえば、(くどいようだが)彼らは不幸な事件の犠牲者であったことが後日判明し、そしてそれが公に認められた(無罪が確定したという)からだ。
真犯人が明らかとなり、あるいは捜査の杜撰さが白日の下にさらけだされるなどということはテレビドラマでならありきたりの結末だろうが、現実にはそうそうないことだろう(現に富山のケースでは無実の人が服役なさっていた)。めったにないことだからこそ今回、ある程度はニュースとしてわりと大きく取り上げられたわけだ。
『秋霜烈日』のなかには次のような一節がある。
私は、東京地検次席検事の時代、二度ほど公判部の検事に無罪の論告をしてもらったことがある。どちらも多数回の窃盗を犯したとされる事件である。警察が背負わせたわけでもないだろう。泥棒の常習犯になると、ときに親切にしてもらったお礼に、その警察の管内の未検挙の事件を背負ってくる。検事がそれを見抜けないと、そのまま起訴してしまうことになる。
ここに引いたケースに限って言えば泥棒の常習犯が少しばかり重い刑に服したところで大勢に影響はないようにも思える。しかし伊藤は「被告人の利益」という観点から見ればこれは無罪とされるべきだという。伊藤氏はこうした検事の在り方を「公益の代表者」という言葉を用いて表現している。
この言葉自体はごく一般的に用いられる言葉ではある。しかし何を以て公益というかとなると各々微妙に異なっていることが多い。伊藤氏が「公益の代表者」という言葉を用いながら、被害者は勿論のこと加害者(被告人)にすら目を配るべきだとしている点は看過すべきではないだろう。
回想録のその他の部分も含めてその全体から受ける伊藤という人物の印象は「フェア」だということだ。被害者–加害者、取調官–被疑者、取締当局–取締対象者・・・・、そうした種々の局面において、伊藤氏のプリンシプルはフェアネスというところにあったように思われた。
翻って現代。
「社会がおまえを許さない!」と法廷で芝居がかった台詞を吐く検察官、導入が決まっている裁判員制度、取調べの可視化論議などを見聞きして私はどうもそれらからフェアネスを感じることが出来ない。三文役者の(一部)検察官はバカにも見えるし、裁判員制度で言われる「市民の視点」「被害者の心情への配慮」、取調べ可視化がもたらす「弊害」、それらに関する賛否両論を耳にするにつけどうも両者の言い分がそれぞれ別次元にとどまって結局は「正論」だけが一人歩きしているように思えてならないのだ。
ちょっとばかり長くなってきたので、裁判員制度と取調べの可視化については稿を改めて書くことにしようと思うが、可視化と伊藤氏との関連で一つだけ挙げておきたい。
「被疑者が真情を話しにくい」その他云々というのが主な反論のようだが、どうも反対論者の言い分を聞いていると、被疑者が「真犯人である」ことを前提としているように思えるものが多い。もし被疑者が無辜の人ならば録画(可視化)されて困るようなことはひとつもないのではないだろうか。
取調べ担当者と被疑者の信頼関係が重要になってくるのは恐らく被疑者=真犯人であるケースなのではないだろうか。
知能犯についていうと、検事と被疑者との間に醸し出される信頼感情、これこそが自白の最大の原因と思う。そのためには、検事と被疑者がお互いに胸襟を開いて、身の上話をし、同じ社会的関心事について語るといった経過をたどることも多い。相互の信頼感情なしには、ほんとうの自白は出て来ない。
いずれにせよ、検事と被疑者がのちに街角で再会したとき、笑って手を握れるような調べによって得た自白だけが、信頼できる自白である。検事の良心に照らし、このことだけは忘れてはならない。
どうも上手くまとまらなかった気がするな。
後日汚名返上致したいと思います。
![]() |
秋霜烈日―検事総長の回想 |
| 伊藤 栄樹 | |
| 入手不可 |
[でっち‐あ・げる]
[1]事実と違うことを、いかにも本当らしくこしらえる。捏造(ねつぞう)する
[2]形だけととのえて、いいかげんにまとめる。
(大辞林)
新聞社の社説盗用やテレビ局の捏造問題がポロポロポロポロでてくる当今、警察のでっち上げもまた同様。もっとも規範意識の高い日本警察、情報管理の方もマスコミ以上に「しっかり」していることだろう。したがって今回の鹿児島選挙違反「事件」で明るみに出たでっち上げ事件は、たまたま浮かび上がった氷山の一角として、おそらく数週間のうちに忘れ去られていくのかもしれない。
上記大辞林の例文にもある。
