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「白いカラスの観察記録」その1

  • 2010年7月30日
  • キーワードタグ: 役人

夏休み自主研究課題(つまり”お遊び”)として白色鴉の観察記録をでも書いてみることにした。

総務省は30日、インターネット経由でソフトを共同利用する「クラウド・コンピューティング」の地方自治体への導入を本格化させるため、「自治体クラウド推進本部」(本部長=原口総務相)を設置した。
住所変更や公共サービスの手続きがホームページでボタン一つでできるようになるなど、住民の利便性が向上すると期待される。
推進本部の下に有識者懇談会を設け、11月までに自治体クラウドの推進に必要な支援措置などを検討する。

「クラウド推進本部」設置…手軽な手続き目指す:読売オンライン

日経新聞のサイトには次のようにある。

これが実現すれば、複数の自治体が住民の個人情報を外部で一括管理でき、行政経費を削減できる。本部長は原口一博総務相(中略)総務相は同日の初会合で、「行政情報につなげる費用を大幅に減らすだけでなく、情報を公開にすることで、公正で透明性の高い行政を目指すことができる」と述べた。

自治体クラウドで行政経費を削減、総務省が推進本部 2010/7/30 20:49

こういうクニだからね

  • 2010年6月5日

民主党政権の誕生以来、少しはましになったような気もしているが(たぶん気のせい)、それでもまだまだ途絶えることのない冤罪。まあ今をときめく「お役人」のやることであるから、とりあえず政治家の責任では無い。鳩山(前)首相は6月2日の民主党議員総会での辞任表明演説で、有権者が聞く耳を持たなくなったと語っていたが、聞く耳を持たないといえば同じく辞任表明後のぶら下がり会見でのマスコミ記者たちもまた聞く耳を持たないというか、ハナから詰問調で「おいおい、君らの仕事はなんなんだ、オイ?」と言いたくなった。鳩山氏が辞任記者会見を行わなかった理由は寡聞にして知らないが、ああいう記者たちとは口も聞きたくないと私なら思うね。いっそマスコミ会見全廃、かわりにすべてネット中継・ネット配信してもらえばいいんじゃないかと思う。いやいや、以下、聞く耳を持たないといえば取調官だよ、というハナシにつなげたい。

防犯カメラの映像などをもとに男性が窃盗罪で起訴されたが、その映像に映っていたのは当の男性ではなかったのだというのだ。よくあるハナシではある。

盗まれたキャッシュカードで現金を引き出したとして、窃盗罪に問われた金沢市の男性被告(61)の公判で、金沢地裁(入子光臣裁判官)は、現金自動出入機(ATM)の防犯カメラに映った人物と男性は別人とする鑑定結果を証拠として採用した。(中略) 弁護人の織田明彦弁護士らによると、男性は昨年8月に石川県白山市内のコンビニエンスストア内のATMで、同市内の車の中から盗まれたカードで計100万円を引き出したとして、同10月に逮捕、翌月に起訴された。男性は一貫して否認し、織田弁護士は今年1月から始まった公判で「防犯カメラの人物と男性の耳の形状が異なる」などと主張した。 検察側が高度な映像鑑定技術を持つ愛知県警にカメラの映像の分析を依頼したところ、男性が事件に関与した疑いが薄まったため、4月12日に地裁に男性の勾留(こうりゅう)を取り消すよう請求し、認められた。その後、検察側の要請で同県警が再鑑定した結果、別人と断定。地裁は5月21日、この鑑定書を証拠採用した。

「防犯カメラの男「被告と別人」 窃盗罪裁判で無罪論告へ 」(朝日新聞:2010年6月4日)
ところでこういうとき、搜査幹部がその非を認めることは珍しい(まだ判決が出てないようだからどんでん返しあるかしらん)。おお、警察も少しは変わったかとおもいきやさすがは言い訳上手のお役人、本領を発揮してさらにウソを重ねていて呆れたよ。自分の聞きたいことだけが聞こえる耳というのはほんとうに存在するのである。しかしこの幹部を責めてはならない。だって彼の組織では「みんながやっていること」なのだから。その職責にある者の多くが為している非違行為は、(おかしなハナシではあるが)日本の役所の中では「非違行為」とは見做されないことになっている。そのことは数年前の「未履修問題」の顚末からも明らかである。

窃盗罪に問われた金沢市の男性被告(61)の公判で、金沢地裁(入子光臣裁判官)が防犯カメラに映った人物は別人とする鑑定結果を証拠採用した問題で、捜査を担当した石川県警松任署幹部(当時)は4日、読売新聞の取材に対し、「冤罪(えんざい)事件」と認め、「慎重に捜査を重ねたが、自分のミス。(被告に)申し訳ない」と語った。この幹部によると、防犯カメラの映像は鮮明で、誰が見ても本人と思ったという。男性は同署の調べに容疑は否認したが、画像については「『写真は自分』と話した」という。その上で、「画像は自分じゃないと否認していたら逮捕していなかった」と弁解した。一方、男性も同日、取材に応じ、「(県警の調べに)写真は似ているけど自分とは違うと話した」と、幹部の話を否定。「(事件のあった)コンビニに行ったこともないと言った」と語り、(中略)男性の弁護人によると、検察の調書でも、映像の人物は「自分だ」と認める内容になっているという。(以下略)

「防犯カメラ別人映像、当時の署幹部が冤罪認める」(読売新聞:2010年6月5日)
「犬も歩けば棒に当たる」とは、物事を行う者は時に禍いにあうという意味を含むのだそうであるが、今の世の中、歩くまでもなくただぼんやりしていてもいきなり棒で打たれるというのがより実感に近い。だから、そいういう状況の下で「自主防衛」だとか「景気回復」だとか「○○手当支給」とか「××補助金」なんぞに努力する国家というのはただの間抜けにしか見えない。まして政局なんてのぉ・・・。どこの怪談だか。


2010年6月6日追記(続報)

(前略)石川県警が防犯カメラの男が着用していたのに似た白いシャツとメガネを男性の自宅から押収、金沢地検が金沢地裁の公判に証拠提出していたことが5日、わかった。映像の人物と男性の同一性を補強するための証拠だったが、ともに特徴のない量産品とみられ、捜査関係者は結果的に証拠価値の評価を誤っていたことを認めた。(中略)防犯カメラの映像では、よく似たシャツとメガネを身に着けていた。男性被告によると、県警の取り調べで両方を見せられ、「顔も服装も似ている」と追及された。男性は、コンビニ店の映像の男に自分がいつも着けているネックレスがないことを指摘して否定したが、捜査員は「犯行の時は外せる」と取り合わなかったという。捜査関係者は「映像はノースリーブというのがわかる程度。誰でも持っていそうなシャツという印象だったが、60代の男性が同じシャツを着ていることに引きずられてしまった」としている。

「防犯カメラ別人、男性宅から『証拠シャツ押収』」(讀賣新聞:2010年6月6日)
砂上の楼閣にすぎなかったわけだが、役人からすれば「一丁上がり」のお茶の子さいさい、というわけだ。

民主党政権の200日(下)

  • 2010年5月1日

「民主党政権の200日(上)」のつづき)

「期待の星」民主党と官僚の反撃

2009年11月8日
日中「交流協議機構」第3回会議 を東京で開催(11月12日まで)
2009年11月12日
小沢民主党幹事長、来日中の韓国民主党代表と会談
2009年11月13日
オバマ米大統領来日
2009年11月30日
梁光烈中国国務委員兼国防部長が長崎県佐世保市を訪問、イージス艦ちょうかいを視察

この時期、鳩山首相と小沢幹事長を巡る政治資金疑惑に関してのべつ幕無しの報道が続いていたが、この二人の政治資金疑惑は既に政権発足以前からずっと取沙汰されていたせいか、新たな報道に接しても「ああ、またやってるのか」という程度にしか感じなかった。まだまだ政権交代の高揚感とその余韻が残っていて、物慣れない様子の大臣の様子などが頻繁にテレビ画面に映し出され、良くも悪くも初々しいというか、新入生・新入社員を生暖かく見守るような空気が(「挨拶かねーじゃんか」「こーえがちーさーい!」などと意地悪をする上級生あるいは先輩のような人もまあ居たにせよ)そこはかとなく漂っていたように感じていた。また普天間基地移設問題など日米関係における当面の課題もありはしたものの、いまださほど切羽詰まった状況でもなかったせいで、オバマ米大統領が来日して皇居を訪問した際にあまりにも深くお辞儀をしすぎたのではないかなどという些細なことを米国や日本のマスコミが騒いでいるような「平和な」時期であった。
(2009年11月16日)「お辞儀と国旗と国家」
(2009年11月26日)「(つぶやき)死中に活有り、か?」


2009年12月9日
鳩山首相が「バリ民主主義フォーラム 出席のためインドネシアに出発。(翌日帰国)
2009年12月10日
民主党議員団が訪中 。小沢幹事長が胡錦涛中国国家主席と会談
2009年12月11日
小沢幹事長が梁光烈中国国務委員兼国防部長と北京で会談
2009年12月12日
小沢幹事長、李明博韓国大統領と会談
2009年12月13日
小沢幹事長および民主党議員団が各々帰国

小沢一郎幹事長及び一般参加者を含む民主党議員団の訪中にあたっては、まるで大名行列のような600名(一般参加者含む)を超える規模であることや中国政府からの厚遇ぶり が目立っていた。この騷ぎと相前後して、近々訪日予定であった中国国家副主席と天皇との会見が小沢幹事長の横紙破りで設定されたと宮内庁長官が「告発」したことからマスコミが騒いだ。天皇の体調等を考慮し急な会見を設定しないという内規に抵触したことは事実であったらしい。宮内庁が「それは問題だ」と強弁することは確かに出来ないことではなかった(実際にやった)わけだが、その後わたしは、愛子内親王の不登校問題に関して思案足らずの公表を行ったことなどからみて、宮内庁の言い分は必ずしも妥当なものではなかったとの結論を得るに至った。
(2009年12月15日)「キム王朝」と「財政改革」と「選挙の神様」


2009年12月16日
民主党がマニフェスト修正につき政府へ要請提出
2009年12月24日
東京地検が鳩山首相の元公設秘書を政治資金規正法違反で起訴
2009年12月25日
鳩山首相が普天間基地移設問題に関して来年5月までに移設先を決定すること明言
2009年12月28日
菅直人副総理兼国家戦略担当相がテレビ番組収録で対米関係の重要性に言及
同日(28日)
鳩山首相が日米同盟維時・普天間問題5月決着を重ねて表明

政治資金問題・政策面における理想と現実・普天間基地移設問題等々、そろそろ問題解決の困難さに苦しまねばならないことが明らかになりはじめた時期であったが、その一方で、翌月から放送予定のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の宣伝効果であったのか、世間のあちらでもこちらでも維新や志士たちをもてはやし、なかには自らを坂本龍馬その他のヒーローに擬す阿呆まで出て来る始末で、まあ確かに直面している大問題をものともしないという点では「大人物」と言ってもよさそうな人たちがちらほら見聞された。
(2010年1月7日)「維新は遠くなりにけり」


小沢一郎と官僚との激闘、そして奇妙な和解(?)

2010年1月15日
小沢一郎民主党幹事長の元私設秘書石川知裕衆議院議員 を逮捕
2010年1月16日
民主党党大会開催、小沢幹事長は検察との対決を宣言

既に政権発足前から頻りに取沙汰されてきた小沢氏と検察庁との対決(!)とそれにまつわる報道合戦は、民主党大会前日の逮捕で激しさを増した。
余談ながら「われわれは粛々と職務を遂行しているだけである」という言葉は特搜部検察庁警察捜査機関法務省ひいては官僚お役所唐変木の最も好むところの言葉であり、「検印君」 の巣窟においては自分たちのやることなすことを悉く正当化する万能膏薬として珍重されるところのものであることは遍く周知の「事実」であろう。
閑話休題
そうした状況のなか、鳩山首相は小沢氏に対して「どうぞたたかってください」と述べたことから、行政府の長としてあるまじき発言であるとして(一部から)批判された。しかし行政府の長の指示に従わない(指示に従うふりをしてサボタージュする)官僚たちが仮に居るとすれば、それを取締まるべき首相 にはむしろ「あなたも闘ってくれ」と言って応援するのが有権者の果たすべき役割であろうと私は考えた。その理由は言うまでもなく主権者たる国民には官僚・役人を直接管理する手段は(事実上)与えられていないも同然であり、それ故に政治家が立法によってその役割を果たすことに期待を寄せるからである。他面その負託に応えるべき政治家に清廉さが要求されることは言を竢たない。そもそも行政改革を標榜して誕生した民主党政権の誕生を阻止せんとしまた出鼻を挫かんとするようにも見える検察庁乃至官僚集団の動きは、(私の見るところでは)むしろ小沢氏一個の政治資金疑惑以上に問題視されており、また行政改革(官僚制度改革)を標榜したことこそ2009年夏の選挙で民主党が大勝した理由の一つである、というのが私の観測であった。言葉を換えて言えば、民主党あるいはその最高実力者であると自他共に認める小沢幹事長が、票集めや官僚掌握の「手段」としてではなく「目標」として行政改革に取り組みひいては財政改革の実現に努力する限り、(少なくとも過去の)政治資金疑惑に関しては”ひとまず”黙過されるということもあり得るのではないかと考えたのであるが、実際には年末年始をはさんで事態は別の方向へと進んでゆく。
(2010年1月17日)「公務員ではなくリーダーとして」


2010年1月23日
東京地検が小沢一郎幹事長から事情聴取(第1回目)
2010年1月28日
民主党 「取り調べの全面可視化を実現する議員連盟」 (会長・川内博史衆院国土交通委員長)設立総会開催
同日(28日)
警察庁が「捜査手法、取調べの高度化を図るための研究会」 の設置を発表
2010年1月29日
鳩山首相、施政方針演説

1月29日に鳩山首相が行った施政方針演説では決して行政改革や財政再建について語られなかったわけでは無かった。しかしそこには、自らも身を切られる覚悟でそれに取り組む気迫はもはや宿っていないように私には思われた。しかしそれは鳩山首相だけの話ではなさそうだった。施政方針演説に先立つこと6日前に行われた小沢幹事長に対する東京地検の第1回目の事情聴取を起点として、施政方針演説の日までの時期の一連の流れ を知ることによりその感がいよいよ深まった。そもそも数年おきの選挙というハンデを抱えた政治家が身分の厚く保証された官僚と同じ土俵で戦うならば、勝敗はかつての日米戦争と同様既に戦端を開く前から見えていると言うべきである。官僚制とその弊害は古くて新しい問題であり、また決して最終的解決の得られない問題でもある。ちなみに作家星新一はそのエッセイの中で、日本人が自らその弊を取り除くことが出来ないのならば、日本はいっそのこともう一度無謀な戦争を起こして惨敗したのちに、進駐軍に「民主化」をやってもらうしかなかろうという、ひどくシニカルな「日本改革論と諦念」について書いている。
(2010年1月30日)「星新一の対米開戦論と民主党政権」


2010年1月31日
東京地検が小沢一郎幹事長から事情聴取(第2回目)
2010年2月2日
小沢一郎幹事長がキャンベル米国務次官補と会談
2010年2月4日
東京地検が小沢一郎幹事長を不起訴処分
2010年2月5日
亀井静香郵政改革担当相が日本郵政非正規社員の原則正社員登用 に言及
2010年3月17日
法務省副大臣が取り調べ可視化法案の早期提出見送りを民主党に伝達

・・・・・・。ああ、左様で。


エピローグ〜激闘ふたたび

2010年4月26日
鳩山首相の政治資金問題に関して東京地検特捜部が不起訴としたことについて、検察審査会が「不起訴は相当」と議決(4月21日付)したことが報じられる
2010年4月27日
小沢幹事長の政治資金問題に関して東京地検特捜部が不起訴としたことについて、検察審査会が「起訴が相当」と議決
2010年4月28日
民主党国会議員よりなる 「司法のあり方を検証・提言する議員連盟」 (会長・滝実衆院法務委員長)が発足

最後に

これを書いている今、普天間基地移設問題が5月末の決着期限を目前に控えて差迫った課題となっている。既に昨年の12月以降この移設問題に関する報道が途切れることなくなされているにもかかわらずこの2回に分けて分載した「民主党政権の200日」ではほんの僅かしか取り上げていないことに不審の念を抱かれた方もおられるやも知れぬ。じつは私自身、このエントリを書きながらその理由がよく分からないままであった。そこで最後にそのことについてつらつら考えてみたところ、どうやらその理由の一つは普天間基地移設問題に関するこれまでの政府の動きというのは、明日になれば覆っているかもしれない「暫定的な方針・態度・決定」がほとんどであるせいで、このちっぽけなクロニクルにすら記すに値しないと私には思われた。仮にそれ等を記そうとするならば半日おきに項目を立てていかねばならなくなる。そしてそのようなことに今の私はあまり興味がない。結局この問題に関してはここでごく僅かしか触れなかった。重ねて言えば、普天間問題を避けたのではなくただここに記すのが適当であると思える事項が無かった、単にそういう理由である。たぶん普天間基地移設問題については新たなエントリを立てて後日書くと思う。

民主党政権の200日(上)

  • 2010年5月1日

政治政局のことなんぞ到底ひとつひとつ追いかけている暇も余裕もないにしろ、気になることもいくつかある。そこで備忘を兼ねて過去のエントリに触れながら昨年夏(2009年)の総選挙以後の話題を並べつつひとしきり書いてみようともくろんだが、予想外に長文 になったので2回に分けて書いてみることにする。
民主党政権の200日(下)

民主党政権誕生前夜

2009年4月3日
民主党・社民党が参議院に取り調べ可視化法案を再提出
2009年4月25日
参議院本会議で取り調べ可視化法案可決

思い返せば8月末の総選挙の数ヶ月前には既に各種マスコミも自民党の敗北を予想しており、私もそれについてはおおよその見当は付いていた(たぶん多くの人が既にそう感じていたはずだ)。しかし一方でこの頃から、民主党が(自民党の支持母体でもある)各種利権団体にあのてこのてで接近しているとの報道に接し、なんとなく民主党政権の誕生も結局は「新たな自民党政権与党」の誕生に過ぎなくなるのではないかとも思い始めていた。
(2009年8月9日)「ながいつぶやき」

2009年8月11日
民主党が衆院選の政権公約(マニフェスト)の修正を発表
2009年8月14日
民主党、社会民主党、国民新党の3党の共通政策を発表

上記「共通政策」に見られるとおり、民主党は社会民主党および国民新党との連合を視野に入れて、社会保障・労働規制の充実・強化、郵政民営化の拔本的見直し、地方活性化等々、有権者にとって「おいしい話」をつぎつぎとぶち上げつつあった。実際のところ、それのいずれもが「将来的な展望の開けない(アテのない)退却」であることは明白であったにもかかわらず、結局、選挙で勝たねば何も始らない、ということですべてが正当化されていたかのようであった。ちょうどその頃私は、アリストテレスが言ったらしい「全精力を選挙での得票に注ぎ込むようなあらゆる権力体制は厳密に言えば民主制とは言い難い」という一節を読みつつ、それに対して小沢一郎ならなんと答えるだろうかと思ったこともあった。
(2009年8月26日)「気がついたら英国病」


自民党の敗北と民主・社民・国民新党三党連立政権の発足

2009年8月30日
第45回衆議院議員選挙で民主党その他の野党連合が勝利

選挙戦はいつのまにやら終わった。朝刊の、時々「政府広報」が掲載されるスペースに、これまたまるで政府広報のようなデザインの選挙広告(主に自民党のもの)は、自民党の魅力よりもむしろその焦りと無力感が漂っており、自ら(意図しない)ネガティヴ広告をうつ自民党はなんとも哀れを誘うものであった。広告のいくつかをメモしたエントリは下記。そして自民党は敗北した。
(2009年8月31日)(メモ)2009年総選挙備忘録

2009年9月9日
民主党・社民党・国民新党が連立合意

総選挙に際して民主党が社民・国民新党との共闘体制をとったことは選挙戦略のひとつとしてなんら不思議はなかったものの、ただでさえ寄り合い所帯的な民主党に加えて、柔軟性の欠けた社民党 、そして郵政民営化絶待阻止を党の存立基盤とする(これまた政策的柔軟性の欠けた)国民新党との連立は、(国会運営の円滑さと引き替えに)新政権の目的地・目指すところの不明瞭さを一段と増すことになる。結局、連立政権は誕生した。そして「国民目線」「生活者重視」というスローガンは、「構造改革」に変わる新たなスローガンとしてその地位を確たるものにした。
(2009年9月17日)「痴呆地方の大合唱」


2009年9月21日
鳩山首相が国連総会・金融サミットに向けて訪米
2009年10月9日
鳩山首相が韓国・中国訪問に出発
2009年10月21日
亀井静香郵政改革・金融相が日本郵政社長西川善文氏を事実上更迭、後任に元大蔵事務次官の斎藤次郎氏起用を発表。

政権発足直後ということで報道も新政権に好意的なものが大半を占めており如何にも静かな時期であったが、既に政権発足以前から鳩山・小沢の政治資金問題がくすぶってはいた。また日本郵政について、前社長を石もて追うが如く更迭してなんのかんのと陳弁しつつ元官僚を新社長に起用した。まあその程度で済めばよいが・・・と思わずにいられなかった人は少なくなかったのではなかろうか。この頃、亀井大臣という元警察官僚の存在感は鳩山首相小沢幹事長を凌がんばかりに圧倒的なものであった(そう私には見えていた)。
この時期、私は政治に関連するエントリをほとんど書いていない(無いものは無い)。

(つづく)

「売国奴」と対話について

  • 2010年4月10日

1945年の敗戦ののち、ふたたび「売国」とか「売国奴」などという言葉が公然と口にされるようになったのはいったい何時ごろであったろうか。幸か不幸かまだそれほど昔のことではないと私は感じているが、とりわけ昨年(2009年)9月の民主党政権誕生(つまり自民党の下野)以来、こうした言葉が何の躊躇いもなく口にされるようになってきているように思うがみなさんはどう思われるだろうか。わずか三年ほどの間に世論調査という人気投票の如きあやふやな民意を背景に安倍・福田・麻生政権と続いた自民党政権末期には、既に「国益」という言葉が主立った政治家・官僚によって(私の見聞した限りでは)かなり無雜作に用いられるようになっていた。いっぽうで、政権が民主党に移ったのち、一部で「革命」だの「革新」だのという、見方によっては物騷な言葉がなんの躊躇もなく口にされることもまた、私には何とはなしに苦々しく感じられるのは事実ではあるが、その青臭さに辟易することはあってもまだ「売国」などという言葉のもつ狂信的な臭いの耐え難さに比べればはるかにマシではある。

はなしを分かり易くする為に、ひとつの例として次の新聞記事を引用してみる。記事のタイトルは「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」だそうである。

反民主党を旗印に掲げる新党「たちあがれ日本」の結党記者会見が10日午後、東京都内のホテルで開かれた。
代表に就いた平沼赳夫・元経済産業相は「今行われている民主党政権による政治は、この国をダメにしてしまうのではないか」と語り、反民主の姿勢を鮮明にした。
民主党の政策について「売国的な法案が羅列されていて、それをいま表面に出してきている。断じて、我が日本のために、野放図に許してはならない」と厳しく批判した。
(以下略)

「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」YOMIURI ONLINE(2010年4月10日)
なお、この平沼某氏が「売国的な法案」として批判しているのはおそらく外国人地方参政権法案のたぐいであろうと思われるが、このエントリで主題としたいのはあくまでも語法そのもの、すなわち自らが賛成しかねる意見・言説に対する批判の語法そのものであることを念のためお断りした上ではなしを進めてみたい。

大辞林によればそもそも「売国」とは「自国に不利で敵国の利益になることをして私利を図ること」をいうのだそうだが、「売国」という言葉の意味を確認してみた時点で最早この平沼某氏はほんとうにその言葉の意味を理解しつつ公の場でそれを口の端に載せたのかどうか怪しいものだと思わざるを得ない。売国が敵国の利益を図ることなのであれば、はたして現時点で公の場で日本にとっての敵国と呼ぶべき国はどこの国のことなのであろうか。現在のところ、日本にとっての敵国と呼称され得る可能性のある国と言えば(大胆に見積ったとしても)北朝鮮くらいしか思いつかないが、当の国にしたところで未だ、公人が、公の場で、「敵国である」と公言することが妥当であると衆目一致しているとまでは言えないように私には思われるが、どうだろうか。さらに言えば、そもそも「敵国」とは大辞林によると「戦争をしている相手の国」であるそうである。そうであるならば、現に日本が戦争を遂行している相手国が存在しない以上は(少なくとも論理的には)「売国」という行為は存在し得ないということになる。なおここでは、何故平沼某氏がそこで論理的にはあり得ないはずの「売国」という言葉を用いたのか、その真意を文面からあれこれ推量することはしない。しかしひとつ明確に言えることは、あれこれ考えるまでもなく「売国」という言葉が一種の詈り言葉であるということである。「非国民」「アカ」「チャンコロ」などという言葉と同程度に汚い言葉であって、自分を持ち上げ他を貶める夜郎自大な言葉である。私は、平沼某氏にはまず政策云々以前にデモクラシーとは何かを考えてみた方が良いと思う。

さて、ここまでの文章をいったい何人の方に読み通していただけたであろうか。そしてもし読み通してくださった方がいたとして、ここで私の言わんとするところを理解していただけたであろうか。なかには「売国という言葉の字義を以て平沼某氏の発言を曲解しているだけではないか」あるいは「こいつは北朝鮮シンパか?」と感じられた方がおられるかもしれない。その場合、私がこの文章を書いた目的の半分は果たされたと言っても良い。なぜならば、たしかにここで私が述べたことは、ただその曖昧さあるいは趣旨の読み取りにくさという点では平沼某氏の言葉とさして変わらないのかもしれないが、少なくとも私は平沼氏をキチガイであるとか国会議員として不適であるとは言っていないし、彼が極右であるとも断定していない。私がそうした断定を避ける理由は、「キチガイ」「極右」という言葉(こうした言葉は、平沼某氏が用いた「売国」という言葉と同様に汚い言葉である)にはそれ自体に否定的な意味、より広く言えば或る種の「価値判断」を含んでおり、そのような「否定的な言葉」が用いられる対話、「(個人的な)価値判断」を不動の前提としてなされる対話から得られるものは通常ごく僅か乃至皆無であるというのが通例であるからだ。

もし私がここでいささか意味不明なことを述べ立てたとして、誰かに「あなたの言うことはつまり○○なのか?」と問われたならば私は「そう、その通り」「いや、そうではありません」と答えた上で改めて相手に私の真意を伝えることができる(少なくとも伝えようとすることは可能である)。しかしもし「○○としか読みようがないぞ!」「○○という意味ならもっとちゃんと(初めからそうと分るように)書け!バカめ」とでも言われれば、私には「いやあ、違うもんは違うし・・・」「いや、もう書いちゃったし・・・」とでも言うしかなく、そういう人とまともに対話をすることはたぶん不可能である(もちろんわかりにくい文章読みにくい文章はそもそも親切さに欠けるとはたしかに言える)。

「売国的」という言葉はまっとうな対話に適した言葉では全くない。それは対等な議論によって結論を導くというデモクラシー(民主政治)とは相容れない言葉である。そしてそうした言葉が、まがりなりにも民主的な国家であるとされている日本で公然と口にされるということが、私の眼には日本の民主制が壊れつつある(あるいは既に壊れてしまっている)ことの徴(しるし)だと映るのである。

私の言わんとするところは、なにも辞書に書かれたとおりの「正しい」言葉を使いましょうなどということでは無い。「開かれた言葉」「開かれた対話ができるような言葉遣い」というものがあるのではないかということ、そして平沼某氏のくだんの言葉はその種の「対話に適した」言葉ではないのではないかということを言いたかったのである。「開かれた言葉」「開かれた対話」を志す限りは、仮に平沼某氏が辞書にはない意味で「売国」という言葉を用いたのだとしても、その意味するところは対話によって自ずと明確なものになるだろう。しかしその「売国」という言葉そのものが既に「閉じられて」おり、対話には用いることの出来ない言葉であるのではないかということ、そしてそうした言葉を用いる平沼某氏は、ひょっとすると誰かに何かを訴えているようでいて実は「対話」を拒絶する反民主主義者だと自ら称していることになるのではないかということなのである。

開かれた言葉によってなされる開かれた対話こそがデモクラシーの礎であり、何が正しいのかを議論によって決しましょうと言うのがデモクラシーであるとすれば、議論の初めから一方が自らの正しさを前提としその撤回を断固拒否することはそれ自体が既にデモクラシーに反するのではないか。相手を売国奴と罵ることは相手との妥協を断固拒否することと表裏一体であり、軍人ならぬ政治家の振舞いではもはやない。それとも平沼某氏は「売国奴」に対してすら妥協してしまうような「政治家」なのであろうか。

(2010年4月11日一部改稿)

(おちゃらけ)やっつけ大作戦

  • 2010年3月24日

今日参議院にて外交・防衛に関する集中審議が行われるということを数日前に知って、ちょっとだけ興味津々だった。「普天間基地移設『振り出しに戻る』問題」とか、「そもそも日米同盟どうすんの問題」とか「与党幹事長が中国人民解放軍野戦司令官でした問題」とかいう、世人の興味をひく話題には事欠かないこの外交・安全保障分野は、俗人の生活には毛ほどの関わりすらない話題であるだけになお一層、その他の利害が交錯する内政諸問題に比べて際立った面白さがある。一言お断りしておくと、ここで「面白い」というのは、ブログを書いた後にそれほど気分が悪くならずに済む、という程度の意味であります(なら書かなきゃ言いじゃないか、と言われそうだが、他人の書いたことはすぐに忘れても、自分で書いたことはたいてい覚えておくことができるから書いておくのだ)。なお、本來なら当の国会中継(録画)なり議事録なりを通読して取り上げるべき話題かとも思うが、今日のところはそのへんの報道の一端を切りとる程度でご寛恕願う。もし再びここで取り上げる機会があって、なおかつ不思議と意欲が湧きそして偶々論をまとめることができたなら、その際にはきちんとした形でここに掲載したいと思う。

(今後、新聞その他の記事へのリンクは控えることにしました。その理由は、リンクを張っても当の記事がすぐにリンク切れ(閲覧不能)になるためです。例外として、数年経っても(たぶん)閲覧可能と思われる記事には従来通りリンクを張っておくことにします。それだってアテにはなりませんがね。)

今日夕方の時事通信の報道(*1)には、自民党選出の佐藤正久議員が「『普天間が残ることはないと約束してほしい』と求めたが、首相は『一朝有事が起きたときに、普天間がなくても事が済むのかといった議論も含めてゼロベースで議論をしている』と述べるにとどめた」とある。

*1: 「鳩山首相、敵地攻撃『違憲でない』=参院予算委で集中審議」(時事通信)

佐藤氏は、「PKO派遣部隊の初代隊長」という触れ込みで(自衞隊を定年前に退官して)自民党から出馬した元幹部自衛官であることは広く知られている。そういえば彼が出馬した頃、自民党はこの佐藤氏とか「ヤンキー先生」とやらとか、メディアで多少なりとも顔を売った人物を促成栽培的に次々に担ぎ出していたことも記憶に新しい。今は来夏の参院選に向けて「美人過ぎる市議」とやらなにやら担ぎ出す予定だとかいうことを耳にして、「懲りてないね」と思っているのは私だけではないと思う。
いや、はなしが逸れた。で、その佐藤氏の発言がどのような文脈のなかで為されたのかはあらかじめお断り(というか言い訳を)しておいたとおり(不肖いや無精)わたくし承知致しておらぬけれども、一言で言って合点がいかない。彼が社会民主党員ならともかくとして、自民党選出の国会議員として「普天間が残ることはないと約束してほしい」などと首相(民主党)に求めるとは、一体これ如何なる意図から為すモノデアルカ。

仮にも普天間基地の辺野古移設を決定した自民党員である以上、「あくまでも辺野古への移設を為すべし」と主張するなら首尾一貫しているといえるだろうが、敢えて一歩引いて「(辺野古移設履行が仮に無理でも)普天間へ残さないことを約束すべし」とは、これ「同盟国アメリカ」が辺野古移設の履行を求めていることに鑑みれば一種の裏切りではないのか、と思わないではない。が、実際のところ普天間基地移設問題に関して日本(民主党政権)に残された仕事は敗戦処理以外の何ものでもない。外堀は既に埋め尽くされ、今は内堀を埋め尽くされつつある。佐藤氏の「分かり易い発言」は内堀を埋める一つの小石だ。

これといったあてもないまま今年5月までの決着を公約したものの、県外移設の受け入れ先となるはずの本土各自治体は続々と受け入れ反対を決議し、アメリカは辺野古案の履行を迫り、沖縄は県外移設を悲願とする。そして期限は刻々と迫る。まさに四面楚歌である。当事者であれば本当に「胃が痛く」なって当然だ。死ぬ思いで事態の打開を図ろうと奮闘している人たちには大変申し訳なく思いつつも、「無責任の素人頭」でそれぞれの利害得失を考えてみた。

沖縄・本土・アメリカ・小沢

本土各自治体:受け入れ反対は半分本音半分建前。
米軍基地の受け入れについて密かに色気のある自治体は意外とあると見る(もちろん反対派はいるだろう。しかしこれはたぶん少数派)。財政難にあえぐ各自治体であるからして、結局のところ受け入れの可否はカネ次第。ただし期限を目前に右往左往する政府に対しては綺麗事を並べて「反対」する。そうしておけばいざそのときには値がグンと吊上がるから。日本政府が困れば困るほど優位に立てる。したがって日本政府に助太刀する動機は皆無。

アメリカ:高みの見物
既に合意済みの辺野古案の履行を淡々と要求するだけでOK。県外移設案については我関知せず、なので。あとは「5月決着」を約束した日本政府が言を左右にして言い逃れることを防ぐ手当だけしておく。これも日本政府が困れば困るほど優位に立てる(辺野古合意がある以上既に断然優位ではある)。したがって日本政府に助太刀する動機はこれまた皆無。

沖縄:約束約束約束
工事利権土地利権その他で辺野古移設待望・普天間殘留贊成の人だっているのだろうが、世論の流れから行けば政府の県外移設断念=反民主党気運の爆発。ひいては本土にまでそれが波及する→「それだったら(本土の人間は)県外移設に協力するべきだったではないか!」という正論は当然の如く無視・無力。手前勝手、それが世論というもの。

日本政府(鳩山首相):四面楚歌
県内移設および普天間存続は政権の危機、でも県外移設先もなく、期限も刻々と迫る。打つ手無し。残された仕事は如何にして政権へのダメージを最小限にとどめるか。

番外(小沢幹事長):?
やはりカギはこの人物か。唯一現実的な選択肢を持つキーパースン。
第1案) 知らんぷり作戰:
首相任せでもし県外移設失敗なら首(「首相」とも書く)のすげ替えでひとまずやり過し、沖縄の票は捨てて本土での利権誘導で票をかき集める「本土決戦」。でもたぶん敗戦必死。理由の一つは沖縄の項参照のこと。
第2案) 一蓮托生作戦:
首相と一蓮托生で自ら泥水ひっかぶり存続なり移設なりの決着を図る。失敗すれば無論首相と一蓮托生。当然参院選での敗戦必死。別名「戦艦ヤマト決死の特攻作戦」。

すまん。もう既に何を書いているのか分らなくなった。戯言として聞き流して戴きたい。
いや、わからんよ、どーなるか。そら「期限再延長、でもお高いでっせ作戦」とか、「乾坤一擲日米同盟抛棄ちゃぶだい返し作戦」とか、「へへ、実は移設受け入れてくれるとこありましてん作戦」とかさ、あるかもしれんしね。なにせ「中国人民解放軍の野戦司令官」(*1)を名告った人が政権与党の実権を握っているそうだからね、何があるか、そりゃ分りません。そもそも一蓮托生作戦が奇跡的に成功したところで民主党の参院選敗北という結果は変わらないという見解だってあるが、それについてはまた別の機会に。

だってさ、(その当適否さておき)昨年末に5月決着を公約した時点で勝負は付いてるんだから。なにせ半年足らずで県外移設先が決るはずもないよね。辺野古移設決定までに一体どれだけの時間とどれだけの反対運動があったかを考えればそれは「考えるまでもなく」分ったはずだよ、ね。

言うても詮無きことを扱うにおふざけをもってしたためにこんな始末になってしまったが、担当者のご苦労はお察し申し上げる。
御免。

(ついでに)
「〜すぎる○○」という言葉を耳にする度に、腐ったリンゴをむりやり口につっこまれたような気分になる。美人過ぎるなんてことがあるあるものか。美人はどこまで達しても美人であって美人”過ぎる”なんてえことがあるわきゃない。美人過ぎるつーのはつまるところ「たいして美人でもなし」の言い換えだよ。古来、「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うではないか。


(追記:2010/03/24夜)
普天間基地の県外移設は「公約」だったのかという点について、昨年11月の岡田外務大臣の発言は傾聴に値すると思う。

岡田克也外相は4日午後の衆院予算委員会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題をめぐり、鳩山由紀夫首相らが衆院選直前まで県外移設を主張していたことに関し「政権公約と選挙中の発言はイコールではない。県外、国外への移転が望ましいとの思いはあるが、公約では米軍再編の見直しという表現にとどめた」と述べ、県内移設に理解を求めた

「岡田氏『県外移設公約してない』」(47NEWS: 2009年11月4日)

(追記:2010/04/22)
*1:小沢一郎民主党幹事長が実際に「中国人民解放軍の野戦司令官」と自称したわけではない。ここでは産経新聞の記事の見出し(の一部)をそのまま借用している。誤解無きよう。なお産経の記事も、本文では小沢自身が中国人民解放軍野戦司令官を自称したとは書いていない。

星新一の対米開戦論と民主党政権

  • 2010年1月30日

昨日の鳩山首相施政方針演説を読んだ。演説の内容から(あらためて)明らかになったことは、少なくとも現時点で鳩山政権は(政治的に)身を切る覚悟を決めていないのだということだった。政権発足後、折に触れて「維新」だとか「新生」だとかの言葉を耳にしてきたが、政権発足後の経緯も踏まえてみれば、おそらく首相の言う「見直し」「組み替え」「再編」はどれも字義通りに読んだ方がよさそうだ。つまり単なる”模様替え”しかやりません、あるはもうそれしかできませんということであり、今回の演説で(ようやくと言うべきかとうとうと言うべきか)それを自ら鮮明にした。

鳩山政権は、発足直後から後退戦に次ぐ後退戦の連続であった。その最初の徴候は既に政権発足以前に浮上した鳩山首相自身の政治資金疑惑であった。結局この疑惑自体は昨年末に首相自身が検察に上申書を提出する形でひとまず沈静化したかに見えるが、おそらく今後も事あるごとに批判・揶揄されることは避けようもなく、まさに首相にとってのアキレス腱になるであろうことは想像に難くない。こうして民主党攻撃の橋頭堡を確保した検察庁は、本命小沢一郎への攻撃に着手した。その後の経過諸々委細省略すれば、こちらもようよう所期の目的を果たした、若しくは果たしつつあるとは言えそうだ。いずれにせよ鳩山首相も小沢幹事長も言ってみれば脛に傷持つ身となったことによって、当人たちは勿論のこと民主党政権そのものが検察庁(つまり官僚)から頑とした楔を深々と打ち込まれた。検察庁にとっては昔も今も「ベベンベン、あ〜政治家殺すにゃ包丁いらぬ 資金の出所洗えばよい、ベベベノベン」なのであった。

先日のエントリ(「『人民は弱し官吏は強し』再読」)でも触れた作家星新一は「官僚について」というエッセイの中で官僚に対する強烈な皮肉を込めて次のように書いている。

官吏ほど、このスリカエや身のひるがえし方のうまい者はない。(中略)官吏集団ほど強力な圧力団体はないはずである。それなのに、だれにもそうと気づかせぬ点、絶妙としか呼びようがない。もっとも、これは私たちが盲のせいかもしれない。
黒い霧のたぐいの責任は、すべて代議士に押しつけられ、官吏はいつも清潔である。自分の選挙区に橋や道路を優先して作らせ、あれこれ言われる代議士があるが、代議士の口ききでどうにでもなる側があればこそではなかろうか。どことなく変だ。官僚機構とは強いばかりでなく巧妙で不死身の怪獸である。民衆の手におえるのは、せいぜいママゴンとかいった程度の小怪獸ぐらいである。

官僚について 『きまぐれ星のメモ』角川文庫(1971) P263

このブログでも以前政治資金について「政治資金問題と浮気の効用」などいくつかの記事を書いたことがあるが、政治家とカネとが切っても切れない関係にあることはいまさら疑うまでもない。議員という職務がさまざまな「利権」と直接関わっているということ自体が、さらに様々な利権すなわちカネを”呼ぶ”のである。つまり、カネはカネを呼ぶ、とね。そしてそうした「利権に直接絡む」仕事は議員さんだけでないことは誰もが承知している。

政治家とならんで利権にまつわる仕事を為す官僚、そしてその周辺に存在する各種団体と官僚とのただならぬ関係を真っ正面から取り上げ、その改革・大掃除を主張して政権を取ったのがまさに今の民主党政権である。そして民主党が戦後(ごく短い期間をのぞいて)常に政権を担ってきた自民党との差異化を図ることの出来るポイントもここに存している。その理由は言うまでもなく、官僚と一心同体となってしまった自民党に行政改革は実行できない(なぜなら行政改革は自民党そのものの解体をも意味するからだ)のに対して、民主党には行政改革を実行できる「可能性」があるからである。

反共(反共産主義)という看板も既に意味を失った21世紀に入ってこのかた、自民党の存立基盤が単に「政権与党である」というその事実のみにあったことは、自民党が野党転落後、かつての支持団体の離反に打つ手無く、また理性的・建設的な政治的主張すらまともに出来ない、ただ議場でヤジを飛ばすか与党の揚げ足を取ることしかできない見るも無惨な(議席数とは別の意味での)泡沫政党に成り下がっていることからも窺うことが出来る。一方で自民党の野党転落という事実からは貴重な教訓が得られた。その教訓とは、いま有権者から最も強く求められているのは「バラマキ」「財政出動」では無いという事実である。なぜなら財政出動いわゆるバラマキ政策ごときなら、海のものとも山のものともつかない民主党でなくとも自民党政権にでも出来たことでありまた実際に自民党政権が実行してきたことである。民主党はなぜ自分たちが選ばれたのか、なぜ自民党でなく民主党が選ばれたのかをもう一度問い直してみた方がよいのでは無かろうか。

もし民主党が、規制緩和や郵政民営化、対米追従外交、新たな市場経済といったものへの対抗こそが政権を獲得し得た要因であるなどと考えているようなら、民主党が自らの過ちを思い知らされる時期はそう遠くないだろう。もしかすると参院選に勝利して盤石の体制を確立してから取り掛かるのだなど返答が返ってきそうだがしかし、あらぬ方向に走り出しそうな気配のある民主党にさらに「追い貸し」すべきがどうかは判断の岐れるところとなるはずだ。

星新一は先のエッセイを次のように締めくくっている。

私は最近、対米開戦論をとなえている。勝てるとは思っていないが、それでいいのである。やがて進駐軍がやってきて、行政改革をやってくれるかもしれないからだ。怪獸ヤクショザウルスを退治できるのは、それ以外にないにちがいない。
しかし、まあこんなことは起りえない。官吏は永久に安泰である。電子計算機が発達しても、そのための官庁がふえるだけだ。(後略)

同 P264

(追記)
このエントリを読んで「官僚に抵抗しても無駄である」などと誤読する奴は、いっぺん死んでこい。という声を耳にした。その通り。

公務員ではなくリーダーとして

  • 2010年1月17日
  • キーワードタグ: 政治

政治資金問題を巡って改めて検察との対決姿勢を示した小沢幹事長に対して「信じています。どうぞ戦ってください」と述べたらしい鳩山首相、その後、野党その他の批判を受けて当の発言を若干修正した由。私はむしろ彼が首相になって以来初めて「リーダー」らしい姿を見せたと思った。たしかに行政府の長であるという観点からは批判の余地があるとしても、一党首として「信じる。戦いたいなら戦え」と述べること自体はリーダーとして当然の言と言うべきだろう。おそらく、もし彼が行政の長としての立場に重きを置いた発言をしていたなら、マスコミはかねてより言われていた二重権力構造に絡めて首相と幹事長との「仲間割れ〜」とでも書き列ねたはずだ。そもそも検察という組織がそれほどには(建前ほどには)首相すなわち行政府の長に対して従順でもなければ弱腰でもないことは、田中角栄の例やつい最近の鳩山氏自身の政治資金疑惑騷動からも明らかな、公知の事実ではないか。

これを機に鳩山・小沢の連携が機能しだせば民主党政権は今の党内体制を大きく変えることなく少しはまともな改革も実行できるかも知れない(ただ延命的なバラマキやあからさまな参院選向け政策はどうかと思う)。とはいえ民主党内の政策のばらつきや連立与党間の関係を見るにつけ、たしかに政界再編は必須だろうなと実感する。社会党社会民主党や旧社会党系民主党議員の発言を新聞で読む度に、「こういう人と議論しながら妥協点を見いだしてゆくことはまず無理だろ、だってハナから聞く耳持ってないもんね」と思うことがよくある(そうではなさそうな人もいるけれどそういう人に限って前回選挙で落選していたりするんだな)。
いや、書いた後で気分が悪くなる政治ネタはもうやめよう。

(以下、2010/01/27追記)

官吏は強し、か

  • 2010年1月16日

週末を
挟んで二日
経ったなら
疑惑は最早
既成事実か

(タイトルに「メモ」と入れるのを忘れた)

維新は遠くなりにけり

  • 2010年1月7日

杉山茂丸の著した『百魔』をようやく読み終えた。800ページを軽く超える人物誌はまるでスルメのように味わい深く、晩酌片手に読むには好適な一冊であった。1864年生まれの杉山が、彼の破天荒な生涯において関わりを持った有名無名の人物について手当たり次第に書き附けている。頭山満から始って、平岡浩太郎、品川弥二郎、星一、後藤猛太郎(象二郎の息子)・・・・・・と延々講談調で続いてゆく(なんでも留置場で同房者から講談を学んだ由)。ざっと勘定してみるとこの本の八割方はほぼ無名の人物について書かれている。無位無冠無職を誇った杉山の書いたものであることを考えれば当然なれど、日経新聞の「私の履歴書」とは全く趣きを異にする(当然です)。

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ところで最近大河ドラマ(幕末もの)が人気だとか耳にした(正確には、目にした)。総理大臣が国会冒頭「維新」を口にする時勢であることを考えれば、まぁそういうこともあるかもね、と思わぬでもない。私自身はNHKの大河ドラマを最後に見たのが何時なのか記憶にない。いまちょっとだけ思案してみれば、どうやら最後に(まともに)見た大河ドラマは太平洋戦争当時の日系アメリカ人を主人公とした「山河燃ゆ」(山崎豐子原作)だったような気がする。このドラマは1984年放送(Wikipediaで調べた)ということなので四半世紀前になる(まともな調べ物には頼りに出来ないWikipediaもことテレビや映画の記録としては大変便利で有り難い)。では何故に幕末・維新・時代劇を面白いと思えない私が昭和前半の歴史ドラマに多大の興味を覚えるのかをつらつら考えてみた。そしてひとまず達した結論はというと、時代劇(含む幕末もの)にはいわゆる「市民」が登場しないからつまらない、ということだ。

時代劇と云えばまあ御武家様が主役である。悪代官(これも御武家サマ)と結託する商人やら虐げられる百姓がほんの取るに足らない「その他大勢」として登場することはあっても端役はどこまでいっても端役でしかない。維新の元勲のように「御一新」以前は郷士だとか何だとかとして抑圧された人たちが主役であった場合も、その彼等の眼中には国家や天皇の行く末はあれど下々の名も無き百姓(ひゃくせい)は無いかの如きにしか描かれない(実際の所どうだったのかは知らない、もちろん)。一方で昭和前半の「軍国主義」の時代にあっては士農工商関係なく(まさしく十把一絡げに)国家というか社会というか集団化圧力というかそいういうものに大なり小なり抑圧される、と。つまりもし私がその当時に生きていたならば、(ただの土百姓である)私自身もまた無関係ではいられなかったわけだ。その相違点にこそ、私が明治以前の時代劇と昭和前半を扱うドラマとにそれぞれ共感を持ってみることの出来ない理由・出来る理由があるような気がするのであった。そんなわけで、維新がどうとか革命がどうとか戲れごとを言っている足下で「誰と言うことの出来ない”力”」が着実にそしてますます力を増していることを自分以外の人たちが今どのように考えているのかを私は是非知りたい、というか興味津々な今日この頃であります。つい最近のNHKドラマ「気骨の判決」を見逃したのが悔まれる。

以下ついでに。
開府以来300年もとい60余年の長きにわたり国政を預かってきた徳川幕府もとい自民党の支配の下、武士であって武士でない郷士もとい国会議員であって国会議員でなかった非自民諸政党が、経済発展の頭打ち人口構成の大変化という未曾有の国難に加うるに黒船もといグローバル経済の衝撃を奇貨として新たな政権を打ち立てることに成功した、と(あぁ息が切れた・・・)。で、ついつい維新の志士のイメージに自らの姿を重ねてしまうのであろうか、ね。
で、どうすんだ?

「キム王朝」と「財政改革」と「選挙の神様」

  • 2009年12月15日

この週末、録画していたドキュメンタリーを何本か見、一冊の本を読んだ。一度見た(読んだ)ものもあったし今回ようやく見たものもある。ひとつは北朝鮮の独裁体制成立にまつわるNHKのドキュメンタリー、ひとつは戰前の国会で”粛軍演説”を行った斉藤隆夫のドキュメンタリー、そして行財政改革に取り組み暗殺された浜口雄幸と井上準之助を取り上げた城山三郎『男子の本懐』。

北朝鮮の独裁体制成立の過程をたどったNHKスペシャルのシリーズ「ドキュメント北朝鮮」は2006年に放映されたドキュメンタリーということなので、丁度北朝鮮による日本人拉致がにわかにクローズアップされた時期に制作・放映されたわけだ。なかなか面白かった。一番印象的だったのは、金日成が(特に権力を確立するよりも前の時期に)彼の後盾であった各国の有力者に接するときのと立ち居振る舞いと金日成に対する金正日の振る舞いとがとても良く似ていたことだった。自信の無さ気な、相手に媚びるような視線・表情・態度がほんとうに瓜二つと言ってよいほどよく似ている。そして彼等二人がそれぞれ権力を確立した後の傲然とした態度がこれまた思わず笑ってしまうくらいに良く似ている。権力を握るまでの過程で見せる弱気とその後の豹変ぶりは、彼らが権力にのみ自己のアイデンティティを見いだしていることを容易に想像させる。その点で言うと、つい先頃までアメリカ合州国大統領として世界で最も強大な権限を握っていたともいえるブッシュ(息子)の、いかに一生懸命いかめしく見せようとしてもその能天気さが隠しようもなく滲み出ていた顔つきがとても可愛らしくすら思えた。

斉藤隆夫のほうもNHKだが、こちらは「そのとき歴史が動いた」というドキュメンタリーとしては出来の良くない番組(そもそもドキュメンタリーではないのかもしれぬ)なので、見た後に演説の詳細をネットで幾らか調べた。帝国議会の議事録がネットで閲覽できるようになっているものの画像ファイルのためテキストが簡単には抽出できないなのでここに引用しづらい。そこでネットで探索してみた所たいへん有り難いことに斉藤隆夫関係の情報をまとておられるサイトがあった。ちなみにwikipediaとは比較にならない程充実したサイトなのにgoogleではちょっとばかり見つけにくかった。

以下、同サイトより昭和11年5月衆議院における斉藤隆夫の「粛軍演説」前半部分を引用してみる。

敢然して国政改革の断行を誓わるるに当りましては、天下何人と雖も之を歓迎しない者はないのであります。併ながら翻って考えて見ますると云うと、国政の改革、国策の樹立、之を唱えることは極めて易いのでありまするが、之を行うことは中々困難であります。固より是等の題目は今日初めて現われたのではない、又現内閣の新発明でも何でもない、従来政府之を唱え、政党之を唱え又有ゆる政治家が之を唱えて国民に向っては何かの期待を抱かせて居たのでありまするけれども、之を具体化して以て其の実行に着手したる者は殆ど見出すことが出来ないのである。
——— (中略) ———
吾々は随分長い間行政刷新、即ち行政機構の改革と云うことを聞かされて居る、例えば省の廃合であるとか、或は無任所大臣を新設する、其他中央地方の行政組織を根本的に改革して、之に依って行政を簡易化する、行政を刷新する、行政費を節約する、繁文褥礼の積弊を芟除する、斯う云う議論は随分長い間聞かされて居る、政府も之を唱えるし、政党も亦之を唱えるけれども、今日までそれが実行せられた例はないのであります。
——— (中略) ———
或は又近頃各地に於て人権蹂躙の問題が起って居りますが、其事実を聞きますと、実に驚くべきものがある、所謂粛正選挙、選挙取締を励行することは極めて宜い事でありますが故らに……
(「内務大臣どうした」「大臣の出席を求めます」と呼ぶ者あり)
犯罪を製造するが為に法規を濫用して、濫りに人民の自由を拘束する、人民の自由を拘束するばかりではない、強いて虚偽の自白を求むるが為に之を虐待し、之を拷問し、或は人身に傷を負わせ甚しきに至っては拷問の結果、良民を死に至らしめたものがある
(拍手)
何たる野蛮の行為でありましょう

http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s13/
斉藤隆夫の演説記録を読みながら頭に浮かんだ言葉は「十年一日」。そして、齋藤の演説のほんの数年前に「構造改革」に取り組んだが故に暗殺された二人の政治家を取り上げた『男子の本懐』の読後感もまったく同様である。行政改革・財政健全化・国家の成長戦略といった争点は80年前のあの頃も今もまるで変化がない。「選挙の神様」までがよく似ている、安達謙蔵という人物の来歴を眺めていてふとそう思った。

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(2009/12/23追記)
国会速記録をもとに齋藤の粛軍演説全文をテキスト化してみた。:「斉藤隆夫「粛軍演説」全文(旧仮名旧字体)」

(つぶやき)死中に活有り、か?

  • 2009年11月26日
  • キーワードタグ: 政治

何が問題なのか、分からないようで、分かるようで、分からない。税金や企業にたかって鞄をふくらませる政治家よりも自分(の家)の財産を政治につぎ込む政治家の方が遙かにまともだよ。法令違反? もしそれが事実なら、まあそれは問題といえば問題だろうさ。理屈は分かる。しかしね、法令に則って悪事を働く悪党だって(公共団体の中にさえ)ぎょうさんいるご時世、「それはそれこれはこれ」だよ。
鳩山さんには、せめて(政治的な)討ち死に覚悟で斬り込んで欲しい。八方美人は”無駄に”身を滅ぼす。今のままではいつか「なんであんなつまらんことにこだわっちゃったのかね」と思うときがくるのではなからうか。誰一人として傷つくことのない「維新」なんてのはあり得ない(ような気がする)。
ただ、自分が重荷を背負っているわけでもないただのショーシミンの自分が言うのは口幅ったいというか申し訳ないと思わぬでなし。ま、ただの独り言だから。

お辞儀と国旗と国家

  • 2009年11月16日

嫁入りしてきたばかりの小娘に小姑があれこれ難癖をつけるようなことは、半世紀前ならともかくとして今の日本ではもうあり得ないのかもしれないけれど、それに似たようなことは相変わらずよくある。

鳩山政権が始動したばかりの時期に「内閣の誰それは国旗に一礼したがだれそれはしなかった」云々ということがあった。さすがに大手マスメディアでは取り上げられることもなかったようだが、インターネット上ではそれについて喋々しつつ「国旗に一礼しないとはけしからぬ」という主張(?)がけっこうあるらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=6YFLv7alaYI

こういうものは、自民党の残党どもが暇にあかせて書き込みまくっているのであらうか。先の衆議院選挙前のネガティヴキャンペーンアニメやらつまらない三行広告(これは総選挙メモとしてこのブログにその一部を記録した)などの前歴からして、それも無きにしもあらずという気がするなぁ・・・。

そもそも”国旗に一礼”という儀礼というか虚礼というか習慣を始めたのはどこの誰なのだろうかということが気になっている。こうした習慣もごく内輪の(「一礼あたりまえやろ〜」という人たちの集団)ものなら別に異論もないし、そもそも私自身出るとこ出たらやりますよ、そういうこと。ただ、それはあくまでもそれが自然な振る舞いだと感じられる限りにおいてのことであって、いつ何時も・誰もがそうすべきことだとは思わないし、ましてやそうした虚礼(おっと失礼!)を他人に強制したりしたくはないし、そうした虚礼(おっとまた失礼!!)を無視したり敢えて避ける人を糾弾しようとはまったく思わない。そしてまたそれはなにも国旗に一礼に限ったことではない。思いつく限りのあらゆることに関して、そうした「習慣の強制」は余計なお世話だし、薄気味が悪い。

ま、つまるところ(つまるほど書いてもないけど)、この国旗に一礼を始めたのはどっかの田舎の校長先生あたりではなかったかと勝手に想像している。で、たぶんそういうことを頼まれもしないのにやるような人は戦争中には他人を非国民とののしり生徒を戦場に喜んで送り込み、いざ戦争が終わったらコロリと転向して民主主義を語って得々としているような人間だろうな、と思う。国旗に一礼という習慣が決してそれ自体は悪いことでも非難されるような習慣でもないのだとしても、そうしたあれこれをさもそうするのがあたりまえで、そうしないやつは礼儀を知らんとか非国民とか変わり者とか言って他人をののしるような仕儀は既にそうした心性自体が礼儀からも道徳からもヒューマニズムからもかけ離れているのではなからうか。

この国旗に一礼のあれこれについてネットのどこかで見た後に、ふと見たテレビのニュースで今の防衛相(北澤なんとかさん?)と来日したアメリカの国防長官との面談風景が映し出されていた。一連のシーンの中で両国の国旗を素通りする米国防長官の後ろで国旗に一礼する防衛相が映っていたのをみて、感心するよりも先にその杓子定規な振る舞いからは、先に書いたような校長先生の滑稽な姿を連想させられたのであった。私はそのときの国防長官の振る舞いを失礼だとはそもそも思わぬが、なんなら「アメリカの国防長官は素通りしたのに我が国の防衛相だけが一礼するなどということは国家の体面上はなはだ怪しからぬ!!」とまぁ言えなくはないのだろう。しかしそもそも或る場所に居合わせたとして、そこにいる誰か一人でも「国旗」なり「ご真影」なりに一礼してしまえば、もうほかの人たちもなんとなくそうせざるを得ない雰囲気になってしまうのが日本人の習性でもある(違うか?)。その伝でいくと誰かに何かを(たとえば国旗に一礼とかを、ね)暗黙のうちに強制してしまうような振る舞いは避けるというのもまたスマートなやり方だと言えなくもない。なんだかだらだら書いている割にわかりにくくなってしまったが、要は、自分自身にとっては当然あるべき振る舞いであったとしてもそれを他の人に押しつけたり(暗にでも)強いたりするような真似は(躾や教育は別として)決して褒められたものではないぞ、とそう言いたい。

そしてそれをひっくり返せば、たとえ外交儀礼から見れば疑問符がつくようなことであっても人間儀礼(人としての礼儀)という観点から見ればとても好感の持てる振る舞いもあるな、と思う。立場や地位はさておき年長者を敬う(敬うような振る舞いをとる)という彼(か)の国の習慣を尊重する、郷に入れば郷に従うというような立ち居振る舞いは単に年長者を敬うということそのものよりもなお礼儀にかなっているように思う。表面的なものだけに目を向けてあれこれ難癖をつけるのはちっとも難しくない(それこそ阿呆なちんぴらにもできるような)ことである。もちろん、アメリカ人の視点で見れば「ちょっとどうかね、それは・・・」となるのも理解はできるし、当然の反応ではあるかもしれない。ただ、見る人によっては”卑屈な態度”ともとられかねないオバマ大統領の一件は、少なくとも私にとってはアメリカという国の印象をいささか変えるだけのインパクトがあった。

自分が大切に思っているもの(こと)を自分と同様に大切に思ってくれるという態度、あるいはまた或る人が大切に思っていることそれ自体を尊重する態度というのは、まさしく礼にかなっていると言ってよいような気がする。それはまた国旗に一礼するもしないもあくまで当人の意志に任せるのが本来の「礼儀」にかなっていると言うべきことのように思われるのであった。

FOXテレビは15日、オバマ大統領のお辞儀の場面と、2年前に当時のチェイニー副大統領が天皇陛下との面会で頭を下げずに握手する映像を比較。その上で、オバマ氏の今回の行動は「大統領として適切ではない」などと批判した。また、ロサンゼルス・タイムズ紙のウェブサイトは、今回の皇居訪問の際の写真と、オバマ大統領が4月にロンドンでの国際会議で会ったサウジアラビアのアブドラ国王に深く頭を下げたように見える写真を掲載して、「新しい米国大統領は、世界の王室にどこまで低姿勢で行くのか」と皮肉った。

「オバマ大統領の両陛下への「お辞儀」、米で波紋」(Yahoo ニュース)


コメントの数がすさまじい・・・

(お知らせ)個別エントリの表示不具合解消

  • 2009年11月11日

先日ちょっといじったときのミスが原因でブログエントリごとのmeta descriptionが露わになって(表示されてしまって)いたので修正。

目にとまったニュースをひとつだけメモ。取り調べ可視化と信頼関係構築論について。
「前警察庁長官が可視化で反対論 「取り調べを大きく阻害」」(キャッシュ)

吉村氏はこうした取り組みを紹介した上で、可視化が導入されれば被疑者との信頼関係を築いて供述を引き出すことが困難になり、事件関係者のプライバシーが公になる恐れから被害者が申告をためらう憂慮があると指摘。「すべての過程がオープンになったのでは、成る話も成らなくなる」と再考を求めている。

「信頼関係を築いて供述を引き出す」? 「恫喝・脅迫・詐術を用いて供述をでっち上げる」という方が適当なケースもあるだろうに。あったでしょ?。あまつさえ・・・(以下略)。
また後日書いてみるとしよう。

一ヶ月ぶりのブログ更新

  • 2009年10月17日

「ごめんください〜・・・・」。とと、一ヶ月も放置してたせいか、我が城のはずなのに何となくよそ行きの気分になるなぁ。
季節が変わろうと政権が替わろうと、こちとら何にも替わらず日々細々と生きております、はい。金にもならないことにかまけてブログの方もご無沙汰しておりました。「あ?地方分権??寝言言うなぃ」などと言ったばかりに土人の闇討ちにあったわけではありませんのでご心配なく。と、またなんだか憎まれモードになりそうなので気をつけとこう。
実際、しばらくブログを更新していなかった理由はそこらへんにあるのでした。つまりこのところなんとなく生来の毒舌に歯止めがきかないような「勢い」があったため、敢えて衆人環視のブログに書くことを避けていたのであります。どうやらまだその気配があるようなので今日は安全運転に徹することにする。毎回毎回うるさく書いてオオカミ少年見たくなりたかないので、何事も潮時を見極めながらやってゆくつもりであります。

さて、ここ一月の間の大きな出来事といえば民主党政権の誕生(遅れちゃってる?)ということになろうけれど気になるのはやはりその行く末(政権の行く末ではなくそれによって生じる変化の行く末)であって、ぼちぼちその方向性が見えてきたように思われる。そして新政権誕生という出来事自体はもう風化しつつあるということ(当然か)。したがって政治云々について書くことはしない。ではこの一ヶ月の間に何を考えていたのであるか・・・と自問してみるが、やはり大したことは考えもせず行いもせずという結論に達する。書も読まず映画も見ずウェブ上のやりとりにもいささか食傷気味で、唯一テレビで水谷豊の単発ドラマ「誰かが嘘をついている」を見ただけの一月であった。よってそれについてひとこと。

作り話を大まかに二分して、一つは実際よりも大げさに描くものと実際の話を(なんらかの都合に合わせて)一部だけ作り出してみせるものとに分けてみた場合、このドラマは明らかに後者であった。唯一、ドラマのクライマックスで偶然に「無罪の証拠」が発見された事なきを得る、という箇所のみは前者(ま、ふつうそんなことは有りえんだろという部分)であった。ただ、「無罪の証拠」がなければほぼ確実に有罪になってしまう、というドラマの台詞はまさしく現状を端的に表現していたと思う。同じくドラマの台詞にあったように、やっていないという証拠がなければ有罪とされるのは作り話でも何でもない事実であることは疑いを入れない。その点、先日出た福島県知事の「汚職事件」の高裁判決もまた興味深いものであった。一部で国策捜査と非難されているらしい福島の事件では東京地検特捜部が非難の矢面に立っているが、ことは既に東京(中央)だけにとどまらず地方に於いても同様である。それはかならずしも国策捜査ということではなくて、あらかじめ作成されたストーリーに物事を強引に押し込めるあれこれという意味である。

以前このブログで対話とディベートについて書いたことがあった(*1)が、まさしく相手をたたきつぶすためだけのディベート、それも相手方の手足を縛り上げ口をふさいだ挙げ句に為されるディベート(それをディベートと言えるかどうかはともあれ)が今の日本社会におけるデファクトスタンダードとなっている。(はなしはさらに広がるが)そうした状況下に取り調べ可視化への反対者から為される「信頼関係構築論」(*2)はもうブラックジョークでしかない。

国家にしろ組織にしろ個人にしろ、過去の失敗から学ばず、体面も権威も世論の支持をも失わずにどうにか切り抜けようとする行き方は、早晩行き詰まることになるだろう。実際のところそうした行き詰まりを薄々感じている者はその失地を何とか回復しようともがけばもがくほど窮地に陥るであろうことに一日も早く気づいた方がよいと思うが、金銭に対する欲望に見られるが如く、およそ欲望といったものはそれが何に対するものであれ限度というのを知らないことも多分事実に相違ない。私だって脛はそれほど綺麗じゃないからね、それくらいのこたあ分かりまさぁね。
こういう物言いを見つけるや否やまるで鬼の首でも取ったみたいに訳知り顔で語る奴は逝ってよし、だぜ、佐藤さん。

(追記)
フィードを一部配信から全文配信に戻しました。

痴呆地方の大合唱

  • 2009年9月17日
  • キーワードタグ: 政治

今日9月16日、鳩山新政権の発足した。新閣僚のメンツを見る限りとても清新な印象だとは思えないが、あの安倍内閣ですら「清新」イメージで売っていたのを考えてみれば、強いてそう言って言えなくもないのか。8月末の総選挙以降今日まで、ときどき新政権移行についてのニュースを見聞してきた。それらについての感想らしきものをここにメモしておく。

