「村上春樹」カテゴリの記事一覧

読書感想文の呪い

  • 2007年08月26日 (日)

子供を本嫌いにさせるには読んだ後に必ず読書感想文を書かせればよい、と言ったのは誰だったろうか。どこかの小説家だったかそれとも意外に身近な人物だったのかは覚えないが、その言葉を聞いたときに私は深く深くうなずいたような気がする。まさにその通り、と。

そのむかし、学校で(あるいは宿題として)詩や小説を読み終えたあとに私が書いた「かんそー文」は文字どおりの「作文」であった。「主人公の力強さがグッときて云々かんぬん」「私も彼のようにどーたらこーたら」、まあそんなことを書けば評価されるものだと信じていた私は本音とは程遠い”作りもの”の文章ばかりを始終でっちあげてそれなりの”成果”をあげていたのであった(笑)うん、結構作文の成績は良かった気がする。そんな風に小賢しかった私があるとき渾身の力を込めて小説かなにかの感想文(小説、じゃないですよ)を書いたことがあった。それはおそらく私にとっては自ら書きたいと思って書いた最初で最後の読書感想文であったが、それを読んだ国語教師は「手を抜くんじゃない。かきなおせ!」と至極真面目な顔で仰られた。おそらくは、常日頃だらけるばかりで一向にやる気を見せないガキに「ちょっとここらで喝いれとこか」くらいのことだったようにも今なら思えるのだが、お猿さん当時の私は「っにぉぉぉお!」と臍を曲げて以来感想文と名のつくものは一切「作文」、いや「作”感情”」に徹し、その後も必要最低限の文章(それをせねば路頭に迷うことになるような、書くことやむをえざる文章)は徹底して主観を排した(主観的には)デューク東郷ばりにクールな文章を書くことに徹したのでありました。したがってまた「なーに?ネットで日記公開だぁ?んな小っ恥ずかしいことできるかってんだーぁ」というのがつい1年半ほど前までの私の確たる信念(?)であった(それがいまは独り言ばかり書き付けて・・・)。

また前置きが長くなっている。

まぁ、そもそもつまんないもんを読んでみてもやっぱりつまんねぇし、感想ってもそりゃ書けませんやね、ということですかね。便秘の人間に「出せっ出せっ」つうても無理なんじゃわな。そういうわけで学校で感想文を書けば書くほどに青少年たちはまるで下剤を大量にのんだ者のようにその調子を狂わせていくのであった(ほんとかどうか知りませーん)。

いやいや
しかしであるよ。
書く。書きたい。書かせておくれ。読んでくださいませ。頼むよおっかさん。そういうこともやはりあるのです、ハイ。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』三部作。

「ええぇ、村上さん、94年にもうこんなん書いたのおおおおぉ・・・」「もっと早く手にしていればなぁ・・・(遠い目)」

というのがこの本を読んだ私の感想です。

「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなってないんじゃないかしら。

私たちのまわりからはたしかに意味のない無用な暴力は姿を消しました。そのかわりにそこには新しい種類の冷酷な計算ずくの暴力が生まれたのです。

前置きが長くなりすぎてもう息切れ。またいずれ。御免。

スプートニクの恋人

  • 2007年05月29日 (火)

さて。
4月以降私の頭は乾燥注意報発令中です。書くときも話すときも言葉がどうもスぅッと浮かんできませんで。頭をすごくぶ厚い紙(イメージはぶ厚すぎるコーヒーフィルタ)で覆われているような気分。言葉がポタポタ落ちてくるまでかなりの時間がかかります。
Cool Sea。
もっとも体の方は元気いっぱいですが。いろいろ仕込みに励んでおります。
そんな乾燥状態ですが(ですので)、以下、小学生なみの読書感想文を。

(と、宣言してしまうと後の文章がまた出てこなくなって・・・。)
もう読んでから結構時間が経ってしまった二冊。
一冊目はコレ。

スプートニクの恋人 (講談社文庫) スプートニクの恋人 (講談社文庫)
村上 春樹
価格:600円

小学校教師の主人公が行方不明になった女すみれを探しにギリシアへ。村上のエッセイ『遠い太鼓』に描かれた情景がそのまま出てきてた。
ああ、焼き魚が食べたくなってきた(『遠い太鼓』にギリシアの焼き魚の話が出て来るのですよ)。

しかし村上作品は(今までに読んだ限りでは)どれを読んでも「おお、そうだ。そうなのだ。同じ人がここにも居た」と思わせる箇所が必ずある。たぶん村上作品を読む多くの人がそう実感されているのではなかろうか。間口が怖ろしく広い。誰もがそれぞれ彼の作品のどこかの箇所で「おお、まさに・・・」。もちろん各々の辿ってきた人生は千差万別なのだから誰もがみんな同じ箇所で「ピン」と来るわけはなく、それぞれが村上の紡ぐ物語から各自勝手気ままに好きなものを読み取る。読み取ることが出来る。極端なはなし、村上作品にストーリーはいらない。パーツのひとつひとつが立ってるから。
・・・・・・
ん、でもやっぱしストーリーがなかったら人は読まないんだよね。読めない。いくらパーツが好みのものでもストーリーがないと(ストーリーが読み取れないと)これが読めない。あたりまえか。

