「剣・禅・道」カテゴリの記事一覧

老子道徳経より(二十二)

  • 2009年08月02日 (日)

二十二

曲則全 枉則直
窪則盈 敝則新
少則得 多則惑
是以聖人抱一 為天下式
不自見 故明
不自是 故彰
不自伐 故有功
不自矜 故長
夫唯不争 故天下莫能与之争
古之所謂曲則全者 豈虚言哉
誠全而帰之


曲なれば則ち全 枉なれば則ち直
窪なれば則ち盈 敝なれば則ち新
少なれば則ち得 多なれば則ち惑
是を以て聖人は一を抱き天下の式と為る
自ら見(しめ)さず故に明らかなり
自ら是とせず故に彰(あらわ)る
自ら伐(ほこ)らず故に功有り
自ら矜らず故に長ず
夫れ唯だ争わず故に天下能く之と争うこと莫(な)し
古の所謂(いわゆる)曲なれば則ち全とは豈に虚言ならん哉
誠は全にして而も之に帰す

規範、手本

私家版老子道徳経目次


(ひとこと)とても真似できないね・・・(自嘲)

老子道徳経より(三十七)

  • 2009年02月28日 (土)

三十七

道常無為而無不為
候王若能守之万物将自化
化而欲作吾将鎮之以無名之樸
無名之樸夫亦将無欲
不欲以静天下将自定


道は常に無為にして而も為さざる無し
候王若し能く之を守らば万物将に自ずから化さむとす
化して而も作さむと欲すれば吾将に之を鎮むるに無名の樸を以てせん
夫れ無名の樸は亦将に欲すること無からむとす
欲せずして以て静かなれば天下将に自ずから定まらむとす

私家版老子道徳経目次

「素の木」の意。素樸(素朴)に通ず

老子道徳経より(一〇)

  • 2009年01月21日 (水)

載営魄抱一能無離乎
専気致柔能嬰児乎
滌除玄覧能無疵乎
愛民治国能無為乎
天門開闔能為雌乎
明白四達能無知乎
生之畜之
生而不有
為而不恃
長而不宰
是謂玄徳


営魄を載せ一を抱き能く離るることなからんか
気を専にして柔を致し、能く嬰児たらんか
玄覧を滌除し能く疵ならんか
民を愛し国を治め能く無為ならんか
天門開闔して能く雌たらんか
明白四達して能く無知ならんか
之を生じ之を畜う。
生じて而も有せず
為して而も恃まず
長じて而も宰せず
是を玄徳と謂う

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(九)

  • 2008年12月31日 (水)

九(功遂身退)

持而盈之不如其已
揣而梲之不可長保
金玉満堂莫之能守
富貴而驕自遺其咎
功遂身退天之道


持して而も之を盈たすは其の已むに如かず。
揣えて而も之を梲くすれば長く保つべからず。
金玉堂に満つれば之を能く守ること莫し。
富貴にして而も驕れば自ずから其の咎を遺す。
功遂げて身退くは之れ天の道なり

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(八)

  • 2008年12月17日 (水)

上善若水
水善利万物而不争処衆人之所悪
故幾於道上善若水
居善地
心善淵
与善仁
言善信
正善治
事善能
動善時
夫唯不争
故無尤


上善は水の若し。
水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪む所に処る。
故に道に幾(ちか)し。
居るに善く地、心に善く淵、与うるに善く仁、言に善く信、正すに善く治、事に善く能、動くに善く時。夫れ唯だ争わず。
故に尤なし。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(七)

  • 2008年12月10日 (水)
  • キーワードタグ:

天長地久
天地所以能長且久者以其不自生
故能長生
是以聖人
後其身而身先外其身而身存
非以其無私邪
故能成其私


天は長く地は久し。
天地の能く長く且つ久しき所以は、其の自ら生きざるを以てなり。
故に能く長生す。
是を以て聖人とす
其の身を後にして而も身先んじ、其の身を外にして而も身存す。
其の私なきを以てに非ずや。
故に能く其の私を成す。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(六)

  • 2008年12月08日 (月)
  • キーワードタグ:

谷神不死是謂玄牝
玄牝之門是謂天地之根
緜緜若存用之不勤


谷神は死なず是を玄牝と謂う。
玄牝の門是を天地の根と謂う。
緜緜として存する若く、之を用いて勤せず。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(四)

  • 2008年12月06日 (土)

四 (和光同塵)

道沖而用之或不盈
淵兮似万物之宗
挫其鋭解其紛和其光同其塵
湛兮似或存
吾不知誰之子
象帝之先


道は沖なれども之を用うれば或は盈(み)たず。
淵として万物の宗に似る。
其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和し、其の塵に同じうす。
湛として存する或るに似る。
吾れ誰れの子なるか知らず。
帝の先きに之れ象たり。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(三)

  • 2008年12月05日 (金)

不尚賢使民不争
不貴難得之貨使民不為盗
不見可欲使民心不乱
是以聖人之治
虚其心実其腹
弱其志強其骨
常使民無知無欲使夫知者不敢為也
為無為則無不治


賢を尚ばざれば民をして争わざらしむ。
得難き貨を貴ばざれば民をして盗を為さざらしむ。
欲すべきを見せずば民をして心乱れざらしむ。
是を以て聖人の治とす。
其の心を虚しうして其の腹を実らす。
其の志を弱くして其の骨を強くす。
民をして常に無知無欲ならしめば夫れ知者をして敢て為さざらしむ也。
無為を為さば則ち治まらざる無し。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(二)

  • 2008年12月04日 (木)

天下皆知美之為美 其悪已
皆知善之為善 其不善已
故有無相生 難易相成
長短相較 高下相傾
音声相和 前後相随
是以聖人処無為之事行不言之教
万物作焉而不辞 生而不有
為而不恃 功成而弗居
夫唯弗居 是以不去


天下皆美の美たるを知る。其れ已に悪なり。
皆善の善たるを知る。其れ已に不善なり。
故に有無相生じ、難易相成り、長短相較べ、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。
是を以て聖人は、無為の事に処り、不言の教を行う。
万物作りて而も辞せず、生じて而も有せず、為して而も恃まず、功成りて而も居らず
夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。

私家版老子道徳経目次

老子道徳経より(一)

