「星新一」カテゴリの記事一覧

『人民は弱し官吏は強し』再読

  • 2010年01月17日 (日)

星新一の『人民は弱し 官吏は強し』を再読。著者の父である星一が設立した星製薬が、(戦前戦後を通じて見られる)利権政治の渦中で商売敵やそれと結託する政治家・官僚によってどのように陥れられていったのかを描いた史伝のような小説、あるいは小説のような史伝。どこまでが事実でどこからが新一による想像・創作なのかは判然としない(部分もある)が、読む人が読めば「そこ」に描かれた醜い有様の多くがまぎれもない実際の様子であることはたやすく知れるだろう。

著者は史実にもとづきながら、アメリカ帰りの楽天家である父が如何に前向きに事業に取り組み、そして如何にドロドロとした利権や保身の為の嘘や嫉妬の渦のなかに引きずり込まれていったのかを描くにあたって(彼にしては珍しく)抑えきれない怒りの感情を垣間見せている。

裁判で理非を明らかにしようというのではなく、あくまで罪人を作りあげたがっているようだ。気ちがいが刃物を振りまわしているのに似ている。

『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫)

拘置所あたりで読むには最適の一冊かも知れぬ。

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) 人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)
星 新一
価格:500円

二人のハジメと阿片

  • 2007年06月03日 (日)

このブログの特徴の一つが「尻切れトンボ」であることに既にお気づきの方もおられることと思う。
タイトルに番号を振っておきながらその後いっこうに続編がupされないまま放置されているものがいくつもある。これは決して言い訳ではないが、「放置している」わけではないのです(言い訳か・・・)。

私の場合、書くときは一気呵成に書く。一息に書くことが物理的にも無理な場合であれば少なくとも骨組みだけは書き上げる。というのも一旦休符をいれてしまうと再び立ち上げるのに莫大なエネルギーが必要になるからなのだ(ハイ、言い訳です)。実際のところ”再起動”出来ないままのことも多々ある。
したがってこのブログも、本来ならば最後まで書き上げた上で寝かせ推敲したものを分載するべきなのだ。が、大抵は思いつきをそのまま(誤字脱字もものかは)upしている次第・・・。

なにを言わんとしているのか。
いや、回りくどいね、あまりにも。
・・・・・・
いやぁ、一言でいうなら「行き当たりばったりで書いております」と言うことです・・・。
はい、それだけです。

いやはや、前置きが長くなった。

先日、佐野眞一『阿片王』についてupする予定と書いたものの、そのあと少しばかり「気になること」が出てきたので別の機会に改めてupすることにしました。
とはいえそれだけでは言い訳に終始してしまうので、当の「気になること」について書いておきます。

『阿片王』は里見甫(はじめ)という人物の実像に迫ることを通じて戦前に日本軍が中国・満州において密かに行った阿片取引に光を当てようとしている。この里見甫について私にはこの本を読むまで何一つ知るところがなかった。しかし同時に彼のような人物が近代日本の大陸政策に深く関わっていたであろうことは承知してもいた。

里見についていえば、彼は修猷館・東亜同文書院出身の貿易会社員、ジャーナリスト、満州国通信社主幹、関東軍嘱託・・・。一度たりとも軍人であったことはなかったし政府の一員であったこともない。徹頭徹尾の民間人である。が、その彼が日本政府の大陸政策の深部において極めて重大な役割を担う存在であったというのが佐野の著作の主眼なのだ。

日本の大陸(対中国)政策と阿片。阿片資金に依った関東軍。阿片資金にたかったという点に係る日本と蒋介石国民党政府の共通性。

戦後60余年を経た今も日中関係は清算されたと言える状況ではない。一方当事者は「もう済んだ話ではないか。いつまで謝罪させるつもりなのか。もう知らぬ」と言い募り、片や「まだ清算されてなどいない。歴史を直視せよ」といわゆる”反日教育”を続ける。
枝葉末節はさておいて大ざっぱなことをいってしまえば、「両国間で清算されたか否かについて共通理解に達していないということはすなわち未だ清算されていないのである」と言うべきなのだろう(当然だ)。