考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる——それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。

うーん
確かに最近のわたし、どこにも行けておりません。書いていないもので。昨日は松岡農相、今日はなんとか機構元理事の自殺にはいろいろ考えさせられるがこれについてはまたの機会に書きたいと思います。しかし安倍さんは驚くべき天運の持ち主かもしれぬ。この点、祖父の岸信介に勝るとも劣らぬのではなかろうか。緒方竹虎・石橋湛山の相次ぐ死・罹病で漁夫の利(?)を得た岸。一方、今回の松岡氏の自殺が台閣への大打撃との観測もある安倍氏にとっては(結果的にせよ)一種の「損切り」であったと見るのは非情に過ぎるだろうか。
なんにせよ事が不適切な会計処理あるいは談合に止まるのならば、人ひとり(ふたりでも三人でも)の命と引き換えにせねばならぬほどのものではないようにも思える。だってそんなもんイマドキ(今も昔も)ありふれてますもんね・・・情けないことだけど。この件に限らずともまあ、いろいろと表だっては取り沙汰されない事情があるのだろうと思っておきます。

新聞というのはどこでも同じね。ほんとうに知りたいことは書いてない

ついでにといってはなんですがこれも。

家族の標本 (角川文庫) 家族の標本 (角川文庫)
柳 美里
価格:500円

どこまでほんとでどこからがフィクションなのか見分けが付きません。エッセイのようで極く短い短編のようで・・・。暗い話ばっかしだし。でもズルズルと最後まで読む。
うーむ。わからん。わかるけどわからん。なんとはなし「キワドイなぁ」というところ。

先日読んだ佐野眞一『阿片王~満州の夜と霧』について近日中にupの予定です。いや~面白かった。岸さんはおこぼれに与っただけなのだとか。里見甫という人物についてはまったくの初耳でした。労作。

「呪われた血」はあるのか

  • 2007年03月28日 (水)

村上春樹が訳した『心臓に貫かれて』を読む。
著者はマイケル・ギルモアという音楽ジャーナリストだが、この本自体は音楽を主題とするものではない。この本の主題は「呪われた血」である。

1976年にユタ州で二人の男性が殺害される。犯人はまもなく逮捕された。その名をゲイリー・ギルモアといった。四人兄弟の次男坊、この男の末弟が著者であるマイケル。

死刑廃止論の高まりの中で刑の執行が十年間近くにわたって途絶えていたアメリカにおいて、敢えて死刑を要求する奇矯な殺人犯としてゲイリーはマスコミを賑わすことになる。殺人犯の家族が世間で肩身の狭い思いをすることになるのはいずこも同じ、既に音楽分野の評論家として活動していたマイケルもまた兄の愚行に端を発した騒動に捲き込まれていく。

原著の刊行は1994年、同年の全米批評家協会賞(伝記・自叙伝部門)などを受賞した由だが、その間約20年近くの歳月が流れている。もしこの本が単に20年も前の殺人事件やその犯人像を詳細に描いたものであったならば誰もこの本を手に取りはしなかっただろう。四半世紀近くも前の殺人事件ごとき、多くの人びとの興味を惹くものではない。この本の主題は殺人事件などではない(事件そのものについての記述は新聞のベタ記事並の簡略さだ)。

「殺人犯の弟」は、自分たち一族の歴史を呪われたものとして描いている。
そう、「呪い」などという非科学的なものはバカげている。確かにそうなのかもしれない。しかし自分たちの家族に次々に降りかかる災禍を、一族にかけられた「呪い」として理解せざるを得ない人がここにいた。この本はいわゆるノンフィクションではあるが、呪いというフィクション(虚構)を描いたノンフィクションだといってよい。細々とした歴史的事実を積み上げていくことによってあぶり出されてくる虚構。

そしてこの身内に限定された虚構に加えて、ひとつの殺人事件を契機として世間は新たな別の虚構を作り出す。犯人やその家族たちに関する、彼らとは全く結びつかない新たな虚構が作りあげられゆく。

かつてはトラブルに満ちた私的関係でしかなかったものが、今では世間の好奇の目や、マスコミの詮索の対象になってしまっている。あなたのお兄さんの人生が——ということは同時にあなたの人生の一部でもある——目の前で、あなたの力ではもう始末に負えないくらいに大きく膨れ上がってしまって、やがては、あなた自身の人生までもが、なんだかあなたのものではなくなってしまったみたいに思えてくる。

