読了。
星新一のエッセイ集。
テーマは時事風俗、小説論その他多岐にわたるが、そのどれもが端的な筆致でわたしたちの視野狭窄的なありようをユーモアにくるみながら剔りだしている。このエッセイ集の刊行が1971年だから個々のエッセイの初出はさらにいくらか遡ることになる。大阪万博、三億円強奪事件、アポロの月着陸、マクルーハンのテレビ論等々が時事的な話題として取り上げられているあたり、時代を感じさせるものがある。
とはいえ、読み進めていくうちにハタと気づくのだ。
私たちの身の回りに溢れるさまざまな「モノの姿形」「コミュニケーションのツール」は大きく変われど、モノではない我々自身の有り様やコミュニケーションの本質などは当時も今もまるで変化していない。
あるときはミニスカートが流行り、ダッコちゃん人形がおしゃれで、ラッパズボンがカッコイイ。またあるときは・・・(以下略)。
外見・外装は確かに目に見えて変わる。
流行っているからみんなが着る、みんなが着るから流行る。流行っているから・・・(またまた以下略)。
べつだん、着るものに限ったはなしではない。
マスコミ(世論)が政治家の発言や一企業・官庁の不手際をあげつらう。政治家や企業は二度と叩かれないようにきれい事ばかり並べるようになる。きれい事を並べているくせに中身が伴わないとマスコミ世論がまた叩く・・・(以下略)。
とてもおもしろい現象だ。見ようによってはこれほどユーモラスなことはそうそうない。
もっともそれには、自分がそうした輪廻の過程で必然的に生じるであろう「被害者」ではない場合に限る、という限定条件がつくのだが。
流行の波に乗ろうと大増産を図ったもののコケてしまった洋服屋。きれいごとさえ並べてれば大過なく過ごせたにもかかわらず実質を求めたが故に袋だたきにされた愚か者。彼らにとってはユーモラスな出来事だと笑ってはいられまい。
ともかく、自分自身が被害者ではない限り、自分自身は今後も被害者には決してならないであろうと楽観できる限りで、誰れもがシアワセでいられる。
星新一は、その一見あたたかみのある文章には似つかわしくない、極めてシニカルな視線でそうしたありさまを眺めていた。とはいえ星ののどかな文章技法は決して売らんかなの、もしくは底意地の悪いテクニックではなかろう。
はなしが逸れるが、昨日「ラジオカフェ」というサイトでちょっとした対談の録音を聴いていたのだけれど、その中である作家さんがおおよそ「自分のことを素のまま出しても誰も聴いてはくれない」といった意味のことを話されていた。もっともなことだと思う
おそらく、星の人間観察・社会観察を素のまま出しても誰一人として星の言には耳を貸さなかっただろう。みずしらずの人間が発する「人間なんてこんなもんさ」とも聞こえるネガティブな言葉に好きこのんで耳を傾ける人は少なかろう。星の語り口はああでなければならなかったのだ。ああであるしかなかったのだ。淡々と、中性的で、つぶやくような語り口。そうしてはじめて星のシニカルな内実を(他人に聞いて貰える形で)表現することが可能になったのだ。そしてまた書くことによって星は自分自身を癒そうとしたのではないだろうか。
このエッセイ集の中に「笑顔とうやむや」と題する一文がある。国会で吉田茂が発した「動物園へ行かなくてもサルは国会でたくさん見ることができる」というユーモアを伴う言葉に、対立党の議員やマスコミが「正論」をおし立てて難詰するという茶番を、星は冷ややかに見つめる。
この発言がなされた当時の新聞報道を私は覚えている。けっしてユーモアと扱っていなかった。不祥事扱いの記事で、野党幹部の反論がのっていた。(・・・)その反論のほうは少しも覚えていない。おもしろくもおかしくもない公式的なものだったからだ。そのころを境にしてのようだが、その後はどの大臣も、公式の席であまりおもしろい発言をしなくなった。(・・・)ユーモアとは故意に曲解しようとすれば、どうにでもなるものなのだ。大臣だろうが都知事だろうが、だれも顔はこぼれんばかりににこにこ、発言は神経質なほど用心ぶかい。かかるスタイルが完成した。私はこんな異様でユーモラスなものはないと思うのだが、どうでしょう。
もっとも、最近わたしが耳にした政治家の失言とやらはユーモアの欠片もなかったのは事実だ・・・。星曰く、
政治家がいけないのでもない。芸能人、新聞記者、芸能週刊誌などがいけないのでもない。これが国民性なのだ。
そうして星自身もまた、そうした国民性を持った”国民”の一人なのだった。実際の星がユーモアに欠ける人物であったとはとうてい思えないが、ともかく星は「自分自身を笑いものにする」という節度を保ち続けた。一方で、そのような節度はあいかわらず持ち合わせていない御仁は今も少なくない(わたし自身がそうかもしれない)。
前に触れた「ラジオカフェ」では「ダイアローグ的知性について」という別の対談も聞くことができる。そこでは、「相手を叩きつぶすこと、相手を降参させることだけを目的とした「ディベート」とやらがいつごろから日本に蔓延しだしたのか」ということが論題の一つになっていたのだが、わたしもそのことが気に掛かっている。私見では(というか私自身の身の回りでは)1990年代の中頃からそのような風潮が目立ってきたように記憶しているが、もちろん一般化できる結論ではない。ただ、ひとつだけ言えるのはそうした風潮がとどまるところを知らず、拡がりつつあるということだけだ。
相手を降参させることを目的とした「議論」は、日本人がよく言うところの”ディベート”ではあるのかもしれないが、そのようなものはおそらく「対話」「ダイアローグ」が備える豊穣さを持つことが決してないだろう。それは議論に勝つか負けるかのガチンコ一本勝負であり既存のものからの二者択一だからである。一方(A)が負け一方(B)が勝つ。そうしてたしかに結論は出るだろうが、その結論の「導出過程には」一片の合理性もない。出された結論は単なる選択肢の一つ、暫定的なものであるにすぎない。
もちろん、物事を決定するに当っては「あれもこれもそれも」というわけにはいかないのは当然だ。しかし、ある決定が、決定されたが故にヨリ合理的であるとされるかのような奇妙な有り様に奇異の念を禁じ得ないことがしばしばある。
なぜ「ディベート」がつまらないものになったのか。
ディベートに罪はない。
おそらくそれはディベート教育に根本的な欠陥があるからだろう。私はそう思っている。その欠陥の一つは、それを教える側が「じぶんのつるべ」を使ったことのない、使うことを思いつかないからではないかと思われる。
話が星から逸れまくったな・・・。
しかし、この星の名著がなかなか入手しにくいのはいったいどういうわけだろう。
これほどの名著、なかなかないよ。ホントに。