「心理学」カテゴリの記事一覧

ユング『現在と未来』より

  • 2008年09月25日 (木)

先日のエントリでふれたユングの『現在と未来』についてはいずれ改めて書くつもりだが、それに先だって概要を記しておく。私の手元にあるものは松代洋一編訳の『現在と未来』(平凡社ライブラリー、1996)。この訳書の巻頭には、1979年に刊行された『ユングの文明論』(思索社)の改題・改訂版であると記されている。

現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー) 現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー)
カール・グスタフ ユング
価格:1020円

この本のどこがそんなに面白いのか」を書きたいのだが、それがなかなか書けないので、ここに編訳者のあとがき等を除いた目次の概要だけ記すことにし、当面は読者のご想像にお任せしたい。

・現代史に寄せて(Aufsaetze zur Zeitgeschichte)
はじめに
ヴォータン
破局のあとで
おわりに
・影との戦い(The Fight with the Shadow)
・インドの夢見る世界(The dreamlike world of India)
・インドに教わること(What India can teach us)
・ヨーガと西洋(Yoga und Westen)
・現在と未来(Gegenwart und Zukunft)
現代社会における個人の危機
集団化の補償としての宗教
宗教問題に対する西欧の態度
個人の自己理解
世界観と心理学のものの見方
自己認識
自己認識の意味

どうですか。面白そうデアリマショウ??
折り目・傍線だらけの本の中からパッと開いた箇所を抜粋してみる。

人間は満足を知らない動物である。たとえすべての労働者が自動車を持ったとしても、やはり生活を切りつめたプロレタリアでしかないのは、まわりを見廻せば自動車を二台持ち、浴室をもう一つ持っている人がいるからだ。
(「宗教問題に対する西欧の態度」より 213ページ)

教会は伝統的で集団的な信仰を代表しているわけだが、それも信者の大多数にあっては、自分自身の内面的な体験に支えられたものではなく、単なる無反省な信念であるにすぎない。反省しはじめたとたんに、いともあっさり信念をなくしてしまうのはよくあるとおりである。
(同上 215ページ)

初出・原題なども併せて記しておけば他の方にも便利だろうと思いはするのですが、今日は時間がとれないので後ほど追記しておくつもり。

(メモ)役人の眼

  • 2008年07月05日 (土)

なにが説得力があるといって、自分で吐いた嘘を自分で信じている場合にしくものはない。自分ではこれが善だと思いこんでいる悪行やたくらみも同様である。

C・G・ユング「破局のあとで」(原題 :Nach der Katastrophe) ~同『現在と未来』平凡社ライブラリー 1996 所収

自らの嘘を真実と思い定め或いは自己省察を欠いた人間の眼は、どれもよく似ている。

ウィルソン『ユング』と「劇場特区」

  • 2007年02月02日 (金)

読了。

作家コリン・ウィルソンによるユング論。
ユングの生涯を通覧しつつ、その思想や人間性を(どちらかといえば)批判的に考察している。著者によればユングは権威主義的性格であったあるいは女癖が悪くて奥さんを困らせた、自身のオカルティズム指向を学術的論述スタイルで隠蔽しようとした等々・・・けっこう辛辣(ついでに言えばフロイトに対してもかなり辛辣な評価を下している)。
とはいえ単なるユング批判というわけではない。ウィルソンはおそらく、ユングが目指そうとした場所に彼自身もまた(ユングとは別の理路・方法を用いて)たどりつこうと試みている。当然のことながらユングと関わるフロイト、ジャネ、アドラーらへもそれなりに目配りがなされている(ウィルソンの言い分には賛否両論だろうけれど)。

特にこの本で目立つところは、ウィルソンがユングのオカルト指向を度々批判している点なのだけれど、その趣旨はといえばオカルティズムそのものへの批判というのではなく、自らのオカルティズムに関する考察をことさらに「科学的」「学術的」に見せようとしたユングの姿勢に対する批判であった。言い換えてみれば、オカルト指向である一方でアカデミックな体裁に最後まで固執(学者としては当然のことだが)した”学者”ユングを、”作家”ウィルソンが責めているというものであった。