  • 2008年12月03日 (水)

道可道 非常道
名可名 非常名
無名天地之始 有名万物之母
故常無欲以観其妙 常有欲以観其徼
此両者同出而異名
同謂之玄
玄之又玄 衆妙之門


道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。
故に、無は常に以て其の妙を観(しめ)さんと欲し、有は常に以て其の徼(きょう)を観さんと欲す。
此の両者は同じ出にして而も名を異にす。
同じく之を玄と謂う。
玄のまた玄は衆妙の門なり。

私家版老子道徳経目次

老子のテクストを連載する

  • 2008年12月03日 (水)

昨年の冬籠もり中、エドウィン・フィッシャーの『音楽を愛する友へ』を読んだことをきっかけに、ぼつぼつと老子を読み返していた。老子の白文・書き下し文・私訳を書き留める作業をやっていたが、81章中61章まで終えたところで停滞したまま、どうやら越年しそうであるので、この際このブログに掲載して通読を果たそうと思いたった。また、ブログの移転によりサイト自体の文字コードが漢字表記に適したものになったことでもあり「ブログ移転記念(!)」との含みもある。
ところで、老子に関しては、無学非才の私ごときがそのようなことをせずとも、既に(書籍はおろか)ネット上にも見るべきテクストが複数存在するので、いちおう個人的メモとして順次掲載することにする(よって随時、訂正加筆することもある)。

  • 白文の改行は文意に随い恣意的に行つた。
  • 書下し文は参考文献も参照しつつ恣意的に改変している。
  • 参考文献:松枝・竹内監修 奥平・大村訳『中国の思想6』徳間書店1996 ほか

この通読のみならずブログ掲載作業まで滞らぬよう気をつけたい・・・。

宇城憲治『武道の心で日常を生きる』

  • 2006年12月24日 (日)
  • キーワードタグ: 教育

再読。

初めて読んだときと同様、今回も思わず姿勢を正したくなりました。
著者は心道流空手道師範。UK実践塾主宰。

もっともらしい顔つきで「規範意識の向上」だの「品格ある人間育成」だのと語っておられる方々にも是非この一書をご一読いただけば、「まずは我が身を振り返らねば」と思っていただけるのではないだろうか。

語られる内容は目新しいものばかり、というものでは決してなく、むしろ当り前のことが何気なく語られているのだけれども、何故か心に強く響いてくる。そんな書物です。

言葉に力がある

その力が何に由来するものなのか、私にはわかりません。しかし紛う方無き力がその文面に宿っているように私には感じられますが、その力は、印象的な一文を抜き書きしても現わすことができないとつくづく思います。したがって普段は心に残った一文の引用ばかりやっている私ですが、この一書に関しては抜粋引用は控えたいと思います。

しかし敢えて一文だけ。

私が、なぜ宮本武蔵が書いた『五輪書』にエネルギーも感じるかというと、やはり武蔵本人が実践者だからです。実践していない人にも、似たような本は書けると思います。けれど、みなぎるエネルギーがぜんぜん違います。活字になっても、その差が表れます。教えてばかりで、自分が学んでいない、実践していない親や教師が多すぎます。子どもはそれに気づいています。親や先生自身がやってみせることもできないのに、口先だけで教えても子どもには響きません。親が自分の中に自信を持つ。必死になることです。そういう覚悟と姿勢は子どもに伝わります。

相手が子どもに限ったことではないですよね、おそらく。

言葉だけに頼っていて相手にどれほどのことを伝えることが出来るだろう。
空っぽな自分はそのまま捨て置いて言葉ばかりに頼って相手だけを変えようとする傲慢。

法律を作ったり変更することで何かを変えようとする思考法もまた同様だろう(たしかにそれで変わることもあるが、そういう時は大抵の場合、想定外の(副作用的)変化を伴うことが看過されがちなのだ)。
法律すなわち言葉の集まりだもんね。

もっとも、言葉の力は偉大であるともいうことはできよう。が、どれほど素晴らしい言葉であっても、相手の耳に届かぬ言葉はやはり無力だ。そして聞く者をして耳を傾けてみようかと思わせるにもやはり言葉は絶対的に無力だ。

だって聞く耳を持たない者は、どれほど相手が熱心に言葉を掛けたところで「はなっから聞いていない」んだもん。
馬の耳に念仏。馬耳東風・・・。

「聞いてみようか」
「この人はなにを言わんとしてるのか」

そう思わせるには非言語的ななにものかが必要であり、それなくしては何も始まらない。そしてそれが出来れば目的の過半は果たされたと言うべきだろう。
「なにを語るか」ではなく「どのように語るか」
そこのところが昨今の様々な問題において置き去りにされがちな点であり、また問題の核心だと思った次第。

「(言葉にしろ人間にしろ)中身が大切なんだ」
確かにその通りだと私も思う。
しかしまた同時にこの種の「正しい言葉」の持つ副作用、誤解、拡大解釈を私は恐れる。

「中身が大切!」なんて相手に向かって語りかけながら、その言葉が口に出されたそばから「中身」ではなく「形式」に”凍り”つきつつあることに自覚的な人は非常に少ないと思う(私なぞ話す前から凍りついてます)。そのような機微に通じた人の言葉に接したとき、私なら喜んで聴く。私は相手の言葉の「中身」でもなく「形式」でもない何ものかを欲して耳を傾けるだろう。

「聞く耳をもつ」
ありきたりな言葉だけれど、よくよく考えてみるととても大切なことだと改めて思う。

他人の言を「聞く耳を持たない」でいて「今どきのわけえもんはなっちゃいねぇ」とのたまうお偉いさん方ばかりが目に留まる昨今、今こそ必要なのは「一億総懺悔」では!?

