「日本文学一般」カテゴリの記事一覧

『人民は弱し官吏は強し』再読

  • 2010年01月17日 (日)

星新一の『人民は弱し 官吏は強し』を再読。著者の父である星一が設立した星製薬が、(戦前戦後を通じて見られる)利権政治の渦中で商売敵やそれと結託する政治家・官僚によってどのように陥れられていったのかを描いた史伝のような小説、あるいは小説のような史伝。どこまでが事実でどこからが新一による想像・創作なのかは判然としない(部分もある)が、読む人が読めば「そこ」に描かれた醜い有様の多くがまぎれもない実際の様子であることはたやすく知れるだろう。

著者は史実にもとづきながら、アメリカ帰りの楽天家である父が如何に前向きに事業に取り組み、そして如何にドロドロとした利権や保身の為の嘘や嫉妬の渦のなかに引きずり込まれていったのかを描くにあたって(彼にしては珍しく)抑えきれない怒りの感情を垣間見せている。

裁判で理非を明らかにしようというのではなく、あくまで罪人を作りあげたがっているようだ。気ちがいが刃物を振りまわしているのに似ている。

『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫)

拘置所あたりで読むには最適の一冊かも知れぬ。

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) 人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)
星 新一
価格:500円

(読書メモ)三崎亜記『失われた町』

  • 2009年12月21日 (月)

この作家のデビュー作『となり町戦争』も相当面白かったがこの作品もまた楽しめた。何気なく「楽しめた」と畫いてはみたけれども含蓄のある作品でしたよ。 今年読んだ文学作品の中のベスト1(ただし出版されたのは2006年です、ハイ)。
ちなみに村上春樹の1Q84はまだ読んでいない。文庫版まだですか〜、まだでしょうね。粗筋を知って一層興味津々になった。ええ、私はネタバレしてても文学を楽しめる人間です。というか粗筋が分ってしまったらつまらなくなるのはハリウッド映画だけでよろし。

失われた町 失われた町
三崎 亜記
価格:1680円

引きこもりの『プリズンホテル』

  • 2008年11月08日 (土)

そろそろ冬籠もりシーズン、折悪しく(訂正!折良く)冷たい雨の降る休日、雑用の合間あいまに読みかけの浅田次郎『プリズンホテル』全4巻を読み終える。極道経営のリゾートホテルを舞台にとった、笑って泣いての娯楽小説、この作品この作家が半世紀後にどのような評価を受けることになるかなんてことはどうでもよく、右から左へと、ひたすら楽しめた。冬が来る毎に部屋に引き籠もって読書三昧の私にとっては、劈頭を飾る今冬第一作であった。
この本を読みながら、なぜかある作家のことがしきりに思い出されたが、どうしてもその名前がでてこない。あの人、直木賞の第一回受賞者、誰だったかな・・・。あ、ウィキペディアですぐひけるか。

きんぴかいいね

  • 2008年11月03日 (月)

数ヶ月ぶりに車を洗い、身の回りの片付けをチョコチョコやりつつ、浅田次郎の初期作である「きんぴか」シリーズを読む。面白い、だけではない。

以下、時代遅れの○暴刑事向井権左ェ衛門の思いを代弁する元大蔵官僚のセリフ。

「無欲捨身の正義が私欲保身の権力によって葬られる。現代の不条理とはそういうことです。法律はおのずから被害者と加害者を規定する。しかしそれが真理であるとは限らない。あなたの四十年間の結論はそれです。違いますか?」(浅田次郎『きんぴか1』光文社文庫)

「女の心がわりは許せても、男の変節は許せない ——それだけのことだ」(同上)

こうしたセリフも生で聞かされると「ってやんでぇ、オイ」と茶々入れたくなるもんだが、うまい芝居のセリフなら「うんうん」聞けるもの。

ありきたりな事件事故政局をありきたりな観点から見た読み飽きられた記事ばかりの新聞なんかよりも浅田本の方が(フィクションであるにもかかわらず)よっぽど面白いし余程現実を写し取っているよなぁ、などと思いつつ、それでも毎朝新聞を読んでしまう私は、今日も(数日前も)「生徒を愚か者扱いしたトンデモ教師!」その他の見出しに向かって悪態をつく自分が只の偏屈者であることを再確認する。

とりかへばや文学評

  • 2008年01月07日 (月)

例年のことながら、年が変って以後、低空を遊覧飛行中。軽いもの、面白いもの、くだけたものだけを食し、読み、観ている。大晦日に向かって膨らんだ風船が年越しと同時に萎み、一日は酒と昼寝、二日は映画、三日はテレビといった風。そして徐々にまた高まっていくというのが近年の習性となっている。そしてまたなぜかこの時期に読みたくなるのが「心」に関する本。ユング、河合隼雄・・・。彼らによるとどうやら現状は「心的エネルギーの低下した状態」とでも言うらしい。要は「タメの時期」というわけだ。「芸術は爆発だ!(@岡本太郎)」

河合隼雄『とりかへばや、男と女』(新潮文庫)の冒頭、引用されている国文学者藤岡某氏の「とりかへばや」評についつい独り笑い。

「人情の微を穿てるところなく、同情の禁じ難きところなく、彼此(ひし)人物の性格十分に発揮せず、ただ叙事を怪奇にして、前後応接に暇あらしめず、つとめて読者の心を欺諞(きへん)し、眩惑して、小説の功成れりとす。その奇変を好むや、殆ど乱に近づき、醜穢(しゅうわい)読むに堪えざるところ少からず。敢て道義を以て小説を律せんとするにあらず、その毫も美趣の存ぜざるを難ずるなり。殊に甚だしきは(後略)」

「怪奇」を「ふぁんたじい」とでも取り変へれば、今でもよく耳にする”悪口”ぢゃあないかね、こりやあ。

先般物故した河合が「物語り」について面白いことを書いているが、それについてはいずれ。
つづきを読まねば。ワシワシ。

やじうま根性

  • 2007年12月23日 (日)

このブログでは書籍の一部分を引用することがしばしばあるけれど、そのたびに思うことがある。
安易な引用を許さない文章こそ優れた文芸作品の条件の一つではないだろうか、と。これを別の言葉で言い換えるなら、粗筋を知ってしまえばもう読む気も失せてしまう作品ではないものとでも言おうか。まあフヤケタコトバカリ書き連ねてあってどこもかしこも箸にも棒にもかからないというのもあるかもしれぬが。

以前、どこかのブログのコメント欄でとある理論(?)に対する感想を述べたことがあった。wikipediaの記述をざっと見たばかりで感じたにすぎぬ愚見であったが。まあ決して褒められた態度ではない。もし自分がそれやられたら結構怒り心頭にというところだ。だからというわけでもないが(あるか?)、ちょいと一晩かけて仕込みをした。しかし結果的には無駄になったのだが。

島田Mが村上Hに尋常ならぬ感情を持っているらしいことがネット上のあちこちにあるようで、よそ事ながら結構興味津々なのだ。で、先日とある人気評論家(学者)さんのブログでまたそのようなものを読んだので、「へえ、やっぱほんとなの?」と思った次第。そこには村上のむの字もないんだが、こりゃあ「むの字はの字」しかいないだろ、とね、思ったわけだ。実際のところはまるで知らない。それはそれとしてなぜ島田が村上についてなぜにそこまで言わずにはおれないのかが知りたい。興味をそそられる。そこになにかありそう。野次馬です、ハイ。

それでま、ありもの島田を読んでみるかというわけで取り出したのが『忘れられた帝国』(「太陽の帝国」と間違ってしまいそうだ)。手許には他に『やけっぱちのアリス』しかない。後者は自腹を切ったものだが、前者はちょっとした経緯があって俺の本棚に収まっているもの。なもんで読むのは今回が初めて。いちおう以前何ページか眺めてみたが、それだけ。前の持ち主は大絶賛していたんだが。小説のつもりで読み進めていたらいつまで経ってもはなしが始まらないのに業を煮やした、とかそんな感じだった記憶がなきにしもあらず。

今回読んでみたところ、エッセイらしきものだということが判明。なるほど魚屋の店先で「鯖のみそ煮缶詰くれ」と言ってたわけだ、かつての俺は。話が通じなくて当然だ。で、この『忘れられた帝国』、結構笑える。引用はしない。そもそも笑い話は引用には向かないし、彼の作品そのものがどうも引用には向かないものだという気がしているので。なにせマンデリシタームの人ではあるしね。マンデリシタームについては、アフロディーテとかいう詩を島田が訳したものをこのブログのどこかにメモしている。)

ところで何故島田は自慰にこだわりを見せるのか。そこが私にはまだ分かっていない。村上が都合のいい性交を描く意図が分からないのもまた同様。モテル島田の描くモテナイ男と、モテソウニナイ村上の描くモテル男という「二重の対称性」にはなかなか興味深いものがある(これは私の主観ですよ、主観)。謎を解く鍵は意外とそのあたりにあるのであろうかどうであろうかあろうかあろうか。
ま、どうでもいいことではある。
そう、どうでもいいこと。
書いていればよし、カクしかない、でしょということで。

くおりあさんちでの戯れ言については、口をつぐむことにする。なぜなら言ってしまったその瞬間に自分に跳ね返ってきてしまうので(そしてそれは俺にとって48時間くらい逆立ちし続けることに等しいのだから)。鏡よかがみよカガミさん・・・あなたのおうちはどこですか。

ちなみにこの本の冒頭ちかく、下水に落ちた弟のエピソードがある。

弟は確信を持って地下水路に誰かいたといい張る。たぶん、光が苦手な照れ屋の河童が下水に住みついていたのだろう。その河童が弟をあの世へ流さず、この世へ押し戻したのだ。
帝国の下水には河童も住んでいる。
  島田雅彦『忘れられた帝国』新潮文庫

国家とは別の次元の、国家に対する反逆も破壊も伴わない「帝国」はいまもかろうじて存在している。いや、そうであって欲しい。そうでなければならない。念のため言っておくが、「帝国」を辞書でひくのはやめてくれよ。そこに政治的意図なんぞはまるでない。「帝国」の意味が知りたければ頼むからまずは島田を読んでね。読まなければ分からないものこそ文学です、たぶん。
辞書に載っていない言葉はたくさんある。というよりも辞書は所詮インデックス。頼むから振り回すのはやめてくれよ。厚いし痛い。

忘れられた帝国 (新潮文庫) 忘れられた帝国 (新潮文庫)
島田 雅彦
入手不可

ペンギン村にくっすん大黒

  • 2007年10月10日 (水)

ゴロゴロガサガサどったんバサバサグエーッペッペッとようやくカフカ樹海のど真中、視界のひらけたところにたどりついた。不条理不可解な審判と奇妙キテレツな城に既視感を感じて少しばかり悪寒を感じて変身。樹海探索の後半戦に備えて鋭気を養うためしばし休息。手持ちぶさたなので高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』、町田康『くっすん大黒』を通読。

「それではきみの『しょうせつ』はどんな『しょうせつ』なんだい」
「パパ。あなたはぼくの言ってることがよくわかっていないね。ぼくがぼくの『しょうせつ』がどんな『しょうせつ』だかわかっていたら、さっさと書いているにきまってるじゃないか」
「なるほど」
 〜高橋前掲書の「序文」より

とためしに引用してみることはできるけれども、肝心のところは引用なぞもちろん不可能。そしてその「肝心のところ」がある小説はとても希少。肝心かなめの肝、キモ。この、手に取って読んでみて始めて浮かび上がってくる「キモ」にこそ文学の価値がある(はず)。情報化され血肉を抜き取られた骸骨、知識の断片をどれほど収集し尽くしても見得ぬものはある。情報化された文学、そんなものは金輪際有り得ぬ。それは既に「文学」ではない。オマエハモウ死ンデイル。

なるほど、「マチダヤスシ」ではなく「マチダコウ」と読むのか。これは失礼。パーツとしての古風な言い回しが全体としては今風の文章を構成。ほほうへえへえ。筒井康隆を連想させる語り口。おもしろい。くっすん大黒。
ダイコクさまといえばホテイさまとくる。
先頃にはダイコクさまとホテイさまが喧嘩なされたとか。数日前にホテイさまが書類送検されたと新聞に小さく出てたな。しかも肩書きが「ギタリスト」。奇妙ではあった。そもそも新聞に「○○容疑者」「○○被告」「○○氏」とはよく見慣れた言葉だが、「○○ギタリスト」jというのは初めて見た。「ギタリストの○○氏」ではなかった。空前絶後か?「○○バイオリニスト」「○○ドラマー」見たことない。ま、どうでもいいが。いろんな事情というのはありがちなこと。ましてホテイ様でもあるのだし。
・・・いいんじゃないの・・・。
まぁ、マスメディアも相手次第では柔軟な対応が出来るということなのかもしれぬ。
今後に期待(なにをか知らねど)。
さてそろそろ。再びカフカ樹海へ踏み入るとしよう。数日のあいだ交信もとい更新途絶の予定。いざ。

高橋源一郎『ニッポンの小説』

  • 2007年09月10日 (月)

ぐい呑み片手にパラパラと読み始めた。

「ほほう」「ふんふん」「そーだそーだ」。

しかし読み進めるうちにだんだん「(カッカカッカ)なんたるこつ!」なったのは自分でもなぜだかよくわからん。挙げ句の果てには、やれ引用と地の文の区別がつきにくいだとか引用多すぎぢゃーなどとぶつぶつ因縁までつけはじめた。理由不明。分析中。納期未定。

しかしこの著者が小説という表現形式に対する強烈な問題意識を持っていることはよくわかった。私の怒りの原因はもしかして彼が私に憑依したのか?(そうかもしれぬ)。

一読者として言わせてもらえれば、小説には二種類ある。ひとつはストーリーとして面白いかどうか以前にそれ自体(文章自体)が既に作品としての魅力を持つもの。もうひとつは読み終えたらもうそれっきりになってしまうもの。なんだか意味不明のようだが今回は敢えて詳しくは書かぬことにする。いや、それもあんまりか。
言ってみれば詩と散文との違いに近い。

実のところこの二つの形式の違いについてはよく分かっていないが、今までは単に韻文か否かの違いだという風に捉えていた。簡単すぎるか!?もちろんこれはいくら「形式」についての説明とはいえなんでも形式的にすぎる捉えかたではある(しかし大抵の人は大抵これで納得してくれる)。この違いについてさらに先へとわけ入れば想像以上に拡がりを持つ問題ではある。このあたりのことが手を替え品を替えして取り上げられていた点はとても有り難かったが、なかでも荒川洋治の名前と吉本隆明の「詩学叙説」を知り得たことが私にとっては収穫であった。

じつにわたくし、吉本隆明、読んだことなし、荒川洋治、初耳。今回とくに荒川について興味大爆発であった(のでさっそく彼の本を入手予定)。

いつになくたくさんの付箋をペタペタと貼りつけ、読み終えてみて吃驚。付箋だらけ。そしてその半分(ひょっとすると3分の2くらい)が荒川からの引用(おそらく。なにせ地の文との区別がつけづらかったので)。

というわけで荒川氏のものらしき文章は今回引用しない。「!」「!!」「!!!」「我が意を得たり!!」がいっぱいであった、とだけ。

以下は(たしか)高橋の文。

彫刻家は、他人の彫刻を「鑑賞」するだろうか。あるいは、映画監督は、他人の映画を「鑑賞」するだろうか。音楽家は、他人の音楽を「鑑賞」するだろうか。 (中略) 「鑑賞」するのは、「散文」にマインド・コントロールされた消費者(鑑賞する人たち)だけなのである。

だいたい、小説に書かれていることばのすべてが、一つ残らず、かけがえのないものであるわけがない。ほんの少々。もしかしたら、数行、あるいは、一行だけなのかもしれない。

島田雅彦もどこかで似たようなことを書いてた気がする(彼の訳したマンデリシタームの「アフロディーテ」はとても好きだ)。

島田といえば、彼が村上春樹を評して「くだらないファンタジーだ」とのたまったらしいがほんとうなのかね。私の中では村上へのこの言葉とアフロディーテとが同一人物から出たものとは思いがたいんだが。

ファンタジーがくだらない?
村上(のファンタジー)がくだらない?

どちらにしても、そりゃあんた、それをいったら小説家としては自爆行為でしょうよ。

まあ、はたからは窺い知れない因縁つうのはありがちだけどさ。

はて、また迷子になっちまったよ。

とにかく高橋源一郎もこりゃ読まねばならぬ。

ニッポンの小説―百年の孤独 ニッポンの小説―百年の孤独
高橋 源一郎
価格:2350円

読書感想文の呪い

  • 2007年08月26日 (日)

子供を本嫌いにさせるには読んだ後に必ず読書感想文を書かせればよい、と言ったのは誰だったろうか。どこかの小説家だったかそれとも意外に身近な人物だったのかは覚えないが、その言葉を聞いたときに私は深く深くうなずいたような気がする。まさにその通り、と。

そのむかし、学校で(あるいは宿題として)詩や小説を読み終えたあとに私が書いた「かんそー文」は文字どおりの「作文」であった。「主人公の力強さがグッときて云々かんぬん」「私も彼のようにどーたらこーたら」、まあそんなことを書けば評価されるものだと信じていた私は本音とは程遠い”作りもの”の文章ばかりを始終でっちあげてそれなりの”成果”をあげていたのであった(笑)うん、結構作文の成績は良かった気がする。そんな風に小賢しかった私があるとき渾身の力を込めて小説かなにかの感想文(小説、じゃないですよ)を書いたことがあった。それはおそらく私にとっては自ら書きたいと思って書いた最初で最後の読書感想文であったが、それを読んだ国語教師は「手を抜くんじゃない。かきなおせ!」と至極真面目な顔で仰られた。おそらくは、常日頃だらけるばかりで一向にやる気を見せないガキに「ちょっとここらで喝いれとこか」くらいのことだったようにも今なら思えるのだが、お猿さん当時の私は「っにぉぉぉお!」と臍を曲げて以来感想文と名のつくものは一切「作文」、いや「作”感情”」に徹し、その後も必要最低限の文章(それをせねば路頭に迷うことになるような、書くことやむをえざる文章)は徹底して主観を排した(主観的には)デューク東郷ばりにクールな文章を書くことに徹したのでありました。したがってまた「なーに?ネットで日記公開だぁ?んな小っ恥ずかしいことできるかってんだーぁ」というのがつい1年半ほど前までの私の確たる信念(?)であった(それがいまは独り言ばかり書き付けて・・・)。

また前置きが長くなっている。

まぁ、そもそもつまんないもんを読んでみてもやっぱりつまんねぇし、感想ってもそりゃ書けませんやね、ということですかね。便秘の人間に「出せっ出せっ」つうても無理なんじゃわな。そういうわけで学校で感想文を書けば書くほどに青少年たちはまるで下剤を大量にのんだ者のようにその調子を狂わせていくのであった(ほんとかどうか知りませーん)。

いやいや
しかしであるよ。
書く。書きたい。書かせておくれ。読んでくださいませ。頼むよおっかさん。そういうこともやはりあるのです、ハイ。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』三部作。

「ええぇ、村上さん、94年にもうこんなん書いたのおおおおぉ・・・」「もっと早く手にしていればなぁ・・・(遠い目)」

というのがこの本を読んだ私の感想です。

「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなってないんじゃないかしら。

私たちのまわりからはたしかに意味のない無用な暴力は姿を消しました。そのかわりにそこには新しい種類の冷酷な計算ずくの暴力が生まれたのです。

前置きが長くなりすぎてもう息切れ。またいずれ。御免。

二人の詩人

  • 2007年08月14日 (火)