ほんの2.3年前まで、日本列島では構造改革の大合唱が聞こえ、誰も彼もがそれを「良きこと」のように言い習わしていた。むろんそうでないものもありはした、いはしたけれどそうした声はたいてい多勢の声にかき消されがちであったと私は記憶している。構造改革を念仏のように唱えて前々回の総選挙に大勝した小泉首相の時代には構造改革が主旋律を奏でて、安倍時代には国家主義がそれに取って代わり、参議院選挙での自民党大敗をしおに政府与野党地方自治体上から下までセーカツシャ・チホーの大合唱、リーマンショックその後の景気後退も相まって「地方の・・・ために」「庶民の・・・・のために」という言い分に異論をぶつけることがはばかられるような空気が、そこはかとなくただよっている。いつものことながら、「あれかこれか」「右か左か」「猿かチンパンジーか」をヒステリックに騒ぎ立てて、我が田に水を引こうとする理屈ばかりが耳に入ってくる。「地方の疲弊は深刻なんじゃ!」「そうしないと生活できんのじゃ!」と言われたら「はぁ、そうですか」と答えるしかないわけだが、それならばその「地方」「生活」とはいったい何なのだ?ということをもう一度考えてみたいと思う。

民主党が政府の無駄遣い撲滅を旗印として本年度の予算執行の一部停止を持ち出したことに対して地方は予定通り執行する、いまさら(金は)返さない等々愚図愚図とした文句を言っている。返さない・返せない理屈はいくらでもつけることができるわけなので、それについてあれこれ言うことはしない。ただ、地方の首長にせよ議会にせよ、子供じみた物言い・振る舞いはいいかげん目に余る。

定期便ゼロの危機 日航が松本空港撤退検討
経営再建中の日本航空が、12年3月末までに県営信州まつもと空港(松本空港)の路線運営からの撤退を検討していることが明らかになった16日、関係者に衝撃が走った。同空港で定期路線便を就航させているのは日航だけで、撤退となれば、300億円以上をかけて造った県民の空港から、定期便が姿を消す事態になる。
 松本空港の定期便は、大阪(伊丹)便が毎日、札幌便が週4日、福岡便が週3日あり、いずれも日航グループの日本エアコミューターが運航している。だが、今年7月の利用率は伊丹便で39・5%(前年同月51・6%)、福岡便で45・3%(同46・2%)と低迷。札幌便も76・0%(同84・7%)にとどまる。
(中略)
 県内の関係者は戸惑いを隠せない。村井仁知事は16日、「まったく聞いていないのでコメントしようもない。松本空港と日本航空は、これまで運命共同体的にやってきた。不採算の便が議論になるのは当然だが、縮小すればいいというものではない」と話した。
 県交通政策課の小林利弘課長は「日航が持っていた国内の航空ネットワークが地方に果たした役割は大きい。国、地方も含めて、これをどう維持するのかという議論も進めて欲しい」と訴える。雇用への影響についても「松本空港には地元の従業員も多い。影響は大きい」と心配する。
(以下略)

asahi.com

談合が発覚して指名停止になった土建業者が「現下の経済情勢下、従業員への影響が大きいので指名停止を解除してもらいたい」などと居直るいま、この松本空港の記事の中にも雇用・従業員への影響甚大をあげて難色を示している。ご承知の通り、似たようなことはこの件に限らずともいま日本全国津々浦々首長議会住民が口にする(と報道されている)。理屈はどこにでもつく・つけれられる。需要が少なく経営が成り立たないと分かっていながら無理矢理公金を投入して建設した空港が日本にはいったいいくつあるのだろうか。また空港以外に同じように甘い需要予測・過大な経済効果予測・公共投資という名目の土建業者経由政治資金調達がらみの案件はどれほどあったのだろうか。おそらく数え切れないほどある。そして経営余力の乏しくなった民間企業が撤退を口にしたとたんに「不採算の便が議論になるのは当然(経営の効率化はそりゃ大切)だが、縮小すればいいというものではない(俺らんとこでやられちゃ困るぜ)」とくる。いささか意地悪な書き方をしてしまったが、この知事さんの正直な気持ちであろうと思う。そしてこれは何も長野県だけの話でないのはおよそ想像がつく。放漫財政・国や官僚のやっていることと寸分違わぬ天下り、地方でもやっていることは当然のことながら「ミニ日本」であって、とてもではないが国ばかりを批判できそうもない。しかしなぜか今、「地方」を語れば桶屋が儲かる。

まとまりがなくなってきたので切り上げるとする。
金がないから財源をよこせ、という前にリストラ・緊縮財政・天下り廃止など地方自治体・議会がやるべきことは山ほどある。
「分権なんざ百年早い。顔あらって出直せしてこい

すると自治体は恐らくこう言うだろう。「じゃ、財源が無いから行政サービス切り下げます」と。
そして住民はといえば、「財源のない自治体の行政サービスが低下するのは当然だが、切り下げればいいというものではない」と乾いた声でぼやくも、その言葉を聞いてくれる者はもはやどこにもいない、ということになるのだろう。

末弘厳太郎「役人学三則」

  • 2009年9月6日

第二条 およそ役人たらんとする者は法規を楯にとりて形式的理屈をいう技術を習得することを要す。

第三条 およそ役人たらんとする者は平素より縄張り根性の涵養に努むることを要す。

末弘厳太郎「役人学三則」(青空文庫)
***
第四条 およそ役人たらんとする者は決して自分の非を認めぬ石頭であることを要す。
第五条 およそ役人たらんとする者は自らのしくじりを他人に帰して保身を”謀る”厚顔さを身に付くるを要す。
(以下略)
と、こうして書いてみていると「役人」の部分を「チンピラ」と書き換えてもそのまま通じそうだなという気がしてくる。
いや、もちろん「役人すなわちチンピラ」であるなどと言うつもりは毛頭無い。というのも、この手のチンピラのような役人はしばしば見受けられる(地域的特性か?)いっぽう、役人のようなチンピラ(!)にはまだ会ったことがないから。

(メモ)2009年総選挙備忘録

  • 2009年8月31日

昨日の選挙の結果、民主党が単独過半数獲得。自民党惨敗。
今回の選挙、特に自民党の苦戦が報ぜられていたが、あまりにも当然のこととして我が耳を素通り。
事前の、細々とした選挙情勢報道は、食事を終えた後に出される頼みもしない椀子そば。唯一、自民党がインターネット・新聞等に出稿した広告だけに目がいった。自民党の苦戦、というよりは「打つ手皆無・・・」の状況がありありと映し出されていて、良くも悪くも興味深かった。
以下、その一部を記録しておくとする。

(以下、掲載日順ではなく順不同)

景気回復を止めるな。
日本を壊すな。

回復への兆しが、またひとつ。
15ヶ月ぶりにGDPが年率3.7%に上昇。
自民党

継続は、力なり。
大きな賭けより
確かな政策こそ
景気回復への道。
自民党

日本を考える夏にしてください。

民主党による
「子ども手当の創設」
 ↓
増税になります
配偶者控除・扶養控除や児童手当が廃止になります。
子どものいない
専業主婦世帯は増税に。
よく考えてください。自民党

民主党による
「25%のCO2削減目標」
 ↓
各家庭の負担が
36万円増
目標達成のためには、
総合的な政策が不可欠で、
例えば、住宅への
太陽光発電の義務化、
次世代自動車以外の
購入禁止などの実施が
必要に。
よく考えてください。自民党

民主党による
「年金制度の一元化」
 ↓
自営業・農業者
イジメ
自営業者や農業者も
収入の15%が保険料に。
年収約400万円の場合、
現在の保険料から
月額5万円以上に。
よく考えてください。自民党

(2009/09/03追記)
確定投票率69%(前回総選挙67%) 
[※総務省発表データから端数切り捨て]

気がついたら英国病

  • 2009年8月26日

英国病と言ってもマーガレット・サッチャーが克服したと言われるアレのことではありません。選挙を目前に控えた今の日本でなら、そっちの英国病のほうが面白い話題ではありましょうが、政治にも経済にも疎い私がそのようなことを書かずとも興味深い読み物はたくさんあるでせうから。今から書くことは私の個人的一時的英国病にすぎません。あしからず。
というような導入にするとなんだかちょっと気合いを入れて書かなければならないような気がしてきた。
ナムナム・・・・
・・・・「ハイッ!」。
えぇ、肩の力が抜けました。だいじょうぶです。

えー、数週間前にハックスリーの『すばらしき新世界』を手に取ってからというものふと気がつくとなぜか英国人の書いた本や英国に縁のあるページばかり読んでいる自分がいる。特にジョージ・オーウェルとハイエク。オーウェルの代表作『1984』はもちろん読んだし、ネット上には彼の書いた評論その他が結構見つかるのでそれも読みつつある。ハイエクも同様。オーウェルを読むにしろハイエクを読むにしろ、いずれにしても私自身の興味の的は”個人と社会との関わり方”の部分にある。というよりもむしろ「あ、面白そうだ」と思うものはたいていそのあたりのことをテーマにしたものが多いと言った方がよさそうだ。ここ数日読んだもののなかでは、オーウェルが書評としてジャック・ロンドンやアーネスト・ブラーマ(ブラマー)と絡めて資本主義と社会主義との共通項(共通する危険性)について語った「ファシズムに関する予言」 (注:我訳です)は、彼がそれを公表したのが1940年という事実を考え合わせるとまさに予言だなと思わせれ、また、ハイエクが「法の支配の衰退」(注:これも我訳です)のなかで引用したアリストテレス『政治学』の一節、「全精力を選挙での得票に注ぎ込むようなあらゆる権力体制は(中略)厳密に言えば民主制とは言い難い」 という一節には「だよね」とうなずく。
ああ、頭がかしこまってきたなぁと思って、さて布団に入って「さぁて」と手に取った本はこれまたシェイクスピアの「夏の夜の夢」だったりする今日この頃でありました。
わるくない。

ながいつぶやき

  • 2009年8月9日

なけなしの財源を旧態依然のばらまき政策で費消した政党の党首が”責任能力のある政党”だかを主張する説教強盗的滑稽さ、とうに旬を過ぎたゲーノージンの薬物使用疑惑で特番まで組んで大騒ぎする白痴的滑稽さ、昨日自分が言ったことも記憶してないかのような刹那的な生き様こそがまっとうな生き方でもあると言わんばかりのあれこれに、べつだん文句は言わない。やはりもう既に後戻りの出来る地点ははるか彼方に過ぎ去ったのだろうと思うだけで、それ以上何も言うことはないね。

次期政権党の呼び声高い野党もまた、ドブ板選挙などと称して既成の利権団体にすり寄ることで、”責任能力のある政党”との差異を希薄化させて、結局、総選挙の結果は人が言うほどの新しさは無いのではないかという思いが日々募る。もし驚くべき事態が生じるとするならば、むしろ選挙の後だという気もする。民主党分裂!とか。所詮は烏合の衆・・・かもしれない。
「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫」だ。

いっぽう、地方の首長たちがブンケン分権と寝言のように繰り返しているのもどこかに滑稽さがつきまとう。財源をよこせ、でないとうちの自治体破綻しちゃう、とさ。「地方自治」という化けの皮を被った半端な地縁血縁共同体なぞさっさと潰してよし。首長・議員・公共工事にすがる利権企業団体、その整理はいったいいつやるのか、それともやらないのか。これまた説教強盗の臭いが強い。国がやろうと地方がやろうと、利権あさりの挙げ句は財政破綻に決まっている点で違いはほとんど無い(但し、収入が増えないとすればのハナシ)。この点。課税はたまた苛税でその破綻が先送りされるであろうこともまた疑いが無い。
まあ、そんなことはどうでもいいがメモついてに書いておくとする。
結論としてはやはり「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫」だ。

で、最近読んだ本。

  • オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)
  • ハックスリー『すばらしい新世界』(講談社文庫)
  • 田中清玄ほか『田中清玄自伝』(ちくま文庫)
  • 木村達雄『透明な力〜不世出の武術家佐川幸義』(文春文庫)

りきんだ力なんて自分が感じるだけで相手になんら影響を与えない。単なる自己満足だ

木村達雄『透明な力〜不世出の武術家佐川幸義』
ああ、スッキリした。

久しぶりのコメント

  • 2009年2月9日

といってもこのブログへのコメントの事じゃあない。昨晩、「大学運営がビジネスライクになった本当の理由」という記事(正確にはそれに対するコメント群)を読んでいてフトコメントを投じたくなった。例の如く、いざ書き出すとコメントとしては図抜けて「長文」になるので、極端なくらい省略してコメントしてみた。いずれもう少しそのコメントを敷衍して書いてみたいと思ったが今日はやめておく。ただ、一言で言うなら、金払ったぶん、ちゃんとした(就職できるような、金が稼げるような、はたまた払ってやった学費分の)教育をしなさいよ!」というのはちょっと(大いに)違うのではないかな・・・、ということ。教えは請う(乞う)ものであって”要求”するものではないと私は考えている。学費なんざ所詮は薄謝に過ぎぬ。もしも、対価に見合うものを要求する「商い・取引」と「教育」とを同列に扱うのなら、学費はもっと高くて然るべきとさえいえるのではなかろうか。だいたい、頭(ず)の高い生徒の鼻っ柱が先生によってへし折られるところから教育は始まるのだともいえなくはない。

とはいえ当今、生徒にからかわれて激高したあげく感情的な体罰を生徒へ加える教師もいるがために、味噌糞いっしょくたにされ「強い」指導は目の敵にされ生徒の頭はますます高くなる・・・。やれやれ(一言じゃ終わらなかったか)。

(一言)泥舟とニッポン

  • 2008年12月22日
  • キーワードタグ: 政治

「景気優先!」という口実で借金(国債)を積み増し、積立金を取り崩し、最後の賭博。戦を経ぬ「敗戦」と、新たな「戦後」がやってくるのであろう。
「きっと神風が吹く!」「景気は回復する!」「お宝が絶対出てくる!」と、もはやどうにもならぬところまで行ってなおかつ「あいつのせいで・・・クソっ!」と責任転嫁。
これが日本の”常道”。
小泉は確かに自民党をぶっ壊した。そしてぶっ壊れたのは自民党だけではなかった。もっとも、小泉の言葉や力だけでそれが壊れるはずもない。小泉の背後には大勢の人間が控えていた。陰謀論とは無縁の大衆が控えていた。
右へ左へ迷走する現代日本。現下の現象だけ見れば事態は既に末期的とすら言える。ここからさき必要になるのは、モノでもカネでもない何かだと思われるが、それが何なのか書くことは叶わない。
お経ばかり書いてると窮屈になるので一言書いてみた。

現代の鬼平はいないのか

  • 2008年11月28日

今朝の朝刊にて、佐賀県武雄市内で昨年起こった、暴力団組員による入院患者射殺事件の控訴審に関する記事を読む。

そもそも控訴理由は、検察被告ともに一審判決の量刑不服としている。そこでひとつ気になるのは、被害者との間に示談が成立していることが一審の量刑に反映されていることである。もちろん、示談の成立により刑が軽減されていること自体になんの不思議もない。しかし、本件については、被害者遺族の被害感情はすこぶる強く、そのことについてことある毎にマスコミも報道している。今朝の控訴審に関する記事でも被害者の未亡人が敢えて顔をさらして、犯人への強い処罰感情を吐露しておられた。その処罰感情の強さは、何も今に始まったことではなく、報道によれば遅くとも一審の段階から、そして実際には、事件発生当初からのものであると考えるのが妥当であろうと思う。チンピラ暴力団が「ひとちがいでした〜」「いまでも組関係者とおもってまーす」等々再三再四供述を変遷させて、「反省してます」と言う一方で量刑不服で控訴しているという状況のなか、被害者遺族の処罰感情はますます募っているのが現状だろう。

しかしなぜそもそも被害者遺族は示談に同意したのであろうか。その点について、私は一審段階から疑問に感じていた。なぜなら「強い処罰感情」と「示談の受け入れ」とは両立しがたいと思うからである。強い処罰感情を持った遺族が、何故量刑が軽減されること疑いのない示談に同意することになったのか。当時、すなわち一審段階でその報に接した際に私が立てた仮説は、示談を決める時点で、遺族は示談成立が量刑の軽減につながることを知らなかった、あるいは知らされていなかったというものであった。

そもそもごくごく普通に生活している市民にとって示談成立=量刑軽減となることは常識的知識とは言えない。この事件発生後、佐賀県警は捜査本部が置かれた武雄署内に被害遺族の世話をする係を置いたとの新聞報道を記憶している(参照すべき記事を探すが見つからないので後日追記したい)。なにせこの件は事件発生直後に警察庁幹部が捜査本部を訪れて事件解決を督励するほどの社会的影響甚大な事件であったから、そうした世話係の設置も私には当然と思えた。しかしそれならば何故その担当者さらに言えば佐賀県警は、遺族に対して示談の成立が量刑の軽減につながることを教示しなかったのか。ここに私の大きな疑問がある。またぞろ「民事不介入」とでも言うのか? 理屈としてそれが決して立たないものでもないが、もしそれが事実ならそれは背信行為と言うべきである(論証省略)。

事件発生以降、この事件に関する報道を見ていると、どういうものだか、佐賀県警の対応の不自然さが言わず語らず浮かび上がってくるように思えてならない。しかしその理由は分からない。いまのところ、それは佐賀県の風土というものであろうと考えていちおう納得している。

ラクダ色のセーターに濃い茶色のズボン姿で出廷した今田被告は、被告人質問で「重症の肝硬変で余命1年しかない」と自らの病状を説明。「(宮元さんの)家族には申し訳なく思っている」と反省の言葉も口にしたが、発言のほとんどは「供述調書の日付が書き換えられた」といった不満の繰り返しだった。 一方、黒いスーツ姿で意見陳述した篤紀さんは、裁判長から証言席に座るよう促されたが、「被告と同じいすに座りたくありません」と強い口調で拒絶した。意見陳述は、A4判の用紙6枚に及んだ。宮元さんの一周忌法要を営んだ10月中旬から準備を始め、寂しさに耐える2人の息子たちの思いも込めたという。篤紀さんは、1審・佐賀地裁が懲役24年の量刑判断の理由の一つとした道仁会との示談について、「判決に影響することを判決後に初めて聞いた。知っていれば示談はしなかった」と述べ、示談金には手を付けていないことを明かした。

「患者射殺控訴審初公判 夫失ったつらさ切々と意見陳述で涙の訴え」(2008年11月28日読売新聞)


(2008年11月28日追記)その後、示談に関して別の新聞に次のような記述を見つけた。

道仁会との示談については弁護士に一任していたことを明かし「お金を返せば刑が重くなるのなら、返してしまおうとも考えた」。

「凶悪事件防ぐ極刑を 入院患者射殺事件で遺族陳述」(佐賀新聞)[キャッシュ]

なるほど、この弁護士の氏名を是非知りたいものである。そもそも刑事事件に際して被害者が弁護士を立てることはそれほど一般的なことであろうか・・・。どのような経緯で受任したのか、なぜ示談に応じたのか。またひとつ疑問が増えた。ついでながら、佐賀新聞に関する個人的評価はこのブログの他のエントリを参照願う。


(2009年2月5日追記)
平成21年2月、福岡高裁にて無期懲役判決。
武雄射殺二審は無期 一審懲役24年破棄 遺族感情に配慮 福岡高裁判決(西日本新聞)


(2010年3月11日追記)
平成22年3月、最高裁が被告の上告棄却決定(3月8日付)。
佐賀の人違い射殺事件、元組員の無期確定へ(朝日新聞:2010年3月10日20時2分)

ブッシュからオバマへ、か

  • 2008年11月5日

アメリカ合衆国大統領選挙でオバマが当選したのだそうで。
先のことは分からない。
それはそれとして、もしもあのテキサス出身で飲んだくれの原理主義者のぼっちゃまが大統領にさえならなければ、今でも生きていることのできた人たちが数千、数万、数十万人といるような気がする。同時にまた、もしもあの男が大統領にならなかったなら、アメリカも今しばらくは世界で幅をきかせることができたような気もする。
アホは大統領になってもやはりアホのまま。
そうね、安倍さんが辞めたときと似たような気分。

ほんと歴史はクリカエス

  • 2008年9月21日

ろくでもない出来事ばかりが見聞される今日この頃、暇さえあればC.G.ユングを読んでいる。とはいえ、その暇も今のところ余り無い。なにせ農繁期でもあるので、ここぞとばかりにせかせか働いている。疲れた身体を寝床に放り込んでユングを読んでいると、何とも言えず気持ちが落ち着いてくる。ちなみに今読んでいるのは『現在と未来』。ここ数ヶ月、こればかりを何度も何度も読んでいる。

自民党総裁選は、名ばかりが知られた泡沫候補たちと、「国民的人気を誇る」本命候補による出来レース状態であると新聞にはある。歴史はクリカエスノデアルナア・・・、と安倍さんの顔を思い浮かべながら嘆息する。「国民的人気」とはすなわち「これといった理由もない、なんとはなしの、単なる雰囲気に過ぎない人気」ということだと私は考えるが、自民党の人々はその程度の、埒もない人気者にあやかろうとゴチャゴチャやっておられるのだそうである。実体の伴わない「国民的人気」に賭ける自民党議員と、実体の伴わない(過剰に抽象的な)マネーゲームとその破綻とが、私の目にはだぶって見えてしようがない。巨大投資会社の破綻の次には、自民党の衆院選惨敗と下野というニュースが飛び交うことになるのだろうか。ありそうなことだ。

一口に国民的人気といっても、オリンピックの金メダリストやメジャーリーグのイチロー選手に向けて言われる「国民的人気」と政治家に向けられた「国民的人気」とは全く似て非なるものであることは、恐らく多くの人々の感じるところであると思うが、なぜだかそのような言に接したことはそれほど無いような気がする。

”政治家と人気”に関して言えば、ヒトラーだってムッソリーニだって当初は「国民的人気者」であったというちょっとした歴史的事実を知る者なら、「人気」というものが如何にあてにならないものなのか知らないはずはないだろうに、我が身かわいさ票欲しさ目先の欲得目当てから人気者に群がる(一部の)自民党議員たちは、もう見るも無惨と言う他はない。ただ、それでも私は、衆議院選挙を間近に控えた今だからこそ、「イツソノコト麻生(太郎)サンニ早イトコロ政権ヲ取ツテモライタイモノデアルナア」と思っている。

と、そんなこんなを考えた後には、ユングの一言々々がまことに溜飲の下るものに思われるのでありました。

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馬鹿正直から正直馬鹿へ

  • 2008年8月31日
  • キーワードタグ: 教育

今月6度目の更新であります。来月はいま少し・・・。

サーバーの引っ越し作業はまるで進捗していない。表札(アドレス)だけ変わったものの、相変わらずseesaaブログにお世話になっております。お知らせには「当面旧アドレスでもアクセスできます」と書いておいたが、なんとなくズルズルとこのまま居残ってしまいそうな気がしております。なにせseesaaは使い勝手が良いもので。
他の無料ブログサービスも試しにいくらか触ったことはあるものの、どうもしっくりこなかった。一時期鬱陶しかったコメントスパムも、投稿時にアルファベット入力する認証をかけてからというものパタリと止んだ。なんといっても「ゴミ」の相手をしなければならないことほど無駄なことはない。
ゴミはゴミ箱へ。

矢部弁護士のブログを読んでいたら、朝日新聞の記事から次のような箇所が引用されていた。

小学4年の担任という女性(40)は「『正直な人になろうね』と言っても、『正直なら損をしてもいいの?』と聞き返される時代。(Asahi.com, 2008年8月30日)

ありそうなことだ。ところで私には、彼女にとって「損をする」とはどういうことなのか、少し気になった。
気になっただけ。

金を損する(或いは儲けそこなう)くらいのことなら何と言うことはないけどさ。いまどきそれどころじゃないだろうな。「馬鹿正直」という言葉にはどこか可愛げもあるが、「正直馬鹿」には侮蔑的な臭いがする。俺だけか?
逆は常に真ならず。

そう遠くないうちに学校で「正しい嘘のつき方」でも教えるようになるのだろうかね。
正しい嘘ってな、ヘンだな・・・。ヘンだろ。

ありあわせですけど

  • 2008年8月23日

以下、時々書き込みさせてもらっている別のブログ向けに書きかけた記事だが、書き進むうちにどうも「自分らしきもの」が出過ぎてしまい、いっそこちらのブログに書き込んだ方が適当に思われてきたのでこちらに投稿することにした。(このブログの普段の記事に比べればだいぶん穏当な内容だと思うがそれでもちょっと駄目なのだ。ほんとうは今日のうちに彼方の方に一本書いておきたかったんだけど。)

アメリカでアルカイダによる(とされる)9・11テロが起こった日のことは今でもよく覚えている。もうもうと煙を吐くツインタワー、崩れ落ちるツインタワー、姿を消したツインタワー。今から考えてみると、ツインタワーの崩壊と時を同じくして、「自由の国アメリカ」「民主主義のお手本」(という幻想)もあっけなく崩壊したような気がしている。

2008年7月に発表されたDHSの2つの政策によると、税関当局は、「米国に入国、再入国しようとする者、米国を出国、通過しようとする者、または米国に居住しようとする者が運ぶ情報」を、(当然ながら)日常的に押収、コピー、「分析」することができるという

「国土安全保障省、ノートパソコンの押収を無期限に可能に」(CNET)

この記事によると、米国国土安全保障省(DHS)つまりアメリカ政府は、パソコンを持って出国もしくは入国しようとする場合はパソコンに記録されているデータを検査・コピーしようと計画しているのだそうである。もちろんこれは出入国者全員のパソコンを検査・コピーするというわけではなかろうが、それにしてもただごとではない気がする。
もちろんテロを防止するという目的そのものは首肯されるにせよ、今、パソコンは一種の「人工脳」「外部脳」とも言える使われ方をしている。パスワードやIDなどの個人情報が入っていないパソコンなんてそうそう無いのではなかろうか。ましてやわざわざ海外から(叉は海外へ)持参しようというほど手元から手放せない手放したくないパソコンの中には、個人にとってはなはだ重要なデータが満載されていると考える方が理にかなっている。はたして他人の脳みそを覗いたりコピーしたりする(かもしれない)国に好んで行きたがる人がいるだろうか。おそらくいないだろう。見られて困るものじゃないものであってもそれを誰かに覗かれコピーされるというのは気分の良いものではない。

それほどまでしてテロから国を守らなければならないアメリカの人たちには同情の念を禁じ得ない。しかしきっと多くの外国人はアメリカ行きを避けてしまうのではないだろうか。そうか、こうした政策のほんとうの目的は外国人排斥にあるのかもしれないという気がしてきた。

鎖国アメリカ。
国の治安を守るために払わねばならない犠牲はなんとも大きいようだ。しかし、かの国にすむ人たちにとっては「やむをえないこと」だとしても、そのような犠牲を要求する国に好んで行こうとする外国人は少なかろう。

善人と役人

  • 2008年8月19日
  • キーワードタグ: 役人

近時、日本に限らず韓国あたりでも公務員は人気職種であるという。安定した給与と確実な身分保障と優遇された年金の三点セットは、経済成長の見込み乏しい現代日本においては魅力的であるのかもしれない。

ところで、ここで私見を述べさせていただけるとするならば、向こう半世紀のあいだ、日本経済が本当の意味で(庶民が好況を実感できるほどに)復調することは無いと私は断言する。とはいえここにその根拠を記すことは叶わない(長くなるし)。よって断言ではなく「予言」ということにしておく。私のこの予言は決して悲観論ではない。単なる事実認識及びそこから私が引き出した結論である(くだけた物言いをすれば「まぁそんなとこだろ、ハハ」というところ)。ついでにもう一つ断言しよう。善人、役人になるべからず。なぜか。それを今から書いてみるとする。

私がそんなことを思いついたきっかけは今朝の新聞記事である。

福岡市西区に土地を所有していた首都圏在住の元国家公務員の男性が、道路建設のために福岡県道路公社が用地の取得を進めた際、同市内に戸籍を置いていたにもかかわらず行方不明扱いされ、土地を買収されていた(以下略)
「道路用地『ずさん買収』 所有者を失踪扱い 福岡市出身の男性 福岡県公社を提訴」(西日本新聞)

この記事の概略は、道路建設のための用地買収にあたって、所在の知れない地権者を探し出す手間を惜しんだ公社が、地権者を(法的に)亡き者として道路建設を進めたということであった。上の引用に続いてこのようにある。

男性側は、登記簿の住所地には勤めていた行政機関の施設があり、また、男性が本籍地を福岡市中央区にしていることから「公社が行政機関や区役所に照会すれば所在は分かったはず」と主張している。
これに対し、福岡県道路公社業務推進課は「県内の全市町村に照会したがつかめなかった。提訴については訴状の内容を把握しておらず、コメントできない」としている。

公社の言い分は、言葉を変えればこうなる。
「どこにいるのか調べることが私にはできなかった。だから死んだことにしてもらったのであります」

長年所在の知れない人物を一旦「死んだことにする」という法制度(原則)そのものに私は異論が無い。ただ、通り一遍の調査・照会・捜査をして人を殺す(死んだことにする)こと、そして、そんな仕事をする人間たちには強い異議を申し立てたいと思う。

なぜそのような事態が生じうるのか、なぜそのような「仕事」がまかり通るのか、と問われるならば、私はこう言ってみたい。「百人集めりゃ野獣の集団~ 善人百人集めてみたらお役所で、悪人百人集めてみれば暴力団~」。
西諺に云う、「元老院議員は名士なれど元老院は野獣なり」。

・・・。

(まだ人生いや文章これから、というところだが、息切れしてきたのでもうやめる。予定していた結論はタイトル通りだがそこまで辿り着けなかった、無念。)

最後に一言。
こういう役人(役人じみた人間)は、おうおうにして失態をごまかすためにだけ全力を尽くす。そしてそうしたことに公金が費やされ、彼ら役人にはこれまた公金から給与が支給され続ける。
「まるで封建時代・・・」という物言い(悪口)があるが、責任とって切腹、という風習があった分、お役人に限っては封建時代の方が今よりましだったのかもしれぬな。

(ふう、当初の目論見とはまるで別のところに辿り着いてしまった。息切れ、というか久しぶりに泳いで足がツって溺れた、というのが今の心境・・・。敢えてタイトルはそのままにしておく。)

近い落日

  • 2008年7月27日
  • キーワードタグ: 教育

暑い。
突き刺すような西陽がそこらじゅうに降り注いでいる。暑い。飯食う気力もないのでソバを食う。う、うまい。喰ったら、書いて、寝る。久方ぶりの更新。3週間ぶりか。

このところ何かとホットな大分県で本日39度を記録とか。教員汚職事件で「熱い」大分県にふさわしい出来事(でもないか)。暑さのほうはまだまだこれからだろうが、事件の方は新聞報道によればどうやら終息に向かっているらしい。誰もが口をつぐんで事件の拡がりは掴めず、証拠がないの立件できず、いったん採用したからにはおいそれと解雇もできず。大山鳴動鼠一匹二匹三匹四匹、以上。

こうした汚職は何も大分県に限った話でないのは多くの人が予想するところ、しかし余所は「うちではそのような事実は確認されませんでした」「みんなに聞いてみたけど誰もやってないって言ってます」、と。
盗人に「あんた盗んだ?」と聞きますかい? あほらし。

私は、今回の事件の報道に接するたびに昨年だか一昨年の「未履修問題」を思い出す。富山県あたりで発覚し、調べてみればほとんどすべての都道府県で行われていたという。さらにはその懲戒処分の決定に当たって、とある県教育委員会は「うちだけ突出できない」と厳罰をためらった由。この未履修問題に絡む懲戒処分はどの都道府県においても「だめでしょ、そんなことしちゃ、もうやっちゃだめよ」程度で終わった。まさに横並びの処分であった。どこかの校長が自発的に退職したという話も、寡聞にして聞かない。

今回の教員汚職事件に関しても、そのように「余所がやってるならウチでもひとつ」「余所でやらないことはウチでもやれません」という”せかい”に於いて、「よそが何をやろうと誰がなんと言おうと、ウチではそんなことはやりません」という都道府県があるかどうかは大いに疑わしい。つまりは余所の都道府県でも同様の問題はあるだろう、ないはずはない、というのが私の所論(の前提)である。現に、合否が公にされる前に、議員らには事前に合否を知らせていたという事実は、次から次へとあちこちから出てきていた。

「だから大分県以外でもやっている」
ということを言いたいわけではない。
私が述べんとするところは、次の2点にある。
一つは、情実人事が大分県以上に酷いところはあるのか、あるとすればそれはどこか。そしてもう一つは、情実人事のどこが悪い(悪くない)のであるか、というところにある。

新聞などの報道によれば、大分県における教員汚職の背景には競争倍率の高さがあるのだそうだ。もしそれが事実なら(おそらく事実だろう)、ポストが少ない都道府県、ポストが少ない校種、ポストが少ない教科に関して不正が行われている可能性は高い、ということになるはずである。もし文科省が、かつての「未履修問題」のときのように、あとからあとから、あそこでもここでも、行われていたという事態を避けたいのであれば、ひとつ大分県よりも人口規模の小さい都道府県、そして採用人員の少ない校種・教科に的を絞って調査してみればよい。そもそも単に競争倍率の高低よりもむしろ採用ポストの絶対数の少ないところほど、不正の存在する蓋然性は高く、そしてそれによる悪影響の度合いも大きい。たとえ大手一流人気企業の採用試験の競争倍率がどれほど高かろうとも採用枠が大きければ、情実人事によって生じるマイナス面は大勢に影響しない(飼い殺しにすればよい)。

いっぽう、公務員・教員もまた「大手一流人気企業」と言えなくはないわけだが、万一にも「飼い殺し」レベルの教員に当たってしまった生徒への影響はあまりにも大きい。一人の「飼い殺し」教員が定年までに関わるであろう人間は、少なく見積もっても一年間で40人、30年で延べ1200人。少なくはない、また、彼ら教員が生徒へ与える影響力は生半なものではない。しかも生徒は「客」ではない。客は売り手を選べるが、生徒は教員を選べない。そこのところが、ふつうの「大手一流人気企業」と公務員教師とを隔てる。ま、公立なんぞに行かず私立へ行くという選択肢はあるが。

とはいえ、こんなことは私が改めて言うまでもないことか。そもそも人事が情実で決まったとしていったい何が悪いか。私は「人事は情実」と思っている(認識している)。
ただ、公務員(教育公務員も含む)と情実人事はなじまないと考えられたからこそそれが規制されているはずである。今回の事件で明らかになったことの一つは、「やはりルールは有って無きが如し」という実態であった。マスコミのなかには、今回の大分県での事件で「いちばんの被害者は生徒だ」と言っていた(最近よく聞く常套句だ)ものがあったが、彼らマスコミの言い分は多分に感情的であるように私は思う。彼らに聞きたい。なぜ生徒が被害者だと言えるのか。どういうわけだか知らないが、彼らはそこのところをさっぱり語らない。私が思うに、なぜ今回の事件が生徒に対して与える影響甚大か(「最大の被害者」かどうかはさておき)と言えばそれは、子供たちをして「ルールがルールとして機能していない現実」及びそれを体現した人物(教師)を文字通り目の当たりにさせ、かつその人物によって「ルールを守る」ことを強いられるというやりきれない環境に投げ込むところにあると私は思う。

ところで、「ルールがルールとして機能していない現実」は、なにも今回の件に限らずとも日本中あるいは世界中どこにでもあらゆる状況に於いて見いだすことができる(誇れたことではないが)。そして大人にとって理想と現実の隔たりは水のようなものだ。それはときどき涼をもたらし、ときには人間を飲み込む。上手く使えればよい。ただ、「ルールがルールとして機能していない現実」の中で育った子供がどのような大人になるのか、あまり考えたくはない。

そんなところから私には、最大の被害者は、生徒と言うよりはむしろ日本の未来とでも言える気がしている。ただでさえ中国その他の競争相手が台頭する一方で国内経済は失速、未来への展望が開けない現代日本。これはまさに内憂外患ではなかろうか。「ジャパンアズナンバーワン」から「近い落日」「日の沈む国日本」へ。いまさらか。
いっそ日本の未来を考えるなら、教員の解雇・採用を巡る一時の混乱など小さなことだと言えなくはない。文科省はトカゲのしっぽを切り落としては如何か。むろん、「みんなでやれば怖くない」「一致団結の精神」「長いものに巻かれることの大切さ」を子供に教えてやることで新しい日本の未来が拓かれると言って言えなくはない、のか。


ここまで書いて私に分かったことはといえば、分からないことを書くと分からない文章になる、というあたりまえのこと。しかし久しぶりに書いてみて結構頭がスッキリ。もう少し頻繁に更新したい。そうしよう。

悪人 VS 善人

  • 2008年4月29日
  • キーワードタグ: 教育

日が傾く頃にようやく目覚めた。といってもちゃんと朝飯食って新聞読んでコーヒー飲んでブログ読む、という日頃の習慣はそのまま。ただ、眠くなったら寝てまた起きてということが出来てちょっと一息つけた。それで今日の記事では、普段すぐには言葉にならないことをどうにか書き表してみようと思う(最近、そういう記事を書いていなかった)。

「悪を為す方が善を為すより楽である」
「悪人(悪貨)は善人(良貨)を駆逐する」

一言で言えばそういうことをこの頃考えることがある。「そういうことなのかもね・・・」、と。

ただ、それだけ書いても「そりゃそうさ」「だから何?」「そんなこと無い!」と言われてもやむをえないわけですね。で、ここで私の言う「悪ー善」「悪人ー善人」「悪貨ー良貨」とはどんなものかをお伝えしなければ何にもならない。が、これが私には難しいのだ。

善だの悪だのという極度に抽象的な概念は、それが古今東西を問わず普遍的な問題であるだけに、かえって人それぞれに違った風に理解され、感得され、実感される(と私は思っている)。いや、そもそも「善ー悪」という概念が「極度に抽象的である」ということそのものについて、「いや、そんなこたぁないぞ。簡単なことじゃねえか。」と仰る方もおられるであろう。まあ話を聞いてつかあさい。

話を変えてみよう。
私はいくつかのブログを愛読している。その中には、たくさんコメントがつく有名ブログもあれば、めったにコメントのつかない無名の、しかし質の高い(べつに自画自賛しているのではない。いま、自分のことはいちおう「棚の上」に置いてある。)ブログもある。だいたい私はコメントがたくさんつくブログのコメントを精読することはめったにしない(出来ない。根気がないからね)。それでもたまには読む。そしてそこにもまた世間一般と同様の現象を見る(当然の事ではあるが)。見るに耐えないコメントにも色々あるが、それらについてくだくだしく書いても気分が悪くなるだけで(私にとって)良いことは一つも無いので、さっさと一言で済ますとすれば、「汚い」。
これでは説明にならぬだろうか・・・・。

人が排泄物を汚いと感じるのは生来のものではなく習慣・教育によるものだとどこかで聞いた気がする。それはそれで「そうかもね」と思う。ただ、ここで一言言わせてもらえるなら言おう。「汚いものは汚い」。「汚いもの」の定義はこうだ。
—— 自分に向かって投げつけられたくないもの ——-
それが「汚いもの」の、私(わたくし)的定義である。

仮に「人が排泄物を汚いと感じる心性は教育によるものだ」ということが真実であるとしても、「汚いものも実は汚くはないのだ」「汚いという感性はひとそれぞれなのだぁ!!文句あっか?」ということにはならない。やっぱり汚いものは汚いのである。また、「汚い」と感じる感性が微妙なところで人それであるにしても、それを「それは君の主観だよ(遅れてるねぇ、分かってないねぇ)」といって汚いものを投げつけられてはたまらない。それこそ、「人が節度を知らないとすればそれは教育によるものである」(原典不知)。

私の観察するところ、既に節度というものは絶滅の危惧される、あんだーぐらうんどな、稀少種になりかけているように思われる。それどころか節度を持った人間が生きにくい社会になりつつある。”排泄物と教育”の伝で言えば、自己の権利を声高に(堂々と)主張し、他人を出し抜いて(機を捉えて)利益を得、何かにつけて我が身に都合の良い部分だけを都合の良いように解釈することが人としての正しい生き方だという教育を施された人々にとって、(ときには)自己の権利を敢えて放棄し(ときには)自己犠牲によって全体の利益を図るなどということは、人が「排泄物こそ美しい!」と感じるほどに難事だということになる。

ところで、節度のある人ならこんなことを書かこともなく黙って耐えるなりサラリと流すのだろう。

と、ここまで書いたらxfy blog editor上で日本語が入力できなくなった。つまらぬことは言うな、という天の啓示だろうか。中途半端になった気もするが、きょうはここまで。

神サマの足音が隣組

  • 2008年3月21日
  • キーワードタグ: 歴史

このところ、本もまともに読めない日々が続いていた。時間に追われながらあちこち走り回っているのも悪くはないけれど、まるで便秘のように、日を追って苦しくなっていく。で、こうして腰を据えてみると、「出したい」にもかかわらずこれがなかなか出ないのであった。く、くるしぃ・・・。

というわけで今日は知人から聞いてちょっとばかし驚いた話を書く。
何に驚いたかといえば、なんでも伊勢神宮が200億だか500億だかの金を集めて回っているのだそうだ。20年に一度の遷宮のための費用なのだそうで、なかなか大したものだ。去年度今年度と年間20億以上の奉賛金が集まっていると伊勢神宮式年遷宮広報本部のホームページにある。これはやはり「塵も積もれば山」となり、「賽銭も積もれば億」となる例証であろうか・・・。いや、どうやら違うらしい。

「隣組に供出していただく」のだそうだ。いまどき「隣組」だの「供出」などとは言わないのだろうが、今もってそのようなものがなくなったことはない。「うつくしいクニ」日本の麗しき伝統健在なり。かの大戦後のほんの一時期に冷遇されたことはあったものの、喉元過ぎれば熱さを忘れる・・、もとい神国日本の伝統は不滅なのである。かの日本国憲法は信教の自由をうたい公金の支出に制限を設けることで、かつて国家の保護のもとにあった神道を形式的には冷遇しているかに見えるが、公共団体が陰ながらそれを支援していたことは靖国合祀問題の経緯からもうかがうことができるであろう。

国家機関や地方公共団体がオモテに立ちさえしなければ、憲法上の問題はクリアできるどころか、「自治会のみなさんの自由意志は尊重されねばならぬ」ということで万事オーケーなのだから、懐に余裕のある方はいくらでも寄付なさってはいかがであろうか。ただ残念ながら私の場合はそうではないので、来年の正月に賽銭箱に「寄付」するくらいしかできないだろう。それでも、もう十年以上も初詣でに行ってない私であるから、それはそれでけっこう稀有なことであろうか。

着々と「あの頃」の権威を取り戻しつつある神道と隣組に対しては、もっともっと世間の注目が集まるべきであると私は思うのであった。それともそうした現象には大きな地域差があるのだろうか。

なんにせよ、もし「本物の」自由意志でそうした寄付がなされるのならば、誰にも文句は言えないし言う必要もない。そうだろう? 
なお、個人的には、日本における「自由」の概念とその歴史的変遷、これもまた追いかけるべきテーマであると思い始めている。右に左に揺れ動く「自由」。興味深いテーマである。せめて死ぬまでには手をつけたいものだ・・・。おもしろい参考文献をご存知のむきは是非ともご教示下さい。

歴史は堂々巡っている、か。

ハシゴ論もどき

  • 2008年1月4日

「一貫した主張」だとか「首尾一貫」といえばおよそ「良いこと」だと考えるのがフツウのことなのだろうけれど、これらの「フツウのこと」を一度は疑ってみるというのが私の”一貫した”思考態度である。したがって私自身は「一貫性」「首尾一貫した態度」を必ずしも否定的に評価する者ではない。ただ、「一貫した一貫性」だとか「いつでもどこでも首尾一貫している」などというものが仮にあった(いた)としたら、そうしたものには大いに疑問を感じるのだということなのだ。ん、これではわかりにくかもしれない。

人がある事象(物事)を理解しようとするとき、そこに首尾一貫した法則を見いだすことができれば話はたいそう簡単だ。水は低きに流れ、水は火を消す。一貫した法則、原理原則、論理性、お定まりのルール、べつに何と呼んでもよい。ところで、大昔のこと、水が火をあおり、石が燃えたとき、きっと人は驚いただろう。そして未だ人知の及ばぬことは腐るほどある(はず)。今も昔も「現代人」はなかなか自分の無知を理解しがたい。「現代人の盲目」はつねに人間につきまとう。昔の人の無知を憫笑しつつ己の知性に誇りを抱く。それどころか「かのクニでは・・・」などと同時代人にすら教えを垂れることさえある。おそらく無知の知の実践者は「永遠のマイノリティ」というべきかもしれぬ。もっとも、そうでなければこまる。誰もが鍬を棄て思索にふけってしまうようになれば食うものも食えなくなるのだから(これは野人の僻目か?)。

それはともかくとして、論理性なんてものは単なるハシゴではないだろうか。事象を理解するための(二階に昇るための)ただの道具。建物(事象)に立てかけ、仮設してスルリスルリと昇っていくための道具。ときには例外的超人がハシゴを使わず一気に上の階に(下の階でもよし)跳躍することもあるが、べつに彼はその一部始終を解説する必要はない、彼がそれを望まなければ。おそらくアインシュタインは自らの跳躍を物理学の法則で解説し、ドストエフスキーは物語という道具を用いて解説した。そういう風には考えられないか。まずヴィジョンありき。

たとえ偉大な科学者たちが首尾一貫を旨とする論理を用いることで、ある事象を解説できたのだとしても、それは論理すなわちハシゴを積み重ねてゆくことによって上の階に到達できたのだと言うわけにはいくまい。もし誰かが「ハシゴを積み重ねてゆけば上に辿り着ける」と言ったとしたら、彼は「魔法の杖を一振りすれば願い事がなんでも叶う」と信じるオカルティストと呼ばれて然るべきだろう。そしてじつは、合理主義者を自称するオカルティストはそれほど珍しくないかもしれぬ。

ハシゴを魔法の杖と信じるオカルティストと並び称されるべきは「事実コレクター」だろうか。(それ自体真偽不明の)事実の欠片を集めれば集めるほど真実に近づけると信じ切った狂信者たち。むろん彼らが後生大事にしたがる欠片が本当に真実の欠片であるなら望みはまだあるのかもしれないが、多くの場合真実の欠片なんてものはこの世に存在しない。「真実は一つ」とはなにもこの世のあらゆる事象に各々にただ一つの真実がそなわっているということを意味しているわけではない(そんなこともあるのかもしれないが)。おそらく「真実は一つ」という言葉は、真実とは「一にして全」なのだということを表現している。人間が掴みうることのない生の実相、人間の営みの総体(全体)は常に真実である(そうであって欲しい)、と、そういうことを表現しているのではないだろうか。そういう風には考えられないのか。結局のところ、「真実は一つ」という言葉はひとつの信仰告白以上のものではない、というのが私の考えである。私たちにできるのは、自らの認識力には限界があるということを受け入れ、観念したうえで、牛のようなのろのろとした足どりで行けるところまで行くということのように思われてならない。

このように只でさえ困難な道のりを、まるで足りない頭でひねり出した筋書き通りに進もうとするなんてことは、一言で言えば愚行ということになるだろう。愚か者にかぎって口を開けば大言壮語、とはよくある話。見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞き、辻褄を合わせ、地図を描き直し、果てはまるであさっての方向へ突っ走る阿呆。周囲に何もないひらけた場所でハシゴを立てようと四苦八苦、ようやく立ったところで二つ目のハシゴを重ねようとまた四苦八苦。さらに三つ目のハシゴを・・・。重ねれば重ねるほどに不安定になっていく一連のハシゴ。こんなものはほんの一突きであっというまに崩れ去るのは眼に見えている。そんな馬鹿なことをやっているということにすら気づかない奇妙な合理主義者、合理性「原理」主義者がこの世にいないと言えるだろうか。疑問。

論理のうちに人間を住まわせることはできない(これだと「当然だろ」と言われそうだな)ということをどのように表現したものかと考えていたところちょうど良いのに出会った。

「与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」

フランクル『夜と霧 ~ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房 P166

与えられたどのような事態に対しても各人がそれぞれ(きわめて限定的な選択肢の中からではあれ)任意の態度を選択できるという「人間の最後の自由」を奪いとることは誰にもできない。

人間に与えられたこうした自由を考慮しない、歪(いびつ)な「論理の階梯」は、ときとして人をあらぬところへ連れ去るのである。ユダヤ人虐殺に見られる人間の傲慢さは、いまも、そこかしこにある。

ところで、
当然だと思っていたことがそうでなくなるからこそ「コペルニクス的転回」と言うはずなのだが。小さな穴でもその気になれば結構いろんなものが見えてくる。
「北方事件:佐賀県警が鑑定細工か」(毎日jp)
こんなものは些細な綻びに過ぎないだろう。推して知るべし。

なるほど、そういうことか

  • 2007年12月18日

また大魚を逃した気分なり。昨晩も想念がふくらみすぎてふくらみすぎて困るくらいであったのに、布団から出ることあいかなわず。考えていたことといえば年金問題と島田雅彦。なおこの両者につながりはない。

「年金記録統合やっぱり無理です」問題でなぜあれほど公約違反公約違反と騒がれたのか(すでに過去形)。年内に完了する、一年以内に終えます、とは安倍前首相の「お約束」であったわけだが、当時から既にそれが単なる政治的発言(実現可能性を度外視した発言)に過ぎないことを少なからぬ人たちが指摘していた。なにせ実務上それ(記録の完全統合)がほぼ不可能であることは見えていたのであるから、それを「ぜったいやります」という発言の中には、文字通り(額面通り)ではない含意を読み取る方が理にかなってかなっていたからだ。

福田Jr.首相に対する公約違反非難の大合唱も改めて考えてみればなにも不審がることではなかったなと今は思う。公約違反を非難している人たちにとっての優先順位は時の政権に打撃を与えうるかどうかにあるにすぎず、したがって社会保険庁が過去数十年にわたってなしつづけてきた不始末をどのようにして解決するかという点は考慮のほかなのだ考えてみれば、あまりにも当然の公約違反非難スクラムである。問題(課題)そのものの解決そっちのけで「犯人」を探し求め「責任者を出せぇ」とがなりたてる人たちに対して、「あのさ、そんなことはじめから分かってたんじゃなかった?」と言っても無駄だ。あのスクラムを組んだ人たちをチンピラ呼ばわりするつもりはないが、やっていることはまるで同じなのではないですか? とひとこと言いたい気はする。

そもそも年金記録問題は政策課題ではない。なぜならそこにはそもそもほかの選択肢が存在しないからだ。「調べます、統合します、解決します」という以外の選択肢ははじめから存在していない。むしろ政策課題とすべきはこの問題を「今後どのような方法で解決していくのか」ということであって、「解決するか解決しないか」「(いつまでに)解決できるかできないか」ということが問題の核心ではない。しかしながらそのあたりの切り分けがマスコミにはできない(というより「する気がない」のだろうな)。官僚ならぬ政治家の本務は、錯綜する利害関係を調整し、選択可能な複数の選択肢にとりまとめ、国民に提示し、国民を代行して決定をなすというところにある。つまりはそもそも選択肢の存在しない問題(解決しますとしか言うほかない問題)についてそれを「公約って言ったじゃないか」と批判するのは「政治家」に対する批判としては的外れと言える。もちろん安易に「公約した」のなら批判は甘受すべきであろうしそもそも首相は行政のトップじゃないか、と言えば言える。しかし行政官に対して「公約違反」を咎めるのはいささか奇妙なことである。まあ問題の大きさが明らかになったところで次の首相が登場してくればちょうどよい、福田さんは掃海艇・地雷処理係としての任務は完遂したのだということになろうか。いたずらにほかを刺激しないというところはまさに「掃海艇」といえるかもしれぬ

もし大手新聞の一社や二社が「公約違反」とがなりたてているくらいなら私とてこんなことはたぶん書かない。ところが現実はそろいもそろってそればかりというのでは嫌味のひとつも言いたくなるというもの。なにせそれをやることで問題の解決に近づくとはちっとも考えられないのだから。ほんとうに物事を解決しようとするのならば、そもそも問題はどのようなものなのか、現状はどうなっているのか、原因(これは「責任の所在」ではなくて「機能的な原因」)は何か、そう考えるのが自然であろう。今の日本ではそうしたことが考慮されることがないまま、なんでもかでも「政治問題」「政権批判」に結びつけられてしまい、解決すべき問題の本質はいつまたっても閑却されたまま放置されてしまう傾向があるようだ。せめてどこか一社でもクールに問題を追及追究するマスコミがあっても良いと思うのだが。
それにしても大手マスコミはどこをとっても金太郎飴だ(ま、いまさらだな)。佐世保の乱射事件に関する12月16日付けの全国紙論説はそろいもそろって銃所持許可要件の厳格化一色に染まっていた(先日のエントリで引いた某地方新聞社もまったく同旨であったな)。その言うところに異を唱えるつもりはないものの、誰も彼もどの社もこの社も言うことは同じ、という状況は気味が悪いとは言える。本当に彼らが自分の頭を使って書いているのなら、もう少しそれぞれ違った視点から問題を捉えそうなものだが。まあ同じ人間の考えることがそれほどかけ離れたものではありえないとも言えるだろうけどさ。

ともあれ難癖つけられるのなら細かいことはどうでもいいということかもしれぬ。
もしそうならほんとにチンピラだよ。
知性の欠けてしまったマスコミの恐さを日本人がもう一度味わう機会がそう遠くない未来にやってくるのだろうか。

と、こう書いてみてやはりというべきか、当初の予定とはかけはなれたところに着地してしまった。しかもどうやら着地失敗。まあいい。なんだか「失敗して何か問題あっか?」と開きなおる習性は年々強化されていっている気がするな。態度の悪さは昨日今日からのものではないので。御免なすって。

ついでに
くおりあさんがまーちゃんといっしょになって某作家をチクリといじめていた。ちょっと思うところがあったけれどそれについてはまたいずれ。

番組の予定を変更して・・・

  • 2007年12月16日

このブログの週末特別番組(エントリ)としてオープンソースに関するforumのことを取り上げるつもりだったが、急遽予定を変更したい。これ(オープンソース特番)については後日改めて。

また起きた。発砲事件。
暴力団のみならず一般人による発砲事件・事故までもが頻発しているようだ。つい先日は佐世保で二人が死亡、傷者多数、容疑者は自殺したとのこと。銃器による犯罪が(暴力団同士の抗争にともなうものを除外したとしても)最近になって起こるようになったわけではない。数は少ないにしろ過去にもその例はある。しかしわずか数週間のうちにこれほど立て続けに銃器による事件・事故が報ぜられた例がかつてあったのかどうかその詳しいところを私は知らない。いまのところ私はそうしたことについて何ら統計データも過去の新聞記事の類もチェックはしていない(今後する気もない)。したがって以下に書くことはすべて私個人の雑駁な印象に基づくものであるにすぎない。しかしそうであるからこそ私はここに(このブログに)書きつけておきたいと思う。

今回の佐世保事件について、私のお気に入りである新聞社のサイトを覗いてみた。なぜその新聞社のサイトがお気に入りかといえば、そこにマスコミの無節操さと驕慢と惰性を見出すことができるからである。大抵の場合は期待を裏切らずにきっと満足させてくれる、私にとっては有り難い一社だ。早速今回の事件に関する論説を読んでみた。その論旨は、まず最近起こった暴力団による一連の発砲事件に触れたうえで、今回の事件が暴力団員ではなく一般人によってひきおこされたことを指摘し、容疑者に与えられていた銃器所持許可の妥当性への強い疑念を呈して、警察庁に対し許可の厳格化を求めている。
これは暴論でも愚論でもない。いたって真っ当な論説であった。しかし最近の私はこの論のような、法や制度あるいはその運用によって事態を改善しようとする指向にいささか懐疑の念を覚えることが多い。少なくともそうした対策「のみ」によって何かが抜本的に改善するとは考えることができないでいる。
マスコミはしばしば「それでは臭い物に蓋をするだけではないか」と役所や会社を非難する。これとまったく同じ「非難」を上の論説に投げかけることはできるのではないかと思う。「臭いのなら蓋しておけばいいではないか、それでも臭うならもっとしっかり蓋しなさいよ、あなた」というのが「対策」「解決法」と呼びうるとすれば、たいていのことはいとも簡単に解決できることだろう。

たしかにこの論説もいう通り一般人の銃器所持をより厳しく規制すれば、それによって一般人の銃器による犯罪や事故は減少するだろう。ただ、その一方でいまアウトローたちによる非合法な銃器所持・使用が当然の如くなっている点を見落すわけにはいかない。

先手をうって言わせてもらえば、これはなにも銃器所持を一般人に解禁して自己防衛を認めるべきだというのではない。仮りにそうした場合、おそらく銃器犯罪は爆発的に増えることになると思われる。なぜそのように考えるのかその根拠を示せといわれても出せない。そもそも確たる根拠は無いとしか言えぬ。(まあそれでも書くよ、わたしは)

話が少し大きくなってしまうのだが、近未来の日本の姿を予測しようと思うなら、その時点ないしはほんの少し前のアメリカ合衆国に目を向けるとよい。なぜなら日本の現状はほんの少し前のアメリカの状況ときわめてよく似ているからだ。「そんなあやふななことで何か言ったつもりか」とおっしゃる方もおられるやもしれぬが、少なくとも私はそう感じている。そしてそれについて今書いている。学級崩壊、訴訟社会、その他もろもろの思考様式・・・。ざっと20年ばかり遅れてアメリカ合衆国の後ろからついていっているかのような現代日本。もし今後も日本において銃器所持が解禁されなかったとしてもその入手が容易でさえあれば、きっと日本でもショッピングセンターや学校で無差別的に銃弾をばら撒く人間が出現するだろう。

さまざまな報道によれば今の日本で既に暴力団員の銃器所持が当然の如くなっており、そしてまた現にそれを使用した犯罪が多発している。そのような状況の中、私にはもう一般人によってなされる銃器犯罪の急増という事態がすぐそこまでやって来ているような気がしている。既に、旧来のようにアウトローはアウトローたちだけの世界すなわち柵の向こう側で、そして一般人は柵のこちらがわで、(たとえそれが観念的なものにすぎないとしても)それぞれが截然と区別された世界に生活する光景は過去のものになっている。むしろ一般社会への犯罪組織の浸透という点に関しては合衆国以上に日本の方が「進んでいる」のであって、おそらく単純な銃器所持の許可要件厳格化は、有効な抑止策とは言えるにしろ事態の悪化を食い止めることは到底無理ではないか。むろんこれは私の直感にすぎない。言い訳じみるが、直感なき懐疑が新たな知見を生み出すことはまずないと思っている。

ここでふと、だいぶん以前に観たマイケル・ムーアの映画「ボウリング・フォー・コロンバイン(Bowling for Columbine)」を思い出した。コロンバイン高校で起こった無差別発砲事件に題をとり、笑いに紛らせながらもアメリカ合衆国における銃器の浸透と銃器犯罪を批判的に取り上げた映画。このコメディー風の映画においてすら、単なる銃器所持の難易が問題の本質ではないことを示唆していた。

結論なんてものはこの一文にはないが、放っておくといつまでも終わらないのでここらでキリをつけよう。もし現代の日本が少しばかり前の合衆国の姿であるとして(あるいはその仮定がそもそも誤りだとしても)、おそらくこと銃器犯罪に限って言えば、放っておけば合衆国以上に深刻な事態を招来することになる。私がそのように考えている理由は、ここまで読みとおされた方には重ねて説明せずとも了解していただけるのではないかと楽観している。

最後に付け加えておくと、佐世保での事件発生直後の情報の錯綜ぶりには非常に強い印象を受けた(「悪い」印象であったこともまたあえて念を押す必要はないと思うが)。そしてまたこの事件に関する未確認情報が次々と報じられているさなか、護衛艦しらね(これはかつて海上自衛隊主力部隊の旗艦であったと思う)艦内で火災が発生したとの報道が重なったとき、なんとも言い難い不穏な、まるで日本の崩壊を予兆しているかのような想念がちらりと私をかすめて飛びすさったことを付記しておく(火災が居住区でも調理室付近でもなく、戦闘艦としての中枢部である CIC で起こったというその後の報道に接して再び穏やかならぬ思いがした)。

およそ未確認情報がいたずらに飛び交う社会というのは、間違いなく不穏で不安定な、危機に直面した社会であることは疑いえないのではないだろうか。この点、「またまた起こった銃撃事件」に浮かれ踊った人たちが仮にいたとすれば、彼らほど社会の情勢が見えていない人はおそらく他に誰もいないだろうと思われた。
「待て、お座り!」と主人から命じられて制せられない限りもう条件反射的に餌にむしゃぶりついてしまう生き物は、人間というよりむしろ犬に限りなく近いと言う方が、よほど人間というものを尊重した態度だと言ってよい。

不作為の罪

  • 2007年12月14日
  • キーワードタグ: 役人

あれもこれもせねばならぬというとっちらかった状況にちと苛立ちを感じているときは、たいていそのどれもが中途半端になって、墓穴というほどではないにせよ落とし穴を掘ってしまうことになる。そういうことは分かっちゃいるが、泡立ってくる感情を制御するのはなかなか厄介。修行が足りない。おいらのケツもまだまだ青いということだ。

既に前のエントリ「こうやくいかん」で書いたように、「約束したじゃねえかよ」とネチネチ責めることは、問題そのものの解決や再発の防止に毛ほどもよい影響をもたらさないどころかむしろ悪影響すら考えられるのであるからして、じっくり考えて欲しいものだ(他力本願ですまない)。むろん過去数十年に渡って溜め込んできた膨大なゴミの山をあらためて整理しなおしてそれぞれ数千万のグループに分別するということがどれほど困難、いや絶望的なことであるかくらいのことは私にも分かる。したがってデータの云々とは別の次元の解決法も考慮されなければならないのだろう。なにせ積極的な(前向きな)対策といえばそれしかないのだ。データの再整理に関しては、これはもうやり残した夏休みの宿題どころのハナシではない。過去のツケをうやむやにしてしまうはずがどうしたはずみか表面化してしまった。お天道様はだませない、のだ。

いったい社会保険庁は過去数十年間なにを「仕事として」きたのであろうか。

この年金記録問題はどうやら過失によるものではなく不作為の罪というべきだろう。「放っておけばいずれ片がつく」「黙っていればバレはしない」という組織的判断が下されたと考えなないことには理解し難い事件を、大手マスコミは今日まで大臣たちのパフォーマンスやら末端職員の横領事件(そもそも事件化すらされていなかったのだそうだが)というところに、そして「政府与党の公約違反」程度のことに矮小化し続けている。そう、矮小化し続けているのだ。これは私の筆の誤りではないよ。

むろんそれらが取るに足らないことだと言いたいわけではない。ただ、問題はそれだけにとどまらないのではないかと言いたいだけである。問題を先送りし続け、ほっかむりを決め込み、自分たちだけの利を追い求める。自らが果たさねばならぬ責務にはまるで盲自である一方でおのれのちっぽけなプライドとポジションを保つことを基準としてすべてを図ってきた。かりにそれによって他人がどのような悲惨な状況に陥ろうと、あるいは他人に時間的・金銭的・肉体的その他諸々の損失を与えようとも「オレ様の利益に比べればちっぽけなものだーい」と知らず知らずのうちにでも思っているのだと考えなければとても理解不能なことども。ましてこの年金問題は膨大な人間と莫大な金銭が関係している。大騒ぎにならぬほうがむしろ奇妙なくらいのものだ。このような不作為が同庁あるいは厚生労働省だけの特殊例だという証明が決して不可能であるところからかんがみるに、この年金問題以外にも同様の不作為があちらこちらに滞留していないと言うことはできないことになる。現に薬害問題が同時進行中のようだ。これもまた酷いはなしであって思わず拳が固くなる。

今の日本、国じゅうが背信と裏切りとで覆い尽くされている。せめて我が身の周囲だけでもそうしたものとは無縁のものにしたいと強く強く思う。しかしこれもほどほどにしておかねば結局自分自身が怒りに呑み込まれかねない。これには是非気をつけておかねば。なぜなら怒りは無駄に体力を消耗させるから。俺もまた自分だけの利益を考えてるとはたしかに言えるわけだ。

こうやくいかん

  • 2007年12月14日

もうとっくに視界から消えていた話題がまたぞろわさわさと薮の中から飛び出してきました。年金記録問題のことです。しかしあれです、「ないものはない」「(記録精査は)エンドレスです (=実現不可能だぁ)」とは舛添さんしか言えない言葉でしょうね。いや、舛添さんというよりはタレント議員だけが許される発言。これがフツーの議員さん、まして2世、3世のおぼっちゃま大臣の発言であったら逆風どころか暴風雨になったでしょう。今の日本では本当のことを発言することは「道化師」だけに許されている特権なのでしょうね。ははは。

膨大な年金記録の照合をそもそも半年や一年で実行できないことは分かりきっていたわけですが、就任したばかりの(福田康夫)首相にしろ厚生大臣にしろ「どうします?」と問われて「無理です」とはそりゃ言えない。「解決します!」としか言えるはずがない。それをいまさら公約公約違反違反と責めたところで、あまりに白々しいのではないだろうか。なにせ記録の完全照合が土台無理難題であることは自明のことだったのだから。この点については、この年金記録不備の問題が明るみに出た当初からそれが遂行不可能なミッションであることを多くの人が指摘していた。そして私ですら書いた。

そのエントリ(の大意)に「やれソース」だ「データ」だ「証明せよ」などと疑い深い現代人向けに(疑い深くて当然だ!)細かい数字をくっつけると次のようになる(毎日新聞と私とは縁もゆかりもないことをあらかじめお断りしておく)。

宙に浮く年金記録約5000万件の内訳(・・・)うち945万件(全体の18.5%)については氏名などの転記ミスがある記録で、相当数は今後手書きの原簿と照合をしても持ち主の特定が困難(・・・)「氏名」「性別」「生年月日」の3条件を、コンピューター上で5095万件の3条件と突き合せているが、まだ5095万件のうち1975万件は条件が一致していない。(・・・)

これを要するに「やばい、無理かなとは思ってたけどやっぱり無理でした」ということにすぎない。つまり(年金記録問題を短期間で解決することは不可能であるという)結論は最初から見えており、今回のはなしはそれを数字で表現しただけということだ。当たり前田のクラッカー。そもそも延べで2億件近い、そもそも怪しげなデータが電子計算機のプログラム如きでどうにかなるものではなかった。

この記事によると「3条件」では名寄せできないものの内訳は次のようになっている。

  1. 死亡者の記録とみられる:280万件(5.4%)
  2. 結婚などによる氏名変更:510万件(10.0%)
  3. 氏名の漢字カナ誤変換:240万件(4.7%)
  4. その他:945万件

さらに言えば、この調査結果にしても死亡・結婚・誤変換であったと判明したのではなく、「たぶんそうじゃないかなぁ」という目星がついたというだけのはなし。往々にして、細かな数字が並ぶといかにも確からしく見えてしまうものだがそのじつ、上の数字はまるで確かではない。仮説・推測の羅列というだけのことだ。さらに最後の項目945万件とあるが、これなどは「まるででたらめでした」と数字が語っている。

手書き記録を入力する際、社保庁職員が誤った情報を打ち込んだものや、採用条件を満たすため年齢を偽って申請した人の記録などとみられる。こうした記録は原簿と照合しても情報を一致させるのが難しく(以下略)

これは実際上、難しいのではなく無理だとはっきり言うべきだろうが、不可能であることを「証明することができない」のをよいことにぼかした表現をしていると見える。与件がそもそもめちゃくちゃ(「誤り」ではなく「無い」に等しい)なら解決は不可能と言うしかない。

数字が並んでいかにも「調査らしく」見えるけれど、言っていることは単に「やっぱり全部は無理!」「一年以内なんてとんでもない!!」、と、それだけのこと。

たとえ話風に言えば、標高10万メートルの山に登ることを厳命された人が大金はたいてちっぽけな酸素ボンベを買い整えレーザー測距機その他で山の高さを測定して「一年以内に頂上に辿り着きます、ぜったい!」と言ったところで信じる者などいるはずもない。その職責上「登ります」と言わざるを得ないものをつかまえて登ると言わせ、「やっぱ無理そう」と彼が尻込みしたところで「おまえ登るて言うたやないか、あん」とはね、そりゃないだろ。

とはいうても、調べます言うたのもあんた、ちゃんと管理するから俺に金あずけなはれ言うたのもあんた。自業自得。しかしほんとに金まだあるんかね? とっくに使いこんだんちゃうのん?