「んじゃおめーがやってろ、勝手に懺悔!」

ん、そうします。

武道の心で日常を生きる―「身体脳」を鍛えて、肚を据える 武道の心で日常を生きる―「身体脳」を鍛えて、肚を据える
宇城 憲治
入手不可

序破急 ~内田樹『私の身体は頭がいい』

  • 2006年12月14日 (木)

読了。

「急」は「序」よりも速い動きである必要はない。動きの質の断絶すなわち「破」を経過すれば、どんな動きも「急」なのである

税込価格 : \1,890 (本体 : \1,800)
出版 : 新曜社
サイズ : 四六判 / 214p
ISBN : 4-7885-0847-8
発行年月 : 2003.5

論断と行動

  • 2006年11月15日 (水)

水の事を講釈致し候とても、口はぬれ不申候火を能く説くとも、口は熱からず、誠の水、誠の火に触れてならでは知れぬもの也。書を講釈したるまでにては知れ不申候食物をよく説くとても、ひだるき事は直り不申候。
(沢庵「不動知神妙録」より)

水のことをあれこれ口で言っても口が(ホントに)濡れることはない、火についてあれこれ説いても口は熱くはない、そんなものは本物の水や本物の火に触れなければ乾湿も冷熱も分かりっこない。字の書き方ををクドクド講釈するだけでは何も伝わらず、食べ物についてあれこれ話したところで空腹は治らない。

口やペンを動かす前に、小理窟や非難を述べたてる前に、まずは自分自身が動かねば。行動で示さねば。「話」はそれからだ。

運・不運

  • 2006年11月07日 (火)

「播いたとおりに花が咲く」、「師に学ぶ」ということについては広く知られるべき事柄であろうと私は思います。

で、今回も内田樹のブログです。

中村天風の著作でもしばしば言及されている事柄ですが、多田氏や内田氏の生(ナマ)の言葉が強く心に響いてきます。

そんなわけで

以下
「内田樹の研究室」 2003年12月14日付記事より転載。
尚、文中の「先生」とは多田宏氏のことを指しています。

「用のないところにゆかない」ということを先生はよく言われる。

どこかに立っていたら石が飛んできて、怪我をした。
もちろん悪いのは石を投げたやつである。
しかし、そのときに私たちはまず「なぜ自分はここにいたのか?」を問わなければならない。
他人のせいにするより先に、「自分はここにいる必然性があったのか?」を問わなければならない。

すると、たいていは、「そこにいる必然性がなかった」場合にしばしば人間はトラブルに巻き込まれるということが分かる。
私たちがトラブルに巻き込まれるというのは、ほんとうは「そこ」にゆかずに済んだのだが、ささやかな手落ちや行き違いや故障が重なって、なぜか「そこ」に居合わせたということが多い。

例えば、忘れ物を取りに行って、交通事故に遭ったという場合。
忘れ物を取りにゆくとき、当然ながら、私たちはふだんよりいらついているし、せかせかしているし、周囲に対する注意力も落ちている。そういうときは、歩いていて人に肩があたったり、階段で滑ったり、別の荷物を忘れたり・・・という「しなくてすんだトラブル」が磁石が砂鉄を集めるように、引き起こされてゆく。
おそらく、そんなふうにして、最悪のトラブルの場所に私たちはそれと知らずに引き寄せられてゆくのである。

そもそも忘れ物をしなければ、私たちは「そこ」にゆかずに済んだのだ。
そのことを考えなければならない。
「蒔かぬ種は生えない」というのは中村天風先生の教えである。
我が身に生じた不運は自らがその種を蒔いた収穫である。
そう考える人間だけが、「次の機会」には「撒種」を最小化するという工夫をすることができる。
忘れ物を取りに帰って交通事故にあった人は「次からは横断歩道で気を付けよう」ではなく、「次からは忘れ物をしないようにしよう」と考えるべきなのである。
「しなくてもよいことをするに至った最初のわずかなきっかけ」を反省する、というのが実はもっとも効果的な「撒種」最小化戦略なのである。メイビー。

「他罰的な人間」、つまりわが身に起きたトラブルを他人のせいにする人間は、「自分はどこでボタンをかけ違って、『そこ』にたどり着くことになったのか?」という問いを立てる習慣を持つことがない。

「誰のせいだ?」という問いを繰り返す人間は、そのあとも「種を蒔き続け」、そうやって「ゆかなくてもよかった場所で、ゆかなくてよかった時間に、会わなくてもよかった人間に」繰り返し出会うことになる。
wrong time, wrong place, wrong person
おそらく、それが「不運」ということの具体的なかたちである。

気の感応が増して行くと、渦が巻くように「必要なものが、必要なときに」集中する、ということを多田先生は言われた。
何かについて知りたいと先生が思うと、そのことについて詳しい情報を持っている人がその日のうちに何人も「偶然」集まってくるそうである。
これは不肖ウチダもわずかながら経験的に分かる。
そういうことって、確かにある。

そこで調子に乗って、うっかり「変なもの」に意識を集中すると、今度は「変なもの」ばかりがわらわらと押し寄せてくるそうである。
これはかなり怖い。
合気道の稽古をしていて、中途半端に感度が高まると、そういうネガティヴな境地に入ってしまうこともある。
だから、私たちはつねに師匠に就いて稽古しないといけないのである。

武藤義一『仏眼』

  • 2006年09月01日 (金)

読了。
武藤義一と三人の仏教者による対談集。
大森曹玄の対談が収録されているのに惹かれて読んでみましたが、ほかのお二人の対談もとても味わい深いものでした。

目次をあげておきます。

山の自然とともに(山本秀順)
・物だけで幸福になれないか
・ほんとうの愛情って何だろう
・人間の命は天地自然のおかげ
・お経は身体で読むもの
・精神現象の不思議
(コメント)
不殺生戒についてなんとなく分かった気になれます。”そっとしておく愛情”ということばが印象的。

梵鐘の響きの中で(山田霊林)
・息をしなければ死んでしまう
・面授の法門こそ大事
・修行は音で始まり音で終わる
・永平寺は冬がいちばんいい
・少年のころの思い出
・道元禅師の教え

あるがままの姿で(大森曹玄)
・青年と宗教
・坐禅をしなくてもさとれる
・禅の公案と悟り
・禅と武士道
・山岡鉄舟の禅修行
・科学者と仏教

読み返してみて、山田禅師の修業時代のくだりが心に残ります。師弟のありかた、とくに師とはどうあるべきか。
仏具が整然と並べられていないといっては怒鳴られ、歩く姿がしゃんとしてないといっては殴り倒される。そして怒り方も、弟子が納得のいく形などでは全然なく、なぜ怒られているかすら分からないような(弟子からすれば理不尽な)ものだったといいます。