この一月ほどのあいだ、一人の詩人と一人の作曲家の名前が頭の片隅にずっと居座っている。

いつもの私はパッと思いついたことをスイスイすらすらダ〜ラダラと文字に変え、さきに楽をしたぶんの対価としてその後しばらくのあいだジクジクと襲ってくる自己嫌悪の念からはとっとと逃げ出して、また懲りずに書くことを繰り返しているアホウだが、今回はどうもそういうわけにはゆかず今日になった。といっても大したことが書けるわけでなし、自身の内心をいま言葉で十分に表現する自信もまるでない。が、それでも恥を忍んで書いておこうと思う。

原口統三と太田哲也。

詩心など逆さにしても出てこず、書いたことはもちろん読んだこともほとんど皆無という私ですらその名前は知っていたくらいなので、原口については口を噤もう。『二十歳のエチュード』。それだけで十分だろう。そして太田についても詳しいことは何も知らないのでこれまた何も言うまい。現役で活躍されている作曲家のようだが、ネットで検索しても詳しいプロフィール等は見当たらなかった。

が、ひと月ほど前、なにをどうやっていて辿り着いたのかさっぱり思い出せないのだが偶然この太田氏の公式サイトらしきものに行き当たって、少しばかり驚いた。こう書けばあとにはどう驚いたのか、なにに驚いたのかを書くべきところ、それがどうにも書けぬまま今日に至った。彼のサイトのどこかに原口統三の名があって(どこだったか不覚)、さしあたりそれを頼りにすべく原口に関する本を二冊ほど読んでみた。一冊は言わずと知れた『二十歳のエチュード』、もう一冊は原口の親しい友人であった清岡卓行の『海の瞳〜原口統三を求めて』。

読んだことはなかったものの、『エチュード』には少しばかり思い出がある。その昔、これまたどこで目にしたのか記憶が定かでないのだが(私はいつもそうだ。到底学者にはなれぬ。)エチュードの一節を目にして、妙に心惹かれるものを感じてこの本を書店で探してみたことがあった。しかし当時調べた限りでは既に絶版となっていて、いくつかの古書店にもあたってみたが偶々見当たらなかった。もちろんその当時インターネットなどという便利なものもなく、結局エチュードはそのまま読まずに過ごしたのであった。

今回太田氏のサイトで原口の名を見かけかつ太田氏の文章に感じるところがあって、改めてエチュードを探してみたところ幸いいまエチュードは光芒社から再刊されており、これが近くの図書館にも所蔵されていたので借り出して読むこととあいなった。

太田氏のサイトで引用されていた原口の言葉は次のようなものである。

「天邪鬼め!」などと、己惚れた悪口はよしたまえ。僕は何も故意に君たちに反対したのではない。僕はいつでも独りだっただけだ。

生来の偏屈者、天邪鬼の私がこの言葉に反応してしまうのは当然のことと言うしかない。(不遜な物言いをお許しあれ)

著者の師友らの手になる丁寧な解説の付されたエチュードを読む限り、原口の潔癖性が彼の自死の所以であるらしい。いざエチュードを読んでみて、詩心のない私にでさえ何か感じるものが確かにあった。

いかにも、僕は他人が僕と同じ道を行くことを望まない男である。僕においては、自分に言い聞かせる言葉と、他人に語る言葉とは劃然と常に区別された。

このような言葉のかずかずに私は青二才の繰り言とは片付けきれないものを感じるのだ。

そうしたこととは別のはなしではあるが、彼は詩人ということになっているのかもしれないが彼の残した唯一の著作が「詩」「詩集」であるとは私にはどうしても思えなかった。私はこのエチュードを読みながらそれを「詩」とは思えず、彼を詩人とは考えなかった(いまもそう考えてはいない)。なにせ私は詩というものが分からない。かつて通読できた詩集は一冊もないほどだ。ランボーもリルケもゲーテもワーズワースも未だに読めない。ゆえに埃まみれのまま部屋の隅に転がしてある。
いや、こんなことを書く必要はなかった。
それが詩なのかアフォリズムなのか判定する必要は少なくとも私にはない。出来合いの枠に無理矢理押し込む必要はこの際ない。私がどう感じるのか、それだけだ。私にはそれ以上のことを言うだけの見識もない。しかし確かに彼の作品から何かを汲み取った。勝手に、自分の欲するものだけを。それだけだ。

気持ちのいい親切は、ある程度の無関心を含むものである。何故なら、それはわれわれに、自由な余地を残しておいてくれるからだ。親切も、度を過ぎるとわれわれを不快にする。

自分の持ち場を離れなかったために、落ちて来た煉瓦の一片で命を失った大工。
僕の自殺もこんなことになるのだろうか。

なんだか原口の話だけで終わりそうな気配である。それもやむをえまい。なにせ太田氏についてはなにも知るところがないのだ。

しかしそれにしても味わいの深い文章をお書きになる方である。作曲家は同時に詩人でもあり、音楽と文学とはそれほど隔たったものではないのかもしれぬ(そういえば清岡の『海の瞳』文中に繰り返し繰り返し挿入される「原口統三」の一語が作り出す律動感にもそうしたことが言えそうだ)。私は詩というものが分からないと度々繰り返しつつこう書くのもおかしな話だが、この人の文章のなかに詩情とで言うしかないような何かが潜んでいるのを感じる。そしてときには図らぬユーモアも(ためしに2005年07月25日付のNo.8をお読みあれ)。もちろんその音楽論について共感するところすこぶる多し。

おお、結局この二人の「詩人」を繋ぎえぬまま終わりそうだ。機会があれば太田氏の曲を是非聴いてみたい。

そんなわけで太田氏のサイトをしばらく前に当ブログのブックマークに(勝手に)加えさせて頂いた次第。

「青藍山研鑽通信」〜作曲家太田哲也の創作ノート(http://www.geocities.jp/seiranzan_tsushin/index.html)[2009年2月現在非公開]→http://seiranzan.jugem.jp/ (2009年5月6日現在)
今日(8/14)覗いてみたら、「2007年8月15日更新」とあった。少しばかり得した気分なり。

2007年8月17日改題・一部改稿

『筒井康隆全集 21』

  • 2007年06月05日 (火)

気分爽快。快食快便。生気充溢。
つねに斯くありたいものだ。

「良薬口に苦し」とはいうものの、これは読書に関してはあてはまらないと私はカッテニ考えている。硬軟を問わず読書は常に楽しい。ツマラナイ本は読まないことにしているのだ。面白くない本を読んでいられるほど人生は長くない。

筒井康隆の作品を読んでツマラナイ思いをしたことはまだ一度もない。今回も満喫。収録作品はアマチュア文学者の悲喜劇と”お文学”が幅を利かせている文学界への風刺を込めた「大いなる助走」、書評集「みだれ撃ち瀆書ノート」の二作品。
大爆笑。

「大いなる・・・」はとりたてて実験的な手法で書かれているわけでもない、筋立ても田舎文学者が文学賞落選の恨みから審査員老大家たちをつぎつぎに射殺していくという単純明快なものであるにもかかわらず(あるいはそれゆえに)ひたすら笑える、死ぬほど。

銃口をを突きつけられた老大家のひとりが「歌を一曲うたわせてほしい」と懇願して歌いだす。
「出た出た月が」
「えっさえっさ、えさほいさっさ」「お猿の駕籠屋だほいさっさ」
「カラスなぜ鳴くの」
「森の木陰でドンジャラホイ」
「そそらそらそら兎のダンス」。
ここのところでわたし泣きました。面白すぎて。

今や殺されんとする状況で童謡を歌う珍妙さ、などと書いても面白くもなんともない。が、そんな一見なんでもない作りの一文からとめどなく溢れ出す笑気。これを芸と言わずしてなんというべきか。

・・・なんてことを書いてもあんまし意味無いんだな。芸がない。

いやいや、楽しませていただきました。

筒井康隆全集 (21)
筒井 康隆
入手不可

二人のハジメと阿片

  • 2007年06月03日 (日)

このブログの特徴の一つが「尻切れトンボ」であることに既にお気づきの方もおられることと思う。
タイトルに番号を振っておきながらその後いっこうに続編がupされないまま放置されているものがいくつもある。これは決して言い訳ではないが、「放置している」わけではないのです(言い訳か・・・)。

私の場合、書くときは一気呵成に書く。一息に書くことが物理的にも無理な場合であれば少なくとも骨組みだけは書き上げる。というのも一旦休符をいれてしまうと再び立ち上げるのに莫大なエネルギーが必要になるからなのだ(ハイ、言い訳です)。実際のところ”再起動”出来ないままのことも多々ある。
したがってこのブログも、本来ならば最後まで書き上げた上で寝かせ推敲したものを分載するべきなのだ。が、大抵は思いつきをそのまま(誤字脱字もものかは)upしている次第・・・。

なにを言わんとしているのか。
いや、回りくどいね、あまりにも。
・・・・・・
いやぁ、一言でいうなら「行き当たりばったりで書いております」と言うことです・・・。
はい、それだけです。

いやはや、前置きが長くなった。

先日、佐野眞一『阿片王』についてupする予定と書いたものの、そのあと少しばかり「気になること」が出てきたので別の機会に改めてupすることにしました。
とはいえそれだけでは言い訳に終始してしまうので、当の「気になること」について書いておきます。

『阿片王』は里見甫(はじめ)という人物の実像に迫ることを通じて戦前に日本軍が中国・満州において密かに行った阿片取引に光を当てようとしている。この里見甫について私にはこの本を読むまで何一つ知るところがなかった。しかし同時に彼のような人物が近代日本の大陸政策に深く関わっていたであろうことは承知してもいた。

里見についていえば、彼は修猷館・東亜同文書院出身の貿易会社員、ジャーナリスト、満州国通信社主幹、関東軍嘱託・・・。一度たりとも軍人であったことはなかったし政府の一員であったこともない。徹頭徹尾の民間人である。が、その彼が日本政府の大陸政策の深部において極めて重大な役割を担う存在であったというのが佐野の著作の主眼なのだ。

日本の大陸(対中国)政策と阿片。阿片資金に依った関東軍。阿片資金にたかったという点に係る日本と蒋介石国民党政府の共通性。

戦後60余年を経た今も日中関係は清算されたと言える状況ではない。一方当事者は「もう済んだ話ではないか。いつまで謝罪させるつもりなのか。もう知らぬ」と言い募り、片や「まだ清算されてなどいない。歴史を直視せよ」といわゆる”反日教育”を続ける。
枝葉末節はさておいて大ざっぱなことをいってしまえば、「両国間で清算されたか否かについて共通理解に達していないということはすなわち未だ清算されていないのである」と言うべきなのだろう(当然だ)。

しばしば「政府として行ったことではない」という言辞が弄されることがある。しかしこれが相手方を納得させうる言葉遣いではないのは言うを俟たない。政府間のはなしであればそれで事済むことは確かにあるだろう。しかしながら日中が抱える問題は民衆の感情と不可分というべきだろう。現に相手方の土地に軍隊を差し向け、その土地で軍事力を行使し国土の荒廃に加担した以上は。この点、現在の在日米軍問題ともつながる。政府間で合意が調ったところで現地の(沖縄)の人々の感情・思いは全く別のものとして存在し続ける。国土防衛のために必要なのだという正論も彼らの(旧日本軍・米軍の駐留による負担が我々にばかり負わされているという)生活実感を変えることは出来まい。

しかし、(中国政府のことはよく知らないが)日本に限って言えば政府はそうした「感情」に驚くほど疎い。それは感受性が欠如しているのか、それとも感じながらも見ないふりをしているのかは私にはよくわからない。ちっぽけな小型漁船で事済む程度の潜水調査に数千トンの掃海母艦を派遣して「待機」させる目的が奈辺にあったのかすら感じ取れないほどの不感症に陥っている日本人は果たしているだろうか。

母艦派遣に賛成する者も反対する者もその(母艦の)存在が現地の人々の行動を強く掣肘するであろうと期待(あるいは危惧)したという点では何ら差はない。もし仮にどこかのお役所が「大した影響力はないけどとりあえず派遣しといただけですよ」と言うようならばそれは税金の無駄遣いとして大いに責められて然るべきだろう(もっともこの件がゼニカネの問題どころの話ではないのは繰り返す必要も無かろうが)。

いやはや
また横道に逸れはじめた。

一口に言えば「政府として○○○」と公言することにどれほどの意味があるのか、またどのような効果があるのか大いに疑問だと言うことなのです。
(もっともらしい)正論は時に相手方を逆上させることさえある。
相手方を逆上させることが真の目的であるのならば、近年の日本の政策が極めて有効なものであることは先般の従軍慰安婦問題(「広義の狭義の」発言と訪米時の謝罪発言)における安倍首相の右往左往ぶりを見れば明らかだろう。

で、
戦時中の中国における阿片政策にはまさに「政府として行ったものではない」にもかかわらず、日本国の対中政策のうちの非常に大きな柱の一つであったというところに大いに興味を覚えた。現地中国人が日の丸を「日本の国旗」としてではなく「阿片販売の商標」と理解していたらしい記述を読みながら、果たしてそれに類する誤解が現在は完全に解消されたのかどうか大いに怪しんだ次第。

それともう一つ気になる点。
この本を読んだ直後に(ようやく)最相葉月『星新一 1001話をつくった人』を読んだのだが、新一の父であり星製薬創立者である一(はじめ)に関連した政府・軍部・満州人脈・阿片の記述を読みつつ佐野の『阿片王』がフラッシュバックしっぱなしであった(どちらも新潮社刊なのは偶然か?奇しくも里見甫と星一、ハジメつながり)。

というわけで
その辺りを整理した上で改めて書くかなと思っております。時期不明ということで。

この二著、どちらも労作。

阿片王 満州の夜と霧 阿片王 満州の夜と霧
佐野 眞一
価格:1890円

星新一 一〇〇一話をつくった人 星新一 一〇〇一話をつくった人
最相 葉月
価格:2415円

スプートニクの恋人

  • 2007年05月29日 (火)

さて。
4月以降私の頭は乾燥注意報発令中です。書くときも話すときも言葉がどうもスぅッと浮かんできませんで。頭をすごくぶ厚い紙(イメージはぶ厚すぎるコーヒーフィルタ)で覆われているような気分。言葉がポタポタ落ちてくるまでかなりの時間がかかります。
Cool Sea。
もっとも体の方は元気いっぱいですが。いろいろ仕込みに励んでおります。
そんな乾燥状態ですが(ですので)、以下、小学生なみの読書感想文を。

(と、宣言してしまうと後の文章がまた出てこなくなって・・・。)
もう読んでから結構時間が経ってしまった二冊。
一冊目はコレ。

スプートニクの恋人 (講談社文庫) スプートニクの恋人 (講談社文庫)
村上 春樹
価格:600円

小学校教師の主人公が行方不明になった女すみれを探しにギリシアへ。村上のエッセイ『遠い太鼓』に描かれた情景がそのまま出てきてた。
ああ、焼き魚が食べたくなってきた(『遠い太鼓』にギリシアの焼き魚の話が出て来るのですよ)。

しかし村上作品は(今までに読んだ限りでは)どれを読んでも「おお、そうだ。そうなのだ。同じ人がここにも居た」と思わせる箇所が必ずある。たぶん村上作品を読む多くの人がそう実感されているのではなかろうか。間口が怖ろしく広い。誰もがそれぞれ彼の作品のどこかの箇所で「おお、まさに・・・」。もちろん各々の辿ってきた人生は千差万別なのだから誰もがみんな同じ箇所で「ピン」と来るわけはなく、それぞれが村上の紡ぐ物語から各自勝手気ままに好きなものを読み取る。読み取ることが出来る。極端なはなし、村上作品にストーリーはいらない。パーツのひとつひとつが立ってるから。
・・・・・・
ん、でもやっぱしストーリーがなかったら人は読まないんだよね。読めない。いくらパーツが好みのものでもストーリーがないと(ストーリーが読み取れないと)これが読めない。あたりまえか。

考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる——それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。

うーん
確かに最近のわたし、どこにも行けておりません。書いていないもので。昨日は松岡農相、今日はなんとか機構元理事の自殺にはいろいろ考えさせられるがこれについてはまたの機会に書きたいと思います。しかし安倍さんは驚くべき天運の持ち主かもしれぬ。この点、祖父の岸信介に勝るとも劣らぬのではなかろうか。緒方竹虎・石橋湛山の相次ぐ死・罹病で漁夫の利(?)を得た岸。一方、今回の松岡氏の自殺が台閣への大打撃との観測もある安倍氏にとっては(結果的にせよ)一種の「損切り」であったと見るのは非情に過ぎるだろうか。
なんにせよ事が不適切な会計処理あるいは談合に止まるのならば、人ひとり(ふたりでも三人でも)の命と引き換えにせねばならぬほどのものではないようにも思える。だってそんなもんイマドキ(今も昔も)ありふれてますもんね・・・情けないことだけど。この件に限らずともまあ、いろいろと表だっては取り沙汰されない事情があるのだろうと思っておきます。

新聞というのはどこでも同じね。ほんとうに知りたいことは書いてない

ついでにといってはなんですがこれも。

家族の標本 (角川文庫) 家族の標本 (角川文庫)
柳 美里
価格:500円

どこまでほんとでどこからがフィクションなのか見分けが付きません。エッセイのようで極く短い短編のようで・・・。暗い話ばっかしだし。でもズルズルと最後まで読む。
うーむ。わからん。わかるけどわからん。なんとはなし「キワドイなぁ」というところ。

先日読んだ佐野眞一『阿片王~満州の夜と霧』について近日中にupの予定です。いや~面白かった。岸さんはおこぼれに与っただけなのだとか。里見甫という人物についてはまったくの初耳でした。労作。

書評の書評 ~ 星新一 評伝

  • 2007年04月05日 (木)

ついに出た。
待望の一冊。最相葉月『星新一 ~ 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)

星新一 一〇〇一話をつくった人 星新一 一〇〇一話をつくった人
最相 葉月
価格:2415円

以前のエントリで「星新一全集出しましょうよぅ・・・」などと書いた星新一フリークの私ですが、全集ではないけれど出ました、評伝が。読んでないどころかまだ手許にすらないけど。

日記や草稿、関係者の手紙、談話など膨大な資料をもとに、英雄の生涯を語りおこす初の本格評伝

作品の中ではほとんど一切自分のことを語らない匂わせない流儀を貫いた星新一。本名星親一。しかしそのサラリとした文体から漂う妖気(?)はタダ者ではない気配を充分に感じさせていた。

「人間が書けていない」といったお決まりの批判を受けていた・・・そうではない、人間への絶望と愛情が深すぎるがゆえに、作品では感情を極限まで抑制したのだと、最相は分析

まったくもって同感。などと言いながら実はまだこの評伝を読んでいない。読んだのはasahi.comの書評。この本は是非読まねばならぬ。いやいや、いったいどなたが待望の一冊をこの世にお送り下さったのか。有難や。

そうですか。最相葉月さん。「さいしょう」さんとお読みするのですね。いや、またてっきり・・・。不覚。『絶対音感』をお書きになった方ですね。うん、手に取ったことはあれど読むまでには至らなかったのですが、これを機会にこちらも読んでみよう。星の評伝を書いていただいた方となればそれはもう・・・ぅぅ感涙(ちと大げさか)。いや、でもほんと嬉しい。評伝が出たちゅうだけで私は嬉しい。落涙。帯の推薦文はもちろん筒井御大?