間違いに気づいたら言い訳せんと逃げ道つくらんと「ごめん、まちごうとったわ」言わんとさ、あとが苦しゅうなるもんな。あれこれ小細工四の五の言い訳、たいへんよ。無駄な労力神経使うて得るもんはまるでなし。
「すまん」と言うてきっちり後始末、それでええんじゃなかろか。

さすがはATOK、賢いなあ・・・。買って良かった。
お、タイトルだけが「浮いて」しまった。膏薬と公約をね、「マッチング」させる予定だったのだが。。。

意識朦朧布団屁轟。

理屈と膏薬

  • 2007年12月8日
  • キーワードタグ: 冤罪

死刑執行された受刑者の氏名公表なのだとか。「直言居士」と評判の法務大臣の強い意向なのだそうだ。なるほど、悪名高き官僚組織とはいえ事と次第によってはトップの一存で過去数十年の伝統だか旧弊もぶちこわすことができるということなのだろう。

法務省はもともと、死刑を執行した事実も公表していなかった。98年からは執行したことと、対象となった人数だけ明らかにしてきたが、氏名の公表にはかたくなな態度を崩さなかった

  朝日新聞サイト[キャッシュ]

世間の人びとからは窺い知れぬベールの向う側におかれていた死刑、死刑囚。

鳩山法相は「人数(の公表)だけではブラックボックスという感じ。法にのっとり執行していることを明らかにした方が、国民の理解を得られる」と説明(中略)「どんな罪を犯した人なのかを公表すれば、死刑執行は当然という理解が広まるはず」と法務省幹部 (同記事)

私自身は死刑制度についてとくに賛成でも反対でもない。かといって関心がないわけではないものの、正直なところよく分からないというところ。ただ、死刑制度を含んだ裁判というか司法制度に関しては強い関心を持ち続けている。この件に関して言えば、この決定そのものの可否ではなく、これを目下のところこの死刑制度というものを含んでいる日本の司法制度の「実情に即して」みると拙速ないしは愚行、蛮行とも見えなくはない。

なぜかといえば今、裁判とくに刑事裁判というものがまるで信用の置けない茶番に見えているからだ。刑訴法の精神には麻酔をかけて納戸にしまい込み、ただただ前例踏襲のやりたい放題ともいうべき取り調べが今、日本のあちらこちらで当然のようになされていることは富山・鹿児島の冤罪事件からも窺われる。周防正之の映画「それでもぼくはやってない」はそれなりのデフォルメはなされているとしても決して作り話ではない、決してない。刑事裁判制度は、ときとして茶番だ。あとで「ああ、面白かったね」だけではすまない茶番だ。信用の置けない司法システムによって裁かれんとする状況に立ち至った時に、通常なら(もっともらしい理屈から言えば)奇妙にも見える決断を迫られることもある。あった。富山冤罪はその一例であろう。司法制度に対する不信感がこれまでにないほど高まりつつあることに現法務大臣や法務省幹部がどれほど思い至っているのかいささか疑問を感じざるをえない今回の決定であった。

死刑制度以前の、司法制度そのものについてその妥当性を維持するための努力がなんら払わないでおいてやれ「ブラックボックスけしからん」というのはあまりに都合のいい話というべきだろう。そもそも今、司法制度自体がブラックボックス=非合理的システムと化しているのだから。したがって今後そうした観点からどのような施策がとられていくのか目が離せないと私は感じている。

これ以上くだくだしいことは書くまい。一言で言ってしまえばかんたんだ。

「理屈と膏薬はどこにでもつく」と、そういうことだ。

(追記)
裁判制度(司法)と警察(行政)をいっしょくたにするのは適切でないかもしれない。せめて司法官には”法の精神”を汲んでほしいものだと思っている

火事場で痴話喧嘩

  • 2007年11月28日

九州島はいつのまにやらアウトローのコロッセウムに指定されたらしい。毎日のように刃物や拳銃を振り回す自称 ”侠” どもが、一般市民の恐怖をよそに利権を求めて暴れ狂い、果ては一般市民を病院で殺害。近代法治国家が聞いて呆れる。

離れ小島か無人島ででもどうぞ、とでも言うしかないのかね。
そういえば、九州は中央から”遠”くはなれた”島”ではある。そんなもんだから「勝手にやってろよ」とでも。
佐賀の病院射殺事件の直後に中央(警察庁)のお偉方が”巡幸”されたらしいが、それぎりらしい。
血の気の多い(らしい)九州人が殺し合えばちったあ日本が平和になるのかも知れぬ。どんな平和が訪れるのかは知らないが。

野獣同士の殺し合いはさておき、一般人の犠牲者が出ているにもかかわらずお役所は例のごとく縄張りを巡って綱引きをするのに忙しいとはなんとも見上げた根性である。たいしたもんだ。骨の髄までお役人。「狙った相手は…依然謎 佐賀の入院患者殺人」(中日新聞サイト 11/27)

S:「おいおい、ホースはおれの担当のはずだぜ」
F:「って、おまえが遅れて現着したんだろ。どうせまた迷子になったんじゃないのかよ」
S:「うるさい。順番からいえば今回はおれのはずじゃないか」
F:「いいからおまえはポンプ押せよ、体力しかない肉体派なんだし」
S:「いんや、おれだってやればできるさ。順番まもらなきゃだめじゃないかよぉ!!」

などと火事場でアレコレ。その間にも火の手は周囲へ延焼し火勢を強めてパンパンパン。
「福岡・久留米市で暴力団関係者射殺、近くで刺殺事件も」(朝日新聞サイト 11/27
恐るべきはアウトローのみならず役人もということだ。
くだらないセクショナリズム、能力を考慮しないマネージメント。役所ではありふれた本末転倒がここにもあった。肉体派の無茶な取調べですべてが無に帰さなければよいが、などとふと思う。

そういえば今朝の新聞に銃刀法改正、厳罰化の記事が出ていた。施行は年末だそうだがそうなると”駆け込み”発砲事件が増えるのか? もはや九州島への渡航自粛勧告でも出した方がよいのかもしれない。

どちらさんも喧嘩やるなら場所選ぶなどという余裕はどこにもないらしい。
寄る辺のない下々の者どもはシェルターにでも篭るしかないのか?。しかしすでに病院すら戦場と化しているんではね・・・。
海の彼方のテロ対策には熱心すぎるほどの政治家さんたちもなぜか自分の庭で起こった「テロ」には無頓着。庭でテロリスト集団飼っておいて「テロと戦います」なんて笑い話にもならんよなあ。それとも彼らにも裏で「燃料補給」してやってんだろうか。やはり担当官庁は警察庁になってしまうのか?
まさかね。


つまらん。読もう。

死ぬまで勉強

  • 2007年11月25日

いぜん山田詠美が「ぼくは勉強ができない」なんて作品を書いた。ところで今回のエントリは文学のはなしではない。教育というか先生のことについて。

学校の教員は唾棄したくなる存在・・・であった、ような気がする。かつての私にとっては。少なくとも好ましい存在ではなかった。委細は省略(ニコッ)。

しかし「勉強」や「学校」とは疎遠になった今の私の目で見ても今の先生方は大変そうだ。ごく一部の者がしでかした不祥事で肩身の狭い思いをさせられ、痛くもない腹を探られ、管理は強化され、時世に合わせて給与は一部カット。生徒の指導にビンタのひとつも張れず(体罰ダメつのはもちろんその通りだが、ね・・・相手に手の内見抜かれてたらそりゃあやりにくいわな)、これまた一部の生徒から足元を見られて生意気こかれる。やってらんねえぜ、と言いたくもなるのかもしれぬ。むろんそうした環境であるにもかかわらず、地道に励んでおられる方もおられるだろうが。

そんなところへ持ってきて教員免許に有効期限が設けられるのだそうで。

免許の有効期間は10年。幼稚園から高校までの現職教員に更新の際、大学などが開設する講習を30時間以上受けるよう義務付け(・・・)取得から10年を経過した場合、免許状は効力停止(以下略)

教員免許更新 広がる不満 県教委「技術向上の機会」(河北新報)

技術向上の機会か。そりゃたしかにそうかもしれない。研修で少しは得られるものが(ときには)あるのだろう。しかしただでさえペーパーワークに忙殺されているらしい人たちの貴重な時間を削っても割に合うほどのものが得られるのかどうかは知らぬ。わたしの経験するところでは、お仕着せの研修・やらされる勉強から得るところは少ない、極微、皆無、時間の浪費。
「そんなことはない、それはおまえのやる気の問題だ、バカモン!!」と言われればそりゃ確かにそのとおりかもしれないが。がんらい私は教師とはソリがあわなかったので、しばしばそのように叱られた。

しかしどっちもどっちだよね。10年に一回の研修で何かが得られるというのもまあその通り、そしてやる気次第だってのもまあその通り。決してどちらも嘘ではない。正論ではある(しょうもないレベルの正論だけど)。したがって研修が役に立つ立たないなんて次元で論議してもまあ始まらない(と思っている)。むしろ気になるのは、そのような「研修の機会」、「技術向上」の機会を作ってお仕着せてやらねば今の先生たちが勉強しないのか、ということ。そうでないと思いたいところだが、これまた他の職種と同様に阿呆はどこにでもいる。一部の非行をあげつらってあまり意味のあることとは思えぬ(それがまかり通っている世相は見るも無残)。もし仮に自分なりの研鑽を積みたいと常々考えて居られる先生がおられるとすれば、その人にとってお仕着せの研修は無益であるどころがむしろ有害ではないのだろうか。ただでさえつまらないペーパーワークと会議に追われているところへさらに研修。やる気はひょっとすると無限かもしれないが時間は有限ですよ。

つまりお仕着せ研修は「勉強しなさい」と言われなければなにもしないボンクラ学生ならぬボンクラ先生にとってのみ”有益”ということになるのではないか(そんなひとがどれほどたくさんおられるのか私は知らない)。もしそうだとすれば、今の教育における大きな問題の一つは、そのような、強いられなければ己れを磨こうとしない人物が教壇の上から生徒に向かって「君たち、勉強しないか!!」と、自分を棚上げして能書きを垂れているところにあるということになろう。なぜそれが問題なのかといえば、そのような先生を日頃目前にしている生徒たちが勉学に対する意欲をかきたてられることはまずないであろうからだ。ちなみにその論拠はここにある。すなわち私自身(笑)。

つまりはこの研修、能書きはご立派だけど中身はちょっとどうかね、ということをふと思ったのでありました。10年に一度30時間ぽっちの研修で先生ヅラしてられんのなら悪いことじゃないのかもしれんが。
しかし教員の質向上をうたう文科省はどうして教員の雇用流動化を進めないのであろうか。自己研鑚の能力すらない教員なんか解雇して新しいのを入れたら良かろうに。それもだめならまた雇用。その循環が水を澄んだものにするだろう。澱んだ水は腐るのだ。公務員教師の雇用流動化策の方がちっぽけな研修よりよほど効果的だと思うのだが、
しかしこれは実現しまい。というのも文科省の役人も公務員だから。同病相憐れむ。

マッチポンプがいちばんおいしい

  • 2007年11月8日

台風一過、ってか?
嵐のように湧いて出た騒動がひとまず収束しつつあるようで。こちとらそれどころじゃなくて台風が荒れ狂っていることも数日前までは知りもしなかったが、一昨日だかにテレビで見かけた剛腕代表の表情からただならぬ雰囲気を感じてザッとニュースを検索して見てみた。
「ひでぇな、こりゃあ」
台風一過の青空とはいくまいね、これでは。死屍累々、家屋倒壊、堤防決壊、復旧の目途たたず。

剛腕小沢一郎が肘を痛めようが政治生命絶たれようがさほど興味は無い。それにしてもこの自民党・民主党の大連立構想を巡る狂ったようなマスコミの騒ぎっぷりは目に余る。というより付き合ってられない。読む気も見る気も起こらない。とはいえさきほど一連の経過を確認してみるためにニュースの類を読み返していたが、そのほとんどは伝聞に基づく憶測記事ばかりであった。唖然呆然。これらの記事がバケツをひっくり返したかのように世の中に溢れかえったなら、「先行き不透明」「混迷」「不可解」の声ばかりになって当然だよな。なにせ憶測で書いた記事がほとんどなんだから。「不可解」なのは政治ではなくむしろ記事・ニュースの内容というべきだった。

かたや「自民党幹部は・・・」「与党関係者は・・・」と伝聞を語り、かたや秘密会談の内容をまるで自分の目で見てきたかのように書き散らす(情報源の影も形も見当たらず)。台風の目の中にいた例の二人の生の言葉は記者会見などほんのごくわずかしかないのに、その周囲の連中が「福田さんはこういった」「小沢さんはこう言った」と喋々し、これをまた「じゃあなりすと」様たちがまるで当人たちが語ったかのような大ニュースとして撒き散らした(S新聞とY新聞がとくにひどかった)。結局騒ぎ立てていたのは台風の目の周囲にいた連中。目の中にいる二人意外なほど静かで寡言であったようだ。

じゃあなりすと様はよく「情報源の秘匿」をおっしゃるけれど、しばしばそれを悪用してニュースを「作る」。そのテの連中がチャラチャラ書き飛ばす記事のなかから事実らしきものを抽出してみるとこれが極めて微量、どうかすると皆無。それでもページビューは増え号外が出て紙面が埋まる。結構なことであるなあ、おい。儲かったかい?

剛腕氏は「恥ずかしながら撤回」らしいが、今回の騒ぎに関してはむしろじゃあなりすと様たちのほうがよほど「矩を越えてしまいました(いつものことですが)」と恥じ入ってみてはどうだろうか。Y新聞のある記者あたりは、マスコミ批判した剛腕氏に「どこの報道がどう間違っているのか。党首会談に至った経緯について、わが社の報道は複数の情報源から取材した根拠のあるものだ」と啖呵をきったそうだが、もしや自社が流布した記事を読んでいなかったのだろうか?情報源が複数なら信憑性があるわけではない、ということは自明だろう。たとえば(じゃあなりすとではない)一般の人が、ある事件について複数の新聞やテレビ(情報源)から情報収集したばあいはこの記者の言うような「根拠のある」情報といえるのか。否。たいていの場合、事件事故に関する報道のソースは一つしかない。捜査機関の発表を各社がちょろちょろアレンジして書いた記事なぞ、たとえそれが10社分でも100社分でもカスはカス。ソースは一つ。与党やその取り巻きあたりからどれほどたくさんの情報を集めたとて情報の精度は上がらないよ。複数の情報源は、それぞれが(いろんな意味で)離れていれば離れているほどよい。それでこそ始めて「複数の情報源」といえる。いや、もしかするとY新聞の記者はそのことを充分ふまえ、実践したうえで上記のような言葉を吐いたのかもしれないが、実際の報道を見るかぎりまずそのようなことはなさそうだ。

騒動そのものは一瞥した限りでは「アホくさ」の一言に尽きるが、今回の出来事は事実上マスメディアの「死亡公告」であったように思われた。おそらく数十年前にも同様のことがあったのだろう。つまりマスメディアは何度でも死んできたしこれからも死につづけるのだろう。ああ、つまるところ彼らは不死身というわけか。なるほど。てか、初めから死んでるのか?

「ええじゃないかええじゃないかそ~れわっしょいわっしょい」

ここまで書いてきてふと最近読んだ本の一節を思い出した。

あまりにも急速に肥大した騒ぎの中で、それに火を点けたのが、飾磨の何の計画性もない「ええじゃないか」という一言だったことは誰も知らない.そういうものだ。
~森見登美彦『太陽の塔』新潮社2003

一言付言すれば、今回の騒動が誰かの「計画性」にもとづくものだったのかどうか、そんなことは私は知らない。知らないことは「存在しないない」ということを意味しない。分からないこともまた同様。私に分かるのは「自分が知らないことを知っている」ということだけだ。なにもべつに自分をソクラテスになぞらえているわけじゃない。知らないものは知らない。それだけ。でも想像するのは自由、でしょ!?

消されたカード

  • 2007年11月6日
  • キーワードタグ: 政治

干天の慈雨とはこのことか。乾ききった大地がまるで甘露をなめているようにも見える。

しかしまあ日本(日本語)と「大地」て言葉はどうにも噛み合っていないような気がする、つねに。借りてきた猫、借り着、よそゆきの言葉。パールバックの名作はまだよんだことがないが、たぶんおれには鬼平犯科帳あたりのほうが好みに合うだろうなあとなんとなく思う。それでもまあ何事も経験なんても言うし、そのうちパールバックも読んでみるか。

借り着といえば民主政治なんてのもそう。対立する勢力の拮抗が「ねじれ」とはね。そりゃないだろ。

小沢氏、やめるのかやめないのか知らないしどっちでもいいけれど、本気で大連立なんて考えてたんだろうか?もしそうなら結局はこの人、その程度だったというわけか。「政策を実現するためには・・・」だということだそうだが、先の参院選で民主党に投票したひとのうち本気で彼らの公約の実現を信じていたひとはどれほどだったのだろうか。あれは結局のところ妻が、自分を顧みない夫に浮気をして見せたというくらいのものだと私は思う。夫を振り切って鞍替えするほどの魅力を持った男ではなかったということか。「これを機に化けることなきにしもあらず、か」と思わないこともなかったが、どうもね・・・。

口で二大政党制を唱えつつ大連立なぞ、まったくお里が知れるぜ。「だれも俺たちに政策そのものの実現なんて(まだ)求めてないんだ」と理解してやってるのかとおもいきや、さにあらず。

あくまでも給油法案に反対し続ける姿勢を眺めつつ、その結末に期待と憂慮を覚えていたものだが、まさかこんなつまらない芝居が繰り広げられるとは思いもせず。ポッキリ折れた安倍氏にせよプチンと切れた(?)小沢氏にせよ、アメリカにとって不都合な人物はたちまちにして挫折する。これが戦後日本政治の「公式」だとすれば、小沢氏の辞任を理解するにはどうもカードが一枚足りない気がする。一項足りない。イカサマ臭い。

臭いといえば、「大連立は小沢さんが持ち出してきた」とニヤニヤ語った先の自民党総裁候補(当初優勢を伝えられたオタクの教祖)の顔面からは強烈な腐臭が感じ取れたのであった。

「政界の混迷」云々の見出しが踊るアカ新聞(朝日のことではないよ)を眺めつつ、安倍氏がやめたとて大勢は変わっていないのだと実感。時代はまるで昭和初期。けっきょくのところ、肝心カナメの勘ドコロは誰も書いちゃあくれないようだ。そんなことを今さら期待する私の方がよほど時代が見えていないのかもしれない。「またまたポッキリ」がマスメディアの売り文句なのかもしれないが、おいおいそれではまるで風呂屋の呼び込みだよと憎まれ口の一つも叩きたいぞ、野人は。

動く階段の珍談怪談

  • 2007年10月31日
  • キーワードタグ: 教育

書いておきたいことがいくつかあるけれどなかなか筆が進まない.ゆとり教育からの転換、高知で起こった白バイ隊員死亡事故をめぐる冤罪疑惑、佐賀で起こった警察官による集団暴行死事件(「正当な職務執行である」ということにされるのだろうが)、インド洋での給油のはなし等々。この他にもいくつかあったが、生憎このところ浦島太郎にやけに親近感を感じることの多い野人の頭は秋風のようにすぅすぅしていてそれらもすっかり忘れてしまった。運がよければモクモクと思い出すかもしれない。そんなことを考えつつモクモクと煙草をふかしながらこれを書いている。
「中教審:「ゆとり」検証ないまま 「総合学習」大幅削減へ」(毎日jp)
「佐賀県警:取り押さえた男性死亡 頭や顔に複数の傷」(毎日jp)
このあたりは近いうちに書くことにする。

ところで最近よく思い出す話がある。一昔まえに聞いた(うそかまことか知らない)アメリカでの話。飼い猫をフロに入れたあと、乾かしてあげようと電子レンジに入れてチンしたら死んじまったじゃねえかと家電メーカー(だったかな?)を訴えたのだとかどうとか。ひと昔だかふた昔くらいまえの話だったと思う。当時その話を耳にした私は爆笑しつつ美国とはまたなんと奇妙なお国だろうかなどと思いつつ、まあ他所人とは違った価値観もった人はどこにでもいるのであるなぁとも思ったのであった.このアメリカでの話が身近なところで話題にのぼることもあったが、一人残らず爆笑しつつ美国のうつくしさを讃えたものであった。なんと寛容な社会であることよ、とね(もちろん皮肉まじりにだが)。

夕食どきにテレビをつけたらNHKで「クローズアップ現代」をやっていた。この番組、毎日々々のことであるから大変なことだろうなあと思いながらときどき見ている。今日のテーマはエスカレーターだった。小さい子供がエスカレーターに挟まれる事故が多発しているのだそうだ.どこかの工学専門家が事故の再現実験をせっせとなさっているシーンを見ながら、ふと或る知人のことを思い出した.その知人、既に世間では中年とよばれる年齢に達していながら「エスカレーターは今だに怖い」と折あるごとに語っていた.彼と一緒に街を歩いていてどこかではエスカレーターに乗ろうとするとき、たいてい彼はあたかも今からバンジージャンプでもやるのかと思えるほど神妙な顔つきをしていたことを思い出す.
そういえば私も自身初めてエスカレーターに乗ったときのことをおぼろげに覚えている。エスカレーターを目の前にした私はしばらくそれを見つめながら、呼吸と階段の動きとを合わせるようにしてやけに大またぎに「動く階段」に身をあずけて、降りるまで脇のベルトを命綱ででもあるかのように握りしめていた。落ちるはずもなかったわけだが.あれはどこかのデパートであったか・・・。
そんなわけでその知人の恐怖心もけっこう分かる気がしたのだった。なにせ階段が上空に向かって(!)動いてる.エスカレーターの構造を知らない人間にしてみれば金斗雲にでも乗っている気がしても不思議ではない(不思議か?)。気を抜いたら落ちてしまうのではないかという不安、未知への恐怖、2001年宇宙の旅、ハルマゲドン.いやあ怖かったのなんの.

そんなこんなの記憶があったもので、NHKの番組を見ながら、おれたちのエスカレーターに対する恐怖心はあながち故なきものではなかったのだと少しばかりアゴが上向いた(かもしれない)。彼は今どこでどうしているだろうか。

それにひきかえ最近の子供たちはまるでなにものをも恐れないかのようなたくましい(ときには不遜とも思える)顔つきをしているように見えるのは俺だけだろうか。たぶん彼なら肯いてくれそうな気がする。エスカレーターを前にしたときのように神妙な顔つきで「そうだそうだ」と言うだろうな、きっと。

農地買いますか?(改)

  • 2007年10月4日

今日も快晴。秋とは思えぬ陽射しが続く。

中山間地にあたる我が家の回りでは米の収穫がたけなわ。高齢化の進む地方の農村地帯では、農業後継者は少なく、在住の壮年者もたいてい勤めに出ていて、基本的に農作業は高齢者の仕事。で、今日は隣のお宅から「息子がどうしても勤めの方を休めない!」と急遽動員がかかって収穫作業のお手伝いに行く。実は、うちもようやく昨日収穫作業が一段落したばかりで今日は休養日のつもりだったがそうも言っていられない。力仕事くらいなら私でも少しはお役に立てる(はず)。私はなにも力自慢のタチではないが、なにせ回りは老人ばかりで働き盛りは片手で数えられるくらいしかいないのだ。

生産性が極めて低い小規模農業はそう遠くないうちに日本から姿を消しそうな気配だ。それはもう肌で感じている。キャベツ一玉の小売価格が百円程度では、仮に人件費を度外視しても利益なんてまず出ない。もちろん人件費を考慮すれば大赤字。薄利多売のスーパーマーケットならぬスーパー大規模経営で大型機械を導入するなり外国人労働者を時給ウン百円で酷使するなりして人件費比率を極限まで抑えぬ限りは利益なんてまず出ない。つまり零細農=趣味の園芸に限りなく近い。当然そういう農家は農業専業なぞ無理。よって平日サラリーマン&日曜農家の二足わらじがあたりまえ。しかし利益がでようが出まいが農地を放置するわけにはいかないのだ。ほっておけば田畑は荒れ果て、果ては猪の住処となって周辺農地を食い荒し近所迷惑。やむなく食い扶持は勤めで稼いで農繁期の休日は農作業で休み無し。これがこのあたりの現状なのである。先祖伝来の農地を休日だけの作業で維持していくために、無理しても農機を買い整え(だって限られた時間で作業を終えるにはどうしても機械化せざるをえない)、休みはなし。

そういう農家は日本全国、たくさんある(はず)。

したがって今の日本にはそもそもわずかな農地だけを耕して生活している人という意味での「零細農」、文字どおりの意味での零細農というものはもうほとんど存在しない。そんなものはもうとっくに"兼業農家"になっている。

「ほかに食い扶持あるんならさっさとやめちゃえば?」「そんな連中に補助金じゃぶじゃぶ使うのはおかしいじゃないか」と思われる方もおられるかもしれない。消費者としての立場から言えば割高な農産物は有り難くない。とっとと農産物輸入を自由化して安いものが買える方が消費者利益にかなう(金銭的にはね)。ただ、農村部居住者の目から見ると、(ほんとうに補助金じゃぶじゃぶかどうかはさておき)兼業農家における農作業はいってみれば先祖の墓掃除・法事のようなもの。利益のことなぞそもそも眼中にはない(そもそも赤字なんだから)。したがって営農は生活手段というよりもまあ先祖供養に近いものがある。一種の宗教行為というわけ。

民主党の戸別補償制度にはいささか疑問を感じる私だが、しかしまあ、近年農家の立場はかなり微妙。一部からは蛇蝎の如く悪罵を浴びせかけられる。たとえばこれ。
「農家切り捨て論のウソ」(日経ビジネスonline)

「農業問題に詳しい神門善久・明治学院大学教授」の弁。

マスコミは「零細農家イコール弱者」のような形で描きたがりますが、現実には彼らほど恵まれた人たちはいない・・・農地を売却すれば大金を手にできる。「田んぼ1枚売って何千万円も儲けた」なんて・・・「農業に行き詰まり、生活苦のために零細農家が一家心中した」などという話は聞いたことがありません。零細農家には切迫感がない・・・彼らが本当に求めているのは公共事業なんです。公共事業で道路などを作ってもらえれば、自分たちの田んぼや畑が高く売れる・・・

このあとも延々この調子が続く(この学者さんの専門領域はアジテーションなのかと思う)。

公共事業縮小が続くなかどこの農家がそんなものに期待しているというのだろうか。もしそんな農家があるとしたらノーテンキ極まりないと私も思う(「とれぬ」タヌキの皮算用)。そもそもかつての地方公共事業大盤振る舞いの時代にさえ、そんなものに引っかかる農地なんてそうそうなかった。たぶん宝くじに当たる(あるいは冤罪に巻き込まれる)くらいの確率だったんじゃなかろうか。そりゃ宝くじ買った数十万か数百万の人たちはみんな当選を「期待」するわな。だいいち代々続く農家は公共事業にかかったところで嬉しくはないぞ、たぶん。いっときだけの大金と先祖伝来の土地に対する愛着(いや、義務感・使命感に近いな)をゼニカネだけで比較されても困る。そりゃそんなもんがアナクロだってえこた百も承知。しかし現にそういう心情はあるんだよ。自分一代限りで跡形もなく消えてしまう「知識」のコレクターには全く理解の外だろうが。そういうコレクターでも自分の著書が後代に伝わるとなったら嬉しいだろ?それほどの「著作」があればの話だが。

農地を売ってウン千万?いったいどこの話をしてるのか。大都市近郊?農地のうちでそんな高値で売れるものが全体の何パーセントあるの?「論拠を示せ!」。たしかにこの学者さんが後ろの方で書いているように、農地法の縛りがあるために農地はそうそう簡単に宅地等に転用は出来ぬ。使い勝手の悪い商品が安く買いたたかれることぐらいは経済が専門でなくてもわかるでしょ(ひょっとして経済専門?まさかね)。坪ウン千円だそうですよ、地方の農地って。いくら安かろうが、大枚はたいて機械を買い整えて休日つぶして働かねばならぬ土地をウン千万だして買いますか?千円なら買う?どうぞどうぞ買って休日つぶして精一杯働いてください。

いやはや、これではキリがないのでやめとこう。言いたいことは山ほどあるが。

学者つーのはもちっとマトモだと思ってたんだが・・・。いや、どこの業界にも●●はいる。木を見て森を見ずってのは中学校で習ったっけ・・・。この人、初めて聞く名前だけど、マスコミに名前が出るつんで嬉しくてよほど調子に乗ってしまったんだろうな。お調子もんもやっぱりどの世界にもいるのだろう。メディアの力つうのも罪なもんですわ。合掌。しかしこの方にとって、学者としての資質に欠けると看做されかねない論を公にすることで何か益するところがあったのだろうか。はなはだ疑問ではある。

うん、これただのボヤキ。ちょっと反省。

あああああ、世にあまたおられる良心的な学者の方々に対してなんと無礼な物言いをしてしまったことか・・・。阿部先生、池田先生、ウォーターマン先生、ウチダ先生、蕩尽亭先生、ハインペル先生、白頭庵先生その他諸賢の御方々、御無礼の段、何卒お許し下さいませ・・・・。決して学者を十把一からげにするつもりなどございません。絶対に。

ほんと、こんなんではまるでどこかのゴロツキみたいではないか。まったく、「お里が知れる」というもの・・・。え、とうの昔に知れてた?。そうですか。むむ。

正義の味方と正義

  • 2007年9月20日

ひところ秋の気配を感じて以来いささか油断していたせいかここ数日の暑さに足元を掬われた気分。日は短くなり陽射しもなんとなく鈍っているように思うのだが、暑いものは暑い。まだ夜の9時にもならんのにウトウト。

ついさっきまで死んだ魚のような眼でNHKの「クローズアップ現代」を見ていた。お題はサブプライムローン。信用度の低い人たち向けに高金利で貸し付けてハイリスクハイリターンを狙うのであるからコケるときはコケるわな、そりゃ。

当世、紳士然とした「じつは、高利貸し」はそこここにいるようだ。彼らと「文字どおりの高利貸し」(テレビとか映画に出てくるような悪相たち)の違いを探せばそれは債権回収手法の違いくらいといえよう。そして共通点はなにか。「借りた金は返さなあかんでしょ!」。これが金貸しの「正義」であるらしい。

正義といえば、TVA日の鹿爪小僧フルタチ1ロウは相変わらずシカツメらしいツラをさらしているのだろうか。私は7月の参議院選挙直前にチラとあれを見て以来アレを見ていない。見たくもないが。あの面もどうやら「正義」の匂いがする。

「ご利用は計画的に!」
「ワタクシは視聴者の皆様方の味方ですぅ!」

「おれたちゃ市民の代弁者なんだよ、オラ、分かってっか、コラ!」
「借りた金は返さなあかんだろが、あ」

二つ(三つ、四つ)の顔をその場その時次第で使い分ける連中というわけ。

貸し付けるときはエビス顔、取り立てるときは鬼の顔。

1ロウ君がどれほどテレビでもっともらしいことを喋ったとしても、彼の全身から滲みでているカメレオン臭が彼の「正論」を全て無効化していることに彼はいったいいつになったら気づくのだろうか。久米ヒロシの後を引き継いだばかりのころは、「ま、プレッシャー感じてんのかな」くらいに思っていたがその後もずうっとあの調子だったので「ああ、この人は猿だったのね」と気付いた次第。前任者の表面的なスタイルだけを猿真似するばかり。仏作って魂入れず(違うな)。

1ロウ君に限ったことでもないのかもしれないが、マスコミ連中はどうしてあんなに「正義の味方」ヅラ出来るのか私は不思議でしょうがない。それとも自分こそが「正義そのもの」なんて思ってんじゃないの?ま、そりゃ言い過ぎか。

良き法律家は悪しき隣人である、なんて言葉もあるが、それはともかくとしても自称正義の味方は間違いなく悪しき隣人である。「正義の味方」を自認したとき、その者は「正義」そのものになる。

しばし遠吠えをさせていただく。

正義は決して過たない。
正義は常に正しい。
無謬の存在こそ正義なり。
そしてまた、人間は決して無謬性を手にできない。

そして人間たちはしばしばそのような無謬性を備えた存在を「神」と呼ぶ。

「私は決して過たない」とは不遜な人間のみが語り得る言葉である。

これは個人に限らず組織にもあてはまる。
そもそも完全ならぬ人間の作った「不完全な組織」なぞが無謬でいられるはずはない。

では人間は「完全な組織」を作り得るのか。「完全無欠の組織」すなわち無謬性を備えた組織を作れるのか。それは、無理だ。

なぜなら万一にもそれが完成したとすればそれ(組織)が人間を越えた存在、無謬の存在、すなわち神となることになるからである。

結局、人間が無謬ではおれない以上、人間が作ったいかなる組織も無謬ではあり得ない。

したがって人間に残された手段は過ちを認め、そしてそれを改善することだけである。たとえそれが終わりのないシジフォスの労役であるとしても、それだけが人間に残された道である。

人間が作り出したさまざまな組織の打ち、とりわけ官庁組織は無謬性(常に過たないこと)を指向する。そしてそれは市民・国民の要請でもある。

しかし現実には、先に述べた如く無謬の組織であることは不可能である。重ねて言うが、組織にせよ人間せよ神になることはできない。そこには理想と現実との乖離がある。どれほど努力を傾けても埋め尽くすことの出来ないクレバスがある。

ところで、官庁の中でもとりわけ無謬性を要請する(される)のが警察という組織である。もちろんこれは当然の要請ではある。それというのも、生命・自由・財産の保護という人間の持つ権利のうちでも最も重要なものにかかわる組織であり、そしてまた(法的にはともかく)人々の自由・名誉・人生そのものをも左右する権能を有するという現実があり、ゆえにこれに対して無謬性を求めるのは人々にとってきわめて自然な感情といえる。

しかし、もちろんそれはかなえられることのない要請でもある。なぜならこの世に無謬の組織は存在しないからである。

しかし、決して実現することのできない「無謬への要請」に応える簡単な方法が実はある。「実はある」などと賢しらな言葉を書いてみたが「その実」なんでもないことだ。それは過ちを断固として認めないという道である。そしてこの方法は官庁、とりわけ捜査機関にとってははるかに通りやすい道である。

そして、この道を選んだ警察・捜査機関は「正義の味方」ならぬ「正義そのもの」すなわち(形式的なものではあれ)無謬の存在となる。

もちろんそれが「嘘」であることは大人であれば(誰でも)知っている。が、また多くの人が捜査機関の無謬性への願望をおそらく無意識のうちに現実のものとして見ようとしている。見たがっている。それは当然の願望なのだ。

「他の官庁の決めたことにコメントする必要はない」

神を目指す組織は他人どもの言うことにわずらわされるつもりはないらしい。たとえその「他人」がもう一人の神であっても。

神は一人だけでよい。

彼らはそう言っているのか。

オォーン

と、遠吠えはここまで。
書いているうちに長くなった。

ま、「正義の味方」はありがたい存在だが、自ら「正義の味方」を名乗る奴の中味は、まず間違いなくその言葉とは正反対のものと思ってよい。彼らは「おれは正義の味方だ」という言葉によって「おれが正義だ」と漏らしているのだ。

仮面ライダーも月光仮面も決して自らを「正義の味方」などと自称しない(違う?)。それを言うのはナレーターだったでしょ?ほんとうに正義の味方と呼んで差し支えないような存在は、自らのことを「正義の味方である」とも「おれが正義だ」とも、まず言わない(はず)。正義の味方は、悪を打ち倒しやるべきことやったあとは無言のまま(ときには弱き者に優しい言葉の一つもかけて)颯爽と立ち去るのみ。

この世に「正義」は存在しない。
正義の味方は一人称では語れない。

安倍氏は信念の人であった、のか

  • 2007年9月19日

なんだか今さら今までの数々の前言を翻すようなタイトルですが・・・。今回ばかりは(読んでいただけるのなら)是非最後まで読み通していただければありがたい(アタマだけ読むってのは今回のみご勘弁を)。

「なぜ“ポッキリ”折れたのか 安倍首相の「心」を分析」[キャッシュ]という記事を見かけた。精神科医や臨床心理士といったいわゆる「専門家」の「分析」ということになっているが、その内容は、失礼を顧みずに言わせてもらえれば、まあ、下らないお伽話というやつである。

むろん彼らの分析自体は決して荒唐無稽とは言えないだろう。しかし、彼らは誰一人として安倍氏を直接診察したわけでも面会したわけでもなく、われわれと同様にテレビで彼の最後の演説を見たというだけにすぎず、その点では私のような素人と同じ地平に立つ「只の」専門家に過ぎないわけだ。陸に上がった河童ならぬ陸に上がった専門家。いや、もっとはっきり言おう。そこでの分析はお世辞にも分析と呼べる代物ではなく、一つ二つ精神分析学の専門用語(に見える程度のもの)がまぶされているだけで中身は床屋政談以下の代物だ。別に彼らが精神科医である必要などどこにもないようなお茶うけ話である。おそらく読売新聞にとっては彼らの肩書きが欲しかっただけと見える。また、私の見た映像ではこの記事が言うような「涙目」(退陣表明会見の際の安倍氏の表情のこと)には見えなかった(首相官邸HPにある映像を見た)し、施政方針演説の際の映像もこれまた同様(若干滑舌が悪かったようだが)この記事が言うほどの異常な点は見出し得なかった(「涙目」については私も確言は出来ない)。

ちなみに今回のエントリはマスコミ批判でも専門家批判でも、そして安倍擁護でもない。大手メディアがなかなか語ってくれぬことを私自身が書いてみようという試みである。

安倍氏は退陣表明以後、まるで溝に落ちた犬(失礼!)のように叩かれまくっている。曰く「坊っちゃん」「ポキッ」なのだそうである。上の記事も趣旨はそのようなものだ。もちろん私も、安倍氏がポキッといったという点に関しては認識を同じくする者ではある。が、私は別に聖人君子などではないにしろ、彼をいまさら小突き回すことにはまったく興味がない。

そもそも安部氏が1年前の自民党総裁選挙で圧勝し得た要因は、「改革の旗手」と見なされていた小泉が自らの後継者と位置付けたこと、そして対外的な、特に北朝鮮に対する「毅然とした態度」が自民党員の圧倒的な支持を得たこと、そして総裁選挙には直接には関係のない一般市民の熱烈な支持が「選挙の顔」として”使える”と自民党議員に確信させたところにある。なかでも対北朝鮮強硬姿勢は度々メディアによって流布されたため、少なくとも世間一般の少なからぬ人々にとっては安倍氏の人物イメージを形成する上で重要なファクターとなったと私は見る。

就任後の安倍政権は、やらせミーティング、閣僚による数々の失言をものともせず着実に「実績」とやらを作っていった。是非はさておき教育基本法改正、防衛省昇格、国民投票法成立・・・。安倍氏は「戦後レジームからの脱却」という自らの信念を着々と現実のものにしていった。そしておそらく安倍氏は「北朝鮮に対する軟弱外交」もまた戦後日本の病弊と考えており、彼にとって対北朝鮮強硬姿勢は単なる人気取りのためのポーズにとどまらない重要性を持っていたはずである。いつの頃からか「ぶれない小泉」「ぶれる安倍」と前任者と比べられ貶められるようになった安倍氏であるが、彼が徹頭徹尾貫いたのは対北朝鮮強硬姿勢でもあった。この点に関しては今もなおその評価は衆目の一致するところであろう。

仮りに安部氏が任期満了の日までその座に留まっていたとすれば、この対北朝鮮政策に大いに頭を悩ませることになったであろうことは容易に想像できる。既に関係6ヶ国協議においては日本がこだわらざるを得ない拉致問題が「埓が明かない」として「埒の外」も同然の状況にあり、さらにここ数週間の報道に接する限りで米朝関係を軸とした北東アジア情勢は確実に妥協と(なんだか怪しげな)緊張緩和へと向かっているようである。

これは対北朝鮮強硬政策を一貫してきた安倍氏にとって容易ならぬ事態である(いや、容易ならぬ事態であった、か)。「ぶれてる」「ぶれてる」と言われながらも、安倍氏自身はおそらく常に自らの信念に忠実であった、はずである。少なくとも彼自身は人が言うほど「ぶれている」とは考えなかったのではなかろうか。

彼が常に信念に忠実であったことの傍証として、政権末期に巷間に流布した「KY(空気が読めない人)」という評価を挙げてもそれほど奇異ではないと思うのだがどうだろうか。

空気が読めない人というのは必ずしも感受性が鈍いとは言えない。問題はその感受性がどこを向いているのか、どちらへ向けられているかということだ。私は「空気が読めない人」とは「内向的な人」と言いかえてもよいのではないかと思う(むろん、常にそうだとは言わないし「読めない」「読まない」「気にしない」はそれぞれ微妙に異なる)。内向的な人はしばしば外交的外向的な人よりも感受性が鋭い(こともある)。繊細、敏感、デリケート、神経質、扱いにくい、変人・・・、いろいろ言いかえがききそうだが、ここでいう「内向的」「外向的」という言葉にはネガティヴな含意はない(そしてもちろんポジティヴな含意もない。ちなみに私は強い内向型である 関連エントリ:「MBTI心理テスト」)。

私たちの日常生活においては「内向的な人」という言葉にそれほど良いニュアンスは含まれない。むしろ「暗い」「何を考えているか分からない」「薄気味の悪い人」という含意さえあり、それに対して「外向的な人」の方には、「人付き合いの良い」「明るく」「楽しい人」といった含意がある(ことが大半である)。

しかし改めて確認しておくと、本来 C.G.ユングのいう「内向」「外向」にはそのような価値判断的な要素は含まれていない(疑問の向きは直接原典にあたってみてください)。ユングの言う「内向」「外向」概念を私なりの言葉で言えば(畏れ多いことではあるが)、

・内向的人間:自分自身の内面的規範を行動の準則とする人
・外向的人間:周囲の環境・状況(すなわち事実)を行動の準則とする人

となる。

さしあたり、このエントリを読むにあたって「内向」「外向」という言葉になんら価値判断(どちらが「良い」とか「嫌い」とか)が含まれないことを了解していただければ私の言わんとするところが誤解なく伝わると思う(思いたい)。

つまり、安倍氏は(良くも悪くも)常に自分自身の内面規範すなわち信念に忠実な人であったのだということである(単なるワガママという説もあろう)。この、自分自身の心中にあるルール(信念)に忠実でありつづける型の人は、周囲の状況の変化次第で評価が大きく変化する(左右される)。安倍氏の対北朝鮮強硬政策に即して言えば、これが政権発足当初は「毅然たる姿勢」として積極的に(ポジティヴに)評価され、その他の要素とあいまって彼を政権の中枢に押し上げたのだが、周囲の情勢変化(たとえば米朝接近、たとえばもう政治生命も長くはないなというひそかな(?)評判)によって以前と全く同じ強硬姿勢が「頑な」「柔軟性を欠く」「空気読めない(KY)」という消極的な(ネガティヴな)評価に変化していった。

何度も繰り返すが、安倍氏の対北朝鮮政策そのものは政権発足当初から今までほとんど変化していない。首尾一貫して「強硬な姿勢」を貫いた、といえる。むしろ、変化したのは安倍氏自身ではなく明らかに彼を取り巻く(そして日本を取り巻く)環境の方である。米朝の緊張緩和という北東アジア情勢すなわち「環境」の変化があり、また参議院選での大敗という「事実」が生じたことによって、安倍氏に対する国内外からの評価は一変したのである。アメリカは安倍の対北強硬姿勢が邪魔になり、国民は年金問題その他の対応ぶりを見て遅まきながら「安倍つかえねぇ」の判断を選挙で明示した。

元来、内向型の人間は何を考えているのかが外からは分からない。一見しただけでは彼がどういう内面規範を持ち、ある状況において彼がその規範を現実に対してどのように適用するかが周囲の人々には皆目分からないのである。その点、外向型の人間はそもそも「内面」規範などという「見えないもの」よりも周囲の人々が共有する(共に経験する)状況・環境に柔軟に(無定見に)合わせていくが故に、周囲の人々は彼の行動を容易に予見し得る。そしておそらくそれ(驚かされることがないという安心感)故に周囲の人々は(彼ら各々が内向型であれ外向型であれ)内向型よりも外向型の人間を好むのだろう(もちろんそれは「一見さん」に限ればのことであって、付き合いが深まるうちに「こいつ実は軽薄なヤツ」とか「こいつ頭んなかカラッポじゃん」へと、外向型に対する評価が悪い方向に変化することがないわけではない)。

このエントリはそもそも安倍氏を擁護するつもりで書いているのではない。けなすつもりもないが。

そろそろ、結論が見えんぞとのお叱りを頂戴しそうだが今しばらくお付き合いいただきたい。

内向型の人間はしばしば「突飛な行動に走る」「何を考えているか分からない」

これはおそらく事実だ。

しかし彼の行動は実は当人にとってはいたって合理的な行動だということも充分にあり得る。そしてそれが周囲の人々の目から見ても(彼の思考の理路が判明すればのはなしではあるが)合理的だと評価される可能性も残されている (その点、上記記事はこのようなことを知ってか知らずかはともかくすっぱりと切り捨てていて一面的に過ぎ説得力がない。むしろ彼らがそうしたことを知らぬはずのない「専門家」であるからこそ余りに不誠実さが際立つ)。

このことはひとまず措くとしよう。

では、あらためて。というか今回のエントリの眼目は以下。

安倍氏は常に信念の人であった。

そして「信念」とやらは、それを大事にしている当人にとっては堅固不変のものであっても、その評価は周囲の環境あるいは風向き次第で白が黒になり陽が陰となる。

安倍氏の辞任表明ののち、唐突な辞任が国民の不興を買っており(それが当然の反応だとしても)、どうやら精神的欠陥の持ち主であったが如き言説まで喋々されるに至ってはいささか奇異の念を抱かざるをえない。それは私が彼と同じ内向型だからでも安部氏の病状を知っているからでもない(そんなものほとんど全く知らない。そのての記事なんかチェックしていないのだ)。
彼を首相の座に押し上げたのは、まさしく彼の「信念に忠実な態度」を「毅然たる態度」として称揚した人々であった。万が一にもその同じ人々が彼を「KY」として非難するようなことがあればそれは余りにも主権者として情けないと言えないだろうか。信念に忠実な人は往々にして「KY」であらざるをえない。良くも悪くも。

むろん、今回ような馬鹿げた辞任という事態は想定外だ、として安倍氏に全責任を負っていただくというのもアリではあるのだろう。安倍氏も政治家としてそのくらいの覚悟はお持ちであろうから。しかしながら、今回のように「あのボンボンめ!」で済むような事態ならばともかく、一旦「国のトップ」として不適格者を担ぎ上げたが最後、その選択が招来する災厄は国民全員に降りかかってくることに思いをいたすことなく、またその時どきの「風まかせ」で軽々に選択をなせばひょっとすると自らの首を締めることになるかもしれないという自覚を持つことがなければ、いずれまた日本人は「私たちは騙されていたのだ」「一部の者が独走してやったことだ」と、荒廃した国土にしゃがみ込んで呪詛の言葉を漏らし涙をこぼすことにならないと誰が断言できるだろうか。

そして新たな自民党総裁選がもう始まっている。

誰が総裁になっても大勢は変化しないのかもしれない。しかしそれはそれとして、たとえば麻生太郎氏があの年にして漫画が好きだとしてこれを「精神の柔軟さ」だと評価することは可能だろうが、これはまた容易に「ただの馬鹿」という評価に転化することは充分考えられることだし、福田康夫氏のような一見そつのない実務家風の人が「粛々と」国民を破滅の縁に連れ出さないとは誰にも確言出来ない。

「で、結局どっちなんだよ、おまえは」

と聞かれてもちと困る。

俺はどっちでも良いしどっちになっても気色悪い、としか言えない。私はシロでもクロでもアカでもない。そしてそれは決して私の優柔不断さゆえではないと思いたい。

ノリ弁かシャケ弁か、それが問題だ

  • 2007年9月8日
  • キーワードタグ: 教育

 何とか審議会でまたぞろツマラン議論をやってるらしい。

そんなものはツマランに決まってはいるのでここで私がボヤいたところで始まらんわけだが・・。それでも(わたし的には)なかなか拡がりのありそうな(話が暴走しそうな)ネタなので一席。

で、なんでも中教審だか臨教審だかで「世界史と日本史、どっちを必修にする?」という議題があるらしい。つい先日どっかのニュースサイトで見た(gooだったか?)。そりゃこんな論題なら迷走して当然だわ。

「今度の会議の昼食はのり弁にする?それともシャケ弁にする?」と大差なし。「どっちにする?」
そもそも「議論」の余地なし。

「シャケ弁は塩分過多だ!」
「のり弁じゃ腹がくちくならん」
「今の子供は魚の皮は食えないんだよ」
「海草類は健康にいいのだ」

延々続くわな、こんな  ぎ・ろ・ん。

結局は全部後付けの理屈くっつけるだけの「議論」になるじゃろ。

「日本人ならまずは自国の歴史を知るべきだ」
「国際感覚が不可欠の時代なんだからさ」

(以下略)

いい齢した、しかもそれなりに地位も名声も得たオヤジどもが面つきあわせてアホなことやってるわけだ。それほどに暇なのか?彼らは??

いや、もちろん議論の詳細は知らない。

しかしね、「受験に関係ない科目は生徒がついてこないから」なんてハナシが出てるような会議がまともなはずはないべ。

日本史なのか世界史なのかよく知らないが、受験に関係のない科目を必修化すべきでないとのことらしい。生徒や保護者から苦情がくるのだそうで。

そうかいそうかい。
それほどまでに苦情が怖いのか?
なら大学受験しない子供やその親が、「そもそもおれは受験に関係ない(大学受験しない)から全科目勉強しない」と言えば通るのか?そんなはずはあるまいよ。

なら、なにかい?
大学を受験予定の生徒には受験に備えて便宜を図ってやって「受験していただく」方向でコトを進める一方で、受験しない生徒には彼らがやりたくもない科目を「つべこべいわずにやれ」ってわけか?

これ、おかしい。

俺の話自体もおかしいが、「お受験していただく」ってのもこりゃおかしいぜ。
この委員、いま高校生の子供でもいるのか?

シャケ弁かのり弁かなんて議論やってる暇があるんなら、「そもそも受験に関係のない科目に意欲をもてない生徒をどう指導すべきか」あるいは「受験に関係ない科目は全部やめましょ」とか「大学受験組とそれ以外の組は学校分けちゃいましょ」ってな議論でもどうぞ。それがなんちゃら審議会の仕事ではなかったのか。

いつのまに審議会が生徒・保護者の希望代弁会になったのやら。選挙対策か?

国家百年の大計とは、はたしてのり弁かシャケ弁かを議論することなのであらうか。甚だしく疑問におもふよ、わたくし。

なぜ今の日本においてはこのような「のり弁かシャケ弁か」と大差ないことさも大層な論題であるかのようにしかつめらしく議論するのだろうか。どうして「そもそも会議に弁当出す?それとも各自持参?という議論はなされないのだろうか。あるいは「あの会議やる?それとももう惰性になっちゃってるから会議そのもの廃止する?」という発意は生じないのか。

のり弁かシャケ弁か選びたいならそれはそれで結構だろうが、いい大人がそんなことで貴重な時間を浪費していられるほど日本は長閑だったのかね・・・。

そういえばこの件に関して昨年どこかの新聞論説で阿呆なことを書いていた。

世界史は暗記項目が多く、範囲が広くて大変だ。日本史ならそんなことないし日本史にすべきじゃーん、必修科目未履修問題の元凶は世界史にあり、てな論旨であったかに記憶する。余談ながらこの記事を見た時、わたしは新聞というメディアの末路をありありと想像できた。お先真っ暗。先の望みなし。ってかもう終わってる。

インターネット上にプロ・アマ問わず質の高い評論が溢れ、世界中のどこにいようとそれを読むことが出来る今、中学生の作文と見まごう新聞論説なぞまさしく「ゴミ」以外の何者でもない。事実上今の新聞論説が「誰も読まない、欲しないオマケ」に過ぎないとしても、「ま、タダだしね」で読んでいた者ですら「・・・・」と思わざるを得なかった(何を?)。言ってみれば刺身のツマどころか刺身パックに入ってるビニール製の笹の葉(あれ何てんだっけ?)。誰も食わない、そもそも食えない。役立たずの添え物。

余談はともかくとして、

乞ういずこかの具眼の士よ、この件、天にかわって理路整然と説破して下されんことを。

なんだか、なんちゃら委員よりも現役高校生の方がよほどまともな議論をしてくれそうな気がしてきたな。

関連エントリ:「今日は暴言」

2人のワル?

  • 2007年9月5日

どこかのアバズレ女に秋波を寄せているダンナにやきもきする一人の女。

時間の経過とともに旦那のボルテージは上がる一方の様子。そして女の心配はどんどん募る。
「わたしとの約束はどーなったのかしら?!」

俗説に、ツレが浮気したとき男の怒りはツレ自身(=異性)に向かい、女の怒りは浮気相手(ダンナの浮気相手=同性)に向かう、というやつがある。それらしきものを今の東アジア情勢に見たので書いてみる。

主な登場人物は3人。アメリカ・日本・北朝鮮。

アメリカ男というダンナの一挙手一投足に愛情のかげりが見えないかとビクビクしている日本女。そしてアメリカ男が秋波を寄せる相手は今北朝鮮。

このアメリカ男、べつに北朝鮮女がそれほど好きなわけではない。ただ、ちょっとした弱味を握られているためにやむなく歓心を買わざるを得ないちょっと情けない状況。だいいち女なら誰でもいいという好色漢。柔軟性があるとも言うが。
一方日本女は北朝鮮女とは古い因縁もあって仲が悪い。わけても北朝鮮女が自分の物を無断で持ち去ったことで日本女の怒りは頂点に達している。だから日本女はアメリカ男にこう約束させた。「あれを返すまではあの女に気許しちゃダメよ、絶対近づかないでね。だいいちあの子泥棒よ。警察官が泥棒と仲良くしちゃだめだよね、そうでしょ」

それを言われるとアメリカ男はうなずかざるを得ない。

「あ、それとね、うちのお父さんが私たちのマンションの家賃出してやってもいいって。あなたも今イラクとかアフガンとかで大散財で大変でしょ。だからね、考えてもいいって言ってくれたの。」

そんなわけでアメリカ男はしぶしぶ承諾。

アメリカ男の本音はこうだ。

(北朝鮮女、大丈夫かなぁ・・・暴発されたらオレすっごく困るんだけどな)

かくして、共通の知人を交えた6者協議が始まるが、なかなか進展を見せず時間ばかりが経っていく。そしてアメリカ男はどんどん不安に。

そうしたなか、アメリカ男と北朝鮮女が二人だけで密室会談。アメリカ男と北朝鮮女の間でどんなことが話されたのか。そこで何があったのか、他の者には分からない。

会談の直後、北朝鮮女が世間に向けて発表した。
「わたしたち仲直りしまーす」。

心なしか彼女の顔は火照っているようにも見える。いったいそこで何がなされたのだろうか。誰もが興味津々。

一方で日本女の不安は募る。おりしも父親がマンションの家賃、これ以上は出すのやめたいと言い出している。どうやら母親にバレたらしい。なんとも予断を許さぬ情勢。

事実関係を尋ねられたアメリカ男は「仲直り」を否定。
「進展はあったが、継続中の課題だ。何かが決まったということはない」(6カ国協議で拉致問題提起・米国務省副報道官

「今すぐにということではない。北朝鮮がまず実行しなければならない主要な事柄がいくつかある」(北朝鮮「テロ国家リストから除外」 米側は否定

コトの真相が不明なだけに日本女の不安は頂点に。

「どどど、どうしよう・・・」
「わたし捨てられちゃうの?」
「彼の愛はもう冷めちゃったのかしら・・・」

日本女は慌てて実家に車を走らせながら考えていた。「愛がお金で買えるならお金作るわ。体を寄越せっていうのなら体も張るわよ!」。彼の愛をつなぎ止めるためにはなりふりかまっちゃいられない。

(父)「いや、おれは出してやってもいいんだ。いや、出してやりたいよ。でも母さんが・・・」
(母)「だめったらだめ。」
(父)「いや、そこをなんとか・・・。いいじゃないか。アメリカ男におれも約束しちゃったし」
(母)「そんなこと私は き い て ま せ ん」

日本女が実家から帰り際、父が母の目を盗んでこっそり言う。

「なんとか頑張ってみるから」

で、父親は親戚隣近所まで巻き込んで助力を頼む。家庭内のゴタゴタを晒け出す情けなさには気づいてもいない。

町村外相はダウナー外相との会談で、同法延長について「野党の理解を得られるよう最大限努力するが、国会運営は厳しく予断を許さない」と説明し、「日本政府の取り組みを支援してほしい」と述べた。ダウナー外相は「支援したい」と応じ、ヨー外相も支持を表明

<町村外相>豪外相らと会談、テロ特措法延長で支持求める

(そういえばこの父親、この前お隣さんとケンカしたときには「それは内政干渉だ!!」と怒りまくっていたなぁ・・・。自分の都合次第で言うことがころころ変わるのはどうやら血筋というべきのようだ。)

日本女は知らなかった。アメリカ男が世界中のあちこちに愛人を作っていて、どこでもかしこでも同じことを言っていることに。

「君は僕にとってかけがえのないパートナーなんだ」
「君といつまでも一緒にいたい」
「一緒にイラクホテルに行こうぜ。刺激的だぜ!(ビンビン)」

日本女の心のうちも複雑ではあった。

「北朝鮮女のゆさぶりに決まってるわ。彼が裏切るわけないもの」
「でも、もしかして・・・・」
「警察官のくせに泥棒に気を許しちゃうなんてあっちゃいけないわ」
「世界中で敵を作ってストレスが溜ってるのよね、きっと」
「彼の弱味につけこむなんて・・・・ゆ、許せないわ、北朝鮮」


「ねえ、あれでよかったかしら?」

「カンペキだったよ、ありがとう」

「ふふふふ、あなたそれでも警察官?」

「それは言うな。いろいろあるんだよ、こっちも。とりあえず家賃はなんとかなりそうだ。あそこの親父ももう落ち目だしな。絞れるうちに絞っとくさ。うちのおふくろもいろいろ協力してくれてるよ。ま、いずれにしてもおれにとっちゃ損はないんだよ。でも、ま、おまえももう少し身辺きれいにしろよな。いちお俺、世界の警察官だしな、相手がお前でもやるときゃやるぜ」

「はいはい、正義の味方さん。わたしあなたのそんな悪どさがけっこう好きよ」

そう言いながら北朝鮮はアメリカの首に両手を回して媚態を見せる。

「でもね、彼女ってどうしてあなたにそこまでゾッコンなの?お金だって持ってるし家柄だってあなたよりよっぽど古いし、外見だって悪くわないわよね。」

「おれの手にかかれば世界中のどんな女もイチコロさ。おまえだって知ってるだろ!?鴨緑江 ホテル、覚えてるか?
日本もな、もう足腰立たなくなるまでやってやったよ。だからあいつはもう俺には逆らえねえ。」

「フフフ。そうだったわね。なんだかんだいって私たちってけっこう似てるわよね(ウフ)」

無駄に長いエントリ

  • 2007年8月2日
  • キーワードタグ: 政治

初手を誤ってしまうと、あとはなにをどうやったとしても深みにはまるばかりで抜け出せなくなる、ということはしばしばあるらしい。

政治資金というぬかるみにスタックしてしまった赤木大臣、結局は更迭だとか。たとえ名車ポルシェでも泥沼から抜け出すことはかなわなかったというわけだ。

古今東西、政治にはカネがかかる
ものなのだそうで、あらためて政治資金規制法とやらを改正したところで根本的な解決は難しそうだ。
いっそのこともっと革新的(イノベーティブな)方策を見出せないものか?

赤城さんの不明瞭な支出の大半は(本人曰く)支持者への接待費(飲食費)だそうだ。とすると、選挙民にタカられてたのだということなのか。まあ、ぼっちゃま面でポルシェを転がすような人間なら多少の金銭的余裕があるだろうと見込まれてしまったのかもしれない。かわいそうに。

テレビ辺りで時々見聞する限りでは、数代続く政治家の私邸はたいてい御立派な構えをしているが、政治家の仕事というのはそれほどにお金になるものなのだろうか。それとももともと資産家であったからこそ政治家になれたというわけか。まあいずれにせよ、政治と金とは金輪際切り離せないもののような雰囲気がそこはかとなく漂ってはいる。

いっそのこと、政治家とはなべて極貧の生活を送っているのだという社会的コンセンサスを作ってみてはいかがだろうか。なまじっかお金を持っているから(持っていそうに見えるから)たかられちゃうのでは!?だーれも貧乏人にメシをタカったりはしないよ。

さしあたり、国会から村会議員まで全て無給。そりゃあんまりだというのならまあ生活保護世帯と同レベルもしくは法定最低賃金のみ日給月給で支給しよう。どうだね?

「それでは有能な人材が集まらない」ってか?

結構じゃないか。高給でなければ御国のために働く気はないなどという御仁なら来てもらわずとも結構。この日本、たとえ金にはならずとも御国の為、共同体のために身を粉にして働こうという人材は掃いて捨てるほどいるんだから。なにせ「美しい国」であるからして。違う?それとも今の日本には高給と引きかえでしか働かないような人間しかいないのかね?