今のわれわれにとってはわれわれの”常識”からすると、いわゆるトンデモナイ教育法だと思います。あきらかに”体罰”ですから。しかしながら、体罰を用いずに、かつ教えられる側が「なぜ叱られているのか」を納得できる形で行うのが教育の理想型かといえば必ずしもそうとは言えないような気がします。人を教え導くにあたって教育方法は副次的なものでななかろうか、師の側にそもそも弟子に対する愛情と責任感があるのか否かが第一義の問題ではなかろうか、と私のような教育の素人は思います。

山田禅師はのちに、人知れず禅師の身体安全のために願かけをし、また「こうしておけば霊林の時代になったころには、これがためになるからな」と唱えながら寺の裏山に植林していた師の密やかな愛情を知って絶句します。このくだりを読むときには私も涙腺が緩むのを拒めませんでした。

人生の根本義とは何かを考えさせられる良書でした。対談形式でもありとても読みやすい本でもあります。

汚い泥があればこそ、きれいな紅蓮華も白蓮華も咲く。それを蓮華の花だけを喜んで、清水の中へ突っ込んだら枯れてしまう

いまの愛情のかたちは、人の喜ぶような表現をした裏で、人のいやがることは心の中に隠したまま憎む

(山田霊林)

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本来の面目

  • 2006年09月01日 (金)

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えてすずしかりけり (道元)

双葉山~相撲求道録

  • 2006年05月29日 (月)

私自身は双葉山の全盛期を直接には知りませんが、木鶏のエピソードからフト興味を持ったので読んでみました。勉強になります。

双葉山が三役から転落した時の回想

 たまたま勝越して三役にのぼったといってみても、実力がこれに伴わなければ、振りおとされるのは当然至極で、少し位背伸びをしてみたところで、追っつきうるものではありません。こういう羽目にぶっつかると、だれしも自分自身の素質について疑いをいだくようになり、心に迷いを生ずるものです。この「疑い」と「迷い」に負けてしまえば、それで万事がお終いなのですが、幸い、なんらかのきっかけで自信を取りもどすことができれば、それでまた立ちなおることも不可能ではないのです。

技について

 ・・・「無意識」のうちに「技」が出てこなければならないのです。・・・意識と身体とが二途になっては駄目なのです。この二つのものが、あくまでも渾然たる「一枚」となりきらなければならないのです。

横綱の強さ

 横綱ともなるほどの力士は、衆にすぐれた力量を備えているはずであるのに、時折横綱の敗北という現象がみられるのは、やはり気分的に固くなったり、調子をおろしたりするからではないかと思われます。・・・要は、体にも気分にも、いわゆる「シコリ」をつくらぬように心がけて、かねて修練した実力を、十分に発揮しなければならないのです。

双葉山の人気について ~吉川英治の描写

 低いところから落せば欠けない物を、勝手に高所までさし上げて行って落すのが人気の特質である。

木鶏のエピソード
 69連勝で安芸海に敗れた際、心友の一人であった竹葉秀雄が「サクモヨシチルモマタヨシサクラバナ」と打った電報に対して、双葉山からの返電が「ワレイマダモツケイニアラズ(我未だ木鶏に非ず)」、さらに負けて「サミシイデススグオイデコフ(寂しいです。すぐお出で乞う)」であったとのこと。

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反省と潔さ

  • 2006年05月28日 (日)
  • キーワードタグ: 語録

安岡正篤『照心語録』より

 自ら反らざれば、それは自ら反(そむ)くことになる。・・・問題の原因を偏(ひとえ)に外に帰することは潔くない。いかなる時も・・・自分の内部に第一原因を発見することでなければならない。

 道を歩いていると石につまずく。面白いのはその反応の仕方で、人により千差万別だ。自己の迂闊を反省する者、石に腹を立てる者、果ては石をそこに置いた人間を恨む者まである。・・・ここで自分を反省するか否かが、その人の人生を大きく左右する。事の大小を問わず、常に自ら反る人にして真に人物として成長するものだ。

潔い=
 ・卑怯な点や未練がましいところがない
 ・汚れがない、清浄
 ・心やおこないにやましいところがない、潔白
 ・すっきりしていて気持がよい
                  (大辞林より)

自らが潔い人間であらねばと思います・・・・

照心語録 照心語録
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中村天風『盛大な人生』

  • 2006年05月21日 (日)

再読。
何度読んでも新たな発見があります。

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中村天風略歴
 1876年、中村天風は大蔵省官僚の息子として東京で出生。
青年期に頭山満の玄洋社を経て陸軍の軍事探偵として日露戦争に従軍、満州へ赴く。
戦後、結核を発病。
自ら治療法を求めアメリカ、ヨーロッパを巡る。

 1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、インドで修行を行う。

 孫文の革命運動に協力ののち日本へ帰国。企業経営に携わるも、40歳代半ばにして自らの生活に疑問を感じ、インドでの体験を基礎とした大道演説を開始、のち「統一哲医学会」を創設。政財界の実力者も数多く入会。

 1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。

 1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。
             http://www.tempukai.or.jp/

 1968年12月1日死去。享年92。

ケン・ウィルバー

  • 2006年05月18日 (木)

読了。
この本の中でケン・ウィルバー(Ken Wilber)という名前を初めて知りました。これから彼について調べてみたいと思います。

http://integraljapan.net/index.htm

瞑想と意識―天風哲学とトランスパーソナル 瞑想と意識―天風哲学とトランスパーソナル
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平生の心がけ

  • 2006年05月14日 (日)

再読。

己れの欲せざる所人に施すこと勿れ、と題する一文からの引用です。

・・・ほんの少しばかり他人の立場に身を置いて我れを顧みるという習慣によって、人は随分善い事を為し得ると思う。私は特に新聞記者の一考を望みたい。今実例は省略するが、往々人を苦しめる記事の行き過ぎを私は悪意から出たものと(出たものとのみは)考えない。ただ、いかにも他人に対する思い遣りが足りないと思う。他の何の職業にも免れないことであるが、新聞記者は殊に自分の職業の自由を主張する。しかもそれを屡々抵抗の弱い方向に向かって主張する。その結果が弱い者いじめになる。(以下略)