そんなわけでいずれ感想文を提出いたします。
今日はこれにて(全然書評じゃなかったですが)。
・・・ハイ、今日はこれだけです。祝杯。

「呪われた血」はあるのか

  • 2007年03月28日 (水)

村上春樹が訳した『心臓に貫かれて』を読む。
著者はマイケル・ギルモアという音楽ジャーナリストだが、この本自体は音楽を主題とするものではない。この本の主題は「呪われた血」である。

1976年にユタ州で二人の男性が殺害される。犯人はまもなく逮捕された。その名をゲイリー・ギルモアといった。四人兄弟の次男坊、この男の末弟が著者であるマイケル。

死刑廃止論の高まりの中で刑の執行が十年間近くにわたって途絶えていたアメリカにおいて、敢えて死刑を要求する奇矯な殺人犯としてゲイリーはマスコミを賑わすことになる。殺人犯の家族が世間で肩身の狭い思いをすることになるのはいずこも同じ、既に音楽分野の評論家として活動していたマイケルもまた兄の愚行に端を発した騒動に捲き込まれていく。

原著の刊行は1994年、同年の全米批評家協会賞(伝記・自叙伝部門)などを受賞した由だが、その間約20年近くの歳月が流れている。もしこの本が単に20年も前の殺人事件やその犯人像を詳細に描いたものであったならば誰もこの本を手に取りはしなかっただろう。四半世紀近くも前の殺人事件ごとき、多くの人びとの興味を惹くものではない。この本の主題は殺人事件などではない(事件そのものについての記述は新聞のベタ記事並の簡略さだ)。

「殺人犯の弟」は、自分たち一族の歴史を呪われたものとして描いている。
そう、「呪い」などという非科学的なものはバカげている。確かにそうなのかもしれない。しかし自分たちの家族に次々に降りかかる災禍を、一族にかけられた「呪い」として理解せざるを得ない人がここにいた。この本はいわゆるノンフィクションではあるが、呪いというフィクション(虚構)を描いたノンフィクションだといってよい。細々とした歴史的事実を積み上げていくことによってあぶり出されてくる虚構。

そしてこの身内に限定された虚構に加えて、ひとつの殺人事件を契機として世間は新たな別の虚構を作り出す。犯人やその家族たちに関する、彼らとは全く結びつかない新たな虚構が作りあげられゆく。

かつてはトラブルに満ちた私的関係でしかなかったものが、今では世間の好奇の目や、マスコミの詮索の対象になってしまっている。あなたのお兄さんの人生が——ということは同時にあなたの人生の一部でもある——目の前で、あなたの力ではもう始末に負えないくらいに大きく膨れ上がってしまって、やがては、あなた自身の人生までもが、なんだかあなたのものではなくなってしまったみたいに思えてくる。

世間が作り出した新たな虚構、それも極めて類型的でチープなありきたりの「物語」が(著者を含む)当事者たちを浸食しその記憶を拗じ曲げ、蝕んでゆく。おそらく著者は20年近くの時間をかけて呪いの一つを解除しようと試みた。そして彼は、真実の欠片ひとつ見たこともない「部外者」たち、あるいは世間が作り出した、きわめてチープな物語・虚構・呪いを解除することに成功した。しかしまた同時に彼は、自らにかけられた別の呪いを目の当たりにすることになる。

僕はもともと継続する見込みのない家族に生まれ落ちたのだ。そこには四人の息子たちがいたけれど、誰一人として自分の家族を持たなかった。誰一人として伝承や血縁を広めようとはしなかった。

親の愛を知らぬまま生長した父フランク・シニア。彼は妻や息子たちを虐待した。しかし多分彼自身はそれを虐待だとは思わなかった。それはしつけであり訓育であったはずだった。しかしその裏には自分が親に求めて得られなかった愛情を妻や息子たちから得ようとする胸苦しいまでの欲望があった。しかし結果として、愛情を希求するが故の彼の言動が自分と同じように愛に飢えた息子たちを作り出してしまった。

愛に飢えた悲しい人間の再生産。それこそまさに著者が自分にかけられた呪いとして見出したものだった。長男フランク・ジュニアは世捨て人同然、次男は殺人犯、三男は痴話げんかのもつれが原因で刺されたのち死亡。唯一年が離れていて虐待を受けなかった四男だけがまともな社会生活を営んでいる。しかしその四男でさえ呪いと無縁ではない。

(・・・)僕らは自らがかつてやられたように、殴りつけたり損なったりするための子供たちを持つことさえしなかった。そして僕は、たしかに長い間みんなに、自分は家庭を持ちたいと言ってまわってはいたけれど(ひとつにはそれによって、僕が自分の家庭で目にしてきた破壊の埋め合わせをすることができたらと思っていたためだった)、結局のところ、どうしても家庭を持つことはできなかった。(・・・)その夢をかなえるために必要とされる選択の場面において、僕は常に間違った選択肢を選んでいた。(・・・)我が家に起こったことはあまりにも恐ろしいことであり、それは僕らの代で終わるべきであり、止められなくてはならないことであり、子供を持てばまた同じことが起こってしまうのではあるまいか、と。

言うまでもなく、これは決して特殊な例ではない。子供を虐待する人の生育歴を見渡すと、そこにはしばしばわが子と同様に虐待を受けていた事実が見出される。愛と憎しみの再生産。周囲の人間は訝しむだろう。「自分がやられて厭だったのならやらなきゃいいじゃないか」と。あるいは「ケシカラン」と。

不快の再生産など合理的ではない。たしかに。不快なことなら避けて通ればよいはずだろう。しかし明らかに不快なことを、なぜか避け得ない人たちが現に存在している。

その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである。ある意味においては、それこそ、ゲイリーとゲイレンがやったことだった。彼らは自らの死をもって、血の流れを止めてしまったのだ。

もちろんこの著者は兄の罪を過小評価してはいない。どれほどのことがあろうとも、人に他人の命を奪いあるいは傷つけその権利を侵害する権利が与えられるわけはない。しかし人間の生は当為の言葉だけでは語り尽くせない。もし人生が当為の言葉だけで片付くのなら文学や芸術は不要だ。にもかかわらず現代は上っ面の「事実」をもてはやし、「現実的」という言葉がさも善きことのように響きわたっている。「事実」と称されるもののあやふやさなど、芥川龍之介の作品を持ち出すまでもなくとうに知れ渡ったことではあるにしろ、それでもわたしたちは「事実」だけに執着しがちだ。確実なものを欲しがる。そしてその実、各々が見たいものだけを見ている。

事実だけを偏執的に集積したところで見えないものがあるという”事実”はなぜか見えないらしい。この著作に関していえば、これはときおり見かける偏執的ノンフィクションでは全くない。この著作は事実を語るノンフィクション作品ではあるが、あきらかに魂を揺さぶる力を持った芸術作品だ。それはどこにも救いの見出せない、暗くおぞましく希望のない人生、そしてその人生の支柱あるいは重石となっている虚構(フィクション)を映したノンフィクションだ。

この本の中にほとんど皆無の救いを見出そうとすればそれは長兄フランク・ジュニアの著者に対する愛情だけだろう。

おまえのことを考えると、俺は誇らしい気持ちになることができた。そのとき俺は思ったんだ。おまえの邪魔だけはするまいってな。おまえの前にのこのこ現れて、この姿をさらしておまえに恥ずかしい思いをさせたくはなかった。おまえはうまく過去を捨てられたんだ。そしておれは、その過去をもう一回蒸し返すような真似はしたくなかった。俺は思った。『俺たちのうちの一人は——たった一人だけだが——なんとかうまく抜け出せたんだ。成功したんだ。そっとしておいてやらなくちゃならない。幸福なままにしておいてやらなくちゃならない。それがせめてもの俺にできることだ。そのまま行かせてやろう。あいつが家族の絆に縛られていなくちゃならない理由は何もないんだもの』ってな。

とはいえこれですら胸を締めつけられる思いがする。兄弟・家族としての絆を断ち切ることだけが愛情とならざるを得ない痛ましさ。おそらくこの部分だけを読んでも鼻白む人もいようからご一読を勧めるとだけ言っておくことにする。

最後に
各章の冒頭には家族の写真が掲げられているのだが、そのうちの幾葉かに胸ふたがれる思いがした。まだ十代前半とおぼしきフランク・ジュニアが写っている。
背後に立つ父が彼の肩に両手を添えている。そのジュニアの幽鬼のような立ち姿はまるでどこかの虐殺収容所の囚人のようだ。焦点の定まらない目、落ちた視線、地面から浮き上がってしまっているかのような身体、明らかに止まっている呼吸・・・。
目を背けたくなるような写真だ。それは何も彼を見たくないのではない。彼がそのとき感じていたであろう恐怖・苦痛・不信感が私の目を背けさせる。

考えてみれば私自身、かつて彼に似た子供たちを少なからず目にしてきた。自らの責任の及ばない理由によって脅かされ、自らを信じることが出来ず、自信を失い世界に対する信頼感を喪失し不信感に満ちた子供たちの姿を少なからず目の当たりにしてきた。彼らは決してその場限りの笑顔や励ましだけでは回復しない。長い時間をかけなければ彼らの世界に対する信頼感は取り戻せないし、またそれを取り戻せる保証すらどこにもない。

そのような結論に達するのは——自分の中に地球上の継続されるべきではない何かがあり、自らの生命の存続を自らが許さぬ何かがあると感じるのは——たやすいことではない。そんな地点に辿り着いて、自分という人間とその将来の意味を悟ったことによって、僕の人生は変わってしまった。僕はもうかつての僕ではなくなってしまった。そしてもう二度と昔の自分には戻れないのだろう。ときどきそう考える。

今の私に出来ることはさほど多くない。というよりほとんど何も出来ないと言うべきだろう。
「解けない呪いなぞないのだ」
そんなことを言うのはたやすい。
「自信を持ちなさい」
持てるものならとっくに持ってるはずだろう。

フランク・ジュニアの写真を繰り返し見つめながら、彼(彼ら)にとって転機となる出会いあれかしと思う。
私の乏しい経験からいえば、人が変わるきっかけはテレビでも本でも新発見の事実でもない。人と人との関係、人との関わりのなかでこそ人間は変わっていくことが出来る。
いまのところ私はその考えを変えていない。

今度こそほんとに最後。
重苦しい本ではあるけれど読み進めずにはいられない本でした。おわり。

心臓を貫かれて 心臓を貫かれて
マイケル ギルモア
入手不可

(原著)”Shot in the heart”,Mikal Gilmore

優雅で感傷的な村上朝日堂インストール

  • 2007年03月25日 (日)

備忘録として最近読んだ本をメモ(いや、べつに忘れて困るものでもないんだけど・・・)。

優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫) 優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)
高橋 源一郎
価格:735円

わけのわからない面白さを堪能。一言で言えば・・・うーん・・・マルケスのシュールさと筒井康隆の読まずにはいられない磁力を連想させる作品、ってってもわけわかりませんね、スイマセン。


村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫) 村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)
村上 春樹
価格:620円

村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫) 村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫)
村上 春樹
価格:460円

いや、この2冊は私にとっては一服の清涼剤です、ハイ。村上春樹のエッセイ。

体罰が熱心さのひとつの方法論として独り歩きを始めた時点から、それは世間的権威に裏付けされたただの卑小な暴力に変わってしまうのだ
『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』より

体罰に限った話ではなかろう。何ごとにせよそれが「自分の頭で考えられたものではない」出来合いの方法論としてなされたものは、一切合切が卑小でくだらないものとなる。そしてそれは多大な害悪をのみもたらすことになる。思い返せば私が関わったことのある学校の教員らはそんな連中が多かったな。運が悪かったのだろう、きっと。

インストール インストール
綿矢 りさ
価格:1050円

作中で主人公の女の子がチャットする場面でハッとしましたね。
「もしやこの著者は女子高生に卑猥な言葉を語らせている自分(著者)を好色な目の色させて(勝手に)妄想しているオヤジ読者を嘲弄している!?」
いや、この人、なかなかの策士かも。これ読んで今どきの女子高生の生態を覗き見た気になってるオヤジはただのピエロか。
ちょっと穿ちすぎだろうかね・・・。
しばらく前に『蹴りたい背中』も読んでみた。どちらも文学に酔ってる匂いが全くないところには好感。

あと何冊かは別の機会に書く予定。

蹴りたい背中 蹴りたい背中
綿矢 りさ
価格:1050円

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

  • 2007年03月18日 (日)

(本の話の前に前ふり)

今朝は久しぶりにまともな(というか日記帳の装幀についてではない)記事を書いたのだけど、その後どうも何かがひっかかったままのような感じで非常に具合が悪い。ふて寝するのもなんなので、また書く。
ホリエモンへの一審判決について昨夜から今朝にかけて二つのエントリを立て続けに書いたのだが、どちらとも当初の見込みとはまるで違う方向に話が進んでいってしまった(自分が進めたんだけど)。ホリエモン判決のニュースを読んだ瞬間の私の感想は、「実刑は妥当か?」「日興はどうなんだよ!」「裁判官の説諭は、比較的に厳しい判決とのバランスを取ったか!?」といった感じだったのだが、いざ記事を書き出したら全然見当違いの方向に進み始めてしまった。二つとも。そういうわけでくどいようだがもう少しこの件について考えてみることにした。

  • 今回の判決は妥当なのか
  • この一件は社会に今後どのような影響を与えるか
  • 拝金主義とは何を、あるいはどのような在り方を指しているのか

こうしてつらつら考えてみてもどうもはっきりとしたイメージが湧いてこない。対象が見えてこない。
いまふと思ったのだが、少なくとも私はホリエモンの事件の原因を彼の個人的な資質に還元して分かった気になろうとは思っていない。それはホリエモンが持っている(とされている)資質を矮小化してしまおうとしているのではなく、この件をむしろホリエモンを含む人間一般の問題として把握したいということだ。その理由の一つは私がホリエモンに関して持っている、また今後得られるかもしれない情報がすべて「気の抜けた情報」つまりは伝聞でしかないというところにある。直に彼を知らない私が彼についてここでどれほどもっともらしいことを述べたてたとしても自己満足以外の何一つ得られないだろう。また、判決の法的妥当性について検討することも私はその任に堪えない。ただこの一件を考察するにあたっては法規範と倫理を度外視することは出来ないように思われるが、おそらく私の考えは法と倫理との端境を見出そうとする方向へ向かっていきそうな予感がする。

そしてもうひとつの焦点は、この一件から窺い知れるであろう社会の現状を考えてみることだ。確かにマスコミなどにはホリエモン個人を取り上げてその拝金主義を難詰しているものが多いが、意図的かどうかはともあれ紙上あるいは電波上(?)でホリエモンの拝金主義が批判されればされるほどに、その実その拝金主義的なものは決して彼一身の問題ではないのだということがあからさまになっているように思われる。

さて、このまま書きつづけるといつ終わるか分からないのでひとまずここで一段落。私個人的には少しだけ目標が見え始めた気がします(勝手ですいません・・・)。

本題(今日の「書きたかったこと」)

ここで一つだけご紹介を・・・。ホリエモンよりもむしろこの本について書きたかったのですが、それではちょっと記事が長くなりすぎて誰にも読んでもらえなくなりそうなので(今さら言っても遅いのかもしれないが・・・)サラリと。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
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この本、わずか200ページ足らずの本ですが何度も何度も読みかえしたくなるほど「濃い」本でした。村上春樹と河合隼雄の対談をメインに後日二人が書き加えたノート(追記)が併記されていますが、小説・物語・身体性・無意識などをキータームとして非常に示唆に富む対談が交わされています。ちょうど村上はこの対談が行われた時期に地下鉄サリン事件に関する取材を進めていたそうで、文筆活動の初期の、なんとはなし韜晦(村上曰く「デタッチメント」)したような村上がどのような経緯でより社会的な事象に興味を向けるようになっていったか(「コミットメント」しようとしているのか)を村上自身が語っています。
最後に引用を二つ。(上段は村上、下段は河合)

ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに行っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。

何でも「裏がえし」というのは、その元のものとほとんど変わりはありません。「体制」を措定して、その裏がえしの「反体制」を考えるやり方は、「体制」のなかに本質的には組み入れられているのです。

私にはホリエモンを断罪する資格などない。
またもちろん投資家を批判する権利もない。
私に与えられた義務は、ただこの一件から自分なりの、単なる裏返しの思考にとどまらない何かを見出し、それによって社会にコミットメントすることだと思っている。

村上春樹『アンダーグラウンド』

  • 2007年03月05日 (月)

読了。

読む順序が逆になってしまったが、『約束された場所で』に続けて『アンダーグラウンド』を読む。アンダーグラウンド2とされる前者が地下鉄サリン事件の加害者であるオウム教団の信者たちのインタビューだったのに対して、こちらは被害者の方々へのインタビューである。地下鉄サリン事件からちょうど2年後である1997年3月20日に刊行された700ページを超える大著だが、思わず惹き込まれてあっというまに読んだ。読まされた。

思うところはいろいろとあったが、もっとも強く感じたことを一つだけ挙げるとすれば、例のない惨劇に直面した被害者の方々のほとんど全員が例のない異常事態をその時は決して”異常なもの”としては感じていなかったということだった。

大勢の人びとが行き交うラッシュ時の地下鉄構内に致死性のガスを同時多発的にばら撒くという蛮行が人びとの想像の埒外にあったことは当り前のことだろう。そしてインタヴューはその当り前のことを淡々と裏付けていく。

「教祖」アサハラの死刑は確定したもののいまだに逃亡を続けている者もいるらしい。彼らは何を思って逃亡を続けているだろうか。

願わくば被害者の中のお一人が語られた次の言葉通りであって欲しい。

殴られた人(マジュンノム)は体を伸ばして寝ます。殴った人(テルンノム)は体を縮めて寝ます。

蛇足ではあるが鹿児島の選挙違反冤罪事件に関する新聞記事の中に次のような記述があった。

 経営者の男性は中山さんの知人だった。思わず怒鳴った。「うちは出していない。あんたたちは何のために警官になったんだ! 正義の味方になるつもりじゃなかったのか!」
 捜査員の一人が言った。
 「我々は真実を探している。偏った捜査はしていない。信じてほしい」
 30分の口論の末、2人は帰っていった。
 ところが、午後5時半ごろ、2人の捜査員はもう一度やってきた。「今の気持ちはこれです」と言って、額に入った二つの書を差し出した。
 「事件が解決したら、中山さんに渡してほしい。こういう刑事もいたということを伝えて下さい」
 書にはこう書かれていた。「うそはうその友を呼び 真実は真実の友を呼ぶ!」

「止まらなかった『暴走列車』 下」(asahi.com My Town 鹿児島)

「うそはうその友を呼び 真実は真実の友を呼ぶ!」
青臭いこといってるんじゃないよという向きもあるかもしれないが、なんとか基本法の改正とかなんとかいうよりもさきに、まずなによりも上の言葉が決して空々しく響かない人と人との繋がり、信頼関係がつくづく欲しいと思った次第。

アンダ-グラウンド アンダ-グラウンド
村上 春樹
価格:2625円

村上春樹『約束された場所で』

  • 2007年03月01日 (木)

1998年に刊行されたオウム真理教信者へのインタビュー集『約束された場所で』。

”アンダーグラウンド2”ということですが、1のほうはまだ読んでいません。たまたま2が手近にあったので読んでみました。

あらためて思い返してみると、地下鉄サリン事件が起こってからもう10年以上経っている。この事件の直前には阪神大震災が起こり、震災当日の夜(たぶん当日だったと思う)、部屋の灯を落としたまま布団の中で夜通しFMラジオの安否情報を聞いていたことが記憶に残っている。私は現場にいたわけでもなく、ただ遠くからテレビやラジオを通じて「情報」に接しただけであったわけだが、単にメディア経由であるというだけにとどまらない奇妙な非現実感にとらわれた記憶がある。それから間もなくしてサリン事件が起き、翌日の朝刊を目にするまでまったく事件の発生を知らなかった私は、一面におどる大活字を見るなり震災の時と似た感覚に襲われた、もっとも、今から思い返すせばそういう気がしてくるというだけのことなのかもしれないが。