議員と同様、全体の奉仕者たる公務員だってそうだ。天下り?四十、五十になって民間に天下って活躍できるほど有能な人材ならばむしろ職業生活の初めから民間でどんどんイノベーティブな仕事をやっていただいて利益を上げ株価を上げ国家の税収アップに貢献していただく方がよほど御国の為ではないか。

いささか暴論ではあるが。そもそも議員・公務員の仕事は何かを生み出す仕事ではない。彼らの仕事を一言で言えば「調整」。所得の再配分という調整であったり企業活動が円滑に進められるような調整であったり、諸外国との調整であったりと様々だが、その本質は「調整」にある。もちろん、それらには現業が付随することはままあるにせよ、公務員の大半はその労力を様々な意味での調整に費している。けっして自らの手で何かを生み出すわけではない。いや、たしかに彼らの仕事だって私たちの生活が円滑に回っていくような環境を生み出しているとも言えるわけだが、その分、われわれは税を納めている。つまりは差し引きゼロというわけだ。公務員が身を粉にして真摯に職責を果たしたとしても差引き勘定は常にゼロとなる。ゼロになってくれなければならない。

そのように調整を本務とし自らは何かを生み出さぬ公務員であるから、労働力人口に占める公務員の比率が高まれば高まるほどに国家全体の活力が萎んでいくのはむしろ自明のことといえるだろう。どれだけ働いてもトータルでは差し引きゼロになる職種に高給を支払いつづければ借金が増えていくのもまた当然のことといえる。

議員にせよ公務員にせよ、自らは何も生み出さない仕事に金銭的・人的リソースを過度に消費することは結局のところ亡国につながる。ましてや労働力人口は今後縮小するばかりである。したがって議員・公務員の削減は不可避と言うべきだが、「イノベーション」を唱える自民党政権は相変わらず旧弊を温存している。この点では野党も変わりはない。

一方で小泉改革以後、なにかにつけて「民間信仰」「競争万能」が言われることに食傷している人は少なくない。確かにお役所の仕事ぶりは変わった。腰が低くなり、愛想が良くなったのは確からしい。聞くところでは内部でも業務の効率化がやかましく言われるのだとか。それはそれで結構なことだし、民営化が吉と出ることもあるのだろうが、それでもやはり民営化には馴染まない仕事はあるのだろうし、そういう仕事こそやれ利益だとか効率だとかで計らずに実のある仕事をしてもらわなければ共同体の存在意義そのものが失せてしまう。

長くなったのでそろそろ。

共同体のため、社会のためにたとえ報われることが少なくとも尽くす、そういう人はわれわれが考えている以上にたくさんおられるはずだ。議員諸氏にしても選挙の時はたいてい国の為、我が町のためにとおっしゃるではないか。それがもし本心なら高給だろうと薄給だろうと構わぬのだろう?高給もらわなければ国の為おらが町の為には働けぬというのなら彼のやろうとしていることは只の賃仕事に過ぎない。只の賃仕事ならば、やろうという人間はいくらもいる。べつにあなたでなくとも構わぬというわけだ。

本来なら無給に甘んじるべき議員諸氏が高祿を喰み、あまつさえ様々な名目で金員を懐にしていれば、「メシぐらい食わせろよ、カネあるじゃろ!」と言いたくなるのは人情ってものだよ、旦那。もちろん誉められた話ではないがね。

「政治家つーのは偉そうなこと言ってても貧乏なんじゃな」

そういう社会的合意ができてくれれば、領収書ごまかしてまで飲み食いさせる必要はなくなるかもよ。
もしそれでも「つべこべ食わせろー」と言ってくるような者が出てきたら、そんときゃ

「ひっくくれー!!」

高給出さなきゃ人材が集められぬ、だと!?
アホいいなさんな。
高給出さなきゃ来てくれないような有能な人材を官界に滞留させるのは「国益」に反しますぜ。何度も言うけど差し引きゼロの仕事だからね。まして薄給でも私はやりたいのだ、という殊勝かつ有能な人材だって日本には少なからずおられるのですから(たぶん)。

さて、台風対策をせねば。仕事しごと。

拝金主義ならぬ拝数主義

  • 2007年7月29日
  • キーワードタグ: 政治

今朝の新聞テレビ欄を眺めてみたところ、各局とも軒並み参議院選挙特番を組んでいるらしい。ま、当然か。

年金問題、教育再生、競争原理、格差社会・・・。
争点は山盛り状態。

親政府与党(いや、親安部総理というべき)某新聞あたりは、自民党の敗北は「改革の後退」であり「北朝鮮の思うつぼ」だと臆面もなく述べている。さらに「年金問題は解決済み」とも。社会の木鐸が聞いて呆れるばかり。いまだ精査に着手すらしていないという年金記録問題のどこが「解決済み」だというのか。政府与党が「○○します」「調べます」「払います」と手形を振り出したことをもって「よしよし、万事オーケー!」とでもいうのかね?おめでたいネ。もちろんわたしだってそれが「空手形」でないことを祈っているが、政治家のお言葉を頂戴しただけでもう何かが実現したかのように信じるほど暢気ではない。

改めて振り返ってみれば今日までの現政権の「実績」とやらはその多くが「言葉だけ」、「振り出されただけの手形」にすぎない。教育問題をとってみれば、たしかに教育関連法の改正はなされたとはいえそれで本当に教育を建てなおすことが出来るかどうかは全く未知数だ。現時点ではそれらの法改正がさらなる教育の荒廃をもたらすことも十分に考え得る。私見ながら私自身はそうなるだろうと予想している。教育問題に限らずとも最チャレンジ、イノベーション、北朝鮮問題・・・実績と称されるものの多くは(いまのところ)形ばかりの改革にすぎず、それがほんとうに実績と呼べるものになるのかどうかは今後数十年の時日を要することはいうまでもない。単に現状をいささかなりとも改めるることを以って「改革」だの「実績」だのと臆面もなく言える者なぞむしろ詐欺師と呼ぶべきかもしれぬ。

「政治家とはそういうものだ。未来を見据え、敢えて甘言をなすのも政治家の仕事だ」という向きもあろう。そうなのかもしれぬ。しかしこの国には、繰り返し繰り返し念仏を唱えているうちにいつのまにやらそれが現実だと思い込むような癖がある。「民主政治」「人権尊重」「法治国家」「経済大国」。バブル期に"Japan as No.1"なぞと言われてその気になっていた日本はまさに「阿呆まるだし」であった。日本は自由な国、民主国家だと言いつつ、そのかたわらでは経済的困窮から餓死する人がおり、冤罪に苦しむ人がおり、そして言論の自由とやらもどうやら怪しい。「改革」「改革」と念仏を唱えているだけにもかかわらず、あたかもそれが既に実現したかのように信じ込むことなぞ造作もないこと。

前置きが長くなりすぎた。

何気なく口にする(口にされる)言葉を、ときには深く掘り下げ、吟味し、自省すること。これは獣ならぬ人間が持つべき習慣であり、教育というのはそうした習慣を身につけさせ深化させることだと私は思うのだが、浮世においてはそのような態度をうかつに示してしまうと面倒事になることもある。

曰く
うざい
そんなことない
おまえは間違ってる
偏屈、変人、ヒネクレ者

「獣ならぬ人間、だと!?あたりまえでしょ。獣はケモノ、人間はニンゲン。ばっかじゃないの?」

いやぁ、そういうことじゃないんだけどぉ・・・(ぶつぶつ)。
馬鹿いうやつがバカなんじゃ、おんどりゃ~!!

(ま、どちらでもいいんだが。ヒネクレ者はヒネクレ者の道をゆくのみ。)

おっと、はなしが脱線してきた。

「あなたの言う実績ってなに?」
「あなたの言う格差ってなに?」
「あなたの言う競争ってなに?」

・・・・・・・・

どうも一向にタイトルに結びつかぬ。

いや、ま、格差とか年金とか、「カネカネカネ」が争点だとマスコミ(サンケイ除く、ね)は言うが、もちっと掘り下げてみるとカネつーよりか、金持ち貧乏人問わず「数字数字数字」に追いまくられることに疲れ果ててるってのが今の世相かな、なんてことを考えたものですから。

売上げ、利益、合格者数、達成率・・・・・・・・。
それはそれってことじゃ、だめですか?

片や数字(実績)を求められて悪戦苦闘する庶民。
片や納めたはずの数字がいつのまにやら消えていた不思議。

そのとき生じた怒りはなにも金や数字に向けられたものではない。

「じゃ、おまえたちは何をやったのだ?何を残したのだ?」
「口先ばかりの強硬姿勢か?空手形の乱発か?」

瑣末なことを争点にしてはならぬなどと一体どの口で言うのかね。
瑣末な事しか見えていないのは君自身ではないのかね?

はて。まとまらぬ。どうにもならぬ。

ま、とにかくマスコミは野党優勢を伝えているがどうなることか。

「政治の夏」「選挙の夏」は今日を境に「実りのない秋」へと移りゆくのか。

ふぅ
しょぼーん・・・。

白昼夢の政治

  • 2007年7月26日

さて。
どうやらlinux版xfy blog editorが使えるようになったので、ここらで今次参議院選挙について一席ぶってみようか。
と思ったけれど、既に自民党の敗北宣言も出たことだし(というか正確には「選挙敗北でも僕やめませんから」ということらしいが)、やめておこう。

とはいえ、気にはなっている。
先日の「政治の季節」で私は次のようなことを書いた。
今次選挙の争点は年金問題でも格差問題でもなく昨今の政治が本当にフェアな議論(言論)に依って立っているのなのかどうか(以下略)
いささか舌足らずな物言いではあったといま思う。そこで少しばかり言葉を補っておきたい。

今次選挙の争点は、
「生活実感」と「空疎な言論」とのどちらを選びますか?
そういうことだ。
今日の晩ご飯のオカズ、明日に迫った懸案のプレゼンテーション、子供の受験、親の介護だとかいう、ありふれたものでありながらも切実な種種の問題を抱えた個々人にとっては、もしかしたら起こるかもしれない戦争に備えた法改正だとかひょっとするとやってくるかもしれない「実感の伴った」好景気だとかいうことどもは、(1年や2年程度の短いスパンでは)しょせん「おもちゃの兵隊ごっこ」「とらぬ狸の皮」に過ぎない。少なくとも私にはそう思える。

とっとと結論にもっていこう。
いまの政府与党は言葉ばかりが勇ましい。そしてまた数々の失言問題に見られる如くその言葉はあまりにも軽い。そこにはフェアネスも惻隠の情も見えない。その欠片さえもなさそうに私には見えている。

経済成長こそが現状を打開する唯一の方策だとのだと彼らは言う。イノベーションに基づく経済発展こそが日本の未来を築くのだと。それ自体は確かにもっともな言葉ではあろう。しかしその内実はあまりにも貧しい。ほとんど白昼夢の世界に等しい。

すでに旧聞に属するが、しばらく前に政府筋が策定した「イノベーション25」中間とりまとめ」とこれをもとにした(子供向けらしい)小話は、彼らがどれほど真面目にくだらないことを喋々しつつ多くのリソースを浪費しているかを非常にわかりやすく示してくれる。
「伊野辺(イノベ)家の1日」

ユビキタス、電気自動車、新薬発明・・・。一読ながらそこには革新性の影すらない。いま既にあるものの延長でしかないものばかり。ほとんど新聞正月版の「未来はこうなる?」的なものでしかない。イノベーションそのものは望ましいことだとしても、どうやら「彼らの言うイノベーション」とやらはその程度の白昼夢レベルのものらしい。ましてや、このような代物におそらくは日本でもトップクラスの人材が投入されている。なんとか会議の委員なぞどうでもよい。しかしあまたあるなんとか会議の周辺にはボンクラ委員が足元にも及ばぬ優秀な官僚がひしめいている。あまりにも悲しい。悲しすぎて笑えてしまうほどに。

このような悲劇的喜劇が生じた原因はただひとつ。「革新」「イノベーション」という言葉の持つ語感だけを欲しがるボンクラ政治家の存在だ。なにもイノベーションに限らずとも、彼らの吐き出す言葉のほとんどは中身の伴わない「キーワード」に過ぎず、国会ではそのような空疎な言葉を用いた空騒ぎの挙句に強行採決で幕。小選挙区制の下、議員一人々々は員数合わせのための存在でしかなく、国民の代表者としての重みなどもはやない。そしてあまりにも軽い言葉と軽い論議。

当然のことながら白昼夢状態の政治家どもと国民一般とはまるで別世界の住人の如くなっている。彼らの目には支持率とかいう「数字」と周囲の仲好し同志くんたち以外のものなぞ映っていない。だから彼らは国民一般の反応がまるで読めない。まして彼方にある諸外国のハラも当然読めるわけがない(既に証明されたと言ってよかろう?)。
昨今の政治家たちの失言の数々や年金問題とそれに対する政府の頓珍漢な対応ぶり等々がはしなくもこうした政治家・官僚と国民一般との乖離状態を白日の元に晒すことになった。

そして政治家たちによってそこらここらに取り残された1億国民のうちには、さらに「ワーキングプア」として経済的にも「放り出された」人々が数多く含まれている。はたして、困窮する人々を「自助努力の足りない者」として放り出すような社会は共同体としての存在意義を持っているのだろうか。私たちの社会が共同体としての意義をすでに失っているのならば、その社会を維持するための金銭的負担や倫理的規範を放擲する人間がぞくぞくと生まれたとて誰が責められるのか。何が彼らを押しとどめられようか。

これ以上脱線する前に区切りを付たほうがよさそうだ。。

今回の選挙の争点を単に年金問題だとか格差問題だとかいう個々の問題に限定してしまうことは、わかりやすくはあってもいささか危険なことだと私には思える。言うまでもなく今回の選挙結果がどうであれ、それですぐなんらかの具体的成果(年金問題の解決だとか格差解消だとかが)に結びつくことはまずない。まず問われるべきはそうした個々の問題に通底する「元凶」はなんなのかということであろう。敢えてそれを一つだけ挙げるならば、それは官民を問わずあちこちに瀰漫している責任回避・問題先送り・リソースの浪費等々であり、国民の誰もが漠然と感じとっている「組織」「共同体」の存在意義に対する疑念ではないだろうか。にもかかわらず「革新」を唱えて登場したはずの現首相は相変わらずの責任回避。そして彼の周辺もまたしきりに彼を擁護し、なおかつ国家そのものは革新どころか復古の嵐。声なき民衆(国民)の感情は文字どおり行き場(はけ口)を失っている。
結局のところ、今次選挙の最大の眼目は、(政治家たちの思惑は別として)こうした「民意と政治の乖離状態」を看過してよいのか否かであり、復古政治と民意との乖離状態の解消こそが今回の選挙(有権者の投票)の意義を生ぜしめるのだと私は思っている。

白昼夢を見ながら自慰に耽る政治家はさっさと引退してよし。
もっともそのような政治家を枢要な地位に押し上げた「民意」とやらもまた批判されるべきではあろう。そしておそらくそれ(批判・反省)もまた投票行動によって為しうるということなのだろう。
一票の重みという言葉がやけに切実な意味を帯びているような気がする今日このごろ。かつてこんなことはなかった気がする。

けっきょく選挙のはなしになったようで・・・。

(2007年7月27日一部改稿)

通報するときは”演出”が必要?

  • 2007年7月20日

既にいくつかの全国紙でも報じられた一件だが、
一刑事に対して市長に関する不穏情報がもたらされ、上司にも伝達されたものの、

「差し迫った緊迫感はない」

として対応が取られぬまま、(結果として?)市長が射殺される事態に至ったのだという。

これに関連する地元新聞の続報。
「直属上司も情報把握 通報放置『不適切と言えず』」(長崎新聞)【ウェブ魚拓】
※この新聞社、直リンク「厳禁」だそうなのでリンクは控えます。
”伊藤長崎市長射殺事件”でgoogle検索すればトップあたりに引っ掛かるはずです。

このこと自体の当否は別にしても、これが発覚したのち、部下にのみ責任を負わせようとした上層部はまるで旧日本軍のそれと同様ではないか

やはりこの組織にも「廉恥心」や「知性」などというものが欠落しているらしい。
「全容の解明」であるとか「社会正義の実現」などという言葉は如何にも頼もしいが、その実「ミス」や「勘違い」を誤魔化すためならば
「部下に責任をしょいこませ」
「ウソにウソを重ねて」
「強きを助け弱きをくじく」
旧軍若しくはアウトローなみの非知性的暴力集団であるかのようだ。

もし彼らが看板通りの頼もしい存在であろうとするならば、「失敗から学ぶ姿勢」と「虚心に事実を見る目」を是非とも取り戻すべきではないか。わたしは切実にそう願っている。もちろん亡くなられた市長の命は取り戻すべくもないのだが。

その職務の性質上、「失態を糊塗し続けることなぞ出来ない相談」だということをあなたがた以上によく知る者はいない。そうだろう?

それともなにか?通報するときには、
取り乱し、
錯乱し、
助けを乞い願って、

「差し迫った緊迫感」を”演出”したほうがよかったのか?
もしそうだというのなら市民に対してはあらかじめその旨周知しておくのが「親切」というものじゃありませんか?>おまわりさん

ところで、個々人の能力なり不手際なりをフォローできない警察「組織」の存在価値ってのはいったいどこにあるんでしょうね(愛知長久手の殉職事件のときにもこれを強く感じた)。ここでいう「フォロー」は「隠蔽」や「ほっかむり」ではないことは言うまでもなかんべ。

現場警察官もまた被害者、か?

こういうの、ほんとになんとかなりませんかね・・・?
誰しも忍耐には限界つうのがありますしね。
私も(警官じゃないけど)待ってたんですが。徒労ですか?

(つづく)けど(次回未定)

政治の季節

  • 2007年7月13日

参議院選挙が公示されて新聞テレビは選挙その他の政治関連記事が目白押しである。私の自宅近くにも早速候補者のポスターが貼り出されていた(朝おきたらもう貼ってあった)が、あらためて見るまでもなく如何にもそれらしい胡散臭さげなお顔だったので「ホッ」と一安心した。

というのも、松岡前農相の例を見るまでもなく、ひとたびあの世界に足を踏み入れたものは遠からず泥にまみれカネにまみれて無惨な姿を露呈してしまうので、善人らしき人が政治家を志すと聞くとこちらの方がいたたまれない気持ちになってしまうのだ。

なろうことなら(うん、なろうことなら)今度の選挙では人格識見ともに優れた方々に当選して欲しいと切に願っている。

昨今の政界のように、まっとうな「論議」がなされることもなく多数党が強行採決を乱発し、(愛国者にさえ)愛国心を強要する法律作るわ、はたまたザル法作って「実績」と強弁するわ(以下略)という状況ではではなはだ薄ら寒い思いがする。

昨日も書きかけたことだが、
「国会で与野党が議論したうえで今のルールがあり、ルールに従って対処することが大事」
(某有力政治家談)
とのお言葉にわたしは賛意を表す。なんの異論もない。
国会でなされたフェアな議論の結果もたらされた議決に関してわれわれ国民は仮にそれが我が意に反するものであっても従わなければならぬ。それが民主主義というものなのである。ルールは守らねばならぬのであーる。

そう、たしかにこれは立派な看板である。

「いのちを大切に」
「ご利用は計画的に」
「喫煙は、あなたにとって脳卒中の危険性を高めます」

問題は、だ。昨今の政治が本当に「フェアな」「議論(言論)」に依って立っているのなのかどうかであって、今回の選挙で問われているのもまさにこの点なのだろうと私は考えている。争点は、年金でもない政治資金でもない改憲論議でも集団的自衛権でもない。今、果たして公正で自由な言論に基づいた政治が為されているのか否か。その点について有権者が評価(判定)を下すというのが今回の参議院選挙の隠れた(隠された)目玉といえるのではないか。

地方に住んでいる方は思い当たる節がおありになるだろうが、選挙のたびによく耳にする「パイプ」という言葉がある。町会議員選挙では「県とのパイプ」、知事選・国政選挙では「国(あるいは中央官庁)とのパイプ」。
「パイプ」が候補者のアピールポイントになるという現実は、政治家や官僚がどれほど公務に於ける公正さや透明さを謳おうとも、彼らの世界でもまた世間一般と同様にコネ付き合い面識地縁血縁学閥その他の「インフォーマルな契機」によって物事が左右される世界であることを如実に示している。そしてそれが当然のこととして何の臆面もなくメディアやスピーカーを通じて公言される現実がある。もちろんここで言わんとするのはその是非ではなくあくまでも事実の認識にすぎない。
わけもなく同郷人に親近感を覚えること、血縁者間の親愛の情、今さら切り離せと言われても困惑するであろう旧友・学友との交友関係。そうしたものは職業を問わずあって当然持っていて自然であり、もしもあなたは政治家なのだから官僚だから縁を切れと言われても無理なことだろう。しかしそうしたインフォーマルな関係があからさまに「売り」に出される現実にはいささか奇異の念を覚えるのもまた事実。

どうもはなしがまとまらない。
今次参院選の私的位置づけが「パイプ」に逸れたのが一因か。というより原因はBGMにあるようで・・・。
結論。ryuの冬ソナテーマ曲は書き物をしながら聴く曲としてはいまいち相性がよろしくない!

ああ、そうさ。書き捨てさ。
近いうちに衝撃的なやつupするとしよう。

いやね、もともと選挙そのものよりもその周辺の「自由な言論」とか「公権力の濫用」とか「知性」について書くはずだったのだ。純愛BGMじゃ書けねえよな。やはりこのてのテーマのBGMはマーラーあたりかな。テーマは「怒り」。

今日はこれにて。

西からも東からも

  • 2007年6月30日

6月27日に北朝鮮がションベンミサイル発射。”弾道”ミサイルながらも短射程。日米両政府はこれを批判して”見せた”。

  • 「米、『発射は3発』 北のミサイル実験批判」(yahoo news 産経)[キャッシュ]

日本国内には北朝鮮の「イタズラ」に憤ってみせることで有権者に存在感を示したがっている政治家も大勢いるようだが、その彼らにしても、それなりの成果を出して見せないことにはいつまでも国民がついてきはしないこともよくよくお分かりのようだ。そしてミサイル発射の翌日には立て続けにこんなニュースが。

この日、たまたまテレビで拝見した首相のお顔は喜色満面といった風情であった。ご同慶の至りであります。
国内では選挙を目前に種々の不祥事で火ダルマ状態ながら、敵(キムさん)からも味方(ブッシュさん)からも愛されかつ支援される人格者、安倍首相万歳!

(2007/07/03追記)
7/2になってこんなニュースが。

  • 「総連本部差し押さえ、卑劣な行為=北朝鮮」(yahoo news ロイター)[キャッシュ]

ネーミングの罪

  • 2007年6月17日
  • キーワードタグ: 政治

へとへとグーグーモヤモヤとした気分でネットを覗くとこんな記事。。

「こんにゃくゼリー『もちと同じ』」

こんにゃくゼリーによる窒息事故が相次いでいることはニュースですでに聞いていた。その時の私の感想がまさに上のタイトル通りだったので興味を覚えて読んでみる。
フムフム。

こんにゃくゼリーによる窒息死事故が相次いでいる問題で、消費者団体などから製品の回収や販売禁止を求める声が高まっている・・・食品衛生法には窒息などの事故に関する規定がなく、同省は回収命令などは不可能との立場・・・制度上の不備が明らか・・・

  「<こんにゃくゼリー>事故相次ぐも、各省は法的措置取れず」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070617-00000033-mai-soci)

(以下、とりたてていうこともない程度の感想です)

亡くなられた方のことを思えば同情の念を覚える。
が、モチに類する食品を”危険な食品”として規制できないことが「制度上の不備」とは腑に落ちぬ。
メディアのひとびとはいつも賢しらに結論を急ぐね。

ご老人がモチを喉に詰らせて亡くなったなんていう事故記事はときどき目にするが、そんなときに「制度上の不備」などとメディアが口にすることはなかった(今後もそうだろう)。

そういえばどこかの地方では、なが~く連なったモチを丸呑みする(危険な)伝統行事らしきものがあったなぁ。

もとへ。

いったい「モチ」と「蒟蒻ゼリー」の違いはどこにあるのか。

農水省によれば「コンニャクイモから精粉したグルコマンナンは欧州では食品添加物扱いなので規制できるが、日本ではこんにゃくの原材料として使われているため禁止できない」のだとか。

なるほど。食品添加物なら規制できるが原材料は規制できないわけか。いちおう納得。唐辛子に含まれるカプサイシンの過剰摂取が危険だからと言ってキムチを「危険食品」として禁止されてはかなわぬ。もっとも、「添加物」と「原材料」との区別はどのように設定されているのか私はしらない(調べる気も今のところない)。
含有率?製造者の自己申告そのまま?
農水省の見解に納得しつつ、同時に、よく分からないながらも危うさをも覚えたことをここに記しておこう(危うさというよりも「ルール設定」の難しさ、とでもいうべきか・・・)。

私自身の無知ゆえの「???」はそれくらいにしよう。しかし、「制度上の不備が明らか」という言葉にはひっかかりを感じてしまう。
むしろ、「制度というものは本来不備なものであることが明らか」というほうが ”腑に落ちる” 。

やはり「蒟蒻ゼリー」は「モチ」でしょう。
もし蒟蒻ゼリーに罪があるとすればそのネーミングかもしれない。

何も知らずに只のゼリーと思って食ったところが、ゼリーみたいにはグジュグジュになってくれずに丸呑み!あービックリ。

そんなことが私にもかつてあった(ような気がする)。

「なんじゃゃぁこりゃぁぁあっ!!!ゼリーじゃねぇ」

蒟蒻入りゼリー。ゼリー的蒟蒻。ゼリー蒟蒻。
考えているうちに「ゼリーってなんだっけ?」という気になってきたのでwikipedia検索。
ゼリー

嫌いな人間に「カレー風うん○」ライスを食わせた場合は犯罪か。見た目に騙された者に落ち度があるのか、それとも食わせた奴が悪いのか?
A:「よく確かめないから悪いんだろ~」
B:「ふつう、ご飯にうん○かけて出す奴いるわけないだろが!!」

ええ、蒟蒻はもちろんうんこではないですよ・・・。
ええ、食品と排泄物とはまったく別物ですよ・・・。

ここはどこ??

まあ、「制度上の不備」などと安直に言ってしまうのはいかがなものでしょうね、ということか。
上のAもBも決して「制度上の不備」を問題にすることはないだろう。もちろん、誰かを責めるときに「制度」を後ろ盾に出来れば都合がよい、有利ではあろうが。

制度上の不備などと言ってるヒマがあるのなら、蒟蒻とゼリーの違いをでも大々的に番組で取り上げたらよかろうに。納豆の時みたいに売れるのでは。。>毎日新聞

味噌も糞も一緒くたにして無闇と「制度」のせいにする心性はまるで「根拠法規がありません」とのたまう官僚のそれと同一ではなかろうか。大新聞の記者が官僚化してても驚きはせぬが。マイニチ繋がりで思い出したが、しばらく前に毎日の記者さんがこんなことを。

「警察の交番制度が日本で始まり、全世界に広まったように、記者クラブ制度も世界で最も先進的な制度だ。この制度は、日本のメディアが明治時代以降、1世紀以上かけて作り上げてきたものだ。新聞記者と放送記者が官庁に常駐すること自体、権力をけん制し監視することになり、それが否定されれば、マスコミの役割はなくなる」

  「記者室統廃合:日本記者クラブの委員が見た韓国の取材制限」(朝鮮日報)(http://www.chosunonline.com/article/20070602000030)

記者クラブがそうならば、談合だって「世界で最も先進的な制度」だと言えぬことはありませんぜ。まあ、この記事は大統領府のメディア規制に反発している韓国マスコミの事情も勘定に入れるべきでしょうが。
それにしてもね・・・。

とまあ、今日もまとまらず。
いやここ数日、冗談抜きでヘトヘト。

おっと、ボヤキついでにもういっちょ。

安倍さんのように「乗用田植機にでんと座ってハンドル片手にもう片方の手で有権者にアピール」して見せる政治家もおられるが、どうせ農業人へアピールするのなら、過疎地の棚田で腰折り曲げて炎天下のなか日がな一日田植えでもしてみて欲しいものだ。
おそらく安倍氏や彼の周辺の人々が彼らの言う「農業」ってのは、大資本が大農場でオペレータや機械を使って行う「工業的農業」でしかないのだろうな。
参院選を目前にして突如農業者へのアピールに余念のない彼らだが、彼らが零細農を切り捨てるつもりでいることは過去の発言記録を見れば充分すぎるほど読み取れる。

(選挙後)
「あん?ハナシが違うじゃないかって?・・・あのさぁ、おれが言う農業ってのはアメリカみたいなさぁ、バーンっと機械ぶち込んでダーッとだだっ広くて四角い農地でやるもんなんだよ。勝手に誤解したのはアンタだろ?」
「だいたい、おまえらみたいにクネクネしたせまっくるしい、まるで日本列島みたいな田んぼでやってるこたぁおれの言う「農業」なんかじゃないんだよ。分かるかね、田吾作くん?やっぱアメリカだよアメリカ。え、年金?農業法人に雇ってもらって厚生年金に加入しな。そのほうがあんたも嬉しいだろ!?安定してるしさぁ。美しかろ?にっぽん」

さすが政治家。策士だよなぁ・・・。ぐうの音もでないよ。

眠い。グゥグゥ。

指令!浄水器を再チェックせよ。

  • 2007年6月13日
  • キーワードタグ: 政治

毎日毎日ニュースは絶えない。いや、ニュースは絶たれることがない、と言うべきか。ひところピークに達した観のあった政治資金問題も松岡全農相の自殺とともにどこかに消え入ってしまった。もちろんきっとどこかには地道な取材に励み真相を究明せんとするジャーナリストたちがおられるだろうが。近々その成果を見てみたいものだ。

しかしまあほんとに人間の情報受容量つーのは意外なほど小さい気がする。金権政治・公金横領・憲法改正、集団的自衛権・・・・などと次から次へ「あれも食え、これも食え」「前菜は中華、メインは和食、デザートはステーキ、ついでに食後のお煙草はご遠慮下さい」とばかりにやられると
「あ、もういいっす」。

人間の脳みその情報容量は無限大だとどこかで聞いたこともあるが、こりゃウソだ。いや、ウソでなくともまやかしだ。「人間には無限の可能性がある」と同程度にね。

ま、無限大でもいいや。で、人間はPCである。大容量のハードディスクと極小のメモリを備えたPCである。
その気になればいくらでも情報を詰め込むことが出来る。が、いちどきに扱えるタスクはちょびっとだけ。つぎからつぎにあれもこれもと言われているうちにハングアップ。判断停止。思考停止。

「あれ?おれ、いま何しようとしてたっけ??」

現にいまこれを書いている私がそうなりかけていた。
ここはどこ??


さて
そんなこんなで(これってまさに万能接続詞だなぁ)

政治家が自分の手足を縛る法律を作ることなぞ(有権者がほっとけば)金輪際ありえないというのが私の深く信じるところだが、松岡農相生前の国会のやりとりはまさに私の確信を深いものにしてくれた。

(野党議員)「松岡農相の政治資金支出を首相はどう思うか」
(安倍さん)「法にのっとって適正に処理されていると考えます」

この類の遣り取りを見ながら私は思った。
いったい不明瞭・不自然な支出であるにもかかわらず政治資金規正法上は「適正な処理」とされてしまうのはどういうわけなんでしょ?

野党議員がそれ以上何の追求もせぬまま質問を終えるシーンを何度か見た気がするが、いかにも解せないと思わずにはおれなかった。
(松岡農相の不明朗な政治資金支出は政治資金規正法の粗漏さを示しておりませんか、安倍首相?)
野党議員の質問を私はそのように理解したのだが、やりとりが終わったあとには常に「あれれ?」であった。
「違法でない。適正である」
そんなこと聞きたいんじゃないんだよ!!と。

いや、現時点で違法ではないというのならソレはソレで結構。そんなら不明朗な支出が適法とされる奇妙さをどうするのだ?
もしや野党議員の攻めのつたなさは自縄自縛を怖れたためなのか。そうかもしれない。考えてみれば政治に金がかかるのに与党も野党もないだろうからね。まるで出来レースのような国会論戦。ひょっとすると松岡農相ももう少し頑張っておられれば切り抜けられたやも知れぬ。あたら一命を・・・。

そもそも松岡農相は決して国会議員の内でもそれほど飛び抜けて悪辣だっわけではない。ふつうのギインさんだった(と私は思う)。
おそらく松岡氏の失策は事務所にはしっかりナントカ還元水だか浄水器だかを取りつけていたものの政治資金の方はちゃんとした浄水器・濾過器を取りつけ損ねていた点だろう。
安倍首相は事実上の上司としてそのあたりもしっかりと指導すべきであった。テキストはもちろんお祖父さまのお言葉集。。

政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん

政治資金濾過の達人たる岸信介の令孫が首相を務める内閣の閣僚が「濾過器」を発端として苦境に立たされそして自死に至ったことはまさに歴史の皮肉だと言うべきか。

ま、いまさら・・・のトピックではある。
が、このような話もあるので・・・。

参議院選挙まであと40日、目先を変えるような出来事が必ず仕込まれているし、すでに表沙汰になっているかもしれない。スキャンダルを消すのは、スキャンダルでしかないという法則がある
  ~「保坂展人のどこどこ日記」

泥仕合に持ち込めば金と権力を握る自民党の有利?
そんで安倍内閣御用達産経新聞あたりが得々として書きまくるだろう。
コップの中の嵐。
肥溜めの中で糞試合。
内輪もめ上等。

しかしダーティーな選挙戦ともなれば安倍自民党が勝利したとしても(あるいは勝利したことによって)安倍氏の清新さへの懐疑の念を呼び起こす。いまさらと言うなかれ。
もちろん安倍氏がダーティーだろうと清新だろうとどうでもよいという人や国だってある。たとえばアメリカ。
アメリカは安倍氏を歓迎するだろう。安倍氏は祖父である岸信介への敬慕の情をつねづね公言している。昭和の妖怪岸信介。安保条約改定に際し、国民に向かっては「自主独立の達成」を訴えかけながらそのじつ裏ではアメリカに「自主独立」を骨抜きにする密約を持ちかけていた岸のクローンをアメリカは諸手を挙げて大歓迎するだろう。彼を「悪辣な右翼である」と評価(判断)しつつも自国の利益のためにシレッと付き合ったアメリカ。その姿勢は今も昔も変わるまい。。

仮に安倍自民党がなりふり構わぬ選挙戦を実行に移せば、アメリカのように日本と緊密な利害関係を有するが故にドライ(自分とこに有利になるのなら何でもオッケイ)な国は別として、それ以外の諸外国が安倍政権を見る目は一段と厳しさを増すであろうことを安倍氏は覚悟しておく方がよかろう。ダーティーな勝利は安倍政権にとっては痛し痒し。
ま、もっとも安倍自身さんは「うつくしい国」が作れるのなら他国からの評価なぞ気にならないのかもしれないが。信念に忠実。それはそれでうつくしい・・・か。

フェアな選挙戦になりますように。
って、なに言ってんだろオレ。

寝よ

年金記録照合が1年でやれるのか?

  • 2007年6月11日

年金問題で世情は騒然としている。
団塊世代の受給開始を目前に、隠居部屋を増築しようと床下を見てみたらシロアリに屋台骨がボロボロで建物そのものが崩壊の危機に瀕していることが判明した、というところか。

ただでさえ少子高齢化を原因とする構造的問題を抱えている年金制度が、「ありうべからざる怠慢」によってもまた空洞化していたことが世人の怒りを招いている。当然だろう。
一時期、年金問題を参院選の争点にしないと突っ張っていた政府・与党の思惑などあっという間に吹き飛ばされた。これもまた当然だろう。現時点でも数千万件に上る未名寄せデータの存在が判明しているとのこと。週刊誌あたりではさらなる「宙に浮いた」データが存在していると報じている。この機会に、(当然の)世論に圧倒された政府与党が示している対策にいささか不審の念を禁じ得ない部分があるのでここに書いておく。

  1. 古くて書証がない納付データの確定を第三者機関に委ねる。
  2. 1年以内に名寄せを終了させる。

まず1に関していえば、「あてになるのかね?」
教育問題、集団的自衛権問題、憲法改正問題、耐震強度偽装問題等々のように、第三者機関・有識者会議とやらが如何にも胡散臭くてあてにならないものだと思わせる事実には事欠かぬ「もう払ったはずだ」という庶民の主張をそのまま呑んでくれる「第三者」機関になるなどと楽観は出来なさそうに思われる。悲観的に見れば第三者ゆえ庶民の正当な主張を情け容赦なくゴミ箱にポイ出来る機関でもあるのだ。

2についてこんな新聞記事を目にした。

該当者不明記録の氏名などにある程度のミスがあっても、該当する可能性がある対象者を検索できる新しいソフトウエアを導入する方針(・・・)政府はこのソフトの活用により、「1年以内に全件の調査を完了させる」との方針を実現させたい考え(・・・)政府が行う調査は、年金の加入者(約7000万人)と受給者(約3000万人)の計約1億人分の「氏名」「生年月日」「性別」の3条件と、5000万件の記録上の3条件が一致するかどうかをコンピューター上で照合する作業が基本(以下略)

「不明5千万件の年金記録調査に新ソフト、政府が導入方針」(yahoo news 読売)[キャッシュ]

だいぶ以前のことだが、私はある種のデータベース(数百万件程度のデータベース)を調査・整備する業務に従事したことがあったのだがその経験上「氏名・生年月日・性別」(以後「3要素」とする)を基礎とした照合作業の進捗に大きな疑念を抱いている。その大要は次の通り。

  • いまさら3要素での名寄せを行わなければならないほど杜撰極まりない年金データがなぜ今まで放置されてきたのか。
  • 数千万件というオーダーのデータを3要素だけで名寄せすることはおそらく不可能だろう。

第一の疑念についてはひとまずおいて第二の疑念について。
周知の通り3要素は人定項目の基本中の基本だ。これ人定項目としては極めて基礎的な項目である。そして基礎的であるが故に実際上、取り扱いに細心の注意を要する(要注意の)人定項目でもある。

単にコンピューター上で3要素を元に名寄せを行うプログラムなどは、気の利いた小中学生でも作れる程度の初歩的なものだと思われるので、かりにも政府の対策として新聞に載るほどご大層なものではないだろう。おそらく名寄せ作業上の大きな問題となってくるのは次のようなものだと思われる。

  1. 文書データを電子データに変換するのにかかる手間とその際に生じるミス
  2. (ミスのない完全な電子データを前提として)基礎的3要素では名寄せできないデータをどのように処理するか

かりに未名寄せデータの大半をこの三要素を元にして名寄せ出来るとしても問題は残る。数百万、数千万とデータの規模が大きくなればなるほどに当然のことながら僅かな人定項目で確実な名寄せを行うことは困難になってくる。データ量が万を超せば同姓同名どころか同姓同名同生年月日というのも稀ではあるがないわけではない(これは経験則。数学的にもわりと簡単に証明できそうな気がするのだが私には無理)。

まして女性であれば結婚で姓が変わる。名と生年月日が同一というのなら一気に数が増える上に、姓の変更履歴はコンピューター上のデータをどれほど精巧に扱っても(入力されていない限り)出てきようがない(しかも下の名だって手間は掛かるが変えられないわけではないし変わった人も現にいると思われる。結局、変えようがないのは生年月日と性別だけだがこれにも誤記などで記録上の齟齬が少なからずあると考えるべきだろう)。

と、挙げればキリがない。そのようにデータ処理だけでは名寄せできない場合にまさか(手書き原簿にあたる等)なにがしかの確認作業も抜きにして単に名前と生年月日だけで名寄せするわけにはいくまい(そもそも基礎となるデータなしにはコンピュータはなにもしてはくれない)。こちらの確認作業には途方もない手間(マンパワー)が必要になるはずだ。

結局、年金記録の名寄せ作業がコンピューター上で完結するものではないことは社保庁ほか当事者がいちばんよく承知されているだろうから、上記のような新聞記事は多分に世間に向けたアピールに過ぎないと受け取っておきべきだろう(ついでながらマスコミが政府のアピールを掲載するだけではあまりにも情けないと思った次第)。

時間が無くなった。3要素での名寄せすら行われないままに年金データがなぜ(どのように)今まで放置されてきたのかという点についてはまたいずれ。というかほんとならマスコミにそのあたりをキッチリ取材・記事化して欲しいところだ(今日まで私はそのような記事を見た覚えがない)。まさか某政権与党のように他人の所為にしてお茶を濁すことはあるまいね。
責任の押し付け合いや糾弾からは日本の未来が改善される希望など決して生まれてこない。責任問題とは別次元の精細な調査報道を期待したい。

風邪の男 白洲次郎

  • 2007年5月16日

再々読。

ひところ、「カッコいい」「カッコイイ」と話題になった(なっている?)白洲次郎。この本を含めて白洲をテーマとした本によれば、彼には誰彼構わず怒鳴りつける傍若無人さと、友人婦女子には優しいデリカシーとが彼の中には同居していたようだ。
ひとが、冷徹そのもののような人間がふと垣間見せる優しさにコロリとまいってしまうように、ある種のギャップは周囲の者にはとても魅力的に映ることがある。

占領軍に伍して渡り合ったことや、その愛国者ぶりに焦点を当てたテレビや雑誌等々の取り上げ方はいかにも今の日本にはふさわしいのかもしれない。
日本の独立回復に涙した白洲。
老いてなおポルシェ911を転がす白洲。
内外の政財界に隠然たる影響力を持った白洲。
押しつけられた日本国憲法を「アイノコ」と罵った白洲。

白洲次郎は、為政者が戦後60年の自国の歩みを「戦後レジーム」と罵り憲法改正に血道をあげる今の日本には如何にもふさわしい人物”像”だとは言えるだろう。しかしながら、口先だけの出任せや他国への盲目的な追従振りばかりが目に付く今の日本の状況を白洲が見たならばそれこそ罵倒されること必定であろう。彼は愛国者ではあったが同時に天皇制廃止論者であったし、アメリカの強大さを認識しつつも「ポチ公」なぞではなかった。彼のように「自己の信念に忠実」であることはいつでもどこでも賛美され得るものではないし、彼自身もまたそのことを重々承知していたはずだ。自らを称して「プリミティウ゛な正義感」の持ち主とした彼がまさかそんなことすら認識していなかったはずはない。

ひとは自分のみたいものだけを見てしまいがちだという弱点は、ま、やむをえまい。ただ、自らがそうした弱点を抱えていることくらいは頭の片隅にでも置いておきたいものだ。

先日の新聞で目にした記事に留飮の下る思いがした。

民主主義国のリーダーが自分の国のレジーム・チェンジ(体制変革)を求める意味は理解しにくい
(中略)
首相は日本の現状と将来へのビジョンを正確に世界に伝えることが急務である。それよりも関心が過去に集中していることはまことに残念である。安倍首相が早く、過去からの脱却をするよう期待したい

ジェラルド・カーティス「『戦争の反省』説明が必要」(2007年4月24日西日本新聞朝刊)
首相を筆頭に現行憲法を批判する連中は、自らが(その立場上)遵守せねばならぬはずの国法を軽んじて恥じるところがない。これでは「押しつけ」論に欣喜雀躍してヒトラーともども戦争に突っ走ったかつてのドイツと今の日本の差異は我々が感じているよりよほど小さいと言うべきか。

ちなみに私が昨今の改憲論議に嫌悪感を感じるもっとも大きな理由は、「日本の将来を見据えて」という売り文句の背後に存在する、「(かつて)押しつけられたもの」を捨て去りたいという後ろ向きかつ浅薄な志向が見えかくれしているところにある。ましてや語られるその日本の将来像とやらがどうやら「戦争ができる国」というようなものでしかないのだから尚更ではないか。

きっと白洲次郎も草葉の蔭で嘆いていることだろう。風邪をひいたからではない。風向き次第でどうとでもなる彼の同胞たち子孫たちを嘆いているのだ。

風の男 白洲次郎 (新潮文庫) 風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
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国体護持ならぬ国益護持

  • 2007年5月9日

今日は硬い本を読む気力無し。こちらがだらけた気分なので歯がたたないのっす。で、『鬼平犯科帳』を読む。面白かった。実は鬼平初体験。カネのために人の命を奪い欲望を満たすために騙し強請り女を犯す獣どもを蹴散らす火付盗賊改方長谷川平蔵。

江戸時代を舞台とした約40年前の作品を読みながら、少しばかりの隔世の感と庶民の暮らしの変わらなさ加減を実感。あとがきに電車の中でオール読物をひろげて池波作品をむさぼるように読むサラリーマンのことが書かれていたが、最近はいないね、オール読物拡げている乗客なんて。

話はコロリと変わるが、近年(といってもせいぜい去年くらいからの話ですが)よく耳にする言葉、「国益」について一言。

先日テレビで「ナマイキ」中川ヒデなんとか(あの辺は似たような名前似たようなツラばかりでよー区別つきませんわ)政調会長とやらが憲法関係の会議で「国益」「国益」と仰っておられるのを耳にして改めてその感を強くした。

国益とはなんぞや?
さも周知の言葉であるかの如く用いられる「国益」とは具体的にはなんなのだろうか。それなりに報道やら出版物やらに目を通している私だが、どうにもそれが分からない。
「ネットで調べろよ」?

さて、昨今「ネット」と言えば(日常会話においては)「虫取り網」のことでも「ゴールネット」のことでもなくて、「インターネット」のことを指すのはまあ常識と言ってもよいのだろうが、はたしてその程度には自明のものとして「国益」という言葉が用いられているだろうか?否。
猫も杓子も国益国益と仰る割りにはどうもこれ(国益とやら)がよくわからない。

確たる定義も共通理解も存在しないままに「国益」という言葉があふれかえっている日本。なんともヘンだこと。説明しにくい、説明したくないことは全て「国益にかなう」「国益に反する」という(実はただの白布でしかない)錦の御旗で覆いかくされている。

ひょっとしてもう「国益とはなにか」が明確になっていたのか?まるで自明のことのように国益という言葉が持ち出されてくる状況には戸惑いを覚えてしまう。テレビに映し出された中川氏の発言シーンを見たときには「国益」という彼の言葉はむしろ「国体」という言葉の方がよほど似つかわしく思われたよ。

国体といっても国民体育大会のことではもちろんない。詳しくは文部省発行の「国体の本義」をお読みいただければお分かりに・・・ならないと思う。おそらく。少なくとも私にはさっぱり分からなかった。畢竟自分には理解不能だということだけは分かったのだが。

「国体の本義」には、「大日本国体」「国史に於ける国体の顕現」などが肇国、国民性、国民文化等々もっともらしい言葉を用いながら書き連ねてあるが、読めば読むほどso what?。外国人が日本と日本人を知るにはこれほど適切なテキストも無いのかもしれないが。実に曖昧模糊。形式のみ。ただの形骸、骸骨。現代の日本人のうちで「国体の本義」を読んだあと「なるほど、そうか」と言う人はおそらく極めて少数だろう。天皇制そのものに反対する人々はもちろん、象徴天皇制を承認する人であってもこの「国体の本義」は極めて理解しがたいものなのだ。

「国体の本義」からだけでは不分明な国体概念をそれ以外の資料から総合すると、ま、一言で片付ければ「絶対的主権者としての天皇を戴いた統治体制」のことを指すようだ。数百年もむかしならともかく20世紀に生きる日本人(の為政者たち)もまたおもてだって「絶対君主政」を唱えるほどのcrazyさはさすがになかったようだがしかし、「国体の本義」あるいは当時政府が押し進めた国体明徴運動が唱えた国家体制は、ほぼ天皇を神聖不可侵の君主として戴く絶対君主政と言えるような体制(レジーム)であった。「国体の本義」は、まがりなりにも近代民主政治を知る国民や諸外国に向けて「日本国は天皇を戴く神の国であーる」とはさすがに明言できなかった人々がそれを糊塗(誤魔化す)しつつ実質的な”絶対君主的”天皇国家レジームを唱道する役割を担っていた。よってそもそも誤魔化しが隠された目的であるが故に結局何が言いたいのかまるで不明の典型的悪文とならざるをえなかった。

今の日本の政治家の多くは(森ナントカ元首相あたりを除いて)いまさら「国体」概念なぞを持ち出してくるほど時代錯誤ではないかに見えるが、なんのことはない、かつての国体はいま「国益」という言葉に変じただけのことなのだ。

国益=「国家の利益」( 大辞泉)って書いてある?
いや、そのような抽象的な話ではない。近代民主制における国民の政治参加とはすなわち「何が国益なのか」「何をもって国家の利益とするのか」の決定に参画することであり、まさにそこにこそ大きな意味があるはずだろう。にもかかわらず国益についての共通理解が形成されぬまま、ただ「国益」という抽象的な言葉だけがフワフワと漂う今の日本の政治状況は、かつて「国体」概念がもっともらしく語られていたかつての日本とどれほど違っているのか。私にはその違いが見えない。

現代日本の政治家の役割とは国民に国益を尊重すべきことを教え込むことなのだろうか。国益とはいったい誰にとっての利益なのか、利益であるべきなのか。何が国家の利益なのか。

政治家の仕事は「国益を語る(騙る)」ことではなく「国益に関する国民の共通理解を形成する」ことのはずだが、どうも現実に彼らのやっていることはと言えば「国民の代表者」を騙り国益を騙ることばかりのように見えてならない。

国民の代表者として国益を騙る人々は都合の良いときだけ私人を騙るのが今の日本の流行のようだ。

靖国神社にかかわることが外交、政治問題化している以上、私が参拝するしない、お供え物を出した出さないということは申し上げない

黙秘ですか?
首相が靖国神社に参拝することはそれが仮に「私人として」のものであれ、他の者には決してそうは見えない。見えるはずがない。ときとして私人としての思想信条の自由などという理屈が持ち出されるがそれはあまりにも人を喰ったはなしだ。首相が奥さんと週に何回ベッドを共にしているかなどという下世話な話ならば「私人としてのプライバシーですから」で済まされようが、政治問題・外交問題化している靖国参拝を「私人だから」では誤魔化しようもなければ黙秘してかたのつく卑小な問題ではなかろう。

つくづくその卑怯さに腹が立つ。

鬼平さんにひとつ説教頼みたいね。

おっと、暴走はここまで。勢いに任せて書き連ねてしまった。

(2007年5月9日夜一部改稿)

yakuza国家ニッポン?

  • 2007年4月25日

この本(カプラン・テュブロ著『ヤクザが消滅しない理由。』)の初版の日本語訳『ヤクザ~ニッポン的犯罪地下帝国と右翼』が第三書館から刊行されたのは1991年(原著の刊行は1986年)。初版刊行の後15年を経てさらに三つの章を追加した新版として2003年に刊行された。初版は未読だが、新版つまり『ヤクザが消滅しない理由。』ではヤクザの経済的影響、海外進出について大幅に加筆されている由(原題は”Japnan’s Criminal Underworld”)。初版の日本語訳は著者らの望みにもかかわらず日本の大手出版社が二の足を踏んだために、原著刊行から5年後にようやく第三書館というマイナー出版社からの刊行となったとのこと。

ヤクザの歴史的生い立ちからときはじめた本書は、現代の日本社会にどれほどヤクザ勢力が浸透しているのかをあきらかにしていく。極右勢力とヤクザの結びつき、右翼思想とカネと選挙を媒介としたヤクザと政界のズブズブの関係、社会に浸透したヤクザ勢力・・・。

取り上げられている著名人は数多い。政治家なら岸信介、大野伴睦、田中角栄、竹下登ほか。政界のフィクサーと目された笹川良一、児玉誉士夫ら。

そういわれてみれば戦後の日本、私の知る限りでも政界とヤクザの結びつきを示す傍証は枚挙に暇のないほどではあった。しかしその時々で通り雨の如き報道がなされはしたものの、その後も政治家たちが反社会的勢力と絶縁したようには見えない。そしてわたし自身がそうした生臭い話にはさほど関心を持たなかったことも告白せねばなるまい。

バブル崩壊後の数百兆円に及ぶ莫大な公共投資にもかかわらず一向に回復の兆しを見せない不況にあえぐ日本人は、威勢の良い小泉という男に希望を託した。危なっかしさを感じつつも「とりあえず」彼に望みを繋いだ。一見勇ましげな言動や強引な靖国参拝は彼を一流のリーダーだと人びとに思わせるだけのインパクトをもっていたとは私も思う。しかしやはり危ないものは危ない。小泉政治の危うさに人びとは眼を瞑って郵政解散直後の選挙でも彼に信任を与え、その後は危なっかしさばかりが露わになり始めた。

その頃、小泉のあとを誰が襲うかがその後の日本の行く末をかなりの確度で占うだろうということをおそらく多くの日本人は感じていたと思う。そして結果は小泉路線の踏襲、否、小泉以上に危なげな道を日本人は選択したのだった。

しかしたとえば北朝鮮の核、好戦的な中国といったような東アジアの事案が統制の効かない状態に万一なってしまうとか、あるいは世界経済が恐慌におちいってしまうなどしたら、こうした団体が不安定な状況を作り出すのに効果的役割を演じることは十分あり得る

『ヤクザ~ニッポン的犯罪地下帝国と右翼』
現首相は、一部歴史家が「悪辣な右翼」と呼びならわす岸信介の孫とはいえ、岸の悪行にも善行にもなんらの責も負う者ではない。たとえ岸が植民地満州で麻薬取引の元締として暗躍し、かつ右翼やアウトローたちと結託して勢力を築き上げ、満州で培った財力と人脈によって戦後日本の枢要な地位を占めたのだとしても、それについて現首相はまったく無関係である(岸については原 彬久著『岸信介―権勢の政治家』岩波新書1995年に詳しい)。当人の責によらずして(祖父の功罪をもって)彼を弾劾することも賞賛することもできないし、また為すべきではないだろう。彼は彼自身の言動についてのみ権利を行使しかつ責任を負わねばならないだけだ。もっとも、もし彼が祖父とそっくりな人間であったとしても驚くには足らないのかもしれないが。

話が本から逸れた。
この一書はヤクザを主題としつつもその視線は日本社会そのものを捉えようとしている。談合・示談・汚職・選挙。

ヤクザは世界のどのギャングよりも、犯罪組織として受け入れられているだけでない。ヤクザの役割がもっと公然と制度化されているのである。ほかの社会であれば弁護士や裁判所関係者にゆだねられているさまざまな仕事を、ヤクザはおこなう。もめごとの示談の場合などは特にそうである。(中略)ほとんどの日本人は暴力団との接触を避けるため最善を尽くすが、どうしても避けられない場合も多い。

同上
反社会的勢力には毅然とした対応を取るべし、とは巷間当り前のように言われている。しかし、実際にその現場に立ち至ったときにそれを実行することはときとして大きな困難を伴う。場合によっては味方であるはずの者からまで後ろから一刺しにされることにもなりかねない。その程度には彼らも狡猾なのなのだから。ましてや万人の闘争状態であるかのような社会情勢にある現代日本、残念ながらアウトローの活躍の場はそこかしこにつくられてゆきつつある。意図せずして一般民衆が彼らアウトローの悪行の後押しをしているというわけだ。

政治的選択にしろヤクザ活動の温床づくりにせよ、それがもし意図せぬものであったとしてもその結果は我々自身が負担することになる。

日本の政財官界あらゆる場所にはびこるヤクザ勢力。肥溜めの中で生まれた人間は、汚物にまみれて生活することこそ人間的な生活なのだと思うほかはない。外の世界を知らないわけだから。ひょっとして日本人は肥溜めの中で生活しているのだろうか。肥溜めの中で内輪もめし続ける阿呆どもか?そうなのかもしれない。

この本の中で元警察庁長官江口俊男の言葉が紹介されている。元ネタは1964年の毎日新聞連載記事なのだそうだ。

社会から暴力を根絶するため、われわれは暗黒街に政治的配慮を加えてはならないのである。四方八方から情け容赦なく叩きつぶすべきなのである

同上(孫引き)
警察のトップの言葉としては当然すぎるとも思われる。なにをいまさら、と。しかしどうも実態がそうではないからこそこのような言葉が出て来たのだとも言えるだろう。暴力的集団に「政治的配慮を加え」「四方八方から彼らを後押しする」のが現実の姿であるからこそこの警察官僚は(まっとうにも)このような言葉を吐かざるを得なかったのかもしれない。

一般市民の微罪をあげつらう暇があるのなら、ありもしない犯罪を作り出すだけの力があるのなら、まずは市長を殺し市街地で玩具を振り回す悪党を片付けてくれ。
それとも君自身がその黒幕なのか?ひょっとして君も悪党どもの手先なのか?

ヤクザが消滅しない理由。 ヤクザが消滅しない理由。
デイビッド・E. カプラン
amazon価格:1995円

いやいや、面白い本だった。
P.S. ハルバースタムの不慮の死を悼む。


(追記)
「首相、週刊朝日記事に激怒」(産経新聞)[キャッシュ

「週刊朝日」(5月4日・11日号)が、長崎市長銃撃事件の発生に首相秘書のトラブルが関係していたと受け取れる記事を掲載したことについて

(追記の追記)
「週刊朝日報道を安倍首相が批判」(朝日新聞)

山口一臣・週刊朝日編集長の話 一部広告の見出しに安倍首相が射殺犯と関係があるかのような不適切な表現がありました。おわびいたします。

ヤクザが消滅しない理由

  • 2007年4月22日

長崎市で暴力団員が現職市長を射殺してからまだ数日。今度は4月20日には町田市近辺で暴力団がらみの発砲および立て籠もり事件が起こったとの報道に接する。

  • 「暴力団組員が別の組員射殺後、都営住宅立てこもり銃撃」(読売新聞)[キャッシュ

ここ最近、おかしな事件が目につく(それほどでもない、か?)。市に相手にされなかった恨みだ?「死んでお詫び」だ?どうにも理解に苦しむ。暴力団員同士のもめ事のあと、なぜに市街地でパンパン撃ちまくったのだろうかね?不可解といえば4月はじめのこの事件もまた不可解。

なぜ彼はそうした犯行に及んだのか、あるいはまたなぜ彼は(おそらくは意図せぬ)死を迎えることになったのだろうか。しかしそれを知恵も情報網も持たない私が知ることは難しかろう。だからというわけではないのだが、どうもこれらの理解し難い事件からは(言葉になりにくいのだが)”意味のない意味”というのか”不可解さの創出”とでもいうのか、胡散臭い匂いが立ち上ってくるように感じられててならない。ひとびとが、ある日突然背後から撃たれるかもしれない、刺されるかもしれないという恐怖を覚えたときにどうなるのかは言うまでもない。人は直接身体に迫ってくる暴力よりもむしろ「ひょっとしたら襲ってくるかもしれない災難」の方をヨリ恐れる。その意味ではそうした恐怖感の醸成こそが暴力の持つ真の恐ろしさだという気がしている。

暴力が社会に被いかぶさりのしかかりひとびとの不安感が煽られた時代がかつてあった。すでに100年近く経とうとしている21世紀初頭の今になってもあの頃と変わりなく暴力がのさばり、独りよがりの信念に凝り固まった自称愛国者や自称任侠の徒らは時代を超えて生き延びているらしい。

長崎市長射殺の直後に与野党問わず諸政治家のコメントが新聞紙面に掲載されていたが、私が共感できるものは一つもなかった。
「まずは捜査の進展を」
「言論の自由に対する脅威」
「民主政治への挑戦だ」
或る言葉は鈍すぎ、また或る言葉は鋭すぎて響かなかった。ベチョ、ひゅう~ん。

標的が「政治家だから」、あるいは「選挙中だから」民主主義への挑戦なのか? 彼は市長の日頃の言動に「思想的な」反感をでも抱いていたのか?どうもちがう、ちがうらしい。彼はいってみれば「あいつのせいでオレは・・・」「ふざけんなよコノヤロー」という自己の欲望・僻み・感情に忠実ないまどきの市民の一人であって、それが(偶然にも)暴力団員でありまた(それ故に)拳銃を手に入れる悪知恵とルートを持っていたということなのではないのか。とてもではないが彼は言論だとか民主政治だとかいう高尚な(というかいい意味で観念的な)なにものかに対して刃を向けたわけではなさそうに見える。

他人を陥れ背後から突き刺しあとは知らぬ顔で押し通すなどということはべつだん珍しくもないありふれた話ではないか。刃物も拳銃も用いなければ少なくとも法的には罪に問われることもない(法的に責任を問われないのなら問題ないという感覚にそもそも問題があると思うのだがそれは今回さておく)。市長を撃った彼は人並み以上の政治的信念や自己犠牲の精神を持ち合わせているわけではないように思われる。あるのは自己の欲望に対する忠実さのみ。とてもではないが言論の自由だの民主社会なぞを破壊するつもりはなかったはずだ。少なくとも彼自身はそのような意図は持ち合わせていなかったと私は思う。そして彼はきっと今回の犯行に対する世間の反響の大きさに驚いているに違いない。彼は自己の欲望のみを追いかける、いまどきありふれた人間の一人であるにすぎないだろう。

仮にそうであるとしての話だがしかし、彼の今回の行動や、いまのところ事件の背景が見えない相模原の事件あるいは(単なる事故死かもしれないという)読売記者の変死などにしても、いずれもわたしたちの社会に得体の知れない不安感を与えた。くりかえしになるが、いずれの事件に関しても犯人等の主観的動機に関わらず、社会に対して大きな、そして後を引くダメージを与えたと私は思う。選挙期間中の候補者の安全管理だとかもまあ課題ではあろう。政治家たちは自分に降りかかってくる問題だから当然これに熱心だが、一般市民としては政治家の身の安全以上にそうした社会的影響もまた重大な問題ではないだろうか。

ここでちょっと脱線。
率直なことを言わせて貰えれば、はっきりいって大抵の選挙なぞ拡声器で騒音を撒散らすだけの公害の一種にすぎん。選挙期間中、入れ替わり立ち替わりでひたすら名前を連呼し、日を追うにつれて哀願調の叫び声に変わりつつ最後は絶叫!その中身は候補者の名前と「お願いしますッ!」のみ。どこが民主政治、言論の自由なんだかね、まったく。もしも名前を連呼するだけの政治家が襲われるとすればその原因は言論とか民主政治とはまるで無縁のもっとなまなましい理由だろうさ(そんなこともあって政治家のコメントには冷淡になってしまう)。

閑話休題。
言いたいことを口にする自由がない社会。そんな社会が夢だの希望だのを持ちうる社会としてあり得るだろうか。冗談ではない。無理だ。
「べつに言いたいこと言うのは自由だよ。(でも命の保証はしないけどね)」
「あなたに自由を与えよう。口を噤んで平穏に暮らすのかそれとも敢えて口を開いて破滅の道を歩むのか、自由に選び給え。それがあなたに与えられる自由だ」
勘弁してくれ。

一見勇ましげに見える愛国者や勢いに呑み込まれた群衆が社会にどれほどの危害を与えそしてどのような末路を辿ったのかを、私たち日本人は既に身を以て知っている。一旦転がりだしたら止まらない。転がり始めてからではもう遅いのだ。ここ数年そうした危惧をずっと感じてきた。ここ数日来の事件の報に接し、もう転がり始めているのだろうかという悲観的な思いにとらわれている。

ついでながら
市長銃撃に関する報道が言論の自由だとか民主社会を守れだとかいう論調で覆われているところがこれまた奇妙。どうも横目でなにか別のものを見ながらモノを言われているような。田夫野人の知らぬところで日本はいま大きく動いているのだろうか・・・。

そんな気分でいま『ヤクザが消滅しない理由。』(カプラン・テュブロ著 不空社)を読んでます。たしかにこんなきわどい本、大手出版社は及び腰になるのもやむなしかも。力作なのにね。

ヤクザが消滅しない理由。 ヤクザが消滅しない理由。
デイビッド・E. カプラン
amazon価格:1995円

虚構と現実

  • 2007年4月19日

バージニアで銃乱射、長崎で市長暗殺 射殺。

ここ数日ろくに新聞も読んでいないのでこれらの事件に関しても詳しいところは知らない。
今、世界中に「敵は殺せ!」と叫ぶ「お子ちゃま」が跳梁跋扈している。筆頭は西部劇のヒーロー気取りで顔に似合わぬ勇ましげな言葉を乱射する(していた)ブッシュ米大統領。日本の一部政治家もまた例外ではないが。いまさら言うまでもないかもしれない。

自ら作り出した敵(虚像)にミサイルや銃弾を撃ち込むなどという蛮行がアフガンでもイラクでもソマリアでもバージニアでも長崎でも起こったということか。

自らが作り出した虚像・虚構をいつのまにやらホンモノと信じ始め、いったんそうなるともう顧みることをしない。
「敵は敵なのだ、と。犯人は犯人なのだ、と。
彼は立ち止まることを怖れ、また引き返すことを拒む。

彼はおそらく自らの信念に忠実ではあったのだろう。しかし、信念に忠実であるというだけでそれが善きことかどうか話は別だということはしばしば忘れ去られる。そしてまた世には虚構と現実が錯綜し相互浸透し、あるいは「信念に忠実である」「ブレない」などという綺麗にラッピングされた言葉に騙され、そして現実を見ていないという事実にはいっかな気づかぬ「現実」がそこここに溢れている。

暴走する警察であれ銃を乱射する青年であれそのどちらも、ときには立ち止まって省察してみようともせず引き返そうともしなかったという点では大差がなかろう。ありもしない大量破壊兵器、ありもしない犯罪、ありもしない敵意。
ミサイルで、強権で、銃で、「虚構に向かって撃て!」

ところで、今夕のテレビニュースでバージニアの発砲青年が、かつて教師を殺害するとかのストーリーを書いていたと報じられていた。とくに論評とてなかったが。
しかし、報道者はおそらく「そんな物騒なものを書いていたくらいだから今回の事件を引き起こす必然性があったのだ」と了解する視聴者がいるであろうとは考えたはずだ。まさか「いいえ、ただ事実を報じただけですよ」とでも仰るだろうか。べつにそれはそれで構わないのだが。ただ、受け手の解釈可能性を度外視した報道なんてものがあるとは私は信じない。そんな報道が可能だとも思わない。「ただ事実を報じるのだ」などという言葉もまた一つの虚構だろうと思う。別に虚構だからいけないとは言うつもりなどないが。

もし虚構が存在することで現実の生活がマシになるというのならば虚構はむしろ有難いものではないのか。ときに虚構の有り難さが(おそらくは)敢えて無視され、あるいはまた各自の都合に合わせて切り取られた情報の切れ端が「事実」として報道されているように見えて仕方がない。もしも自分たちだけが虚構の上にあぐらを掻いて、そのくせ他人様のささやかな虚構や愛すべきユーモアを弾劾するような腐れ外道がいるのならそいつらをこそ撃ち殺してやりたいものだ。

もしもバージニアの彼が、教師を(牧師でも看護婦でも学生でも構わない)殺しつくし焼き尽くし残虐の限りを尽くす物語をでも書くことによって、自分の内のどす黒いなにかを幾許かなりともゴミ箱にほうりこむことが出来たのならばひとまずそれはそれで結構なことだったというべきではなかろうか。紙に怒りを叩きつけようがキーボードを打ち割ろうが誰も迷惑しない。銃をぶっ放すくらいならもっとどんどん書くべきだ。書くべきだった。

しかし結局、彼が現実世界で他人を殺めたことによって彼の書いた物語は「物語」としての価値を完全に失ってしまったのかもしれない。彼の物語は、彼の「生来の」残虐性を証するものになり果ててしまった。残念なことだ。
言うまでもないことかもしれないが、どれほどグロテスクであろうと残虐であろうと非道徳的であろうと、それが物語にとどまるのならば誰からも非難されるいわれはない。われわれはむしろあり得ないことを語ることによって現実を豊かなものにしてくれたかもしれないさまざまな物語を失い、そうして深みのなくなった世界に生きてるということを嘆くべきなのかもしれない。

「悪い方向に」教育がトップ??