平生の心がけ (講談社学術文庫) 平生の心がけ (講談社学術文庫)
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小泉信三略歴
 元慶應義塾塾長
 大正・昭和期の経済学者。
 今上天皇(現天皇)の皇太子時代の師父。

加藤完治『武道の研究』下巻 覚書2

  • 2006年04月08日 (土)

剣道の極意は吸ふの吐くの阿だの呍だの問題ぢゃないんだからね。吐いて気合が合ふなら吐くがよし、吸ふて気合が入るなら吸ふもよし。結局何んだね。そう云ふ点を一際離れた無我だよ。無我が剣道の極意だよ。その極意は本では書けぬところなのだ。筧先生が仏教哲理、西洋哲理のあの膨大な本を書かれて、その一番最初の頁に一枚白紙をおかれたのはその意味だよ。結局色々な方面から数千、数万と言を費やして説明して見ても詮じつめた極致に来れば言葉で言ひ表せぬことになって仕舞ふのだね。武道もそれと同じで色々なことを云ふが結局極意となれば以心伝心より外ないのだ。結局その奥義は無我だよ。

加藤完治『武道の研究』下巻 覚書1

  • 2006年04月08日 (土)
武道の研究
加藤 完治
入手不可

森本、重岡両氏の法定の型を見られたる後「大分よくなったが、まだまだスウッとのびのびやれないね。人が見ておるからというので、固くなったのじゃあないかね。一生懸命なのはいいが、一生懸命ということに執着しておっては駄目だ。そんなことは忘れてしまって、抜け切ってしまって、しかも気合も抜けずに真剣なのでなければいけないのだ。一生懸命を忘れて、一生懸命になれというのだから、中々難しい問題だ。・・・どうしても我の強いものは、自我に執着するから、この解脱が難しいようだ。山岡鉄舟などもこの点では随分苦しんだらしい。・・・相当自我の強い人であったと思われるね。もっとも我の強い位のものでないと剣道は上達しないものだ。この自我の強い人が、その自我を超越すると大変強くなるのだ。・・・(以下略)」

新渡戸『武士道』その3と靖国問題

  • 2006年03月28日 (火)
  • キーワードタグ: 政治

新渡戸稲造『武士道』再読しました。

改めて読んでみた感想は以前読んだ時と同様で、一言で言えば隔靴掻痒といったところです。
ギリシア=ローマをはじめとする西洋古典についての教養が在ることを前提に叙述されているために、日本人の私がからすると、やけにレトリックが多用されている印象が強く、日本の伝統的価値観を共有しない欧米人向けの著作であるために、広く浅い叙述になっています。

もちろん、新渡戸『武士道』が広く読まれることによって日本の(失われつつある)伝統的価値観が再認識されることは是とすべきだと思います。
私はこれを機に、日本の古典を改めて勉強しようと思いました。

ところで、靖国参拝に関して小泉首相がまたもやぼやきとも挑発ともとれる発言をなさったようです。
(goo news)

私自身は靖国参拝に関しては必ずしも反対ではありません。また、憲法改正問題についても、特に第9条に関しては改正も考慮すべきと考えています(特に戦力の保持について)。

追記)上で言う靖国参拝とは、個人が私人として行う靖国参拝のことです。靖国参拝に関して”公人として・・・”とか”私人として・・・”という言辞は、”自衛隊は軍隊ではない”というのと同様の誤魔化しだと思いますし、少なくとも参拝そのものに反発する人々には全く何の説得力を持たないのではないかと思います。

しかし、過去の歴史的経緯やA級戦犯合祀の点から、中・韓が靖国公式参拝に強く反発するのは一向不思議なことではないと思いますしある種当然の反応だと考えます。

もっとも、戦没者を悼むのは当然のことである、というのもよく分かりますし、私自身そうした感覚を持っています。(とはいえそれを”愛国心”だのなんだのと国家から強制されたくはありませんが。)
ただ、中韓の主張に耳を傾ける姿勢を見せることを殊更に避けつつ、他方で、日本国民に対しては中韓の主張が如何に理不尽なものであるかを強調してみせる小泉首相はじめ一部の政治家の言動は、いたずらに対外関係を危うくし、また排他的な国内世論を生みだしかねない危険なものだと感じることがあります。

先頭に立って対立を煽るのが首相の目的なんでしょうか?。国内・国外の情勢を見極めつつ落としどころを探っていくのがリーダーとしての役割ではないいのか、と思うのは私だけでしょうか・・・。

せんどうしゃ:扇動者or先導者

大好きで力持ちの大親分についていってれば安泰ってことですか。
”主体的に”親分に盲従することが”主体的判断・行動”だと教えられたことはありませんでしたが・・・。

近い将来、こうして自分の思うことを公表することすら憚られる時代がやってくるのかもしれませんね。

最後に
『武士道』のなかで新渡戸が次のように書いています。

 国民全体に共通の折り目正しさはまぎれもなく武士道の遺産である。このことはよく知られているのであらためてくりかえす必要はない。「小柄なジャップ」の身体がもっていた忍耐、不屈、勇気は日清戦争においてあますところなく証明された。(中略)私たち日本人は武士道に感謝しなければならない。・・・しかし、その反面私たち日本人の欠点や短所もまた、大いに武士道に責任が在ると認めざるを得ない。・・・日本人の感じやすく、また激しやすい性質は私たちの名誉観にその責任がある。そして、外国人がしばしばとがめるように、日本人は尊大なまでの自負心を持っている、というのであれば、これもまた名誉心の病的な行きすぎによるものである。

新渡戸『武士道』その2

  • 2006年03月24日 (金)

気が付けば3月も残りわずか。
時の経つのが早いです。

『武士道』を少しずつ読み返してますが・・・。
メモ代わりに、印象に残る言葉を一つ。

「人の誣うるに逆らわず、己が信ならざるを思え」(小河立所)

新渡戸稲造『武士道』再読

  • 2006年03月23日 (木)

今日も刑法。
先日、武士道について書いてみたので、以前読んだ新渡戸『武士道』を改めて読んでます。

武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか? 武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?
新渡戸 稲造
価格:1130円

以前読んだ時にも感じたことですが、この著作は新渡戸が外国人向けに書いた論文の翻訳であるところから、日本人の私にとっては廻りくどい印象を受けることは否めません。

西洋の古典を用いた表現・比喩が多用されているところから見ても、外国人で、かつそれなりの教養を身に付けた人であれば興味深く読むことが出来るのでしょうが、一般の日本人にとっては逆に新渡戸の言わんとするところが分かりづらくなっているように思います。