この本をを読み進んでいくうちに、私の体の内にはあのときの茫漠とした感覚が湧き上がるとともに、胃の腑が徐々に変調を来してきた。

この本は確かにインタビューを元に構成されている。一人ひとりのインタビューの中にとりたてて過激な事実、あるいはグロテスクなものがあるわけではない。しかし一人目のインタビュー、二人目のインタビュー、三人目の・・・・・・と読み進めていくうちに彼ら全員に共通するあるものが次第に明確な形をとり始める。その或るものが私の胃の腑を揺さぶりだしたように思われた。誤解を恐れずにいえばその或るものは私と無縁のものではないような気がしている。しかし、いまのところ私にはその或るものがどういうものかはわからない。わからないまま、私の肉体が勝手に反応し始めた。

インタビューを読む限り、ここに登場するオウム教信者たちの誰ひとりとして他人や社会に対して害心を全く持っていない(ように見える)。むしろ神経質なほど「善きもの、善きこと」へ執着している。きわめて真面目な人びとだとさえ言えるようなのだ。善人だと言ってもいいのかもしれない。

オウム信者には高学歴者も多数いたということがしばしば言われる。しかし注目すべきはオウム信者(インタビュイー)らに共通している「合理性への盲信」であるように私には思われた。自分の性格について、「理屈っぽい」、「納得できるまで動かない」とは彼らの多くが口をそろえて語っている。

では、そうした「頑固さ」が問題の核心か、といえば決してそうではないように思われる。彼らの「頑固さ」と他者への盲信とが結びついたとき、彼ら自身に大きな危機が訪れた。彼らのいう「合理性」は、「どこまでも自らの頭で考え抜くための足がかり」などではなかったようだ。それは自らの思考の暴走に対する歯止め、思考の規矩ではなく、不条理をも包含した現実社会から身を守るための矛であり盾であるにすぎなかった。いったん彼らが自分と同じようなヴィジョンを持っていそうな人物に出会ったとき、彼らは自発的に武装を解除することになる。すなわち彼らの頑固さは自身の内から発した信念に基づくものというよりもむしろ、外界から自分の身を守るための殻であったように思われてならない。

そうはいっても私はどうも彼らの頑固さを非難する気にはなれない。人はあらゆる手段を用いて自分を守ろうとするものであろうと思う。もしも大勢で和気藹々と鍋を囲む一座の中に身を固くして座っている仲間がいたとしたら、たいていの人は彼を非難するよりも先に優しい声のひとつもかけて和ませようとするのではなかろうか。あるいは存在を無視する人がいてもいっかな不思議ではないが、さすがに「なぜそんなに警戒してるんだよ、おい!」などと言う者は少なかろう。

殺人その他の犯罪に関わった者の話はさておき、オウムの人びとに過ちがあったとすればそれは頑固さ自体でも信仰そのものでもなく、自らの自律性をすすんで放棄したところにあるのかもしれない。

しかしまた、自律性の放棄が問題だとなると話はさらに大きくなってくるだろう。上司の命令には逆らえない会社員、捜査方針に異を唱えることで捜査からはずされることを恐れる警察官、その他多くの市井の人びともまた自律的存在とは言えないからだ。

オウム信者に限らず犯罪者は断罪され贖罪を果たすべきは言うまでもないし、今後再び同じような悲劇が繰り返されぬような対策を講じることは必要なことだろう。しかし、それがオウム真理教への対策・封じ込めという形でだけなされても再発防止にはつながるまい。オウム事件は私が考えていた以上に今の日本社会の現状と密接に絡みあい、また、オウム信者以外の人びと、オウム信者以外の個別の人びとへも極めて根源的な問題を突きつけている。

すでに地下鉄サリン事件は一昔前の話となった。宗教団体としてのオウム真理教は潰滅したのだろう。しかしながら、何ものかを盲信するような在り方、その場その時の支配的な言説への盲従、自律的思考の放擲、そんな事どもが巷に溢れる光景は当時も今もさほど変化していない。はたして我々の視線が、麻原ではない別のなにか、何者かに向けられていないと断言できるのだろうか。

オウム事件があぶり出した様々な疑問は私自身に直接関わってくる問題でもあるのだ、と私の胃の腑が言っているような気がしている。

私が目指したのは、明確なひとつの視座を作り出すことではなく、明確な多くの視座を——読者のためにそしてまた私自身のために——作り出すのに必要な「材料」を提供することにあった。それは基本的には、私が小説を書く場合に目指しているものと同一である。

消化できていない問題を無理矢理言葉にしたせいでやけに生硬な文章になってしまいました。
ともあれこの本は、オウム事件をはるかに超えて人間の根源的な何ものかを突き刺し切開し顔面に叩きつけてきます。

約束された場所で―underground〈2〉 約束された場所で―underground〈2〉
村上 春樹
入手不可

『海辺のカフカ』と「踏み字」無罪

  • 2007年02月23日 (金)

村上春樹の『海辺のカフカ』を読む。

15歳の少年をめぐる一人称の物語と、文字を失った「ナカタさん」を焦点とした三人称の物語が同時並行的にストーリーを展開し、交錯する。結末はやはり一人称(一見すると二人称、か)。

ところどころで素の村上春樹の声が聞こえてくる気がしたのは気のせいだろうか。

ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつけるーーー少なくともある種の人間の心を強く引きつける・・・ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる

とことんとろい奴だな。ひょっとしておまえの脳味噌は寒天でできてるんじゃないのか。このふぬけういろう野郎が。なにが木の葉だ。私はたぬきじゃないんだ。私は観念だ。観念とタヌキじゃぜんぜん成り立ちが違うんだ。まったく、なにをくだらんことを言うか。

村上春樹氏についての評価は大きく分かれているのだそうだ。さもあらん。
後に引用した「カーネル・サンダーズ」氏の言葉を村上氏自身の言葉と受け取ることも読者の自由だろう。氏の作品に、「つじつま」「必然性」「(うわっつらの)リアリティ」、そんな寒天もとい観点から難癖つけはじめたらいくらでも見つけられそうだもんね。

そこから意味(にしろ無意味にしろ何がしかを)汲み取ろうとさえすれば、なんぼかは出てくるものが必ずある。私はそう思う。想像力の欠如だとか倫理観の欠如だとかを糾弾するその狭量さがそのまま別の「想像力の欠如」であることは覚えておきたい。

想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。

わたしとしては15歳の主人公以上に、文字(知識)を失った初老の「ナカタさん」に共感するところが多かったが、「文字を失った」ことに何か深い意味があるような気がしたまま、今もよくわかっていない。しばらく楽しめそう。

文字といえば鹿児島の「踏み字」事件(!)の判決が出たとのこと。
鹿児島県議選巡る選挙違反、地裁が12人全員無罪(読売新聞)
この谷敏行裁判長についてこんなブログ記事も(福岡若手弁護士のblog)。


あいつらはナカタさんのそのわけのわからない話を聞いたら、そんなもんはぽいして、適当な供述書をでっちあげる。・・・そういう誰にでもわかりやすい話にしちまう。真実が何か、正義が何かなんて、あいつらにとっちゃどうでもいいことなんだ。てめえの検挙率をあげるために犯人をでっちあげるなんて朝飯前だ。

小説はフィクションであってフィクションでない。
なんだか今日の私は文学の持つ可能性を強く感じてます。

おいおい、よしてくれよ。俺はね、おじさん、こう言っちゃなんだけど、警察ってのがきらいなんだ。大きらいだ。あいつらはヤクザよりも、自衛隊よりもたちが悪い。やりくちが汚ねえし、すぐエバるし、弱いものいじめが何より好きときてる。・・・だからさ、俺は警察とだけは喧嘩したくねえんだよ。勝ち目はないし、あとに尾を引くんだ。わかるかい?

「これがフィクションであることを証明してくれ、是非!!」と私は言いたい。

うわずった声で「紙を踏ませる行為は妥当性に疑念を生じさせかねない不適切な行為。判決を重く受け止める」と

鹿県警本部長 「踏み字」謝罪/県議会代表質問(南日本新聞)

「妥当性に疑念を生じさせかねない」?
そういえばどこかのマスコミも「捏造と言われても仕方がない」などと言ってたが、いい加減にしてくれ。

はっきりと、
「妥当でない」
「不適切」
「言語道断」
「あってはならない」

そういうことじゃないですかね?

個人では背負いきれない責任を替わって負うということこそが組織や役所の存在意義であり責務でもあるのではないだろうか。

それなのに、個々人の関係であれば
「それで謝ってるつもりかよ!ふざけんな!!」
と言われること必定の台詞が日本中のあちこちで口にされている。いったい何のための”組織”なのだろうかと考え込まざるを得ない。

踏み字をさせた捜査官の出世の道が閉ざされるぐらいのことで責任をとったつもりになるのか。おふざけになるのはこの際よされたほうがよいと思う。とりすました言葉と担当者の懲戒だけで「組織としての謝罪」だと言いきる厚顔無恥には呆れるしかない。

村上春樹のフィクションが、「あくまでも架空の物語である」、ということを是非とも証してほしいと強く思う。無理な願いだろうか・・・。

海辺のカフカ〈上〉 海辺のカフカ〈上〉
村上 春樹
価格:1680円

海辺のカフカ〈下〉 海辺のカフカ〈下〉
村上 春樹
価格:1680円

関連エントリ:(メモ)鹿児島「踏み字」控訴断念

星新一による自作批評

  • 2007年02月17日 (土)

『なりそこない王子』(新潮文庫)読了。

しとしとと降る雨音を聞きながら耽読した一冊。
前回のエントリ星新一『きまぐれ博物誌』にDr.Waterman氏が下さったコメントへ返事(返コメント?)をカタカタと書いていたら、随分と長くなりかけたので、いっそ読後感とあわせて新たなエントリとして書くことにしました。

Mark Twainの「乞食王子」の後日談というべき「なりそこない王子」ほか11編。解説はなぜか星新一自身。

エッセイの類には星が自身の小説観や作法を書いているものがありますが、この「あとがき」もまた一種の自己作品分析。星が自作を「解説者」として批評する、ある種貴重な一文ではなかろうかと思います。

解説なら、無難に「星新一は日本におけるSF、ショートショートの先駆者である」と、まず書くところだろう。しかし、文句の出る可能性がないでもない。(・・・)どうせ呼ばれるのなら、「日本には珍しく、時事風俗の描写を避けた作風」あたりが、私もうれしいし、的確なのではなかろうか

この解説によれば、時事風俗の描写を避けたのは作品の生命を長く保つことを主目的としたものというよりは、あくまでも小説上の効果を考えてのことであったようです。そもそも星自身の書くもの自体がテレビだとかオートメーションなど、当時の日本の新風俗と密接に関わっており、そこへさらに旧来の風俗小説的な手法を持ちこむことへの違和感があのような星の簡素な文体につながったのだと。

そのうちそれになれてきた。前例がないので、けなされることもなく、好きなようにやれ、それになれてきた。

私そのものが、ひとつの時代、ひとつの風俗の産物なのである。(・・・)モーツァルトの曲は、いまも愛されているが、あの時代でなければ出現しなかっただろう

ところで、
ざっと調べたところ、星の全集というのはないのですね、いまのところ。ショートショートだけを集成したものはあるようですが(『星新一ショートショート1001』)。未だ活躍中の筒井康隆の作品などはとうにまとまった著作集が出ているのに、エッセイ等も含めた星新一全集がないのはどうしてなんでしょうね・・・。ただでさえ短い作品が多いうえに世界中で読まれている名作ぞろいなわけですから、完全な全集を編む価値は極めて高いと思うのですが。

ひょっとすると関係する出版社が多すぎるなどという理由もあるのでしょうか。今私の手許にある『なりそこない王子』も講談社(単行本)→講談社(文庫)→新潮社(文庫)。角川文庫に入っている作品も多いですし、おまけに最近刊は理論社とかいうところから出ているようです。引く手あまたが災いしているのかも。
ともかく、もし出たらすぐにでも財布をはたいてでも手に入れたいところなんですが。

出版関係者のみなさん、もうそろそろ星新一全集だしませんか?

なりそこない王子 (新潮文庫) なりそこない王子 (新潮文庫)
星 新一
価格:460円

星新一『きまぐれ博物誌』

  • 2007年02月16日 (金)

読了。
星新一のエッセイ集。
テーマは時事風俗、小説論その他多岐にわたるが、そのどれもが端的な筆致でわたしたちの視野狭窄的なありようをユーモアにくるみながら剔りだしている。このエッセイ集の刊行が1971年だから個々のエッセイの初出はさらにいくらか遡ることになる。大阪万博、三億円強奪事件、アポロの月着陸、マクルーハンのテレビ論等々が時事的な話題として取り上げられているあたり、時代を感じさせるものがある。

とはいえ、読み進めていくうちにハタと気づくのだ。

私たちの身の回りに溢れるさまざまな「モノの姿形」「コミュニケーションのツール」は大きく変われど、モノではない我々自身の有り様やコミュニケーションの本質などは当時も今もまるで変化していない。

あるときはミニスカートが流行り、ダッコちゃん人形がおしゃれで、ラッパズボンがカッコイイ。またあるときは・・・(以下略)。
外見・外装は確かに目に見えて変わる。
流行っているからみんなが着る、みんなが着るから流行る。流行っているから・・・(またまた以下略)。

べつだん、着るものに限ったはなしではない。
マスコミ(世論)が政治家の発言や一企業・官庁の不手際をあげつらう。政治家や企業は二度と叩かれないようにきれい事ばかり並べるようになる。きれい事を並べているくせに中身が伴わないとマスコミ世論がまた叩く・・・(以下略)。

とてもおもしろい現象だ。見ようによってはこれほどユーモラスなことはそうそうない。

もっともそれには、自分がそうした輪廻の過程で必然的に生じるであろう「被害者」ではない場合に限る、という限定条件がつくのだが。

流行の波に乗ろうと大増産を図ったもののコケてしまった洋服屋。きれいごとさえ並べてれば大過なく過ごせたにもかかわらず実質を求めたが故に袋だたきにされた愚か者。彼らにとってはユーモラスな出来事だと笑ってはいられまい。

ともかく、自分自身が被害者ではない限り、自分自身は今後も被害者には決してならないであろうと楽観できる限りで、誰れもがシアワセでいられる。

星新一は、その一見あたたかみのある文章には似つかわしくない、極めてシニカルな視線でそうしたありさまを眺めていた。とはいえ星ののどかな文章技法は決して売らんかなの、もしくは底意地の悪いテクニックではなかろう。

はなしが逸れるが、昨日「ラジオカフェ」というサイトでちょっとした対談の録音を聴いていたのだけれど、その中である作家さんがおおよそ「自分のことを素のまま出しても誰も聴いてはくれない」といった意味のことを話されていた。もっともなことだと思う

おそらく、星の人間観察・社会観察を素のまま出しても誰一人として星の言には耳を貸さなかっただろう。みずしらずの人間が発する「人間なんてこんなもんさ」とも聞こえるネガティブな言葉に好きこのんで耳を傾ける人は少なかろう。星の語り口はああでなければならなかったのだ。ああであるしかなかったのだ。淡々と、中性的で、つぶやくような語り口。そうしてはじめて星のシニカルな内実を(他人に聞いて貰える形で)表現することが可能になったのだ。そしてまた書くことによって星は自分自身を癒そうとしたのではないだろうか。

このエッセイ集の中に「笑顔とうやむや」と題する一文がある。国会で吉田茂が発した「動物園へ行かなくてもサルは国会でたくさん見ることができる」というユーモアを伴う言葉に、対立党の議員やマスコミが「正論」をおし立てて難詰するという茶番を、星は冷ややかに見つめる。

この発言がなされた当時の新聞報道を私は覚えている。けっしてユーモアと扱っていなかった。不祥事扱いの記事で、野党幹部の反論がのっていた。(・・・)その反論のほうは少しも覚えていない。おもしろくもおかしくもない公式的なものだったからだ。そのころを境にしてのようだが、その後はどの大臣も、公式の席であまりおもしろい発言をしなくなった。(・・・)ユーモアとは故意に曲解しようとすれば、どうにでもなるものなのだ。大臣だろうが都知事だろうが、だれも顔はこぼれんばかりににこにこ、発言は神経質なほど用心ぶかい。かかるスタイルが完成した。私はこんな異様でユーモラスなものはないと思うのだが、どうでしょう。

もっとも、最近わたしが耳にした政治家の失言とやらはユーモアの欠片もなかったのは事実だ・・・。星曰く、

政治家がいけないのでもない。芸能人、新聞記者、芸能週刊誌などがいけないのでもない。これが国民性なのだ。

そうして星自身もまた、そうした国民性を持った”国民”の一人なのだった。実際の星がユーモアに欠ける人物であったとはとうてい思えないが、ともかく星は「自分自身を笑いものにする」という節度を保ち続けた。一方で、そのような節度はあいかわらず持ち合わせていない御仁は今も少なくない(わたし自身がそうかもしれない)。

前に触れた「ラジオカフェ」では「ダイアローグ的知性について」という別の対談も聞くことができる。そこでは、「相手を叩きつぶすこと、相手を降参させることだけを目的とした「ディベート」とやらがいつごろから日本に蔓延しだしたのか」ということが論題の一つになっていたのだが、わたしもそのことが気に掛かっている。私見では(というか私自身の身の回りでは)1990年代の中頃からそのような風潮が目立ってきたように記憶しているが、もちろん一般化できる結論ではない。ただ、ひとつだけ言えるのはそうした風潮がとどまるところを知らず、拡がりつつあるということだけだ。

相手を降参させることを目的とした「議論」は、日本人がよく言うところの”ディベート”ではあるのかもしれないが、そのようなものはおそらく「対話」「ダイアローグ」が備える豊穣さを持つことが決してないだろう。それは議論に勝つか負けるかのガチンコ一本勝負であり既存のものからの二者択一だからである。一方(A)が負け一方(B)が勝つ。そうしてたしかに結論は出るだろうが、その結論の「導出過程には」一片の合理性もない。出された結論は単なる選択肢の一つ、暫定的なものであるにすぎない。

もちろん、物事を決定するに当っては「あれもこれもそれも」というわけにはいかないのは当然だ。しかし、ある決定が、決定されたが故にヨリ合理的であるとされるかのような奇妙な有り様に奇異の念を禁じ得ないことがしばしばある。

なぜ「ディベート」がつまらないものになったのか。
ディベートに罪はない。
おそらくそれはディベート教育に根本的な欠陥があるからだろう。私はそう思っている。その欠陥の一つは、それを教える側が「じぶんのつるべ」を使ったことのない、使うことを思いつかないからではないかと思われる。

話が星から逸れまくったな・・・。

しかし、この星の名著がなかなか入手しにくいのはいったいどういうわけだろう。
これほどの名著、なかなかないよ。ホントに。

きまぐれ博物誌 (角川文庫 緑 303-5)
星 新一
入手不可

星新一『きまぐれ学問所』と中村天風

  • 2007年01月18日 (木)

本日は晴天なり。しかし寒い。
そこで日がな一日、南面した書庫(といっても只の四畳半縁側)に籠って読書にいそしむ。手を延ばせばすぐに届くところに本が並んでいる状況は私にとっては至福。手狭すぎて身動きならないのが難点だけれど(うっかりコーヒーカップ倒しちゃったよ、クソぅ)。

昨夜のつづきでフッサール(の入門書)を読みすすめるも夕方になってダウン。とっても面白いのだが、それでもね・・・。
んでフト星新一に手が伸びる。いくつかショートショート読んで頭がホンワカしたところでこんどは『きまぐれ学問所』が「おれももう一回読んでくれ~」とうったえてきたので「よしよし」と手に取る。

「あれ?キミ、エッセイだったっけ?」と思いながら読む。

読む読む読む読む。

そうこうしながら「人生について」に辿り着く。
星新一による中村天風論。

「おおぅ」
星も中村も私の愛読書(まだどちらも読破してないが)。
星が中村天風について書いていたことに不覚にも気づいていなかった。よく考えてみたら前回この本を読んだ頃にはまだ中村天風のナの字も知らなかったのだ。だから記憶に残っていなかった。

「うん、そう。そうだよね~」と思いつつ星を読む。

このへんで、警戒心をゆるめて下さい。著者の中村氏は、決して独断的な信仰を押しつけようとはしていないのだ。大衆感覚を大事にしている

そういえば私自身以前は、客観的でない(ように思える)、合理的理解を超えた(ように思える)書物を敬遠していた。私が中村天風をたまたま手に取った頃、私はひとつの壁に突き当たっていた。それで偶然出張先の本屋の店先で見かけた天風の著作を手に取ってみたのだった。まったくの偶然から。おそらく私は天風の著作を他人から勧められても決して読まなかっただろうと思う。おそらく今、誰か他の人から天風の本を薦められたとしてもチラッと眺めただけでおわるだろう。
ま、ああいうのが「出会い」というものなのだろう、たぶん。

それで話は「人生について」に戻るのだけど

 作曲家の中村八大氏の短い文で、感銘を受けたので切り抜いておいたのがある。ある年上の知人の家で、つい売れなかった数年間の話をはじめた。すると、ひとこと。
「人前では、よしなさい。みな苦労をしているのだ。だれもが話しはじめたら、世の中は暗くなってしまう」
 はっと思い、明るい話だけをするようになり『上を向いて歩こう』の世界的ヒット曲が生まれることになる。
 いい話だ。

いい話だ。

翻って(マスコミ・フィルター経由の)世相に目を向ける。
「どうして私だけがこんなにも・・・」
自分は報われない、虐げられている、搾取されている・・・。
格差社会はけしからん、儲けすぎはけしからん、ついでに不二家はけしからん・・・。
仮にそう叫んでいる人がいるとして、もし彼が(彼女が)不意に「お金持ち」にでもなったら彼はどうするだろうか。「労働法規はけしからん!」「貧乏人は麦を食え!!」などと言い出すのか、はたまた「もっとお金を~!(ベートーヴェン風)」とでも言うだろうか。

「けしからん病」はおそらく不治の病だ。そんでもって人類皆全てそのけしからん病の保菌者、キャリアなのだと思う(少なくとも私は間違いなく保菌者だな。ときどき症状でちゃうもんね)。鳥インフルエンザも恐いんだけど、けしからん病の蔓延はもっと恐いよと感じる今日この頃。

一日遅れははけしからん
ダブル不倫はけしからん
ブレた姿勢はけしからん

そりゃたしかにそうかもしんない。
「ま、今度から気をつけてね。おたがいさまだから」って言う新聞が一社くらいあってもいいのじゃないかと思うんだけどダメ?(もっとも今度はその新聞社がヤられるだろうね)
ブレずに一直線にまっさかさまに奈落に落ちるよりもブレてくれる方が人間らしくて良くないかい?
公に異論が言えない状況って気味悪くない?