  • 2007年4月8日

醜い自分の姿なぞ誰も見たくないし見ようとしない。もちろんこれはわたし自身にもあてはまるだろう。

「社会意識調査 『悪い方向に』教育がトップ 内閣府発表」(4/1)(yahoo news毎日)[キャッシュ]

「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップ・・・

悪い方向に向かっているとしてこのほかに「治安」「雇用・労働条件」「医療・福祉」「地域格差」などが挙がっている。

う~む
社会意識調査。ここでいう「社会」とは何を指しているのであろうか。てか、政治は? 教育よりもはるかに悪い方向に向かいつつあるのが今の日本の「政治」だと私は思うのだけど。むしろ政治が教育を悪い方向に向けているという側面がある。もっとも教育崩壊の要因は政治以外のものもあると思われるが、日本で暮らす者のひとりとしては、教育問題が最も喫緊の課題だとは思えぬ。

確かに未来のことを考えれば教育こそが最も重要な課題だと私も思う。それはあらかじめ言明しておく。ただ、今の日本で最も憂慮すべき点は、政治家(しかも偏見の塊のような一部政治家)や企業家(実績のある、つまりは金もうけの上手い一部企業家)らがよってたかって「あーじゃこーじゃ」いって教育を”集団レイプ”しているような状況にあるということではないかと思われる。

べつに「あーじゃこーじゃ」と議論するのが集団レイプだというのではない。教育の当事者である現場の教員たちの声がまったく聞こえてこない状況のなかで部外者(なんなら外部の有識者と言いかえてもかまわないが)たちだけがひたすら現状に難癖を付け、金は出さずに「リンリ・リンリ」と鈴虫のように鳴いている。当の本人をまるで無視してよってたかって衣服をはぎ取り諸悪の根源として晒し者につつ、「こうなったらもうおまえはおれに従わねばならんのじゃ」(未履修問題等)、「(教員)辞めさせられたくなかったらおとなしく言うことをきけ!」(教員免許法改正等)などともう無茶苦茶にされている。

そしてそのような緊急事態にもかかわらず周囲の人びとは誰もそれを助けようともせず、それどころかただ教師の職にあるというだけでもう「そーだそーだこのアバズレめ。世間知らずの箱入り娘がよくもいままでお高くとまりやがってよ~、ふざけんじゃねえ」と付和雷同。あな怖ろし。

もしほんとうに日本社会が悪い方向に向かっているとするならば、それは単に教育だとか労働条件だとか(あるいは政治だとか)いう単体の問題というよりむしろ、誰もが他人を責め立てるばかりで何ら支援しようとせず、(われ関せずとばかり)誰ひとり窮地に置かれた人を助け出そうとしない万人の万人に対する闘争状態、そんなバトルロワイヤル的な状況こそがもっとも由々しき問題だと私には見えている。


”社会”意識調査なんだし「社会」と「政治」はべつものじゃないか!?
そう、確かに政治は「おカミ」のなさることであって下々の者ども、無知蒙昧の民とはまったく別世界のものだとおっしゃるのならばこの意識調査に政治のセの字も見当たらないことも納得できるといえないことはない。

今後は、そんな日本に住み続けたいと思えなくなってしまった能力のある若い人たちがさっさと日本を脱出してしまうだろう(私ですらそうしたくなる)。そうなれば「歴史と伝統」なぞ便所紙くらいの扱いしか受けられなくなるぜ。教育というものが将来への期待と畏れを含むものとしてでなく単なる過去への追憶、懐かしきわがニッポンを取り戻さんとして語られている限りは、何の期待も持てないし持つまいと思う。

ところで歴史認識問題にせよ教育問題にせよどういうわけか歴史家(研究者)や教師の声(現場の声)があまり聞こえ(見えて)てこないのはどういうわけだろう?
たんに私が知らないというだけならそれはそれで安心できるのだけど。
もし彼らが小さな声すら上げられないほど仕事に忙殺されておられるようなら、なおのこと今後の教育に期待はしないほうがよさそうだ。残念ながら。
口ばかりで金は出さない教育改革関係者の諸君にひとこと。
「なにごとも要はカネだよ」
いまこそこのありふれたあなたの(日頃の)言葉を実行に移したまへ。

from 貧乏人より

空気嫁、ニッポン?

  • 2007年4月4日
  • キーワードタグ: 政治

はじめに。
「カテゴリ」を整理しました。細分化しすぎて見づらくなっていたので。
そのかわり今後はタグクラウド(キーワード)でアクセスしやすくなるよう、各記事にこまめにキーワードを設定することにします。


先日「日本はcrazyなのか」というエントリで触れた沖縄戦での住民虐殺命令問題について少しばかり考えていた。自決命令の真偽についてはよく分からないまま当の記事を書いたわけだが、その後(昨日だったか)「池田信夫blog」で「大江健三郎という病」と題する記事を読み、「ほぅ」と思わされた。

池田氏のblogは日頃よく読ませていただいている。IT関係がご専門のようだが、経済・歴史などに関しても該博な知識を持っておられるようで、世の中にはすごい人がたくさんおられるのだなあと感心しきり。時おり散見されるストレートなモノ言いも不思議と「ま、そういうのもアリだよね」と思える。

その「大江健三郎という病」のなかで、沖縄戦における自決命令に関する曾野綾子の著作『ある神話の背景』が紹介されていた。この本はまだ手に取ったことがない。もう30年以上前に刊行されたのだそうだが(1973年、文芸春秋社)。それによると日本軍将校の少なくとも一人は住民に「自決するな」と諭していた、そういう証言があるのだそうだ。当の本を読んだことがないので事件に関して、さしあたりこれ以上の言葉を慎んでおこうと思う。

ところで、自決命令問題がこれまでどのような経緯を辿ってきたのかいささか気になる。私も以前ちらと耳にした記憶はあるのだが、詳しいことは知らない(ここまで読まれた方は言うまでもなくご承知だと思う)。ただ、少なくともこの問題についての認識はいまだ衆目の一致するところにまで至ってはいないとはいえるのかもしれない。

近年、一国内においてもまだ認識が分かれている問題について異論を(あたまから)排除する形で国としての「公式な」見解が示されがちにも見える。これは私の気のせいだろうか。
「常に異論はある(だからいちいち構ってられないよ)」
そうだろうとも。常に異論はあろうとも。しかしだからといってこの言葉を異論排除のための「封印」「護符」にしてよいわけではもちろんない。しかも、国としての公式見解となれば(よく見うけられる)政治家たちの発言のようにいとも気楽に「撤回」「抹消」できるものではなかろうし、それが対外関係に関わるものであればなおのこと正論というだけでは押してはゆけまい。

外にも眼ぇ向けてる?
内向き過ぎない?
内側だけ見てるのって危なくない?

などと考えながら、今ふと思ったことがある。
従軍慰安婦問題等での対日批判は、(本来なら日本とは直接関係のない)ブッシュ批判とどこかでつながっているようだ(根拠はなし)。

当今世界最強の国アメリカ。この国は(というよりブッシュさんは)、かりにも国際的に承認されている(いくつかの)国家に対して「ならず者国家」と呪詛の言葉を投げつけ、あまつさえ国際社会のコンセンサスを得ないまま武力侵攻を繰り返している(イランも危うい)。異論を排除し国内世論を一つにまとめ上げ(染め上げ?)一路目標に邁進した9・11テロ以後のブッシュ政権。その信念の具体像は私にははっきりと見えないのだが、少なくともブッシュ政権は自分たちの「信念」に極めて忠実であったと私には思える。国際社会の批判など蛙の面に小便だったではないか?英・西・伊・東欧各国は別として仏・独・露あたりはブッシュ政権の対外政策を白眼視していた(おそらく今もそうだ)。

小泉以来の日本は脇目もふらずにブッシュを追いかけている。「おーい!そのバス、待ってくれ~」

第三者的立場の人たちからは「信念に忠実な」安倍日本とブッシュアメリカとが二重写しに見えているのか。口先だけ勇ましい者(スネオくん)と実力に訴える者(ジャイアンくん)との違いはあれ、他者の声に耳を傾けないという点で同質の二人がそれ以外の人たちから冷たい視線を浴びている(マンガの中のスネオ・ジャイアンはもっと人間的だけど)。
おそらくアメリカの政治状況の変化によって、そうした状況が露になってきた。ブッシュにひたすら付き従っていたらいつのまにか彼との間に(本家)民主党が割り込んできた。「な、なんだよ、キミ・・・(怖)」
いっそ(民主党が多数を占める)アメリカ議会の日本批判はブッシュ大統領批判のとばっちりとでもいうべきか。そんな中、いま日本がいきりたてばたつほど状況は悪化しそうな気がする(ま、私の生活には関係ないけど)。
いまや「世界の憎まれ役」となったブッシュの身代わりとなって各国から袋だたきに遭っている日本。各国のブッシュ政権との親密度が慰安婦問題への反応ともリンクしている(”利害関係人”とも言える中国・韓国は別としてのはなし)。

そんな微妙な情勢のなかでわざわざ火中にガソリンを投じるような真似はなさらないほうがよいのではないかと思うことしきり。教科書の書換えがそれほど緊急を要する問題とは思えないのだが。なんにせよ時機を見定めるということは結構大事なことのような気がする。(ま、もちろんのんびりしているうちに新たな真相・疑惑が浮かび上がってくる恐れもあろうが)。

一言でいえば「日本はもっと空気嫁」!?

コロッと話が変わるが、

英国人女性講師殺害事件に関連して被害者の父親が出したコメントは、なんともまあ時宜を得たというのか痒いところに手が届くというのか、それとも「近代外交の故地」ヨーロッパの面目躍如というべきか・・・。コメントの内容云々よりもまえにタイミングがねぇ・・・。生前の被害者女性が口にしていた(らしい)、日本や日本人に対するネガティヴな言葉(「crazy japan」等々)がマスコミその他で取り上げられはじめた矢先、駐日大使が被害者の父の口を借りて(表向きは父が大使の口を借りた形だが実態は逆だろう)すかさずフォロー。もちろんこれで被害者女性もまた無用の反感を持たれずに済んだはず。

被害者父が声明「犯人は日本を侮辱した」(yahoo news毎日)[キャッシュ]

ま、日本の外交官も当然のようにどこかの国でやっているのでしょうけどね。

それでも僕わ悪くない

  • 2007年4月2日

まるで子供の喧嘩ですね。

たしかに、誤解がもとで軋轢が生じているのならば、相手の誤解を解く必要はあるでしょう。
どっかのチンピラがありもしないことを事挙げて脅迫・恐喝紛いのことを仕掛けてきているのならば毅然と反論することはもっともなことでしょうが。

不幸なことに、人間社会と同じく国際社会にもまた少数ながらチンピラ的国家が存在することは否定できそうもない。だから他国の主張を唯々諾々と受け入れるべきとはもちろん思わない。

しかし、そうした「ならず者国家(!)」からのみならず仮にも外交関係を保持している他国なかんずく最も大切な同盟国(宗主国?)からまで批判の矢を浴びせかけられている現状はどうしたわけだろうかと訝しくもある。それは確かだ。

ただし、それに対する反論はそれなりに相手に対する敬意を保っているべきではないのだろうか(少なくとも相手がチンピラではないのであれば)。
「あいつらだってスネに傷あるじゃねえか」
「人のこと言えた義理がこのバカヤローが」
「俺は間違ってねぇ。俺に反対するやつはそもそも俺に対して悪意があるにちげぇねえ」

「ぼくの周囲は悪意に満ちている」
これではまるで子供の言い分ではないか。

「安倍首相の発言は暴力的、組織的に軍が直接に関与したのかという疑問の提示だった。しかし、世間には政治家の発言を悪意をもって待ちかまえる人々がいる」

(産経抄3月30日付)
自分の言いたいこと言うだけの坊ちゃんだってさ、当人には(主観的には)悪意はないのかもしれないが、端から見れば恐らく充分悪意に満ちているように見えていると思うんだけどね。

しかし、日本にとって真の友邦はどこにいる?そうした友邦、協力者を作り出すことは政治家の重要な仕事の一つではないのか?内だけ向いて歴史と伝統を取りもどしたいのなら教育者としてのほうがやりがいがありそうですが。むしろそうするべき。 ”政治家”のやるべき仕事は、不満はあってもなんとか折り合いをつけることではないのだろうか?
自分の家の中に閉じこもって「歴史と伝統」をつまみ食いするのに忙しい人物にとってはそんなことすら見えないのかもしれない。彼には確かに外界が「悪意に満ちた世界」に見えるのだろう。

あなたがたはひょっとして、バランス感覚を欠いた奇形的な精神こそが「日本の歴史と伝統」であるとでも言いたいのですか?

いまどきの狂信的「政治家」や浮き草マスコミのヒステリックな言辞に踊らされるような阿呆な国民なんて一人もいないよ、たぶん。

真の意味での政治家が見あたらなくなった日本の当処のない漂流は今度の参院選で終わりを告げるか・・・。

願わくは他国を「チンピラ」と罵る自分たちもまたもう一つの「チンピラ国家ではないか」と言われることのないよう、より誠実で知性的な「大人の対応」がなされますように(おとな=たいじん)。

日本はcrazyなのか

  • 2007年3月31日

従軍慰安婦問題に関して日本は四面楚歌になりつつあるようだ(というより既に四面楚歌だと言うべきか)。安倍首相のお詫び発言も沈静化にはつながっていない様子。中韓は言うに及ばず、欧米からも聞こえてくるのは非難の声ばかり。もちろん個人的には日本の立場に同情的な論評もないことはない。日本との縁も深いジェームズ・アワーが産経新聞に寄せた評論(キャッシュ)を偶然見かけて読んでみた。これが産経の言うような「正論」かどうかはさておき、個々の意見は日本でも海外でもそれなりにまちまちであることは当然といえば当然のことだろう。

しかしながら現状では日本政府の言う「正論」は海外においては「暴論」と受け取られていることもまた疑い得ない。カナダ下院の決議は僅差での可決だったが〔注1〕、公式謝罪や保障実施を日本に促すよう(カナダ外相に)要求する内容〔注2〕とのことだ。また、朝鮮日報はドイツの新聞論評を引用する形で暗に日本政府を批判している〔注3〕

どうも安倍首相は自分の発言が否が応でも海外にまで届くのだ(そして多様な受け取られ方をする可能性があるのだ)という点に配慮が欠けているように私の眼には見える。いっぽう今の日本には安倍さんの強気の発言を歓迎する空気が確かにある。朝鮮日報によれば上記南ドイツ新聞が次のように論評しているらしい(南ドイツ新聞のサイトでは当の記事が覗けなかった)。
「支持率が急落している安倍首相は、かつて性の奴隷となった高齢の女性には心の傷を負わせながらも、日本国民の半数には民族主義的な発言が支持されるだろうという卑劣な計算をしている」
安倍さんの強気の発言を当然のこととして受け容れる日本人は少なくない(というより多いとはっきり言うべきだろうか)。

もちろん、安倍氏の国内向けパフォーマンスはそれ自体非難されることでもないだろう(たとえそれが下手くそな演技者のそれであるとしても)。なにせそれが政治家の仕事なのだから。しかし安倍さんはどこかのゴロツキ政治屋ではない(はず)。首相という立場に(今は)いる。ゴロツキ政治屋はそこらじゅうにいて、それはなにも日本に限った話ではない。わざわざ海の向こうのマスコミがある国のゴロツキの言動についていちいち論評することもまずなかろう。

それどころか日本一国の動向など、諸外国にとっては日本人が思っているほどには重要なトピックではないだろう。それは自分たちについて振り返ってみれば分かる。カナダで何が起ころうと、バスクでテロが起ころうとまず日本ではニュースにならない。外国で何が起ころうとまずは「邦人は無事」「邦人乗客行方不明」というわけで、日本・日本人に関わりがあればともかく、そうでなければ誰の興味も引かない。それが自然な反応だろう。

しかし、日本政府の言動に逐一諸外国が反応を示すことはないにしろ、彼らには何も聞こえない・何の興味も持っていないというわけではもちろんない。一朝事あらば情報は瞬時に筒抜けになるご時世なのだから。

先日の英国人女性講師殺害事件を知ったとき、すぐさまgoogle newsで海外での報道をチェックしてみたが、日本での報道とほぼ同時にイギリスはもとよりカナダ・オーストラリアほか英語圏の国々でも詳しく報道が為されていた。そんな時代にわたしたちは生きている。

この講師殺害事件は日本にとっては具合の悪いタイミングで起こったと私は感じている。様々な異論はさておき女性を性的に虐待した従軍慰安婦問題に関して総スカンをくらっている中で起こった女性講師殺害。共通するのはさしあたり「女性」という点だけだろうが、この二つが混じり合って日本への悪感情が醸成されても不思議なことではあるまい。

女性に関する問題で「いわゆるバッシング」を浴びている最中、パフォーマンス好きの安倍首相はいっそのことこの事件捜査の陣頭指揮をとるくらいの姿勢を対外的に示されてはどうだろうか。確かに捜査の進展には毫も寄与しないだろう。邪魔になるだけかもしれない。たぶんそれは事実だろう。しかし世界は事実だけで成り立っているわけではない(事実は所詮は素材である。もちろんそれはとても重要な素材ではあるが)。

「慰安婦は金を目当てに自分から飛び込んできたんだからさ」とあくまでも突っぱねた挙句、自分たちのテリトリーで起こった外国人女性殺害も通り一遍の捜査しかしない日本人に対して世界は北朝鮮に向けるものと同じそれを向けはしないか。それは一面不合理かもしれない。日本人だろうが外国人だろうが同じ捜査をやるのだ。特別扱いは不平等であり、また逆に日本人を逆差別することにつながるとも言えよう。それこそ「正論」かもしれないが、正論だけで世の中渡っていけるはずもないことは政治家の方々が一番よくご存じの筈だろう。「政治には金がかかる」。

法的には問題はない
合理的に考えるべきだ
事実か否か疑念が残る

そんな言葉は人間の感情の前には何の力もない。安倍さんを筆頭に、今の私たち(日本人)には人の感情に対する配慮が決定的に欠けているように私は感じる(もしそれが私一身の欠点に過ぎないのなら喜ぶべきことだ)。誰しも身近な人間(や選挙民の如き利害関係者)の感情を慮ることはさほど難しいことではない。問題は姿や顔の見えないまったくの他人へのそれだろう。

見ず知らず、会ったことも存在することすらも知らない赤の他人の感情に配慮することにはある種の能動性が必要になる。想像力が要る。しかし現実には親殺し子殺しがめずらしくもなく、姿の見えない赤の他人への配慮などは希少価値すら持ち始めたかに見える。よく言えば自己の信念に忠実な、そしてそれしか見えない安倍さん型(ストーカー型?)のあり方が最早ありふれたものになりつつあり、病的なまでに昂進している。そんな日本に対する一般的な印象がこの際さらに悪化しても私は不思議とは思わない。

先の講師殺害事件に関連して、イギリスの新聞に次のような文言を見つけた(同様の記事は日本の新聞も報じていたが、その時は気にも止めなかったが改めて英文を読んでいささか考えさせられた)。

Ms Hawker later mentioned the stalker in an email home to her boyfriend, describing the incident as an example of “crazy Japan”.

”British teacher died from suffocation”(The Independent)

“crazy Japan”
何と訳すのが適当なのかわからない(ちなみに朝日新聞はこれを「日本は変わった国」と訳していた)。日本で生活している私たちは自分たちの社会を狂った社会だとは思ってはいない。そう思いたくない。しかし「あなたたち、おかしいよ」と言われてみればそれを否定できるだけの確信が少なくとも今の私には持てない。

そうしたなかで今朝新たにcrazyな言い分を報ずる記事に接した。

文科省は「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」と説明

「『軍強制』検定で修正 沖縄戦集団自決の7カ所 08年度採用高校教科書」(西日本新聞)

尚、ここで言われる民事訴訟は産経新聞によれば「作家の大江健三郎氏らの著書で自決を命令したと名指しされ名誉を傷つけられたとして、座間味島の守備隊長だった元少佐らが17年に大江氏らを大阪地裁に提訴」したことを指している。〔注4〕

慰安婦らとこの元少佐の両者については、どちらも名誉や尊厳を傷つけられたとして訴え出たという点で等価というべきだろうが、片や鋭敏に過ぎると思えるほどの配慮を見せるかと思えば他方では諸外国の批判を「あっちとはそもそも議会制度の成り立ちが違う」などという(反論としては)頓珍漢な遁辞を弄して批判を批判として受けとめない。

また、両者は強いて言えば「証拠がないから断定できず」という点が共通しているとも言えようが、彼らどちらも単に事実を確定させたいが為に提訴したわけではなかろう。彼らにとっては事実か否かということは自らの尊厳を回復せんがための副次的な要素に過ぎないと思われる。それにもかかわらず近年の一部政治家たちが常套句とする「事実かどうか」「断定できない」という言葉はまるであさっての方角を向いているように感じられるが、そんなものは「学者の言葉」ではあっても「政治家の言葉」ではなかろうと素人の私は思うがどうだろう。
ここで念のため言い添えておくが、これは何も学者や政治家を貶めようとするものではない。学者は学者の言葉を、政治家は政治家の言葉を使えばよい。しかし都合のいいときにだけ政治家が学者・歴史家の言葉を使って言い逃れを図る卑怯さに途方もない醜さが感じられはしないかということだ。

もちろん、政治家は学者ではないと言うことくらいは「歴史認識は後世の歴史家に委ねる」と述べられた安倍首相もよく承知されているだろうから、(証拠の有無は専門家に任せて)政治家として適切な対応を今後はなされることを期待している。それとも安倍さんは行政府のトップでありながら「文科省の言い分は私のものではない」と仰るのだろうか。

注1

野党・新民主党の議員が提出し、27日の採決は賛否が3対3で割れたが、与党・保守党の委員長が賛成に回った

「『日本政府に圧力』 慰安婦めぐり決議 カナダ下院小委」(朝日新聞)
注2

旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で、日本の国会の公式謝罪決議や補償の実施を安倍首相や国会に促すよう、マッケイ外相に要求する動議を採択

「『慰安婦問題』カナダ下院小委が動議採択」(読売新聞)
注3

日本政府による強制連行を否定する発言を強く批判する声が、米国のみならずドイツやカナダからも
(中略)
ドイツの日刊紙「Sueddeutsche Zeitung」は28日、「安倍首相は内政での失点を挽回(ばんかい)するため、日本軍がアジアで性の奴隷を搾取した事実を公の場で否定した」と非難

「慰安婦:『日本は謝罪すべき』 世界各国で非難の声」(朝鮮日報)
注4
高校教科書検定 沖縄戦集団自決「軍命令」を修正 否定説有力、方針変更」(yahoo news産経)(キャッシュ


なんにつけ、あまりにもご都合主義が過ぎないかい?
素材(事実)の吟味に拘っていつまでたっても飯を出さない料理人なぞただの馬鹿だ。餅は餅屋に任せなよ。そうしてつまみ食いもやめときなよ。

(2007年4月1日夜一部改稿)

(追記)
沖縄戦集団自決に関する参考記事:
「大江健三郎という病」(池田信夫blog)
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会

職質追跡PTSD訴訟

  • 2007年3月29日

以前いくつかのエントリ(職質追跡でPTSDと国賠請求ほか)で取り上げたことのある訴訟。棄却されたことに意外性は感じないものの・・・。

「女子中学生 PTSD訴訟 『活発な娘に戻して』 県警に敗訴の両親会見」(西日本新聞)(キャッシュ)

判決は職務質問の違法性も、女子生徒に対する追跡の過剰性も認めなかった

県側代理人の安永宏弁護士は取材に対し「証拠の評価が適切な判決。この職務質問を違法と言われたら警察の現場が大混乱する」と話した。

意外な結果だとは思れないが、なんだかね・・・。

このPTSD訴訟に関して佐賀県のサイトにこんなものが。
「こちら知事室です」

ついでと言ってはなんですが佐賀県つながりでこの記事も。
「佐賀3女性殺害:検察が上告断念 松江被告の無罪確定へ」(毎日インタラクティブ)

こういうものも地域格差と言うべきか。末期的・・・。
ゴジラが地域社会を踏み荒らした挙句に最後っ屁。組織の力の前に無力な個人が泣きくれる。これは佐賀だけの話なのだろうか。
いまの日本はほんまに近代国家か??

(追記)

吉崎裁判官は言い渡し後、「職責を全うしようとした警察官と、犯罪と無関係な女子生徒の間に起きた極めて残念な事件。将来の警察活動で同様の事態が生じないよう検討が望まれる」と県警に忠告

yomiuri online 九州発キャッシュ

『秋霜烈日』~その3

  • 2007年3月24日

「犯罪者なぞその場で射殺せよ」
これは確かに暴論だろう。ではなぜ暴論と言うべきか。「そりゃ加害者とはいえ人間である以上は(基本的)人権があるさ」とでも言っておくか? しかしそもそも彼は他者の人権を侵害したのではなかったか。加害者によっていわれなき侵害に晒された被害者は果たしてその加害者の人権を尊重せねばならないのだろうか。そのような道学者的な要求はこの際むしろ理不尽というものではないのか。

しばし考えてみた。

おそらく「その場で射殺」が暴論でしかない理由の一つは、その場で射殺される人物が「ほんとうに犯人か否か」が明瞭でない場合があるからだと言うべきだろう。(「加害者にも人権を」という綺麗事は、当事者の「クソくらえ!」という言葉にはとてもではないが対抗できそうにない。)

もし仮に無辜の人が射殺された場合、いったい彼は何のために命を奪われたのか。彼の死は社会の安寧を守るためのやむを得ざる犠牲だということになるのだろうか。そんなはずはあるまい。私たちの社会はそうした「理不尽な犠牲」を否定することを学んだはずだ。無垢な処女を、年に一度海の向うからやってくる「海神さま」に生け贄として捧げることで自分たちの村の平穏を保障して貰うと云うような話は昔ばなしでしかないはずだ。

「犯人をその場で射殺」することは、犯人の人権を尊重するためにというよりもむしろそうした(海神様への供犠に類する)理不尽な犠牲が生じる恐れがあるからこそ否定されなければならない。「被害者のために是が非でも検挙を!」という姿勢は、ひとつ間違えば若い娘を海神様の前に引き据える、村の長老の愚行につながる。

(しかしいったいいつになったら取調べ可視化のはなしに結びつくのだろう・・・)

日弁連の論文によれば取調べ可視化反対論者の主な主張は次のようなものだそうである。

  • 信頼関係構築論・反省悔悟論
  • 精密司法論
  • 供述人保護論
  • 刑事司法手続全体論

日弁連「取調べの可視化(録画・録音)の実現に向けて」(pdfファイル)

各々の詳細は省略するけれどもあえて一言附言すれば、この論文の中で紹介されている(捜査機関側の)導入反対論は「無罪推定原則」を一切考慮していないと言わざるを得ない。そのいずれもが「被疑者=真犯人」という(暗黙の)前提のもとに立論している。或いは犯人との信頼関係を構築して供述を得て悔悟を促す、犯行に至るまでの心理その他を詳細に立証する必要性がある、供述内容が外部に流出する恐れがある、等々。

とってつけたような立論としか思えないようなものもあり、また捜査機関による「取調べ内容が外部に流出する恐れがある」などという主張にいたってはある種の「脅迫」ではないかとさえ思いもするのだが、それについてはいずれ機会があれば書くことにする。


おそらく捜査機関にしてみれば無罪推定原則などというものは建前にすぎないのだろう。だってお茶の間のテレビで警察の記者会見を見ている私のような素人が「実は無罪かもしれないけれど逮捕しました」と言う言葉を耳にしたら、きっと「じゃ、なぜ逮捕するんだよ!ちゃんと捜査してから逮捕すりゃいいだろうが!」と茶々を入れるところだ。結句、社会一般の「逮捕者=真犯人」という通念もまた捜査機関の立論を裏から支えている。

冤罪を防ぐための取調べ可視化を主張する者と、社会通念を後ろ盾にして被疑者=真犯人という前提でものを言う(言わざるを得ない?)捜査機関との間の議論にはどこまでいっても話が噛み合わない不毛さを感じさせられる今日この頃。


捜査機関はあくまでも被疑者=真犯人という前提でのみ思考し行動するのだということを示すような言葉を見かけたので紹介。
「北方事件控訴審判決 県警、詳細コメント避ける」(佐賀新聞)

無罪判決で苦悩の日々を送り続ける遺族に対しては、「犯人検挙まで時間がかかったのは申し訳ないと思う」としながらも、現段階で謝罪するかどうかは「コメントできないとしか言えない」と回答を避けた

二審での判断なぞものともせず、ということのようだ。ひょっとするとこのケースは、真犯人かどうかは問わず単なる「犯人」の検挙だけが目的(市民向けのパフォーマンス)だったとでもいうのか。
側聞するところでは(今回再び無罪とされた)被疑者が検挙されるまで一向に進展を見せなかった北方殺人事件の捜査に関して「さば県警」「さばけんけい」(仕事の出来ない”ボンクラ”県警の意)という罵声が飛んだらしい。

敢えて穿った見方をしてみれば、このいささか強引ともいうべき検挙は捜査機関の汚名返上が主目的だったのではないかとすら思えなくもない。法治国家に住んでいると素直にも(間抜けにも?)信じているものとしてはそうではなかったと思いたいところだが。

最後になったが、この際、冤罪を防ぐためにもまた審理の場での無駄な水掛け論を避けかつ真犯人を取りこぼさないためにも取調べ可視化の導入を検討すべきではないだろうか。(常日頃から当為の言葉は使いたくないと思っているものの、ここは行きがかり上・・・。御免)

そしてその検討にあたっては「被疑者=真犯人」という社会通念に寄り掛からない、フェアな議論が為されるべきであるはずだ。

司法システムにおけるフェアネス。
『秋霜烈日』を読みながらそんなことを考えました。

(2007年3月24日夜一部改稿)

『秋霜烈日』~その2

  • 2007年3月21日

先日のエントリ(リンク下記)で取り上げた元検事総長伊藤栄樹の回想録『秋霜烈日』の感想の続きを。

伊藤氏が亡くなられてからもうの幾星霜、あらためて調べてみたら1988年没ということですでに20年近くも経っていて少しばかり驚く。彼に何の縁故もない私ですらどういうわけか彼のことがやけに印象に残っている。歴代の検事総長が何人なのか知らないが(調べろよ)、そのうちで私がご芳名を存じ上げているのはこの人ひとりだ。

前回も書いたことだけれども、私が彼の言動から受ける印象は「フェア」であるということだ。なぜそう思うのかと問われてもあくまで私(という偏見溢れる)個人が受けた印象だから特段の理由はないとしかいえないのだが。

つい先日控訴審判決が出た佐賀の連続女性殺人事件は今のところ大したニュースにはなっていないようだ。まだ判決が確定したわけではないし、富山・鹿児島の冤罪事件とは幾分違った事情があるのだろうが(「同一」の事件などそもそもありえないわけだけど)、それらに共通する確かなことが少なくとも一つある。

それを一言でいえば捜査機関による取調べの前近代性ということになろう(「近代」などという”あやふやな言葉”を使うしかないくらい私の語彙が乏しい点は平にご容赦を)。限度を超えた長時間の取調べ、(被疑者本人のみに止まらない)種々の圧力、ときには不当とも思えることのある身柄拘束。身体的自由を奪い、精神的圧力を加えることによって被疑者の自白を引きだすことをして「適正な捜査」とされる不可解さ。

もしそうした取調べ・捜査手法が「まことの」犯人に対して為されるというのならば、法律家ならいざ知らず、素人(私)ならばおそらくそれを黙認する。
暴論を承知で言えば私は「犯罪者なぞその場で射殺すべき」とさえ思っている。犯罪者がうまうまと法の網をすり抜けてデカイ顔をしていられるようなケッタイな規則・制度などクソ食らえとさえ思う。但し、一つだけ限定条件がある。
そいつが「真犯人」である場合に限る、
という条件だけは何があっても外せない。

司法制度を論ずる際に被疑者・被告の人権が考慮されるのは当然のことだろうが、ひとが「被疑者」・「被告」と言うとき、同じ言葉を用いる一人ひとりが各々そこに異なった意味を持たせているように思われることがある。
たとえば、ある人は被疑者・被告を「いまだ刑の確定してないだけの犯罪者」の意味で用い、別の人は「嫌疑を受けているが(ひょっとしたら)無辜かもしれない人」の意味で用いている。

前者と後者では、「被疑者・被告にだって人権がある」という近代法治国家としては当然の認識でさえ、その受け止め方には大きな隔たりが出てくるのは当然といえよう。もちろん理性に訴えればそのどちらもが被疑者の人権を当然のように(或いはいやいやながらも)承認するだろう。「そういうことになってんだから」と。

しかし、当然のことながら「悪人」の利益を守れと言われてそれをなんの躊躇もなく実行できる人というのはよほど人間の練れた人物、寛大な宗教家くらいではなかろうか。もちろん(小人の)私には到底実行不可能だ。

ここで、もし私や私の家族・友人が運悪く何らかの犯罪の被害者なったと仮定してみる。私がもし犯人に復讐をしないとすればそれは犯人を赦すからでは決してないだろう。、むしろ復讐をなすことによって自分自身が新たな犯罪者として断罪されるであろうと予見してやむをえず自分の行動を抑制する(せざるを得ない)というだけのことでしかない。そして復讐を実行できない私は当然に公権力による厳正峻烈な犯人処罰を求めるだろう。

被害者や被害者の親族にしてみれば犯人が検挙され処罰されることは当然の願いだろう。そして捜査機関がそうした被害者・家族の心情を踏まえて事に当たることは社会的にも是認されることだろう。

問題は、「真犯人」か否か。
被害者にしても(あるいは捜査機関にしても)真犯人の逮捕・処罰を望み追求しこそすれ、無辜の人を断罪することを望みはするまい。
それどころか無辜の人が断罪されることによって真犯人がどこかでのうのうと同じ悪事を繰り返すことを許してしまうことにでもなれば、それこそ痛憤極まりない事態だと言うしかない。

と、書いてきましたがまた長くなってきたのでまた次回・・・。

再び冤罪が明るみに出るのか

  • 2007年3月19日

つい先日のエントリで、数年前(18年前!)に佐賀県の北方町(現武雄市)で起こった連続殺人事件の控訴審について触れたのだが、そのあとすぐに落合弁護士のブログで明日控訴審判決が出される予定であることを知ったので思うところを書いておこうと思う。

一審で無罪判決が出たものの2005年5月に検察側が控訴して以来まるまる2年近く何の音沙汰もなかったこの事件(地元新聞社が特集記事など組んでいたのかもしれないが寡聞にして知らない)。最近ちょうど富山や鹿児島での冤罪事件が大きくマスコミに取り上げられたこともあってこの事件のことが記憶の隅からよみがえってきた。

  • 「佐賀3女性殺害、19日に控訴審判決」(読売新聞)

時効成立直前に被疑者が逮捕されたのが2002年。別件で逮捕された被疑者が出した殺害を認める旨の上申書が検察側の有力材料だということだけれど、これが控訴審でどのように評価されるのか気になるところ。

元東京地検特捜部長井内顕策氏の佐賀地検検事正就任は、この事件を含む一連の(佐賀の)未解決事件解決のためであるとの新聞記事を以前読んだ記憶がある[註1]が、結果はどうでるのだろうか。

富山や鹿児島の冤罪事件では捜査機関による自白強要など強引な捜査手法が問題とされたが、この北方の事件でもし再び無罪判決が出たならば検察・警察としては頭の痛いこととなるのかもしれない。

これまたつい先日のことだが、今月23日付で富山県警本部長が九州管区警察局総務監察部長に転任するとのこと(これも落合弁護士のブログ経由で知ったいや、これは新聞で見たのが先でした)。

  • もしうまく事が運べば、前任地でミソが付いた警察キャリアは、強引な捜査か否かが問われている類似の事件の控訴審判決を抱える新天地で成果を上げることによってその汚名を濯ぐことが出来るかもしれない。もっとも新監察部長が一地方警察の不始末を明るみに引き出すことで実績を残されるのか、はたまた前任地での経験を生かして警察という組織を守ることによって実績とされるのかは今のところ不明だが。

    いずれにしてもマスコミは明日の判決に向けて取材に追われていることだろう。富山、鹿児島から佐賀と続くのか、それとも捜査機関の体面が守られることになるのか気になるところだ。

    ついでながら、ひとつの事件が有罪になるにしろ無罪になるにしろ、裁判に掛かる期間の長さはそれだけでも被疑者にある種の心理的圧迫感を与えるをあたえるのだろうなあなどと思った次第。

    とまれ、明日いかなる判断が下されるのだろうか。


    と、書いた記事をupする前に控訴審判決「無罪」が出てしまいました。


    [註1]
    昨年(2006年)春頃の西日本新聞朝刊。日付不明。
    【追記】
    井内氏は無罪判決確定後の2007年6月25日付で最高検検事に転任。(その後最高検刑事部長→2009年1月16日付横浜地検検事正へ転任)

  • 裁判長説諭のメッセージ性

    • 2007年3月18日

    昨日の記事に追加しようかとも思ったけれど、長くなりそうなので稿を改めて書くことにする。
    堀江氏は一審の法廷でその違法行為を指弾され、実刑判決がひとまず下された。罪状は風説の流布とか虚偽記載とかいうことのようだが、判決文朗読後の裁判長の説諭の言葉はなかなか意味深長であった。

    「有罪としたが、生き方すべてを否定したわけではない。罪を償い、能力を生かして再出発してほしい」

    「堀江前社長に実刑判決」(サンケイスポーツ)

    ここで言われる「生き方」は多様な解釈を許してくれそうだ。それは前後の文脈を無視している(知らない)という点は割り引かなければならないのだろうが、そこに次のようなメッセージを読み取ることは牽強付会とまでは言えないように思われる。
    「資本市場に投資して株価に一喜一憂する生活、株主利益率の向上だけをやみくもに追い求めるような経営方針、とにかく金が欲しい、稼ぎたいという欲望は悪いことではないんだよ」。

    これを言い換えれば、堀江氏のごく私的な生活スタイルであるとか違法性のない経済行為だとかはまったく何の問題もないし、むしろ推奨しても良いくらいなのだ、というメッセージをこの説諭は発してはいないか、ということなのだがもちろん正解はないだろう。
    しかし、そこで取り上げられたある母親からの投書の内容と合わせてみるとこの説諭は誤解の余地がないほど明確なメッセージ性を帯びてくるとは言えないだろうか。「夢」「希望」・・・。子供らしい綺麗な言葉を紹介する大人の側には底意が皆無だったのだろうか。果たして今回の事件に関係する投書が何通ほど裁判所に届けられていたのか(あるいはそれが唯一のものだったのかもしれないが)寡聞にして知らないが、もしも複数あった投書の中から裁判所が選択的にその投書を取り上げたのだとすれば、説諭のメッセージ性はより明確になるだろう。

    もし仮に堀江氏の生き方が子供たちの世界観に多大な影響を及ぼしていたとすると、やはりどう控えめに見てもわれわれ大人たちが既に堀江氏とは大差のない(生き方の)志向性を持っているからだと言わざるを得ないのではなかろうか。

    (メモ)「堀江被告に実刑判決 「狙い撃ち」論一蹴」(yahoo news 産経)

    「アッ!」と思って書き始めたのですが、なんだか当初の意図とはまるで違う一文になってしまいました・・・。(またいずれ)

    (メモ追加)
    「ライブドアの判決」カフェヒラカワ店主軽薄

    関連エントリ:「看板に押し潰される現代日本」

    (2007/03/20追記)
    「あなたに勇気もらった子も=裁判長が堀江被告に説諭」(yahoo news 時事)

    看板に押し潰される現代日本

    • 2007年3月17日

    昨日、前ライブドア社長堀江氏に実刑判決が下されたそうだ。何の縁もない彼のことを私はほとんど何も知らないが、一時期は昇龍の如く経済界で暴れまくりラジオ局だのテレビ局だのに買収を仕掛けてその心胆を寒からしめ、はたまた自民党によいしょと担がれて選挙に出馬したかと思えば私生活では美女を侍らせてウハウハであった、などとマスコミが騒ぎ立てていたことくらいは承知していたのだが。

    マスコミを通じて見聞する彼の言動のほとんどは、カネか女に関係したものだったかと記憶する。実際の彼がどうなのかは知らないが、少なくとも彼が「この世に金で買えないモノはない」「人の心は金で買える」というようなことを公言したことは事実なのだそうだ。

    だがそうした彼の言動は一部の人たちの不興を買いはしてもそれほど世間は騒がなかった。それはたぶん彼が企業家という、お金を稼ぐことを生業とする人物だったからだろう(企業家全てがそうだという意味ではもちろんない)。言い換えれば、世間はお金を稼ぐ人には廉恥心など求めないぞ、バンバン稼ぎなさい、ということだったのかもしれない。彼の世評が高まったのはまさに彼が若くしてどんどんカネを稼ぐ有能さを発揮したが故だった。

    金が欲しい奴はしゃかりきにやってどんどん稼げばいい。株や相場で小銭を稼ぎたいのなら好きにすればいい。自分の時間をどう使おうと、自分の金をどう使おうとその人の自由だ。それは確かにそうかもしれない。少なくとも端からとやかく言う筋のものではないようだ。

    ただ、儲かっても損してもその始末は自分でやったほうがいいとは言えないだろうか。そうせねばならない、とは言わないまでも。儲けたら自分のものだが損した場合は他人のせい、などというのは見下げ果てた餓鬼といわざるをえない。

    しかし、そういうことは敢えて誰も言おうとはしない。堀江実刑判決に関する新聞記事を見ているとどこの新聞社も基本的には同じ論調だ。
    「拝金主義に警鐘」
    「法令遵守が求められる」
    「金の亡者よ、さらば」
    という論調のものが多い。

    誰も言わない。
    堀江も投資家も同じ穴のムジナである、と。
    いや、むしろ同じ穴のムジナであるからこそ堀江氏が「法令を遵守」していなかったことを以て彼を断罪しているのだろう。投資家たちは彼を拝金主義者と罵ることには躊躇せざるを得ない。カネを追い求めている点では投資家たちは堀江氏と同じ穴のムジナなのだ。肥ったムジナか瘠せたムジナか、どちらがどちらなのかは分からないが。そして投資家たちは、堀江氏を指さして「この金の亡者め」とは言えないからこそ彼の「法的」「道義的」な責任を追及するのだ。彼らが堀江氏を非難しようとすればそうするしかないのだ。「俺に損させさやがってさ、あの野郎が」という言葉は表には出て来ない。少なくとも報道されることはない(報道するまでもないほど当然の反応だと言うことかもしれないが)。

    そうはいっても私自身、投資家たちや資本主義経済そのものを非難するつもりは毛頭ない。ムジナなどに喩えたらそう受け取られるのはあたりまえかもしれない。よってムジナではなく同類項だと言い換えよう。
    堀江氏は1000a、巷の2aも3aもまあ同類。
    a は何でもよい。拝金主義でも株主利益でも投資家利益でもよりどりみどり。

    堀江氏に関して、彼の法的あるいは道義的責任が声高に追及されればされるほど、いかに今の日本が「効率化」だとかその類の「看板」を背負った拝金主義に覆われているかが明白となる。そして投資家だけに限らずとも、貨幣なくして生活できない現代人は誰一人として「効率なんぞ知ったことか」「おれはカネなんかいらねえよ」とは言うことができないのだ。せいぜい「金もうけ(効率化)は悪いことではないんだけどさぁ・・・」とモゴモゴ言うしかない。

    『秋霜烈日』~その1

    • 2007年3月12日

    読了。

    元検事総長伊藤栄樹氏が死の直前まで書きつづり朝日新聞に連載された回想記をまとめた一書。個人的な来歴はほとんどなく、検事任官後の「仕事」に関する記述のみ。

    私は著名人の回想録といえばつい日経新聞の「私の履歴書」を思い出すのだが、この本は、まだ存命の人物が選りに選ったエピソードだけをつづる「私の~」とは微妙に違った印象を受けた。一言で言えば虚飾がない(見えない)というべきかもしれない。それどころか思わず「え?そんなこと書いちゃっていいの?」と言いたくなるような記述もあった。既に死期の迫っていた伊藤氏は、自らを飾ることもなく、」ただ残された者、未来の日本を背負う者への遺言としてこの回想を書き残したのだろうか。そんなことを想像しながら読み終えた。

    つい先だっては富山と鹿児島で真っ白無罪の人たちが服役しあるいは逮捕されていた事実が公になった。以前のエントリで私は彼らのことを幸福で不幸なひとたちと呼んだのだが、なぜ彼らが幸福だといえるのか、そのエントリを読んだ方には伝わりにくかったかもしれない。

    もちろん彼ら(冤罪の犠牲者の方たち)は不幸な「事件」の犠牲者であった。そして私が何故彼らを幸福なひとでもあると言ったのかといえば、(くどいようだが)彼らは不幸な事件の犠牲者であったことが後日判明し、そしてそれが公に認められた(無罪が確定したという)からだ。

    真犯人が明らかとなり、あるいは捜査の杜撰さが白日の下にさらけだされるなどということはテレビドラマでならありきたりの結末だろうが、現実にはそうそうないことだろう(現に富山のケースでは無実の人が服役なさっていた)。めったにないことだからこそ今回、ある程度はニュースとしてわりと大きく取り上げられたわけだ。

    『秋霜烈日』のなかには次のような一節がある。

    私は、東京地検次席検事の時代、二度ほど公判部の検事に無罪の論告をしてもらったことがある。どちらも多数回の窃盗を犯したとされる事件である。警察が背負わせたわけでもないだろう。泥棒の常習犯になると、ときに親切にしてもらったお礼に、その警察の管内の未検挙の事件を背負ってくる。検事がそれを見抜けないと、そのまま起訴してしまうことになる。

    ここに引いたケースに限って言えば泥棒の常習犯が少しばかり重い刑に服したところで大勢に影響はないようにも思える。しかし伊藤は「被告人の利益」という観点から見ればこれは無罪とされるべきだという。伊藤氏はこうした検事の在り方を「公益の代表者」という言葉を用いて表現している。

    この言葉自体はごく一般的に用いられる言葉ではある。しかし何を以て公益というかとなると各々微妙に異なっていることが多い。伊藤氏が「公益の代表者」という言葉を用いながら、被害者は勿論のこと加害者(被告人)にすら目を配るべきだとしている点は看過すべきではないだろう。

    回想録のその他の部分も含めてその全体から受ける伊藤という人物の印象は「フェア」だということだ。被害者–加害者、取調官–被疑者、取締当局–取締対象者・・・・、そうした種々の局面において、伊藤氏のプリンシプルはフェアネスというところにあったように思われた。

    翻って現代。
    「社会がおまえを許さない!」と法廷で芝居がかった台詞を吐く検察官、導入が決まっている裁判員制度、取調べの可視化論議などを見聞きして私はどうもそれらからフェアネスを感じることが出来ない。三文役者の(一部)検察官はバカにも見えるし、裁判員制度で言われる「市民の視点」「被害者の心情への配慮」、取調べ可視化がもたらす「弊害」、それらに関する賛否両論を耳にするにつけどうも両者の言い分がそれぞれ別次元にとどまって結局は「正論」だけが一人歩きしているように思えてならないのだ。

    ちょっとばかり長くなってきたので、裁判員制度と取調べの可視化については稿を改めて書くことにしようと思うが、可視化と伊藤氏との関連で一つだけ挙げておきたい。

    取調べの可視化への反対論者が言う「(取調べ担当者と被疑者との)信頼関係の阻害」。

    「被疑者が真情を話しにくい」その他云々というのが主な反論のようだが、どうも反対論者の言い分を聞いていると、被疑者が「真犯人である」ことを前提としているように思えるものが多い。もし被疑者が無辜の人ならば録画(可視化)されて困るようなことはひとつもないのではないだろうか。

    取調べ担当者と被疑者の信頼関係が重要になってくるのは恐らく被疑者=真犯人であるケースなのではないだろうか。

     知能犯についていうと、検事と被疑者との間に醸し出される信頼感情、これこそが自白の最大の原因と思う。そのためには、検事と被疑者がお互いに胸襟を開いて、身の上話をし、同じ社会的関心事について語るといった経過をたどることも多い。相互の信頼感情なしには、ほんとうの自白は出て来ない。
     いずれにせよ、検事と被疑者がのちに街角で再会したとき、笑って手を握れるような調べによって得た自白だけが、信頼できる自白である。検事の良心に照らし、このことだけは忘れてはならない。

    どうも上手くまとまらなかった気がするな。
    後日汚名返上致したいと思います。

    秋霜烈日―検事総長の回想
    amazonでは入手不可

    日本の孤立化(孤立か?)

    • 2007年3月10日

    アメリカと北朝鮮の間で進む緊張緩和。アメリカは対北朝鮮金融制裁の緩和・テロ支援国家指定の解除などを以て「北風政策」から「太陽政策」(「木漏れ日政策」?)へと鞍替えした模様(いつまで続くかは不明だが)。

    心覚えに最近の米朝日交渉をまとめると次の通り。

    • 1/16~ 米朝事前協議(於ベルリン)
    • 2/8 ~ 6カ国協議再開(於北京)
    • 2/13  6カ国合意成立
      北朝鮮が寧辺の核関連施設を停止・封印
      北朝鮮へ重油5万トン相当の支援(オプションで最大100万トンまで)
    • 3/5 ~ 米朝作業部会 →対北朝鮮制裁緩和へ
    • 3/7 ~ 日朝作業部会 →進展無し

    現在のところ、拉致問題を抱える日本はアメリカの対北宥和政策を横目に見ながらも強硬な姿勢を崩していない。外務当局者も大変な思いだろう。振り上げた拳をおろせないわけだ。アメリカの中間選挙で民主党が勝利(*)した時点でも、その後のアメリカの外交政策がいくらかなりとも変化するであろうことは日本当局者の想定の範囲内であったはずだが、その後も日本政府は事あるごとに対北強硬姿勢をアピールし続けている。
    *中間選挙だけでなくネオコンの退潮も政策変化の要因としてしばしば指摘されているようだが、この二つを並置することには疑問がある。以下略(おいおい・・・)。

    もちろんそれは日本国民向けにはそれなりに有効なのかもしれない。なにせ安倍政権の求心力はもはやそれしかないようにも見えている。が、国内世論を意識した強硬姿勢が結果として北朝鮮との外交的駆け引きにおいては手詰まり感をもたらしている。そうした中で安倍政権はどこに打開策を見出せるだろうか。

    今のところ安倍政権は、小泉時代から引き続いて対米追従、いや正確には対ブッシュ追従方針を変えていない。アメリカの抱える中間選挙後の捻れた(しかし民主政治の枠内では想定の範囲内の)国政にどこまで追従できるのか。対外政策は行き詰まりを見せ、国内では統一地方選挙・参議院選挙が迫っている。結局、安倍首相はアメリカに振り回された挙句に政権を投げ出すか。

    とはいえ、今の日本がアメリカに振り回されているとすればその最大の責任は名実共に安倍首相にあるだろう。単に国政のトップに立っているという形式的な責任のみならず、既に政権に就いた時点で爾来アメリカが今そうあるような捻れた状態に陥る可能性は小さくなかった(少なくともそうなる可能性は確実に存在していた)のであるから、それを考慮した上で対米追従方針を再検討ないし微調整するオプションを検討することは出来たであろうと推測する。それでもなお、小泉首相以来の盲目的なまでのアメリカ追従政策を踏襲した安倍首相の真意はいったいどこにあるのだろうか。

    北東アジアでの孤立のみならず、太平洋の向う側にデンと構える唯一最大の「同盟国」からも背後から矢を浴びせかけられる現在の日本。このような、(一見すると)四面楚歌の状態にあってもなお、誰一人味方になるものはいないであろう従軍慰安婦問題に関して言わずもがなの自慰的で実りのない言動を繰り返して見せる安倍首相は、ひょっとしたら只の復古狂信主義者なのだろうか(たぶんそうだろう)。かつて独ソ不可侵条約の締結に際して「欧州情勢は複雑怪奇」という可愛くも世間知らずな言を残して政権を投げ出したのは平沼騏一郎であった。安倍首相もまた「北東アジア情勢は複雑怪奇」と仰っているかもしれない。しかしまた、他国への盲目的な追従がどれほど間の抜けたことなのかを安倍首相や外務当局者が理解できないはずはまさかなかろうと思われるから、そこには外からは窺い知れない深謀遠慮があるのだろうと邪推するしかない。

    今後、振り上げた拳をおろすところがないからといって安倍首相がさらなる暴挙に出られることはまさかあるまいと思っている。が、本当に安倍首相が「国家百年の大計」をその胸中に秘しておられるのかどうかが疑わしくもなってきている。「歴史と伝統」をつまみ食いしていったい彼は何をやろうとしているのか。おそらく、国内に自閉的な「行政主権国家」をつくりだす一方で国際関係は支離滅裂となったかつての過ちもまた安倍首相のいう「歴史と伝統」のうちに含まれているのだろう。そして、その後再び日本に破滅がもたらされ、われわれはまたゼロから再出発し高度成長・右肩上がりの時代を迎えることが出来るのかもしれない。安倍首相のいう国家百年の計とはそういうことなのだろうか。

    いずれにせよ次の二点は明白である。
    引き際を考慮しない戦争は無謀である。
    おろせなくなるような拳を振り上げるものは匹夫である。

    私には、口先ばかりの(後先を考慮しない)アピールとハッタリの跳梁こそが戦後日本に見られる最も愚かな風潮だと思われるのだが、その愚行があらゆる局面で見出されるのが今の日本の現状である。そして歴史と伝統をまさに自ら破壊しつつある者どもが皮肉にも「歴史と伝統の尊重」を唱えながら尚いっそう日本を破壊し尽くさんとしている。

    今わたしたちに必要なのは「かたくなさ」ではない。「したたかさ」である。


    以上、UBSGWの内にひそむ頑固じじいがしきりに吠えていたので仕方なくここに書き付けました。UBSGW自身はもう少し情報を集めた上でじっくり考察した方がよいと思っているのですが、まぁ誰に害が及ぶわけでも無しと思い直して言われるがままリアルUBSGWに頼んで書いてもらいました。

    さてさて・・・。

    苦渋の書き付け

    • 2007年3月6日
    • キーワードタグ: 政治

     従軍慰安婦問題に関して安倍首相に対する(=日本に対する)批判が高まっているらしい。安倍首相は、「広義の強制性はあったかもしれないが狭義の強制性はなかった(証拠はない)」という非常に政治家らしくない(官僚的な)言い回しでつまるところ強制連行ではなかったのだということを仰りたいのだろう。

     「おれのマンションの部屋に黙って付いてきたからOKなんだろうと思ったんだけど、なにか悪いことした??」という大学生が逮捕されたとき、安倍首相は彼をどこまでも弁護されるだろうか。それとも「問題は相手の気持ちだよ」として逮捕を是認されるだろうか。どちらなのか些か興味のあるところだ。

     安倍首相のこの発言がなぜ現在のように微妙な情勢の中で飛び出してきたのかという点もまた非常に興味のあるところだ。北朝鮮をめぐる6カ国協議でアメリカに「裏切ら」れ、おまけに「本国」アメリカ議会で慰安婦問題非難決議が上程された。言うまでもないが慰安婦・靖国問題に関しては、韓国・中国を筆頭に周辺アジア諸国が日本に注ぐ眼差しはアメリカ以上に厳しい。日本政府としてはニッチモサッチモいかないというところか(自業自得なのは先刻ご承知だろうが)。そのような情勢の中で敢えて”啖呵を切る”ような威勢の良さはないにしてもグジグジと「狭義では」「広義では」などと言っておられる。

     私のような素人には慰安婦問題に強制性があったか無かったかについてはいまのところ分からないとしか言えないし、アメリカの決議案上程にしても「まだどう転ぶかわかんないし様子見るしかないんじゃないの」としか思えない。外交当局としては打てる手は打っておくべきなのだろうが私に出来ることはなさそうだ。

     ともあれ広義だの狭義だのという言い方には美しさの欠片もないとは断言できるのかもしれない。それこそ政治家は先走って私見を述べるよりも歴史家たちによる実証的な研究を多面的に助成・支援する方策を整えるべきように思われてならない。首相自身、内閣総理大臣の私見が対外的にも「私見」で通るなどとはよもや認識されてはいまい。

     安倍首相は戦後レジームの打破には熱心のようだが、国民の権利を守る(尊重する)ことにはいっこうに興味がないように見えてしようがない。安倍首相をはじめ、私権の重視が戦後の宿痾だと言いつのっている方々が増えているようだが、富山・鹿児島と立て続けに明らかとなった事態を見れば、そのようなことが言っていられるとはとても思えないのだが。

     戦後の私権尊重というのはどこまでも雰囲気なのではなかったか。実体がなかったとは言わないが。私権尊重の雰囲気の中でなんとなく失われてしまった倫理観、どことなくおかしくなったように見える社会。しかし戦後日本が私権を本当に尊重していたのか、出来ていたのかは別の話だろう。確かに戦後民主主義はそれはそれとして再検討・総括の余地はあろう。しかし、いかな安倍首相でも現実に起こった人権侵害から目を背けることはなさるまいと信じている私は阿呆だろうか。

     規範意識の低下を嘆くのに忙しくて現に生じている人権侵害が軽んじられるようでは日本の再生は期待できまい。

     今朝、ある新聞が一面コラムでどこぞの神社の賽銭泥棒を口を極めて罵っていた。その心情は分からなくもない。かといって共感もしないが。
    私権尊重が諸悪の根元だと言い募っても現実には尊重されない私権が存在している。窃盗は犯罪だと誰もが知っているのに後を絶たない。
    大上段にコソ泥を非難するばかりで世の中がよくなるのなら世話はない。そんなことを自分用の雑記帳でもあるまいに何のひねりも芸もなく叩きつけた駄文を一面コラムに掲載する新聞社の良識を疑う(そんなものがもしあればの話だが)。窃盗が悪なのをいまさら教えて貰わねばならぬほどバカだと読者を侮っていませんかね(これは少し勘ぐりすぎだろうけど)。

     自説を語るのはそれはそれで結構なことだろう(私も今やっているから言うわけではないけれど)。しかし、自分たちが現に生活している社会の矛盾について安倍首相やコラムニスト氏はいったい何をお考えなのだろうか。なにが出来ると思っておられるのだろうか。嘆きケチをつけるだけで何かがかわるものではあるまい。

     さしあたり安倍首相は行政府の長として警察・検察の構造的問題を率先して改善し、コラムニスト氏は冤罪と判明した事件について逮捕以来マスコミがどのように誤報を垂れ流してきたか、そしてそうした過ちがなぜ生じたのか、マスメディアには持ち合わせのない「マナーやルール」について総括し記事にしてはいかがだろうか。とてもではないがあなたがたは嘆き激高していられるほど余裕のある状況ではないと思うのだがどうだろうか。

     などといいながらこんな記事をダラダラと書いている私は何者か。

     私だって余裕はないのである。
    ただ、「お呼びでないよ」と言われるのを承知でこうして書かざるを得ない心境にあるためやむなく書き付けた次第。いっとくけどこちらは文字通りの日記、雑記帳。読むも読まぬもご随意である。
    御免。

    (news)米副大統領への爆弾テロ

    • 2007年2月28日
    • キーワードタグ: 教育

    米副大統領狙い自爆テロ(47news)

    米兵1人を含む18人が死亡、20人以上が負傷した

    アフガン自爆テロで韓国軍兵士1名死亡(朝鮮日報)

    バグラム空軍基地のゲート付近で27日午後4時ごろ、自爆テロがあり、韓国軍兵士1名が死亡(・・・)バグラム空軍基地には韓国軍の工兵・医務部隊が駐屯中。工兵のユン兵長は通訳業務担当で、現地の技術教育案内のため正門の外に出たところ自爆テロに遭ったという

    ブッシュはポチ?日本もポチ?

    • 2007年2月27日

    先日別のエントリで、イラク戦争は戦争という外形をとったアメリカ向け(つまりアメリカによるアメリカのための)「公共投資」に過ぎないのではないかという趣旨のことを書いてみた。そんなところから次の記事を読みつつあらためてその感を深くした。

     しかし、「戦時予算」を強いられる米国経済が、意外にも堅調さを保っている。(中略) 「どうして戦費は経済に負担をかけなかったのか?」。米紙ウォールストリート・ジャーナルは、ブッシュ経済ドクトリンの極意を3つ挙げた。
     まず好調な企業業績や所得の増加で税収自体が拡大している点。2つ目は、01年の同時テロ後など、経済が後押しを必要とした時期に減税と財政支出拡大を実施したこと。
     最後は、米国債購入を通じた海外からの資金流入。

    【アメリカを読む】意外に好調な戦時下ブッシュ経済(産経iza!)

    私の考えを一言で言えば、莫大な対テロ・イラク関係戦費の大半は最終的にはアメリカに環流するため、アメリカがどれほど莫大な戦費支出を行ってもアメリカ経済に(少なくとも直接的な)悪影響を与えることはない、ということだ。まして日本その他の「同盟国」から引き出した対イラク経済援助の一部は、おそらく復興事業を請け負ったアメリカ企業が吸い上げるだろうからなおさらである。

    つまりは「戦争にもかかわらずアメリカ経済好調」なのではなく、戦争がアメリカ経済の潤滑油(あるいは推進力)としての役割を果たしているのだと考るほうがより実態に近いのではないだろうか。「戦時中だからこそ好調なアメリカ経済」。

    逆にいえば今後アメリカにとって懸念されるのは、イラク戦争終結後の反動的な不況だ。ゆえにアメリカの今後のイラク政策は、反動的不況のショックを最小限にすることが最優先の課題であり、つまるところイラクの今後の運命はアメリカ経済の動向に大きく(決定的に)左右されるだろうと私は考えている。

    アメリカの戦争目的はイラクの民主化という政治的なものではなくむしろアメリカ経済界を潤す手段として考えるほうがより実態を反映しているのではないだろうか。もちろん国家が唱える政策目的などというものはつねに偽りの看板だと見なすべきかもしれない。いずれにせよアメリカにとってイラク戦争の経済効果は極めて大きいものであることは疑い得ない。おそらく民主主義を守るなどというアメリカの歯の浮くスローガンを鵜呑みにしている者など世界中のどこにも存在しているはずはなかろう?。万一いるとすればそれはアメリカ国民(のごく一部)だけではないだろうか。

    ブッシュはアメリカ経済界のポチ君。
    日本の首相はポチのポチ。
    小ポチは大ポチを見習って日本経済界の言いなり。番犬。
    「日本は大和民族が支配してきた」だと?「問題ない」だと?
    よく言うよ。
    大ポチの配下にある現実にあって、それを無意識的に補償するために「おれも主人だ」と吠えている。違うのかい?

    と、そんなへらず口をUBSGWブラックが吠えている。
    「コラッ!」(by UBSGWホワイト)

    幸福で不幸な12人の人たち

    • 2007年2月25日

    [でっち‐あ・げる]
    [1]事実と違うことを、いかにも本当らしくこしらえる。捏造(ねつぞう)する
    [2]形だけととのえて、いいかげんにまとめる。
    (大辞林)

    新聞社の社説盗用やテレビ局の捏造問題がポロポロポロポロでてくる当今、警察のでっち上げもまた同様。もっとも規範意識の高い日本警察、情報管理の方もマスコミ以上に「しっかり」していることだろう。したがって今回の鹿児島選挙違反「事件」で明るみに出たでっち上げ事件は、たまたま浮かび上がった氷山の一角として、おそらく数週間のうちに忘れ去られていくのかもしれない。

    上記大辞林の例文にもある。

    ・この証拠は警察の―・げたものだ

    辞書の例文になるほどだから、よほどありふれた出来事なのだ(ろうとこの際言っておく)。

    憲法や刑事訴訟法は「自白が唯一の証拠の場合は有罪とされない」と規定する。しかし現実には自白は「証拠の王」とされ、自白が相互に支え合えば立証可能だ。

    裏を返せば、自白さえ取れれば「事件が成立」することになり、自白獲得が目的化する危険をはらんでいる

    鹿県議選買収無罪判決 「見込み捜査」批判/地裁(南日本新聞)

    たしかに、当事者ではない一市民として言うとするならば、そうした法と現実の乖離など大した問題とは思えない(意識が低いとのご批判は甘んじて受ける)。悪人が処罰されるのだから「どうぞよろしく」といったところだ。

    ただ、もし「自分自身がまさに当事者であったなら」と想像し始めると、背筋に冷たいものが走る。

    警察の取り調べは、「まるでキリシタン弾圧」
    穴だらけの調書、物証なしの捜査
    「否認しているから」と安易に身柄を拘束

    12人無罪 許せぬでっちあげ捜査(東京新聞)

    ありもしない事件の犯人と目され、当然否認すれば身柄拘束、世間からは逮捕=有罪と見なされて家族までもが日陰者。仕事を失い友人を失う。そして連日の激しい取調べ、捜査官への迎合を強要されて、あらゆる手段を用いて精神的にも肉体的にも追い込まれる。

    事件がでっちあげなら証拠など出るはずもない。となると自白に頼る捜査陣はなおいっそう自白を求めて激しく責め立てる。ボロボロになってどれほど頑張ろうと、いったん虚偽の自白をしてしまえばその自白にもとづいて断罪されることになる。
    否認 → 逮捕・拘留、ヨリ厳しい取調べ、起訴 → 有罪 → ヨリ重い量刑
    つまり、でっち上げ事件の犯人とされたものの方が、常習的犯罪人よりもよほど辛く人格の崩壊をすらもたらしかねないダメージを受けるというのが実態なのだ。

    おそらく、そのとき人は法と現実の乖離を痛いほど感じ取ることになるのだろう。だが、一旦そうなってからその人がどれほどそういう現実について声を上げ始めても聞く耳を持つ者は例外的少数にとどまるだろう。
    法や捜査機関の不備を批判する「犯罪者」の声をどれほどの人がまともに聞こうとするだろうか。
    「この期に及んで言い訳するなんてみっともないよな」
    「あのひと○○で捕まったことあるんだって」

    そんなところだろうか。
    当事者になってからではもう手遅れなのだ。

    したがって今回の鹿児島の一件は極めて(不幸ではあったが)貴重な出来事なのだとも言えるだろう。
    「無罪」「でっちあげであった」ことが明白となったが故に、わたしたちは犯人と目された人の声に耳を傾けはじめる。法と現実の乖離、刑事裁判の実態を初めて知り、さらには今現在、逮捕・拘留されている者や受刑者のうちに本来ならばそこにいるべきではない、いなくてもよかったであろう者が含まれている可能性に思い至る。そして真相は文字通りの藪の中。

    先日の富山の冤罪にしろ今回の件にしろ、犯罪人に仕立てられた人たちは極めて不幸であったと同時に極めて例外的な幸運を掴んだ人たちでもあるのだと私は思っている。

    いま現在、未決・既決を問わず”犯罪者”とされている人たちのうちに無実の者が含まれている、というのはもちろん私の想像するところであって、「そんなことはありえない」と反論されれば私にはその反論に対抗するすべはない。そんなことがもし私なぞに証明できるようであればとうの昔にその無実が明らかとなっているだろう。

    ひょっとすると今回のようなケースを「自分たちの社会の安全を守るためには極めて些細な犠牲、必要コストにすぎない」などと口に出来る者がいるかもしれない。しかしその人は自らの想像力を働かせて、「自分がもしその立場であったらば」と一度は考えてみたほうがよい。その上で「いいよ、それでも」と言われるならば私はあなたを”現代のキリスト”として拝し崇めるにやぶさかではない。

    この期に及んでも「組織としての責任」ではなく一捜査担当者の勇み足だと言ってのける鹿児島県警、あるいは検察庁・裁判所も含め、彼らの対応振りを見るにつけ、明るみに出て来ない冤罪は相当数あるのだろうと思わざるを得ない。

    なんとなれば、人格を踏みにじるような取調べがなされうるような組織をして「組織としては適正な捜査であった」と仰るのだから。

    そうか
    それがフツーなんだ。
    それがふつうにあり得る組織なんだ。

    だとすると捏造テレビ局より罪は重かろう。
    納豆を死ぬほど喰っても大した害はない。

    そのような納豆以上に腐れきった組織を放置できるトップは誰か。県警本部長?そう?
    行政府の頂点は内閣総理大臣。日頃「強力なリーダーシップ」を唱える安倍首相は行政府のトップとしてどのように考えておられるのだろうか。地方分権の時代だと言われるだろうか。それとも三権分立か。どうも、われ関せずで放置するときのコメントはいくらでもありそうだが、リーダーたるものこうしたときにこそ”万難を排して”リーダーシップを発揮してはどうだろう。

    国家百年の計を見据えた教育改革も必要だろう。だが、いまに生きる国民の市民的自由に加えて人格的尊厳までが傷つけらるような事態が二度と起こらぬよう対処することのないリーダーならば、ま、その程度のリーダーということか。
    安倍首相のリーダーシップがいかなるかたちで発揮されるのか注視している。(←どこかの新聞論説みたい)

    最初に書こうと思ったことから大きく逸れました。まさに大それた一文。

    最後まで読んでいただいた方には御礼申し上げます。

    閣僚全員、起立!礼!!