しばしば「政府として行ったことではない」という言辞が弄されることがある。しかしこれが相手方を納得させうる言葉遣いではないのは言うを俟たない。政府間のはなしであればそれで事済むことは確かにあるだろう。しかしながら日中が抱える問題は民衆の感情と不可分というべきだろう。現に相手方の土地に軍隊を差し向け、その土地で軍事力を行使し国土の荒廃に加担した以上は。この点、現在の在日米軍問題ともつながる。政府間で合意が調ったところで現地の(沖縄)の人々の感情・思いは全く別のものとして存在し続ける。国土防衛のために必要なのだという正論も彼らの(旧日本軍・米軍の駐留による負担が我々にばかり負わされているという)生活実感を変えることは出来まい。

しかし、(中国政府のことはよく知らないが)日本に限って言えば政府はそうした「感情」に驚くほど疎い。それは感受性が欠如しているのか、それとも感じながらも見ないふりをしているのかは私にはよくわからない。ちっぽけな小型漁船で事済む程度の潜水調査に数千トンの掃海母艦を派遣して「待機」させる目的が奈辺にあったのかすら感じ取れないほどの不感症に陥っている日本人は果たしているだろうか。

母艦派遣に賛成する者も反対する者もその(母艦の)存在が現地の人々の行動を強く掣肘するであろうと期待(あるいは危惧)したという点では何ら差はない。もし仮にどこかのお役所が「大した影響力はないけどとりあえず派遣しといただけですよ」と言うようならばそれは税金の無駄遣いとして大いに責められて然るべきだろう(もっともこの件がゼニカネの問題どころの話ではないのは繰り返す必要も無かろうが)。

いやはや
また横道に逸れはじめた。

一口に言えば「政府として○○○」と公言することにどれほどの意味があるのか、またどのような効果があるのか大いに疑問だと言うことなのです。
(もっともらしい)正論は時に相手方を逆上させることさえある。
相手方を逆上させることが真の目的であるのならば、近年の日本の政策が極めて有効なものであることは先般の従軍慰安婦問題(「広義の狭義の」発言と訪米時の謝罪発言)における安倍首相の右往左往ぶりを見れば明らかだろう。

で、
戦時中の中国における阿片政策にはまさに「政府として行ったものではない」にもかかわらず、日本国の対中政策のうちの非常に大きな柱の一つであったというところに大いに興味を覚えた。現地中国人が日の丸を「日本の国旗」としてではなく「阿片販売の商標」と理解していたらしい記述を読みながら、果たしてそれに類する誤解が現在は完全に解消されたのかどうか大いに怪しんだ次第。

それともう一つ気になる点。
この本を読んだ直後に(ようやく)最相葉月『星新一 1001話をつくった人』を読んだのだが、新一の父であり星製薬創立者である一(はじめ)に関連した政府・軍部・満州人脈・阿片の記述を読みつつ佐野の『阿片王』がフラッシュバックしっぱなしであった(どちらも新潮社刊なのは偶然か?奇しくも里見甫と星一、ハジメつながり)。

というわけで
その辺りを整理した上で改めて書くかなと思っております。時期不明ということで。

この二著、どちらも労作。

阿片王 満州の夜と霧 阿片王 満州の夜と霧
佐野 眞一
価格:1890円

星新一 一〇〇一話をつくった人 星新一 一〇〇一話をつくった人
最相 葉月
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書評の書評 ~ 星新一 評伝

  • 2007年04月05日 (木)

ついに出た。
待望の一冊。最相葉月『星新一 ~ 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)

星新一 一〇〇一話をつくった人 星新一 一〇〇一話をつくった人
最相 葉月
価格:2415円

以前のエントリで「星新一全集出しましょうよぅ・・・」などと書いた星新一フリークの私ですが、全集ではないけれど出ました、評伝が。読んでないどころかまだ手許にすらないけど。