・この証拠は警察の―・げたものだ
辞書の例文になるほどだから、よほどありふれた出来事なのだ(ろうとこの際言っておく)。
憲法や刑事訴訟法は「自白が唯一の証拠の場合は有罪とされない」と規定する。しかし現実には自白は「証拠の王」とされ、自白が相互に支え合えば立証可能だ。
裏を返せば、自白さえ取れれば「事件が成立」することになり、自白獲得が目的化する危険をはらんでいる
鹿県議選買収無罪判決 「見込み捜査」批判/地裁(南日本新聞)
たしかに、当事者ではない一市民として言うとするならば、そうした法と現実の乖離など大した問題とは思えない(意識が低いとのご批判は甘んじて受ける)。悪人が処罰されるのだから「どうぞよろしく」といったところだ。
ただ、もし「自分自身がまさに当事者であったなら」と想像し始めると、背筋に冷たいものが走る。
警察の取り調べは、「まるでキリシタン弾圧」
穴だらけの調書、物証なしの捜査
「否認しているから」と安易に身柄を拘束
ありもしない事件の犯人と目され、当然否認すれば身柄拘束、世間からは逮捕=有罪と見なされて家族までもが日陰者。仕事を失い友人を失う。そして連日の激しい取調べ、捜査官への迎合を強要されて、あらゆる手段を用いて精神的にも肉体的にも追い込まれる。
事件がでっちあげなら証拠など出るはずもない。となると自白に頼る捜査陣はなおいっそう自白を求めて激しく責め立てる。ボロボロになってどれほど頑張ろうと、いったん虚偽の自白をしてしまえばその自白にもとづいて断罪されることになる。
否認 → 逮捕・拘留、ヨリ厳しい取調べ、起訴 → 有罪 → ヨリ重い量刑
つまり、でっち上げ事件の犯人とされたものの方が、常習的犯罪人よりもよほど辛く人格の崩壊をすらもたらしかねないダメージを受けるというのが実態なのだ。
おそらく、そのとき人は法と現実の乖離を痛いほど感じ取ることになるのだろう。だが、一旦そうなってからその人がどれほどそういう現実について声を上げ始めても聞く耳を持つ者は例外的少数にとどまるだろう。
法や捜査機関の不備を批判する「犯罪者」の声をどれほどの人がまともに聞こうとするだろうか。
「この期に及んで言い訳するなんてみっともないよな」
「あのひと○○で捕まったことあるんだって」
そんなところだろうか。
当事者になってからではもう手遅れなのだ。
したがって今回の鹿児島の一件は極めて(不幸ではあったが)貴重な出来事なのだとも言えるだろう。
「無罪」「でっちあげであった」ことが明白となったが故に、わたしたちは犯人と目された人の声に耳を傾けはじめる。法と現実の乖離、刑事裁判の実態を初めて知り、さらには今現在、逮捕・拘留されている者や受刑者のうちに本来ならばそこにいるべきではない、いなくてもよかったであろう者が含まれている可能性に思い至る。そして真相は文字通りの藪の中。
先日の富山の冤罪にしろ今回の件にしろ、犯罪人に仕立てられた人たちは極めて不幸であったと同時に極めて例外的な幸運を掴んだ人たちでもあるのだと私は思っている。
いま現在、未決・既決を問わず”犯罪者”とされている人たちのうちに無実の者が含まれている、というのはもちろん私の想像するところであって、「そんなことはありえない」と反論されれば私にはその反論に対抗するすべはない。そんなことがもし私なぞに証明できるようであればとうの昔にその無実が明らかとなっているだろう。
ひょっとすると今回のようなケースを「自分たちの社会の安全を守るためには極めて些細な犠牲、必要コストにすぎない」などと口に出来る者がいるかもしれない。しかしその人は自らの想像力を働かせて、「自分がもしその立場であったらば」と一度は考えてみたほうがよい。その上で「いいよ、それでも」と言われるならば私はあなたを”現代のキリスト”として拝し崇めるにやぶさかではない。
この期に及んでも「組織としての責任」ではなく一捜査担当者の勇み足だと言ってのける鹿児島県警、あるいは検察庁・裁判所も含め、彼らの対応振りを見るにつけ、明るみに出て来ない冤罪は相当数あるのだろうと思わざるを得ない。
なんとなれば、人格を踏みにじるような取調べがなされうるような組織をして「組織としては適正な捜査であった」と仰るのだから。
そうか
それがフツーなんだ。
それがふつうにあり得る組織なんだ。
だとすると捏造テレビ局より罪は重かろう。
納豆を死ぬほど喰っても大した害はない。
そのような納豆以上に腐れきった組織を放置できるトップは誰か。県警本部長?そう?