    • 2007年2月20日
    • キーワードタグ: 政治

    あの「農業青年も厚生年金をほしがってる」発言の中川秀直自民党幹事長がふたたび。

    「忠誠心ない閣僚は去れ」=中川自民幹事長が苦言(yahoo news時事)

    首相を引き続きしっかり支えたい=幹事長発言で官房長官(yahoo newsロイター)

    中川幹事長苦言 首相官邸も神経とがらせ…指導力問われ(yahoo news毎日)

    首相の支持率が上がろうと下がろうとわたしの知るところではない。政治家がよく言う「政治家は結果責任」ではないが、”結果としての”支持「率」などは必ずしも有権者が知っておく必要のあることとは私は思っていない(知っていて損はなかろうけれど)。

    その数字は単に「有権者が政権をどう思っているか、支持しているかどうか」を推測するためだけの指標なのだから。数字がどうあれ、それで有権者のなにかが変わるわけではないし変わるべきではない(できればのはなし)と私は思っている。

    ・・・いや、ただ数字などおれの知ったことじゃねえよ、と。それだけ。

    ただね、絶対的忠誠だのなんのという言葉を聞いちゃうとね、気持ち悪いのよ。幹事長先生に叱られてシュンとなって、安倍先生に形ばかりの「起立、礼!」。
    べつにいいんだけどね・・・、それはそれで。

    閣僚、会話やめ一斉に起立=20日午前の閣議で(yahoo news時事)

    安倍晋三首相を迎え「おはようございます」と大きな声であいさつ

    首相入室で機敏に起立 閣僚、中川発言に反論も(西日本新聞)

    あ、そこの女性閣僚、そんな神殿に詣でているのでもあるまいに・・・。
    まるでこれは人徳に欠けてて生徒に嫌われてる教師が、かたちばかりの礼儀を生徒に求めているような・・・。

    「児童たちは安倍晋三先生を迎え『おはようございます』と元気な声であいさつ・・・」

    どこかのローカル新聞のヒマネタ・学校記事そのままであることに吃驚するばかり。これがほんとうにどこかの小学校での出来事ならばほほえましいばかりだが、かりにも内閣ですぜ。「国家の品格」はいずこ??

    諸外国の情報担当者は日本の主要紙には目を通しているはず・・・。元気な声でごあいさつ、なんて出来事が自称クオリティペーパー各紙に掲載される奇妙さにきっと驚いていることだろう。

    こんなネタはスルーするのも一つの見識かもしれないと思わずにはいられない。これほどまでに幼児化した(政治家・マスコミ・そして国民からなる)日本の有り様を知らしめて大丈夫なのか?

    なにはともあれ

    馬鹿げた風景が、ようやくぬるみ始めた風に吹かれてぶ~らぶら。あたたかくも寒々とした、そしてよく見受けられる光景である。

    春だなぁ。

    田村哲と教育論

    • 2007年2月12日

    先日のエントリで、古森義久の『嵐に書く』に描かれた河上清について私の思うところを書いたところ、以前何度かコメントを頂戴したことのある Dr.Waterman(勝手ながらドクトルと呼ばせていただいているが)より一つのご教示を頂きました。

    私が以前書いたエントリでは触れなかったのですが、『嵐に書く』の中には河上清の友人田村哲についての記述があります。同書によれば田村哲は河上とは青山学院の同窓で、河上より早い時期に渡米、アイオワ大学で地球物理学を学んで将来を嘱望されその後アメリカで気象庁に勤めたのち日本に帰国、海軍大学などで教鞭をとった人物で、河上の渡米実現はこの田村哲との縁や後藤新平からの援助に与っていたとされています。

    河上と後藤新平の縁を知った私はそのとき、後藤との縁が深かったもう一人の名前を思いうかべたことでした。そのもう一人の人物とは、みなさんご存じあの「気まぐれロボット」の作者星新一のそのまた父親である星一(ホシ ハジメ)。アメリカで苦学して帰国、星製薬を創業して戦前までは「クスリのホシ」として名高い一大企業を築いた人物(彼については星新一『明治・父・アメリカ』『人民は弱し 官吏は強し』に詳しい)

    だいぶ以前に私も読んだことのある『明治・父・アメリカ』のなかに、星一(以下、星)がアメリカで “Japan and America” という雑誌を発行したと記されていたことを微かに記憶にとどめていたのですが、今回、その”Japan and America” に田村哲の教育論が掲載されたことがある旨 Waterman博士からご教示いただいきました。星~後藤~河上~田村らの人的ネットワークというのか人の縁というのか、なんだかそんなものを感じることしきりでした。

    官吏であった後藤、田村。他方、在野にあって独立独歩の星、河上。それぞれ立場は異なれど、彼らはみなある種の共通点をもっているように私には思われます。それは「じぶんのつるべで思想の水をくむ」人であったこと。この「じぶんのつるべで・・・」というのは後藤の孫鶴見俊輔の言葉です(もっともこの「つるべ」の喩えはもともと哲学者アランからきているとのことですが)。星、後藤、河上、田村、鶴見。私には、彼らにそうした共通項があるように思われてなりません。そして今、現代に生きるわれわれ日本人に欠けているものを見つけたような気がしています。

    1903年、すなわち日露戦争開戦直前にJapan and Americaに掲載された田村の論文 ”A Plea for Academic Freedom in Japan”に次のような一文があるそうです。

    今こそ学問の自由を重んぜよ。そうすれば、それが、我らが未来の偉大な国民を涵養することになる。この真理の重大なることを十全に理解するためには、我ら学界に在るものが、今日、官吏による干渉と財界による横柄とに辛苦していることを認識するにしくはなかろう。

    今からおよそ百年前に書かれた田村の論文は、日本とアメリカの高等教育について論じられているそうですが(私自身は未見)、すでにそれから一世紀を経た今日、日本の教育は”進歩”したのだろうか。

    「歴史と伝統を重んじる態度を養う」のは結構なことだと私でも思う。しかし、重んじられるべき歴史と伝統とやらの具体像はいったいどこにあるのだろうか。もし、さきの田村の言が当時の日本の教育事情、学会事情を踏まえたものであるとするならば、まさに今の日本は「歴史と伝統に忠実」であろうとしているようだ。

    産業界の強い要請を大義名分とした実学志向の高等教育。必要な研究費は自前でなんとかしろといわんばかりの独立採算制。その根底にあるのは経済的合理性こそがすべてにさきだつという「思想」だろうと私は思っている(学術文芸を支えるだけの財源がないという側面もあろうが)。そしてそれらを、官吏による干渉・財界の横柄ととらえてもそれほど不当ではなかろう。

    文科省や財界の言うところにも一片の理はあろう。たしかに先立つものがなくては研究も教育も不可能だろう。自分で辞書すらひいたことのない受け身一辺倒の学生が大量生産されては産業界も困るだろう。私自身もそれを認めるにやぶさかではない。

    しかし文部官僚や産業界の居丈高な物言いを見聞する限り、どうも彼らは学術研究や教育の価値をきわめて過小に評価した上でその非効率性を罵倒しているように思える。対価の得られない研究などやめちまえ、教育制度という”生産ライン”を構築しさえすればそれに応じた人間が完成する(出来た製品がつまらないなら生産ラインを再構築・変更すればよい)のだ、と。

    むろん非効率なありかたは改善されるべきだろう。正論である。しかし、はたして”短期的な効率性”の追求がそのじつ”長期的な非効率性”をもたらさないと言い切れるだろうか。単位投資額あたりの収益、単位時間当たりの成績を重視するのはけっこうだけれど、その「単位」(の選択)はあくまでも任意のものにすぎないことを忘れていやしないか。短く設定するのも可、長く設定するのも可。物差しの長さ(短さ)にはとりたてて意味はない。ミクロンメーターを使って自分の身長を測定しようとする愚か者にはなるべきでなかろう。あの、数々の画期的な発明をなしたエジソンはどれほどの時間と費用をドブに捨てただろうか。人生のある時期、ある期間にに人並みの成果すらあげ得なかった(=小学校での成績不振)エジソンはまさに”無駄な人間”だったのではないだろうか。

    日本とアメリカの高等教育の違いを身をもって経験したであろう田村哲。日米どちらの高等教育が優れているのか、それは私などには分かるはずもない。しかしすべての教育を日本で授かった私にも一つだけわかることがある。それは日本の教育は「じぶんのつるべで水を汲む」「エサの取り方を学ぶ」かたちのものではないということだ。言うまでもないことだが、誰れに教えられずとも自然な形で「じぶんのつるべ」を実践している人もいるだろうとは私も思う。あちこちのブログをのぞくだけでもそれは実感できる(すべてのブログがそうだとは言わないけれど)。思った以上にたくさんの人びとが、自分自身の井戸から自分のつるべでくみ出した思想の水を、惜しげもなくわれわれに差し出しておられる。面識があるわけでもなく、対価を支払ったわけでもないにもかかわらず、だ。

    しかしながらまた一方で、どう贔屓目にみての空疎にしか見えないことばが世に溢れているのもまた事実であろう。「歴史と伝統の重視」という言葉はそれだけではいかにも空疎だ。スローガンはスローガンでしかない。それで腹は満たされない。

    かつて「ゆとり教育」なるスローガンがあった。そして今、ゆとり教育は教育の荒廃をもたらした主犯として貶められている。もっとも、私には「ゆとり教育」と「規律重視の教育」のどちらが正しいのかわかりはしない。わかるのはどちらも正しくどちらも間違いだろうということだけだ。

    ゆとり教育をやれと言われればそっちへ靡き、いやそれは誤りだといわれれば反対方向へ靡く。いつまでそんな「効率の悪い」ことを続けるつもりなのか。もうそろそろその「あれかこれか」「正解はどっち?」「正解がたった一つだけ存在する」というところから卒業してもいいのではないだろうか。だれにも批判されないですむような「正解」を探し続ける子供じみた大人がいったいなにを子供に教えようとするのか、なにを子供に教えうるのか私には解らない。

    「じぶんのつるべで水を汲む人間を育てる」という大目標(そのような人間を果たして「育て」られるものかどうかという疑問もあるが・・・)を見据えた上で、敢えて周囲から批判を浴びることを覚悟しつつ「じぶんのつるべで教育方法を探し出」そうとする、そういう大人が今の日本にいないわけではないだろうとわたしは思っている。ただ、そういう人が活躍できるフィールドが今の日本には少ないのだろう。

    昨今の”凛とした”政治家の方々に私は「自分のつるべ」で水を汲む姿勢を見ないでもない(錯覚かもしれないが)。ただ、政治家であれ誰であれ、「あなたの汲みだした『水』を飲むか否かは相手次第だよ」ということを忘れないでいて欲しいと思う。且つ、私自身、自らにその水を飲むか否かの選択権があるのだということを忘れないでいたいと思う。

    上記田村の論文には次のように記されている。

    統制された教育からは、独創的な研究も真の愛国心を持った国民も育たない

    なんだか当初書こうとした内容から逸れたのが不本意だけれどひとまずこれにて。末筆ながら、田村の論文についてご教示下さったDr.Watermanのご厚意に感謝申し上げます。

    農業青年は敗残者か? ~その1

    • 2007年2月12日

    ここしばらくのあいだ、私は不安な日々を過ごしている。
    そのわけは、けっしてつまらぬわが身の一身上のことではない。
    私が次代の首相候補と考えている(国会議員なら、いや日本国民であれば皆首相候補である)政治家の一人が、先日の宮崎県知事選挙のさなか非常に気になる発言をなされたからである。

    「農協の営農会社化を検討 自民・中川党幹事長」

    「農業をする青年たちも厚生年金をもらったほうが生き生きする」 (goo news

    「現行制度では農協自体は営農できない。大農業会社に変身させ、農業地帯の青年たちも厚生年金をもらう仕組みが正しいのではないか」 (sankei web)

    「農業の合理化をすすめるべし」との文脈のなかでの発言のようである。

    が、

    「農業青年たち」も「厚生年金をもらえるほうが喜ぶであろう」

    ともとられかねない発言は穏当ではないようにおもわれる。
    どうかすると言葉じりをとらえるかのようにマスメディアが食いついてきかねない政治家受難の時代にあって、日本一の政治党派である自民党の大幹部、中川秀直幹事長の農業観に関するこの発言がいったいどのような波紋を巻き起こすのか、私は夜も眠れないほど心配していたのだが、どうも全然まったくなにごともなく終わろうとしているようだ。それでもまだ安心して良いのか悪いのかはわからないが。

    国会でも大問題となった厚生大臣の「女は産む機械」発言についてはスルー気味だった私であるが、この中川発言は非常に気になる、とてもではないがスルーなどできない発言である。
    言葉じりをとらえて云々するのはまさに「言葉狩り」につながりかねないのであるからして、中川氏の発言をできるだけその文脈に即した形でここにご紹介申し上げたいと考える次第である。

    そのようなわけで、以下、日頃の中川氏の主張を同氏のウェブサイトから転載させていただくことにする。世間知らずの私にはよくわからないが、もしかすると著作権等の問題が発生するのかもしれない。しかしながら中川氏も清濁併せのむことを身上とする政治家である以上は、こうして氏の主張を広く報ぜんとする私の真意を必ずや理解して下さるであろうと思量する。それでも万一不都合があればただちに当ブログから削除させていただくつもりであるが、ひとまずはご了承頂けるものとしてはなしを進めたい。

    以下「HIDENAO NAKAGAWA official website」より引用。

    (・・・)第二に、台頭する隣国・中国が責任ある東アジア共同体の一員となることは、日本の国益にかなうものです。そのためには、アジアで最も古い民主主義国家である日本が、インド、豪州など価値観を共有する国などとともに、アジア全体が経済・報道・信教の自由、人権、法の支配といった普遍的価値や国際的規範を受け入れ、民主的プロセスを尊重する地域になることを支援し、将来、「成熟した民主主義国家同士は戦争をしない」という考え方に基づいて、東アジアがモデル地域になることを日本の中長期の戦略目標とすべきです。

    こうした戦略的発想から、私は、東アジア共同体構想で日本がリーダーシップを発揮すべきと考えます。

    問題は、リーダーシップの手段です。深刻な財政事情の中で、もはや政府開発援助に依存すべきではありません。日本のリーダーシップの源泉は、日本がアジア経済の需要者となることであり、「輸入の拡大」と「労働力の受け入れ拡大」を行うことであると考えます。

    東アジア共同体構想で日本がリーダーシップを発揮出来るかどうかは、国内農業構造改革と外国人労働者受け入れ体制の確立という、国内問題にかかっています。これは、リーダーシップのための自己犠牲ともいえますが、私は単なる痛みとしてではなく、日本経済を強くするためのテコと考えるべきだと思います。

    農業でいえば、自由貿易協定により、国内農産品の輸出拡大、日本の食品安全基準のアジア拡大、農協の経験を生かした農業組織づくりなどの「攻めの農政」への転換を図ることができるし、国内においても、担い手がいなくなった地域での大規模な企業的農業経営で生産性を上げることも可能でしょう。

    サービス業においても、例えば国内では人口が集中する都市にサービス業を集積させつつ、一方で、拡大するアジア市場においてサービス業のビジネスチャンスをつかむことも可能です。

    このような農業とサービス業の生産性アップは、日本の経済を強くし、日本の各地域経済を強くするはずです。自由貿易協定等をテコとして、日本の農業とサービス業の構造改革を進め、生産性を上げて潜在成長率を高めていく、という戦略的発想を持つべき時です。

    また、世界中から能力のある人が日本に集まってきて、その能力を発揮してもらうことで日本の豊かさにつなげていく、という戦略的発想を持つべきで、自由貿易協定等をテコとした「専門的・技術的分野」の外国人労働者受け入れ拡大を真剣に検討すべき時です。
    以上 「2006年の決意」より

    1、日経の社説に「生産性向上へ農地集約化に全力を」が書かれている。

    「すべての農家を対象に品目ごとに価格保障する制度をやめ、一定規模以上の担い手に絞って所得補償する農業の新しい経営安定対策が2007年度から始まる見通しだ。残された時間は少ない。自治体や農協は地域の農家の理解を得て、農地集約化に全力をあげてほしい。新対策の支援対象は個別経営では農地面積が4ヘクタール以上(北海道は10ヘクタール以上)、複数の農家からなる集落営農では原則20ヘクタール以上に限定される。従来の『ばらまき農政』から脱却し、中核的な担い手の育成を通じて生産性を高める狙いがある。日本の農家(都府県)の平均農地は1・3ヘクタールに過ぎず、『小規模農家の切り捨てだ』と批判する声もある。しかし、今回の改革なしに日本の農業は再生できない。農業就業者の6割は高齢者なうえ、耕作放棄地は東京都の面積の1・8倍以上に上る。主要国のなかで際立って低い日本の食料自給率を高めるためにも競争力のある農家の育成が欠かせない。高関税による保護策は国内農業の基盤強化をむしろ阻害している。高い関税のツケを払っているのは割高な農産物を買わされている消費者である。世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)は農産物などを巡る対立から難航しているが、WTO交渉の状況にかかわらず、危機感をもって一層の市場開放に備える必要がある。

     営農面積を拡大できるのは『後継者がいる一部農家などに限られるとみて、農協や自治体が集落営農の組織化に力を入れるのはやむを得ない面はある。しかし、その一方で集落営農に加わるために兼業農家が農業法人や専業農家から農地の返還を求める『貸しはがし』が問題になっている。支援対象はあくまでやる気と能力のある専業農家などを中心に据えるべきだ。集落営農で支援を受ける場合、経理の一元化など面積以外にも条件があるが、審査が甘くなれば経営の効率化は望めない。農林水産省が6日発表した『食料・農業・農村の動向』(食料白書)では食の安全や地産地消への取り組みなど幅広く紹介している。地域ぐるみで安全で安心な農業を育てることは重要だが、肝心な担い手の経営が安定しなければ十分な効果は期待できないだろう。政府の新政策に対抗し、民主党の小沢一郎代表は規模に関係なく農家所得を補償する改革案を打ち出す意向という。それでは財政負担が膨らむだけで生産性は高まらないだろう。甘い言葉に迷わず、地域農業の構造改革を進めてほしい」。

     正論であると思う。問題は小沢民主党の「新農政プラン」という改革案である。改革案ではなく、政府・与党の新経営安定対策を阻止するところの対立軸路線に拠るものなのである。いわゆる規模に関係なく農家の所得補償制度を大幅に補充するものであり、従来の「バラマキ農政」の延長線上でのものなのである。何故、小沢氏が「新農政プラン」をテコに、地方に攻勢をかけるのかは、参院選の1人区対策のためなのである。昨日の東京の「スコープ2006政局」に「小沢代表、新農政プラン作成指示」「民主党、地方へ攻勢」「参院1人区対策」との記事が載っている。「小沢氏は最近党内の若手らに『農村地域は政治への期待が強く、関心も高い。その分、なんぼでも入り込める』と繰り返し説く。地方の農村地域は小泉政権の5年間で、自民党離れが進んだと見ているのだ。・・農林漁業政策は、与野党逆転を狙う来夏の参院選で、政策面の目玉と位置づけている。小沢氏は既に、『参院選は1人区の勝負。農家に分かりやすい、インパクトのある政策を打ち出してほしい』と、党の農業政策担当者に指示も与えた。民主党は昨年、現在40%の食料自給率を10年で50%、将来的には60%以上に上げる、農家の所得補償制度を大幅に拡充するーなどの『農林漁業再生プラン』を策定済み。今国会にはこのプランに基づいた法案を提出したが、廃案になった。小沢氏の指示は、このプランをさらに充実強化させようというものだ。周囲には『食料自給率60%というけちな目標を立てていてはだめだ。100%自給する目標でやれる』『政府の農業振興策と同じ用語は使わない方がいい』などと注文をつけ、政府・与党との<対立軸>を意識する」。1人区29の選挙区で、小沢民主党が20以上を取り、参院での与党の過半数割れを追い込むために、政府・与党が進める農業の構造改革路線を全否定する、「従来のバラマキ農政路線の拡充」をもって、「なんぼでも入りこめる」としているのである。社説でも指摘しているように、「今回の改革なしに、日本の農政は再生できない」にも関わらず、その再生を潰す小沢民主党は、国益を損なう抵抗勢力そのものではないか。だから、政権担当能力がないと民意からみなされるのである。(6月7日記)
    以上 06年「6月7日」

    引用文がかなり長くなったので本論は次回に。

    公共投資としての戦争

    • 2007年2月7日

    先日いつものように新聞を眺めていてふと目にしたアメリカの軍事関連予算の記事を読みながら思ったことを以下に書いてみます。

    「対テロ戦争」関連経費として新たに計約2450億ドル(約29兆6000億円)の支出を要求(中略)米中枢同時テロ以降、対テロの戦費総額は09年度の支出予想額も含め累計約7980億ドル(約96兆4000億円)にまで膨らみ、現在の通貨価値で約6090億ドル(約73兆5600億円)といわれるベトナム戦争の戦費を大きく上回る見通し

    対テロ戦費累計96兆円 ベトナム戦争上回る 米08会計年度予算教書(西日本新聞)

    約4814億ドル(約57兆8000億円)と前年度比12・1%

    2008会計年度米国防予算12%の大幅増(西日本新聞)

    とまあ、これっぱかりのデータではあまり大層なことは書けないので単なる印象論にすぎないが、イラク戦争に限らず一般論としては戦争による経済波及効果はなかなかのものなのではないだろうか(いまさらって?)。結論をあらかじめ示しておこう。「戦争は国を疲弊させる」とは言うものの、それは自らの国土に直接的な被害が及ぶケースなどに限定される、といえる。

    今回のテーマ、すなわちアメリカ合衆国による対イラク作戦に即していえば、いったいイラク戦争関連経費の支出先はどこだろうか。イラク国内であろうか、それとも他の国であろうか?おそらくアメリカの対テロ関係費および軍事予算の大半はイラクではなくアメリカ国内におとされるであろうことは想像に難くない。艦船・航空機・銃火器・弾薬類その他諸々、その経費の大半は言うまでもなくアメリカ軍需産業界に支払われるはずだ。なぜならアメリカは世界一の軍需産業大国である。アメリカが他国から調達しなければならない兵器など微々たる(皆無?)であろう(むろん部材の一部は輸入する事はあるだろうが)。対イラク作戦が軍需産業その他関連産業へ及ぼす波及効果は相当のものではないかと推測する。尚、筆者としては、イラク人におとされる金額とアメリカ人(企業)におとされる金額、あるいはその他の国・企業などにおとされる金額の比率も知りたいところだが(それを調べる暇は残念ながら私にはない)。

    今回、確かに戦場となっているのはイラクだ。とはいえ戦場で直接金銭が支払われることは基本的にない(はず)。たとえばアメリカの戦車が現地のイラク人経営のガススタンドで「ヘイ!メーん!満タンたのむよ」なんてことはありえない。あるいはイラク国土に無数のミサイル銃弾を撃ち込んだところでイラクに金銭が落とされるわけではない。落ちてくるのは爆弾ミサイルの類だけだ。
    結果として、イラクでの戦いがつづく限り、アメリカの軍事予算の大半がそれら武器弾薬の代金としてアメリカ(国内)の軍需産業その他に支払われ続けるわけだ。その意味でイラク戦争は馬鹿げているといえる。なにも私が”戦争反対”だからそう言うのではない。「民主主義の国アメリカ」にとってもっとも望ましい戦い方、もっとも費用対効果の高い戦い方は、アウトレンジから航空機・ミサイル(すなわち高価な兵器)を無数に撃ち込み、地上戦は短期間で終えて人的リソース(安価ではあるが使いにくい兵器!)の損失を最小限に抑えるという湾岸戦争型戦法だといえよう。兵士は確かに(相対的に)安価な兵器である(サラリーマンの生涯賃金3億円ぽっちで買える戦闘機など存在しない)。しかし安価ではあるものの兵士の損失に関しては金銭だけで計るわけにはいかない。人的損失は国民の士気に関わってくるからだ。人的損害が増えれば増えるほど、アメリカ国民は戦争終結を願い始める。したがってアメリカ(の産業界)にとっては人的損害を最小に抑えつつ高価な兵器をできるだけたくさん消費するという手法こそがもっとも望ましい戦い方というわけだ。戦死者さえでなければ、他国における戦争遂行のために莫大な軍事費が軍需産業に支払われ続けてもアメリカ市民の関心はおそらく高まらない。

    具体的なデータがないのであまりもっともらしいことは言えないが、ベトナム戦争を境にアメリカ経済の国際的影響力が縮小したという通説も上記のような視点から考えてみると、アメリカがバカスカ(莫大な)軍事費を使いまくったから経済がイカれた(退潮した)という単純な図式ではないのではなかろうか。それはアメリカの大恐慌以来の不況を最終的に解決したのが第二次世界大戦であったとされることを考え合わせればそれほど不審なことではないように思える。軍需品の大半を自前で賄えるだけの技術・生産能力がありかつ自らの国土が戦火を免れる限りで戦争は非常に効果的な公共投資・公共事業と言うことも出来ると思われる

    と、そんなことを考えました。
    アメリカの国防予算の内訳、経年推移、戦費の支出先、ベトナム戦争前後の経済指標その他の具体的なデータが欠けた、全くの思いつきです。いまのところそれを調べるだけの意欲も時間も私にはありませんのでこの記事はこれっきり(これでお終い)です。

    日本でも、国外に販路を拡大して武器の生産コストを下げることを検討すべし、などという防衛大臣の発言が最近になってありましたが、そうなればいずれ「買った物は使わにゃソンソン(使わなければもったいない)」「兵器産業が拡大すれば雇用も拡大し大きな経済効果があるよ」なんて言い出す輩(野郎)が出てきても不思議ではないかもしれません。
    国土が焦土と化した記憶が失われつつある日本が今後どのような道を歩んでいくのか少しばかり気になる。そんな気分です。

    (メモ)鹿児島「踏み字」控訴断念

    • 2007年2月1日

    政治資金問題と浮気の効用

    • 2007年1月28日

    昨年末以来、政治資金に絡んだ醜聞がメディアで取り沙汰されているようだ。ただ、私にはどうもメディアが言うほどには際だったトピックとは思えないのが正直なところだ。「なにをいまさら」というところか。

    命題:政治にはカネがかかるのだ

    しばらくまえに「クイズ百人に聞きました」とかいうテレビ番組があったが、その伝でいけばおそらく政治家全員が上の言葉に同一の回答を寄せるであろうと思う。だからこそ議員歳費とは別に様々な名目で議員に対して金員が支給されているわけだ(もっとも議員たちは必要額に遠く及ばないとのたまうだろうが)。ともあれ政治にカネがかかるという点については衆目の一致するところであるのはいまさら多言を要しない。現在行われている政党助成金制度にしても、政治にカネがかかるという事実を前提に制定されたかに私は記憶しているのだが。

    昨年末以来の政治資金問題のポイントは、政治にカネがかかるという今更言うまでもない金権政治体制よりもむしろ、政治資金規正法が文字通りのザル法であり、国庫から支出されている金員がいかにもどんぶり勘定で扱われていたという放漫さにあるように思われるのだ。確かに一部メディアがのたまうが如く、政治にカネがかかること、あるいは政治がカネで左右されかねないということ自体がそもそも「ケシカラン話」ではあるのだろうが、その点に関しては政治家ばかりが非難される問題ではなかろうし、一朝一夕にどうにかなるものでもあるまい。なにせ数百億の助成金を投じているにもかかわらずいまだ解決していないのだから。

    いや、確かにケシカラン話ではある。それは分かる。党によっては数百億の助成金を国庫から支給され、さらにはこれまた国民の税金の結晶ともいえる議員会館・議員宿舎その他(よくは知らないが)さまざまな特典(曰く”必要な道具・経費”)を与えられていながら、議員さんらは「足りない」「足りない」とあの手この手で誤魔化す。一般論としては(つまり議員さん方に限ったことではないが)そもそも使途を明らかにする必要のない金員が如何に浪費されるかということについては、それを裏金と呼ぼうとあるいは機密費、調査活動費、政務調査費と呼ぶに関わらず、今までに明らかになった(数少ない)事例を見ればもはや明白と言って良い。

    今回取り沙汰されている問題から引き出される一つの結論は、(これまた言うまでもなく)議員たちが自らの手で自分たちを縛るような規制法を定めるはずがない、ということだ(その彼ら自身がどういうわけかこのところ盛んに世の「自律」「規範」を論じている点についてはひとまずおいておく)。
    そうした彼ら(議員さん方)に自律を促すインセンティブはただ一つ、議席の確保。つまり選挙で勝てないようなことは彼らはしないであろうし、(逆に言えば)選挙に勝つためにはなんでもやってくれるだろう、ということだ。したがって、こと政治資金問題に関しては(空論だとの批判を承知で言えば)有権者が投票行動で意思表示することが最大の特効薬だといえる。であるからしてマスメディアが為す報道についても、ことさらに反感を煽ることよりもむしろ冷静に、特効薬がいかに効くのかを説けばよいようにも思われる。ひょっとするとメディア関係者からは「市民は理性ではなく衝動で動くのだからセンセーショナルな報道のほうが効果的なのだ、バカめ」と言われるかもしれないが。

    ただ過去の経緯からみて(例:細川政権誕生)自民党に限らずおよそ政党というのは政権獲得が最大の目標であるわけだから、仮に今後の選挙次第で非自民党が政権を取れば、(目下の政権与党である)自民党は有権者の意向を改めて忖度せざるをえないだろう。「自民党には不滿もあるがしかし非自民党もつまらない党ばかり」だと言う声も聞こえてきそうだが、そのときはその時でまた有権者の投票行動によって自民さんに政権をおまかせすればよいわけだ。そのように、政権がどっちの手におちるか分からないというドキドキ感こそが政党政治の勘どころであり、また市民の権利を担保するのであり、そういう意味では不安感こそが民主政治の要諦なのだろう。

    したがって有権者の立場からすれば、自らの有権者としての価値を高める(維持する)ためには「もうあなたしかいないの。くびったけよ~!」(今どき聞かないけど)と一政党一政治家にゾッコン惚れ込んでしまうよりも、「あなた次第ではどうなるかわかんないわよん」という姿勢をチラチラ見せるほうがよほど効果的ということになる。ま、もっともそういう分かりきったことがなぜ実現しないのかという点はよくよく考える必要はあるのだろうが。

    改めて明言できるのは、「終極的には有権者次第である」という民主政治の大原則はまだ(かろうじて?)生きているということだ。市民の権利を軽視するかのような法案続出の昨今、ちょっと浮気でもしてダンナの気をひくのも一興なのかもしれない。

    政治資金の話から少しばかり話が逸れた感があるが、言わんとするところはただ一つ。
    「政治にはカネがかかる」(らしい)
    ダンナの無駄づかい、放蕩を戒めるためには言葉でなじるよりも遙かに効果的な方法があるだろうし、そのためにはあまり感情的な言動は逆効果をもたらすこともあるだろうというのが今回のお話。

    最後になったが、政治資金に関しては現安倍晋三首相が敬愛する祖父岸信介が慧眼をもって次のように語っておられる。議員諸氏は拳々服膺されたし。

    「諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」(『私と満州国』)

    原彬久『岸信介~権勢の政治家』岩波新書1995 より引用

    政治にカネがかかるのは当然のこと、アシのつくような稚拙なやり方がツマランのだ、ということのようで。
    (原氏の著作を元に岸信介とその政治について書くつもりが政治資金のはなしになってしまいました。またいずれ・・・)

    反ブッシュお断り

    • 2007年1月22日

    ブッシュ大統領の批判Tシャツ、豪州では搭乗拒否に

    Tシャツにはブッシュ米大統領が描かれ、「世界一のテロリスト」という文字も

    カンタス航空は同Tシャツが他の乗客の気分を悪くさせる可能性があると判断してジャッドさんに着替えを依頼

    行き先はロンドンだぞ、ワシントンじゃなくて。
    カンタスの木で鼻をくくったコメントには苦心の跡が読み取れなくもなし。
    ヘンなのは日本ばかりではないようで。

    しかし、ブッシュ讃美のTシャツならOKだろうか?でも「気分を悪くする」乗客はいるはずだよ、きっと。

    富山冤罪報道へのツッコミ

    • 2007年1月21日

    富山で判明した冤罪事件とその報道について新聞記事の分析を交えながら二言三言。
    服役男性は無実、公判中の男逮捕(読売新聞)
    ↑この記事の特徴:真犯人逮捕に重点が置かれて冤罪の方はかすんでいる。
    その大要は

    • (無実だと分かった)
    • (真犯人を逮捕した)
    • (真犯人には余罪がある)
    • (男性に対する判決は確定していた)
    • (県警は家族にきちんと謝罪した)

    記事に「きちんと」とは書かれていませんが、文脈からそう読ませる努力の跡がうかがえました。この記者は文学愛好家だろうか? 努力賞進呈。
    これだけをとって読売新聞社は市民的権利の擁護よりも公権力行使の正当性を重んじる新聞社だと推測するのは穿ちすぎだ見方でしょうか(そんなの誰でも知ってるよと言われるかな?)。

    さて、他の新聞社は如何。

    県警によると、目撃証言をもとに作成した似顔絵などから、この男性が浮上。被害者に写真を見せ、遠目に男性を確認させたところ「似ている」と証言したため、任意で事情を聴いた。男性は任意の取り調べに当初は容疑を否認したが、3日目に容疑を認めたため、客観的な証拠がないまま逮捕

    別の男が容疑認め逮捕(朝日新聞)

    「似てるだけで逮捕するなんてひどい!」などとは言ってもはじまらない。しかし、ふつうに事実関係を確認していれば今回のような事態にはならないと思うのですが。勘に引きずられたのか手抜き捜査か確信犯か・・・。プロフェッショナルの第六感をあたまから否定はしませんが、どこかに短絡もしくは不誠実さがあったことは否定すべくも無いでしょうね。

    (富山県警が)「客観的証拠がない中の逮捕で無実だった」と発表した問題で、金沢市内に住む男性の兄が20日、朝日新聞の取材に、県警から逮捕当時「証拠がある」と言われていたことを明らかにした。また、県警は取り調べの時点で、アリバイ成立の可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み詳しく調べていなかったこともわかった。

    県警は1贈日、男性宅からの電話の発信時刻と犯行時刻が近く犯行が物理的に不可能だとわかったことなどから、男性を無実と判断したと説明した。だが、実際には取り調べ中にアリバイが成立する可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み、裏付け捜査をしなかったという。

    また県警が男性宅を家宅捜索した際、現場で見つかった靴跡と同じサイズの靴を見つけられなかったのに、「捨てたに違いない」と疑問を持たなかったこともわかった。

    逮捕時「証拠ある」 富山の無実男性の兄に県警(朝日新聞)

    「証拠がある」とハッタリかましてその実、
    「偽装だろう」「捨てたに違いない」と都合のよい推断。
    そうなじられても反論することは難しかろう。
    どこかで聞いたような話だね。
    県警のこうした説明がもしも本当だとすると、私の感想はといえば
    「正直だね(感心)」
    (ただし、この説明が真実を述べているのかどうかという点については疑問を感じなくもないのだが)。

    富山県警の今回の処置については「元検弁護士のつぶやき」で矢部先生が書いておられる次の言葉に私も同感です。

    身内のしかも先輩の恥をさらすことになるのに、もみ消すことなくきちんと真犯人を検挙したという点は評価したいと思います。

    私自身、昨年12月には捜査機関の廉直さに懐疑的な記事を書いていますが、少しばかり認識を改める必要があるのかもしれません・・・(とはいえ当分留保)

    一方、地元富山での報道を見てみる。通常、地方新聞は地元で起きた出来事に関しては比較的”濃い”情報を入手・掲載しているが・・・如何。
    3年服役男性 無実(朝日新聞MY TOWN 富山)
    やはり全国版よりも詳細に書かれている。

    富山新聞は過去記事が見当たらないのでやむなくあきらめる。ついでに未履修問題追及の先鋒を勤めた同じく富山北日本新聞社のサイトを覗いてみる。

    捜査当局には猛省を促したい。富山地検は男性を無罪とするため、地裁高岡支部に再審請求する方針という

    社説はいたってクールなおもむき。県警に対してはスパッ、あとはゴニョゴニョ。長勢甚遠現法務大臣のお膝元であることと結びつけて考える人もいるかもしれないね。常に冷や飯を食わされるのは(以下略)。

    ただ、一言だけ記しておきたい。
    各新聞社が誤認逮捕当時にどのような記事を掲載していたのか知らないが、実際のところ、こうした事態に立ち至った後にジャーナリストとして胸を張れるような記事ではなかったのではなかろうかと推測する(当時の記事を目にしていないので断言は出来ない)。

    誤認逮捕と判明してからの記事には近親者の「おかしいとおもっていた」「彼がそんなことするはずないと思っていた」などのフレーズが掲載されているけれども、この事件に限らず過去あまたある逮捕記事の中に一言でもそうした疑念が掲載された例があるだろうか(もしあるならば犯罪報道の歴史を考究する際に「使える」データかもしれない)。もし今回の件で県警その他に猛省が必要だというのであれば、冒頭にあげたようなフレーズを逮捕当時に掲載しなかったあるいは出来なかった知らなかった無視したであろう報道機関もまた「猛省」が必要だろう。報道機関もまた「疑わしきは被疑者・被告人の不利益に」というスタンスで報道を常にしていることはいまさら私が言うまでもないことだ。

    そう考えれば北日本新聞の歯切れの悪さは己のふがいなさを恥じているのかとちょっとだけ思ったが、よくよく読めば警察には「猛省を促す」と言っているくらいなので自身の至らなさには盲いているというのがほんとうのところだろう。

    その意味でも、誤認逮捕そのものは当然責められるべきことであるにせよ、富山県警が敢えて自らの非を明らかにしたことは自らの職責に忠実な行いだと言えなくもなかろうし、また、誤認逮捕されたご本人にとって(露ほどにすぎないだろうが)救いと言えなくもないのかもしれない(既に刑期を終えられたとはいえ、世間のありさまに照らしてみるに真実が明らかになるのとそうでないのとでは全く雲泥の差があろうから)。他人のふんどしをロハで借りておきながらいざ自分が土俵を割ったところが「実はふんどしが悪かったのだ」なぞというような一部マス輩よりは、自らの失敗を公にして今後に期する者の方がよほど信頼できる。

    (ちょっと長くなってしまいましたが、)富山に限らずとも今回のような不可解な出来事は頻繁に起こっている印象を持ちます。虚偽自白の強要、近親者への不当な圧力という形での間接的な自白強要なども過去にも事例がありましたし、その他様々な、(はばかりながらも)狡猾と言わざるを得ないような手法が存在しているのも事実のようです。

    犯人検挙への熱意、職務対する崇高な使命感、それらは尊敬に値すると私は思う。ただ、自らの非を認めないのが役所一般の習性とはいうものの、せめて警察や司法関係者ぐらいは、と思っていたい、私は。もっとも、世人からそう望まれがちだからこそ、いざ失敗に直面したときに組織の対面を守ろうとする強い意志が生じるようにも見えるのだが。まるで・・・(沈黙)。

    そもそも警察官・司法官の方々はそうした職業をめざすくらいなのだから、一人々々は常人以上に強い正義感を持っておられるのは間違いのないところだ(悪事を働くためにそうした職業に就く者はいまい?)。ただ、そのような正義感あふれる人たちの正義感あふれる行動(仕事)が、しばしば(総体としてはなぜか)不義となってしまう現象の不思議さについて強い興味を覚える(そうした現象はなにも警察に限ったことではないだろうが)。

    また、この問題は第三者的視点から眺めている限りは、面白い問題だと言っていられが、もしも自分自身がその不義の犠牲になるかもしれないと考え出すと空恐ろしい気がし始める。
    ともあれこの問題もしばらく考えてみたいと思っています。

    本日のまとめ。
    他人の粗ははっきり見える
    自分の粗は・・・ア~ラ不思議いったいどこに消えちゃったの??

    おそまつ。

    追記)
    上記朝日MY TOWN富山の記事をよくよく読んでみると、今回の件は鳥取県警が別件逮捕した真犯人が富山での犯行を自供したことから、(やむなく?)富山県警が再捜査したというのが実態のようです。真犯人が鳥取ではなく富山県警相手に真相を供述していたとしたら、はたして富山県警はどう対処しただろうか・・・。
    なお、この記事(朝日)のキャッシュサイトへのリンクが切れていたので併せて修正しました(2007年1月31日記)

    鞭打たれる死者

    • 2007年1月20日

    私にとって最近気になるトピック
    期限切れ食品、バラバラ、富山冤罪・横浜冤罪、教育再生会議、共謀罪、宇宙軍拡。

    昨日今日と週刊誌広告が新聞に(いつもの如く)デカデカと掲載されてた。「セレブ」でもない私にとっては、僅か数百円の週刊誌といえどもわざわざ買ってまで読むのは金と時間の浪費だ(で、煙草代に回すんだけど)。

    しかし週刊誌がどのような記事を掲載しているのかは気になる。非常に気になる。私の興味の的は、たとえば「セレブの呆れた実態」とか「有名人の不倫」とか「他人様の私生活」ではない。多くの場合、週刊誌の記事は有名無名の人々の私生活をあばく(あるいは捏造する)ことに注力されている。そのてのコンテンツに私は触手が動かない。その理由は、そうした「顔の見えない」「お顔を拝したことのない」方々の私生活に関する情報が私の生活や仕事、あるいは思考・行動にになんらかの生産的な(前向きの)影響を及ぼす可能性がほとんどゼロに等しいと予測するからである(読みたいテクストは既に山ほどあるのだし)。

    ただ、週刊誌には興味がある。非常にあると言ってもよいだろう。恐らく玉石混淆虚実半々(であろう)情報がどのように取り扱われ、どのように情報(商品)として”陳列”されているのかという情報に私は情報としての価値を見出している。

    自分のことを書くのは次の機会に譲るとして話をもとに戻そう。

    ここ最近、メディアではバラバラ殺人が話題になっている。どちらも兄妹間あるいは夫婦間で起こった殺人。片や被害者、片や加害者。
    殺人事件、というだけでも悲劇だがそれが親族間となると尚もって悲劇だと私は思う。もちろん普通の(ありふれた、というと語弊があるかもしれないが)殺人事件は大したことではないというのではない。ただ、最近の二事件の当事者やその近親の人びとの心情に思いをはせるとき、彼らに対する第三者の無責任かつ徒な好奇心があまりにも非情なものに見えるのだ(ちょっと今言葉が見つからない)。

    別段、殺人などいまさら珍しい事件ではない(なにせわれわれはカインの末裔だ)。死体の損壊・遺棄も新奇なものではない(だいぶ以前には、バラバラにして食べていた日本人青年がいた)。おまけに親族間殺人などほとんど毎日報道されている。その意味では二事件もありふれた出来事(悲劇)だといえなくもない。
    にもかかわらずここまで当事者の、とくに被害者の生前の言動・プライバシーがあからさまかつ執拗に世間に流布されたことがあっただろうか。もっとも、私が知らないだけでそんなことはそれこそ「ありふれた話」なのかもしれないが。

    生前の当事者間にどのような感情のもつれがあったのか私は知らない。もし、一つ屋根の下に暮らす人間同士の間に感情のもつれが皆無などということがあるのなら、そのハウツー記事こそ是非とも週刊誌には掲載していただきたいものだ。販売部数が飛躍的に伸び、急いで単行本化されベストセラーになるのは間違いないだろう。しかるに現に為されている報道といえば被害者及び加害者その周辺の「(おそらく)人に知られたくない」、文字通りの”プライバシー””そっとしておいて欲しい話”があっちのほうからこっちのほうから暴き出されている(繰り返しすがその真偽を私は知らない)。

    不幸にも犯罪の被害者となってしまったが故に、なにごともなければ「家庭内のよくある話」で終わったであろうプライバシーが巷間に流布される。もしやそこには常人からは窺い知れない何らかの隠された意図・計画が含まれているのだろうか。それほどにも今回の二事件に関するマスコミ報道は常軌を逸しているように私には見えている。

    こうなってくると人は可能な限り犯罪の被害者になることを忌避したいと願うようになるだろう。そもそも犯罪の被害者になりたいなどという人間はいないだろうけれども、今後、既に為されてしまった犯罪の被害者がそのことを訴え出ることをためらわざるをえなくなる恐れが、はたして全くないと言えるだろうか。そして仮にそうした風潮が生まれたとき、今度はそれを狡猾に利用する犯罪者が新たに生まれるだろう。

    死んでしまえば後はない。
    二事件に関してはそう言ってしまうことは可能だろう。ただ、死者に鞭打つような真似は端から見ていていたたまれない。もしかすると当事者・近親者にはなにがしかの言い分があるのかもしれないが、生前の被害者たちが何らの関わりも持たなかったような「世間の人びと」からまるで汚物でも見るかのような視線を向けられるような状況は極めて非人間的状況だというべきだろう。

    殺人を「社会に対する罪」として考えるとき、殺人を犯した加害者のプライバシーが捜査機関等によって細大漏らさず調べられることはその目的に照らして許容されるのだろうが、「なんとなく」「おもしろそうだから」「こりゃええ儲け口だわ」「よかった、これで紙面が埋まるよ」的な目的(?)から、被疑者・被告とはいえ他人のプライバシーをほじくり返し、また世間に流布することにどれほどの意義・公共の利益があるのか私には未だに理解できないでいる。まして被害者をや。
    仮に殺人を「個人(被害者)に対する罪」として考えたとしても、今回のように加害者のみならず被害者のプライバシーまでが何の必要性もない(公共の利益に資することがない)にもかかわらず暴き出されるような事態においては、「被害者に代わって悪を懲らす!」という正義の味方づらは出来ようはずもないし、おそらくするつもりもないのだろう。徹頭徹尾第三者として、傍観者として、間抜けにも加害者・被害者となった者どもを肴に猟奇的好奇心を満たそう、それがマスコミ報道に潜在している欲望だと私には見えている。

    私としては口にしたくないことだけれども、既に現状はマスコミその他による人権侵害は国家権力を以て強力に規制するしかないところまで来ているのかもしれない。それほどまでに一部マスコミの報道は醜悪極まりないように思える。
    「言論の自由」は、それが公共の福祉に資するが故に尊重されるべき権利だとされている。よってマスコミが真の意味での「言論の自由」を標榜するつもりならば、同業者として一部マスコミの非行を矯正するだけの見識を示すことなくしては、自由の守護者として語る言葉もその力を失わざるを得ないだろう。もしも積極的に非行を押しとどめることが無理だとしても、すくなくとも(消極的にでも)広告掲載の拒否などで自発的な是正を促すことはできないものか。今回のような事態を前にしてマスコミが拱手傍観しているばかりにおわるのなら、今後マスコミがどれほど正論(らしきもの)を述べたてても恐らく私は鼻で笑うしかないだろう。「いじめは絶対悪」などという言葉が虚ろに響く。

    ともあれ、マスコミに限らずとも人が自らの権利を守るためには自律・自制が不可欠のように思える。厳罰化、法規制の徒な強化、倫理観の強調、共同体への奉仕・・・。そうした状況の中であらためて国家と市民、国家と市民共同体について考えてみたいと思う。国家の利益と公共の利益との違い。さしあたりこのことが手掛かりだと私のなかの誰かが呟いている。

    日頃書くときには幾許かのユーモアをと思いながら書いていますが、今日ばかりは全くその欠片もない一文になってしまいました。自分の死については笑い話にも出来よう(論理的には不可能なのだが言わんとするところは察していただけると思う)けれど、他人のそれを笑いや侮辱に紛らして書くことはおそらく私には今後も出来そうにない気がします。組織や集団を罵倒し揶揄し嘲笑することはあっても、一個の生身の人間に対してそれをやることは避けたいと改めて思った次第。

    防衛省発足と安倍首相訓辞

    • 2007年1月17日
    • キーワードタグ: 政治

    冷戦期、厳しい東西の対立構造は、国内政治にも少なからず影響を及ぼしました。一部には防衛庁・自衛隊の存立自体にすら異議申し立てのある時代。(中略)冷戦終結とともに、我が国を取り巻<安全保障環境は一変しました。我々が直面する危機を正面から見据え、防衛力の役割を根本的に見直す必要が生じたのです。(中略)

    今、我が国は、正に 「新時代の黎明期」 にあると言っても過言ではありません。私は、これまで、「戦後レジームからの脱却」 ということを繰り返し述べてきました。「美しい国、日本」を造っていくためには、「戦後体制は普遍不易」とのドグマから決別し、二十一世紀に相応しい日本の姿、そして新たな理想を追求し、形にしていくことこそが求められています。(中略)

    若き日のド・ゴールは、その著書「別の刃」 の中で、「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。このように自らの方針にのっとり、自己の責任において事を断行する態度は行動に強烈な刻印を押す。・・それは決して、・・忠告を踏みにじらんとするものではない。彼には、止むに止まれぬ気概と、断行せずにはおれない心の疼きがあるのである。」 と述べています。私も、これと全<同じ気構えで、「美しい国造り」 に全力を挙げて取り組んでまいります。

    集団的自衛権の問題についても、国民の安全を第一義とし、いかなる場合が、憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な事例に即して、清々と研究を進めてまいります。

    今回の法改正により、防衛庁を、省に昇格させ、国防と安全保障の企画立案を担う政策官庁として位置付け、さらには、国防と国際社会の平和に取り組む我が国の姿勢を明確にすることができました。これは、とりもなおさず、戦後レジームから脱却し、新たな国造りを行うための基礎、大きな第一歩となるものであります。一方、防衛庁省移行法の成立は、我が国の民主主義国家としての成熟、そしてシビリアン・コントロールへの自信、さらには国際社会の中で平和と安定のために責任ある役割を担ってい<という国家・国民の意志を内外に示すこととなりました。(以下省略)


    防衛省発足と安倍内閣総理大臣訓示(全文 pdfファイル)

    以上を私なりに要約すると、
    「自分だけを頼みと」して「戦後体制というドグマ」を粉砕し「戦後レジームからの脱却」を完遂して「美しい国をつくる」
    そういうことのようです。

    ドグマ、レジーム・・・。政治家らしい物言いといえば言えそうですね。ところで、安倍さんのいう「戦後体制」とは一体なんぞや。そこに彼はどのような意味を持たせているのかどうにもはっきりとはわからない。そして彼が目指すらしい「美しい国」も同様に美しくて言葉になにならない(なっていない)。

    「おまえたちは間違ってる、なにひとつ分かってない!」
    そう彼は言っている、のかな。

    自分自身がどのようなドグマに囚われているのかを考えたことすらない者だけが他人のドグマを糾弾出来るのだ、恥ずかしげもなく。
    なにはともあれ防衛省発足、おめでとうさん。

    以下、訓辞全文(上記pdfファイルからテキスト化)

        平成十九年一月 防衛省移行記念式典における 内閣総理大臣訓示
                             (聞き取りのまま)

     サンフランシスコ平和条約が発効し、我が国が主権を回復してから、五十五年の歳月が流れようとしています。本日、正にこのとき、国防という国家主権と不可分な任務を担う組織たる防衛省を発足させることができたことを、私は時の内閣総理大臣として、誇りとするものであります。この歴史的な日に際し、全国の防衛省・自衛隊諸官に対し、所信の一端を申し述べます。

     我が国が先の大戦の災禍から復興に向け、力強く歩み始めた昭和二十九年、保安庁を改組、防衛庁・自衛隊は、産声をあげました。旧軍とは全く異なる思想に立脚する民主国家の国防組織。それは正にゼロからの出発でした。国防は、言うまでもなく、国民の生命、身体、財産を守る、国家の最も基本的な権能であります。しかしながら、防衛庁・自衛隊を巡る内外の諸情勢から、その後、長らく、「省」としてではなく、総理府の外局として位置付けられることとなったのです。

     冷戦期、厳しい東西の対立構造は、国内政治にも少なからず影響を及ぼしました。一部には防衛庁・自衛隊の存立自体にすら異議申し立てのある時代。諸官の先輩達は、多くの国民からの静かなる支持と信頼を胸に、国の守りを万全なものとすべく、黙々と、時には歯を食いしばり、時には涙し、日々の訓練に励み、また、災害派遣や民生協力に当たってこられました。

     冷戦終結とともに、我が国を取り巻く安全保障環境は一変しました。我々が直面する危機を正面から見据え、防衛力の役割を根本的に見直す必要が生じたのです。

     平成二年の湾岸危機以後、自衛隊には、PKOを始めとする様々な海外任務が付与されました。こうした海外での活動、また、阪神・淡路大震災をはじめ国内で頻発した大規模災害、さらに、能登半島沖不審船事案における海上警備行動などの現場において、国民の生命、身体、そして、財産を守るため、諸官が一身を顧みず、懸命に汗を流す姿に、大多数の国民の共感と信頼が集まりました。

     今般の省移行法は、衆参両院で九割以上の国会議員の賛成により成立しました。これは、すべからく隊員諸官や諸先輩の長期間にわたる国防という高貴な使命に捧げた努力の賜であります。

     「危険を顧みず、身をもって責務を完遂し、国民の負託にこたえること。」これこそが防衛省職員・自衛隊員の責務であります。しかしながら、発足以来、実に千七百人を超える自衛隊員が職に殉じ、尊い命を失ったという事実を我々は決して忘れてはなりません。国家・国民のため、崇高な使命に殉じた御霊に対し、衷心より哀悼の誠を捧げます。

    今、我が国は、正に「新時代の黎明期」にあると言っても過言ではありません。

     私は、これまで、「戦後レジームからの脱却」ということを繰り返し述べてきました。「美しい国、日本」を造っていくためには、「戦後体制は普遍不易」とのドグマから決別し、二十一世紀に相応しい日本の姿、そして新たな理想を追求し、形にしていくことこそが求められています。

     若き日のド・ゴールは、その著書「剣の刃」の中で、「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。このように自らの方針にのっとり、自己の責任において事を断行する態度は行動に強烈な刻印を押す。・・それは決して、・・忠告を踏みにじらんとするものではない。彼には、止むに止まれぬ気概と、断行せずにはおれない心の疼きがあるのである。」と述べています。私も、これと全く同じ気構えで、「美しい国造り」に全力を挙げて取り組んでまいります。集団的自衛権の問題についても、国民の安全を第一義とし、いかなる場合が、憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な事例に即して、清々と研究を進めてまいります。

     今回の法改正により、防衛庁を、省に昇格させ、国防と安全保障の企画立案を担う政策官庁として位置付け、さらには、国防と国際社会の平和に取り組む我が国の姿勢を明確にすることができました。これは、とりもなおさず、戦後レジームから脱却し、新たな国造りを行うための基礎、大きな第一歩となるものであります。

     一方、防衛庁省移行法の成立は、我が国の民主主義国家としての成熟、そしてシビリアン・コントロールヘの自信、さらには国際社会の中で平和と安定のために責任ある役割を担っていくという国家・国民の意志を内外に示すこととなりました。

     先日、フィリピンのアロヨ大統領と首脳会談を行った際、同大統領から「防衛庁の防衛省への昇格を歓迎する」との言葉をいただきました。これは、東アジア地域の安全保障において、今後、我が国がより積極的な役割を果たしていくことを希求するとともに、我が国のシビリアン・コントロールの成熟に対する絶大なる信頼を表明したものと言えると思います。

     今、この瞬間、瞬間にも、イラクやゴラン高原の地で、インド洋の洋上で、あるいは隔絶の離島で、更には自衛隊の基地や駐屯地で、厳しい現場の任務に従事している隊員達がいます。

    私は、彼ら、一人一人の姿を、確実に脳裏に像として結ぶことができます。私は、最高指揮官として、常に諸官とともにあります。同時に、諸官の活動を誇りとし、今後ますますの活躍に大いに期待するものであります。

     今後も、我が国が平和と繁栄を享受できるよう、高い規律と士気を保持するとともに、この「美しい国」と国民の未来のために、世界の平和と安定という崇高な使命のために、更に献身的な貢献をしていただくよう諸官に切望し、私の訓示といたします。

    平成十九年一月九日

    内閣総理大臣 安倍 晋三

    腐った素材とバラバラ殺人

    • 2007年1月14日

    私はテレビを見ない。
    とくに理由らしい理由はないが(てか考えたことがない)。
    テレビがないわけではない。一応居間に据えてある。でもほとんど見ない。家族がいるので食事時に時々「目に入る」のと、年間に数度ドキュメンタリや映画を観るくらいである。

    ちょっとだけ見ない理由を考えてみる。
    ひとつは、テレビを通じて入ってくる情報によって「なに!?そうか、そんな見方もあったのか」という体験をした記憶がないこと。「へぇ」「ふーん」「それで?」「いやいやもう結構ですよ」。そればっかり。時々、気になっているテーマについて「お、そういう本があるのか」「お、そういうサイトがあるのか」なんてことはあるけれど、テーマそのものについて目を見開かされるような情報に接したことはほとんどない。

    もちろんそうだからといってテレビ独特のメリットを否定はしない。有用な場面もあるだろうから。
    ただ、私はほとんどテレビを見ない人間だというだけのことである。
    今のところ私にとってはテレビよりもあちこちのブログなどのほうが余程発想を刺激してくれる存在なのは間違いない。

    この記事自体、折々読んでいるブログの一エントリを見て書きたくなったものの一つだ。
    先日読んだ『9条どうでしょう』の著者の一人、小田島隆氏のブログ「偉愚庵亭憮録」の「ファミリーズ」と題したエントリでバラバラ殺人が取り上げられている。

    でも、肉食獣たる取材記者が血と鉄と毒を恐れないのはそれで良いとして、彼らが取材してきた結果を番組として流す段階では、もうひとつ別の判断基準があって然るべきなんではなかろうか。つまり、真相は真相として、公共性のない事実は、あえて庶民の食卓に供さないのがまっとうな放送業者としての態度……

    テレビをほとんど見ない私にも、ここしばらくテレビから頻繁に「バラバラ殺人」の声が聞こえてきた。
    昨日だったか一昨日だったか、NHKが加害者(妻)と被害者(夫)について双方の異性関係がどうとか家庭内暴力がどうとか報道していたのだが、それを偶々見た私はその内容よりもなによりも「それがどうしたのだ?」と思うほかなかった。事件そのものよりもその報道にこそゾッとするものを感じただけであった。小田嶋氏の一文を読んだことで、その「ゾッ」の理由の一つが少し明確な形で私の中に浮んできた(ので最初はコメント投稿させていただこうと思ったのだけれど長くなったのでこちらに書くことにしたのでした)。

    「彼らが取材してきた結果を番組として流す段階では、もうひとつ別の判断基準があって然るべきなんではなかろうか」。この氏の一文に私は強く肯く者である。
    株主利益だのコストパフォーマンスだのなんだのというのが錦の御旗になっているらしい社会においては、仕入れたネタ(原料)は全て有効に余すところなく活用しなければならないのだろう。無駄の排除、効率化・・・。おそらくジャーナリズムにおいてもそれは例外でないということなのだろう。そう(勝手に)解釈すれば納得はいく。
    そういえば「バラバラ殺人」の隣には「消費期限切れ原料使用」の見出しが踊っている。
    誰も好んで食べようとは思わない消費期限切れの素材、出来れば一生縁のないまま過ごしたい事件。どちらも「腐れた材料」とも言えよう。
    腐った(腐りかけた)原料を使用してしまった食品会社はこれでもかとばかりに叩かれる一方で、それをリードする報道機関は腐れた材料をこれでもかとばかりに食卓に送り込む。皮肉な話だ。

    おっと、時間が・・・
    今日はこれにて(後で文章に手を入れるかもしれませんが一応これで)。

    ダブルスタンダード?

    • 2007年1月10日

    「日本政府がインドの核保有容認へ」(読売新聞)

    北朝鮮の核保有には神経を尖らす日米政府もインドには寛容、と見えなくもなし。いろいろと事情があるのでしょうね・・・。
    この件、ちょっとばかり冷静に考えてみる価値はありそうです。なぜ北朝鮮は×でインドは○か。
    地方自治体までもが危機管理を目指して自衛隊OBを採用する、一億総危機管理体制の背景には北朝鮮脅威論があるらしいけれど、「核のキョーイキョーイ」という呼び声には不誠実な誤魔化しが全くないと言えるのだろうかね。

    心覚えにここに記しておく

    防衛省発足と戦後レジーム

    • 2007年1月9日

    いよいよ防衛省発足。おそらく主要官庁が統廃合・名称変更した数年前よりも歴史的意義は大きいでしょうね。教育基本法改正も合わせて安倍さんが歴史に名を残すことになるのはもはや間違いのないところでしょうか。もっとも歴史は歴史でも”日本史”限定なのでついでに日本史の必修化もやったほうが安倍さんのためにはよろしいかも、です。

    防衛庁の省昇格関連法の施行に伴い防衛省が9日、発足した。安倍晋三首相は同省内で行われた記念式典で訓示し「国防と国際社会の平和に取り組むわが国の姿勢を明確にできた。戦後レジーム(体制)から脱却し、新たな国造りを行うための第一歩となる」と述べ、省昇格の意義を強調(中略)
     その上で、首相は「美しい国と国民の未来、世界の平和と安定という崇高な使命のため、さらに献身的な貢献を切望する」と求めた

    (yahoo news)

    以前「戦後レジーム」について書いたときに調べようとしたこの言葉の来歴ですが、今のところよくわかりません。参考までに国会における発言を調べてみましたが、国会議事録にこの言葉が初めて登場するのは平成18年10月2日(鳩山由紀夫氏の質問)が初めてで、安倍氏自身の発言は同年10月4日(首相就任の約一週間後)が初出です。

     (安倍晋三)
    戦後レジームからの脱却の意味についてのお尋ねがありました。
     我が国は、半世紀以上にわたって、自由と民主主義、そして基本的人権を守り、また経済的な繁栄も成し遂げてまいりました。私たちは、こうした我が国の今日までの歩みを誇るべきであると考えています。
     しかしながら、この国の基本を形作る憲法や教育基本法などは、日本が占領されていた時代に制定されたまま半世紀以上を経て現在に至っています。私が戦後体制からの脱却という言葉で申し上げたかったことは、当時決まったものは変えられない、変えてはいけないという先入観のある時代はもう終わったということであります。
     私は、初の戦後生まれの総理大臣として、二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を追求し、皆でそれを形にしていきたいと願っております。
     憲法改正についてのお尋ねがありました。
     現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、六十年近くを経て現在にそぐわないものとなっております。そのため、私は、私たち自身の手で二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として新しく書き上げていくことが必要であると考えています。

    平成18年10月04日参議院本会議における発言
    国会議事録より引用
    強調表示は引用者(UBSGW)による

    ハラスメント?晴らすメント?

    • 2006年12月16日
    • キーワードタグ: 教育

    医師に「くたばれ」メール、看護師逮捕(goo news)

    昨晩この”事件”をyahoo newsで読んで「これで逮捕??」と思うことしきりでした。goo(産経新聞)の記事を読んで少しだけ疑問がほぐれましたけど、それでも腑に落ちない部分、ありますね。

    腑に落ちないと言えばこちらも。

    国立大助教授に停職4カ月、「不正」請求、「アカハラ」(西日本新聞)

    厳しい指導への恨みをはらすメント?

    学生計5人に対し「卒業させないぞ」としかったり
    机をたたいたりし
    学生5人が、学内のハラスメント相談窓口に相談したため、一連の問題が発覚
    大学側に無断で購入(・・・)業者に架空の請求書を作成させ(・・・)研究成果を急ぐあまり(以下略)

    学生らを過度にこき使っていた、ということなのかもしれませんが、記事だけ読むと「卒業させないぞ、卒業したくないのかな?キミは」ってのもこれからさき禁句になっていきそう。

    「机たたき」?ダメ?
    じゃ、ろくな教育・躾も受けぬまま将来会社に入ってからあかつきには、強く叱る職場の上司はパワハラで訴えるしかないね。ただし出世はあきらめなさいな(もしくは肩を「たたかれる」だろうね)。

    そしたら上司、経営陣、株主をみんなまとめて訴えちゃおうか?これ、何ハラって呼ぶことにする?
    そんでもって経営陣と株主は「重税ハラ」で国と自治体訴えればいいよ。
    そして国(日本)は近隣諸国に対して「戦争責任ハラスメント」には耐えられない!と武力に訴えることが出来る環境が整っていればなおよろしいかも。

    若者たちにとっては、低賃金でギュウギュウ「首を絞められる」社会に旅立つまでは優しくスポイルしてもらわないと割に合わないのかも。

    冗談はさておき
    このテの記事には大抵、書かない方がマシな「事実」もあるような気がします。(もっとも、読者にリテラシーがあれば問題ないのだろうが。すいません、持ち合わせてないもので)

    「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」・・・。
    いじめだって言ってみれば「スクハラ(スクールハラスメント)」

    人の嫌がる行為、いじめはもちろん非難されるべきでしょうが・・・。
    何にでも「ハラ」付けて排除する(排除を容認する)傾向には、ちょっとばかり気色の悪いものを感じることもります。

    気色悪さの原因はおそらくその「ヒステリックさ」にあるな、私の場合。
    おお、そういえば「ヒステリー」という言葉も既に”色モノ”扱いされているのだったな。

    言葉が一人歩きしているかのような「ハラ」問題を耳にするたび、「まず言葉ありき」だなぁ、などと思う次第。
    しかしそこはほんとのところは「言葉」以前に「神がある」と思うのだが・・・(聖書の記述者は神の存在をアプリオリなものとして全く疑っていないはずだから)。
    神、善きもの、愛・・・なんと名づけてもよいのだけれど。

    「ハラ」君好きの人々の立場からすると子羊を殺して神に供えるような敬虔な人間に対しては、神はこれを拒否して天罰を下さねばなるまい。
    「”なんの罪科もない”いたいけな生き物を殺すしてはならない」はずだろう?。

    供える対象が神だから許される?
    では我々にとっての「神」とはなんなのだろうか。
    「国家の秩序」「規範意識」「おらがむらの安寧平穏」?

    神無き日本の未来に繁栄あれ!

    けじめ?そんな決まりないもん!

    • 2006年12月15日
    • キーワードタグ: 政治

    署員の放置自転車持ち出しを立件せず(yahoo news) 

    内部告発があり、(県警)監察官室が・・・再捜査を指示

    内部告発があったことを自浄能力として評価するか?
    内部告発がなければ揉み消す体質を問題とすべきか?