とはいえ、”武士道”に関する古典的名著とされていることにかわりはないので、今回の再読で新たな発見があるかもしれないと思って読み進めています。

頭山満『幕末三舟伝』読後感。

  • 2006年03月20日 (月)

幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)の評伝。
鉄舟の師かつ義兄で、泥舟の実兄に当たる山岡静山の言が印象的でした。

「人、戒むべきは、驕傲である。一驕心に入れば、百芸皆廃す」

幕末三舟伝 幕末三舟伝
頭山 満
価格:2940円

加藤完治『武道の研究』その2

  • 2006年03月19日 (日)

かなりのページ数の本です。読んだのは上巻のみ。
内容的にはまとまりが今ひとつですが、資料的価値は高いのかもしれません。

序盤は加藤の師である山田次朗吉に関する記述が主で、中盤は加藤からみた諸人の人物評、剣道観などが述べられています。中盤の記述は内容が精選されているとは言い難く、資料的価値はともかくやや冗漫な印象を受けましたが、終盤の石川竜三・小沢愛次郎・小川忠太郎三氏からの聞書は一見に値すると思います。

心に残った一文を挙げておきます。

人間なぜ修行が要るか。人間生まれた時には素直さということについては完全無欠である。しかしだんだん素直さがなくなり、この素直さを取りもどすために修行が要る。素直であれば修行はいらない。
 伊藤一刀斎が敵わなかったという鬼夜叉が素直さとは頭がかゆい時に足をかく人間はいないようなものであるといっている。このようなすなおな心即ち直心が修行の目標であるが、その直心は自分に在るもの、自分の内にあるものを発見するのだ。

斯(か)くすれば斯くなるものと知りながら
止むに止まれぬ大和魂

(吉田松陰の言葉だそうです)

加藤完治『武道の研究』

  • 2006年03月18日 (土)

勉強の合間にこの本を読んでます。
剣道家であると同時に、戦前の農民運動(満蒙開拓運動)の指導者でもあった経歴が一部の人をしてある種忌避の念を生じさせることがあるのかもしれませんが、精神修養に関して言えば学ぶところの多い書物だと感じています。

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山岡鉄舟述 高野澄編『剣禅話』

  • 2006年03月17日 (金)

大森曹玄『山岡鉄舟』春秋社の巻末資料と重複する部分もありますが、以下に内容を列記します。

剣禅話 (現代人の古典シリーズ 9) 剣禅話 (現代人の古典シリーズ 9)
山岡 鉄舟
価格:1890円

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井上馨の欧化政策と現代日本の政治

  • 2006年03月17日 (金)

『肝つ玉』読後感その2。
明治期の欧化政策を主導した井上馨。彼が唱えた人種改良論に対する鳥尾得庵(鳥尾小弥太)の批判をひきながら、頭山満もまた井上を強烈に批判しています。

『・・・日本が・・・世界の仲間入りをしてつひて行かうとするなら、是非人間の種類からして先に改良してからなければ不可(いけ)ぬ。日本人の小さな軀躯(体躯)で、大きな西洋人と競争して見た處(ところ)が、とても敵(かな)ふものぢやない。西洋人の子種を日本人に入れて、西洋人と同じ程の人間をつくるのが、今日では何によりの急務で、之れより外に今の日本を強くする道はない・・・』(以上井上)

『貴様(井上)がそれ丈(だけ)に人種改良が支度(した)ければ、先づ第一に貴様の嬶(かかあ)や娘を毛唐の妾(めかけ)にしろ。それから日本中の婦人は一人でも日本人が手をつけさせずに皆毛唐共の妾にしろ、貴様などが日本人の嬶なぞを持つと、又た貴様に似た馬鹿なガキが生れて、幾年経っても日本は悧巧(利巧)にやならぬ、で貴様は一生独身で○○(原文のママ)でもやつて居ろ。』(以上鳥尾)

一部表現に過激な攘夷思想とも受け取れる文言も含まれますが、あくまでも井上の一面的な主張に対する批判という文脈に即して読めばよいかと思います。
顧みて、グローバルスタンダード・市場原理主義・規制緩和等々現代社会において是とされる様々な価値基準に関して、これを半ば盲目的に受け入れることが、井上の所論と五十歩百歩でないと誰が言えるでしょうか・・・。
米軍の再編に関しても、先日の岩国市の住民投票結果に対する政府のあまりに冷淡な態度は・・・・です。確かに安全保障問題が政府の専権事項であるとしてもです。この辺りの問題に関してはまだ余り調べていないので、いずれ改めたいと思いますが、一つ感じるのは内政・外交両面における政府の”高踏的な”姿勢です。

内政問題に関して「安保問題は政府の専権事項」(=地方自治体や個人の利害は(究極的には)度外視されてもやむをえないよ)と言い、外交問題に関しても、「(靖国問題などで)外国政府が内政問題に干渉するのは如何なものか」(=おれんちのことに口出すなよ)と突っぱねるような政治姿勢は、非常に違和感を覚えます。
かつて問題視された、小泉首相の木で鼻をくくったような国会答弁と全く同じ”品格のなさ”を感じます。それとも、そのような不遜な態度こそが”リーダーシップ”とでもいうのでしょうか・・・。

なにはともあれ、今から90年以上前に出版された頭山の著作からいろいろと考えさせられます。

追記
 この著作、最後に頭山の色恋話(「散る桜」)が描かれてます。これがまた味わいがありました。之に関しては機会があればいずれまた書いてみます。

”小人は利に悟り、君子は義に悟る”

  • 2006年03月15日 (水)

頭山満の著作(胆もつ玉)からの引用です。(原典不知)
現代の政治状況(永田メール問題など)に読み替えてみても至言と思います。党利党略また然り。

政治上の争ひは全部これ(公闘)でなければならぬ。だが今日政友会が国民党と争い、国民党が同志会と争ふのは、皆この正々堂々を抜きにして居る。只だ、何のことはない、国権にありつひて、私利を貪らうとする、政府さへ持つてをれば・・・(中略)心から日本国家の将来を思ふて、真に国家百年の為めに立つて、自分の主義主張を政治上に応用しようと云ふ公闘があろうか。悉(ことごと)く彼等は利に悟るの徒で、今日真に国家を談ずる資格のある男が幾人有らうか。今や公闘の士なし。