行政府の頂点は内閣総理大臣。日頃「強力なリーダーシップ」を唱える安倍首相は行政府のトップとしてどのように考えておられるのだろうか。地方分権の時代だと言われるだろうか。それとも三権分立か。どうも、われ関せずで放置するときのコメントはいくらでもありそうだが、リーダーたるものこうしたときにこそ”万難を排して”リーダーシップを発揮してはどうだろう。
国家百年の計を見据えた教育改革も必要だろう。だが、いまに生きる国民の市民的自由に加えて人格的尊厳までが傷つけらるような事態が二度と起こらぬよう対処することのないリーダーならば、ま、その程度のリーダーということか。
安倍首相のリーダーシップがいかなるかたちで発揮されるのか注視している。(←どこかの新聞論説みたい)
最初に書こうと思ったことから大きく逸れました。まさに大それた一文。
最後まで読んでいただいた方には御礼申し上げます。
「踏み字」訴訟 違法性認め控訴断念(南日本新聞)
取調官を刑事告訴 「踏み字」訴訟原告(南日本新聞)
「踏み字」訴訟、控訴断念/鹿児島県警(朝日新聞MY TOWN鹿児島)
警察庁が「ち密な捜査の徹底について」通達(朝日新聞MY TOWN富山)
誤認逮捕…富山県警、冤罪関係者処分せず(読売新聞)
ついでに「捜査能力 低下」でgoogleが見つけてきたサイトをチラリと覗く。
「ビジネス刑事の捜査技術」(@IT情報マネジメント)
「伝承官」制度 捜査の極意を若手に
後輩に伝えたい“刑事道”とは
うう
今日のは単なるメモにおわる・・・
鹿児島の件は今後の展開も気になるところ。
富山で判明した冤罪事件とその報道について新聞記事の分析を交えながら二言三言。
服役男性は無実、公判中の男逮捕(読売新聞)
↑この記事の特徴:真犯人逮捕に重点が置かれて冤罪の方はかすんでいる。
その大要は
記事に「きちんと」とは書かれていませんが、文脈からそう読ませる努力の跡がうかがえました。この記者は文学愛好家だろうか? 努力賞進呈。
これだけをとって読売新聞社は市民的権利の擁護よりも公権力行使の正当性を重んじる新聞社だと推測するのは穿ちすぎだ見方でしょうか(そんなの誰でも知ってるよと言われるかな?)。
さて、他の新聞社は如何。
別の男が容疑認め逮捕(朝日新聞)
県警によると、目撃証言をもとに作成した似顔絵などから、この男性が浮上。被害者に写真を見せ、遠目に男性を確認させたところ「似ている」と証言したため、任意で事情を聴いた。男性は任意の取り調べに当初は容疑を否認したが、3日目に容疑を認めたため、客観的な証拠がないまま逮捕
「似てるだけで逮捕するなんてひどい!」などとは言ってもはじまらない。しかし、ふつうに事実関係を確認していれば今回のような事態にはならないと思うのですが。勘に引きずられたのか手抜き捜査か確信犯か・・・。プロフェッショナルの第六感をあたまから否定はしませんが、どこかに短絡もしくは不誠実さがあったことは否定すべくも無いでしょうね。
(富山県警が)「客観的証拠がない中の逮捕で無実だった」と発表した問題で、金沢市内に住む男性の兄が20日、朝日新聞の取材に、県警から逮捕当時「証拠がある」と言われていたことを明らかにした。また、県警は取り調べの時点で、アリバイ成立の可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み詳しく調べていなかったこともわかった。
県警は1贈日、男性宅からの電話の発信時刻と犯行時刻が近く犯行が物理的に不可能だとわかったことなどから、男性を無実と判断したと説明した。だが、実際には取り調べ中にアリバイが成立する可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み、裏付け捜査をしなかったという。
また県警が男性宅を家宅捜索した際、現場で見つかった靴跡と同じサイズの靴を見つけられなかったのに、「捨てたに違いない」と疑問を持たなかったこともわかった。
「証拠がある」とハッタリかましてその実、
「偽装だろう」「捨てたに違いない」と都合のよい推断。
そうなじられても反論することは難しかろう。
どこかで聞いたような話だね。
県警のこうした説明がもしも本当だとすると、私の感想はといえば
「正直だね(感心)」
(ただし、この説明が真実を述べているのかどうかという点については疑問を感じなくもないのだが)。
富山県警の今回の処置については「元検弁護士のつぶやき」で矢部先生が書いておられる次の言葉に私も同感です。
身内のしかも先輩の恥をさらすことになるのに、もみ消すことなくきちんと真犯人を検挙したという点は評価したいと思います。