あんまし普段から怒ってばかりいるとホントに怒るべき肝腎なときに怒れなくなるってこともあるかも・・・・だよ。

しっかし星さんの文章は読んでてほんとに気持ちが良いね。

たんなるきまぐれ放言でした。
おしまい。

きまぐれ学問所 (角川文庫)
星 新一
入手不可

松本清張初期短編

  • 2007年01月08日 (月)

読了。

或る「小倉日記」伝
松本 清張著

収録六編のうち三編は考古学者を巡る物語。
そのどれもが学閥その他のしがらみが真理の探究の障害となる悲劇。
表題作「或る『小倉日記』伝」もまた悲劇。世間の片隅で苦悩し死んでいった若者への哀惜とも無常観とも読める。

西郷札
松本 清張著

「西郷札」は西南戦争の際に西郷軍が発行した軍票を巡るこれまた悲劇。
佐賀の乱で敗北した江藤新平の逃避行を描く「梟示抄」、能力に恵まれながらも悲運の最期を遂げた一藩士を描く「啾々吟」など、時代物十二編。

ほとんどの作品が悲劇的結末を迎えているのは松本清張の特徴?今までほとんど読んだことのない作家なのでまだよく分かりませんが。そういえば北方謙三の作品でも大抵最後に主人公がしんじゃうんだよね・・・。

面白く読みました。

村上春樹『TVピープル』

  • 2006年12月26日 (火)

さらっと読了。

村上春樹の短編集
感想はとくになし
楽しみました

TVピープル
村上 春樹
価格:1100円

浅田次郎『珍妃の井戸』

  • 2006年12月18日 (月)

一気に読了。
清国皇帝光緒帝の側室珍妃を主人公とした物語。

浅田次郎の前作『蒼穹の昴』でちらりと登場しており、この作品は『蒼穹の昴 外伝 珍妃の井戸』というべきものですね(先に『蒼穹・・』を読んだ方がより楽しめるのでは)。

”珍妃”も”珍妃の井戸”も実在する。
「光緒帝と珍妃」(http://yichintang.hmc6.net/romance/romance.kouchotei.html)
wikipedia英語版

物語の構成は現代版「藪の中」(?)

事件について登場人物らがそれぞれの記憶を述べるが、内容はそれぞれまちまち。果たして真実は?

こう言ってしまうとありきたりですが、浅田氏の筆の冴えはさすが。まるで読者を目前にして語っているかのよう。物語に読者を引き込むテクニックとでもいうのでしょうか、そこに浅田氏の真骨頂がある(嫌いな人は嫌いだろうけど)。

読書の楽しみを堪能させてくれる浅田作品。みかん食べながら炬燵でヌクヌク読んでると、しみじみとしたしあわせを感じられると思います。

続編扱いの『中原の虹』もいずれ読まねば。

珍妃の井戸 珍妃の井戸
浅田 次郎
価格:1680円

筒井康隆『将軍が目醒めた時』

  • 2006年11月28日 (火)

読了。

(収録作品)
・万延元年のラグビー
・ヤマザキ
・乗越駅の刑罰
・騒春
・新宿コンフィデンシャル
・カンチョレ族の繁栄
・注釈の多い年譜
・家
・空飛ぶ表具屋
・将軍が目醒めた時

難しいことを考えることもなくひたすら笑い楽しめる一冊。
私は「乗越駅の刑罰」が最も楽しめました。少しばかり権力を手にした小役人(国鉄職員)に理不尽な刑罰を受ける小説家のおはなし。こうして(ストーリーを思い出しつつ)書きながらまた笑いがこみ上げてきています(ギャハハ)。ま、そのくらい笑えるハナシでした。

表題作の「将軍が目醒めた時」も笑えます。そして時々マジメに考え込まされます。

狂気を笑うことが出来るのは正気の人間だけであり、狂気の人を笑うことが出来るのは正気の世の中だけである。

そして狂気は決して”狂気”としては現われない。それは必ず”正気”のフリをして現われるのだ、「私(私だけ)は正気です!」とやけに声高に叫びながら。

そんなことを考えました。
ホント、筒井作品は笑えます。

将軍が目醒めた時
筒井 康隆〔著〕

税込価格 : \1,029 (本体 : \980)
出版 : 河出書房新社
サイズ : 四六判 / 296p
ISBN :
発行年月 : 1977

村上春樹『東京奇譚集』

  • 2006年11月25日 (土)

読了。

(収録作品)
「偶然の旅人」
「ハナレイ・ベイ」
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
「品川猿」

それは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ

  「日々移動する腎臓のかたちをした石」より

「品川猿」も分かりやすい作品でした。
「どこであれ・・・」はハードボイルドタッチの文体が私好み。

村上作品は読み手との距離感のつくり方がとても心地よいですね。

東京奇譚集 東京奇譚集
村上 春樹
価格:1470円

村上春樹『やがて哀しき外国語』

  • 2006年11月09日 (木)

読了。

これも淡々と読み終わりました・・・。

村上春樹の文章のあまりに淡々としたところが、以前の私にとってはさほど心地の良いものではなかったのですが、最近読んでみてちょっとだけ印象が変わりました。もちろん変わったのは私自身なのでしょうけれど。

「ああ、このひと、すごくマイペースなひとなんだ」というのが文章に滲み出ているような気がしました。(実際のところどうなのかは知る由もありませんが・・・。少なくともご本人自身どこかでそう書いておられましたね。)

どこまでも淡々タンタンたんたん・・・。で、ときどきサラっと(じつは)鋭いことを言っている。友達の中に一人はこういう男が居るもんですよねー。

長く日本を離れていていちばん強く実感するのは、自分がいなくても世の中は何の支障もなく円滑に進行して行くのだなということである。・・・考えてみればこれは自明の理で、人間が一人増えたり減ったりしたぐらいで世の中が混乱していたら、世の中が幾つあったって足りない。しかし日本で生活して、自分の役割のようなものに毎日忙しく追われていると、そういう自分の無用性のようなものについてじっくりと深く考え込んでいるような暇がないのも確かである。・・・外国に長く出るというのは社会的消滅の先取り=疑似体験であると言ってもいいような気がする。

日本にいるときにかいつも感じさせられた様々な種類のややこしい煩わしさよりは、・・・ぎりぎりの個人という資格の上に降りかかってくる直接的な「きつさ」の方が、僕にはまだリーズナブルな者であるように思える

「僕らがこうして自明だと思っているこれらのものは、本当に僕らにとって自明のものなのだろうか」と。でももちろんそういうぼくの考え方は適切なものではないだろう。だて自明性についての問い掛けがあるということ自体が、自明性の欠如をはっきりと示唆しているわけだから。

やがて哀しき外国語 やがて哀しき外国語
村上 春樹
価格:1427円

村上春樹『村上ラヂオ』

  • 2006年11月07日 (火)

読了。

ふぃーっと読んでおしまい。それだけ。

阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』

  • 2006年10月22日 (日)
  • キーワードタグ: 神話

読了。

神話の面白さの一端を感じました。

「私は叔父様の命令は破りました。しかし、もっと尊い神々の掟を犯してはおりません。兄弟の愛、死者への敬い、もっと大きな永遠の掟に従ったまでのことです。」(アンティゴネの台詞)

もとよりギリシア神話はいつもなにか教訓的な示唆を私たちに与えようと意図してそこに存在しているわけではない。・・・しかし、・・・どこか哲学的とも言ってよいような世界観が漂っている。少なくとも私にはそう感じられる。

ギリシア神話のエッセンスを味わうのに丁度よいです。

本書の読者はおそらく小説、随想、評論の入りまじったものを読みながら、知らず知らずのうちにギリシア神話の森に分け入っているだろう。(巻末解説より)

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫) ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)
阿刀田 高
価格:420円

島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』

  • 2006年10月20日 (金)

いちおう読了。

「鮮烈な感性で同時代を描き・・」と著者略歴にありましたが。
確かに伝わってくる何かがある。
じゃ、それを楽しめたかといえば答えはNO。

うかつにキャラクターに感情移入したら思考が空回りして自家中毒になりそうな、ちょっとコワイ作品でした。

文庫版の内容説明に曰く「若く未熟であるがゆえに、周囲との距離感が測れず、臆病で自虐的にならざるをえない──、そんな孤独な魂たちが、きらめく言葉の宇宙に浮遊する」
あと何十年か後に自分の若い頃を回想するようになったら、「そういえば俺も若い頃は・・・」なんて思いながら楽しめるのかもしれませんが。無理かも。

優しいサヨクのための嬉遊曲
島田 雅彦
入手不可

河野多惠子『後日の話』

  • 2006年10月18日 (水)

読了。

先日読んだ中村雄二郎の対談集でこの作家の名前を知って興味が湧いたので、とりあえず一冊読んでみました。

bk1の紹介文には「物語の復権を告げる堂々たる綺譚」とかなり目を引くコピーがありましたが。

舞台はイタリア。
少女の頃にふと漏らした一言で、以来「変わり者」の烙印を押された女性が主人公。
結婚相手はなかなかの好人物。ただし極く稀にふとしたことで激高してしまう男。
そして彼はそうした性格ゆえに破滅する。
刑死間際の彼の行動は彼の、この女性に対する恋着を示す。
結末における彼女の行動は、意外。その男がもっとも衝撃を受けるであろう行動。男に対するささやかな復讐だったのか。

この物語を以て女性心理を語るのはどうかとも思いますが、ありそうな話だという気もしました。そう思わせるところは文学の力でしょうか。それとも・・・。

今までに読んだことのある女性作家と比べると、わりと異色という感じがしました。

子供は自分を最も愛してくれていると感じている人に対して、最も駄々をこねるのだ。

世間は浅墓で、無責任で、愚かで、残酷で、それ故に非常な力をもっているでしょう。・・・世捨て人のように暮らしたらと、幾度も空想した・・・しかし、それは駄目。世間からの滋養がないのだもの。

後日の話 (文春文庫) 後日の話 (文春文庫)
河野 多恵子
価格:580円

夢野久作『ドグラ・マグラ』

  • 2006年10月14日 (土)

読了。

合理的な素材・ディテールから構成された極めて非合理的小説世界である。
そんな印象は残るものの、「どういうストーリーだった?」と問われても、一読した限りの私はそれに答えることが出来ません。
日頃から”論理だ””客観だ”などという意識が強い人ほど、精神のバランスを取るのに最適な本かもしれません。
心理学に興味がある方なら尚さら興味深く読めるのではないかと思います。ユングの集合的無意識と通じるような部分もありました。

ぼくたちの無意識は、自分の現実に行っていない犯罪の、罪の意識にさいなまれ、おびえ、苦しめられている

合理主義精神を教養の根底においた人物が、この非合理的な巨大な世界の構築者であったとは、信じられぬ人もあろうが、その人たちは、合理主義的な理性が、狂気と無縁か、あるいは対照をなすものと、思いあやまっている。

妄想的世界は、極端にまで押し進められた合理主義の世界なのである。この小説に登場する二人の学者の合理主義の果につながる人体実験を、じっと眼をこらして見るがいい。そこに、鉄格子の中に閉じこめられた患者たちの世界よりも、より狂気的な世界が見えてくるだろう。

以上、なだいなだによる巻末解説より引用

極端な合理主義はそのままある種の迷妄へと通じている、と言えるのかもしれません。遠藤周作の「海と毒薬」のテーマなぞも同様のことを示しているように思います。よくよく考えてみればそういう例は身の回りに結構たくさんありそうです。

ちなみに夢野久作は杉山茂丸の息子で本名杉山泰道。
「夢の久作」とは、九州地方の方言で、「夢想家、夢ばかり見る変人」という意味、なのだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/夢野久作

夢野久作・・・。誰かの名前に似てるんだけど・・・・思い・・出せま・・・せん。

ついでに紹介。
 西日本新聞連載の「千年書房・九州の百冊」

http://www.nishinippon.co.jp/nbl/kyushu100/

ドグラマグラの紹介記事があります。

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫) ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)
夢野 久作
価格:540円

ドグラ・マグラ (下) (角川文庫) ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)
夢野 久作
価格:620円

山田詠美『マグネット』

  • 2006年10月11日 (水)

読了。

山田詠美の短編集。9編収録。
テーマは罪と罰。
捜査1課の刑事であった義弟との関わりのなかから生れた作品集だそうです。
この本を締めくくる「最後の資料」のなかにその義弟の死が描かれています。
ただし、刑事モノではありません。
日常における罪と罰といった感じです。

二人は、憑かれたように他人の生活に夢中になっている。正確に言えば、他人の生活を自分たちのそれと重ね合わせることに。重ね合わせると、どちらかがはみ出す。そのずれた部分に対して、喜んだり悲しんだり。

~「瞳の致死量」より引用

物書きになって、私は楽になった。それは、自分の身にどのような事件が起ころうとも、客観視する習慣を手にしたからだ。大丈夫、やがて作品に結び付く。そう自分に言い聞かせることで、どれ程の問題を片付けて来たことか。

~「最後の資料」より引用

個々の作品の密度はけっこうバラバラのような気がしましたが、「最後の資料」一作で私は満足です。せつなかった・・・。

マグネット マグネット
山田 詠美
入手不可

島田雅彦『語らず、歌え』

  • 2006年10月10日 (火)

読了。

島田雅彦による評論・エッセイ・アフォリズム・・・。

感想?
書けません。

著者が、語らず歌うのだから
読者も語らず耳を澄ますばかりです。

音楽批評ほど無味乾燥なものもそう多くはあるまい。楽曲分析をして新規に演奏法を開拓したり、作曲家独自のテクニックをつまみ出してみるのならともかく、点数をつけたり、いい悪いをいうだけの批評なら、その人が偉くならなければ話にならない。・・・僕は音楽について語りはすまいと思う。語るより音楽に合わせて歌うだろう。

島田雅彦『語らず、歌え』

結末が分ってしまえば読む気の失せる物語も文学なら
読んでみなければ味わえない言葉の集まりも文学・・・か
次の島田みずから訳したマンデリシタームの詩集「石」の一節は心に残る。

泡のままでいてくれ、アフロディーテ、そして言葉よ、音楽のもとへ帰るんだ。

同上

語らず、歌え
島田 雅彦
入手不可

河合隼雄ほか『笑いの力』

  • 2006年10月09日 (月)

読了。

笑えました。そして考えさせられました。

2004年に小樽で開催されたシンポジウムをまとめた本。
前半は河合隼雄、養老孟司、筒井康隆三者の講演録、後半は三林京子と司会の工藤左千夫を加えたシンポジウムのまとめ。

このなかで私は、なぜ現代の日本に笑いが乏しいのかというところに興味を持ちました。

かつては日本にも滑稽本や古典落語などさまざまな”笑い”が確かにあった。
ところが明治以後、西洋科学文明を取り入れて西洋に追いつけ、追い越せとやるうちに日本では笑うことの価値が見失われていった、というのです。

科学的思考は、客観的真理の存在を前提としてこれを追求する思考法ではあるが、本当に客観的真理は存在しているのか。それは人間が知りうるものなのか、という疑問を置き去りにしてきたのが明治以後の日本でなのではないか。

客観的であること、科学的であること、理性的であること、論理的であることはすべて善き事だ、また、そうあるべきだというある種の”癖”が身に付いてしまっていないか。果たして本当にそうなのか。

そもそも人間にとって真の意味での客観的認識は可能なのか。人間は、より客観的、より論理的であろうとすることは可能であるとしても、人それぞれにバイアスがかかることは不可避ではないのか。(そのような、人間の認識力の限界を説明するにあたっては、芥川龍之介の「藪の中」が引用されています。)

NHKの番組審議会に出ればわかりますけれど、報道局長が出てきて、必ず言うことがあるんですよ。「NHKの基本的な方針は、公平、客観、中立です」とこうおっしゃる。・・・その背景にある現代社会の常識とは、「たった一つの客観的な事実がある」ということです。・・・唯一客観的な現実がある・・・それは神様のものであって、人間のものではない。・・・公平、客観、中立のものを人間が把握できると本当に思っているのかと言いたい

人間に出来ることは、客観的で在る、不偏不党で在ることは本来的に不可能であるという認識に立った上で、より客観的で在ろう、不偏不党で在ろうとすること位なのではないだろうか。
真面目な顔をして自らが客観的であり得る、不偏不党であり得ると公言できる人に対して対抗する手段の一つが”笑い”だという気がします。

話は変わりますが、この本にある、劇場と笑いの役割は非常に示唆に富んでいると思います。

「劇場とは何か」:そこで起こることはすべて虚構であると前提される場(空間)
↑ちなみにこれはこの本を読んだ上での私なりの理解です、念のため。

もしそうした意味での劇場において、観客の一人が観劇中に

「嘘は泥棒のはじまりであるぞ、けしからん!!!」

と言い始めたとしたら、これほど滑稽なことはないように思います。なぜなら、「劇場で演じられることはすべてが虚構である」というのが前提なのだから。

そろそろ頭が混乱してきました・・・・。
まぁ、結論は「真面目もホドホドに」というところでしょうか。
真面目すぎる議論はしまいには息苦しくなりますもんね。

虚構や笑いの中に紛らしてしか語れない真実、というのもあるような気がする昨今です。

最後にこの本の中から面白かった部分を引用させてもらいます。

「どうしたらいいか」、本当に戦後よく出る問いの立て方です・・・「ああすればこうなる」・・・だから商売でもなんでもそうですけど、官庁は典型的にそうで、予算をたてて、「ああすればこうなる」をやる。子供を育てるのも「ああすればこうなる」。