ラテン語で「隠されたもの」を意味するオカルト。たしか1980年代頃にちょっとしたブームがあったかに記憶している。UFOとかナスカの地上絵とか・・・。「ムー」とかいう雑誌が当時あったはずだが、今もまだあるのかな?
もっともこのオカルトという言葉、最近はとんと耳にすることが少ない気がするのだが、それでも言葉の本来の意味である「隠されたもの」への興味は相変わらず尽きることがないようだ。
かつては宗教や世界観などといった形而上的なものに向かっていたオカルト指向は、いまは個人や組織のもつプライバシー・秘密・隠しごとに向かって集中しているようにも思われる。おそらくその非科学性ゆえに相手にされることはなかったオカルティズムはいま、形を変えてわたしたちの日常生活のいたるところに(相変わらず)散在している。
恐らくウィルソンに言わせれば、現代の「オカルティストたち」もまたユングと同様に、自らの非科学性を一見すると科学的・合理的に見える衣で覆っているのだ。もっとも、自らの非合理性に(おそらく)気づいていない現代人に比べれてみれば、少なくともオカルティズムが「非科学的である」と認識していたユングはまさに自分の限界性に自覚的であったという意味で「賢者」なのだろう。

結論。やはりユングは歴史の教科書に名を残すだけのことをなしたのだ。
ウィルソンの見解もまた一興。ものの見方の多様性は常に尊重されて然るべきだろうしね。

ところで
厚生大臣閣下の「産む機械」発言が尾を引いてますね。当然といえば当然だろうが。これがもし政治家でなくただのおじさんの暴言ならなにごともなかったのでしょうけどね。
(もっとも、もし今回の発言が「男は給料稼ぐ機械」といったものだったらばこれほど責められただろうか。かなり疑問。)

不用意な大臣閣下はひとまずおくとして、もうひとつ今回の一件から感じることが一つ。たしかに「機械論的認識でケシカラン」というのもわからなくはないけれど(わからなくはないけれど)、そこに、ケシカラン発言を「機械論的」に責める”幅のなさ””機械的思考”をそこはかとなく感じる(こともある)昨今。

いっそ試しにどこかの自治体が「劇場特区」「フィクション特区」をつくったらどうだろうか。
そこでは差別用語言い放題、日頃言えないやれないアンナ事コンナ事すべてOK。まぁ暴力沙汰は後を引くので禁忌としてさ。けっこう人を呼べるのでは(財政破綻した夕張市あたりならば「まぁ大変な最中だから細かいことは言わんとこ。がんばってみな」くらいの鷹揚さで認められないだろうか?)。

すべての規範を忘れられる、そんな「劇場」、「フィクションを前提とした場」があれば、現実の社会もちょびっとだけ過ごしやすく・・・ならないもんだろか。夢想・・・。

ユング―地下の大王 (河出文庫)
コリン ウィルソン
入手不可

『言葉と無意識』そして正論

  • 2007年01月26日 (金)

「正論は正しい」
当然のことだ。なにも改めて言うほどのことでもない。
その改めて言うほどのことでもないほど正しい正論(くどいな)を、くどいほど声高にかつ高飛車に執拗に叫ばなければならないほど、今の日本では正論が容れられることが少ないないのだろうか。

「食べられない物を売るとは何事だ!」
「やらせはけしからん!」

もちろん、それらについて基本的には私も同感だ。
ただ、正論の前にこうべを垂れるほかなすすべのない者を、正義の名において執拗に小突き回すほかには彼らをに改善を促す方法がないのだろうかとも思うのだ。むしろ正論であればこそ、静かに語ろうともボソリと呟こうとも言葉が言葉としての力を持つのが理想的な状態だと思われるのだけれど、ひょっとしたらわたしたちが生きている社会は、声高に叫ばなければ聞く耳すら持ってもらえない、あるいは声の大きな者が勝ちをおさめる、そういう社会なのだろうか。もしそうだとしたら、なんと「分かりやすい」社会だろうか。だって声の大きさが同時にその言説の正しさをも示すというわけだから。

いや、ほんとうはさかさまなのだ。分かりやすい”物語”がまず先にあるのであって、現実とやらはその物語に沿った形で読み込まれ切り取られるにすぎないのだ。なによりまず物語ありき。
だからこそ正論という武器を手にした者は、相手を徹底的に痛めつけ、ときとして死に至らしめる。敵と馴れあうような中途半端な”正義の味方”はそもそも物語の主役たり得ないというわけだ。勧善懲悪、それもまたよし。人びとはそこにカタルシスを求める。
私たちの生きている「社会」「世間」は、あるときは生の現実が錯綜する場、またあるときは劇場。そのような虚実入り交じった極めてスリリングかつ包括的な場なのだ。そこにおいては「昨日の敵は今日の友」「昨日の被害者は明日の加害者」。リアリティ溢れる、というよりもまさに”リアルな物語”がただひたすら消費されてゆく。