日記や草稿、関係者の手紙、談話など膨大な資料をもとに、英雄の生涯を語りおこす初の本格評伝

作品の中ではほとんど一切自分のことを語らない匂わせない流儀を貫いた星新一。本名星親一。しかしそのサラリとした文体から漂う妖気(?)はタダ者ではない気配を充分に感じさせていた。

「人間が書けていない」といったお決まりの批判を受けていた・・・そうではない、人間への絶望と愛情が深すぎるがゆえに、作品では感情を極限まで抑制したのだと、最相は分析

まったくもって同感。などと言いながら実はまだこの評伝を読んでいない。読んだのはasahi.comの書評。この本は是非読まねばならぬ。いやいや、いったいどなたが待望の一冊をこの世にお送り下さったのか。有難や。

そうですか。最相葉月さん。「さいしょう」さんとお読みするのですね。いや、またてっきり・・・。不覚。『絶対音感』をお書きになった方ですね。うん、手に取ったことはあれど読むまでには至らなかったのですが、これを機会にこちらも読んでみよう。星の評伝を書いていただいた方となればそれはもう・・・ぅぅ感涙(ちと大げさか)。いや、でもほんと嬉しい。評伝が出たちゅうだけで私は嬉しい。落涙。帯の推薦文はもちろん筒井御大?

そんなわけでいずれ感想文を提出いたします。
今日はこれにて(全然書評じゃなかったですが)。
・・・ハイ、今日はこれだけです。祝杯。

星新一による自作批評

  • 2007年02月17日 (土)

『なりそこない王子』(新潮文庫)読了。

しとしとと降る雨音を聞きながら耽読した一冊。
前回のエントリ星新一『きまぐれ博物誌』にDr.Waterman氏が下さったコメントへ返事(返コメント?)をカタカタと書いていたら、随分と長くなりかけたので、いっそ読後感とあわせて新たなエントリとして書くことにしました。

Mark Twainの「乞食王子」の後日談というべき「なりそこない王子」ほか11編。解説はなぜか星新一自身。

エッセイの類には星が自身の小説観や作法を書いているものがありますが、この「あとがき」もまた一種の自己作品分析。星が自作を「解説者」として批評する、ある種貴重な一文ではなかろうかと思います。

解説なら、無難に「星新一は日本におけるSF、ショートショートの先駆者である」と、まず書くところだろう。しかし、文句の出る可能性がないでもない。(・・・)どうせ呼ばれるのなら、「日本には珍しく、時事風俗の描写を避けた作風」あたりが、私もうれしいし、的確なのではなかろうか

この解説によれば、時事風俗の描写を避けたのは作品の生命を長く保つことを主目的としたものというよりは、あくまでも小説上の効果を考えてのことであったようです。そもそも星自身の書くもの自体がテレビだとかオートメーションなど、当時の日本の新風俗と密接に関わっており、そこへさらに旧来の風俗小説的な手法を持ちこむことへの違和感があのような星の簡素な文体につながったのだと。

そのうちそれになれてきた。前例がないので、けなされることもなく、好きなようにやれ、それになれてきた。

私そのものが、ひとつの時代、ひとつの風俗の産物なのである。(・・・)モーツァルトの曲は、いまも愛されているが、あの時代でなければ出現しなかっただろう

ところで、
ざっと調べたところ、星の全集というのはないのですね、いまのところ。ショートショートだけを集成したものはあるようですが(『星新一ショートショート1001』)。未だ活躍中の筒井康隆の作品などはとうにまとまった著作集が出ているのに、エッセイ等も含めた星新一全集がないのはどうしてなんでしょうね・・・。ただでさえ短い作品が多いうえに世界中で読まれている名作ぞろいなわけですから、完全な全集を編む価値は極めて高いと思うのですが。

ひょっとすると関係する出版社が多すぎるなどという理由もあるのでしょうか。今私の手許にある『なりそこない王子』も講談社(単行本)→講談社(文庫)→新潮社(文庫)。角川文庫に入っている作品も多いですし、おまけに最近刊は理論社とかいうところから出ているようです。引く手あまたが災いしているのかも。
ともかく、もし出たらすぐにでも財布をはたいてでも手に入れたいところなんですが。

出版関係者のみなさん、もうそろそろ星新一全集だしませんか?