世間が作り出した新たな虚構、それも極めて類型的でチープなありきたりの「物語」が(著者を含む)当事者たちを浸食しその記憶を拗じ曲げ、蝕んでゆく。おそらく著者は20年近くの時間をかけて呪いの一つを解除しようと試みた。そして彼は、真実の欠片ひとつ見たこともない「部外者」たち、あるいは世間が作り出した、きわめてチープな物語・虚構・呪いを解除することに成功した。しかしまた同時に彼は、自らにかけられた別の呪いを目の当たりにすることになる。

僕はもともと継続する見込みのない家族に生まれ落ちたのだ。そこには四人の息子たちがいたけれど、誰一人として自分の家族を持たなかった。誰一人として伝承や血縁を広めようとはしなかった。

親の愛を知らぬまま生長した父フランク・シニア。彼は妻や息子たちを虐待した。しかし多分彼自身はそれを虐待だとは思わなかった。それはしつけであり訓育であったはずだった。しかしその裏には自分が親に求めて得られなかった愛情を妻や息子たちから得ようとする胸苦しいまでの欲望があった。しかし結果として、愛情を希求するが故の彼の言動が自分と同じように愛に飢えた息子たちを作り出してしまった。

愛に飢えた悲しい人間の再生産。それこそまさに著者が自分にかけられた呪いとして見出したものだった。長男フランク・ジュニアは世捨て人同然、次男は殺人犯、三男は痴話げんかのもつれが原因で刺されたのち死亡。唯一年が離れていて虐待を受けなかった四男だけがまともな社会生活を営んでいる。しかしその四男でさえ呪いと無縁ではない。

(・・・)僕らは自らがかつてやられたように、殴りつけたり損なったりするための子供たちを持つことさえしなかった。そして僕は、たしかに長い間みんなに、自分は家庭を持ちたいと言ってまわってはいたけれど(ひとつにはそれによって、僕が自分の家庭で目にしてきた破壊の埋め合わせをすることができたらと思っていたためだった)、結局のところ、どうしても家庭を持つことはできなかった。(・・・)その夢をかなえるために必要とされる選択の場面において、僕は常に間違った選択肢を選んでいた。(・・・)我が家に起こったことはあまりにも恐ろしいことであり、それは僕らの代で終わるべきであり、止められなくてはならないことであり、子供を持てばまた同じことが起こってしまうのではあるまいか、と。

言うまでもなく、これは決して特殊な例ではない。子供を虐待する人の生育歴を見渡すと、そこにはしばしばわが子と同様に虐待を受けていた事実が見出される。愛と憎しみの再生産。周囲の人間は訝しむだろう。「自分がやられて厭だったのならやらなきゃいいじゃないか」と。あるいは「ケシカラン」と。

不快の再生産など合理的ではない。たしかに。不快なことなら避けて通ればよいはずだろう。しかし明らかに不快なことを、なぜか避け得ない人たちが現に存在している。

その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである。ある意味においては、それこそ、ゲイリーとゲイレンがやったことだった。彼らは自らの死をもって、血の流れを止めてしまったのだ。

もちろんこの著者は兄の罪を過小評価してはいない。どれほどのことがあろうとも、人に他人の命を奪いあるいは傷つけその権利を侵害する権利が与えられるわけはない。しかし人間の生は当為の言葉だけでは語り尽くせない。もし人生が当為の言葉だけで片付くのなら文学や芸術は不要だ。にもかかわらず現代は上っ面の「事実」をもてはやし、「現実的」という言葉がさも善きことのように響きわたっている。「事実」と称されるもののあやふやさなど、芥川龍之介の作品を持ち出すまでもなくとうに知れ渡ったことではあるにしろ、それでもわたしたちは「事実」だけに執着しがちだ。確実なものを欲しがる。そしてその実、各々が見たいものだけを見ている。

事実だけを偏執的に集積したところで見えないものがあるという”事実”はなぜか見えないらしい。この著作に関していえば、これはときおり見かける偏執的ノンフィクションでは全くない。この著作は事実を語るノンフィクション作品ではあるが、あきらかに魂を揺さぶる力を持った芸術作品だ。それはどこにも救いの見出せない、暗くおぞましく希望のない人生、そしてその人生の支柱あるいは重石となっている虚構(フィクション)を映したノンフィクションだ。