私自身、昨年12月には捜査機関の廉直さに懐疑的な記事を書いていますが、少しばかり認識を改める必要があるのかもしれません・・・(とはいえ当分留保)
「報道と真実、倫理」
一方、地元富山での報道を見てみる。通常、地方新聞は地元で起きた出来事に関しては比較的”濃い”情報を入手・掲載しているが・・・如何。
3年服役男性 無実(朝日新聞MY TOWN 富山)
やはり全国版よりも詳細に書かれている。
富山新聞は過去記事が見当たらないのでやむなくあきらめる。ついでに未履修問題追及の先鋒を勤めた同じく富山北日本新聞社のサイトを覗いてみる。
捜査当局には猛省を促したい。富山地検は男性を無罪とするため、地裁高岡支部に再審請求する方針という
社説はいたってクールなおもむき。県警に対してはスパッ、あとはゴニョゴニョ。長勢甚遠現法務大臣のお膝元であることと結びつけて考える人もいるかもしれないね。常に冷や飯を食わされるのは(以下略)。
ただ、一言だけ記しておきたい。
各新聞社が誤認逮捕当時にどのような記事を掲載していたのか知らないが、実際のところ、こうした事態に立ち至った後にジャーナリストとして胸を張れるような記事ではなかったのではなかろうかと推測する(当時の記事を目にしていないので断言は出来ない)。
誤認逮捕と判明してからの記事には近親者の「おかしいとおもっていた」「彼がそんなことするはずないと思っていた」などのフレーズが掲載されているけれども、この事件に限らず過去あまたある逮捕記事の中に一言でもそうした疑念が掲載された例があるだろうか(もしあるならば犯罪報道の歴史を考究する際に「使える」データかもしれない)。もし今回の件で県警その他に猛省が必要だというのであれば、冒頭にあげたようなフレーズを逮捕当時に掲載しなかったあるいは出来なかった知らなかった無視したであろう報道機関もまた「猛省」が必要だろう。報道機関もまた「疑わしきは被疑者・被告人の不利益に」というスタンスで報道を常にしていることはいまさら私が言うまでもないことだ。
そう考えれば北日本新聞の歯切れの悪さは己のふがいなさを恥じているのかとちょっとだけ思ったが、よくよく読めば警察には「猛省を促す」と言っているくらいなので自身の至らなさには盲いているというのがほんとうのところだろう。
その意味でも、誤認逮捕そのものは当然責められるべきことであるにせよ富山県警が敢えて自らの非を明らかにしたことは自らの職責に忠実な行いだと言えなくもなかろうし、また、誤認逮捕されたご本人にとって(露ほどにすぎないだろうが)救いと言えなくもないのかもしれない(既に刑期を終えられたとはいえ、世間のありさまに照らしてみるに真実が明らかになるのとそうでないのとでは全く雲泥の差があろうから)。他人のふんどしをロハで借りておきながらいざ自分が土俵を割ったところが「実はふんどしが悪かったのだ」なぞというような一部マス輩よりは、自らの失敗を公にして今後に期する者の方がよほど信頼できる。
(ちょっと長くなってしまいましたが、)富山に限らずとも今回のような不可解な出来事は頻繁に起こっている印象を持ちます。虚偽自白の強要、近親者への不当な圧力という形での間接的な自白強要なども過去にも事例がありましたし、その他様々な、(はばかりながらも)狡猾と言わざるを得ないような手法が存在しているのも事実のようです。
犯人検挙への熱意、職務対する崇高な使命感、それらは尊敬に値すると私は思う。ただ、自らの非を認めないのが役所一般の習性とはいうものの、せめて警察や司法関係者ぐらいは、と思っていたい、私は。もっとも、世人からそう望まれがちだからこそ、いざ失敗に直面したときに組織の対面を守ろうとする強い意志が生じるようにも見えるのだが。まるで・・・(沈黙)。
そもそも警察官・司法官の方々はそうした職業をめざすくらいなのだから、一人々々は常人以上に強い正義感を持っておられるのは間違いのないところだ(悪事を働くためにそうした職業に就く者はいまい?)。ただ、そのような正義感あふれる人たちの正義感あふれる行動(仕事)が、しばしば(総体としてはなぜか)不義となってしまう現象の不思議さについて強い興味を覚える(そうした現象はなにも警察に限ったことではないだろうが)。
また、この問題は第三者的視点から眺めている限りは、面白い問題だと言っていられが、もしも自分自身がその不義の犠牲になるかもしれないと考え出すと空恐ろしい気がし始める。
ともあれこの問題もしばらく考えてみたいと思っています。
本日のまとめ。
他人の粗ははっきり見える
自分の粗は・・・ア~ラ不思議いったいどこに消えちゃったの??