われわれの社会の大道から虚構ゆえの楽しみ、芸術が消え去ったのはいったいいつの頃からだったのか、私は知らない。

どんな行為にも<目的>を立てねば気がすまない表層のロゴスは、すべての行為を<手段>におとしめてしまい、いかなる現象にも<意味>を探そうとする表層のロゴスは、人びとをまじめにさせ息づまらせる。まじめな人間は事物の背後のありもしない宝探しに血道をあげて、文化という美しい虚構(フィクション)を楽しむことを知らない。

言葉と無意識 (講談社現代新書) 言葉と無意識 (講談社現代新書)
丸山 圭三郎
価格:798円

C・G・ユング『創造する無意識』

  • 2006年12月04日 (月)

読了。

心理学者はつねに、自説がまず何よりも自分自身の主観に含まれるものの表出であり、したがってそのまま一般に妥当するかのように言い立ててはならないことを銘記しなければならない。

個人をはるかに超出して、人類全体の精神と魂から、人類全体の精神と魂になり変わって語るところに芸術本来の面目はある。個人的なものは芸術にとっては制約であり重荷でしかない。

そもそも他人の言い分を認めてやる能力が人間にはいかに欠けているかは、見ていて驚くほかない。そのくせこの能力こそ、どんな人間社会にあっても欠くことのできない根本条件なのである。

この一般に見られるむずかしさを、自分自身との対決をもくろむ人はよくよく考慮に入れておかねばならない。他人の言い分を認めないその分だけ、自分の内なる「他者」にも存在権を認めないことになるのであり、その逆もまた正しい。内なる対話の能力は、外での客観性の尺度である。

超越機能は、対立物の接近という特性をもって現れる。両者が互いに距離を保っている限りは——もちろん葛藤を避けるために——両者の間に超越機能は働かず、死んだような静止状態があるのみである

文芸と創造性に関するユングの著作。

個性とは何か?創造性とは?

考えるところの多い良書です。
心理学者に限らず、人間として自分の抱える限界性については自覚的でありたいと思わずにはいられませんでした。

「象徴」の捉え方に関するフロイトとユングとの違いが、ユング自身の言葉で非常に分かり易く説明されていたのも印象的です。その部分を読みながら私が考えたことはといえば、人間の心理に関して世間ではフロイト的な(還元主義的な)考え方が根強いなあ、ということでした。もちろん、それはフロイト思想の影響と言うよりはむしろもっと大きなパラダイムが関係していると思いますが(もしプラトンの「洞窟の比喩」をフロイト流に解釈したらプラトンは単なる異常性欲者だと判定されるやもしれない、というユングの説明はなかなか面白かったです)。

話はかわって知的財産権について。
知的コンテンツに限ったハナシではありませんが、あれもこれもそれもどれも、あらゆる方面で「権利」の主張が当然のように為される風潮に時々ですが違和感を覚えることがあります。

以下、訳者あとがきより引用

今日のジャンボ・ジェット機を見て、ライト兄弟以外の個性を想起しないのは、飛行機発達史に関する私たちの無知のせいというよりも、これらを成り立たせている大小無数の発明が、誰が先鞭をつけても不思議のないものだったからである。ここで競われたのは先着権、プライオリティであって、独創性、オリジナリティではない。・・・無名性は近代科学の担い手たちの、むしろ自覚し自負するところでさえあった。工房で手仕事に従事する高級職人であった彼らは、自分の発案を後進の誰でもの有用と利益のために、つまりはもっぱら公益と当該技術の進歩のために、ためらうことなく公開したのである。

引用ばかりになってしまいましたが・・・。
これにて。

創造する無意識―ユングの文芸論 (平凡社ライブラリー) 創造する無意識―ユングの文芸論 (平凡社ライブラリー)
カール・グスタフ ユング
価格:775円

木村敏『偶然性の精神病理』

  • 2006年11月27日 (月)

読了。

「いま・ここで」という”生のアクチュアリティ”を失った病態としての「精神分裂病」の観察を通して、偶然と必然・真理・時間・無意識について考察した著作。

決してタコツボをひたすら掘り下げるような(ひたすら原因を追求するかのような)著作ではなく、人間の生を精神病理の解明を通じて我が手につかみ取ろうとするかのような非常に刺激的な論考でした。

とはいえ、この著作から私が得たものを書き表すにはもうすこし「発酵」の時間が必要なようです。
ので、以下覚え書き。

狂気の狂気たる所以は狂気を構成する思考や言説の異常にはない。それはむしろ、そのような異常な思考と言説によって自らの「真理」を表現せざるをえなくなるような「生きかた」の問題にある。

真理とは、虚無に直面した人類が、偶然性における主体の破滅から身を救うために案出した方便にすぎない。そして「自我」とは、われわれの一人ひとりが、偶然性の翻弄から身を護ろうとして発明した虚構にすぎないのではないだろうか