この本の中にほとんど皆無の救いを見出そうとすればそれは長兄フランク・ジュニアの著者に対する愛情だけだろう。

おまえのことを考えると、俺は誇らしい気持ちになることができた。そのとき俺は思ったんだ。おまえの邪魔だけはするまいってな。おまえの前にのこのこ現れて、この姿をさらしておまえに恥ずかしい思いをさせたくはなかった。おまえはうまく過去を捨てられたんだ。そしておれは、その過去をもう一回蒸し返すような真似はしたくなかった。俺は思った。『俺たちのうちの一人は——たった一人だけだが——なんとかうまく抜け出せたんだ。成功したんだ。そっとしておいてやらなくちゃならない。幸福なままにしておいてやらなくちゃならない。それがせめてもの俺にできることだ。そのまま行かせてやろう。あいつが家族の絆に縛られていなくちゃならない理由は何もないんだもの』ってな。

とはいえこれですら胸を締めつけられる思いがする。兄弟・家族としての絆を断ち切ることだけが愛情とならざるを得ない痛ましさ。おそらくこの部分だけを読んでも鼻白む人もいようからご一読を勧めるとだけ言っておくことにする。

最後に
各章の冒頭には家族の写真が掲げられているのだが、そのうちの幾葉かに胸ふたがれる思いがした。まだ十代前半とおぼしきフランク・ジュニアが写っている。
背後に立つ父が彼の肩に両手を添えている。そのジュニアの幽鬼のような立ち姿はまるでどこかの虐殺収容所の囚人のようだ。焦点の定まらない目、落ちた視線、地面から浮き上がってしまっているかのような身体、明らかに止まっている呼吸・・・。
目を背けたくなるような写真だ。それは何も彼を見たくないのではない。彼がそのとき感じていたであろう恐怖・苦痛・不信感が私の目を背けさせる。

考えてみれば私自身、かつて彼に似た子供たちを少なからず目にしてきた。自らの責任の及ばない理由によって脅かされ、自らを信じることが出来ず、自信を失い世界に対する信頼感を喪失し不信感に満ちた子供たちの姿を少なからず目の当たりにしてきた。彼らは決してその場限りの笑顔や励ましだけでは回復しない。長い時間をかけなければ彼らの世界に対する信頼感は取り戻せないし、またそれを取り戻せる保証すらどこにもない。

そのような結論に達するのは——自分の中に地球上の継続されるべきではない何かがあり、自らの生命の存続を自らが許さぬ何かがあると感じるのは——たやすいことではない。そんな地点に辿り着いて、自分という人間とその将来の意味を悟ったことによって、僕の人生は変わってしまった。僕はもうかつての僕ではなくなってしまった。そしてもう二度と昔の自分には戻れないのだろう。ときどきそう考える。

今の私に出来ることはさほど多くない。というよりほとんど何も出来ないと言うべきだろう。
「解けない呪いなぞないのだ」
そんなことを言うのはたやすい。
「自信を持ちなさい」
持てるものならとっくに持ってるはずだろう。

フランク・ジュニアの写真を繰り返し見つめながら、彼(彼ら)にとって転機となる出会いあれかしと思う。
私の乏しい経験からいえば、人が変わるきっかけはテレビでも本でも新発見の事実でもない。人と人との関係、人との関わりのなかでこそ人間は変わっていくことが出来る。
いまのところ私はその考えを変えていない。

今度こそほんとに最後。
重苦しい本ではあるけれど読み進めずにはいられない本でした。おわり。

心臓を貫かれて 心臓を貫かれて
マイケル ギルモア
入手不可

(原著)”Shot in the heart”,Mikal Gilmore

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

  • 2007年03月18日 (日)

(本の話の前に前ふり)

今朝は久しぶりにまともな(というか日記帳の装幀についてではない)記事を書いたのだけど、その後どうも何かがひっかかったままのような感じで非常に具合が悪い。ふて寝するのもなんなので、また書く。
ホリエモンへの一審判決について昨夜から今朝にかけて二つのエントリを立て続けに書いたのだが、どちらとも当初の見込みとはまるで違う方向に話が進んでいってしまった(自分が進めたんだけど)。ホリエモン判決のニュースを読んだ瞬間の私の感想は、「実刑は妥当か?」「日興はどうなんだよ!」「裁判官の説諭は、比較的に厳しい判決とのバランスを取ったか!?」といった感じだったのだが、いざ記事を書き出したら全然見当違いの方向に進み始めてしまった。二つとも。そういうわけでくどいようだがもう少しこの件について考えてみることにした。

  • 今回の判決は妥当なのか
  • この一件は社会に今後どのような影響を与えるか
  • 拝金主義とは何を、あるいはどのような在り方を指しているのか

こうしてつらつら考えてみてもどうもはっきりとしたイメージが湧いてこない。対象が見えてこない。
いまふと思ったのだが、少なくとも私はホリエモンの事件の原因を彼の個人的な資質に還元して分かった気になろうとは思っていない。それはホリエモンが持っている(とされている)資質を矮小化してしまおうとしているのではなく、この件をむしろホリエモンを含む人間一般の問題として把握したいということだ。その理由の一つは私がホリエモンに関して持っている、また今後得られるかもしれない情報がすべて「気の抜けた情報」つまりは伝聞でしかないというところにある。直に彼を知らない私が彼についてここでどれほどもっともらしいことを述べたてたとしても自己満足以外の何一つ得られないだろう。また、判決の法的妥当性について検討することも私はその任に堪えない。ただこの一件を考察するにあたっては法規範と倫理を度外視することは出来ないように思われるが、おそらく私の考えは法と倫理との端境を見出そうとする方向へ向かっていきそうな予感がする。