なりそこない王子 (新潮文庫) なりそこない王子 (新潮文庫)
星 新一
価格:460円

星新一『きまぐれ博物誌』

  • 2007年02月16日 (金)

読了。
星新一のエッセイ集。
テーマは時事風俗、小説論その他多岐にわたるが、そのどれもが端的な筆致でわたしたちの視野狭窄的なありようをユーモアにくるみながら剔りだしている。このエッセイ集の刊行が1971年だから個々のエッセイの初出はさらにいくらか遡ることになる。大阪万博、三億円強奪事件、アポロの月着陸、マクルーハンのテレビ論等々が時事的な話題として取り上げられているあたり、時代を感じさせるものがある。

とはいえ、読み進めていくうちにハタと気づくのだ。

私たちの身の回りに溢れるさまざまな「モノの姿形」「コミュニケーションのツール」は大きく変われど、モノではない我々自身の有り様やコミュニケーションの本質などは当時も今もまるで変化していない。

あるときはミニスカートが流行り、ダッコちゃん人形がおしゃれで、ラッパズボンがカッコイイ。またあるときは・・・(以下略)。
外見・外装は確かに目に見えて変わる。
流行っているからみんなが着る、みんなが着るから流行る。流行っているから・・・(またまた以下略)。

べつだん、着るものに限ったはなしではない。
マスコミ(世論)が政治家の発言や一企業・官庁の不手際をあげつらう。政治家や企業は二度と叩かれないようにきれい事ばかり並べるようになる。きれい事を並べているくせに中身が伴わないとマスコミ世論がまた叩く・・・(以下略)。

とてもおもしろい現象だ。見ようによってはこれほどユーモラスなことはそうそうない。

もっともそれには、自分がそうした輪廻の過程で必然的に生じるであろう「被害者」ではない場合に限る、という限定条件がつくのだが。

流行の波に乗ろうと大増産を図ったもののコケてしまった洋服屋。きれいごとさえ並べてれば大過なく過ごせたにもかかわらず実質を求めたが故に袋だたきにされた愚か者。彼らにとってはユーモラスな出来事だと笑ってはいられまい。

ともかく、自分自身が被害者ではない限り、自分自身は今後も被害者には決してならないであろうと楽観できる限りで、誰れもがシアワセでいられる。

星新一は、その一見あたたかみのある文章には似つかわしくない、極めてシニカルな視線でそうしたありさまを眺めていた。とはいえ星ののどかな文章技法は決して売らんかなの、もしくは底意地の悪いテクニックではなかろう。

はなしが逸れるが、昨日「ラジオカフェ」というサイトでちょっとした対談の録音を聴いていたのだけれど、その中である作家さんがおおよそ「自分のことを素のまま出しても誰も聴いてはくれない」といった意味のことを話されていた。もっともなことだと思う

おそらく、星の人間観察・社会観察を素のまま出しても誰一人として星の言には耳を貸さなかっただろう。みずしらずの人間が発する「人間なんてこんなもんさ」とも聞こえるネガティブな言葉に好きこのんで耳を傾ける人は少なかろう。星の語り口はああでなければならなかったのだ。ああであるしかなかったのだ。淡々と、中性的で、つぶやくような語り口。そうしてはじめて星のシニカルな内実を(他人に聞いて貰える形で)表現することが可能になったのだ。そしてまた書くことによって星は自分自身を癒そうとしたのではないだろうか。

このエッセイ集の中に「笑顔とうやむや」と題する一文がある。国会で吉田茂が発した「動物園へ行かなくてもサルは国会でたくさん見ることができる」というユーモアを伴う言葉に、対立党の議員やマスコミが「正論」をおし立てて難詰するという茶番を、星は冷ややかに見つめる。