頭山満『膽つ玉』

我が身の至誠に悖るなかりしか・・・。思わず自己を省みることをも促される一文でした。

山岡鉄舟版『武士道』勝部真長 編

  • 2006年03月10日 (金)

気分転換にこの本を読みました。

武士道―文武両道の思想
価格:2625円

鉄舟の口述に基づいている点、勝海舟の評が併記されている点で『鉄舟随感録』と似た体裁になっていますが、編者は現代の人です。また、内容も山岡鉄舟に関する類書とは重複していない部分も多く、興味深い本です。

また、編者自身が感じる現代日本の危機的状況についての記述もあり、共感するところが多々ありました。特に金銭崇拝・道徳観の欠如といった点については、既に明治頃から一部の識者の間には危機意識が存在していたとの指摘は興味深いものがありました。

現代の日本には自己の利益追求が無条件に是とされる一方で、利他の心はほとんどまったく顧みられていない感があります。自らの利益を図るためならば他人を出し抜くこと、陥れることすら平気の平左でやってのける輩が少なくないのではないでしょうかね?あるいはそこまで積極的でなくとも、自らの保身のためには他人の犠牲を顧慮しない有象無象はいませんか?

もっとも私自身も”小人”ですが・・・。

最近、新渡戸稲造の『武士道』が注目を集めているようです。良い本だと思いますが、私が読んだ限りでは、論述が理路整然としすぎているきらいがあって今ひとつ心に迫ってくるものがありませんでした。

一方、上記の勝部『武士道』は良くも悪しくも編者の立場・観点がはっきりと示されている分面白く、また興味深く読むことが出来ました。
もし、新渡戸『武士道』が”ピンと来なかった”という向きには、こちらの勝部『武士道』にも目を通してみられては如何かと思います。

大森曹玄翁夜話

  • 2006年03月01日 (水)

山岡鉄舟の弟子筋である大森曹玄の以下の著作について読後感(抄)。

(書に関する弟子の質問)

「どうしたら良い書を書けますか」

(大森翁の答え)

「天に誓って恥じない生活をしていればよい書はかけますよ。」
「私はあるときから禅以外のことはやらないと決めた、これから俺がやることは全部禅だ、とね。」

最後の言葉を私は次のように理解しました。
常住坐臥全て、働きながらでも寝ながらでも全てのことが、あらゆるときに禅となりうる、修行である、なにも坐禅をしているときだけが禅ではない、。

大森曹玄翁夜話―一禅僧の昭和史
入手不可

大森曹玄『剣と禅』

  • 2006年02月27日 (月)

書きかけの「契約行為?単独行為?」のつづきを書くべきところでしょうが、まだデータ消失のショックから立ち直っていないので、最近読んだ『剣と禅』について読後感を。

剣と禅
大森 曹玄
入手不可

個性ってなんだろう?

「個性重視」が今現在の世の中の風潮であろうことはもちろん承知していますが、ともすると「わがまま尊重」になっているのではなかろうか、と思わざるを得ない出来事をしばしば見聞することがあります。
自分自身が「まだまだ”小さい人間”だな~ぁ」と感じることも度々あるものですから、果たして自己の壁を打ち破り続けることはどこまで可能だろうか、という問題意識を私は持っています。

私自身、思考に行動が伴わない、理屈のための理屈、評論家的言辞を述べ立てるようなヒトにならぬよう気をつけてはいますが、自分自身の理想を実践(実現)できているわけではもちろんありませんし、その「理想」にしてからがそもそも”小さい、至らない”今の自分が考えているものにすぎないわけですから、かりに上記の「理想」を実現できたとしても何ほどのものでもないわけです・・・。

そんな今の私にとって、『剣と禅』は非常なインスピレーションを与えてくれます。
私の拙い言語能力では充分に表現が出来ないので、私としては大変不本意ながらも、含蓄があり、また示唆に富んだ原文を引用させてもらうことにします。

以下、大森曹玄著『剣と禅』春秋社 1983 より引用

生まれて以来知らず識らずの間についた悪い癖や(良い癖でも同じである)、心身にこびりついて容易に抜けない「自我」というものを「個性」だなどと錯覚して、それを伸ばすのが個性を尊重することだと考えているのは、とんでもない間違いである。そんな「個性」を「四ツン這ひになって息の切れ」るまで叩きのめしたとき、思わずそこに仏光燦然として本ものの個性が現れてくるのである。・・・本を読んで知識を増したり、坐禅して定力を練ろうと考えるのは、そうすることによって向上したり、鍛えられたりする「自我」をというもののあることを肯定しているからではないだろうか。ところが、そういう「自我」を肯定して鍛練を重ねてゆくところには、実は禅はないのである。

(2009/12/03追記)
入手不可能になっていたこの本もその後2008年に新版が出版された。

剣と禅 (禅ライブラリー) 剣と禅 (禅ライブラリー)
大森 曹玄
価格:1785円

小倉鉄樹『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠 』

  • 2006年02月20日 (月)

以前少しだけ書いた、小倉鉄樹について書いてみます。
といっても、小倉鉄樹についてはまだそれ程調べてないんですが。

小倉鉄樹の名前は、以前読んだ藤平光一さんの著作に出てきたので頭の片隅に残ってました。

同書には、当初は講道館柔道を学んでいた、著者である藤平さんが学生時代に肺病をおして入門したのが小倉鉄樹主宰の一九会であった、と書いてあった記憶があります。(今、手元に同書がないので・・・)。
「とほかみえみため」と唱えながら延々と重量のある錫を振り続けるなどの修行を行うのだそうです。藤平さんはのちに合気道の植芝盛平の高弟として、さら植芝の没後は独自の団体を結成した武道家だそうで。

私自身は、合気道をやったことはなかったものの、武道全般に通じるものが藤平さんの著作から感じ取れましたし、小倉の著作からはもっと大きな感銘を受けました。そういうことから、小倉の師匠にあたる山岡鉄舟について詳しく調べてみようと思ったわけでした。