おそまつ。
追記)
上記朝日MY TOWN富山の記事をよくよく読んでみると、今回の件は鳥取県警が別件逮捕した真犯人が富山での犯行を自供したことから、(やむなく?)富山県警が再捜査したというのが実態のようです。真犯人が鳥取ではなく富山県警相手に真相を供述していたとしたら、はたして富山県警はどう対処しただろうか・・・。
なお、この記事(朝日)のキャッシュサイトへのリンクが切れていたので併せて修正しました(2007年1月31日記)
夜のNHKニュースで「大阪高裁判事」「自殺」とそこまで耳にしたところで、咄嗟に先日の住基ネット訴訟との関連が頭に浮びました。恐らくこのニュースを耳にした多くの方が同じ思いを抱かれたのではないだろうかと思います。
「自殺と見られる」が「遺書は見つかっていない」とのこと。
今の段階で何を語っても臆測になるばかりですので多くを語ることはしたくありませんが、なんとはなし暗然とした気分にさせられます。
もし仮に先日の判決と今回の自殺とに何らの関連もないと言われたとしても、何だか釈然としないものが残りそうです。
歴史的資料を豊富に手にして今を生きる私たちが過去の歴史を学ぶにあたって、往々にして見落とす一事があります。それは私たち自身が幾ら望んだところで、自分たちの生きる時代と世界を極めて近視眼的ないし一面的にしか把握できない(把握することが構造的に不可能である)のと同様に、過去の歴史を生きた人びともまた彼らが生きている時代を俯瞰的に把握することが不可能であったという事実です。
特に、時代と共に人類が進歩している(はずだ)という感覚と結びついた直線的な時間感覚をもってすると、ともすれば災厄や失敗や陰謀を見抜けなかったのは過去の人びとの無知や無自覚が原因だと(なかば無意識のうちにでも)考えてしまうことはなきにしもあらずなのではないでしょうか。
それでも、かつて満州某重大事件や大杉栄の暗殺などの出来事に(間接的に)接した人びとが、「なんだかおかしい」「奇妙だ」という漠然とした感覚を持たなかったわけではなかったのではなかろうかと私は思っています。現に報道統制された出来事に関しても僅かな情報をもとに(現代から見れば)適確な見通しを持ち得た人びとが(少数ながら)いたことは様々な人々の公刊日記などから読み取ることが出来ます。そしてまた意外なほど多くの市井の人々が何だかよく分からないまでも漠然とした不安、というか胡散臭さを感じていたといいます。
もちろん今回の自殺という出来事がやれ陰謀だ、暗殺だというものではありません(全く分かりません、私には)。
ただ、私が今回の自殺報道に接して思いを新たにしたのは、いつの時代でも、ある時代に生きている”現代人”は常に自分が時代の最先端を生きているという実感と裏腹なものとして、過去(の人々)に対する優越感(おれは知ってるぞ、分かってるぞ、どうしてあなたたちは気づかなかったの??という感覚)を意識的にせよ無意識的にせよ持っているのかもしれない、ということでした。
自分のことは自分が一番よく分かっている?