    タウンミーティングやらせ質問 首相給与100万円返納(神戸新聞)
    野党指摘にムッ、安倍首相(yahoo news)

    「お金で済ます問題ではない」との野党議員の指摘に「失礼ではないか」と気色ばむ・・・首相は「(公務員のけじめのつけ方は)減給などの処分方法が決まっている」と反論

    世論誘導ととられても不思議ではない「余計なお世話」
    公金をアホみたいに気前よく広告代理店に支払う役人
    言論を金で買う?公民館ででもやればいいのにね
    客が集まらない?

    それもすべて日本の民度の高さ(低さ)の表れなんだからしょうがないよ。自戒。
    ついでに言えば懲戒制度がなければけじめもつけられない、つける気もない公人しかいないのもね。

    しかし、率直に言って「それはないでしょ」と思った次第です。
    「盗人にも三分の理」なのでしょうが「それは盗人猛々しいですよ」と言っておきたいと思います。
    「盗人とは失礼な!!」などとまた怒られましょうかね・・・。失敬。

    追記)「うちだけ突出できない」(yahoo news)

    ひとが自分の意向に反して何ごとかをする場合には、そのなすことがらが<それ自身としては>善であるにしても、実は、善をなすのではないのである
    (『世界の大思想3 アウグスティヌス』河出書房 1966)

    敵対者は殺せ?

    • 2006年12月11日

    21世紀はのちの人々から暗黒時代と呼ばれることになるのだろうか。

    先日来報道が相次ぐ英国でのロシア人毒殺疑惑。ロシアがらみの暗殺疑惑といえば数年前のウクライナ大統領選候補者のそれも思い出されます。近くでは女性ジャーナリスト射殺事件もありました。

    ロシアでは今年3月、大統領が、反ロシア的な姿勢を示す国外のテロリストやテロ組織を攻撃、殲滅(せんめつ)することを軍に命じられる反テロ法が施行された・・・今夏には反ロシア的な言論活動や扇動を行った者を「過激派」として懲役刑に処すことも可能となった
    反テロ法や反過激派法の成立過程で、元情報当局者や民族主義的な政治家からは、暗殺を戦争行為の延長として合法化すべきだという議論も出ていた

    狙われる「ロシアの敵」(産経新聞 iza)

    「暗殺を戦争行為の延長として・・・」というのは突飛な考えとも見えますが、ビンラディン”暗殺”を目的としたアメリカのアフガニスタン侵攻を考え合わせればそれほど飛躍した思考法ではないと思えます。強いて違いを探すならば、ロシアはズバリ暗殺、アメリカは形ばかりの「公開裁判」を通じて「(一見)合法的」にターゲットを処刑、そのくらいでしょうか。多くの市民を巻き添えにしてしまう点ではアメリカの手法の方が罪が重いともいえるかもしれません。

    ロシアでもアメリカでも、はたまたアジアの某国でも、歴史的語法に従えば”反動的”といってよい動きが目立ちます。そしてその多くが「反テロ」を名目にしていることも共通点のようです。その一例は「アメリカ愛国法」。

    アメリカ愛国法(Patriot Act ): 英文解説(wikipedia)

    そこで「テロリズム」について調べてみます。
    wikipedia日本語版によれば

    (一般的に)心理的恐怖心を引き起こすことにより、特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力行為のこと。またはその手段

    テロリズムの語源は、フランス大革命末期のロベスピエールの恐怖政治(regime de la Terreur)の「Terreur、テロール、恐怖」よりきている。権力者が対立する者を抹殺した場合もしくは、その影響(恐慌や追従)も含めてテロと呼ばれていた。 その後、その意味は、逆に反体制側の暴力的手段を指すように変化していった

    とのこと。

    要は誰かに「恐怖心」を抱かせることで目的を果たそうとする遣り口、ということですね。
    とすると「暗殺」という手段も「軍事侵攻」という手段も、どちらも相手方の恐怖心を惹き起こすという意味ではテロと同類というわけです。つまり反テロを名目とした暗殺・軍事侵攻はテロを制圧するためにテロを実行するということになります(したがってそれらの正当性を担保するものは”目的の適否”しかないということである)。
    目的の適否となるとこれはもう議論百出侃々諤々百家争鳴だろうから私は沈黙。しかしひとの恐怖心を煽って目的を果たそうとする手法があちらでもこちらでも実行されているような社会がどのような傾向性を帯びるのかは歴史に学べば明白だろう。

    しばらく前のロシア人女性ジャーナリスト殺害に関連した某新聞のコラムで「日本では政治的暗殺が行われたことはまだない」云々と書かれていた記憶がありますが、よくよく考えてみれば決してそんなことはありません。マスコミは他国での出来事に関してはあっさりと断定的な記事を書きますが、自国内のことには慎重にならざるを得ない、それだけのことではないでしょうか( ロシア政府は暗殺と認めていないが日本のマスコミは暗殺と断定的に書いていることもある)。

    どちらのときもマスコミの報道では「暗殺」という言葉は使われていなかったし、記事の扱いもたいして大きくなかったと記憶します(当時の首相のコメントも通り一遍の見本のようなシロモノでしたね)。ロシアのジャーナリスト射殺の時の方がはるかに大きく(そしてロシアの後進性を批判的に)マスコミが取り上げていました。日本での報道において、ロシアの一連の事件を報道するにあたり「暗殺」という言葉が頻繁に用いられている以上は、この言葉自体が放送コード・報道コードに抵触するものではないのでしょうが、日本で起こる「テロ」に関しては滅多にこの言葉を見かけませんし、そもそもそうした出来事に関する報道は通り雨のようにすぐ止んでしまいがちです。

    概して人間は、他人の欠点は精確に見えるが自分の欠点は過小評価してしまうものです。日本の言論・報道も政治も決してロシアを批判できるほどご立派ではないということは自覚しておきたいと思う。
    今年度の「報道の自由ランキング」でも日本における右翼勢力の台頭に懸念が示されていましたよね(もっとも、書きたくとも書けないのかもしれない日本のマスコミに同情すべきなのかもしれませんが)。

    ついでながら、当初は時限立法とされたアメリカ愛国法は、予想通り一部(盗聴条項と記録入手条項)を除いて恒久化された。一般論として、時限立法・特別措置法が文字通り期限付のものとしてその役割を終える比率はいかばかりのものなのだろうか(どなたかご存じの方ご教示下さい)。

    少しずつ、でも着実に市民の自由が侵されていく。
    個人の自由と集団内の秩序維持の両立というアポリア。

    学者でもない私には、このての問題はつまるところ一人ひとりが自身の日々の行動を以て解消していく他はないのかな、と感じられる昨今です。

    とりあえずこれにて。

    何故かオレンジ革命と文学が夢に出てきた日に記す
    あ、なんだか蜜柑が食べたいなぁ・・・

    ミサイル防衛と集団的自衛権

    • 2006年12月7日
    • キーワードタグ: 歴史

     アメリカは状況を主導すべきであって、後追いするべきではない。時機を選んで、われわれは一方に天皇と日本人を、他方に東京の軍国主義ギャングたちを置き、両者の間にくさびを打ち込むべきである。われわれは、敵をはっきりと理解し、敵を賢明に取り扱うことによって、何年にもわたる流血の事態を回避できる。日本は完全に打倒されるべきである。そしていったんそれが実現したら、アメリカの正義が道となり光とならねばならない。(ボナー・F・フェラーズ)  

    ダワー『敗北を抱きしめて(下)』より引用

    「ミサイルが米国に向かうことが明らかで、日本がそれを撃ち落とせるのに落とさないのはクレージーだ。そんなものは日米同盟ではない」

    これも「天の声」?
     「迎撃しないのは、ばかげている 米向けミサイルで副次官」(中国新聞)

    住基ネット訴訟の高裁判事自殺(?)

    • 2006年12月4日

    夜のNHKニュースで「大阪高裁判事」「自殺」とそこまで耳にしたところで、咄嗟に先日の住基ネット訴訟との関連が頭に浮びました。恐らくこのニュースを耳にした多くの方が同じ思いを抱かれたのではないだろうかと思います。

    住基ネット訴訟判決( 産経新聞
    同判決要旨( 山陽新聞

    「自殺と見られる」が「遺書は見つかっていない」とのこと。
    今の段階で何を語っても臆測になるばかりですので多くを語ることはしたくありませんが、なんとはなし暗然とした気分にさせられます。
    もし仮に先日の判決と今回の自殺とに何らの関連もないと言われたとしても、何だか釈然としないものが残りそうです。

    歴史的資料を豊富に手にして今を生きる私たちが過去の歴史を学ぶにあたって、往々にして見落とす一事があります。それは私たち自身が幾ら望んだところで、自分たちの生きる時代と世界を極めて近視眼的ないし一面的にしか把握できない(把握することが構造的に不可能である)のと同様に、過去の歴史を生きた人びともまた彼らが生きている時代を俯瞰的に把握することが不可能であったという事実です。

    特に、時代と共に人類が進歩している(はずだ)という感覚と結びついた直線的な時間感覚をもってすると、ともすれば災厄や失敗や陰謀を見抜けなかったのは過去の人びとの無知や無自覚が原因だと(なかば無意識のうちにでも)考えてしまうことはなきにしもあらずなのではないでしょうか。

    それでも、かつて満州某重大事件や大杉栄の暗殺などの出来事に(間接的に)接した人びとが、「なんだかおかしい」「奇妙だ」という漠然とした感覚を持たなかったわけではなかったのではなかろうかと私は思っています。現に報道統制された出来事に関しても僅かな情報をもとに(現代から見れば)適確な見通しを持ち得た人びとが(少数ながら)いたことは様々な人々の公刊日記などから読み取ることが出来ます。そしてまた意外なほど多くの市井の人々が何だかよく分からないまでも漠然とした不安、というか胡散臭さを感じていたといいます。

    もちろん今回の自殺という出来事がやれ陰謀だ、暗殺だというものではありません(全く分かりません、私には)。

    ただ、私が今回の自殺報道に接して思いを新たにしたのは、いつの時代でも、ある時代に生きている”現代人”は常に自分が時代の最先端を生きているという実感と裏腹なものとして、過去(の人々)に対する優越感(おれは知ってるぞ、分かってるぞ、どうしてあなたたちは気づかなかったの??という感覚)を意識的にせよ無意識的にせよ持っているのかもしれない、ということでした。

    自分のことは自分が一番よく分かっている?
    果たしてそうだろうか。

    あまり多くを語ると臆測めいたはなしになりそうなのでこの記事はこのへんで。

    亡くなられた判事のご冥福を祈ります。

    教育再生会議の素案と緊急提言

    • 2006年12月3日
    • キーワードタグ: 教育

    教育再生会議の中間報告素案といじめに関する緊急提言とやらの新聞記事を2、3読みましたが、「ゴチャゴチャやってらっしゃるのね」という感想しか出てこなかった私は”意識が低い”のかもしれません。

    教育再生会議第1次報告の骨格(西日本新聞)
    ・ 優良教員の給与、昇進などでの優遇と、不適格教員の排除を狙った教員免許更新制の導入
    ・ 児童・生徒の基礎学力を向上させるため授業時間数を増やすなど「ゆとり教育」の見直し
    ・ 国の責任明確化と、教育行政の地方自治体への分権化促進

    などが挙がっているのだそうです。

    これに加えて

    いじめや学力不足などの問題に対応するため教員の資質向上が必要だとして、多様な分野で高い専門性を持つ民間の社会人や博士課程修了者を数値目標を設定して一定割合、教員に登用

    というのもあるのだそうですが、大いに疑問を感じます。

    教員の資質向上と民間人や博士の登用促進は一体どのように結びつくのでしょうか。穿った見方をすれば、現職の教員は能力不足で使えない「お役人」だから、民間人や博士課程修了者といった有能な人びとを積極的に登用するよ、と言っているようにも聞こえます。

    しばらく前に文科省がさかんに「教員の資質及び専門性の向上」を唱えていたと記憶しますが、文科省は方針転換したのでしょうか。

    「教員の資質向上」とは”使えない現職教員”を排除して、市場原理を身にまとった民間人様や博士様をして学校現場に活を入れていただくということ?。素人を登用しなければならないほど現職の教員たちは無能力だと?。

    もちろん、民間企業の経験者や博士課程修了者がその経験を生かすべく教職に就くのは歓迎すべきことだと思いますが、数値目標を設定して半ば強制的に登用させることには大いに疑問を感じます。それは「民間人」「博士」なら教師としての能力も高かろうと考えているようにしか思えません。

    むしろ教育の再生に今もっとも必要なのはまずなによりも現職教員が能力を発揮できる環境を作り直すことなのではないでしょうか。

    「新しい血」を入れ、「異物」を排除するのが教育再生会議の既定路線なのでしょうね、おそらく。

    緊急提言も読んでみましたが「ふーん」でおしまい。通達や提言を一本出したからといって改善できるほど皮相な問題ではなかろうし、むしろ「通達通り提言通りにやってますよ」というエクスキューズを与えるだけかもしれないなというのが私の感想です。

    教育再生会議 いじめ緊急提言全文(中国新聞)

    学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
    -学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を
    -徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す

    学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然(きぜん)とした対応を取る。例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保するため校内で全教員が一致した対応をとる

    果たして今の学校には生徒が声を上げる場所がないのだろうか。訴える”場所”がないのではなく訴える”相手”がいないのではないかと私は思う。なんだかハコモノ行政と通じるお役所的体質を感じるばかり。

    そしていじめた側の生徒を他の生徒と「隔離」して指導(?)するというのもまた「いじめ問題」の解決に効果があるとは全く思えない(刑務所並みに24時間外界と隔離するというなら話は別だが)。社会奉仕も同様。教育現場の先生方のお考えを伺いたいところではあるが。

    教師による懲戒権ははるか以前から認められているのに、それがなぜ実効的に機能していないかを考える必要があるはずだ。
    結論を言えば、教師による懲戒が世間や保護者(そしてマスコミ)からの批判にさらされることを怖れて学校側が腰の引けた対応しかできないところに大きな問題があると私は思う。

    もっとも、余所からの批判を覚悟の上で自らの責任において懲戒権を行使することが教師には求められる、とも言えようが、いざ実行するとなるとかなりの覚悟が必要になるでしょうね。今のような「他罰的な」時勢であれば。

    誰もが承知の如く、決してルールや指針を定めるだけでは解決しないでしょう。
    「人を殺した者は死刑又は懲役」というルールさえあれば世の中から殺人がなくなる、というわけではないようにね(もちろんルールは必要ですが)。

    実際のところ隔離指導については再生会議でも議論があったとのこと。(12/3付佐賀新聞論説記事

    モラルってなんだろう

    • 2006年12月2日

    今、ヘルマン・ハインペルの『人間とその現在』という本を読んでいます。
    その中に「ルターは市民と違ってモラリストではなかったのである」という一文があって、ふと「モラル」について考え初めました。

    道徳・倫理・モラル(moral)・モラール(morale)・・・。
    昨今様々な形(言葉)で復権が叫ばれているこれらの本質は一体何処にあるのか、考えてしまいます。

    辞典をひくと次のようにあります。

    モラル:
    道徳。倫理。人生・社会に対する精神的態度。

    倫理:
    人として守るべき道。道徳。モラル。

    道徳:
    ある社会で、人びとがそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

    以上『大辞林』三省堂より引用

    それぞれの言葉の意味は分かったような気になれないこともないのですが、今ひとつピンと来ないです。

    「善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範」などといわれても、「じゃ、何が正しいのか」となると人それぞれで千差万別かもしれないし。
    「個々人の内面的原理として働くもの」といっても、その内面的原理はどのように獲得されるのか、如何にして教育しうるのかとなるとまたまた疑問が溢れてきます。とくに「外的強制力としてではなく」働くものとしての道徳=内面規範を、公教育という「外的強制力」を以て育成しようとすることには些か疑問を感じなくもないです(にもかかわらず公教育はこれからドンドン法的規制が強化されていくだろうしね)。

    明確には語り得ない”モラル”を、公教育において教えることは如何なる条件の下に許されるのか・・・(いかな文科省とはいえ、まさか国旗国歌に象徴される”国家への敬意”こそが「モラル」だとは言わないと思いたいですが)。

    ひとりの市民として自分や子どもに”モラル”教育を施す権能を公教育すなわち「国家」に委任することは極めて危険な所業にも思えます。かといって「じゃ、それぞれ自己責任でよろしくね」ともいかないようだし(過去の経緯からするとね)。

    なんだか訳が分からなくなってきましたのでそろそろとりまとめますと、

    ・公権力が法に基づいて「ああせい、こうせい」言うのはご勘弁願いたい。
    ・モラル育成が必要だと言うのであれば、それは「ああせい、こうせい」「こう考えろ、ああ考えるべし」という教育ではなく、”自らが範を示す”形で行って欲しい。

    こんなところでしょうか。

    師たるに相応しい教師たちの振舞いに接した子供達が自発的に自らの行いを正すような教育。親たるに相応しい愛情と厳しさを持った大人の振舞いに子どもが感応していく、そのような訓育。

    なによりもまず自分自身が行動する。
    それが必要なんだろうね。

    だからもし私がここで

    「『教育が問題だ!!』なんて行ってる政治家諸君。たたけばホコリのでないはずのない君たちに教育を語る資格なぞ無いよ」

    などと言ってしまうと自己撞着になるので言わないことにします(あ、言ってしまった。ので今後は言わないことにします)。
    ※こんなこともありますが・・・。学級崩壊ならぬ「国会崩壊」?

    はてなブックマークで「モラリスト」を検索したところ次のような結果でした。そのうちの一部を抜粋すると

    ・道徳的関心を持つが、自らの道徳規範で人間の善悪を裁断する「道徳家」ではない。
    ・自己の生きられた体験を重視する。
    ・社会改革を意図する「革命家」ではない。
    ・個人の内面的な改善を重視する。

    この伝でいくと今の日本で「道徳」「倫理」「モラル」などを声高に言い立てている人の多くは、我が身を振り返るという型のモラリスト的思考よりもむしろ、他人の非を言い立てて断罪する型の「道徳家」的思考に傾いているのではないかと思わなくもありません。

    同じ伝で、内田樹は”現代のモラリスト”とお呼びしてもさしつかえない気がするのですが・・・。

    このへんで。

    「防衛省法案」衆議院通過~その2

    • 2006年12月2日

    はたしてお坊ちゃま軍団はどこまで暴走するのか。

    核武装、集団的自衛権、自衛軍創設・・・。

    とりわけ核武装に関しては非常な疑問を感じる。私の言う疑問とは「核武装は是か非か」という形のものではない(有り体に言えば是か非かと問われれば言下に「非」と答えるが)。自衛隊と米軍との一体化を図る流れと独自核武装はどのような形で整合するのだろうか、という疑問である。

    すでに米軍と一体化しつつありまた過去数十年にわたって米軍の核の傘の庇護下にあった日本がなぜ今頃になって独自核武装などする必要があるのか。

    「いや、議論は必要だ」と言う者があるかもしれない。とはいえ実現可能性のない議論を政権中枢にいる者が今行う必要性はそれほどまでに高いものなのだろうか。
    現在のところ、核兵器を保有している国はほぼ安保理常任理事国5カ国と重なっている。もし国際社会において「ぼくも核兵器もつことにしま~す」と新たに言い出した国があったとして、すんなりと承認される国が(日本に限らず)一国たりともあるだろうか。

    確実に言えるのは二つ。
    ・五大国は自分たち以外の国が核兵器を保有することを許さない。
    ・五大国以外の国々もまた今以上に核保有国が増加することは望まない。

    つまり新たな核保有国は誰からも歓迎されないということである(イランや北朝鮮にしても核保有への意欲は「むざむざやられたくはない」という消極的なものだと考えるのが妥当ではないか。なぜなら通常使用されることが想定されない兵器に莫大な費用を投じることは、いかなお金持ち国でさえ積極的にやるとは考えにくい(その点、そうした”経済的”思考法は現在の日本国首脳陣がお得意であろうと思う)。もちろん、「あいつは悪い独裁者だからなにをやるかわからない」と言う人はいるだろうけれど)。

    北朝鮮には核保有は許されないが日本が持つのは許される、とでもいうのだろうか。政治体制の違い、経済的キャパシティ、民度、技術力云々、どれをとっても彼の国よりも日本の方が遥かに上だ、という向きもあろう。しかし仮にそうであるからと言って果たして国際社会が日本の核保有を認めるということがあるだろうか。私にはどうもそうは思えない。

    以下 videonews.com「日本核武装論を嗤う」より引用

    日本では殆ど報道されないが、日本はIAEA査察官が8人も常駐するれっきとした核査察対象国だ

    そもそもIAEAという組織が、戦後日本とドイツの核武装を防ぐことを最大の目的に結成された組織であることを、日本人の多くが正確に認識できていないのではないか

    (発言者は元IAEA広報部長吉田康彦氏)

    仮にも日本国を代表する行政府のトップ及び政権政党のリーダーたちたるもの、国際社会において核保有のニューカマーが歓迎されることなどあり得るかどうかは十分すぎるほどの検討を既になされていることは疑うまでもない(たぶん)。
    それらの衡量をなしたうえで、敢えて何らかの目的があるからこそ核論議をなそうとされているのであろうが、どうもそのあたりの真の意図が(残念ながら)見えてこない(知られて困ることがあるわけでないだろうに)。

    日本でも核保有の可能性について論議すべしという方たちは、日本があたかも北朝鮮のように国際社会から爪弾きされることを覚悟の上でそのような論を述べておられるのだろうか。もしも「ボク(日本)だけは特別だい!!」などとお考えなのであればあまりにもお目出度い限りであるが。

    日本では拳銃の所持は禁止されている。例外的にごく少数の人(警官etc)が所持していることもある。
    さて、ここでお隣のチト怪しげな御仁が

    「おれ、ハジキ(拳銃)持ってるからな!なんかあったらいつでもぶっぱなすぞ、コラ!!」

    などとしばしば無体なことをおっしゃっているとする。

    「じゃ、おれも対抗して持たせてもらうぜ」
    とか
    「おれも持ってるぞ、ゴラァ!!」

    などと言い出す奴は馬鹿である。

    周囲からは

    「阿呆ちゃうか!?」
    「太郎ちゃん、ああいう人には近づいては駄目よ、危ないから」

    などと言われる(かもしれない)。

    そんなときはさっさと警察に通報するのがまっとうな市民であろう。
    (ハテ、いまふと思いましたが、個人がもし拳銃ではなく核兵器を持っていた場合の通報先は警察?それともIAEA?どちらでしょうね??  な~んてね。これこそまさに無駄な議論だよ。中川会長さんにも教えてあげよう。)

    わざわざご近所さんに痛くもない腹を探られるようなことをする馬鹿は・・・ほんまもんの馬鹿である。

    口調がだんだん地金を露わにしてきたようなのでそろそろ結論。

    今の日本で私が一番恐いと感じる人たちは全て文民である。軍人よりも自衛官よりもよほど恐いのが文民なのです。

    「羊の皮を被った オオカミがきたぞ~ぉ」

    などと言ってたら「おまえは馬鹿なオオカミ少年だ」と言われましょうか・・・ハハ。

    「防衛省法案」衆議院通過~その1

    • 2006年12月1日

    教育基本法につづいて防衛省法案もあっけなく衆議院を通過。

    シビリアンコントロール確保の観点から、自衛隊の最高指揮官は引き続き首相が務める

    産経新聞記事
    だそうですが、今の日本の状況は、文民統制(シビリアンコントロール)が確保されるから問題ないなどとは簡単には言えないような気がします。

    wikipedia日本語版によれば文民統制とは

    文民である政治家が国家戦略を担い、軍部による不当な干渉を排することである。国家戦略の軍事戦略に対する優越を中心とする

    ということになっています。

    ここで暗黙の前提となっているのは、軍人は暴走しがちだが文民は戦争(軍事力の行使)をしたがらない(乃至消極的である)ということである。
    過去を顧みれば、軍事国家プロイセンあるいは軍部大臣現役武官制に象徴される日本軍部の専横などのように軍人が政治に介入し国家を破滅に導くという先例が確かにある。
    そうした先例に鑑み、文民(シビリアン)こそが軍隊を統御すべきであり、そこでいう「文民」とは選挙によって民主的に選出された国会及びこれに責任を負う政府であって、これが軍隊・軍人の行動をコントロールすべきだとされたのである。

    ここで考えておく必要があるのは、文民が必ずしも軍事力の行使に消極的ではないケースもあり得るということである(自分自身が銃弾に命を曝すことのない文民だからこそ戦争になってもまあいいやと考える、そういうことも考えられないではない)。日本の現状に即して言えば、今の日本において軍事力の増強、軍隊(自衛隊)の海外派兵に最も積極的なのは一体誰だろうか、ということを考えておくべきではないか、ということなのだ。イラク派兵にせよ核武装論議あるいは集団的自衛権の行使にせよこれらに最も積極的だと思われるのは、”文民”たる政治家(の一部)である(しかも驚くことには彼らが政権の中枢に位置している)。

    文民統制が確保されているんだからOK!なのではない。「軍事力の行使に消極的な者」が軍隊を統御可能な権限を与えられているか否かが問題なのである。文民が軍事力の行使に積極的である場合、「文民統制」は本来の意味を失う。果たして国会の論戦(そんなものがなされたのかどうか知らないが)において文民統制の本質が顧慮されたのだろうか。私は甚だ疑問である。

    管見ではあるが、いまのところ自衛官たちは力を恃んで暴走してしまうほど自らを過信してはいないように見える。(ついこのあいだまで「税金ドロボー」「張り子のトラ」などと鬼っ子扱いされてきた彼らにすれば、国民が自衛隊を認知してくれることを喜びはするかも知れないが、いきなり「んじゃ、ひとつ戦争でもやるべえか!」なんて調子づくとは私には思えない)

    問題は、「そういえば昔は防衛庁なんてのがあったんだってさ」などという2世、3世が登場し始めたときにどうなるか、なのだ。

    戦争を知らない世代が多数派となったとき、平和主義は抵抗する間もなく過去のものとなった(ように私には見える)。そして自衛隊がかつて日陰者呼ばわりされたことを知らない世代が多数派となったとき、日本にどういう変化が生じてくるのか。

    (つづく)

    未履修問題の責任と処分

    • 2006年11月27日

    高校における必修科目履修逃れ問題に関してボツボツと各校長に対する処分がなされつつあるようですね。

    島根県

    「責任を問うべきかどうかは、処分を検討するかどうかも含めて時間をかけて考えたい」と述べ、現時点では念頭にないことを明らかにした

    (山陰中央日報記事)
    佐賀県

    学校長の処分は、懲戒戒告が7人、文書訓告が10人

    吉野教育長は・・・「今回のような事態が起きていることを指摘する声があがらないことにこそ問題がある」と指摘

    (北海道新聞記事)(佐賀新聞記事)
    島根は時間をかけて他県の様子も眺めつつ・・・といったところでしょうか。

    佐賀の方は、公務員の世界で文書戒告や訓告がどの程度重い(軽い?)処分なのか私は知りませんがどうなんでしょうね・・・。

    どうも私の予想は見事に外れそうな予感がします。たしか佐賀では未履修問題が大々的にニュースになって後にも調査すらせずに(?)「問題なし」などと虚偽の報告をしていた高校も複数あったとの報道もありましたから、その佐賀ですらこの程度の処分ということは他は推して知るべしという気がします(ま、まだ”自発的な退職”という道は残されているんでしょうが・・・辞めないよね、「普通は」・・・。)

    いずれにせよこの問題そのものもあれなんですが、今後の生徒指導に差し支えなどないのでしょうか。ま、校長なぞ直接生徒と顔を合わせる機会もなさそうですし、たいして影響はないのでしょう、たぶんね。

    以下追記。

    「セクハラ」と教育長を脅迫、3人逮捕

    • 2006年11月24日
    • キーワードタグ: 事件

    「過去にセクハラ(性的嫌がらせ)行為があった」と福岡県二丈町の教育長を(中略)「公になったら大ごとになるぞ」と脅迫。示談金として6000万円を要求した疑い(中略)3人は「金銭の要求はしていない」と容疑を否認

    共同通信(2006年11月23日)

    6000万円ってちょっと法外な金額では? というよりそもそも恐喝そのものが”法外”ですが。
    セクハラ行為が事実なのかどうかという点、この記事からは読み取れませんが、仮にただの言いがかりだとすると一層タチの悪い話でしょうね。

    (追記)
    11/24付西日本新聞朝刊に被害者側のコメントが掲載されていました。

    この3人、自分らこそ「公になったら大ごとになる」ことをやっているという認識はあったのかなかったのか。それ以前の問題として警察を侮っていたか・・・。

    なにはともあれ福岡県警バカではなかった、ということは言えそうです。至極あたりまえのことではありますが(そうでないこともあるということ)。

    嘘をつきました ごめんなさい by佐賀県警

    • 2006年11月23日

    実際は横断禁止でないのに「横断禁止」と誤った実況見分調書を作成。このため、家裁が男性側の過失を認定するという問題が起き

    さらに

    実況見分調書に必要な写真を撮り損なったにもかかわらず、証拠の開示を求めた遺族に対し、「写真はある」とうそを言い続けていた

    として

    遺族は刑事・民事両裁判が終わったことし7月、・・・捜査の疑問点を挙げた監察申し入れ書を提出・・・県警は9月にまとめた回答書で、「カメラの故障により写真が撮れていなかったにもかかわらず、遺族に対し写真があるかのごとく説明していた」などと初動捜査と遺族への対応が不適切だったと謝罪

    のだとか。

    これを読む限りでは今ひとつよくわからないところもありますが、県警が嘘をついていたことについて謝罪したということのようです。

    引用記事(佐賀新聞)

    住居侵入容疑で誤認逮捕(三重県警)

    • 2006年11月22日

    今年4月に住居侵入事件が起きた際、事件と無関係の男性を誤認逮捕

    男性は逮捕直後から一貫して容疑を否認し、物証もなかった
    県警は「目撃情報を過信したのが原因」とし、20日、男性に謝罪

    読売新聞

    22日間の拘留後に処分保留で釈放。その後、嫌疑不十分で不起訴
    別の住居侵入容疑で逮捕した無職男が犯行を自供していると10月に連絡があり、再捜査の結果、誤認逮捕と判明

    共同通信

    周防監督の新作について前エントリで書いたばかりですが、こうしたケースでは積極的な反証が出て来ない限り(当然と言えば当然ですが)泣き寝入りせざるをえないのが現状のようです。有罪とまではいかない場合でも、報道とそれによる社会的ダメージを考えるとさきの周防監督のいう如く「疑わしきはとりあえず罰せよ」というのが現実のようです。
    ここ最近、微罪検挙や誤認逮捕・冤罪事件の多発が目につくような印象を受けるのは気のせいでしょうか・・・。なんだかこれも構造的な問題のような気もします。そんな”気配”を感じるだけですけれど。微罪でも「罪は罪」ということはもちろんありますが、些か気になります。
    そういえば、規制緩和がさかんに唱えられていた頃に「事前規制」から「事後処罰へ」(*1)という言葉をよく聞かされましたが、その一環なのか?などと臆測してしまいます。

    *1:毎日新聞の分析記事

    「おいおい、そういう話だった!?」
    なにはともあれ「ルール」はルールとしてキチッと守るのが一番の防衛策、とは言えそうです。よ、ね?。

    (追記)
    この件について矢部先生が書いておられます。「元検弁護士のつぶやき」の記事

    被害者が犯人に間違いないと証言したというのも怪しい話・・・遺留されていたおしぼりに供述が誘導された可能性を疑います

    被害者の証言に頼った挙句の誤認逮捕について以前も書きましたが今回も真相は明らかにならないまま終るのでしょう。被害者証言によりかかった供述誘導はあっただろうと私も思います(拘留期限いっぱいしっかり拘留してますから)。確かに「検挙する」方向で事を進めようとするなら牽強付会がいちばんてっとりばやい方法ですし。

    「まず結論ありき」は政治の世界でなら分かり易くて評価されることをありましょうが、捜査機関が「それをやっちゃぁおしめえよぉ!」(寅さん調)のはず。「政治化」ってのは時と場合によっては民主社会を(まだそんなものが存在すればのはなしですが)害することになりはせぬか、と思うことしきりです。そんな大層な話でもなく単に検挙の成果(数値)をあげる欲求に負けただけなのかも、ですが。

    コミュニケーションと「聴くこと」

    • 2006年11月11日

    2005年4月8日付 「内田樹の研究室」より 

    コミュニケーションの基本はまず「聴くこと」である。
    君たちの耳にはとりあえず「ノイズ」にしかきこえないシグナルを「メッセージ」として読み解くこと、それがコミュニケーションの基礎である。

    ノイズをメッセージに繰り上げるためには、聴く君たちの「理解のスキーム」のどこかに「外部へひらくドアをあける」ことが必要だ。
    それは「理解できないことばに耳を傾ける」という構えによって示される。

    他者から到来する「理解できないノイズ」に敬意をもって耳を傾ける習慣をもつことができる人間だけが、自分の中からわき上がる「理解できないノイズ」に敬意をもって接することができる。

    自分の中からわきあがる「理解できないノイズ」をメッセージのかたちに組み立てる能力、それがそのまま「表現する力」に結実する。

    敬語とコミュニケーション

    • 2006年11月11日

    文化庁の「敬語の指針(報告案)」(pdf)とやらがまとまったようです。いちおう斜め読みしてみましたが、典型的なお役所文を読み通すだけの忍耐力は私にはないことを再確認しました・・・。

    が、その中で
    「敬語の使用は,飽くまでも『自己表現』であるべき」

    という一文が目に留まりました。要は「こういうシチュエーションでは敬語を使え」などと強制するようなことはしない、らしきことを言っているようです。ん~ 如何にもお役所的。毒にも薬にもならぬお言葉。

    でもまあこうして”敬語とは何か、どうあるべきか”を考えることは決して無駄ではなかろうとは思います。しかし、「敬語を正しく使おう!」と唱えても、それだけでは動機づけとしては弱いのかな。

    「べっつにいいじゃんよ~」
    「意味通じるんだしさ~」
    で終わるかも。適切な動機づけというのはなかなか難しそうです。以下、敬語とコミュニケーションに関して内田樹のブログから。

    学生にスピーチをさせると、いちばん印象的なのは「敬語」が使えないということだそうである。
    パブリックスピーチの場合は、英語でするときも冒頭には「本日はこのような場で意見を発表する機会を与えて頂きましてありがとうございます。しばらくお耳を拝借して、私見の一端を述べさせて頂きます」というような定型的な挨拶をする。当然のことである。
    だが、K先生のスピーチクラスで去年一年間、スピーチの冒頭で「挨拶」をした学生は一人もいなかったそうである。
    would could should といった助動詞を使った「あいまいな表現」ももちろんできない。
    「英語というのはきっぱりと言いたいことを言い切る言語である」ということをおそらく幼児期から教え込まれていて、「英語話者も人間である」ということを教え忘れたことの結果なのであろう。
      (中略)
    言いたいことをきっぱり言ったせいでことが紛糾するということがあるし、あいまいにぼかしたせいで、話が前に進むということもある。
    問題はコミュニケーションに投じる資源のコストパフォーマンスである。
    「敬語」はコミュニケーションのコストパフォーマンスを飛躍的に向上させる利器である。
    だが、そのことを学校の英語教育では教えない。
    言いたいことをきっぱり言い切らないことによって、してほしいことをしてもらう。
    そんなことは大人の世界では当たり前のことだが、教育プログラムとしてこれを具体化するとなると、ほとんど不可能なのである。

    2005年1月7日付 「内田樹の研究室」より

    指針のように敬語を”自己表現”と捉える限り、それを使う使わないは当人の意思一つにかかってくるわけですから、「おれはそんなの使う必要認めねーよ」という人間には敬語を使えとはいえないわけだ・・・。それだと現状から大して変わらないような気もします。その点、敬語を一種のツールと捉える方が敬語使用の動機づけとしては適切なのかもしれません。

    「敬語とは『相互尊重』の気持を表すものであるべきで、そのように利己的な目的をもって使うものではない」という考え方もあるでしょうが。

    「そんなの俺しらねー」

    という者を土俵に引き込むことこそ教育の真骨頂だとすれば”ニンジンで誘う”手もアリでしょうね。

    外国語にせよ敬語にせよ根っこにあるのは人とのコミュニケーション、相手とのコミュニケーション。敬語も勿論大切でしょうけれど、そもそもコミュニケーションとは何ぞやという視点もおさえる必要があるのかもしれません。

    今日はいつも以上に何を言いたいのかまるで分からない文章になりました。
    原因はただ一つ。
    本当に書き残しておきたかったのは次のことだけなのです。それだけ書いとくとなんだか単なる剽窃のようでイヤだったのでクドクド書きました。

    コミュニケーションというのは、語り手が「言いたいことを言う」ためのものではない。
    メッセージを送った聴き手に「何かのリアクションを起こさせる」ためのものである。

    怒りの真相 ~未履修問題論説記事

    • 2006年11月8日

    必修科目の履修逃れ問題もそろそろ旬を過ぎてきたようで・・・。

    先日私もこの件に関する佐賀新聞の論説記事に怒りを感じたことを記事にしました。
    数日経って読み返してみましたが、別段言いたいことに変化はありません(まっ、当の論説委員がこんな記事を読むこともないでしょうし)。
    ただ、念のため私があの記事で言わんとしたことを書き残しておきます。

    あの問題の犯人が誰なのか(責任の所在はどこか)、今後どうするべきかについては私個人としてはとりたてて意見もありません(今後の動向には注意を払うつもりですけれど)。日本史が必修になろうと世界史が必修になろうとそれ自体もまた私の興味の外です。もう私には直接関係ないし。(でもまあ強いて言えば世界史、かなぁ)

    記事を書いたときからずっと私が考えているのは、議論のあり方そのものにあります。

    ポッと出て来た問題がワッと大きくなって、そいでもって一部のイケイケドンドンおぼっちゃま政治家たちの言動にマスコミの報道洪水が相まって、

    「あらら、いつのまにかこんなとこにきちゃったね~、まっ、いいよね!?」

    なんてことになりはしないかいうことを危惧するのです。

    今回の問題でなかば政治的に解決が図られた結果、こと教育問題に関して今後教育現場(学校であれ教育委員会であれ)の発言力は小さくならざるを得ないと思われます。

    考えてみれば、この件に限らず福岡のいじめ問題でも教育現場の人間はメッタヤタラに叩かれています(もちろん、それだけのことをしでかしたわけですが)。安倍内閣成立ののち露見した教育現場の末期的状況は、「もう現場にまかせておれない」とばかりに政治家たちが介入してくる恰好の口実になるでしょう。

    教育基本法の改正はほぼ既定路線、日本史必修化もすでに十分視界に入っているでしょう。そして教育委員会制度の改変(中央集権強化?)・・・。

    そうした見通しは一連の出来事を眺めていれば、とくに考えるまでもなく誰にでも見えていると思います。とりわけ報道人には。だってプロですもん。

    であるにもかかわらず、佐賀の論説委員はいともあっさりと(私にはそう見えた)日本史讃美、世界史貶して、挙句現状にそぐわないルールは見直せなど軽口をたたく(私にはそうとしか見えない)。

    ましてや、もう古いから、実情にそぐわないからという口実で国の根本法規である憲法までがいとも軽々しく改正されようとする状況であるにもかかわらず。それとも各マスコミには内閣府からこの問題に関する具体的な報道マニュアルでも送付されていたのだろうか。

    「棒読みにならないようにね」「いかにも自説のように書いてね」

    あるブログで靖国参拝問題への政治家の関わり方に関して次のように書いてあった。

    「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」記事「信念でもなく、国益でもない何か 」より。

    政治家は潮目を読んだつもりで行動して(行動することで)、自らひとつの潮目に加担し、それを後押ししているということに自覚的であるべきだということである。

    私があの記事で言いたかったことはこの一点に要約できる。

    マスコミはニュースを選択し報道するという行為を通じて当事者となる。
    そして世論に対するその影響力は極めて大きい。というよりも世論そのものを形成するだけの力を持っている。

    起こった出来事を的確に要約して迅速に伝えてハイおしまいですますことはもうできない。上の言葉をもじって言えば

    マスコミは潮目を読んだつもりで行動して(行動することで)、自らひとつの潮目に加担し、それを後押ししているということに自覚的であるべきだということである。

    なんてこんなこと購読料を払ってもいない非定期購読者が言ってもナンですね。申し訳ない。

    でも、本当にマスコミには自らの影響力の大きさに自覚的であって欲しいとは強く思います。

    こども=チンピラ説 

    • 2006年11月6日
    • キーワードタグ: 教育

    規範・節度・倫理観・・・。

    麗しい言葉だと思います。
    厭味や皮肉でなく、私はこういうの好きなんです。

    た・だ・し
    それを他人から強制されるのは大嫌い。
    逆にそれを他人に強制するのも大嫌い。
    基本的には。(例外あり。信頼する師匠・友人等々の忠告は有難く拝受する)

    自分自身は節度を持った人間でありたい。そのために自分自身に義務や忍耐を課すことにやぶさかでない。
    しかしながら、他人から「それはあんたの義務でしょ」「あんたのせいでしょ」と言われたならば、必ずしも心穏やかでおれるほど出来た人間では(まだまだ)ない。
    と同時に、自分が大した人間だとは思わないので、他人様に「あ~だこ~だ」言うようなことは可能な限り避けたい。言わない。

    相手が(呆れて)反論して来ないのをよいことに調子づくような「おめでたい」人間にはなりたくないしお近づきにもなりたくないけれど、なかなかそうもいかないことはある。悲しいことに。

    ここ数年、しきりに目につくようになってきた。
    「恐るべき子ども」が世間的に認知されてしまったのか?と思わざるを得ないような出来事が頻繁に目につく。

    内田樹のブログでまたもや発見。

    子どもは「ペナルティがある」と思う行動は慎重に回避し、「エクスキュースが効く」と思う行動は図に乗ってやる。

    「親が悪い」「社会が悪い」「学校が悪い」という他罰的な説明に対して、にこやかに耳を傾けてくれて、その告発の理路を支持するような言動をする人間が一定数いれば、子どもは必ずこのチープでシンプルな「物語」にとびつく。

    2003年11月19日付

    世間の出来事を見渡せば、ここでいわれる「子ども」をいろんな言葉に読みかえることが出来るように思う。

    ”子ども”も”大人”も関係ない。

    「正義漢を気取って張り切っているその勇ましい言動で、その実ちっとも前向きなところがなくて他人の揚げ足取りに終始するチンピラ君たちを調子づかせるようなことばかりやってるのが今の○○○○じゃないのか!?」と思うこともある今日この頃・・・。

    いや、べつにいいんですよ。それがオシゴト(ドウラク)なのでしょうから。
    ただ、私もまだまだこの世に未練があるものですから、時々愚痴りたくなるだけです。どうぞお気になさらず・・・。

    しかし、どちらがより罪が重いのか・・・。
    チープでシンプルな物語にとびつく子どもの方か?
    それともチープ&シンプルな物語を作ったり支持したりする大人の方か?

    ・・・・・・・

    そりゃま、やっぱりどちらかといえば大人でしょうかね。やはり。

    いっけん物わかりのよさそうな”大人”が一番信用できないことを子どもはよく知っており、また、それを知りつつ利用するのが”子ども”でしょう。

    自分自身が正義の味方であると信じて疑わない人間ほど始末に負えないものはない(もちろん真の正義の味方なら大歓迎ですが)。そう云う意味でもやはり”大人”の方が罪が深い、かな。

    嗚呼

    なんだかチンピラの影が薄かったような・・・
    ま、「まっとうに話が通じない」が「悪知恵だけ働いて」「すぐ調子づく」子どものような大人ということで。

    馬鹿につける薬はなし

    なにはともあれ前向きに日々を楽しむしかないか。

    愚痴になってしまったなぁ・・・

    憲法記念日改め文化の日

    • 2006年11月3日
    • キーワードタグ: 政治

    今日は憲法記念日 文化の日。60年前の今日、日本国憲法が公布されたんですね。(「憲法、憲法」と思いつつ書いていたら、つい”憲法記念日”になってしまいました。帝政もとい訂正。)
    果たして現行憲法の余命はあと何年でしょうね・・・。

    いったん決めたルールは何があっても槍が降っても核ミサイルが落ちてきても変えるべきでない、などとは思いませんけれど。決めても守られない学習指導要領などとは違って、憲法は国法の根幹でしょう?さすがにノリや勢いやらで変更されることはないであろうと一国民は思っておりますがいかがでしょうか。
    「あのときはああ言ったけどさ、事情が変わったんだ」
    そういうことですか?
    「それならそうと最初から言っててくれればよかったのに」
    などというのは引かれ者の小唄、でしょうか。

    こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。
    この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。
    それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
    これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
    主権は日本國民ぜんたいにあるのです。ひとり/\が、べつ/\にもっているのではありません
    みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
    みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。

    文部省著作発行「あたらしい憲法のはなし」(青空文庫)より抜粋

    お国の言うことは状況次第で如何ようにも変わるのだよ、ということを日本国憲法が今度はその死を以て教えてくれることになるのでしょうか。

    附記(2006/11/16)
    「あたらしい憲法のはなし」は1947年発行。慶応大学の浅井清氏らが実質的な執筆者だそうです。発行直後には中学生の社会科教科書として使用されたものの、GHQ・日本政府の保守化に並行して1950年(朝鮮戦争勃発の年)には副読本に格下げされ、51年以降は全く使用されなくなったのだそうです。(参照:ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下巻』)

    今どきはやりのことばでいえば、「占領されてたから仕方なかった」というところでしょう。私がこの記事で言わんとするところが伝わりにくくなるような気もしますが、公平を期して記しておきます。

    眠れぬ夜に

    • 2006年11月1日

    眠れぬ夜に
    宝の山らしきものを
    みつけました

    最近折に触れて読んでいる内田樹氏のブログ「内田樹の研究室」。
    (h)ttp://blog.tatsuru.com/
    かなりの量の過去ログがあって、最近の記事以外はとてもまだ目が通せていませんけれど、今日少しばかりログを読んでみました。これはどうも私にとっては宝の山になりそうです。(別に剽窃してどうこうってわけではないので念の為・・・。)
    以下、2005年02月17日付の「『原因』という物語」より引用。

    私が気になるのは、この「管理責任」の追求をする父親の発言を選択的に報道しているメディアの姿勢である。
    共同通信の記者は何を考えて、この父親たちの発言を報道したのだろう。
    それが事実だから?

    なにがしか事件事故が起こったとき、当事者以外の人間の言うことはほぼ一定してる。はっきり言えば「聞くまでもない」「読む価値もない」と言いたくなるものが殆どである(ひどいときには遺族に向かって「今の心境を」などと尋ねるような鬼畜もいるが、この場合は「聞きたくない」ではなく「聞くに忍びない」である)。しかし、なぜかそれが日常茶飯事であるところが私には理解しがたい。

    内田氏は至極紳士的に次のように書いている。

    おそらく記事を書いた記者はこのような発言に・・・「社会性・批評性がある」と考えたのだろう。

    そしてその後に続けてこう言う。

    批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。
    批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。

    このように静かに、しかし極めて鋭く問いかける。

    何かあればハンニン捜しにやっきになってミゾに落ちた犬をメッタ打ちにするような正義感アフれる人々が『国家の品格』をコワキに抱えて「うつくしいクニを~ッ!」などと絶叫しながらアカ信号の横断歩道をミンナで渡っている光景は、決して「美しい」とは言えないだろう。

    「悪いのは誰だ?」という問いが有効な場面は、人々が信じているよりもはるかに少ない。

    私は・・・「ささやかだけれど大事なこと」をていねいにやってゆくことでしか世の中はよくならないと信じている。
    他者の責任を追求する言葉を「吐き捨て」たり、「腹が立つ」人間だけがいても、世の中は少しも住みやすくならない。

    メディアに携わる人々はもう少しそういうことにもご配慮頂いて、「他罰的な語法で語られる原因究明の言説」の批評性について、一度ゆっくり考えて頂きたいと思う。

    生徒や保護者は学校を責め、結果実直な校長は自死し、また教育委員会が責められ文科相が責められついでに野党は首相の責任を追及し、そしてそれらをまとめて今度はマスコミが責める。真摯に自らの落ち度を認めでもしようものなら「それみろ!」とばかりに一層責められることは必定。
    まさしく「他罰的」と言わずして何と云おうか。

    現に公開されているブログの記事から引用するのは非礼であろうと思いつつも、

    「ほめ批評」は「なぜ私はこの人をかくも尊敬するのであろうか?」「この人のどこが私の琴線に触れるのだろうか?」という私自身への向けての問いかけをつきつめるものだ

    という内田樹の言葉を援用させてもらいつつご容赦いただければと思います。
    暇をみつつ過去ログを熟読させて貰うつもりでいます。

    追記
    下に、別のエントリにコメントを頂いたDr.watermanのブログより引用させてもらいます。

    生身の人間は生身の人間として扱う心が欲しい。人を殺すほどの主義主張とか、社会の木鐸と嘯くジャーナリズムがあっていいのだろうか。

    今日は暴言 ~ある論説記事への怒り

    • 2006年10月29日
    • キーワードタグ: 教育

    今朝、ネットで必修科目未履修問題について眺めて回っていたところ、怒髪天を衝くような論説記事「必修科目の未履修 根本的なひずみ正せ」(園田寛)を目にしてこの記事を書くことにしました。

    佐賀新聞の論説記事は時々目を通しています。いつもはわりと納得できる記事が多いのですが、この記事に限っては呆れ果てました・・・。根本的なひずみを正せ、という点では同感。しかし、何が根本的な歪みなのかという点では私の意見は異なります。
    以下、私なりの感想を述べます。

    限られた授業時数のなかで(地理歴史科に限って言えば)世界史が必修化されていることから歪みが生じている、ということならばその点は如何にもその通りかもしれない。しかしながら、それは世界史という”科目”に問題があるわけではない。限られた時間、大学入試合格を至上目的とする生徒・保護者の強い意向などの諸条件のなかで如何に教育目的を達成するか。そこにこそ、一方では指導要領というルールの遵守を求められ、また一方で進学実績をあげることを強く求められる高校教育(とくに、いわゆる進学校といわれる高校)の苦しい実情があるのではないか。

    私は、今回取り沙汰されている問題の焦点は結局のところ、進学実績を追い求める余りついには指導要領というルールまでも踏み外してしまったというところにあると考える。高校教育が、指導要領という全国共通のルール、全国共通の土俵の中で行われているはずであったにもかかわらず、一部の(大部分の?)進学校で「ズル」が行われていたという実態は、ルールを破った者が責められはしても、ルールそのものの当否は全く別の次元に存する。インサイダー取引を規制するルールがあるにもかかわらず、投資実績を上げるという至上命題ためにルールを無視してインサイダー取引を行う者が出た場合に非難されるのは誰か。もちろんルールを破った者である。決してルールを設定した者ではなく、またルールそのものが非難されるものでもない(もちろん、あるルールの存在が、そのルール自体の妥当性を担保しないのは言うまでもない)。どれほど結果を出すことを強く求められているにせよ、土俵からこっそり抜け出すような「ズル」が正当化される謂われはない。現在の学習指導要領がベストなものとは思えないにしても、少なくとも未履修問題を考えるにあたっては、ルール破りこそを問題とすべきであり、指導要領を云々することは(原理的に)許されない。ひるがえって、この論説記事は世界史という科目そのもの、さらには教養教育そのものを批判的な視線で捉えている。

    世界史は1989年の指導要領改訂で必修科目になった。理由は「国際化の進展や社会の変化に対応できる資質を養うため」という。しかし、この中央教育審議会の決定が正しかったかどうかも見直す必要がある

    受験生にとって、世界史は暗記範囲が広く、カタカナの地名、人物名も覚えにくい。必修科目にもかかわらず、センター試験の受験生は親しみやすい日本史を多く選択している。また最近は「世界の歴史より、まず自分の国の歴史を知るべきだ」との声も強くなっているからだ。

    なにをか言わんや、である。

    よくもこのような痴れ言を掲載したものである。よくよく考えてみれば、新聞を含めマスコミなぞは「まず結論ありき」であるから、見せかけ上の結論を正当化できるような材料を集めてきて事後的にくっつけるのは日常茶飯であるけれど。
    もしこの論と同じ土俵に立ってものをいうとすればこうなる、

    「日本史は暗記範囲が深く、難しい漢字は読みにくく、人物名や地名も当用漢字表をはるかに逸脱した難解なものである。「自分の国のことだから既に知っていることが多い」などという浅薄な考えから日本史を選択する不届き者が多い。」

    そこで気付くのは”日本史”だろうが”世界史”だろうが、ケチをつけるのはいくらでもできる。根拠を列挙することで一見して客観的・合理的であるかに装いながら、その実、恣意的に世界史を貶めているだけにすぎない。

    そもそも歴史を学ぶ効用の大なるものは「自らを相対化できる」というところにある。太平洋戦争で日本が負けたことはおろか、アメリカと戦ったことすら知らない若年者が珍しくない昨今、日本人に誇りと自尊心があるのと同様に他国の人々にもそれと同等の誇りと自尊心とがある、ということを実感できる者が幾人いるだろうか。ただでさえ近視眼的なわれわれ日本人が、さらに内向きの世間知らずを称揚しだしては目も当てられない。
    「おれはそんな近か眼ではない」なぞとは誰にも言わせない。少なくとも彼が日本人を自称するならば。合理的に考えれば勝ち目の無い無謀な戦争に自らを投じたのはまぎれもないわれわれ日本人であったのだから。

    私たち日本人のほとんどは既に戦争を知らない。私たちが知っているのは写真であり書物に書かれたものでありテレビであり映画であるに過ぎない。周知の通り当時の日本ではカラー映像はほぼ皆無であった。カラーフィルムは私の知る限りでは既に1930年代には存在した。しかし戦前の日本についての映像のほぼ100パーセントがモノクロのものだ。しかし当然のことながら実際の世界は当時の日本も天然色・総カラーであったのは言うまでもない。100年前も1万年前も世界は全て天然色の世界であった。しかし、書物やモノクロ白黒の映像でしか当時の(戦前の)日本を知らないわれわれのうち、いかほどの人が実感をもって切実に感じているだろうか—-当時の人々も今の我々と同様、自分が時代の先端を生きていると感じ、また国の進路を選択する余地を持っており、日々生活し恋をし苦悩し人生を楽しんでいたかということを。今を生きる我々は、はたして昔の日本がすべてがモノクロの世界であったと無意識のうちに思い込んでいないと言いきれるのか。目先の得失に目を奪われて自らを破滅の淵に持っていった当時の日本はすなわち今の日本である。

    大学に入ること、役に立つことを目先の利益とするならば、学校でまず教えられるべきは目先の利益に惑わされてもっと大切な何かを失うことのないようにすることである。

    大人に必要な教養の習得は、大部分が義務教育の中学で終了している。専門的な数式や化学式はだれもが理解する必要はない。専門分野を目指す者が勉強すればいい。むしろ、音楽、美術、書道や体育など芸術系、体育系は、大人になって役立つことが多い。

    おいおい、ちょっと待ちたまえ。義務教育で十分だと思う者は進学する必要はない。そういう者にとっては高校進学も大学進学も金と時間と労力の無駄である。大学進学を目的とするなら高校は不要である。すべて予備校とすればよい。もちろん学費は全額自己負担である。当然のことである。「大学に行きたいから高校に行く」、そのような者どもに貴重な税金を投入することは「国益」に反する。

    極めつけはこの一文。

    ルールが現実に即していないなら、ルールを見直すことも必要だろう。

    社会の木鐸たる、しかも伝統ある新聞社がうかつな事を口にするものではない。
    現状にそぐわないルールを改めることはアリであろう。ルールをより現実的(実効的)なものにすることは必要なことだろう。しかしながら、「現状にそぐわないから改める」というのと、「ルールをより実効的なものにするための改変」との間には大きな隔たりがあると私は思う。単なる現状追認的なルール改変ほど危険きわまりない所業はない。

    理想(理念)と、それを実現しようとする実践的な意志を欠いた”ルール”は、悪(不都合)を正当化する 「談合」 にすぎない。

    以上

    今日は日曜日で時間に余裕があったのでちょっとキバって書いてみました。言論人にこそ歴史を踏まえた、より冷徹な視線を期待したい昨今です。期待してますよ。

    おすすめ記事:内田樹の研究室「教育破壊はどこまで続くのか」

    http://blog.tatsuru.com/archives/001970.php

    (2007/04/06改稿)

    日本史必修化への布石?

    • 2006年10月27日

    高等学校での必修科目未履修問題が世間を騒がせているようです。
    なぜにいまさらこんなことが騒がれるようになったのか・・・。
    もちろん、ルールに反している点は釈明の余地はないでしょう。

    しかしながら、表向きの時間割の裏で闇授業をやることは昔から(少なくとも数十年前から)行われていたように記憶します。(具体的データはありませんし、今のところ調べるつもりもありませんが、「私の高校時代も(世界史ではありませんが)そうだった」という実体験はありますし、そうした話は友人等に聞いても珍しくもなんともないことでした。)
    なぜ、今なのか。

    そこでひとつ気になる発言があります。

    野田佳彦氏(民主)の「日本史必修化するべきだ」との指摘に対して10月20日の衆院文部科学委員会で伊吹文明文部科学相が次のように答えています。

    「日本の伝統や社会が建設された過程をマスターすべきだ」

    つまり日本史の必修化に言及しています。しかし世界史が必修化されたのはそう昔のことではありません。なのに今度は日本史も必修化?と私は不審に思ったことでした。

      追記)東京都教委も9/28に文科省宛て日本史必修化の要望書を出していました。(東京都報道発表資料)
        

    ただでさえ「ゆとり教育の弊害」「授業時間数不足」が言われる状況の中で、世界史も日本史も共に必修科目とすることは現実的ではないようにおもわれます。とすると、歴史と伝統・美しい日本を目指す昨今の情勢からして、「世界史なぞよりもまずは自国の歴史をしっかり勉強すべきだ」という主張が力を持っても不思議なことではないでしょう。

    そこで本題

    必修科目である世界史の未履修問題の発端は10/24の北日本新聞記事が発端であったように記憶します。

    北日本新聞。同新聞の所在地を調べてみると富山県富山市安住町2-14。

    富山県と言えば長勢甚遠(ながせ甚遠)法務大臣が富山1区選出。したがって富山市はずばりお膝元です。小泉内閣の官房副長官、安倍内閣成立で法務大臣に就任。所属派閥は町村派(旧森派)。いわゆるタカ派と言ってさしつかえないようです。関係する議員団体を調べるとつぎのようなものが。
    ・自民党歴史・検討委員会
    ・日本会議国会議員懇談会
    ・日本の前途と歴史教育を考える議員の会
    ・神道政治連盟国会議員懇談会
    ・憲法調査推進議員連盟(超党派の改憲議連)
    等々
    参照:子供と教科書全国ネット21より「小泉第3次改造内閣の超タカ派の大臣たち」

    ざっと眺めても「美しい日本」を体現する議員であろうということがはっきりと見えてくるように感じます。

    この未履修問題はその北日本新聞の記事で火がついた後、その日のうちに読売毎日も追随し、さらに北日本新聞はその後も(翌日以降)立て続けに続報を出しています。それまで公然の秘密であった未履修問題がわずか数日のうちに全国で問題化するという、ある意味で快挙。

    そこで次のように考えることはあながち絵空事とは言えないのではないでしょうか。安倍首相の唱える”うつくしい日本”政策を実現するために、一閣僚が地元新聞社を起点としてマスコミを利用して日本史必修化への布石を図った。

    「そんな阿呆な・・・」

    そうかもしれません。ただ、ことを地理歴史科に限れば生徒の人気は(某新聞によると)日本史・地理に集まっていて世界史はダントツ不人気だそうです。

    「受験科目だけ勉強した~い!」
    「受験に関係ない科目を勉強する必要がどこにある!?」

    などという生徒の声も相まって、日本史必修化・世界史外しが現実化していくのかなという気がしています。

    くわばらくわばら

    もし私の推測か事実から大して逸れていないとすれば、いかにも姑息な気の滅入るお話です・・・。

    追伸
    いまさら高校卒業資格剥奪なんて御免ですよ~。

    教育における歴史と伝統

    • 2006年10月23日

    わが国の美しい歴史と伝統をあらためて認識すべし、という言葉を耳にすることの多い昨今です。

    ところで、それに類する発言などを耳にするときに、各人がおぼろげに持っているに過ぎない過去への憧憬をもとにして”歴史と伝統”の復活(?)をうたっているようにしか思えないことが多いのは私のような偏屈人だけでしょうか・・・。

    少し前に古典素読の復活を!などという話も出て来たように記憶しますが、それに関して面白い文章を読みました。

    或人たちは反対していわれるでしょう。文章語は単純なる意志表示の手段ではなく、それには日本国民の貴重なる伝統的精神が含まれている。文章語の廃絶はやがて国民性の廃絶であると。恐らくこれは保守主義者の拠って以て自ら守る有力な反対理由であろうと思います。

    ここでいう「文章語」とは、すでに生活の中では使われることのなくなった文体という意味では”古典”と読みかえても差支えないかと思います。
    ちなみにこの箇所は、普通教育においては文語体よりも口語体を重視すべし、との文脈で語られています。

    さらに、

    しかし私は、手段たる言語に依って国民の精神が左右されるものとは考えません。その貴重な伝統的精神は現代人の言語であるところの口語に新訳することが出来ます。現に私たちは和漢の古文を読んだり、その講義を聴いたりする時、もとの古文のままでは受用していず、それを一々現代の言語に意訳して理解しています。日本人の古代精神がすべて『古事記』や『万葉集』の言語に依るのでなければ理解が出来ないというものでない限り、今日にもなお必要だと思う古代精神は、それを自由に現代の口語に新訳して教育すれば好いのです。古文を教えないという事は決して古代精神を教えないという事にはなりません。また古文の教育は大学その他の高等教育機関において特別に施しさえすれば決して反対論者の杞憂のように廃絶するものでないと思います。

    果たしてこの一文を書いたのは当時の進歩主義者か?文学や古典の価値を解しない石部金吉か?と思いきや、
    与謝野晶子。

    それこそ日本人ならば知らぬ者とてない詩人です。
    題は「教育の民主主義化を要求す」。

    彼女はこの一文の冒頭でこうも言います。

    現在の教育は文部大臣と、それに属する官僚的教育者とに由って支配されている教育です。・・・私は・・・我国の教育制度を各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任し、これまでの官僚的画一制度を破ると共に、普通高等一切の教育を国民自治の中に発達させて行きたいと思います。
    (太字強調は引用者による)

    この文章が書かれたのは1919年。今の私たちから見れば既に”歴史と伝統”の一部分といってよい時代でしょう。今時語られている”歴史と伝統”に含まれるかどうかは定かではありませんけれど。

    歴史と伝統を軽視することは論外としても、ただただそれを美化し讃美することもまた奇妙なことのように思えます。
    漠然としたイメージでしか語られない、各人に都合の良い部分だけを抜き出してきたような”歴史と伝統”についつい懐疑の目を向けたくなる私にとっては興味深い一文でした。

    出典:日本語テキストイニシアチブ

    イーホームズ社長による告発

    • 2006年10月22日

    「きっこの日記」で公開されている、イーホームズ藤田社長の動静。

    藤田社長が首相官邸に赴き安倍首相に面会を求めたが拒否され、マスコミではそのことが半ば黙殺もしくは情報操作されているとのこと。

    耐震強度偽装問題については不勉強で大したことは知らないのですが、マスコミ報道のあり方・現状はどのようなものなのか、という観点かこの件をウォッチしていくつもりです。

    ”事実を伝える”はずの報道機関が本当に”事実”を伝えているのか・・・。

    通常、報道内容からは当事者自身の生の姿は殆ど全く見えてきませんが、この件に関しては一方当事者の藤田社長の主張が「きっこの日記」で公開されていますので、なにか実態が見えてくるかも知れないと思っています。

    もし、広く伝えられるて然るべきニュースが検証されることもなく隠匿・改竄され、その埋め草としてつまらない出来事ばかりが言挙げされるようになったら、”戦後レジームからの脱却”も半ば果たされたといっていいのかもしれません。

    藤田社長の主張が真っ当なものかも含めて、この件を眺めてみたいと思っています。

    たしかに今回の首相官邸訪問に関しては主要新聞に記事が見あたりません。スポーツ新聞などには出たていたようですが。
    スポーツ報知
    goo news

    ネット検索した限りでは(今のところ)ニュース記事が僅かしかヒットしないところをみると、確かにマスコミが黙殺しているというのは事実なのでしょう(ネット上の情報の有無だけで事を語るのは穏当でないでしょうけれど)。

    「ニュースバリューがない」ということ?少なくとも、警察官がFAX誤送信したことよりは価値があるのでは!?

    いまどきの一厘事件ですら主要新聞にしばしば掲載されるご時世ですし、この藤田社長の件こそ載せてみてもよさそうですが・・・・。相手が権力者だと腰が引けるのはやむなし、でしょうか。それとも密かに裏付け取材の真っ最中につき敢えて掲載しなかったのか・・・。

    こうしてみるとegawa shoko journal の指摘はもっともだという気がします。
    「フェアではない」

    http://www.egawashoko.com/c006/000197.html

    藤田氏への非難は、誰も被害者のいない見せ金増資への批判として、適切なものなのだろうか。

    権力を監視する役割を果たすべきメディアとしては、行政の処分や捜査のあり方、なによりもこんな偽装を許した国の責任を厳しくチェックをしなければならないのではないか。

    自らは安全な場所に身を置き、水に落ちた(落とされた?)犬を叩く姿は見苦しい。

    (紹介)「学校のことは忘れて欲しい」

    • 2006年10月21日
    • キーワードタグ: 教育

    いじめに関して、とても腑に落ちるというか納得できる記事を読みました。

    「内田樹の研究室」より
    学校のことは忘れて欲しい

    http://blog.tatsuru.com/archives/001961.php

    「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
    当たり前のことである。
    「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。

     注)お友達の「平川くん」の書いたものを引用されています。
       多分こちら。「カフェ・ヒラカワの店主軽薄」

    引用させて貰った部分も含めて、まったく同感です。

    私が紹介するまでもなくたくさんの読者がついているブログのはずですが、僭越とは思いつつ念のため紹介させてもらいます。

    『エンデ全集8 鏡のなかの鏡』

    • 2006年10月19日

    悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖でないのと同じである

    『エンデ全集8』解説より孫引き(ミヒャエル・エンデ「悪の像」『エンデのメモ箱』)

    福岡県筑前町のいじめ自殺事件で、全校生徒に謝罪した校長先生。
    「先生たちが手を抜いていた」「(彼に)プレッシャーを与えた」
    しかもなぜ生徒達に謝罪するの?