どのような感銘を受けたのか、私がどのような問題意識を持っているかを書いてみようと思ったこともこのブログ開設のきっかけですが、今はまだ時間の余裕がないので、また別の機会に書いてみたいと思います。

ついでに言えば、琉球古伝空手の宇城憲治さんの著作にも今すごく興味を持って片っ端から読んでます。合気ニュース社http://www.aikinews.com/の季刊雑誌『道』に連載記事もあるそうで、これも今、興味津々です。

俺の師匠
入手不可

中村天風と植芝盛平 氣の確立  幻冬舎文庫 中村天風と植芝盛平 氣の確立 幻冬舎文庫
藤平 光一
価格:520円

大森曹玄『山岡鉄舟』

  • 2006年02月12日 (日)

数日前から読んでいた大森曹玄著『山岡鉄舟』春秋社1975。
深かった。詳細な感想は時間がないので(憲法をやっつけてる最中なので)いずれ機会があれば書く予定です。
一つだけ書きますと、巻末に資料として鉄舟の筆になるいくつかの文章がかかげられていまして、これが非常に有難かったです。多少読み辛かろうが、やはり原典(真偽が疑われているものであろうとも)はとても参考になります。名称を挙げておきます。

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たまには漫画

  • 2006年02月10日 (金)

大森曹玄『山岡鉄舟』
勉強になりました。

うぅ~ん、憲法憲法憲法・・・。

ところで、幕末と言えば、面白いギャグ漫画がありますね。

みなもと太郎『風雲児たち』リイド社(連載中)
もう20年以上連載が続いてます。(以前は潮出版社から刊行されていましたが。)
なにせ関ヶ原の戦いから話が始まって、ようやく幕末に入ったのはここ数年ですね。

風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス) 風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス)
みなもと 太郎
価格:550円

一応ギャグ漫画でとにかく面白い上に、単なるギャグ漫画とは言えないほどに調査・考証が行き届いている。漫画とはいえ全くあなどれません。
山岡鉄舟はいまのところ(既刊単行本では)登場していないはずですが・・・。今後登場するかどうかは知りません。

勉強の合間の息抜きにお勧めです。
司馬遼太郎あたりから幕末に興味を持つ人も身の回りには大勢いますが、私の場合はこの漫画が幕末への入り口でした。

山岡鉄舟(3)

  • 2006年02月06日 (月)

鉄舟についてもう少しだけ。

鉄舟は生涯を剣・禅・書にうちこみ、中年を過ぎた頃に悟りの境地に達したと多くの書物に書かれています。「悟り」と書くとなにか怪しげに聞こえてしまうのが残念ですが。
大悟徹底した(たいして変わりませんか・・・)というか、安心立命の境地に至ったということなんでしょう。

私はこの鉄舟の”悟り”を、周囲からの評価・評判にとらわれることなく、また自分自身の内面的な充実感を得たということではないかと捉えています。

『鉄舟随感録』の中には、鉄舟が大悟する契機となった出来事が鉄舟自身の言葉で記されています。
その出来事とは、なにもインドの聖地で刻苦勉励したとか、怪しげな術を身に付けたりとかいったものではなかったようです。

一人の商人がなにげなく鉄舟に語った商いの秘訣が、鉄舟をして剣道にも禅にもつながる真理を感得せしめたというものでした。日常生活の何気ない出来事の中から、自分自身の問題意識や肉体的鍛錬(鉄舟の場合は剣道の稽古)を通じてより高い次元のなにものかを見出したということなのだと思います。もちろんそうした契機を得るに至る以前の数十年にわたる勉学や稽古が前提になっているのでしょうが。
私としては、鉄舟が大悟したきっかけが普段の生活の中にある、ささいな出来事であったことが非常に印象深かったわけです。

ついでに言えば・・・
わたしは宗教にはほとんど興味がありません。一応は仏教徒ですが。
無駄にお金のかかることは大抵嫌いです。そもそもお金持っていませんし・・・

鉄舟随感録 鉄舟随感録
山岡 鉄舟
入手不可

山岡鉄舟(2)

  • 2006年02月05日 (日)

山岡鉄舟について再び。
鉄舟について興味を持ったのは中村天風の著作を読んだことがきっかけでした。5,6年前に初めて中村天風の著作に接して、大きな感銘を受け、その著作の一節に次のようなものがありました。「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」。ああ、いい言葉だなと思いつつもこの時は天風の自作なのかな、と思っていました。それが今年のはじめ頃に偶然、小倉鉄樹『おれの師匠』島津書房刊を読み、そこで初めて上記の言葉が鉄舟のものであることを知りました。(この本については近いうちに項を改めて書いてみます。)

「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、もとの姿はかはらざりけり」
これが鉄舟自身の本来の言葉でした。

ひとりの人間が実社会で生きていくなかで、さまざまな毀誉褒貶に晒されることはいうまでもありません。そして、不遇の時に如何に処するかでその人の人格が露わになっていくような気がします。しかしながら人間はともすれば弱気になりますよね。たった一人でも真意を分かってくれる人がいれば、それだけでも人間は強くなれるはずですが、そのたった一人すら身近に見いだせないとき、上記の鉄舟の言葉は大きな励みというか、救いになってくれる気がします。(つづく)

俺の師匠
入手不可

山岡鉄舟(1)

  • 2006年02月05日 (日)

昨日読んだ『鉄舟随感録』に関連してもうすこし書いてみます。
鉄舟に関しては今でも小説その他の関連本が多数出版されているようですが、この本は鉄舟自身の筆記になるもの(文体が漢語調で慣れないと読みづらいものの)なので非常に中身の濃い書物だと感じました。
第三者の手による、「(鉄舟が)こう言った、こういうことをした」風の書物は、取りつきやすい反面で、鉄舟自身の言葉や思想よりも著者の言葉や考えが書物の大部分を占めるため、読んでいくうちに次第に物足りなくなっていくものですが、この書物は読み応え大です。しかも鉄舟の文章に、これまた幕末の英雄の一人である勝海舟が評論を加えているという、ある意味で非常に貴重な書物です。(だからこそ国書刊行会からの出版なのでしょうが。)

鉄舟随感録 鉄舟随感録
山岡 鉄舟
入手不可

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