果たしてそうだろうか。
あまり多くを語ると臆測めいたはなしになりそうなのでこの記事はこのへんで。
亡くなられた判事のご冥福を祈ります。
今年4月に住居侵入事件が起きた際、事件と無関係の男性を誤認逮捕
男性は逮捕直後から一貫して容疑を否認し、物証もなかった
県警は「目撃情報を過信したのが原因」とし、20日、男性に謝罪
共同通信の記事によれば
22日間の拘留後に処分保留で釈放。その後、嫌疑不十分で不起訴
別の住居侵入容疑で逮捕した無職男が犯行を自供していると10月に連絡があり、再捜査の結果、誤認逮捕と判明
周防監督の新作について前エントリで書いたばかりですが・・・。
こうしたケースでは積極的な反証が出て来ない限り(当然と言えば当然ですが)泣き寝入りせざるをえないのが現状のようです。有罪とまではいかない場合でも、報道とそれによる社会的ダメージを考えるとさきの周防監督のいう如く「疑わしきはとりあえず罰せよ」というのが現実のようです。
ここ最近、微罪検挙や誤認逮捕・冤罪事件の多発が目につくような印象を受けるのは気のせいでしょうか・・・。なんだかこれも構造的な問題のような気もします。そんな”気配”を感じるだけですけれど。
微罪でも「罪は罪」ということはもちろんありますが、些か気になります。
そういえば、規制緩和がさかんに唱えられていた頃に、
「事前規制」から「事後処罰へ」 (参考:毎日新聞の分析記事)
という言葉をよく聞かされましたが、その一環なのか?などと臆測してしまいます。
「おいおい、そういう話だった!?」
なにはともあれ「ルール」はルールとしてキチッと守るのが一番の防衛策、とは言えそうです。よ、ね?。
(追記)
この件について矢部先生が書いておられます。
「元検弁護士のつぶやき」の記事
被害者が犯人に間違いないと証言したというのも怪しい話・・・遺留されていたおしぼりに供述が誘導された可能性を疑います
被害者の証言に頼った挙句の誤認逮捕について以前も書きましたが今回も真相は明らかにならないまま終るのでしょう。被害者証言によりかかった供述誘導はあっただろうと私も思います(拘留期限いっぱいしっかり拘留してますから)。
確かに「検挙する」方向で事を進めようとするなら牽強付会がいちばんてっとりばやい方法ですし。
「まず結論ありき」
は政治の世界でなら分かり易くて評価されることをありましょうが、捜査機関は
「それをやっちゃぁおしめえよぉ!」(寅さん調)
のはず。
「政治化」ってのは時と場合によっては民主社会を(まだそんなものが存在すればのはなしですが)害することになりはせぬか、と思うことしきりです。
そんな大層な話でもなく単に検挙の成果(数値)をあげる欲求に負けただけなのかも、ですが。
昨夜書いた、検事による自白強要について関連記事をチラとだけ探してみました。
「弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」」でもこの件が取り上げられていましたので読んでみました。
実務を知る人の見方はとても参考になりました。
昨日のエントリは出だしでつまづいているのでちょと寝覚めが悪いです・・・。
しかも2年近くも前に無罪が確定していることをまるで考慮に入れずに書いてしまっています。
おそらく報道もこれっきりかと思います。
しかし私自身の見解とともに落合先生の見解も考え合わせれば、今も近親者を通じた自白圧力は水面下では当然のようになされていることだけは間違いないでしょう、検察でも警察でも。
この件は、検察・警察が普段当り前のようにやっていることが、時と場所や無罪判決等々の偶然の事情から表面化しただけだと私は思っています。
「平気で嘘をつくであろう”犯罪者”」と対抗するには必要悪、だという気はしなくもありませんけれど・・・。
昨日のエントリで書いた私自身の所見は変わりませんが、自身の迂闊さを反省しつつこの件についてはひとまずお終いとします。
「自白迫り妻に圧力、国に損害賠償命令」(高知新聞)
日本全国どこでもこんなことやってるんでしょう・・・ね。
また、検察がやってるのなら警察が同様のことをやっていない、やるはずがないと考えるのはあまりにも間が抜けていましょうか。
表沙汰にさえならなければなんでもあり、なんでしょうか。もしそうならアウトローたちと何が違う?