    「生徒達の心のケアを」
    「彼を忘れない」
    「頑張りましょう」

    この言葉自体は決して悪くない言葉です。
    今回の件で露わになったのは、綺麗事をならべる一方で生の人間即ち教師と生徒一人一人とが真剣に向き合っていない学校での日常、さらには一人の生徒の心のケアすら出来ず、やろうともしていなかった現実。

    「いじめは悪だ」
    「いじめをやめよう」
    「勉強しよう」
    「努力しよう」
    「感謝しよう」
    「正直であれ」
    「誠実であれ」
    ・・・・。

    そうした言葉は吐き出したそばから空っぽになってしまった。
    「きみのことを思って」
    「おまえのために」
    「社会はそんなに甘くないぞ」
    ・・・・。

    言葉だけで教育が出来るのならば、学校なんて必要ないでしょう。カセットテープでもCDでもネットでもいいんじゃないですか。
    愛情と媚は大違い。
    指導といじめは大違い。
    全校生徒の前に教員全員立たせて「ごめんなさい」なんて・・・。ある種の媚に過ぎない。そうした機微すら感じ取れない人が”教師”として人を教え導けるとは思えない。少なくとも私が生徒なら嘔吐しかねない。

    「黙っていても見るところはちゃんと見てるぞ」
    浮ついた言葉を並べるよりもそうした態度や行動の方が幾層倍も強く生徒に思いが伝わることもあるのではないか。
    もし彼にそうした気持ちが伝わっていれば彼も救われたかもしれない。もちろんそうした不器用なやり方はひょっとすると周囲やマスコミの反感・誤解を招くかも知れない。けれども「周囲の人々からどう見られるか」よりも「目の前の一人の生徒への思い」「目の前の一人の人間に伝えたいもの」を第一義に考えることこそ”生徒のため”になるのでは。口に出してしまえば空疎になってしまう言葉、敢えて口にしないからこそ伝わる真意というのもあるのではないだろうか。

    この期に及んでも生徒の方に目が向かない、目を向けているポーズを取っているだけにしか見えない教師の姿には言葉を失うしかない。もっとも、世の多くの先生方は日々真剣に生徒と向き合っているはず。そのことは銘記しておきたいけれど。

    ついでに、いじめたガキどもはどこへ消えた?
    人権尊重?
    被害者の一人のフリして人権尊重の言葉の向うに雲隠れ?

    はたして誰が被害者で誰が加害者だったのか。
    いじめたのが事実ならばいじめた加害者たちの実名こそ公表に価する。被害者の名ではなく。
    そんなことを考えました。

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    関連記事~職質追跡でPTSDと国賠請求

    • 2006年10月19日

    関連記事の紹介です。

    落合先生のブログと同様、こちらも私がよく読ませてもらっている「元検弁護士のつぶやき」からです。
    「ほんまに職質かいな?」

     私が地元住民なら徹底した調査の上、納得できる説明をしてもらわないと安心できません。

    同感です。
    結構たくさんのコメントがついていて(なかには現職警察官らしき方もあり)、これがまた参考になります。
    一部引用させてもらいますと、

    自転車盗でも刑法犯には違いないですから、特に事件の少ない駐在所では検挙のために躍起になってしまうのかもしれません。
    当然検挙件数が少なければ、叱責を受けますし、下手をすれば実績低調で分限処分の対象となってしまいますから、必死にもなります。

    どこの世界も”数値目標”達成に追われているのですね。
    虚偽の自白を強要したくなるのも納得・・・です。

    検事が自白を迫り妻に圧力 その2

    • 2006年10月18日

    昨夜書いた、検事による自白強要について関連記事をチラとだけ探してみました。

    東京新聞 
    読売新聞 

    「弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」」でもこの件が取り上げられていましたので読んでみました。

    実務を知る人の見方はとても参考になりました。

    昨日のエントリは出だしでつまづいているのでちょと寝覚めが悪いです・・・。

    しかも2年近くも前に無罪が確定していることをまるで考慮に入れずに書いてしまっています。
    おそらく報道もこれっきりかと思います。

    しかし私自身の見解とともに落合先生の見解も考え合わせれば、今も近親者を通じた自白圧力は水面下では当然のようになされていることだけは間違いないでしょう、検察でも警察でも。

    この件は、検察・警察が普段当り前のようにやっていることが、時と場所や無罪判決等々の偶然の事情から表面化しただけだと私は思っています。

    「平気で嘘をつくであろう”犯罪者”」と対抗するには必要悪、だという気はしなくもありませんけれど・・・。

    昨日のエントリで書いた私自身の所見は変わりませんが、自身の迂闊さを反省しつつこの件についてはひとまずお終いとします。

    検事が自白を迫り妻に圧力

    • 2006年10月18日

    「自白迫り妻に圧力、国に損害賠償命令」(高知新聞)

    日本全国どこでもこんなことやってるんでしょう・・・ね。
    また、検察がやってるのなら警察が同様のことをやっていない、やるはずがないと考えるのはあまりにも間が抜けていましょうか。
    表沙汰にさえならなければなんでもあり、なんでしょうか。もしそうならアウトローたちと何が違う?
    建前と実情の乖離は世の常とはいえ、絶望感すら感じます。
    極めて例外的なケースだと思いたいところですが、「ゴキブリ1匹見つけたら・・・」ともいいますから。

    仮にこの一件がマクロで見ればレアケースだとしても、当事者にとっては人生における一大事だということに思い至れば、この件のような逸脱が極めて重大な”事件”だということに誰しも慄然とするのではないでしょうか。「既に無罪が確定してるんだしOKさ」では済まないと思うのは私だけでしょうか。(無罪判決を得た後だったからこそ偶々こうして浮かび上がってきたのでしょうが。)
    一般論として、建前だけで捜査が出来るわけがないだろうな、とは私も思います。
    しかしながら、ある種の危惧を感じるのもまた事実です。

    対岸の火事だと思って見ているうちに足下に火がついても、誰も助けてくれる者はいません。杞憂であって欲しいと思いますが、”戦前レジーム”復活の予兆を見る思いがします(ちょっと大袈裟な気もしますが実感です)。
    そもそも最高法規であるはずの憲法ですら解釈でどうにでも空文化できる日本ですから、その他法律が空文化していてもおかしな話ではない、それどころか必然なのでしょうけれど。
    戦力不保持と定められていながら、自衛隊は「戦力」とはみなさない日本。どうも核兵器すら「戦力」には当たらなさそうですし。まぁ、たしかに「戦力不保持」とは書かれていても「自衛隊不保持」「核不保持」とは書かれていないですもんね、憲法には。

    こう言ってしまうと矛盾だと取られるかもしれませんが、私自身は以前から、自衛戦力としての自衛隊の法的位置づけを明確にすべきではないかとずっと考えてきました。
    しかしながら、今のような”無理を通せば道理が引っ込む”を地で行く社会情勢を見るにつけ、あまりにも時期尚早、今がもっとも危険な時期だという思いがしてなりません。
    「このまま行くと、こうして好き放題に思うさま書きつづることが出来るのもあと何年だろう?」と、ちょっと本気で考えてしまう昨今です。
    さしあたりこの件がどの程度マスコミに取り上げられていくのか、世間の片隅から注視しています。

    注)
    一通り書いたあとに気付いたのですが、この一件は公判中の出来事でした。うかつにも読み落としていました。

    この記事、捜査段階で家族に圧力をかけたという前提で書いています。
    公判中にやっているくらいだから、それ以前の段階なら勿論やってるだろうという、やっただろうという予断と偏見と推測(?)のもとに書いていることをお断りしておきます。

    一旦削除することも考えましたが、大筋で違いは少ないと考えてひとまず残しておきます。
    ご批判等ありましたらコメントでお願いします。
    申し訳ありません。

    北朝鮮の核実験実施を確認!?

    • 2006年10月17日

    アメリカ政府が北朝鮮による核実験実施を確認した、とのことです。(時事通信)

    一方、ロイター通信はIAEA幹部の

    北朝鮮での地下爆発が核実験だったか否かは分からない、との見方を示し・・・
    IAEA査察団が再び北朝鮮入りして調査することが、事実確認の唯一の手段だと話した。

    という発言を伝えています。

    どちらも16日のことで先後関係は不明です(報道自体は前者が新しいですが)。
    ただ、IAEAが現地査察だけが唯一の確認手段だと考えている以上は、アメリカ発の情報によって現時点での実施の有無に関する見解を変化させることはない言えます。

    さっさと「あった」というアメリカ、より慎重なIAEA。

    これってイラク戦争の時とまるでダブってきます。
    そして結局大量破壊兵器は存在しなかった。

    「ごめ~ん!あると思ってやっちゃったんだけどさ。無いとは思わなかったよ~」
    (アメリカが「ごめ~ん」とすら思ってないのは間違いないでしょうけど。)

    やったもの勝ちの世の中ですね。

    チョムスキー・辺見対談

    • 2006年10月17日
    • キーワードタグ: 政治

    以前書いた辺見庸とチョムスキーの対談日本語訳を見つけました。
    (但し原文と対照して訳文を確認することはしていませんので念のため。)

    9・11テロ直後のアメリカにおいて、反テロ一色に染まったマスメディア。辺見庸は再三その事に関するチョムスキーのコメントを引き出そうと試みていますが、チョムスキーはその問いにストレートに答えることはせず、アメリカにおいてはあくまでも言論の自由は保たれている、と強調します。

    批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こりうる、という現実に不慣れな人は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てて言うこと自体、「不面目」なことです。

    しかしながら彼は、現在のアメリカが真に”自由な国”だとは考えていないようです。
    (ブッシュ大統領の「悪の枢軸発言」に関して)

    富裕層対象の減税や軍事費の膨張は必然の結果をもたらしています。例えば、一般の人びとに対する社会政策費は削られている。これは、すでに限られたものでしかない社会援助をされに痛めつける攻撃です。こうまで痛めつけられては、政策を維持することができないでしょう。そういう事実から、国民の目をそらしたい。
    ・・・・・・
    また政府は、今日の石油会社を利するためなら、明日の子供達が生きる環境を破壊してもまったく平気だという事実に、国民の注目を集めないようにしたい。

    そしてそうした為政者たちの目論見は成功していると考えているようです。

    この国(アメリカ)には言論統制はない。しかし、情報が表に出てこないということです。ただし、これは選択の結果です。統制ではありません。

    ここで彼が言う「選択」の主体は誰か。それはマスメディアであり情報消費者すなわち一般市民だということです。
    この点、アメリカに限った話ではないようです。日本にも挙げれば切りのないくらい多くのタブーがあるのではないかと思うのは私だけではないと思うのです。

    日本の保守政治家が「わが意を得たり」と言いそうなことも言っています。

    負けた国だけが「悪いことをした」と言わされる。第二次世界大戦後の東京裁判が行われたのは、日本が負けたからです。ワシントン裁判などというものは開かれませんでした。毒ガスを使ったチャーチルに対する戦争裁判もありませんでした。敗れたときにだけ、自らの罪を見つめる。そのように仕向けられるのです。

    ただし、この後に彼は昭和天皇の戦争責任を強く肯定している点だけは「いただけない」ということになりそうですが。

    一体9・11テロは何だったのか。これについては

    9月11日のことで人びとが何よりショックを受けたのは……あの行為は大変に残虐でした。しかし衝撃的なことはあれだけではない。残虐非道な行為はほかにもたくさんあります。ただ西側で起こったのはあれが初めてというだけのことです。世界の他の人びとに対して、我々がやってきたことなのです。他の人びとはこれまで、我々にあんなことをしなかった。だからショックだったのです。

    と述べています。

    日本の戦後についても彼は明快に断罪します。

    日本はこれまでもアメリカ軍国主義に全面的に協力してきました。戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担したことによっています。朝鮮戦争までは、日本の経済は回復しませんでした。朝鮮に対するアメリカの戦争で、日本は供給国になった。それが日本の経済に大いに活を入れたのです。ヴェトナム戦争もまたしかり。アメリカ兵の遺体を収容する袋から武器まで、日本はありとあらゆるものを製造して提供した。そしてインドシナ半島の破壊行為に加担することで国を肥やしていったのです。そして沖縄は相変わらず、米軍の一大軍事基地のままです。50年間、アメリカのアジア地域における戦争に、全面的に関わってきたのです。日本の経済発展の多くは、まず、その上に積み上げられたのです。

     
    少なくとも日本の一部政治家の継ぎ接ぎだらけの言説よりも明快で分かり易いのは確かです。

    最後に彼は言います。

    他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」と言っているのは簡単です。日本の人たちが今しなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。

    これなどは、私たちの身近な出来事に関しても通じるものがありそうです。
    いじめを断罪するのはたやすい。
    いじめを助長した教師を吊し上げるのもわけない。
    しかし、同様のことが自分の身の回りにもありはしないか。

    いじめっこの犯罪に目をつけるのはたやすい。PCの前にいて「教師はなんてひどいことをするんだ」と言っているのは簡単です。その人たちが今しなければならないのは、自分の職場や教室を見ること、自分の内面をを覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。

    いまさら私ごときが紹介するまでもない”戦う知識人”ですが、覚書を兼ねて書いてみました。

    チョムスキー自身のサイトは

    http://www.chomsky.info/

    学校は社会の縮図か

    • 2006年10月16日

    福岡で起こったいじめによる中学生自殺の記事を読みました。級友らから罵られた上に教師からも嘲りを受けていた少年が学校の中で孤立感を深めていったであろうことは想像に難くありません。前年度の担任教師に不適切な(言語道断な)言動があったということですが、ほかの先生方は何一つ気付かなかったのかどうか気になります。

    しかし、「からかいやすかったから・・・」というのはあまりと言えばあまりの話です。そもそも保護者から受けた相談事を、当人どころか級友達の前で暴露したのはどういうわけだったんでしょうか。当人にしてみればそれをネタに級友らからいじめられるようなことがもし仮に無かったとしても、教師や学校に対する信頼感は完全に失われてしまったのではないかという気がします。暴露された時点で既に。教師はそこで二重三重の過ちを犯してしまったように思います。

    1. 保護者からの相談があったことを本人に知らせたこと
    2. 同じく級友に知らせたこと
    3. それをからかいのタネにしたこと

    特に後者二つは無条件に×だと私は思います。1についても、そうした対応が必要とされるのは極めて例外的な場合に限られるような気がします。

    教師(権威者)が自らの言動をつうじてある人間に対するいじめを承認する。そして生徒(その他大勢)の一部は積極的にいじめを実行する、また一部はわれ関せずを決め込む(ちょっと乱暴な言いざまかもしれませんが)。そこにはもう教育なぞというものは欠片も存在していません。また、教師をマスコミと読みかえ、生徒を世論と読みかえれば、われわれ社会の状況を表しています。「弱い者は叩け、ドブに落ちた犬は打て」。もしこれが実態ならば、まさに悪しき意味での社会の縮図だという気がしてなりません。「からかいやすかった」というのはまさに本音だったのでしょう。そして今度はこの教師がマスコミや世間から「からかいやすい」ドブに落ちた犬のような扱いを受けることになるのでしょう。因果応報といえばそれまでですが。

    最後に

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061015-00000056-mai-soci

    ここで記事の末尾に次のようにあります。

     自殺した男子生徒と仲が良かったという生徒の母親は「1年ごとに担任は変わるし、担任はきちんと一人一人の生徒を見てくれていたのだろうか……。今、子供はとても傷ついている。学校は今わかっていることを説明してほしい」と不安そうな表情で語った。

    これを書いた記者は読者に何を伝えんとしているのでしょうか。
    「子供はとても傷ついている」
    もしかしたら子供こそが犠牲者だと言いたいのかもしれませんが、この記事の文脈でそういうことを書いても余計な予断や勘違いを生む危険性のほうが高いというか、読者を誘導しようとしている気配を感じます。
    この保護者がそう云う意味のことを言ったというのは”事実”なのでしょうが、脈絡から外れた”事実”だと私は感じます。敢えて書いたのはどういう意図からでしょうか。
    もちろん私の新聞じゃありませんし、書くのは自由ですが。毎日の記事には違和感感じることが多いです。そういう方針で書いてるんだと思って読めば何と言うこともないですが。

    尻切れですが、また後で書いてみます。

    職質追跡でPTSDと国賠請求~その4

    • 2006年10月14日

    YAHOOニュース(毎日新聞)
    毎日インタラクティブ

    ”真実は一つ”のはず、ですが、各社それぞれ微妙なニュアンスの違いが読みとれます。「読み手次第でしょ!」と言われたらそれまででしょうけれど。
    暇があったら各社の記事並べて分析してみようかと・・・。なにか面白い結果が出たら改めて書いてみます。

    職質追跡でPTSDと国賠請求~その3

    • 2006年10月14日

    職質追跡でPTSDと国賠請求~その2

    • 2006年10月13日

    日刊スポーツ

    西日本新聞

     →「13日、分った」となっているのに「12日付朝刊」とあるのはなぜだろう?

    読売新聞

    職質追跡でPTSDと国賠請求

    • 2006年10月13日

    「警察の職質追跡で女子中学生がPTSD」(佐賀新聞)

    変質者が珍しくないどころでなく頻発し、「非番の警察官を変質者と勘違い」するのも不思議なこととは思えない昨今ですが。
    「直前に自転車盗難の被害届を受けており、よく似た自転車だったため、中学生に職務質問」した職務熱心な警察官には気の毒な気もします。もしもこの一件で警察官がPTSDになった場合は労災!?でしょうか・・・。

    「中学生の精神に障害を及ぼすことを予見せず、人権侵害の結果を回避しなかったとして」提訴に至ったということです。

    ついでですが、この記事はわりと丁寧に事実をひろって書かれている印象を受けます。

    「事実関係に大きな争いはないが」

    あまり新聞などでは見かけることのないフレーズです。当事者の一方が警察のときだけはマスコミも慎重になるのでしょうか。

    まったくの私見ですが、「訴状によると」云々あたりからは、ありきたりの事件記事であれば字数節約するところだったんじゃないでしょうかね。

    ちょうどPTSDに関する本を読んでいるところだったので目に留まりました。
    ささいといえばささいな一件ですが今後の展開が気になる事件です。

    お気づきかもしれませんが、見出しは故意に変えています。
    「・・・PTSD」で終わるのと「・・・国賠請求」で終わるのとでは若干印象が変わってくるような気がしませんか?

    どちらも事実のみを端的に表現しているわけですが、それでも微妙なニュアンスの差が生まれます。
    新聞の見出しのほうが私の記事のそれよりも幾分中立的な気がしますが、敢えて変形してみました。

    可能な限り中立的であろうとしても、それでも完全に中立的な表現というのは難しいものだということを感じます。文が短ければ短いほど難しそうです。

    事件の不思議

    • 2006年10月6日
    • キーワードタグ: 冤罪

    弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」より
    「検事正の権限」

    http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061006

    これはその類のケースなのでしょうか?
    「脅迫で起訴の助教授に無罪」(産経新聞記事

    真相は知るべくもありませんが。
    昨今、「え、なぜ?」という”事件”が多いような気がするのは単なる思い過ごしでしょうか。

    無秩序な社会は無論困りますが、警察国家も恐ろしい気がします。
    また厳正な(杓子定規に過ぎる)法運用はともすると、正直者が馬鹿を見ることになる一方で暴力団などアウトローの跳梁跋扈を(結果的に)許してしまう危険性があるような気もします。いまのところ根拠といってありませんが。

    抽象的な話になりますが、もしも

    秩序=自我
    反秩序=影(無意識)

    と仮定した場合、(昨日書いた『影の現象学』に従うと)影の過度な抑圧はまた別の無秩序を招来する可能性があるということになります。秩序を維持するための働きかけが新たな無秩序を創造する、という逆説。

    もしかすると、戦争、アウトローの跋扈、ユダヤ人大量虐殺などにはそうした側面があったのでしょうか。

    歴史に学べばなにがしか手がかりが有りそうな気がします。
    (念のためお断りしておきますが、無秩序を肯定しているわけではありません。言わずもがなですが。私自身は断固否定の立場です。)

    そういえば「戦時中は犯罪が急減する」とどこかで読んだことがあります。
    「死」の危険が身近に存在したからだという解釈もあるようですが、集団心理学的な解釈も可能な気がします。それもどこかで読んだかな・・・

    なんだが「気がします」、「思います」の多い文章だなぁ・・・・。

    丸谷才一『文章読本』~敬語細分化その2

    • 2006年10月4日

    先日書いた敬語細分化に関するエントリの続編としてもう少し。

    この一世紀の日本は、伝統の否定をはなはだ大がかりに実験したのである。(中略)型の排撃とは、何のことはない、今出来の粗悪な型で我慢することの謂にほかならなかつた。(中略)口語文が貧弱なのは現代日本文明が劣悪なことの結果である。

    丸谷才一『文章読本』
    近代の日本は西洋技術文明を殖産興業・富国強兵を果たすためにのみ導入したつもりであったにもかかわらず、いつのまにか欧米的な価値観をも無批判に取り入れ始め、第二次大戦の敗戦がそれをさらに加速した。そんな気がします。欧米列強のアジア進出という脅威を面前に控えた危機的状況を考えれば、当時の日本人が性急に外来文明との同化を図ろうとしたことを非難することは酷なことのようにも思えますし、また、敗戦の衝撃が日本人の自信と誇りを叩きのめしたことも疑うに足りません。

    しかしながら、過去の失敗から何一つ学ばないとすれば日本は今後も同じ過ちを繰り返し続けるのではないだろうか。一世紀半の間に日本が犯した過ちとは、自己が犯した過ちの本質を突きつめて考えることをせずに、右から左へ左から右へと文字通り右往左往したところにあったのではないだろうか。そして戦後体制からの脱却を自称しだした現在の日本は、その過ちをさらなる(そして本質的には同じ)過ちで塗り替えようとしているだけではないだろうか。

    昨今、”歴史””伝統”という言葉が今までとは異なった文脈で用いられることが多くなってきたように思います。この本の出版は1979年、丸谷さんは明治維新以後の日本の特質を「型や伝統の否定」と看破しています。

    ほんの数年前まで、”個性の重視”だの”ゆとり教育”だのとあっちでもこっちでもさかんに言われていたような覚えがありますが、最近は”秩序””規範”が決まり文句みたいです。
    どれも正しい。しかしそのどれも完全ではあり得ない。
    というのが私の実感です。

    個人が尊重されると同時に集団内の秩序を維持する、という問題は古くて新しいものなのでしょう。そしてこの問題は”こうすればこうなる”式の単純素朴なものではないはずです。
    (ん~、あやふやな考えを文章にすることが面倒になってきました)
    最後に引用。

    口語文の未熟はたしかにわれわれの生き方の反映にちがひないが、しかし、口語文を成熟させることはわれわれの生き方を豊かなものに改めてくれるはずである。文章が人間の精神の最も基本的な表現である以上、さういう期待と信頼を寄せることは充分に正しいだらう。

    敬語の細分化、そのこと自体を否定はしません。ただ、この件に限らず、最近の様々な論調に独善的、といって悪ければ余裕のなさ・遊び心のなさを感じることが多いのは私の僻目なのでしょうか。
    「そもそも遊びじゃないんだよ、ゴラぁ!」
    なんて言われてしまいますかね・・・。
    ヒステリックで独善的な物言いはいつの時代でもどんなところでもイヤなもんです(某国のテレビアナウンサーの口調はその典型かも)。特にその主張に些かなりとも正当性が”ありそうに見える”ときには始末に負えません。(これって私たちの日常でもよく見聞きすると思いますが、違います!?)
    しかしまぁ、つまるところは「汝自身を知れ」かも・・・。

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    敬語の細分化

    • 2006年10月3日

    先日来の報道によると、政府は敬語の性質を厳密に分類することで日本語の乱れを防ぐつもりだそうです。しかし私は、「敬語の性質を厳密に分類することで、使い方の混乱を防ぐ」というのは的外れだという気がします。その理由を簡単に言えばこういう事です。
    「はたして「24色入りの絵の具を持っている子供」のほうが「12色入りの絵の具しか持たない子供」よりも上手な絵が描けるものだろうか?」

    もちろん、いろいろと敬語に限らず試行錯誤することは非難すべくもないですが、道具立てよりも前にもっと考え直すべきものがあるような気がします。

    文明が成熟してゐれば街談巷語は正されるしむしろ逆に、平談俗語が社会の性格をしやんとさせる事態さへあり得るだらう。

     
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    もしかしたら、審議会とやらを開く以上はなにがしかの結論を得なければならないということがあるのだすれば、いまさら言葉の乱れの是正に大して効果があるとは思えない細分化案が出てきたことも腑に落ちなくもないです。

    と、そんなことどもを漫ろ心に考えていたら朝刊にこんな記事を見つけました。「メディアと民主主義」というシンポジウムに関する記事です。

    興味のある分野だけを知りたがる人が増え、新聞で思考力を磨こうとする意識がなくなってきている(加藤千洋朝日新聞編集委員)

    「新聞で思考力を磨く」だって??
    「新聞を素材として(ネタにして)思考力・批判力を磨く」ならまだ分りますがね。まさかとは思いますが、この朝日の編集委員は新聞がそれほど大したものだと考えて居るんでしょうかね。まぁ、字数の制約やらもあるんでしょうから、揚げ足取りみたいなことはやめますが。しかし、文脈からしてなにか尊大な印象を受けましたよ。国語に関して言えば、当の新聞にしてからが、明晰性にかける文章や「んっ!?」と感じる表現が散見されることは恐らく当事者である新聞社の人間が一番よく承知しているはずです。分っていても印刷物として一旦出荷されてしまえばもう引っ込められないですから。

    印刷物の信用度(というよりも正確には通用度、世間的な信用度と言うべきか)は内容そのものよりもまずはその外見に大きく左右されると私は考えています。

    1. 手書きより印刷
    2. 粗い活字よりも美しい活字
    3. 紙質の高低
    4. 装幀の堅固さ・美しさ
    5. 発行部数の多寡
    6. 発行母体の知名度
    7. その他もろもろ

    要は”金のかかる”メディアであればあるほど信用度が高まる。それはおそらく「これほどまでに大金を投じて(作為を弄して)嘘をつく者はまさかいないだろう」「ここまで費用をかけてるんだからまさか嘘ではなかろう」という世間一般の(善人であれば)持つ前時代的感覚に相応しているのではないだろうか。
    (またまた話が見えなくなってきました・・・)

    とどのつまり、新聞は比較的まともだとしても、ともかくメディアをつうじて誤った言葉・言い回しがこれでもかこれでもかと垂れ流される現状を変えなければ、敬語の分類を増やそうが減らそうが全く無意味だという気がしてなりません。
    書きたかったのはただ一言。上に記した丸谷さんの言葉でした。今日はまさに書き散らし。御免下さい。

    戦後レジーム

    • 2006年9月28日
    • キーワードタグ: 政治

    先日予告していた辺見庸さんの記事について書いてみます。
    「言いたい聞きたい 自民党総裁選に注文」第5回(西日本新聞 月 日朝刊より引用)

    「この国の戦後の成り立ちを根こそぎ否定する姿勢に危ういものを感じる。安倍氏の言う『戦後レジーム』からの脱却とは、行き着くところ、不戦平和の誓約の破棄になりかねない」

    実はまだ、安倍氏がどこでどのような文脈の中で”戦後レジーム”という言葉を使ったのかをよく調べていません。
    ただ、ここではすくなくとも「アンシャン・レジーム」という言葉が極めて否定的な意味で用いられるフランス革命を強く意識しているように推測します。良くも悪くも、日本の戦後のありかたに対する安倍氏の嫌悪感が明らかににじみ出ているようです。

    ”戦後体制からの脱却”ではなく敢えて”戦後レジームからの脱却”。

    ここには、日本の戦後体制はそれ自体が全否定されるべきもの、そこから抜け出すことなしには(あるいはそれを破壊することなしには)未来への展望を開くことのできない”旧体制(=アンシャン・レジーム)”である、という安倍氏の見解が示されているように思います。

    (蛇足ですが、「アンシャン・レジーム」という言葉そのものに、単に旧式、古いというにとどまらない極めて否定的なニュアンスがこめられていると学校で習った覚えがあります。必ずしもそうではないという説も耳にした気がしますがこれ以上は立入りません。すくなくとも安倍氏の言には強い否定的ニュアンスが読み取れます。)

    はたして日本の戦後は全否定されるべきものなのか。そこには何の見るべき価値もなかったか。
    私はそうは思わない。個人の尊重、両性の平等、民主制等々、(それが本当に実現されたかどうかはともかく)理念としては見るべきものが多々あるのではないのか。いや、間違いなくある。

    いっそもっとくだけた物言いをすれば、

    わがまま勝手に育ってきたボンボン(日本)が、隣家の(太平洋の向う側の)おじさんからもらった玩具の使い方がよくわからないからといってそれを投げだした挙句、あつかましくもおじさんに別の玩具をねだってる。そんな気がします(ちなみにこのボンボン、かならずしもY県出身とは限りませんからね)。

    「ちゃんとした使い方を知ろうとしないのか、このクソガキが!」ってなもんです。おまけにそのおじさんがここ数年ばかり狂ってるらしいところがどうも恐い・・・。玩具どころか本物の散弾銃でも与えてくれそうな・・・。
    そしてボンボンは、言う。
    「じつはボク、核も欲しいんだ」

    十年後にはこんな皮肉すらコワくて言えない「凛とした日本」になっていないことを祈ります。
    安倍首相の政治手腕と良識に期待しています。本当だよ。

    「侵略戦争の反省という立脚点を欠き、平和憲法の精神を尊重する人々を異端視する。まさにバックラッシュ(逆流)がいま押し寄せてきています」

    「現在の翼賛政治もメディアの加担なしには不可能です。政治とメディアの協調という一見つつがない成り行きのほうが、とてつもなく異様であるということを私たちはなぜか忘れがちです」

    最後になりましたが、

    過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる
    (ヴァイツゼッカー)

    飲酒運転と昨今の報道

    • 2006年9月26日

    飲酒運転についての喧しいとすら思える昨今の報道にわずかばかり疑問というか懸念が兆していたところ、こういう記事を見つけました。

    「飲酒運転事故は増えているのか」~池田信夫blog

    交通事故は、日常生活で直面する最大のリスクだが、あまりにも日常的であるため、ふだんはニュースにならない。それがちゃんと報じられるのはいいことだが、飲酒運転だけを針小棒大に騒ぎたて、事故も起こしていないのに飲酒運転だけで懲戒免職にするのは(以下略)

    飲酒運転に関しては弁解の余地がないのは言うまでもありません。私自身、福岡での三児死亡事故のニュースを聞いたときはなんともやりきれない思いがしました。
    ただ、この事件以来の怒濤のような報道を見ていると、なんとなく違和感を覚えてきました。マスコミが作り出す”世論の波”のすさまじさを感じるのです。

    そういえば、
    昨日ある新聞を読んでいると、ある自治体の飲酒運転防止への取り組みが紹介されていましたが、その記事なかで(自治体の取り組みを)「市民は注視している」というくだりがありました。なんとなくひっかかってしまいました。

    「市民は注視している」

    ということは「市民」のなかにその自治体の職員は含まれていないようです。(このケースに限って言えば)「市民」は他人(自治体)の取り組みに目を光らせるほど大した存在なのか。飲酒運転は自治体による権力の行使ででもあるのか。この記事を書いた記者はそこまで意識していないのかもしれません。しかしここに何らかの”断絶”を感じます。飲酒運転に関してだけ言えば、他人を注視する暇に市民自身が(私自身が)取り組まねば。もちろん自治体職員も市民です。

    自らのことを棚上げして他人の非をあげつらうことが恥ずべき事ではなくなったのが今の日本、だとは思いたくありません・・・。
    もしかして政治家も市民もマスコミも”一億総ブッシュ化”

    こんなこと書いている自分自身が最もブッシュに近いのじゃないか?・・・嗚呼。
    なんだかまた気が滅入ってきました。
    さっさと自分のやるべきことをやらねば、ですね。

    恐喝容疑で男性を誤認逮捕~その2

    • 2006年9月21日

    前のエントリで引用した日刊スポーツの記事では、

    男性の写真を見て「この人に脅された」と証言

    していたとなっていますが、

    読売新聞の記事によれば

    「似ている」と証言した

    となっていました。

    「この人」と断定するのと「似ている」というのとでは違いは小さくないように思えます。もちろん、”ある人物の証言”という点では同一でしょうが。

    これまた記事をいくら並べてみても真相は定かではありませんが、すくなくとも”事実を伝える”ことの困難さを示しているように思えます。

    ついでにこちらは元検弁護士のつぶやきさんから「警察官は馬鹿ではなかった」

    恐喝容疑で男性を誤認逮捕

    • 2006年9月21日

    (日刊スポーツ)

    捜査の過程では、男性の写真を見て「この人に脅された」と(被害者が)証言したとのこと。

    「8日・・・逮捕後・・・被害者が男性の顔を確認し、すぐに無関係と判明し」「逮捕から約5時間後に釈放」したが、別の容疑者等が20日に逮捕されるまで警察は公表せず。

    公表が遅れたことの当否はさておき、記事では20日に逮捕された別の容疑者と男性とが似ていたものの両者には面識すらなく全く無関係の人物であった、となっています。逮捕に至ったのはいたって不可解。

    万一、逮捕後に被害者が「この人に間違いない」とでも言っていたらどうなっていたんでしょうか。

    一般に、警察にいったん「この人に間違いない」と証言した被害者が、思い込み(警察が捜査して逮捕したんだから間違いないはず)や惰性で事実に反する証言を重ねる恐れもあったのではないかという気がします。
    なんのかんのといっていても一般の人の感覚では警察に対する信頼はまだまだ厚いと思われますから。マスコミもまた然り。
    逮捕後に「違う」と証言できた被害者が偉かったのか、それほどまで似ていなかったのか・・・。

    もちろん、記事を読んだ限りで私が思ったことですから、実態はもっと違った側面があるのかもしれません。

    モラルに期待することが恐ろしくなった時代に生きる一市民として、常に頼れる警察であって欲しいと強く思います。

    しかし同時に一人の人間として、警察やマスコミに限りませんが他人の言うことが常に真実だとする思い込みには気をつけたい、とも思います。
    警察発表にせよマスコミの記事にせよ

    「警察は『 (警察発表) 』と言っている」
    「マスコミは『 (記事) 』と言っている」

    ということなわけですし。
    (ちなみに私は他人様の発言や記事などを見聞きした際にはその(他人の言葉)の後に続けて「・・・、とこの人は言っている」と唱えることを心がけています。時々しくじりますけど・・・)

    なにもかも鵜呑みにせず、可能な限り自分の目・耳で見聞し自分の頭で考えてみる(分析する)。
    文字通り玉石混淆、様々な情報に溢れる時代には、古典の素読よりも情報学の基礎を学ぶ方がよほど有益なのかもしれません。いや、間違いなく有益です。断言します。【と、管理人は言っている】

    阿部総裁誕生へ もとい安倍総裁誕生へ

    • 2006年9月20日

    今日午後には安倍晋三自民党総裁誕生へ、との記事が新聞・TV・ネット上に溢れているようです。

    私は安倍総裁誕生が、戦後生まれが初めて自民党総裁に選ばれるというにとどまらない重大な意味を持つことになるのではないかと思っています。このことについては総裁選の結果が出てから改めて書いてみるつもりです。

    総裁選に関して、昨日の西日本新聞にとても興味深い記事が掲載されていました。
    「言いたい聞きたい 自民党総裁選に注文」
    昨日が連載第5回目で、元共同通信編集委員辺見庸さんの意見が載っています。

    物損でも匿名公表 千葉県警

    • 2006年9月12日

    http://www.sankei.co.jp/news/060909/sha006.htm

    公務員の飲酒事故に関しては物損でも匿名公表とのこと。
    千葉県警が「飲酒事故を減らすために、まずは規律を守るべき公務員が模範を示すべきだと考え導入を決めた」んだそうです。

    警察に協力的すぎた

    • 2006年9月6日

    (Internet Watch)

    金子さんは『Winnyの開発を止めるという誓約書を書いてもいい』と言ってしまった。そこで捜査員は『著作権侵害を蔓延させるためにWinnyを作りました』といった言葉の入った申述書の見本を作り、金子さんがそれを書き写した」

    金子氏は「警察は正しいと思っていたので、警察がそこまで言うならまあいいだろうといった気持ちで応じていた。弁護団の方々に会い、これはプログラマー全体に対する幇助の問題にもなってしまうので、安易に警察の言い分に従うのは誤りだと思った」と説明。警察や検察は信用できず、何を言っても悪いようにしか取られないので、途中からは黙秘したと語った。

    金子氏の弁護人氏のサイト アターニーアットロー~博士と私

    戦後民主主義教育と愛国心

    • 2006年9月6日

    自由主義・民主主義がよしとされれば、その美点のみに目を向けて欠点というのか危険性というのかそうした点には思い至らずに盲目的にこれを讃美し、そうかとおもえば今度はいざその欠点が露わになり始めると反動的に規範・規律の重視に走る。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというわけでもなかろうが、このような、極端から極端へはしるという傾向は戦前・戦後を問わず変わらない日本人の悪い癖なのだろうか。

    たしかに、規範・規律の遵守という題目そのものはいちおう是とされるべきであろう。ではなぜ”一応”なのか。少し考えてみたい。

    いきなり極端な例ではあるが、かつてナチスは「法令を遵守して」ユダヤ人をはじめとする”異民族”その他(例:精神薄弱者)を合法的に殺害した。国会において適正な手続に則って各種法令が制定され、行政の任にあたる公務員はそれを忠実に実行し、司法に携わる者はその非人道的な所業に異を唱えることはなかった。(もちろん一般市民の反ユダヤ感情も存在していたわけだが、それについては今は述べない。)

    自国の市民を殺害するという蛮行は、手続き上は何らの瑕疵もなかったということになっている。そして対象者の移送・殺害という一連の行為が極めて合理的・系統的すなわち「合法的に」行われたところに、(偶発的な大量虐殺とは異なる)ナチ・ホロコーストの特異な徴がある、と言われている。

    こうした歴史的事実からは、あらゆる場合に規範・規律の遵守が是とされうるわけではないこと、少なくとも人が人として「人間的」であろうとするならば、人間的であろうとするその意思が規律・規範を守ることとは両立し得ない場合があるということを読み取ることができる。

    そこで必要になってくるのは規範・規律の”実質”を吟味することであろうと思う。「きまりは守りましょう」という言辞はいちおう正しいと言えるが、それだけでは諸刃の剣となる。

    戦後民主主義教育の問題点は、民主主義あるいは平等や権利を教えるにあたって、その実質を吟味することなくあたかもそれが自明のものとして教えるのみで、平等や権利という観念が諸刃の剣であることを看過してしまったところにあるのではないだろうか。そして、実質の吟味を置き去りにしたという点でそれは戦前の国粋主義教育と同質のものであって、つまるところ、戦前・戦後の教育は外皮のみが異なるだけで中身というか心性そのものは些かも変化していなかったとも言えるのではないだろうか。与えられた教えを何の疑問も持たず無条件に正しいものとして受け入れることの怖さがここにあるように思われてならない。”滅私奉公””民主主義””愛国心”。そのどれも決して誤りではない。はたして個人が自由であることと社会秩序の維持はどのようにして両立されうるのであろうか。

    思うにそれは既に自明のものとして受動的に教えられるよりも、ひとひびとりの人間が主体的に考えることを要求している。そして「主体的に」考えること・行動することは、”教えられる”ことの対極に位置するものである。とすると、「主体的に考えることができるように教育する」「国家(郷土)を愛することを学ばせる」などという言葉は時として言語矛盾もはなはだしいのかもしれない。そもそも愛するという行為は、私的かつ主体的なものの極みであろうから・・・。

    今のわれわれに必要なのは、答えがすぐには出ないであろうことを覚悟の上で、それでも自らの頭で物事を吟味してみるという”主体性”なのかもしれない。

    以上、本の内容と直接的には関わりませんが、下の本を読みながら考えたことをちょっとまとめてみました。

    (2006年12月13日一部改稿)
    (2010年3月25日一部改稿—主に段落構成の変更)

    ヒトラー政権下の日常生活―ナチスは市民をどう変えたか (そしおぶっくす)
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    外務省の2000人増員計画!

    • 2006年8月30日

    外務省全体の人件費は現状維持のままで人員数を増やすのなら他省庁からの批判もかわせませんか?
    しかし現職員数5000人に対して増員要求2000人って・・・40パーセントも・・・・。のりしろも含んでるんでしょうが。売り上げ頭打ち&債務(超)超過の企業ならばそんな大胆な増員無理でしょう。せめて他部門からの配置転換じゃ・・・。首切りはせずに自然減に頼ったリストラしかしない企業ですからね。しょうがないのかなぁ。また増税!?

    ひき逃げ誤認逮捕 無罪判決

    • 2006年8月23日

    以下、ふと目にした西日本新聞サイトの記事を読んだ感想。

    判決理由として「榎本被告らの証言しか証拠はなく、それも全幅の信頼を置けず、犯罪の証明がない」と述べられたとのこと。

    これは逆を言えば「全幅の信頼を置けない証言しかなく犯罪の証明がなくとも逮捕され・拘留され・起訴されうる」ということです。裁判所にしたところで当然のことながら逮捕・拘留の決定にあたって(言葉は悪いですが)一枚噛んでいるわけです。今回のケースについては、関係者の努力と幸運によって真犯人が判明したからこそ幸いにも勝ち得た無罪判決であり、それがなければこの方は罪無くして投獄され社会的地位をも失うことになったはずです。

    目下の日本のように、逮捕され起訴された者の殆どが有罪判決を受ける現状では、社会一般に”逮捕=有罪”と受け取られることは現実問題としてやむを得ないところあるのかも知れませんが、それだけに捜査機関は逮捕・拘留にあたって慎重さを求められるのは言うまでもありません。そしてそれらを報道する報道機関にも。

    逮捕された当事者にとっては、逮捕という事実と同等かそれ以上に「逮捕」という”事実”が広く報道されることによって生じる社会的影響も甚大なはずです。しかし故無くして逮捕される者は微々たる数に過ぎないわけで、いったん失った社会的信用や地位は取戻すべくもありません。その意味では”弱者”と言えると思います。澄ました顔をしてきれい事を並べ立てるばかりの報道機関は、その弱者を社会的に抹殺する主犯とは言っては言い過ぎになるでしょうか・・・。はたして起訴もしくは判決以前に被疑者・被告のプライバシーを暴き立て、さらには読む人をして”被疑者・被告”=”罪人・反社会的存在”と思わせるような報道姿勢が昨今の報道機関に見られないと誰が断言できるでしょうか。いや、むしろそれが常態と化しているのが現実です。

    以前、別の裁判に関する報道で、検察官が”被告”に対して「社会がお前を赦さない」と指弾したとの記事を見かけましたが、そうした芝居がかった言の当否はひとまず別にしても、現状を如実に示す言葉だと感じたことを付記しておきます。

    いずれ判決の詳細を調べたうえで改めて書いてみたいと思います。

    文科省、古典素読の復活を検討

    • 2006年8月19日
    • キーワードタグ: 教育

    外国語も古典も小学校で・・・。小学生も忙しくなりそうですね。

    (以下、夢物語です)
    少子化や保育所不足の問題が取りざたされる昨今、いっそのこと児童は全寮制の保育所兼学校の共同生活を義務づける。もちろん経費一切は公の負担。公共心の涵養・子育てに関する金銭的ないし精神的負担の軽減・愛国心教育などなどメリットは数えきれず。
    これぞまさしくスパルタ式教育!!!
    もちろん毎朝古典の素読をやるんです。
    ついでに剣道or柔道の朝練もやればどうでしょう。武士道を体得した”新しい日本人”が続々と生まれましょうか・・・。

    週に2.3回数十分程度の素読じゃあ、効果のホドは・・・。
    ”何事もやらぬよりやったがマシ”、なのかどうか疑問に思わなくもなし。

    ひき逃げ誤認逮捕~関連記事2

    • 2006年8月1日
    • キーワードタグ: 冤罪

    検察が無罪求刑

    http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060801

    ひき逃げ誤認逮捕~関連記事

    • 2006年7月23日

    http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060703

     「弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」」より

    http://www.yabelab.net/blog/2006/07/02-150903.php

     「元検弁護士のつぶやき」より

    お役所仕事

    • 2006年7月18日

    衰弱知りながら給水停止(朝日新聞)

    遺体発見が5月下旬、ということは約2ヶ月前ですが・・・・。
    丁度昨日「役人の頭」という一文を読んだばかりでしたので、この記事に目が行きました。

    以下、法学者末弘巌太郎「役人の頭」から引用

    人間はただ「良心」と「常識」とに従って行動しているのであって、「法律」によって行動しているのではない。

    ことに、法治主義のもとにおける役人は法律によってかなりの程度に裁量の自由を制限されています。したがってうっかり融通をきかせた処分をやってしかられるよりは、まずまず法律の命ずるところを形式的に順奉していさえすれば間違いがない。そのほうが得である。第一、骨が折れなくていい。役人が一度こう考えたが最後、彼はただ法律を形式的に順奉することだけを心がけるようになり、法律の目的や役人の職分を忘れるようになる。ここで立派な官僚が出来上るのです。元来、法治主義はあらかじめ法律を決めておいて役人の専恣を妨げ、これによって人民の自由を確保する目的でできた制度である。しかるに、その法律がかえって役人の官僚的な形式的な行動に対する口実となってしまう。かくのごときは決して法治主義本来の目的ではなかったのです。しかし一方において役人を法律によってしばれば――ことにしばりすぎれば――その当然の結果として役人の行動が形式化しやすいのは当然です。なぜならば、自由のないところに責任は生まれないから。

    青空文庫

    ところで、朝日の記事は、記事の末尾で町内会役員の口を借りて役所の対応を批判しているように読めるように思います。”誰もが”って本当?一般人の”会話”としてなら何の違和感もありませんが、”報道”機関の役割は、単純に「あの人がそう言ってたもんね」ということだけを世にバラ撒くといったものではないような気がします。

    「あの人が○○って言ってたよ」というのは単なる伝聞に過ぎないわけですが、もしその発話者が報道機関である場合は単なる伝聞と聞き手が認識する事は残念ながら少ない(報道機関に対する信頼が厚い)のではなかろうかと思います。

    それ故、強いて言えば、情報を適切に濾過することが報道機関の責務の一つなのではなかろうか、と思います。と同時に読む側も報道記事の総てを鵜呑みにしない眼力を持たなければならないとも思いますが・・・。そうした眼力を持った読み手の育成こそ社会の木鐸たる言論・報道機関の責務だ、というのは今の日本のマスコミには酷にすぎるでしょうか・・・。

    一言で言えば、有識者なり一般人のコメントを安易に掲載することは、新聞が他人の言を隠れ蓑にしてする自己主張のように思えてならないということです。この記事で言えば最後の一文は蛇足ではないか、ということなんです。この部分に関しては言責はどこにあるのか。この役員さんか、それとも新聞社か。記事からは読み取れませんが、この役員さんが匿名になっている以上、新聞社にあると考えるのが筋のはずですが、それならば新聞社としての主張だと分る形で記事を書く事は可能でしょうしそうすべきではないかと思います。

    この記事にかぎらず、同様のことはテレビでも新聞でも毎日のように目にします。記事を書くならあくまでも自己責任で書いてみたらどんなものでしょうか。官僚は役所にだけいるとは限らないように思うのは私だけでしょうか。
    ひとつはっきりしているのは、一人の人間が、窮状を知られながらも亡くなった、ということ。合掌。

    こういう事を書きながら、じゃあ自分は何者なんだよ、ということも考えて気が重くなってきました・・・。こういう事を書くだけじゃ何にもならないわけで。今日のところはこのままupしますが。

    (続きを読む…)

    遅刻100円騒動~その2 事実は小説よりも奇なり

    • 2006年7月13日

    http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060710-58627.html

    宮城隼夫工学部長は「学生はすでに学費を納めており、学生と教授の平等の関係も崩れてしまう。遅刻する学生が多いのは問題だが、強制的に金銭を取ることは認められない」と批判した。

    学生と教授の平等??
    学生と教授って平等だったの???そりゃお互い人間なのは確かだろうけど・・・。まさか、ねぇ・・・・・

    学生は既に学費を納めてる??
    そりゃ当然でしょうね。お金払って授業さぼったり遅刻してくれるお客さんは有難い存在であり、文句を言うなどトンデモナイ!!あなたは学生様の学費からお給料貰ってるんでしょ!!!!!なんてね。

    「市民は既に税金を納めており、市民と警察官との平等の関係も崩れてしまう。スピード違反する市民が多いのは問題だが、強制的に罰金を取る事は認められない」(○×県警本部長)

    なんて、こんな記事、エイプリルフールにでも是非見てみたい・・・気もするなぁ。

    しかし、部長さんはホントにこんな冗談みたいなこと言ったのかなぁ!?「おれはそんなこと話してないよ。継ぎ接ぎすればこんな風にも書けるんだろうけど・・・。マスコミって恐いよなぁ」なんてボヤいていらっしゃったりして。

    遅刻で百円徴集は常識外れか??

    • 2006年7月11日
    • キーワードタグ: 教育

    講義に遅刻した学生からその都度¥100徴集している教授に対して、
    1.学生から苦情
    2.大学が教授の処分を検討
    3.人権協会の弁護士も(教授を)批判

    と、この教授に対して非難の大合唱のようですが・・・・。
    なにか違和感感じます。

    (沖縄タイムス)

    100円徴集を遅刻に対する指導措置と捉えれば、いたって常識的な指導ではないですか??

    宮城隼夫工学部長は「いかなる理由があっても、教室で学生から金銭を取る行為は認められない」とし

    とありますが、それこそ”浅い考え”なのでは・・・。
    ましてや教授が徴集したお金を私的に浪費してたということではないようですし。
    ”いかなる理由があっても(病気だろうが事故だろうが)学生の遅刻は許されない”と云われれば「そんな馬鹿な・・・」と誰しも言うでしょう。今回のような場合、逆も亦然りと思いませんか?

    教授を批判する気になれば幾らでも理屈はつけられますよ。
    ・学生から金銭を徴収するなどもってのほか。
    ・貴方の授業がつまらないから学生が遅刻するのだ。
    ・教授という立場を利用したパワーハラスメントだ。
    etc

    何時の時代もで何処の学生でも、学生は教師に対して不平不満もってて当然。
    そんな不満をさももっとものような顔をして取り上げて一教授をつるし上げるのは卑怯者ではないのかな。教授が100円徴収止めてしまえば解決??遅刻する学生への指導はどうやるの?きちんと説明・指導すれば学生さんはわかってくれる??そういう学生もいればそうじゃない学生もいるのは世の常。誰から見ても理不尽な論理でさえも、とにかく自己の正当性を主張することは可能でしょう、北朝鮮の例を見るまでもなく(笑)。

    なにげに「誰から見ても」なんて書いてしまいましたが・・・。ちょっと書いてて自己矛盾してますね。どんな突飛な内容であれ、論理的に(理屈をつけて)さも正当であるかのように主張をすることは出来る、と言うべきでしょうか。牽強付会は決して北朝鮮の専売特許ではない・・・と思う今日この頃。私たちの身の回りでも日々目にし耳にさせられてること。

    教師は学生の為に自己研鑽に励んでよりよい教授を行い、学生は勉強に励む。
    相互に尊重し学問的進歩に資し、社会の発展に貢献する。これが教育本来の在り方ではなかろうか。
    人間の成長に資するという本質を置き去りにして、あれはするなこれもするな世間様が・・・なんて環境ではだれも真剣に教育には取りくんでくれなくなりそうな気がします。

    社会全体が、いろいろな面で”犯人捜し””あら探し”に興じすぎて窮屈になっているような気がしてなりません。日本沈没??
    というか、そういうのばかりがニュースとして流通してるだけ??

    この教授にしても、万が一やましいところがあるようならここまで事が大きくなる前にとっくに徴集やめてらっしゃるはずですよね!?。

    酔っぱらいの戯言でした。

    何と云う名の教授か分りませんが、(実体のない)”世間の非難”に負けず頑張って下さい!

    誤認逮捕

    • 2006年7月10日

    「元検弁護士のつぶやき」より

    http://www.yabelab.net/blog/2006/06/29-171028.php#more

    北朝鮮ミサイル発射への対応

    • 2006年7月10日

    騒がない韓国人に世界もびっくり?
    (朝鮮日報)

    日本の対応は当然?安倍官房長官
    (朝日新聞)

    日本は騒ぎすぎ?~韓国大統領府
    (読売新聞)

    金正日がロシアへ亡命? その2

    • 2006年7月10日

    北の政権交代に期待感 米国務次官

    http://www.sankei.co.jp/news/060710/kok033.htm

    米有力牧師が北朝鮮訪問へ

    http://www.sankei.co.jp/news/060709/kok088.htm

    金正日がロシアへ亡命?

    • 2006年7月10日

    ミサイル発射は軍部による権限掌握の傍証か?

    http://www2.diary.ne.jp/user/119209/

    続報~ひき逃げ犯誤認逮捕 

    • 2006年7月3日

    (警視庁)物証に乏しく、難しい事件だった。供述に頼ってしまい、裏付けが不十分だった

    〈松田弁護士の話〉 接見段階で無実の予感があった。供述に争いがあったのだから、双方の言い分に慎重に耳を傾けるべきだった。適切な裏付け捜査をしていれば、10カ月も不当に勾留されることはなかっただろう。

    http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060702/K2006070201560.html

    不謹慎な言い方かもしれませんが、物証がないときは、(嘘の)証言する人間の”数”で「事実」が作られるんじゃない?

    ところで、逮捕時にさもこの方が犯人であるかの如く報道したであろうマスコミはどのように謝罪したんでしょうね・・・。それとも、”警察が発表した”という「事実」を報道したのであって我々には非はない、と考えるのでしょうか。逮捕される事は勿論ですが、当事者にとっては、報道の在り方もまた(最も)影響大だったはずですがね。事実関係についてはマスコミ経由の情報しか知らない私に語る資格はありませんが、しかし、一個の事象に関して、あるときは犯罪者(とされた者)のプライバシーを必要以上とも思えるやり方で暴露し、あるときはまた役所のミスをあげつらう・・・・そんなイソップ物語の蝙蝠みたいなものが報道機関と云われるものであるならば、最も罪の重いのは果たして・・・。

    首相の靖国参拝 

    • 2006年6月29日

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060628-00000044-jij-pol

    個別停止?全面停止?

    • 2006年6月25日

    6/21 問題施設は個別停止に 牛肉輸入合意で米農務長官 

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060622-00000018-kyodo-int

    6/21 牛肉輸入全面禁止は今後ない見込み=米農務長官

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060622-00000268-reu-bus_all

     →その根拠はどこにあるのでしょうか?農林省?外務省?

    6/22 全部なのかは日本が判断(農相)

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060622-00000236-kyodo-bus_all

    6/25 全面輸入停止の措置をとるべきではない(外相)

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060625-00000103-yom-pol

    アメリカは、国務省だけでなく外務省も(東京に)置いてたようで。一事が万事・・・。

    靖国神社の国家管理を提言 2

    • 2006年6月23日

    6/23西日本新聞朝刊
    麻生外相の発言
    ”国がきちんとしたかたちでやるべき(戦没者追悼の)まつりごとを、1宗教法人に任せていたことが問題”

    靖国神社の国家管理を提言 1

    • 2006年6月23日

    6/21西日本新聞朝刊
    古賀誠元自民党幹事長
    ”国家護持の施設として宗教法人格を外す”
    ”国家護持』という大きな旗を、もう一度掲げたい”

    文科相、敬語なしを批判 

    • 2006年6月9日

    (goo news)

    国体明徴運動を想起しました。

    村上氏逮捕とミルケン

    • 2006年6月6日

    先日の小金井良精のエントリで引用した記事の中に、マイケル・ミルケンの名前があり、その時はあまり気に留めていなかったのですが、村上氏逮捕のニュースを聞いたところでちょっと調べてみる気になってきました・・・。詳細は後日、多分。
    日本がアメリカの後追いしているのはこの頃始まったことではなさそうですね。

    小泉首相と退職金返上

    • 2006年5月11日

    相変わらずの論理です。
    小泉首相の物言いはなんとなく吉田茂を彷彿とさせますが、いかんせんユーモアが感じられないのは私だけでしょうか。

    取調べ録画、警察は行わず

    • 2006年5月11日

    やはり、です。

    (goo news)

    愛国心

    • 2006年4月12日
    • キーワードタグ: 教育

    http://news.goo.ne.jp/news/asahi/seiji/20060412/K2006041203380.html

    ここまでくるともはや言葉遊びの世界のようにも思えてしまいます。
    教育基本法の”改正”ですか・・・。

    法律の文言が子供たちの成長にどれほど意義を持つのでしょうか。
    ~歌を忘れたカナリアは~
    ~教育を忘れて愛国心~

    本筋はそこにはないはず。
    ”愛国心”を挿入できるのであれば教育基本法に出はなくても良かったのかもしれませんね。

    子供は置き去りですか。

    白洲次郎~NHKそのとき歴史が動いた

    • 2006年4月6日

    昨晩、NHKの番組で白州次郎が取り上げられてました。
    とくに日本国憲法の成立過程・通産省の設立に果たした白州の役割に焦点があてられていたようです。
    なかなか興味深いものがありました。

    ただ、憲法制定の過程について、日本側草案の提示を契機に占領軍側がわずか10日足らずで新たな草案を作って日本側に押しつけた、といわんばかりの番組構成には少しばかりひっかかりを感じました。諸文献によれば、連合国側はかなり早い段階から憲法草案の作成に着手していたということですので。

    通産省設立が白洲の胸先三寸で設立されたかのような解説も含めて、”分かりやすさ”の点ではこんなものなのかな、という感じでした。

    ともあれ彼のような、ある意味日本人としては異質な人物が、番組で取り上げられることはそれなりに意味のあることなのかな、と思いました。

    今回の放送に、改憲論議に関する政治的な意図が隠されていると感じるのはあまりにも穿った見方でしょうか・・・。

    永田氏に唖然・・・

    • 2006年3月25日
    • キーワードタグ: 政治

    なんだか一層グジグジしてきたようですね。
    (goo news)

    国会議員の方々はどうしてこうも潔くないんでしょうか・・・。

    永田氏の謝罪に関しては以前同情的な記事を書いてますが、それにしても情報提供者との信頼関係云々を持ち出して今更提供者の実名を公表して、かつ自らは議員辞職を拒否するに至っては、呆れてしまうほかありません。

    たしかに辞職するか否かの判断は永田氏自身がなさるべきことでしょう。
    しかし上記記事を読む限りでは、永田氏の言動は責任転嫁・言い訳だとしか解釈できないのですが・・・・。

    「だまされた」???

    では、騙されたことについて永田氏にはなんら過失がなかったと言えるのですかね

    「政治生命をかけて・・・」「自分で傷つけた国会や政治の権威を取り戻す作業に全力を尽くす。私の人生をかけた・・・」

    自らの言動にすら責任を持てないような人物の言葉は、どれほど美辞麗句を駆使したとしても軽いです。

    一旦辞職して有権者の信を問うのが常道ではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。(もっとも、その後”禊ぎは済んだ”といけしゃあしゃあと言うような人物もどうかと思いますが。)

    つまるところ、議員は辞めたくありませんということなんでしょう。
    永田氏に限らず、国会議員がすっぱりと辞職した、という話を聞かないのは、それだけ議員が”おいしい”お仕事だということを暗に公言(変な表現ですが。)しているように思えてなりません。

    与党追及がうまく運べば英雄。
    失敗したら責任はとらない、とれない、騙されただけ。

    唖然呆然。

    ネットで上記の記事を見かけて、なんとなく書き殴ってしまいました・・・・。御免下さい。

    岐路 ~役人たちの水俣病

    • 2006年3月25日

    昨日の西日本新聞朝刊記事を読んで感じたことを書いてみます。
    「岐路~役人たちの水俣病 4」(連載記事)

    興味深いという言葉は適切でないと思いますが、注目に値する記事だと思います。

    一中堅官僚であった人物が当時を回想しての言葉。

    「みんな知ってたんだよ、原因が工場排水にあることは。」
    「腹が据わってりゃ、辞めて訴えればよかったんだ」・・・。

    原因物質が特定され、それによって原因物質を排出している蓋然性が極めて高い企業が特定されていたにもかかわらず、万一の場合の損害賠償請求への懸念や、省庁間の利害不一致を背景として、実施することが可能であった規制を見送ったがために被害の拡大をもたらした、といった内容です。

    ある問題に関する実態を把握しているにもかかわらず、自ら責任を負うことを回避せんがために(場合によっては不適当な対応だと認識しつつ)、安易な処置をとってしまう(場合によっては放置しておく)ことは、私の身近なところでもしばしば見聞します。

    勤め人として組織に身を置いたことのある人間であれば、良い悪いは別にして、上記官僚が如何に対応に苦慮したかは想像できます。ある種の同情をすら禁じ得ません。しかしながら結果として住民に多大な犠牲を強いたことへの責任は一生背負って行かざるを得ないのだろうとしか言いようがありません。

    相応の地位に就く者は、その地位に相応する責任を当然負わなければならないし、また、その責任は、その地位に応じて、究極的には”自分を殺す、一身を投げ出す”ことまでしたとしても果たし得ないほど重い責任もあり得ると考えます。

    かつて”人の命は地球より重い”と言った政治家がいましたが、政治家の言としては”人の命は地球より重い”と言った方が適切だったのではないかと思います。

    そうした”重い”責任を担っている(ハズの)政治家や高級官僚の方々に大いなる期待を寄せます。

    文章の後半、なんだか青臭くなってしましました。
    書きながら、頭には「武士道とは、死ぬこととみつけたり (葉隠)」が浮かんでました。

    まずなによりも自分自身が高い倫理観を備えることが先決ですよね、大いに反省。

    ともあれ連載記事「岐路」。機会があればご一読下さい。

    本日の記録 3/22 (普天間基地移転問題)

    • 2006年3月22日

    普天間基地移転問題に関して与党自民党の一部から出されている微調整案についての新聞記事をみて唖然。
    微調整案に対する一部政府筋の見解が掲載されていましたが、内容は「アメリカ政府から何をやっているのか!と言われる」んだとか。

    アメリカ政府からの圧力(?)が事実だとしても、日本政府の政策決定に関してそうした事実を論拠(理由)とするのはなんだかヘンだと思いますが。単に「急げと言われているから・・・」ではなく、他国からの圧力や問題解決の遅延が、日本の国益にとって如何なる不利益をもたらすかという点を、まずは明確にして国民に伝えるのがわが国の政治家・官僚に求められる役目であるはず。

    日独伊三国同盟締結問題に際して、「ドイツ政府から『はやく結論を出してくれ』と言われている」として国内の意思統一を性急に求めた官僚が居たそうですが、あのころと今の日本は大して変わっていないということですかね・・・。

    今日は走り書きでした。
    読み飛ばしてください。

    堀江メールと謝罪行為

    • 2006年3月6日
    • キーワードタグ: 政治

    堀江メールで謝罪広告掲載へ、ですか・・・。
    議場で武部氏に深々と頭を下げる永田氏の姿が先日の新聞にも掲載されていましたが先日書いてみたプリンシプルに絡めて”謝罪”行為について書いてみます。

    だれしも、会社の上司・同僚・友人・後輩、相手にかかわらず、日常生活のなかで、自分の行為について何らかの謝罪せねばならない時がありますが、謝罪とは礼(礼儀)の一つです。感謝にせよ謝罪にせよいかなる類の礼をとってみても、肝心要になるのはやはりそれを表現する型(形)以上に、感謝の”気持ち”、謝罪の”気持ち”であると思います。
    「とりあえず頭だけ下げとけばいいんでしょ」では駄目なのは自明のはずです。  (※永田氏がそうだということではありませんので念のため。)
    ところが実際にはそのようにしか受け取りようがない”謝罪”が巷には溢れているような気がします。例えば政治家がよくやる失言問題ですか。とくに戦争犯罪や靖国問題に関して、中国や韓国の反発を招く発言が、とくに近年多くみられるようになってきました。そうした場合に、失言の当事者が前言を撤回したり(一応の)陳謝の意を表明することがありますが、あきらかに”これっておかしいぞ”と思うことがしばしばあります。
    「世間を騒がせた」「我が党に迷惑をかけた」から謝罪します、などというのは子供から見ても論点のすり替えでしかないのは明かであるにもかかわらず、さほど問題視されないことが多いのは一体どういう訳なんでしょうね。

    ちなみに、今回のメール問題に関しては、(ちょっと極端な物言いになるかもしれませんが)永田氏が謝罪すべきであるとするならば、それはメールが”偽物”であった点に関してではなく、メールの信憑性を確認(調査)するにあたって重大な過失があった点にあると思います。もちろん永田氏の謝罪の真意がどこにあるのかは知る由もありません。また、謝罪を行う当事者の意思はともかく、相手方に対してはメールが偽物であった事に関しても謝罪の意を表さなければ相手が納得しないのは当然でしょうけれども、永田氏自身はメールが偽物であったことよりも、むしろ自らが重大な過失を犯した点を反省されるべきだと思いますし、そうであって欲しいと思います。
    メール自体は偽物であったとしても、武部氏に関する疑惑そのものが偽物・事実無根であったと証明されたわけではないですし。なんにしても今回の件は自民党を追及しようとした民主党にとっては大きな痛手であったと思います。

    はて、プリンシプルの話はどこにいったのか?
    そうでした、プリンシプル principle。

    何事かについて謝罪するとしても、「どういう事に関して、どの点に関して謝罪するのか」が大事なのではなかろうか、ということを書きたかったんですが・・・。こうしたところが不明確なままで単なる謝罪をしても茶番でしかないし、問題は(根本的に)解決しないのでは、ということなんです。
    ちょっと観点を変えて、もっと卑近な例で言えばこういうことです。一方がどういうところに不満を持っているのか、どのような対応を求めているのかが分かれば、つまり、対立点が明確であれば、相手方の釈明や謝罪によって解決できるのに、そこのところが不明確なままであるが故に問題はこじれるばかり、なんてことが往々にしてあります。思うに、双方に解決の意思があり、かつお互いのコミュニケーションを通じて対立点が明確になれば、解決は可能、少なくとも決着はつくはずです。(分かりきったことですが)

    今日は書き進むうちにテーマを忘却していつも以上に支離滅裂な文章になってしまいました・・・。ま、自分自身の気分転換でやっていることなので・・・(言い訳です)

    以上、この本を読みながら考えたことを羅列してみました。

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