そしてもうひとつの焦点は、この一件から窺い知れるであろう社会の現状を考えてみることだ。確かにマスコミなどにはホリエモン個人を取り上げてその拝金主義を難詰しているものが多いが、意図的かどうかはともあれ紙上あるいは電波上(?)でホリエモンの拝金主義が批判されればされるほどに、その実その拝金主義的なものは決して彼一身の問題ではないのだということがあからさまになっているように思われる。

さて、このまま書きつづけるといつ終わるか分からないのでひとまずここで一段落。私個人的には少しだけ目標が見え始めた気がします(勝手ですいません・・・)。

本題(今日の「書きたかったこと」)

ここで一つだけご紹介を・・・。ホリエモンよりもむしろこの本について書きたかったのですが、それではちょっと記事が長くなりすぎて誰にも読んでもらえなくなりそうなので(今さら言っても遅いのかもしれないが・・・)サラリと。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
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この本、わずか200ページ足らずの本ですが何度も何度も読みかえしたくなるほど「濃い」本でした。村上春樹と河合隼雄の対談をメインに後日二人が書き加えたノート(追記)が併記されていますが、小説・物語・身体性・無意識などをキータームとして非常に示唆に富む対談が交わされています。ちょうど村上はこの対談が行われた時期に地下鉄サリン事件に関する取材を進めていたそうで、文筆活動の初期の、なんとはなし韜晦(村上曰く「デタッチメント」)したような村上がどのような経緯でより社会的な事象に興味を向けるようになっていったか(「コミットメント」しようとしているのか)を村上自身が語っています。
最後に引用を二つ。(上段は村上、下段は河合)

ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに行っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。

何でも「裏がえし」というのは、その元のものとほとんど変わりはありません。「体制」を措定して、その裏がえしの「反体制」を考えるやり方は、「体制」のなかに本質的には組み入れられているのです。

私にはホリエモンを断罪する資格などない。
またもちろん投資家を批判する権利もない。
私に与えられた義務は、ただこの一件から自分なりの、単なる裏返しの思考にとどまらない何かを見出し、それによって社会にコミットメントすることだと思っている。

村上春樹『アンダーグラウンド』

  • 2007年03月05日 (月)

読了。

読む順序が逆になってしまったが、『約束された場所で』に続けて『アンダーグラウンド』を読む。アンダーグラウンド2とされる前者が地下鉄サリン事件の加害者であるオウム教団の信者たちのインタビューだったのに対して、こちらは被害者の方々へのインタビューである。地下鉄サリン事件からちょうど2年後である1997年3月20日に刊行された700ページを超える大著だが、思わず惹き込まれてあっというまに読んだ。読まされた。

思うところはいろいろとあったが、もっとも強く感じたことを一つだけ挙げるとすれば、例のない惨劇に直面した被害者の方々のほとんど全員が例のない異常事態をその時は決して”異常なもの”としては感じていなかったということだった。

大勢の人びとが行き交うラッシュ時の地下鉄構内に致死性のガスを同時多発的にばら撒くという蛮行が人びとの想像の埒外にあったことは当り前のことだろう。そしてインタヴューはその当り前のことを淡々と裏付けていく。

「教祖」アサハラの死刑は確定したもののいまだに逃亡を続けている者もいるらしい。彼らは何を思って逃亡を続けているだろうか。

願わくば被害者の中のお一人が語られた次の言葉通りであって欲しい。

殴られた人(マジュンノム)は体を伸ばして寝ます。殴った人(テルンノム)は体を縮めて寝ます。

蛇足ではあるが鹿児島の選挙違反冤罪事件に関する新聞記事の中に次のような記述があった。

 経営者の男性は中山さんの知人だった。思わず怒鳴った。「うちは出していない。あんたたちは何のために警官になったんだ! 正義の味方になるつもりじゃなかったのか!」
 捜査員の一人が言った。
 「我々は真実を探している。偏った捜査はしていない。信じてほしい」
 30分の口論の末、2人は帰っていった。
 ところが、午後5時半ごろ、2人の捜査員はもう一度やってきた。「今の気持ちはこれです」と言って、額に入った二つの書を差し出した。
 「事件が解決したら、中山さんに渡してほしい。こういう刑事もいたということを伝えて下さい」
 書にはこう書かれていた。「うそはうその友を呼び 真実は真実の友を呼ぶ!」