建前と実情の乖離は世の常とはいえ、絶望感すら感じます。
極めて例外的なケースだと思いたいところですが、「ゴキブリ1匹見つけたら・・・」ともいいますから。
仮にこの一件がマクロで見ればレアケースだとしても、当事者にとっては人生における一大事だということに思い至れば、この件のような逸脱が極めて重大な”事件”だということに誰しも慄然とするのではないでしょうか。「既に無罪が確定してるんだしOKさ」では済まないと思うのは私だけでしょうか。(無罪判決を得た後だったからこそ偶々こうして浮かび上がってきたのでしょうが。)
一般論として、建前だけで捜査が出来るわけがないだろうな、とは私も思います。
しかしながら、ある種の危惧を感じるのもまた事実です。
対岸の火事だと思って見ているうちに足下に火がついても、誰も助けてくれる者はいません。杞憂であって欲しいと思いますが、”戦前レジーム”復活の予兆を見る思いがします(ちょっと大袈裟な気もしますが実感です)。
そもそも最高法規であるはずの憲法ですら解釈でどうにでも空文化できる日本ですから、その他法律が空文化していてもおかしな話ではない、それどころか必然なのでしょうけれど。
戦力不保持と定められていながら、自衛隊は「戦力」とはみなさない日本。どうも核兵器すら「戦力」には当たらなさそうですし。まぁ、たしかに「戦力不保持」とは書かれていても「自衛隊不保持」「核不保持」とは書かれていないですもんね、憲法には。
こう言ってしまうと矛盾だと取られるかもしれませんが、私自身は以前から、自衛戦力としての自衛隊の法的位置づけを明確にすべきではないかとずっと考えてきました。
しかしながら、今のような”無理を通せば道理が引っ込む”を地で行く社会情勢を見るにつけ、あまりにも時期尚早、今がもっとも危険な時期だという思いがしてなりません。
「このまま行くと、こうして好き放題に思うさま書きつづることが出来るのもあと何年だろう?」と、ちょっと本気で考えてしまう昨今です。
さしあたりこの件がどの程度マスコミに取り上げられていくのか、世間の片隅から注視しています。
注)
一通り書いたあとに気付いたのですが、この一件は公判中の出来事でした。うかつにも読み落としていました。
この記事、捜査段階で家族に圧力をかけたという前提で書いています。
公判中にやっているくらいだから、それ以前の段階なら勿論やってるだろうという、やっただろうという予断と偏見と推測(?)のもとに書いていることをお断りしておきます。
一旦削除することも考えましたが、大筋で違いは少ないと考えてひとまず残しておきます。
ご批判等ありましたらコメントでお願いします。
申し訳ありません。
弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」より
「検事正の権限」
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061006
これはその類のケースなのでしょうか?
「脅迫で起訴の助教授に無罪」(産経新聞記事)
真相は知るべくもありませんが。
昨今、「え、なぜ?」という”事件”が多いような気がするのは単なる思い過ごしでしょうか。
無秩序な社会は無論困りますが、警察国家も恐ろしい気がします。
また厳正な(杓子定規に過ぎる)法運用はともすると、正直者が馬鹿を見ることになる一方で暴力団などアウトローの跳梁跋扈を(結果的に)許してしまう危険性があるような気もします。いまのところ根拠といってありませんが。
抽象的な話になりますが、もしも
秩序=自我
反秩序=影(無意識)
と仮定した場合、(昨日書いた『影の現象学』に従うと)影の過度な抑圧はまた別の無秩序を招来する可能性があるということになります。秩序を維持するための働きかけが新たな無秩序を創造する、という逆説。
もしかすると、戦争、アウトローの跋扈、ユダヤ人大量虐殺などにはそうした側面があったのでしょうか。
歴史に学べばなにがしか手がかりが有りそうな気がします。
(念のためお断りしておきますが、無秩序を肯定しているわけではありません。言わずもがなですが。私自身は断固否定の立場です。)
そういえば「戦時中は犯罪が急減する」とどこかで読んだことがあります。
「死」の危険が身近に存在したからだという解釈もあるようですが、集団心理学的な解釈も可能な気がします。それもどこかで読んだかな・・・
なんだが「気がします」、「思います」の多い文章だなぁ・・・・。
前のエントリで引用した日刊スポーツの記事では、
男性の写真を見て「この人に脅された」と証言
していたとなっていますが、
読売新聞の記事によれば
「似ている」と証言した
となっていました。
「この人」と断定するのと「似ている」というのとでは違いは小さくないように思えます。もちろん、”ある人物の証言”という点では同一でしょうが。
これまた記事をいくら並べてみても真相は定かではありませんが、すくなくとも”事実を伝える”ことの困難さを示しているように思えます。
ついでにこちらは元検弁護士のつぶやきさんから「警察官は馬鹿ではなかった」