この発言がなされた当時の新聞報道を私は覚えている。けっしてユーモアと扱っていなかった。不祥事扱いの記事で、野党幹部の反論がのっていた。(・・・)その反論のほうは少しも覚えていない。おもしろくもおかしくもない公式的なものだったからだ。そのころを境にしてのようだが、その後はどの大臣も、公式の席であまりおもしろい発言をしなくなった。(・・・)ユーモアとは故意に曲解しようとすれば、どうにでもなるものなのだ。大臣だろうが都知事だろうが、だれも顔はこぼれんばかりににこにこ、発言は神経質なほど用心ぶかい。かかるスタイルが完成した。私はこんな異様でユーモラスなものはないと思うのだが、どうでしょう。

もっとも、最近わたしが耳にした政治家の失言とやらはユーモアの欠片もなかったのは事実だ・・・。星曰く、

政治家がいけないのでもない。芸能人、新聞記者、芸能週刊誌などがいけないのでもない。これが国民性なのだ。

そうして星自身もまた、そうした国民性を持った”国民”の一人なのだった。実際の星がユーモアに欠ける人物であったとはとうてい思えないが、ともかく星は「自分自身を笑いものにする」という節度を保ち続けた。一方で、そのような節度はあいかわらず持ち合わせていない御仁は今も少なくない(わたし自身がそうかもしれない)。

前に触れた「ラジオカフェ」では「ダイアローグ的知性について」という別の対談も聞くことができる。そこでは、「相手を叩きつぶすこと、相手を降参させることだけを目的とした「ディベート」とやらがいつごろから日本に蔓延しだしたのか」ということが論題の一つになっていたのだが、わたしもそのことが気に掛かっている。私見では(というか私自身の身の回りでは)1990年代の中頃からそのような風潮が目立ってきたように記憶しているが、もちろん一般化できる結論ではない。ただ、ひとつだけ言えるのはそうした風潮がとどまるところを知らず、拡がりつつあるということだけだ。

相手を降参させることを目的とした「議論」は、日本人がよく言うところの”ディベート”ではあるのかもしれないが、そのようなものはおそらく「対話」「ダイアローグ」が備える豊穣さを持つことが決してないだろう。それは議論に勝つか負けるかのガチンコ一本勝負であり既存のものからの二者択一だからである。一方(A)が負け一方(B)が勝つ。そうしてたしかに結論は出るだろうが、その結論の「導出過程には」一片の合理性もない。出された結論は単なる選択肢の一つ、暫定的なものであるにすぎない。

もちろん、物事を決定するに当っては「あれもこれもそれも」というわけにはいかないのは当然だ。しかし、ある決定が、決定されたが故にヨリ合理的であるとされるかのような奇妙な有り様に奇異の念を禁じ得ないことがしばしばある。

なぜ「ディベート」がつまらないものになったのか。
ディベートに罪はない。
おそらくそれはディベート教育に根本的な欠陥があるからだろう。私はそう思っている。その欠陥の一つは、それを教える側が「じぶんのつるべ」を使ったことのない、使うことを思いつかないからではないかと思われる。

話が星から逸れまくったな・・・。

しかし、この星の名著がなかなか入手しにくいのはいったいどういうわけだろう。
これほどの名著、なかなかないよ。ホントに。

きまぐれ博物誌 (角川文庫 緑 303-5)
星 新一
入手不可

星新一『きまぐれ学問所』と中村天風

  • 2007年01月18日 (木)

本日は晴天なり。しかし寒い。
そこで日がな一日、南面した書庫(といっても只の四畳半縁側)に籠って読書にいそしむ。手を延ばせばすぐに届くところに本が並んでいる状況は私にとっては至福。手狭すぎて身動きならないのが難点だけれど(うっかりコーヒーカップ倒しちゃったよ、クソぅ)。