「止まらなかった『暴走列車』 下」(asahi.com My Town 鹿児島)

「うそはうその友を呼び 真実は真実の友を呼ぶ!」
青臭いこといってるんじゃないよという向きもあるかもしれないが、なんとか基本法の改正とかなんとかいうよりもさきに、まずなによりも上の言葉が決して空々しく響かない人と人との繋がり、信頼関係がつくづく欲しいと思った次第。

アンダ-グラウンド アンダ-グラウンド
村上 春樹
価格:2625円

村上春樹『約束された場所で』

  • 2007年03月01日 (木)

1998年に刊行されたオウム真理教信者へのインタビュー集『約束された場所で』。

”アンダーグラウンド2”ということですが、1のほうはまだ読んでいません。たまたま2が手近にあったので読んでみました。

あらためて思い返してみると、地下鉄サリン事件が起こってからもう10年以上経っている。この事件の直前には阪神大震災が起こり、震災当日の夜(たぶん当日だったと思う)、部屋の灯を落としたまま布団の中で夜通しFMラジオの安否情報を聞いていたことが記憶に残っている。私は現場にいたわけでもなく、ただ遠くからテレビやラジオを通じて「情報」に接しただけであったわけだが、単にメディア経由であるというだけにとどまらない奇妙な非現実感にとらわれた記憶がある。それから間もなくしてサリン事件が起き、翌日の朝刊を目にするまでまったく事件の発生を知らなかった私は、一面におどる大活字を見るなり震災の時と似た感覚に襲われた、もっとも、今から思い返すせばそういう気がしてくるというだけのことなのかもしれないが。

この本をを読み進んでいくうちに、私の体の内にはあのときの茫漠とした感覚が湧き上がるとともに、胃の腑が徐々に変調を来してきた。

この本は確かにインタビューを元に構成されている。一人ひとりのインタビューの中にとりたてて過激な事実、あるいはグロテスクなものがあるわけではない。しかし一人目のインタビュー、二人目のインタビュー、三人目の・・・・・・と読み進めていくうちに彼ら全員に共通するあるものが次第に明確な形をとり始める。その或るものが私の胃の腑を揺さぶりだしたように思われた。誤解を恐れずにいえばその或るものは私と無縁のものではないような気がしている。しかし、いまのところ私にはその或るものがどういうものかはわからない。わからないまま、私の肉体が勝手に反応し始めた。

インタビューを読む限り、ここに登場するオウム教信者たちの誰ひとりとして他人や社会に対して害心を全く持っていない(ように見える)。むしろ神経質なほど「善きもの、善きこと」へ執着している。きわめて真面目な人びとだとさえ言えるようなのだ。善人だと言ってもいいのかもしれない。

オウム信者には高学歴者も多数いたということがしばしば言われる。しかし注目すべきはオウム信者(インタビュイー)らに共通している「合理性への盲信」であるように私には思われた。自分の性格について、「理屈っぽい」、「納得できるまで動かない」とは彼らの多くが口をそろえて語っている。

では、そうした「頑固さ」が問題の核心か、といえば決してそうではないように思われる。彼らの「頑固さ」と他者への盲信とが結びついたとき、彼ら自身に大きな危機が訪れた。彼らのいう「合理性」は、「どこまでも自らの頭で考え抜くための足がかり」などではなかったようだ。それは自らの思考の暴走に対する歯止め、思考の規矩ではなく、不条理をも包含した現実社会から身を守るための矛であり盾であるにすぎなかった。いったん彼らが自分と同じようなヴィジョンを持っていそうな人物に出会ったとき、彼らは自発的に武装を解除することになる。すなわち彼らの頑固さは自身の内から発した信念に基づくものというよりもむしろ、外界から自分の身を守るための殻であったように思われてならない。

そうはいっても私はどうも彼らの頑固さを非難する気にはなれない。人はあらゆる手段を用いて自分を守ろうとするものであろうと思う。もしも大勢で和気藹々と鍋を囲む一座の中に身を固くして座っている仲間がいたとしたら、たいていの人は彼を非難するよりも先に優しい声のひとつもかけて和ませようとするのではなかろうか。あるいは存在を無視する人がいてもいっかな不思議ではないが、さすがに「なぜそんなに警戒してるんだよ、おい!」などと言う者は少なかろう。

殺人その他の犯罪に関わった者の話はさておき、オウムの人びとに過ちがあったとすればそれは頑固さ自体でも信仰そのものでもなく、自らの自律性をすすんで放棄したところにあるのかもしれない。

しかしまた、自律性の放棄が問題だとなると話はさらに大きくなってくるだろう。上司の命令には逆らえない会社員、捜査方針に異を唱えることで捜査からはずされることを恐れる警察官、その他多くの市井の人びともまた自律的存在とは言えないからだ。