フロイトは・・・無意識を意識化することを、精神分析の目標として掲げた。しかし、意識化しうるような無意識は、はたして本当の無意識なのだろうか。

言語的な自己言及構造の中で自己を意識する人間という生物においては、自己についてのあらゆる表象が言語的シミュレーションというプリズムによる屈折をこうむることになる。「無意識」もその例外ではない。人間は「言語のように構造化された無意識」しか表象できないのだし、そのような無意識と主体との関係についても、これを言語構造的に概念化する以外に表象のしようがない。しかし、これはあくまでもシミュレーションが描き出したフィクションにすぎない・・・そこからさらに議論を進め・・・ようとするときには、どうしてもこのフィクションがそこから作り出された大元のところを、つまりは生命情報そのものという「無意識」を問題にしなくてはならなくなるだろう

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫) 偶然性の精神病理 (岩波現代文庫)
木村 敏
入手不可

ユング『心理学的類型Ⅱ』

  • 2006年11月12日 (日)

読了(ただ最後はちょっと斜め読み状態)。
※中盤は語句の定義集、終盤は本の叩き台になった論文(講演録)です。

性格類型について知りたいだけならば、この本ほど重厚なものを読むのは時間と費用の点からしてコストパフォーマンスは極めて低いです。もっと手軽にユングの性格論をまとめた本はいくらでもありますし。この本の価値は性格論そのものとは別のところにあるという気がします。(私にとっては。)

多くの思想家が述べる如く、一人の人間がどれほど客観的・中立的であろうとしてもそれは不可能事だ、と言うところはユングもまた同様です。せめて出来ることはといえば限定的でしかない自分自身の認識能力を意識しておくぐらいのことしか、神ではない我々には不可能である、と。そのことを自覚しておけ、と。いろんな偉人・達人たちは結局のところ同じ事を言ってるなぁ、などと思います。(などと言ってもあくまで私が知る限りで、ですけれど。)

話変わって
ここ数日、いろいろと考えつつ頭の中が渾沌としてます。何が出てくるのか楽しみではあるけれど、いささか辛い・・・。出てくるものは大抵どこかで聞いたような話ということが多いし。

考えてみればここ数年、自分が「ガラっ」と変わる体験をしていない気がします。自分を取り巻く状況のほうは「ガラガラっ」と変わりましたが。それでもここ数ヶ月、取っかかりらしきものが(ときには不本意ながらも)ドンドン手許に転がり込んでくるというのは、どうしてだろうか・・・。

何かを知ること、それ自体には大して感慨を覚えない。
何かを知った上で、自分自身が如何に変化するか。
そこのところが問題です。

しかし、まぁこんな、自分以外の人には何の興味も湧かないようなことをここに書き付けてるのは何の故か・・・。不可解といえば不可解。

人間は自分の立場以外の立場を理解したり承認したりすることはほとんどできない。比較的些細な事柄であれば、世間一般の浅薄さ、かならずしもたびたび見られるとは限らない思いやりや寛容、そして稀にみられる好意といったものが相互無理解の深淵に橋をかけわたす一助ともなる。しかし比較的重要な事柄、とりわけ類型の理想が問題になるような事柄では、相互理解などほとんど不可能事に属するものと思われる。・・・考え方の争いを調停する基盤となるものは、私の確信するところでは態度の諸類型を承認することであろうが、それは単にそうした諸類型の存在を承認するばかりでなく、誰しも他人の立場を完全に理解することができないくらいに自分の類型にとらわれているものだという事実をも承認するものでなければならない。

心理学的類型2 ユング・コレクション (2)
C・G・ユング
入手不可

ユング『転移の心理学』 その2

  • 2006年10月28日 (土)

大学生のとき、林先生のゼミでユングを勉強していたころ、「本当の理解とは難解な思想を平易な日本語の文章で表現できることである」という先生の信念をたたき込まれたように思う。

そう訳者の一人磯上氏はあとがきにかいていらっしゃいます。その伝でいくと、この本に関する私の理解度ははなはだ怪しいものです。とてもではないですが、読みながら自分が感じたことすら満足に書けません。ですので、傍線を引いた箇所の一部だけ下に挙げつつ感想に替えます。

以前のエントリで河合隼雄の『影の現象学』の感想以来、無意識、影、言葉に出来ないもやもやしたなにか、などを肯定する記事を書きながら気になっていたのは、どうかするとそうした私の思いがおかしな風に曲解される恐れがあるかも、ということでした。念のため申しますと、私は無政府主義者でも体制破壊論者でも右翼でも左翼でもはたまた世界征服を企むDr.イーブルでもありません。悪しからず。