官庁での新任研修
(講師)「「ああすれば、こうなる」ではだめなんだ!」
<受講生一同、納得の顔>
(司会)「では最後に質問がある方はどうぞ」
(受講生)「・・・・・・それじゃあ、先生、どうしたらいいですか」

(↑この部分は本文をもとに変形を加えています。)

笑いの力 笑いの力
河合 隼雄
価格:1575円

浅田次郎編『待つ女~浅田次郎読本』

  • 2006年10月08日 (日)

読了。

浅田による三島由紀夫論「寂寞の庭にて」が収録されています。

ずっと(私が)敬遠してきた三島由紀夫ですが、人生を左右するほどの多大な影響を浅田次郎という一人の人間に与えたらしい彼の作品をもう少し読んでみようかと思います。

待つ女―浅田次郎読本 待つ女―浅田次郎読本
入手不可

遠藤周作『海と毒薬』

  • 2006年09月24日 (日)

再読。

日本人一般の罪の意識とはいかなるものか。
神を信ずるものとそうでないもの。
神すなわち絶対的規範、論理を越えたもの。

日本人の道徳観に対する作者の見方は、次の部分に端的に表されているように私は思いました。

ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは・・・子どもの時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐怖だけだった

補足ですが、
自分自身を掘り下げつづけた上で自分なりの人間観・道徳観を表現したつもりが、時として、他者にとっては自らに対する非難であると了知されることもあり得るわけです。

ある人たちは、ぼくがあの小説によって彼等を裁断し非難したのだと考えたようである。だが、とんでもない、小説家には人間をさばく権利などないのである。・・・この誤解はぼくにとって大変つらい経験だった

(以上、遠藤の述懐~巻末解説より引用)

そうした危険を冒すことになっても表現せざるをえない”何か”というのはあるのか・・・。あるとすれば一体何のために。

海と毒薬 (新潮文庫) 海と毒薬 (新潮文庫)
遠藤 周作
価格:380円

遠藤周作『白い人・黄色い人』

  • 2006年09月23日 (土)

第二次世界大戦期のフランスを舞台とする「白い人」、同時期の日本を舞台とする「黄色い人」。物語としては全く別々のものですが、主題には共通のものがあります。神と人、人間の罪深さ・・・。

管見ですが、この本は読む時を選んだ方がよいかも。鬱屈したときに読むとさらに深みにハマっていきそうな気がします。

人間というものの、存在や感情などの割りきれなさについて考えさせられました。

偶然が彼等に死をもたらすという事実は、なににもまして恐怖を拡がらせる。ある生死を決める法律規則が定まっているならば、人は、自分の運命をその法律、規則に順応させて救うことができる。しかし、偶然だけには、どうにも、たちむかうことはできぬ。

彼等は、内心、自分がユダヤ的血統でないことにホッとする。その時、彼等は、すでにひそかに殺されたピエール・バンを裏切り見捨てたのだ。バンがユダヤ的血統であれ、おなじ仏蘭西人であることを忘れるのだ。

白い人・黄色い人 (新潮文庫) 白い人・黄色い人 (新潮文庫)
遠藤 周作
価格:380円

安部公房『他人の顔』

  • 2006年09月22日 (金)

読了。

顔をモチーフとした哲学的な趣のある小説。
この本も積ん読歴が長かったですがようやく読みました。
読みごたえあります。一読しただけではどうも未消化のような気がしてなりません。
普段、読書しながら気になる箇所に傍線を引くのですが、ほかの本なら50ページに1カ所くらいであるのが、この本では数ページごとに引いていました。

なまじ光があったばかりに、彼女は三角パンを、パンではなくて三角だと思い違えてしまった。光というやつは、自身透明であっても、照らしだす対象物を、ことごとく不透明に変えてしまうものらしいのだ。

外傷、とくに顔面の傷の深さは、まるで写し絵みたいに、そっくり精神の傷になって残る

表情というのは・・・他人との関係をあらわす、方程式・・・自分と他人を結ぶ通路・・・その通路が・・・塞がれてしまったら、せっかく通りかかった人も、無人の廃屋かと思って、通り過ぎてしまうかもしれない。

まさに重厚な小説、とういのが感想です。
大江健三郎による巻末解説も難解。
もう40年以上前に出版された小説ですが、仮にこのような筆致で書かれた小説が、今の日本で出版されたら果たして売れるのだろうか?とも思いました。最近の小説に対する私の印象は、読みやすさ・ひらがな多用・笑いが不可欠、といったものです・・・。偏見ですが。

ついでにこの作品が刊行された1964年の主な出来事を調べてみると・・・
  ・アメリカで公民権法成立
  ・トンキン湾事件
  ・キング牧師にノーベル平和賞授与
  ・第1次佐藤栄作内閣成立

といったところです。

他人の顔
安部 公房著

税込価格 : \500 (本体 : \476)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 290p
ISBN : 4-10-112101-X
発行年月 : 1991

伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』

  • 2006年09月18日 (月)

読了。
楽しめます。面白い。
再読にも耐えるミステリー小説だと私は思いましたが・・・。

オーデュボンの祈り
伊坂 幸太郎著

税込価格 : \1,785 (本体 : \1,700)
出版 : 新潮社
サイズ : 四六判 / 346p
ISBN : 4-10-602767-4
発行年月 : 2000.12

島田雅彦『快楽急行』

  • 2006年09月17日 (日)

読了。

朝日新聞連載のエッセイをまとめたもの。
短い文なので暇なときにパラパラめくって読むのに最適かも。
なによりも内容が面白いですし。

スポーツ選手にとって真に超えるべき壁は肉体の限界よりも脳の限界の方である。脳の限界を拡張できれば、不可能と思われていることも可能になる。だが、それは恐怖との戦いとなろう。

お互いに怒りをぶちまければ、本音も出る。普段、胸の奥深くにしまい込んでいるわだかまりを発散させないとそれは恨みつらみとなって蓄積する。地震と同じでひずみのエネルギーが溜まりすぎると、カタストロフが起きる。

快楽急行
島田 雅彦著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 朝日新聞社
サイズ : 四六判 / 225p
ISBN : 4-02-250031-X
発行年月 : 2005.6

三島由紀夫『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』

  • 2006年09月14日 (木)

読了。
前者は性的放蕩の代名詞サドを彼自身ではなく夫人の立場から描いた戯作。
後者はヒトラーの同志でレーム事件に題材を採った戯作。

ヒトラーの同志で一時は突撃隊(SA)を統括したエルンスト・レーム。首相の座に登ったヒトラーによって暗殺され、SAは壊滅しその後は親衛隊(SS)が台頭していくことになる。(なお、作品はレームの暗殺までで終わります)

だいぶ以前に、第三帝国期のドイツについて調べたことがあったので懐かしく思いました。

税込価格 : \420 (本体 : \400)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 239p
ISBN : 4-10-105027-9
発行年月 : 2003.6

北方謙三『煤煙』

  • 2006年09月10日 (日)

読了。
法や正義に大義を見出せなくなった弁護士が主人公。
主人公がまた死んだ・・・。

煤煙 煤煙
北方 謙三
入手不可

文庫版の入手可能
煤煙 (講談社文庫) 煤煙 (講談社文庫)
北方 謙三
価格:800円

伊坂幸太郎『重力ピエロ』

  • 2006年09月09日 (土)

読了。
非常に面白いミステリーでした◎

理不尽な恐怖を与えないとさ、子供は世の中を舐めるんだよ。一回、猛獣に噛まれる経験でもすれば、その後はちょっとは怯えながら暮らすだろうに

暴論と言えば暴論かもしれませんが・・・・。
この他にも、引用したくなる文が多々ありました。

重力ピエロ
伊坂 幸太郎著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新潮社
サイズ : 四六判 / 337p
ISBN : 4-10-459601-9
発行年月 : 2003.4

檀一雄『リツ子』

  • 2006年09月09日 (土)

読了。
リツ子の死の場面は圧巻。まるで映像を見ているようでした。

印象に残った一文を引用します。

天が下、理想の高下はあるであろう。が、あらゆる分別や思想がかもし出す、禍いについては、見たところである。今は、たった一つの自愛を確立したかった。それにしても・・・・・・唯今、帰りついたのだ。まぎらわしい己の生命にまっすぐに触れてくれるものが欲しかった。

リツ子・その愛;リツ子・その死 (檀一雄全集)
檀 一雄
入手不可

浅田次郎『歩兵の本領』

  • 2006年09月08日 (金)

読了。

一八,九で取柄のあるやつなんかいるものか。取柄ってのは自分で作るもんだって。

ひとりのバカのせいで、十何人の戦闘班が全滅する。一個班がノロマだと一個小隊が全滅する。だから軍隊っていうのはどこの国でもそうだけど、優秀な兵隊を作るんじゃなくって、クズのいない部隊をつくろうとするんだ。

歩兵の本領
浅田 次郎著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 講談社
サイズ : 四六判 / 308p
ISBN : 4-06-210624-8
発行年月 : 2001.4

山田詠美のエッセイ集その2

  • 2006年09月05日 (火)

読了。
動物占い、ライオンって何か納得・・・。

ご新規熱血ポンちゃん ご新規熱血ポンちゃん
山田 詠美
価格:1365円

浅田次郎『蒼穹の昴 上・下』

  • 2006年09月05日 (火)

読了。

清朝末期の中国を舞台とした、とてもスケールの大きな物語。
乾隆帝、カスティリオーネ(郎世寧)、光緒帝、西太后、李鴻章、伊藤博文、毛沢東など、学生時代に覚えた懐かしい名前も数多く登場。
西太后の人物像の描き方なども類型的でなく、「さすがは小説家!」といった感じ。

徐々に高まりったあとに劇的なクライマックスを迎えてハイおしまいっ、という構成ではなく、むしろクライマックスの後にも余韻を残しつつ徐々に少しずつ終幕に向かうという感じです。登場人物や時代背景など色々な意味でスケールの大きなこの物語に見合うよう巧妙に計算された構成のようにも思われました。

文字通りの歴史大作。
人情ものでも歴史ものでも何でもござれという浅田次郎の芸の幅広さに脱帽!
(もちろんこの作品でもあちこちに人情話が覗いています)

わりと最近のものだと思い込んでいたら、出版からもう10年も経っているのにちょっと驚きました。

蒼穹の昴(上) 蒼穹の昴(上)
浅田 次郎
価格:1890円

蒼穹の昴(下) 蒼穹の昴(下)
浅田 次郎
価格:1890円

山田詠美のエッセイ集

  • 2006年09月04日 (月)

読了。

日はまた熱血ポンちゃん (講談社文庫) 日はまた熱血ポンちゃん (講談社文庫)
山田 詠美
価格:560円

浅田次郎「月島慕情」

  • 2006年09月01日 (金)

読了。

だれにでもある感情の機微を掬い取って紡ぎ出される浅田次郎のストーリーは絶品。
今さら私如きが言うのもなんですが・・・。
小難しい”文ガク”とはまるで別世界のもの。

「卯吉さん」
ミノは呼び止めた。心の中は読み切られているのだろうけれど、真心のほんの少しでも、誰かに聞いてほしかった。
「あたしね、この世にきれいごとなんてひとっつもないんだって、よくわかったの。だったら、あたしがそのきれいごとをこしらえるってのも、悪かないなって思ったのよ」
卯吉は老いた顔を首だけ振り向けて言った。
「ばかだな、おめえは」
「それァ承知さ」
「ばかだが、いい女だぜ」

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』

  • 2006年08月31日 (木)

読了。

やはり表題作「憂国」に強烈な印象を受けました。
体裁は2・26事件外伝。新婚間もない陸軍中尉が、叛乱軍に加わった親友たちを鎮圧するに忍びず、妻とともに自決する。
三島自身が”三島のすべてを凝縮したエキス”と自負するだけのことはある、強烈な作品でした。

職務と友情との板ばさみ、と書いてしまえばサラリとしすぎるきらいもありますが、”ディティールが云々”などと言わせない力強さを感じました。

三島の作品に限ってのことではありませんが、小説に関する書評などをあちこちで見ていると、時として”細かい部分のディテールに問題が…”などと書いてあるのを見かけることもありますが、私なぞは「小説ってのはそんなもんかな、違うんじゃないのかなぁ」と思ってしまいます。

一例としてこの「憂国」に関して言えば
「親友たちと刃を交えたくないのならば辞職すればよかったじゃん」なんてツッコみ入れることも出来なくはないのかもしれませんけど・・・。もしそんなこと言ってたら小説の世界(虚構の世界)はどんどん狭くなってしまうような気がします。虚構だからこそ表現できる真実を小説には求めたいなぁ。

なにはともあれこの「憂国」を読んで私自身の日々の過ごし方を反省させられました。仕事や学業で煮詰まっているようなときにこれを読むと、目を見開かされるようなこともあるかもしれません。なにせ私たちの日常はかなりの部分は惰性や妥協や依怙地やらで埋め尽くされていますから…

ついでといっては何ですが、ここに収められている「女方」も好きです。男性の視点からみた女性の美しさと醜さが描かれています。比重は”美しさ”にある気がしましたが。作中では女形の歌舞伎役者が”理想の女性像”を担い、平凡かつ不器用な男(演出家)と女性(女性の理想形)との関わりが物語の後半部を占めています。現実の女性ではなく、女性よりも女性らしい”女形”をもってくるところが小説のテクニックということでしょうか。

花ざかりの森・憂国
三島 由紀夫著

税込価格 : \500 (本体 : \476)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 286p
ISBN : 4-10-105002-3
発行年月 : 1994

三島由紀夫『青の時代』

  • 2006年08月30日 (水)

読了。
光クラブ事件がモチーフ。”物語”としてはそれほど楽しめませんでした。
なんとなくビビッと来ず・・・。

青の時代
三島 由紀夫著

村上龍『限りなく透明に近いブルー』

  • 2006年08月30日 (水)

一応、読了。
文体が律動的なのは感じとれましたが・・・・

三島由紀夫『盗賊』

  • 2006年08月29日 (火)

読了。

世の中、様々な嘘・虚言が飛び交っているんでしょうけれど・・・・。
そもそも、
嘘ってなんなんだろう?
他人に対する嘘もあれば自分に対する嘘ってのもあるし。
自分を欺くってどんなんだろう?
いざ考え始めると、そうそう簡単ではなさそう・・・。
この本を読みながらそんなことを考えました。

あのように忘れがたい美子に会おうともせず手紙をさえ出さない明秀・・・の性格は自己に忠なるかにみえてそうではないのだ。ふつうの人間なら他人の目に辻褄が合いさえすれば、自分の内部でどんな矛盾撞着があろうとお構いなしなのを、明秀の秘密主義は人には隠し了せても自分の内でなお辻褄を合わせようとする点で一応自己に忠実だとみえはするが、実は見栄や意地や掛引を他人に対してのみならず自己に対しても濫用する結果に終るので、むしろその反対だと言わねばならない。(本文より)

単なる自虐や自己暴露では、(劇が)発展せずに燃焼してしまう。そのような甘ったれた誠実さを、作者(三島)は最も嫌悪している。卑小なる物を卑小だと言い切ることは、何とたやすい業であろうか。(解説-武田泰淳-より)

エンディングがまさに”劇的”。「なるほど、盗賊か・・・」って感じです。

盗賊
三島 由紀夫著

税込価格 : \380 (本体 : \362)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 175p
ISBN : 4-10-105004-X
発行年月 : 1979

『作家の自伝 檀一雄』

  • 2006年08月28日 (月)

読了。

読み手をして真実のように思わせておいて実は虚構であったり、また逆に、虚構のように思わせながらヒョッと真実をまじえたりして一向捉えどころのなさげに見える檀一雄の自伝はやはり檀流でした。

編解説者の野原一夫氏曰く、

自身の体験を・・・かなり忠実に述べたと思われるエッセイにも巧妙な作為がほどこされており、自伝的小説として分類されるであろう作品との間に、本質的にはそれほどの差異があるわけではない。・・・であるから・・・エッセイとして扱われている作品と、小説として流布されている作品とを、敢て区分けすることをせず、檀一雄の生涯を辿りながら、その時期々々に照応する自伝的作品のなかから質の高いものを選び出してゆくという方法を採った。

逗留先の熱海で檀と太宰治が豪遊(女郎買い→今風に言えばソープランドのハシゴ!?)した挙句支払いに窮したため、檀を残して太宰が金策に行ったもののなかなか戻ってこなかった、というエピソード(これも虚構?)が紹介されており、檀は次のように書いています。

私は後日「走れメロス」という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私たちの熱海行が、少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。

あの美しい友情物語の原型が、大の男二人が風俗行ってバカ騒ぎして気がついたら金が足りず、一人は人質、もう一人が金策に走るなどという乱痴気だったとしたら如何にも面白いと私なぞは思います。(もしかしたら檀の作り出した虚構にまんまとハマっているのかもしれませんが・・・・)

この文章すぐあとに、檀はこう続けています。

あれ(走れメロス)を読む度に、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、柔らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。

ちなみに以前読んだ『青春放浪』も一部収録されていました。

作家の自伝 (70) (シリーズ・人間図書館) 作家の自伝 (70) (シリーズ・人間図書館)
檀 一雄
価格:2730円

大沢在昌『新宿鮫 無間人形』

  • 2006年08月18日 (金)

読了。
同じ系統のハードボイルドスタイルでも原リョウ作品辺りとは微妙に違うもんですね。特に文章が。文体としては似ているのかもしれませんが、”文章”が違います、明らかに。

新宿鮫
大沢 在昌著

税込価格 : \1,529 (本体 : \1,456)
出版 : 読売新聞社
サイズ : 四六判 / 485p
ISBN : 4-643-93069-1
発行年月 : 1993.10

北方謙三『夜の終り』

  • 2006年08月12日 (土)

読了。
主人公であるオルゴール屋の店主はかつて裏街道の仕事師。古い仕事仲間の息子の依頼を受けて5年ぶりに仕事を受けて・・・。

読後感
また主人公が死んだ・・・

夜の終り
北方 謙三〔著〕

税込価格 : \580 (本体 : \552)
出版 : 講談社
サイズ : 文庫 / 320p
ISBN : 4-06-184638-8
発行年月 : 1990.3

北方謙三『弔鐘はるかなり』

  • 2006年08月11日 (金)

読了。
ハードボイルド小説というスタイルがどういうものか分かったような気になれました。

弔鐘はるかなり (集英社文庫) 弔鐘はるかなり (集英社文庫)
北方 謙三
価格:650円

北方謙三『帰路』

  • 2006年08月10日 (木)

読了。

こんなことにこだわるようになったのも、ハードボイルドとよばれるジャンルの小説を書きはじめてからだ。直接的な心理描写はしない。物に心理を仮託する。簡単に言えばそういうことだが、ありふれた物を使うのはなかなか難しい。それで、いっぷう変ったものを持ち出してしまう。その時点でひとつの勝負は降りていると思うのだが、ありふれたものの難しさというのは、いやというほど知っていた。時間に追われ、安直な方法を選んでしまうのだ。

帰路 (講談社文庫) 帰路 (講談社文庫)
北方 謙三
入手不可

北方謙三『魂の岸辺』

  • 2006年08月09日 (水)

まだ読みかけ。
北方謙三といえばハードボイルド小説。ただしこの作品は14歳の少年が主人公。少年が男になっていく過程を描いているという意味では一種のビルドゥンクスロマン(教養小説)とも言えるかも知れません。
私自身はもう少年どころか青年とさえ言えるかどうかいささか怪しい年齢ですが、この作品を読んでいると気持がスッキリしていきます。話の分かる友人と向き合って言葉もなく杯を傾けている時のような心持です。