オウム信者に限らず犯罪者は断罪され贖罪を果たすべきは言うまでもないし、今後再び同じような悲劇が繰り返されぬような対策を講じることは必要なことだろう。しかし、それがオウム真理教への対策・封じ込めという形でだけなされても再発防止にはつながるまい。オウム事件は私が考えていた以上に今の日本社会の現状と密接に絡みあい、また、オウム信者以外の人びと、オウム信者以外の個別の人びとへも極めて根源的な問題を突きつけている。

すでに地下鉄サリン事件は一昔前の話となった。宗教団体としてのオウム真理教は潰滅したのだろう。しかしながら、何ものかを盲信するような在り方、その場その時の支配的な言説への盲従、自律的思考の放擲、そんな事どもが巷に溢れる光景は当時も今もさほど変化していない。はたして我々の視線が、麻原ではない別のなにか、何者かに向けられていないと断言できるのだろうか。

オウム事件があぶり出した様々な疑問は私自身に直接関わってくる問題でもあるのだ、と私の胃の腑が言っているような気がしている。

私が目指したのは、明確なひとつの視座を作り出すことではなく、明確な多くの視座を——読者のためにそしてまた私自身のために——作り出すのに必要な「材料」を提供することにあった。それは基本的には、私が小説を書く場合に目指しているものと同一である。

消化できていない問題を無理矢理言葉にしたせいでやけに生硬な文章になってしまいました。
ともあれこの本は、オウム事件をはるかに超えて人間の根源的な何ものかを突き刺し切開し顔面に叩きつけてきます。

約束された場所で―underground〈2〉 約束された場所で―underground〈2〉
村上 春樹
入手不可

『海辺のカフカ』と「踏み字」無罪

  • 2007年02月23日 (金)

村上春樹の『海辺のカフカ』を読む。

15歳の少年をめぐる一人称の物語と、文字を失った「ナカタさん」を焦点とした三人称の物語が同時並行的にストーリーを展開し、交錯する。結末はやはり一人称(一見すると二人称、か)。

ところどころで素の村上春樹の声が聞こえてくる気がしたのは気のせいだろうか。

ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつけるーーー少なくともある種の人間の心を強く引きつける・・・ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる

とことんとろい奴だな。ひょっとしておまえの脳味噌は寒天でできてるんじゃないのか。このふぬけういろう野郎が。なにが木の葉だ。私はたぬきじゃないんだ。私は観念だ。観念とタヌキじゃぜんぜん成り立ちが違うんだ。まったく、なにをくだらんことを言うか。

村上春樹氏についての評価は大きく分かれているのだそうだ。さもあらん。
後に引用した「カーネル・サンダーズ」氏の言葉を村上氏自身の言葉と受け取ることも読者の自由だろう。氏の作品に、「つじつま」「必然性」「(うわっつらの)リアリティ」、そんな寒天もとい観点から難癖つけはじめたらいくらでも見つけられそうだもんね。

そこから意味(にしろ無意味にしろ何がしかを)汲み取ろうとさえすれば、なんぼかは出てくるものが必ずある。私はそう思う。想像力の欠如だとか倫理観の欠如だとかを糾弾するその狭量さがそのまま別の「想像力の欠如」であることは覚えておきたい。

想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。

わたしとしては15歳の主人公以上に、文字(知識)を失った初老の「ナカタさん」に共感するところが多かったが、「文字を失った」ことに何か深い意味があるような気がしたまま、今もよくわかっていない。しばらく楽しめそう。

文字といえば鹿児島の「踏み字」事件(!)の判決が出たとのこと。
鹿児島県議選巡る選挙違反、地裁が12人全員無罪(読売新聞)
この谷敏行裁判長についてこんなブログ記事も(福岡若手弁護士のblog)。


あいつらはナカタさんのそのわけのわからない話を聞いたら、そんなもんはぽいして、適当な供述書をでっちあげる。・・・そういう誰にでもわかりやすい話にしちまう。真実が何か、正義が何かなんて、あいつらにとっちゃどうでもいいことなんだ。てめえの検挙率をあげるために犯人をでっちあげるなんて朝飯前だ。

小説はフィクションであってフィクションでない。
なんだか今日の私は文学の持つ可能性を強く感じてます。

おいおい、よしてくれよ。俺はね、おじさん、こう言っちゃなんだけど、警察ってのがきらいなんだ。大きらいだ。あいつらはヤクザよりも、自衛隊よりもたちが悪い。やりくちが汚ねえし、すぐエバるし、弱いものいじめが何より好きときてる。・・・だからさ、俺は警察とだけは喧嘩したくねえんだよ。勝ち目はないし、あとに尾を引くんだ。わかるかい?