※Dr.イーブルはこちらの映画の登場人物です、念のため。

そこでユングの一文。

倫理的な基準としては善悪は依然として不動であり、また刑法典や十戒、それに伝統的キリスト教のモラルが理解しているような単純な事実としてなら、善悪は疑う余地がない。

しかし義務と義務の衝突ははるかに微妙かつ危険な事柄であり、また人間と物事をよく知る鋭敏な良心はもはや条項や概念や美しい言葉では満足しない。この良心は、発達を望んでいる、原初的なこころ(ゼーレ)の残余との対決をとおして不安を感じ、なんらかの路線ないし不動点を探し求める。

私が言いたいことはまさにその点なのです。私は決して犯罪や不道徳な行いなどを肯定するものではありません。しかしながら、「果たしてこれは善悪の問題か?」と思うことはままあります。一部マスコミの論調や世間に流布する言説が、どうにも違和感なしには受取れないことがあります。かといって、そうした様々な主張や物言いを「つまらん!」の一言で片付けることもまた、自らの謬見を以て他を否定(断罪)することのように思ってウロウロしているような次第です。

最後に

われわれの世界に欠けているものとは、こころ(ゼーレ)のつながりであり、それはいかなる専門組織、利益共同体、政党、国家もけっして代わりをつとめることはできない。したがって人間の真の要求を最初にもっともはっきりと感じ取るのが社会学者ではなく、むしろ医師であるとしても、なんら驚くにあたらない。なぜなら医師は心理療法家として、きわめて直接的に人間のこころの苦悩と関わるからである。

いま何かと取りざたされている学校の先生なども、他人の心に関わるという点で心理療法家と似たようなところがあるように思います。教師としての資質云々の問題もなきにしもあらずのケースはあるのかもしれませんが、それと同時に何故先生たちが(総体として)”そのようにあるのか”を考察することも必要なのではないか、「誰が悪い」「原因は○○だ」などという現象の安易な単純化は、根本的な解決をもたらすどころか問題の本質そのものをぼかしてしまうことになりはしないのかなどと考える昨今です。しかしこの本、面白かったです。

転移の心理学 転移の心理学
C.G. ユング
入手不可

ユング『転移の心理学』 その1

  • 2006年10月28日 (土)

心理学における転移現象を論じた一冊。先日読んだ『心理学的類型』よりも余程訳がこなれていて読みやすかったです。ただし、内容は難解、というか直観的な部分が多く、私には十分に理解できたとは思いません。むしろそれだけに刺激を受けるところが多かった気がします。ユング自身も、この本は彼の『心理学と錬金術』を読者が既に読んでいることを前提として書いた、と述べています。

この本の中にも錬金術やそれに関する記述があちこちで登場します。
錬金術
近代科学の視点からすれば、錬金術はヨーロッパ中世の蒙昧。もちろん、お金儲けとは一切全く無関係です。ユングにおける錬金術は”変容”を表す、あるいは考察していく手段のようです。

ユングの思想はあるときには極めて飛躍的、直観的、神秘的で、科学を逸脱しているかのようにも見えます。私にとっては、そこが如何にも面白いところです。

この本についてはまた後ほど書いてみるつもりです。

転移の心理学 転移の心理学
C.G. ユング
入手不可

ユング『心理学的類型Ⅰ』

  • 2006年10月26日 (木)

読了。

総じて難解であり、翻訳も逐語訳調で決して読み易いとは言えないです。

第一章で古代・中世のキリスト教神学論争(「普遍論争」など)出てきたときはちょっと挫けそうになりました・・・。つまるところ、異なる性格類型(内向型と外向型)間には共通理解が生じない(生じがたい)というような事を言いたいようですが、趣味で読む者には少しばかりつらいものがありました。

が、読むうちに何かと考えるところはありました。
何とはなかなか言い難いのですけれど。

そういえば、少年犯罪などが起こった際にマスコミではしばしばコメンテーターやら学者による犯人の心理分析(?)が放映・掲載されることがありますが、人間の心理を余りにも単純というか、機械論的に説明しているように感じることが多いのが気になります。

「あ~だからどうなって結果、こうなる」みたいな直線的な理屈で人間心理を解説されると「ほんとか~!?馬鹿言うな!」と言いたくなります。

車のエンジンみたいに

「あ~ガス欠ですね、原因は。ガソリン満タンしときましょう。80リットル入りましたから900㎞は間違いなく走れますよ!」

なんて風に人間を扱ってたら、その人どうなりますかね?