昨夜のつづきでフッサール(の入門書)を読みすすめるも夕方になってダウン。とっても面白いのだが、それでもね・・・。
んでフト星新一に手が伸びる。いくつかショートショート読んで頭がホンワカしたところでこんどは『きまぐれ学問所』が「おれももう一回読んでくれ~」とうったえてきたので「よしよし」と手に取る。

「あれ?キミ、エッセイだったっけ?」と思いながら読む。

読む読む読む読む。

そうこうしながら「人生について」に辿り着く。
星新一による中村天風論。

「おおぅ」
星も中村も私の愛読書(まだどちらも読破してないが)。
星が中村天風について書いていたことに不覚にも気づいていなかった。よく考えてみたら前回この本を読んだ頃にはまだ中村天風のナの字も知らなかったのだ。だから記憶に残っていなかった。

「うん、そう。そうだよね~」と思いつつ星を読む。

このへんで、警戒心をゆるめて下さい。著者の中村氏は、決して独断的な信仰を押しつけようとはしていないのだ。大衆感覚を大事にしている

そういえば私自身以前は、客観的でない(ように思える)、合理的理解を超えた(ように思える)書物を敬遠していた。私が中村天風をたまたま手に取った頃、私はひとつの壁に突き当たっていた。それで偶然出張先の本屋の店先で見かけた天風の著作を手に取ってみたのだった。まったくの偶然から。おそらく私は天風の著作を他人から勧められても決して読まなかっただろうと思う。おそらく今、誰か他の人から天風の本を薦められたとしてもチラッと眺めただけでおわるだろう。
ま、ああいうのが「出会い」というものなのだろう、たぶん。

それで話は「人生について」に戻るのだけど

 作曲家の中村八大氏の短い文で、感銘を受けたので切り抜いておいたのがある。ある年上の知人の家で、つい売れなかった数年間の話をはじめた。すると、ひとこと。
「人前では、よしなさい。みな苦労をしているのだ。だれもが話しはじめたら、世の中は暗くなってしまう」
 はっと思い、明るい話だけをするようになり『上を向いて歩こう』の世界的ヒット曲が生まれることになる。
 いい話だ。

いい話だ。

翻って(マスコミ・フィルター経由の)世相に目を向ける。
「どうして私だけがこんなにも・・・」
自分は報われない、虐げられている、搾取されている・・・。
格差社会はけしからん、儲けすぎはけしからん、ついでに不二家はけしからん・・・。
仮にそう叫んでいる人がいるとして、もし彼が(彼女が)不意に「お金持ち」にでもなったら彼はどうするだろうか。「労働法規はけしからん!」「貧乏人は麦を食え!!」などと言い出すのか、はたまた「もっとお金を~!(ベートーヴェン風)」とでも言うだろうか。

「けしからん病」はおそらく不治の病だ。そんでもって人類皆全てそのけしからん病の保菌者、キャリアなのだと思う(少なくとも私は間違いなく保菌者だな。ときどき症状でちゃうもんね)。鳥インフルエンザも恐いんだけど、けしからん病の蔓延はもっと恐いよと感じる今日この頃。

一日遅れははけしからん
ダブル不倫はけしからん
ブレた姿勢はけしからん

そりゃたしかにそうかもしんない。
「ま、今度から気をつけてね。おたがいさまだから」って言う新聞が一社くらいあってもいいのじゃないかと思うんだけどダメ?(もっとも今度はその新聞社がヤられるだろうね)
ブレずに一直線にまっさかさまに奈落に落ちるよりもブレてくれる方が人間らしくて良くないかい?
公に異論が言えない状況って気味悪くない?