「これがフィクションであることを証明してくれ、是非!!」と私は言いたい。

うわずった声で「紙を踏ませる行為は妥当性に疑念を生じさせかねない不適切な行為。判決を重く受け止める」と

鹿県警本部長 「踏み字」謝罪/県議会代表質問(南日本新聞)

「妥当性に疑念を生じさせかねない」?
そういえばどこかのマスコミも「捏造と言われても仕方がない」などと言ってたが、いい加減にしてくれ。

はっきりと、
「妥当でない」
「不適切」
「言語道断」
「あってはならない」

そういうことじゃないですかね?

個人では背負いきれない責任を替わって負うということこそが組織や役所の存在意義であり責務でもあるのではないだろうか。

それなのに、個々人の関係であれば
「それで謝ってるつもりかよ!ふざけんな!!」
と言われること必定の台詞が日本中のあちこちで口にされている。いったい何のための”組織”なのだろうかと考え込まざるを得ない。

踏み字をさせた捜査官の出世の道が閉ざされるぐらいのことで責任をとったつもりになるのか。おふざけになるのはこの際よされたほうがよいと思う。とりすました言葉と担当者の懲戒だけで「組織としての謝罪」だと言いきる厚顔無恥には呆れるしかない。

村上春樹のフィクションが、「あくまでも架空の物語である」、ということを是非とも証してほしいと強く思う。無理な願いだろうか・・・。

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関連エントリ:(メモ)鹿児島「踏み字」控訴断念

村上春樹『TVピープル』

  • 2006年12月26日 (火)

さらっと読了。

村上春樹の短編集
感想はとくになし
楽しみました

TVピープル
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村上春樹『東京奇譚集』

  • 2006年11月25日 (土)

読了。

(収録作品)
「偶然の旅人」
「ハナレイ・ベイ」
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
「品川猿」

それは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ

  「日々移動する腎臓のかたちをした石」より

「品川猿」も分かりやすい作品でした。
「どこであれ・・・」はハードボイルドタッチの文体が私好み。

村上作品は読み手との距離感のつくり方がとても心地よいですね。

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村上春樹『やがて哀しき外国語』

  • 2006年11月09日 (木)

読了。

これも淡々と読み終わりました・・・。

村上春樹の文章のあまりに淡々としたところが、以前の私にとってはさほど心地の良いものではなかったのですが、最近読んでみてちょっとだけ印象が変わりました。もちろん変わったのは私自身なのでしょうけれど。

「ああ、このひと、すごくマイペースなひとなんだ」というのが文章に滲み出ているような気がしました。(実際のところどうなのかは知る由もありませんが・・・。少なくともご本人自身どこかでそう書いておられましたね。)

どこまでも淡々タンタンたんたん・・・。で、ときどきサラっと(じつは)鋭いことを言っている。友達の中に一人はこういう男が居るもんですよねー。

長く日本を離れていていちばん強く実感するのは、自分がいなくても世の中は何の支障もなく円滑に進行して行くのだなということである。・・・考えてみればこれは自明の理で、人間が一人増えたり減ったりしたぐらいで世の中が混乱していたら、世の中が幾つあったって足りない。しかし日本で生活して、自分の役割のようなものに毎日忙しく追われていると、そういう自分の無用性のようなものについてじっくりと深く考え込んでいるような暇がないのも確かである。・・・外国に長く出るというのは社会的消滅の先取り=疑似体験であると言ってもいいような気がする。

日本にいるときにかいつも感じさせられた様々な種類のややこしい煩わしさよりは、・・・ぎりぎりの個人という資格の上に降りかかってくる直接的な「きつさ」の方が、僕にはまだリーズナブルな者であるように思える

「僕らがこうして自明だと思っているこれらのものは、本当に僕らにとって自明のものなのだろうか」と。でももちろんそういうぼくの考え方は適切なものではないだろう。だて自明性についての問い掛けがあるということ自体が、自明性の欠如をはっきりと示唆しているわけだから。

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村上春樹『村上ラヂオ』

  • 2006年11月07日 (火)

読了。

ふぃーっと読んでおしまい。それだけ。

村上春樹『風の歌を聴け』

  • 2006年06月04日 (日)

読了。
10年以上まえに友人から勧められたものの、以来ずっと積ん読状態でしたがフト読んでみました。

感想ひとこと。
「しかしまぁなんとアメリカンな・・・」

通貨単位や地名の若干を変更すれば、すぐそのまま海外でも出版できるようにできてるな~、と感心。
種々の雰囲気や人物像(この作品の場合は”薄味・ちょっと退嬰的”)が紙面に的確に創り出してある、という印象でした。
ついでに言えば、主人公が関わる○○ー○屋の女性が指を4本しか持たないという設定が最後まで解けませんでした。

風の歌を聴け (講談社文庫) 風の歌を聴け (講談社文庫)
村上 春樹
入手不可

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