先生が生徒に

「ん、キミかまって欲しいのかな?そーかそーか。じゃ、ホラ、かまってやってるぞ~。楽しいか~?これでOKだろ!?」

むしろ、人間を(無意識のうちにでも)機械同然に見なし、取り扱うことこそが大きな問題を生む一つの原因(それでなければ背景)ではなかろうかと思ったりします。

その人にとってのガソリンは何なのか、どこにあるのか、どうすれば手にはいるのか・・・・。
その子が何を欲してるのか。積極的な関与か、消極的ながらも気長に見守られることか、全くの無関心か・・・・。

そんな風で、
人間は、げにムズかしきもの、ではなかろうか。

「もしはっきりした結果(効果)が出なくても、それはそれでやむなし」という姿勢が求められるのが人間(の心)相手の働きかけのような気がします。

しばし話が逸れますが、
教育など(犯罪捜査なども?)、人間の心そのものに関わる業務において”数値目標”なぞ設定するのは全く愚の骨頂だと思ってしまいます。
成果を明確に設定・判定する手段として数値目標は優れているのかもしれませんが。分かり易いからってそれにまるきり頼っていたら必ず何処か別の所に歪みがくるはず。数値化ってのは言葉変えれば単純化とも言えるわけでしょ!?

30センチ定規で水質の検査をしようとする愚か者
平均点を上げて実績作るために易しくしたテスト
出席率を上げるために不登校の生徒を殺す先生

まずあり得ない(であろう)ことを例に挙げてみましたが、それに類することはなきにしもあらずでは。

少なくとも学校では何十年も前から数値目標がありましたね、生徒には。
乾いた雑巾をさらに絞るか、それとも数字を捏造するか・・・。
さらなる荒廃はすぐそこ・・・・。

閑話休題
そんなことを考える私にとってはユングの理論は極めて実践的だし面白いものです。

そもそもひとつの心理、あるいはひとつの心理学的根本原理しか存在しないなどという考え方は、健常人の似而非科学的偏見の我慢のならない専横である。

合理的な心理だけが存在するのではなく、非合理的な心理も存在する

この本、読むうちに題名(『心理学的類型』)を忘れがちになるのですが、最後はこの言葉で終わります。

人間には二種類ある、生産的なひととむさぼり喰うひととである。宗教は両者を統合しようとするひとつの努力である。(W・ブレイク)

そんなわけで第1巻は内向性と外向性の論証・説明でほとんど終りです。

ついでながらシュピッテラーの名前は初めて知りました。ノーベル文学賞受賞者だそうなんですが。なんだか面白そうだったのですが、入手するのが大変かもしれませんが探してみるつもりです。

記事の末尾に章立てのみ略記しておきます。

心理学的類型〈1〉 (ユング・コレクション)
C.G. ユング
入手不可

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木乃伊取り

  • 2006年10月15日 (日)
  • キーワードタグ: 教育
心的外傷と回復
ジュディス・L・ハーマン〔著〕 / 中井 久夫訳

税込価格 : \7,140 (本体 : \6,800)
出版 : みすず書房
サイズ : A5判 / 417,53p
ISBN : 4-622-04113-8
発行年月 : 1999.11

まだ読みかけですが・・・。

ミイラ取りがミイラになりかねない恐ろしさ。
安易な同情、覚悟の足りない仏心は我が身を滅ぼしかねない。

治療者にしろ教育者にしろ、人格の変容・回復に関わっていく者に要求される覚悟というものを改めて感じます。

転移反応も逆転移反応も避けられない。同じく避けられないのは、両方の反応が良質の治療関係の発展を妨げることである。(したがって)患者・治療者双方の安全のためにある種の防護法を講じることが必要である。

著者が挙げる防護法
・治療契約による目標・ルール・境界の画定
・治療者に対するサポート・システム

何びとといえども単独で(心的)外傷と対決することはできない。治療者が臨床実践において孤独を自覚したならば、適切十分なサポート・システムを得るまでは外傷患者の治療を中止すべきである。

私自身も、そうしたバリアなしに不用意に被治療者に関わることは、ときとして治療者自身の社会的破滅や人格の破壊をもたらしかねない危険性を孕んでいると実感します。
とりわけ被治療者が治療者と個人的に親密な人間、身近な人である場合に、治療者自身が気づかぬうちに治療者(しかも”不用意な”治療者)の立場に立ってしまっているケースがあるように思います。(こうした場合、厳密には治療者・被治療者とは言えませんけれど。知らず知らずのうちにそうした役割分担が出来てしまうことがあるようです。)

しかもそうした治療契約なき治療・被治療関係は、当事者間にそもそも契約を交わしたという明確な認識を欠くため、当事者の一方が既に二者の関係から離脱したと思っていても他方がそう思っていないというギャップを生じさせることがあるように思います。その場合、問題は非常に解決困難になります。