「約束なんて、破るためにあるんだから」

と言う女への答えが

「俺は、そう思う。約束は約束だってな。怪我したからって、それを忘れるようじゃ、約束の意味がなくなっちまうよ」

まぁ14歳の台詞ではないですね・・・。常に後者が正しいとは言えないとも思います(時・場合・相手によるのかも)。が、それはともかく、同感。
意固地とハードボイルドの境界はかなり微妙なのかもしれませんね。
クドクド書くのは(いや、そもそもこんなブログ書いている事自体)、非ハードボイルド的な気がしますが、この作品がスッと心にはまりこんできたのでつい書いてしまいました。

P.S.今日はこんな言葉もずっと頭に浮んでました。
”失意泰然、得意靄然”

初めて読んだ北方謙三、これからもう少し読んでみます。

魂の岸辺
北方 謙三
入手不可

2009年に文庫で再刊
魂の岸辺 (集英社文庫) 魂の岸辺 (集英社文庫)
北方 謙三
価格:520円

山田詠美『A2Z』

  • 2006年08月07日 (月)

再読。
章立てがアルファベットで、A~Zまで。それぞれの章にキーワード1個。
構成は実験小説的でも小説そのものは単一のストーリー。

山田詠美の作品、大好きですが・・・・。文中にいきなり太文字で英単語が登場するところが、バラエティ番組で多用される無意味なテロップを連想してしまい少しばかり興醒め・・・。それでも楽しめる作品ではあります。

A2Z (講談社文庫) A2Z (講談社文庫)
山田 詠美
価格:490円

星新一『にぎやかな部屋』

  • 2006年08月07日 (月)

読了。
星新一の戯作風中編小説。

舞台は事務所として使われているビルの一室。金銭至上主義の金貸し男とその妻であるあやしげな占い師が登場。さらに詐欺師、強盗グループが出現。ミソは登場人物凡てに背後霊が取り憑いていること。

ウィットに溢れる反面、とてもシニカルな星新一の世界。
この作品はシニカルさが顕著に現われていました。

生きている連中の世界には、予想の原則なんてねえんだよ。あるのは偶然だけ。偶然とその結果だけ。それを各人が自己の好みで蒐集し、勝手な理窟をつけて人生観としてるだけさ。悪の栄えたためしがねえという偶然と結果の例だけを集めれば、そんな原理も出来あがっちゃう。逆に、悪事をしなければ栄えないという例だけを集めれば、そんな人生観も出来あがる。強い者が勝つ例だけ集めれば、その原則が確立し、負けるが勝ちの例だけ集めれば、そうともなる。どうにでもならあな。

星新一『にぎやかな部屋』

にぎやかな部屋 (新潮文庫) にぎやかな部屋 (新潮文庫)
星 新一
価格:380円

泉鏡花『高野聖』

  • 2006年08月06日 (日)

読了。
(収録作品)
・外科室
・星あかり
・海の使者
・高野聖
・眉かくしの霊

表題作の「高野聖」が最も印象的。
村医者の令嬢が、洪水で家族を失い白痴の男と共に山中に住み着く。偶然そこを訪れた出家者の見たものは女性の二面性。清らかさと淫らさ。

とはいえ、性描写は皆無。現代的なあけすけな”淫らさ”とは無縁の世界。
清楚・可憐な存在であるからこそ漂い出す淫靡さの表現は、ある意味男性的かも。女性作家(たとえば山田詠美)の描く淫靡は、あくまでも女性を真正面から捉える(清楚・可憐なぞという単語は決して使われていないハズ)。もっとも、なんだかお手本をなぞるような白痴的作為や、あからさまで露悪的な言動などには毫も淫靡さを認めていない(と私には思える)点は共通している気がします。

最近になって出会い系等々のスパムが急増。知恵絞ってるなぁと思うことはありますが、それだけ。高野聖みたいなエロティシズムとは対極的だなぁとフト思いました・・・。

高野聖
泉 鏡花著

泉 鏡花著

税込価格 : \390 (本体 : \371)
出版 : 集英社
サイズ : 文庫 / 251p
ISBN : 4-08-752034-X
発行年月 : 1992.12

『天使たちの探偵』

  • 2006年08月03日 (木)

読了。

原リョウの短編集。
(収録作品)
 ・少年の見た男
 ・子供を失った男
 ・二四〇号室の男
 ・イニシアル”M”の男
 ・歩道橋の男
 ・選ばれる男

天使たちの探偵 (ハヤカワ文庫JA) 天使たちの探偵 (ハヤカワ文庫JA)
原 りょう
価格:609円

『快楽の動詞』

  • 2006年08月01日 (火)

読了。

快楽の動詞 (文春文庫) 快楽の動詞 (文春文庫)
山田 詠美
価格:420円

『たった一人の反乱』

  • 2006年07月25日 (火)

読了。

世間体とか体面とかを重んずるのはたしかに一種の倫理的な意識だが、道徳的な考え方をする人は得てして自分に対するよりも他人に対して道徳を要求するものだから、相手がもし世間体を重んじないで、自分の顔をつぶすようなことをすれば、ひどく腹を立てることもあり得る(そしてその結果として極めて非道徳的なことをなし得る)

極めて平凡な元官僚の日常生活に、元殺人犯の老女が闖入して巻き起こる珍事件。上記の引用もそれだけ読むと真面目なことを言っているようでいて、作中ではもっと笑わせる文脈で書かれてます。

とても淡々としたおかしさがある作品。クールな笑いといった感じです。いいなぁ、こういうの。

たった一人の反乱
丸谷 才一〔著〕

税込価格 : \1,449 (本体 : \1,380)
出版 : 講談社
サイズ : B6判 / 557p
ISBN :
発行年月 : 1978

『私が殺した少女』

  • 2006年07月23日 (日)

読了。
意想外の結末!

原 〓著

税込価格 : \1,325 (本体 : \1,262)
出版 : 早川書房
サイズ : 四六判 / 273p
ISBN : 4-15-203416-5
発行年月 : 1989.10

真実~『そして夜は甦る』より

  • 2006年07月22日 (土)

私は新宿に戻るまで、愛情や真実や思いやりの方が、憎しみや嘘や裏切りよりも遥かに深く人を傷つけることを考えていた。・・・苦しみもまた分かち合わなければ癒されず、むしろ増大するものらしい。真実を明らかにするより、敢えて他の男との関係を疑われることを選んだ女の真情を、私は理解しようとしてみた。絶えずどこからか”真実は告げられるべきだ”という声が聞えたが、私自身そんなことを信じてはいなかった。

(P237)

『そして夜は甦る』

  • 2006年07月22日 (土)

含蓄のある言葉が随所にあります。自分の体験に照らしてちょっとした既視感を感じたところが数ヶ所ありました。
処女作でもあるせいか、とても密度の濃いハードボイルドでした。

彼らはいつも肝腎なことを見落とす。真実を伝えると言うが、所詮はその程度のことだった。

(P257)

そして夜は甦る (ハヤカワ文庫 JA (501)) そして夜は甦る (ハヤカワ文庫 JA (501))
原 りょう
価格:756円

不夜城

  • 2006年07月20日 (木)

読了。
最後の主人公の語りが印象的。文字から口調が浮き出てきました。不思議。

不夜城
馳 星周著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
国内送料無料でお届けできます
出版 : 角川書店
サイズ : 四六判 / 299p
ISBN : 4-04-872983-7
発行年月 : 1996.8

「黒い夜」

  • 2006年07月20日 (木)

やるべきことは山積でも一向手につかず
気分を変える為には、まず二日酔い間違いなしの量のアルコールが必要。

こんな時は山田詠美に限ります。
決して口当たりのいいことばかり書いてある訳ではないし、耳、ではなくて目、を塞ぎたくなることもある。
にがい思い出がまた湧き上がってきて忸怩たる思いをさせられることもある
と同時に「受容れられている」という気がする。
読んでいるのはこちら側なのに、文を読み言葉を受容れてるのはこちら側のはずなのに。
子供じゃないからね、自分の中ことは自分自身でカタをつけなければならないけれども、一人では解決不能のときもある。

誰かに話して楽になりたいこともあるけれど、話すことでいやな思いをまた味わうのも出来れば避けたい。話すとしても話す相手はよくよく選ばなければ真意が通じない、もしくは真意を通じさせるのに骨が折れる。
学生の頃、次の日のことなぞ考える必要もなく友人と語り明かした夜を思い出す。
いまはそういうことが出来る機会は・・・数年に一度あればマシ?

話せば聞いてくれるんだろうけれど。自分にしても話が話なら夜を徹して聞くだろうし。でもなかなかそういう機会はなくなったなぁ。
その点、本ならばいくら時間をかけて自分に問いかけても構わないのが至極便利。いつでもどこでもその気になれば対話できるし、誰の時間も奪わない。決して迷惑がられることなどないし。

ただ、そういう対話を誘発してくれる本は決して多くない。
山田作品は、そういう意味で心地よい雰囲気を持っているように感じます。
このあたりが山田作品の人気の秘密!?。
「黒い夜」、イィ・・・

注)書きかけの記事を”非公表”で保存していたところが、googleにキャッシュされて閲覧可能になってしまっていたので、いっそ改稿して更新することにしました。(2006.10.19)

googleは便利だけれど、時々鬱陶しい。ま、非はこちらにもあるんですけどね・・・。

ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー (幻冬舎文庫) ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー (幻冬舎文庫)
山田 詠美
価格:480円

『内面のノンフィクション』

  • 2006年07月19日 (水)

再読。

初出が1992年(福武書店)ということは、もう15年ちかく前の出版か。
道理で若い。

税込価格 : \470 (本体 : \448)
出版 : 文芸春秋
サイズ : 文庫 / 261p
ISBN : 4-16-755804-1
発行年月 : 2001.4

『愚か者死すべし』

  • 2006年07月18日 (火)

読了。

愚か者死すべし
原 リョウ著

税込価格 : \1,680 (本体 : \1,600)
国内送料無料でお届けできます
出版 : 早川書房
サイズ : 四六判 / 355p
ISBN : 4-15-208606-8
発行年月 : 2004.11

「ゆたかさへの旅」

  • 2006年07月17日 (月)

小説「ゆたかさへの旅」の登場人物椿君の言葉

「このベナレスの町には排水溝なんてないじゃない。さっき歩いた小路は、三千年前から、あのとおりだったわけよ。ごみだらけだったんだよね。だけど、ベナレスはちゃんと生きているじゃない。そいで、一生懸命、ゴミをかたづけて、汚水を捨てていたモエンジョ・ダロは死んじまった。」

「だから文明は必ず滅びるんだ。なぜかというと、排除ばかりしてるうちに、自分まで排除しちゃうからね。合理化ってよくいうけど、合理化を、とことん押しつめていったら、しまいに非合理このうえないものになっちゃうんだな。」

キーワードである”片づけない”が印象的だったのでメモ。
いずれ改めて書いてみます。

ゆたかさへの旅 読書の旅 (森本哲郎 世界への旅)
森本 哲郎
入手不可

『うちの女房、うちの息子』

  • 2006年07月16日 (日)

読了。
最初は随筆集と思って読み進み、しまいまで読み終わると「ハテ、もしやあれもフィクションだったか??」と感じるような一冊でした。

うちの女房、うちの息子 (1974年)
遠藤 周作
入手不可

『風味絶佳』

  • 2006年07月15日 (土)

読了。

耽読しました。
特に一昔二昔前の私小説風の文体で書かれた「アトリエ」という作品が印象に残りました。文体は古風でもやはり良い意味で山田風。

この人の作品を読むたびになんだか右脳を刺激される気がします。読みながら没頭できる感じです。なので私にとってはとても貴重な作家、というか、今も存命の作家の中では一番好きなヒトです。
この方も、いつの間にか50歳目前か・・・・。

父と母の出会いと別れも、あがいたって無駄なことだった。何か大きなものによって人間関係は動かされている。私たちにはかなわない力強いものに。そう思うと、何故だか気は楽になる。色々なことを諦めるのに成功して、波立つ心は、ようやく鎮まる。

「そんなことないよ。(中略)人とのつき合いって、全部自分の努力からなんじゃないかなあ」
  (「海の庭」より)

風味絶佳
山田 詠美著

山田 詠美著

税込価格 : \1,290 (本体 : \1,229)
出版 : 文芸春秋
サイズ : 四六判 / 237p
ISBN : 4-16-323930-8
発行年月 : 2005.5
利用対象 : 一般

渡辺淳一全集7

  • 2006年07月14日 (金)

読了。
「遠き落日」は、野口英世の伝記小説。
星一つながりで読んでみました。
野口の性格的負の側面が強調されているのが印象的。

渡辺淳一全集 第7巻
渡辺 淳一著

税込価格 : \3,293 (本体 : \3,136)
出版 : 角川書店
サイズ : 四六判 / 499p
ISBN : 4-04-573607-7
発行年月 : 1996.3

『イエスの生涯』その3

  • 2006年07月11日 (火)

疲れ果てたくぼんだ眼、そのくぼんだ眼に悲しげな光がさす。くぼんだ目が微笑する時は素直な純な光が宿る。何もできなかった人、この世では無力だった人。痩せて、小さかった。彼はただ他の人間たちが苦しんでいる時、それを決して見棄てなかっただけだ。女たちが泣いている時、そのそばにいた。老人が孤独の時、彼の傍らにじっと腰かけていた。奇蹟など行わなかったが、奇蹟よりもっと深い愛がそのくぼんだ眼にあふれていた。そして自分を見棄てた者、自分を裏切った者に恨みの言葉ひとつ口にしなかった。にもかかわらず、彼は「悲しみの人」であり、自分たちの救いだけを祈ってくれた。イエスの生涯はそれだけだった。それは白い紙の上に書かれたたった一文字のように簡単で明瞭だった。簡単で明瞭すぎたから、誰にもわからず、誰にもできなかったのだ。

遠藤周作『イエスの生涯』

イエスの生涯 (新潮文庫) イエスの生涯 (新潮文庫)
遠藤 周作
価格:460円

『イエスの生涯』その2

  • 2006年07月11日 (火)

・イエスに対するユダの反駁

師よ。あなたは神が愛と言われる。だがこの苛酷な現実に神の愛はどこにあるのでしょう。・・・師よ。あなたは愛ほど高いものはないと言われる。然し人間は愛よりも今日、効果のあることが欲しいのです。現実に役にたつことしか願わぬのです。それが人間なのです。

・イエスの死

自分を愛してくれる者のために死ぬのは容易しい。しかし自分を愛してもくれず、自分を誤解している者のために身を捧げるのは辛い行為だった。英雄的な華々しい死に方をするのは容易しい。しかし誤解のなかで人々から嘲られ、唾はきかけながら死ぬのは最も辛い行為である。

遠藤周作『イエスの生涯』

イエスの生涯 (新潮文庫) イエスの生涯 (新潮文庫)
遠藤 周作
価格:460円

『イエスの生涯』

  • 2006年07月11日 (火)

読了。

イエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時もどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」であって病気を治す「奇蹟」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に泪をながしてくれる母のような同伴者を必要としている。

遠藤周作『イエスの生涯』新潮文庫

イエスの生涯 (新潮文庫) イエスの生涯 (新潮文庫)
遠藤 周作
価格:460円

篠田節子『ハルモニア』

  • 2006年07月09日 (日)

一気に読了。
脳に受けた後天的障害のために他者とのコミュニケーション能力を失った女性。その代償として得た驚異的な音楽的能力。これに関わっていく中堅チェリストの男。
作り話と分っていても、読みながらのめり込んでいけるくらいのリアルさがあります。音楽に関して、付け焼き刃でない著者の理解の深さを感じるのですが、何故でしょう?!

ハルモニア
篠田 節子著

税込価格 : \1,890 (本体 : \1,800)
国内送料無料でお届けできます
出版 : マガジンハウス
サイズ : 四六判 / 397p
ISBN : 4-8387-0838-6
発行年月 : 1998.1

火宅の人

  • 2006年07月08日 (土)

ようやく檀一雄『火宅の人』読了。

”小説”ということですが、読んでいる最中はそのことを忘れてしまう感じでした。作り物臭さの全くない、まるで完全な自伝を読んでるような印象。

無頼派という言葉からイメージする人間像とは若干異なって、弱さ・情けなさも随所に描かれているところに好感を持ちます。
近年このような赤裸々な文章を書く作家を寡聞にして知りませんが、どこかにいらっしゃるんでしょうか・・・・。

檀は太宰治とも親しかったようですが、その作品から受ける印象は180度違ってるのが面白いと云えば面白かったです。
それと、檀が福岡に縁が深かった事を今更ながらに知りました。博多弁が作中のあちこちに出て来るところに親近感を覚えてしまいます。

二段組み約460頁の大作で、読むのに時間が要りましたが、読んだ甲斐がありました。

火宅の人
税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新潮社
サイズ : 四六判 / 458p
ISBN :
発行年月 : 1979

”最期の無頼派”の青春

  • 2006年07月05日 (水)

檀一雄『青春放浪』読了。

著者の青年時代の放浪記。
けっこうドギツイ人生経験が、淡々とした風情で語られてます。

青春放浪 (1976年)
檀 一雄
入手不可

同じく『わが青春の秘密』読了。
『青春放浪』が青年期中心だったのに対し、こちらは主に少年時代の回想。
こちらはさらに強烈な体験の数々が赤裸々に綴られています。
読みながら、人ごとでないという感情が不思議と湧いてきました・・・。

わが青春の秘密
檀 一雄
入手不可

遠藤周作『真昼の悪魔』

  • 2006年06月30日 (金)

『スキャンダル』の余りの面白さに、続けてこの本を読みふけりました。
これまた面白かった。
一種のミステリーと言える作品ですが、犯人は冒頭から明らかにされている点、ちょっと独特ですが、最後まで読まずにはいられないところは、まさにミステリー。

何物にも感動できない、何かを愛する事の出来ない女性が引き起こす悪魔的犯罪。悪を、質ではなく量で測り、他人を愛することなくその効果だけを考慮する歪んだ価値観。

自分の罪にも何の後悔も持たず、他人の苦しみにも無感覚で、いつも白けた心を持っている—そんな人間はあなただけじゃない。表向きは常識がある人間のふりをしているが、心の芯は冷えた砂漠より冷たい。そんな人間を私はたくさん知っている。そしてあなたはその人達より正直なだけだ

もう20年以上前の作品ですが、読み進めながら昨今の世相を考えさせられました。

真昼の悪魔 (新潮文庫)
遠藤 周作
入手不可

遠藤周作『スキャンダル』

  • 2006年06月29日 (木)

読了。
物語に引きこまれて、あっという間に読まされてしまいました。
河合隼雄の解説にも考えさせられました。
詳細はまた後日。

スキャンダル (新潮文庫)
遠藤 周作
入手不可

村に吹く風

  • 2006年06月28日 (水)

読了。

村に吹く風
山下 惣一著

税込価格 : \368 (本体 : \350)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 282p
ISBN : 4-10-119311-8
発行年月 : 1989.12

シェイクスピアを楽しむために

  • 2006年06月28日 (水)

読了。
この本も数年間本棚の肥やし状態でしたがようやく読了。

誰もが知っていながら、よくは知らないシェイクスピア。
シェイクスピアの戯曲のあらすじを手際よく読ませる筆力は、さすが小説家。

最後の方にあった、トルストイがシェイクスピアの戯曲を徹底的に批判した事についての著者の分析も興味深く読みました。

シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫) シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫)
阿刀田 高
価格:620円

大爆笑!