あんまし普段から怒ってばかりいるとホントに怒るべき肝腎なときに怒れなくなるってこともあるかも・・・・だよ。

しっかし星さんの文章は読んでてほんとに気持ちが良いね。

たんなるきまぐれ放言でした。
おしまい。

きまぐれ学問所 (角川文庫)
星 新一
入手不可

星新一『にぎやかな部屋』

  • 2006年08月07日 (月)

読了。
星新一の戯作風中編小説。

舞台は事務所として使われているビルの一室。金銭至上主義の金貸し男とその妻であるあやしげな占い師が登場。さらに詐欺師、強盗グループが出現。ミソは登場人物凡てに背後霊が取り憑いていること。

ウィットに溢れる反面、とてもシニカルな星新一の世界。
この作品はシニカルさが顕著に現われていました。

生きている連中の世界には、予想の原則なんてねえんだよ。あるのは偶然だけ。偶然とその結果だけ。それを各人が自己の好みで蒐集し、勝手な理窟をつけて人生観としてるだけさ。悪の栄えたためしがねえという偶然と結果の例だけを集めれば、そんな原理も出来あがっちゃう。逆に、悪事をしなければ栄えないという例だけを集めれば、そんな人生観も出来あがる。強い者が勝つ例だけ集めれば、その原則が確立し、負けるが勝ちの例だけ集めれば、そうともなる。どうにでもならあな。

星新一『にぎやかな部屋』

にぎやかな部屋 (新潮文庫) にぎやかな部屋 (新潮文庫)
星 新一
価格:380円

星新一『きまぐれ読書メモ』

  • 2006年06月21日 (水)

読了。

星新一の読書メモ。若干古いものですが、守備範囲の広さにおどろき。(ご当人は谷沢永一らのそれに脱帽されていますが。) 私自身が読んだ事のない書籍が多かったので、批評についてはなんともいえませんが、一言、面白かった。

ショートショート作品からはうかがい知る事の出来ない、筆者の本音らしきものも散見され、興味深く読みました。紹介されていた作品の中の幾つかに、惹かれるものがあったので、探して読んでみようと思います。

きまぐれ読書メモ (1981年)
星 新一
入手不可

星新一『祖父小金井良精の記』

  • 2006年06月01日 (木)

読了。著者も言うように、日記が基礎となっているため非常に淡々とした記述が続きますが、ハッとするところやなるほどと思わされるところが随所にありました。そのうちの帝人事件に関して。自説である天皇機関説問題で窮地に追い込まれた美濃部達吉が、それに先立って、帝人事件に関して議会に於て検察による人権侵害を強く非難していたとのこと。検察による意趣返しというのが多数説のようです。星新一の贅肉のない文体と良精の淡々とした日記記述が二人の血のつながりを感じさせる気がしました。

※帝人事件とは
政治的意図から関係者多数が逮捕・拘留され、結句、起訴された者全員が(証拠不十分などではなくそもそも違法行為を構成しないとして)無罪となった事件。

※※帝人事件について調べる過程でこんな記事も見つけました。
  http://riskyage.exblog.jp/3042978/
同記事中で紹介されている河合良成の著作とは、『帝人事件 三十年目の証言』かと思い入手を試みましたが、現在のところ絶版、最寄りの図書館にも所蔵なし。いずれ探して是非読んでみたいと思います。

祖父・小金井良精の記 (1974年)
星 新一
入手不可

現在文庫本で入手可能
祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫)
星新一
価格:998円

祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)
星新一
価格:998円

星新一『明治の人物誌』

  • 2006年05月08日 (月)
明治の人物誌 (新潮文庫) 明治の人物誌 (新潮文庫)
星 新一
価格:700円

先日に続いて星新一の著作を再読。
著者の父であり、星製薬創業者の星一(はじめ)とゆかりのある、日本人9人とエジソンに関する評伝。
刑事弁護で名をはせた花井卓蔵もとりあげられています。
以下、とりあげられている人名を挙げておきます。

(続きを読む…)

星新一『官吏は強し』

  • 2006年05月07日 (日)

星新一『人民は弱し官吏は強し』読了。

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) 人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)
星 新一
価格:500円

鶴見俊輔が書いた巻末解説で、”思想(アイデア)の自由市場”がオリヴァ=ウェンデル=ホウムズ2世の言葉であることを知りました。

再読でしたが、以前読んだときよりもはるかに強烈な感銘を受けました。
後日、読後感を書いてみます。

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