一方で、治療者として相手に関わることによる恩恵もある。

治療者は、自己自身および患者にたえず統合力を育てるようにとたえず努めているうちに自分自身の人格の統合性を高める結果となる。

そして「信頼」について

基本的信頼が人生の最初期における発達においてかちうるものの代表だとすれば、人格の統合性integrityとは成熟期のおける発達においてかちうるものの代表である。

信頼とは(中略)”相手の人格の統合性に安んじて頼ることである”

と著者は言います。

読み通してからまた改めて書いてみます。

C・Gユング『自我と無意識の関係』

  • 2006年10月12日 (木)

再読。

決して読みやすい本ではありませんが、読むたびに触発されるものがあります。

人間の頭脳が世界的に似通っているからこそ、似たような精神機能が世界中に見受けられるという可能性が生れてくる。

一社会の道徳性がその社会の大きさに反比例することは、明らかな事実である。
(中略)
立派な人間ばかりが集まった大きなグループが、道徳と知性の点にかけては、愚かで乱暴な大きな動物に似ていることがある。・・・(元老院議員は良徳の士なれど、元老院は野獣である)

つねに他人のあら探しをし、不愉快なくらいに個人的な付属音をまじえつつ、ひどく批判的であり、そのくせ客観的だと思われようとする・・・不幸なことに話合いの効能などというものよりも弱点を求め・・・(相手の弱点に)くらいつ(く)

何の脈絡もない引用です。単なる覚書。

今回は特に、アニマとの対話に関する部分が印象に残りました。

このブログもある意味、自己との対話のような感覚があります(もちろんコメント、批判は歓迎します)。

無意識の心理といえばフロイトが有名ですが、私はユング派ですね。個人的な好みですけれど。ユングは自己内対話にも積極的意味を見出しているところが私は好きです。

自我と無意識の関係 自我と無意識の関係
C.G.ユング
価格:1575円

共感覚と言語の発生

  • 2006年10月11日 (水)

昨日、BBCのドキュメンタリー“共感覚”の不思議~言葉誕生の謎に迫る~ をビデオで見ました。のんびりと。視覚・聴覚などの様々な感覚の連動現象から言葉の発生について考察する、とこう書けば小難しくなりますが面白い番組でした。
wikipedia日本語版によると共感覚とは、

視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感が未分化である人間の赤ちゃんのさまざまな感覚が関連しあうこと。

番組では文字に色を感じる人、音に色を感じる人、単語に味覚を感じる人などなどが取り上げられていました。
簡単に言えば共感覚とは、たとえば、音という聴覚刺激が視覚・味覚等々別の感覚刺激と連動する現象だというのです。そしてこうした連動はふつう、人の成長とともに消失していくそうですが、まれにそうした感覚を成長後も持ち続けている人がいるんだそうです。
番組では、こうした共感覚が言葉の発生と深く関わっているというラマチャンドラン教授の仮説が紹介されています。
スムーズなラインの(丸っこい)図形と鋭角的な図形とを任意の人に二つ並べて見せた上で、鋭角的な言葉と丸っこい言葉(どちらも無意味な言葉)を挙げて、それぞれの図形に適切だと思われる言葉を選ばせるというテストでは、回答者の99パーセントが同じ回答であったそうです(どういう回答かは説明するまでもないと思います。このテストによれば、聴覚刺激と視覚刺激は連動しており、かつその共感覚は特殊な能力ではなく殆どすべての多数人が持っているということになりますね。
私自身は、言葉というものを集団内部での共通理解・約束事だ、というふうに漠然と捉えていましたが、番組を見て「なるほど」と思いました。創造力とは、さまざまな種類の感覚の意想外な組み合わせから生れる、というはなしもなかなか面白いなと思いました。
「思いました」ばかりの、まるで小学生の感想文ですが、ちょうどユングの本を読み終わったところだったので、番組を見ながらあれやこれやボーッと夢想しながら楽しめました。そのせいか昨晩はやけにイメージがはっきりとした夢を見ました。内容は”言葉”とは全く関係ない(と思える)ものでしたけど。

河合隼雄『影の現象学』

  • 2006年10月05日 (木)

再読。

前回読んだときと同様、読み終わった後は爽快な気分になりました。

影、闇、暗部・・・。

「心の闇」だとか言う言葉をときおり新聞などで目にすることがありますが、そうした場合、”闇”とか「影」という言葉はかなり否定的なニュアンスを帯びているように感じることが多い気がします。
しかし著者(河合)は影について、「影と言ってもマイナスのことばかりではない。・・・それはマイナスもプラスも共に含むものである。ただ、厳しい対決と自覚を経ぬときは、それは思いがけぬ破壊的な効果を与えるのである。」と述べて、影というものが持っている両価性を認めています。この点で河合は師であるユングと同じ立場に立っています。私にとってはこの点が最も興味を覚える点です。