  • 2006年06月27日 (火)

筒井康隆の著作を初めて読みました(まだ読みかけですが)。
徹頭徹尾大爆笑!
そのうちの「匿名」というエッセイが特に秀逸。無署名記事の無責任さ加減を批判する(というか、コキおろす)内容ですが、この面白さは引用では伝えようがないので、引用しません。

どのくらい面白く感じたかといえば・・・

ソファで年老いた猫のようにくつろぎながら筒井大明神の珠玉のような傑作を耽読していたのをわざわざ中断して年寄りの小便のように出足の鈍いPCをわざわざ立ち上げてブログに書き込みしたくなるくらいです。

そんな気分で下のようなニュースを読んでると、またまた笑えてしまいます。

「日銀は独立性が認められており、政治家が『辞めろ』と言うことは慎むべきだが、自らが自らの責任で出処進退を判断すべきだ」と述べ、自発的な辞任が望ましいとの考えを示唆した

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000211-yom-pol

って、「言ってるやん!!」

しばらく筒井ワールドに行ってこようと思います。

筒井康隆全集 14
筒井 康隆著

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新潮社
サイズ : 四六判 / 357p
ISBN : 4-10-644414-3
発行年月 : 1984.5

independentについて

  • 2006年06月25日 (日)

われわれ日本人民は人真似をする国民として自(みずか)ら許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通り遣(や)らなければ茲処(ここ)に達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜(よろ)しい。また来るべきはずである。

大正2年になされた夏目漱石の講演「模倣と独立」  青空文庫より。

星新一『きまぐれ読書メモ』

  • 2006年06月21日 (水)

読了。

星新一の読書メモ。若干古いものですが、守備範囲の広さにおどろき。(ご当人は谷沢永一らのそれに脱帽されていますが。) 私自身が読んだ事のない書籍が多かったので、批評についてはなんともいえませんが、一言、面白かった。

ショートショート作品からはうかがい知る事の出来ない、筆者の本音らしきものも散見され、興味深く読みました。紹介されていた作品の中の幾つかに、惹かれるものがあったので、探して読んでみようと思います。

きまぐれ読書メモ (1981年)
星 新一
入手不可

阿川弘之全集6

  • 2006年06月15日 (木)

読了。

職業軍人ではない、一般大学を卒業した予備士官として太平洋戦争に関わった若者たちが描かれた作品です。(注:作者自身予備士官として従軍。私はこの本を読みながら、昔読んだ『きけ わだつみのこえ』を思い出しました。)個人々々がそれぞれの想いを抱きつつ、戦争という大事に従事せざるを得なかった生々しい姿が彷彿としました。
そして作品の大部分を占める予備士官の若者たちの生き様や心理の描写は総て、その一人である湯沢大尉の書簡あるいは終戦工作に従事した津島少将の回想録の形式をとった最後の二章のための序章とも言えるかもしれません。私には、著者の最も語りたかった事が最後の二章に凝縮されているように感じました。著名な海軍三部作も以前読んではいますが、この作品は阿川作品の中でも最も力のこもったものだと思います。

以下、覚書として同書より引用します。

・仮拘置所の管理者ホール大尉の湯沢に対する言

「私は君と同様、プロフェッショナルの軍人ではなく、大学で歴史を学んだ者だ。軍事法廷は君を裁く事が出来るが、法廷自身を裁ける者は神と歴史の他にない。歴史が二十年後に冷静さを取戻すことを私は信じてゐる。長い間National Archivesに眠ってゐたレコードは、一定の歳月ののち、屡々驚くべき事実を語り始める。その日のために、君は南洋の小さな島で何が起つたかを正しく書き残しておくべきではないか」

・かつて海鷲と賛美された、名パイロット月村少佐がしたためた津島少将への手紙

私は然し、アメリカ不信以上の日本人不信に陥り、自分でも困惑してをります。一時は町内で、海鷲月村少佐とか何とか言はれて、軍神なみの、有難迷惑みたいな奉られ方でしたが、今度帰つて来たら、近所の子供が顔を覚えてゐて、ヤア、戦犯が通りよらアと、小石を拾つて投げつけました。学校でさういう風に教へるものと見えます。極端から極端へ、掌を返したやうな変り方に唖然といたしました。知らん顔をしてをりましたが、涙が出るほど口惜しく思ひました。・・・選挙も民主主義も興味がありません。自分の生涯は終つたやうな気がしてゐます。・・・子供らの成人するまで世にかくれて生きのびます。

阿川弘之全集〈第6巻〉小説6 阿川弘之全集〈第6巻〉小説6
阿川 弘之
価格:5250円

阿川弘之全集5

  • 2006年06月14日 (水)

読了。

阿川弘之全集〈第5巻〉小説5 阿川弘之全集〈第5巻〉小説5
阿川 弘之
価格:5250円

収録作品:「暗い波濤 上」

菊池寛「恩讐の彼方に」

  • 2006年06月11日 (日)

読了。

若年の頃、女がらみで主君殺しの罪を犯した男市九郎(了海)が、発心して僧となり、その後の20幾年の歳月を衆生済度に尽くした物語。

税込価格 : \525 (本体 : \500)
出版 : 岩波書店
サイズ : 文庫 / 223p
ISBN : 4-00-310631-8
発行年月 : 2004.2

以前の私は、文学を読んでも「只のフィクションでしょ・・・」としか思えなかったですが、この作品には、思うところ多々ありました。

年齢とともに段々とものの考え方が変わって行っているのかもしれません。

夏目漱石「道楽と職業」

  • 2006年06月08日 (木)

北御門二郎の『くもの糸』の中で引用されていた夏目漱石の講演を読んでみました。

・・・恒産( こうさん) のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死( がし) するよりほかに仕方がない。己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card757.html)

篠田節子「ソリスト」

  • 2006年06月08日 (木)

何気なしに読んでみた「ソリスト」ですが、圧巻。
キャンセル魔のピアニストの話でしたが、演奏者の内面描写が非常にリアル。
作者の名前は今まで全く知りませんでしたが、他の作品も読んでみたいと思わされました。

キャンセル魔のピアニストのモデルはマルタ・アルゲリッチあたりなんでしょうかね・・・。
何年か前にアルゲリッチのベートーヴェン(ピアノ協奏曲)をライヴで聴いたことがありますが、この世のものとは思えないほど鬼気迫る名演でしたね。「ソリスト」を読みながら、その時のことをまざまざと思い出しました。

『放課後の音符』

  • 2006年06月05日 (月)

読了。
文庫化された山田詠美の著作はだいたい目を通してましたが、未読のこれをようやく読んでみました。

そんなのって、大人の単なるパターンなんだよね。・・・考えてみれば、気怠く煙草をふかせる女の人って沢山いるじゃない。気怠いって言葉は、わたしたちにとっては、大人への憧れを表すものでしょ。でも、本当は、そうじゃない。本当の大人って、うんと一所懸命なんじゃないのかな。

読んで良かったと思える本でした。
ちなみに私が高校生の時分はこういう文学、まるで一切読んでなかったです・・・。

放課後の音符(キイノート) 放課後の音符(キイノート)
山田 詠美
価格:1365円

村上春樹『風の歌を聴け』

  • 2006年06月04日 (日)

読了。
10年以上まえに友人から勧められたものの、以来ずっと積ん読状態でしたがフト読んでみました。

感想ひとこと。
「しかしまぁなんとアメリカンな・・・」

通貨単位や地名の若干を変更すれば、すぐそのまま海外でも出版できるようにできてるな~、と感心。
種々の雰囲気や人物像(この作品の場合は”薄味・ちょっと退嬰的”)が紙面に的確に創り出してある、という印象でした。
ついでに言えば、主人公が関わる○○ー○屋の女性が指を4本しか持たないという設定が最後まで解けませんでした。

風の歌を聴け (講談社文庫) 風の歌を聴け (講談社文庫)
村上 春樹
入手不可

星新一『祖父小金井良精の記』

  • 2006年06月01日 (木)

読了。著者も言うように、日記が基礎となっているため非常に淡々とした記述が続きますが、ハッとするところやなるほどと思わされるところが随所にありました。そのうちの帝人事件に関して。自説である天皇機関説問題で窮地に追い込まれた美濃部達吉が、それに先立って、帝人事件に関して議会に於て検察による人権侵害を強く非難していたとのこと。検察による意趣返しというのが多数説のようです。星新一の贅肉のない文体と良精の淡々とした日記記述が二人の血のつながりを感じさせる気がしました。

※帝人事件とは
政治的意図から関係者多数が逮捕・拘留され、結句、起訴された者全員が(証拠不十分などではなくそもそも違法行為を構成しないとして)無罪となった事件。

※※帝人事件について調べる過程でこんな記事も見つけました。
  http://riskyage.exblog.jp/3042978/
同記事中で紹介されている河合良成の著作とは、『帝人事件 三十年目の証言』かと思い入手を試みましたが、現在のところ絶版、最寄りの図書館にも所蔵なし。いずれ探して是非読んでみたいと思います。

祖父・小金井良精の記 (1974年)
星 新一
入手不可

現在文庫本で入手可能
祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫)
星新一
価格:998円

祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)
星新一
価格:998円

歴史と報道の見方

  • 2006年05月28日 (日)

阿川佐和子さんが”義”というテーマで書かれたエッセイから引用します。

・・・たまたまテレビを見ていたら、曾野綾子さんがコメントしていらっしゃいました。曰く、「・・・今度のことで多くの人々が『報道は間違ったことを伝えないと信じていたのに、それを裏切られた』と言っているようですが、それがそもそも勘違いのもとなのです。歴史的に見ても、・・・テレビや新聞は正しいことを伝えてはこなかった。弱者の味方と云いながら、強者の言いなりになっていることもしばしばありました。報道が真実を伝えていると思いこんではいけない。その事をみんなが認識するきっかけになった・・・。」と、・・・そんなことを話しておられたと思います。
私は曾野さんの話を聞きながら、大学時代の歴史概論の授業を思い出しました。歴史というものは、所詮、人間の手によって書かれたものである。書き手によって、同じ事件にもさまざまに違った解釈が生まれる。だから、歴史に真実はない。歴史書に書かれていることが、すべて正しいと思うのは危険である。だからといって歴史書は不要かというと、そうではない。真実ではないと認識したうえで、歴史書を読むことが大切だ。そう教授がおっしゃったとき、へえ、なるほどねえと思ったものです。

阿川弘之・佐和子『蛙の子は蛙の子』筑摩書房1997

蛙の子は蛙の子―父と娘の往復書簡 蛙の子は蛙の子―父と娘の往復書簡
阿川 弘之
価格:1680円

阿川弘之全集3

  • 2006年05月27日 (土)

読了。
収録作品の中の「カリフォルニヤ」という長編を呼んでいるうちに思わず引きこまれていきました。
20代半ばの団体職員田沢が、休職した上でカリフォルニアの日本語学校教師として赴任し帰国するまでの物語。その中で日系アメリカ人の問題がモチーフになっている部分がありましたが、単なる物語を超えた深みを感じました。日系1世と2世との祖国観の相異、日系人間あるいは日本人と日系人との間の微妙な心理なども描かれています。
浮ついたような修辞や虚飾を排した文体、しかし情景が目前に自然と浮かんでくるようなこの著者のスタイルがとても好きです。米内光政、井上成美などを題材とした海軍モノやエッセイばかり読んでいたので、この作品は私の阿川観を少し拡げてくれました。
作中では日本人そのものの心性もとりあげられていましたが、田沢(=著者?)の良い意味での批判的精神は、白洲次郎の云う”プリンシプル”に通じるものがあると感じました。
決して広く知られているわけではないようですが、一読二読三読の価値が有る作品と思います。

阿川弘之全集〈第3巻〉小説3 阿川弘之全集〈第3巻〉小説3
阿川 弘之
価格:4830円

阿川弘之全集4

  • 2006年05月25日 (木)

読了。
以前探した際には絶版で入手できなかった「舷燈」が収録されており、今回ようやく読む事が出来ました。題名からして海軍モノとばかり思っていたところ、”偏屈な”小説家を主人公とした私小説的作品でしたが、主人公の心理描写を興味深く読みました。
この著者のユーモア溢れる随筆が以前から好きでよく読んでいましたが、巻末の開高健との対談(「文学とユーモア」)にも、考えさせられるところが随所にありました。
読んでよかったと思える本でした。

阿川弘之全集〈第4巻〉小説4 阿川弘之全集〈第4巻〉小説4
阿川 弘之
価格:5250円

阿川弘之の関連記事(東京新聞)

清兵衛と瓢箪

  • 2006年05月24日 (水)

読了。

清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫) 清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)
志賀 直哉
価格:460円

暗夜行路

  • 2006年05月23日 (火)

買ってから10年以上積ん読状態だったものをようやく読了。
評判に違わず、スラスラと読める文章でした。
”呪われた運命”という主題がなんともいえず心に残りました。

暗夜行路
税込価格 : \660 (本体 : \629)
出版 : 新潮社
サイズ : 文庫 / 582p
ISBN : 4-10-103007-3
発行年月 : 1990

硝子戸の中

  • 2006年05月15日 (月)

夏目漱石の随想録を読了。
ここのところ、夏目漱石の著作の一文一文が心に染み渡ります・・・。

漱石の内省的な性格が現れていると感じる、印象的な一文を引用します。

 私は何でも他(ひと)のいう事を真に受けて、凡て正面から彼等の言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生まれたこの単純な性情に自己を託して顧みないとすると、時々飛んでもない人から騙される事があるだろう。その結果陰で馬鹿にされたり、冷評かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
 それでは他はみな擦れ枯らしの嘘吐(うそつき)ばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も貸さず、心も傾けず、或時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、また其所に安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手から仮定して、掛からなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備して置かなければ、事が困難になる。・・・私は悪い人を信じたくない。それからまた善い人を少しでも傷つけたくない。そうして私の前に現れてくる人は、悉く悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手次第で色々に変わって行かなければならないのである。
 この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それが果して相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常に其所に蟠(わだかま)っている。

硝子戸の中
税込価格 : \378 (本体 : \360)
出版 : 岩波書店
サイズ : 文庫 / 138p
ISBN : 4-00-310112-X
発行年月 : 1990.4

こころ

  • 2006年05月14日 (日)

何度目か覚えていませんが再読。

全編を初めて読んだのは確か高校生の頃だったと思います。
以来、折に触れて何度も読みましたが、その度毎に新たな感銘を受けます。

人生を”道”の実践と考え、エゴイスティックなまでに精神的向上を追究したKが、一人の女性をめぐって只一人の友人である”先生”に裏切られ、孤独感の中で自死する悲劇。

最後まで女性に対して心情を明かさなかったK。これは彼の精神的弱さではなくむしろその(悲劇的な)強さを示していたと思います。
そして、その自死に至るまでKと自身との間の葛藤を、女性すなわち妻に対して明かさなかったことは先生の妻に対する優しさだったのだと感じました。
しかし、そのどちらも悲劇性を帯びているところにこの作品の深さをみました。

人間の孤独感とそれによる絶望、エゴイズムの行き着く先。
何気ない一つ一つの言動の連鎖が、時として一人の人間に人生の自己破壊を決意させる怖さ。

”死”を、漠然とではなく目前にある切実なものとして突きつけられた者でなければ書くことのできない作品だと思います。

こゝろ
夏目 漱石〔著〕

税込価格 : \340 (本体 : \324)
出版 : 角川書店
サイズ : 文庫 / 335p
ISBN : 4-04-100120-X
発行年月 : 2004.5

星新一『明治の人物誌』

  • 2006年05月08日 (月)
明治の人物誌 (新潮文庫) 明治の人物誌 (新潮文庫)
星 新一
価格:700円

先日に続いて星新一の著作を再読。
著者の父であり、星製薬創業者の星一(はじめ)とゆかりのある、日本人9人とエジソンに関する評伝。
刑事弁護で名をはせた花井卓蔵もとりあげられています。
以下、とりあげられている人名を挙げておきます。

(続きを読む…)

星新一『官吏は強し』

  • 2006年05月07日 (日)

星新一『人民は弱し官吏は強し』読了。

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) 人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)
星 新一
価格:500円

鶴見俊輔が書いた巻末解説で、”思想(アイデア)の自由市場”がオリヴァ=ウェンデル=ホウムズ2世の言葉であることを知りました。

再読でしたが、以前読んだときよりもはるかに強烈な感銘を受けました。
後日、読後感を書いてみます。

米内光政 その2

  • 2006年03月13日 (月)

行けども行けども山また山・・・。
日暮れて道遠し・・・。

先日書き込んだ実松譲『新版米内光政』についてもう少し。
著者の実松譲は一時米内の副官を務めた佐賀出身の人物だそうです。以前読んだ阿川弘之の『米内光政』の中でもこの方の名前を拝見した記憶があります。

実松『米内光政』は、米内の人物像や生い立ちなどについてはところどころに記述がありますが、基本的には昭和海軍内部における米内の功績が叙述の中心だと感じました。三国同盟締結問題、終戦工作、東京裁判における米内の態度など非常に興味深く感じました。

戦前戦後にかけての激動の中、海軍大臣、総理大臣として冷静に国内・国外の動向を眺めつつ、大局を見据えつづけた米内の態度は軍人としても政治家としても現代の我々に多くのことを考えさせてくれるのではないかと思います。

ひるがえってみれば、現代の日中関係・日韓関係・日米関係・・・。
”大局を見据えて○○○””毅然たる○○○”といったような、政治家たちの言葉が非常に空虚に聞こえるのは私だけでしょうか。

お互いに自分の主張をぶつけ合う日中関係、相手方の心情に対する配慮を欠いた日韓関係、盲目的とすら思われる対米追従政策etc。日本側の言い分に全く理がないとは決して思いませんが、かといって相手の言い分をまるで聞こうとしていないかのような要人の物言いには、かつて大東亜共栄圏の建設、八紘一宇を唱えた人々と通底するものがあるようにも感じます。

米内は、英米圏との貿易に依存していた当時の日本の経済構造からして、英米との対立回避を主張し、ドイツとの同盟締結が対英米関係に決定的悪影響をもたらすことを予言しました。(当時そうした主張をした人は決して少なくなかったようですが、多数派ではなかったことも事実のようです。)しかし、ドイツの台頭に刺激された国内世論の動向が、結局その後の日本の動向を決定づけたと思います。

戦争責任に関して、軍部や一部政治家に責任を負わせることは可能でしょうし、事実そうした面も存在したのでしょうが、忘れてならないのは、そうした軍部や政治家が世論の動向と全く無関係に存在し力を持つことはできなかったであろう事実だと思います。国家・軍部が思想信条をはじめとして国民生活全般にわたって陰に陽に統制を行ったことはさまざまな文献や証言からして事実その通りなのだろうとは思いますが、だからといって為政者だけに戦争責任を負わせることは不可能だと考えます。現代と当時の政治制度の相違を鑑みても、国民にはなんら責任がないとは言うことが出来ない(できなかった)と思います。

私は戦争責任の所在を明らかにしようとするものではありませんし、私に出来ることでもありません。ただ、自分自身を含め国民一人々々の意識が国の行く末を定める、ということを深く自覚する必要があるのではないかということなんです。それが仮に現実的な力を持てないものだとしてもです。

なんとなく周囲に流されて○○党に投票して大勝させ、なんとなく正しそうな主張を鵜呑みにし・・・というふうになってしまえば、上辺はともかく本質的にはかつてと同じことを繰り返してしまう恐れは全くないと言えるでしょうか。
相手の感情・反応を無視してはっきりした物言いをすることが”毅然とした態度”だとは必ずしも言えないのではないでしょうか・・・。

またまた話が大きく逸れたようです。

ここに書いたことはあくまでも自省の為の覚書です。

最後に類書を紹介しておきます。
実松『米内光政』に比べてより米内の個人象に迫っている著作です。

米内光政 (新潮文庫) 米内光政 (新潮文庫)
阿川 弘之
価格:820円

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