捜査の過程では、男性の写真を見て「この人に脅された」と(被害者が)証言したとのこと。
「8日・・・逮捕後・・・被害者が男性の顔を確認し、すぐに無関係と判明し」「逮捕から約5時間後に釈放」したが、別の容疑者等が20日に逮捕されるまで警察は公表せず。
公表が遅れたことの当否はさておき、記事では20日に逮捕された別の容疑者と男性とが似ていたものの両者には面識すらなく全く無関係の人物であった、となっています。逮捕に至ったのはいたって不可解。
万一、逮捕後に被害者が「この人に間違いない」とでも言っていたらどうなっていたんでしょうか。
一般に、警察にいったん「この人に間違いない」と証言した被害者が、思い込み(警察が捜査して逮捕したんだから間違いないはず)や惰性で事実に反する証言を重ねる恐れもあったのではないかという気がします。
なんのかんのといっていても一般の人の感覚では警察に対する信頼はまだまだ厚いと思われますから。マスコミもまた然り。
逮捕後に「違う」と証言できた被害者が偉かったのか、それほどまで似ていなかったのか・・・。
もちろん、記事を読んだ限りで私が思ったことですから、実態はもっと違った側面があるのかもしれません。
モラルに期待することが恐ろしくなった時代に生きる一市民として、常に頼れる警察であって欲しいと強く思います。
しかし同時に一人の人間として、警察やマスコミに限りませんが他人の言うことが常に真実だとする思い込みには気をつけたい、とも思います。
警察発表にせよマスコミの記事にせよ
「警察は『 (警察発表) 』と言っている」
「マスコミは『 (記事) 』と言っている」
ということなわけですし。
(ちなみに私は他人様の発言や記事などを見聞きした際にはその(他人の言葉)の後に続けて「・・・、とこの人は言っている」と唱えることを心がけています。時々しくじりますけど・・・)
なにもかも鵜呑みにせず、可能な限り自分の目・耳で見聞し自分の頭で考えてみる(分析する)。
文字通り玉石混淆、様々な情報に溢れる時代には、古典の素読よりも情報学の基礎を学ぶ方がよほど有益なのかもしれません。いや、間違いなく有益です。断言します。【と、管理人は言っている】
金子さんは『Winnyの開発を止めるという誓約書を書いてもいい』と言ってしまった。そこで捜査員は『著作権侵害を蔓延させるためにWinnyを作りました』といった言葉の入った申述書の見本を作り、金子さんがそれを書き写した」
金子氏は「警察は正しいと思っていたので、警察がそこまで言うならまあいいだろうといった気持ちで応じていた。弁護団の方々に会い、これはプログラマー全体に対する幇助の問題にもなってしまうので、安易に警察の言い分に従うのは誤りだと思った」と説明。警察や検察は信用できず、何を言っても悪いようにしか取られないので、途中からは黙秘したと語った。
金子氏の弁護人氏のサイト アターニーアットロー~博士と私
以下、ふと目にした西日本新聞サイトの記事を読んだ感想。
判決理由として「榎本被告らの証言しか証拠はなく、それも全幅の信頼を置けず、犯罪の証明がない」と述べられたとのこと。
これは逆を言えば「全幅の信頼を置けない証言しかなく犯罪の証明がなくとも逮捕され・拘留され・起訴されうる」ということです。裁判所にしたところで当然のことながら逮捕・拘留の決定にあたって(言葉は悪いですが)一枚噛んでいるわけです。今回のケースについては、関係者の努力と幸運によって真犯人が判明したからこそ幸いにも勝ち得た無罪判決であり、それがなければこの方は罪無くして投獄され社会的地位をも失うことになったはずです。
目下の日本のように、逮捕され起訴された者の殆どが有罪判決を受ける現状では、社会一般に”逮捕=有罪”と受け取られることは現実問題としてやむを得ないところあるのかも知れませんが、それだけに捜査機関は逮捕・拘留にあたって慎重さを求められるのは言うまでもありません。そしてそれらを報道する報道機関にも。
逮捕された当事者にとっては、逮捕という事実と同等かそれ以上に「逮捕」という”事実”が広く報道されることによって生じる社会的影響も甚大なはずです。しかし故無くして逮捕される者は微々たる数に過ぎないわけで、いったん失った社会的信用や地位は取戻すべくもありません。その意味では”弱者”と言えると思います。澄ました顔をしてきれい事を並べ立てるばかりの報道機関は、その弱者を社会的に抹殺する主犯とは言っては言い過ぎになるでしょうか・・・。はたして起訴もしくは判決以前に被疑者・被告のプライバシーを暴き立て、さらには読む人をして”被疑者・被告”=”罪人・反社会的存在”と思わせるような報道姿勢が昨今の報道機関に見られないと誰が断言できるでしょうか。いや、むしろそれが常態と化しているのが現実です。
以前、別の裁判に関する報道で、検察官が”被告”に対して「社会がお前を赦さない」と指弾したとの記事を見かけましたが、そうした芝居がかった言の当否はひとまず別にしても、現状を如実に示す言葉だと感じたことを付記しておきます。
いずれ判決の詳細を調べたうえで改めて書いてみたいと思います。