心の中に、人目をはばかるなにものかを抱えている
こんなことをうっかり他人に言えば、場合によっては”犯罪者予備軍”と誤解されることもあるかもしれません。しかし、”心の闇”そのものはすべての人間が抱えているものであり、それは決してネガティヴな側面しか持たないものではないし、むしろ闇を取り除いてしまえばそれこそまともな人間でなくなる、と著者は言います。(その説明材料として著者はシャミッソーの「影を失くした男」を引用しています)

遠藤周作はこの本の解説で次のように書いています。

その悩みは・・・・自分は二重人格者ではないかと言うことだった。・・・私は比較的にスナオでなかったから、戦争中の日本社会の教える道徳を馬鹿にしていた。しかし馬鹿にしていることを決して外に出してはならぬ時代だった。

と書いています。教えられたことをそのまま受け入れないという点で遠藤は「不良少年」だったと言えるかもしれませんが、その一方で彼自身は

一方、教会で要求する「きよらかな魂」にはどう努力しても至りつけぬことに本気で絶望していた。

と言います。周囲の人々から見れば天の邪鬼で素直でない遠藤少年は”不良”であるにもかかわらず、このように”きよらか”であり得ない自分を責める純粋な少年でもあったわけです。

初めてこの『影の現象学』を読み終わったとき、私はなんともいえぬ喜びを感じた。二重性、三重性は私一人ではなかったのだ、それは人間そのものの心の構成をなしてることを教えてくれたからである。・・・私は「科学と宗教」の調和という、おそらく二十一世紀の思想の足音をこの本の中に聴くこともできる。

”現象学”などと難しげな題がついていますが、いざ目を通してみればきっと現代の遠藤少年たちもこの本から何かを得られるのではないかと感じました。

影の現象学 (講談社学術文庫) 影の現象学 (講談社学術文庫)
河合 隼雄
価格:1050円

パラマハンサ・ヨガナンダ

  • 2006年06月20日 (火)

ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』読了。

この手の本はキワモノばかし、というのが私の印象ですが・・・。
この本に関しては(一部私には理解不能の部分もありますが)納得できる部分もありました。厚手の本ですが、一読の価値ありかもしれません。

読みながら、中村天風の著作を彷彿とさせる部分が随所に散見される事に気付きました。そんなことから私でも「なるほど」と思えたのかもしれません。
数十年間一切食物を取らずに生きている女性の話などに関しては、実際「・・・・」と思ってしまいますが、それでも頭から否定せずに「ほぅ」というくらいで読み進めてよいのかもしれません。今から一千年前の人間に飛行機の事を話しても誰れも信用しなかったであろうと考えれば、今から一千年後に「昔の奴はしょっちゅう食ってないと死ぬと思ってたらしいよ」と語る人が居ても不思議ではないのかも。

特に印象に残ったのは、”内面の声に耳を傾ける”(そういう書き方ではなかったかもしれませんが)ということです。天風の著作では、”天の声”、”地の声”と云う風に記述されていた部分と共通するのかもしれません。

”内面の声”だって??それって結局自分の内心の声の事でしょ!?

いや、それとはどうも違う気もします。
実際、ある心理状態の時に、自分であって自分でない、という感覚を持つ時があるように思います。私は楽器の演奏中にそう感じる事があります。(時々ですが。)
また、「なにかヘン」と感じることとか、虫の知らせなどの話をしばしば耳にしたり体験したりすることがあるのを考えれば、一概にそうしたものを否定は出来ないようにも思います。

さらに、人間の心理はあくまでも個人的なものと考える事もできるのでしょうが、もっと開かれたものだと考える事も出来るような気がします。C・G・ユングの集合的無意識という概念もありましたね。

といっても、結局はそうした集合的無意識の実感が個人的なものであれば(個人的なものである以上)、その実在を(『国家の品格』風に言えば”論理的に”)証明できないのかもしれませんが。

でもまあ、証明できるにせよできないにせよ、内面の声というものもあると考えることで、或いは信じることで人が有意義に生きることができればそれ以上何かを求める必要はないのかもしれません。(何を以て有意義とするかはここでは述べません。強いて言えば”心安らかに”といったところでしょうか)

そんな訳で、キワモノ扱いせずに読んでみても良いかな、と思える本でした。
P.S.表紙に大きく載っている著者の写真がちょっとインパクト強いです。

あるヨギの自叙伝 あるヨギの自叙伝
パラマハンサ・ヨガナンダ
価格:4410円

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