「報道 / ジャーナリズム」カテゴリの記事一覧

広告を見て驚いた

  • 2009年11月30日 (月)

日曜日の晩にボーとテレビを見ていたらgoogleの検索画面がうちのテレビに表示されていた。パソコンの検索画面を模したCMはしばしば目にしていたのでまたどこかの企業のCMだと思って何の気なしに眺めていたらとうとうCMの最後までgoogle以外にはそれらしい企業名は出ていなかったので、「はて、どこの会社のコマーシャルだろうか・・・」とCMが終わってから3秒間熟考した。「あー、google?もしや?」
私にとってgoogleは「何をいまさら?」つーくらいなじみの深いものなのでね。
ひょっとして私が何かを見落としただけのかもしれない・・・、といまだに半信半疑ではある。強いてたとえれば、ある日の朝刊の広告欄に「過払い金取り戻せます」ってえ弁護士事務所の広告と仲良く並んで某県警の広告が載っていたのを見たときと同じくらいには驚けたですよ。驚きの方向性はまるで正反対ではあるけどね。
ええ、タイトルそのまんまですよ。ひねりが無くてごめんなさいよ。んじゃぁまた。

報道の自由ランキング 2008〜2002

  • 2009年08月21日 (金)

先日のエントリで新聞業界の展望について書いた際に、排他的「記者クラブ制度」について少しばかり言及しました。2006年に「国境なき記者団」が公表した「報道の自由ランキング(”Press Freedom Index”)」(注)で日本が51位だったということを取り上げたエントリ(「報道の自由ランキング 2006年」)を書きましたが、その後の変動がふと気になったので調べてみました。以下、国境なき記者団がこのランキング算定を始めた2002年以降のデータも(日本に関する限り)併せてとりまとめてみます。

注) このランキングの算定方法などに関する解説ページ(英文)として次のようなものがある。Read the first world press freedom rankingおよびHow the ranking was compiled

“Press Freedom Index”における日本の順位:

( )内はスコア又はポイント。数字が小さいほどランキングは高順位となる。

  • 2008年:29位/173国 ( 6.50)
  • 2007年:37位/169国 (11.75)
  • 2006年:51位/168国 (12.50)
  • 2005年:37位/167国 ( 8.00)
  • 2004年:42位/167国 (10.00)
  • 2003年:44位/166国 ( 8.00)
  • 2002年:26位/139国 ( 7.50)

各年の日本に関する特記事項:

2008年:
(アジア地区についてのセクションに、オーストラリア・ニュージーランドと並べて「民主主義が根付いている国々」とあるだけで特記事項はほぼ無し)
2007年:
「35位のイタリアは、ジャーナリストが何の心配もなく活動することを暗に妨げるマフィアグループの脅威に依然としてさらされてはいるものの、順位の下落には歯止めがかかった。37位の日本は、粋がった国家主義者(militant nationalists)による報道機関への攻撃がいくらか減ったように観察されたので、順位を(前年の51位から)14ランク回復した。」(注)
2006年:
「アメリカ合衆国・フランス・日本に於ける報道の自由の蚕食には特に警戒を要する」として特にこの三カ国について一項をさいて詳述されている。そのうち日本に関して「国家主義(nationalism)の台頭及び排他的(特権的)なプレスクラブ(記者クラブ)制度が日本に於ける民主的な利益を脅かしていることから、ニッポンは14ランク下落して51位となった。日本経済新聞社は火炎瓶による攻撃を受け、また複数の記者が極右活動家(右翼)の攻撃を受けて負傷した。」
2005年:
(日本に関する特記事項無し)
2004年:
「メディアは多様かつ強力ではあるが、記者クラブ制度のために外国報道機関及びフリーランスのジャーナリストは情報へのアクセス権を剥奪されている。」
2003年:
(日本に関する特記事項無し)
2002年:
(日本に関する特記事項無し)

出典:Press Freedom Index 2008, 2007, 2006, 2005, 2004, 2003, 2002

筆者注)
wikipedia日本語版「国境なき記者団」の項にも2002年から2007年までのランキング一覧がある。そこには2007年の評価に関して次のような記述がある(2009年8月21日現在)。「国境なき記者団はウェブサイト内で記者クラブの存在を批判しながらも、『過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる』とし、日本での報道の自由が回復されつつあるとした」(強調は引用者)。

しかし、上に訳出したとおり、本来、回復したとされているのは単なる「順位」であって「報道の自由」そのものが回復基調にあるとは到底読むことができない。むしろ2002年以降の順位変動及び前段のイタリアに関する記述を考慮に入れるならばその評価は否定的ないし中立的でしかなく、wikipedia日本語版のこの記述は曲解だと思うがどうだろうか・・・。なにせマフィアにびくびくしなければならないイタリアよりも下位なのだから。それでも報道の自由が回復されつつあると言えたものだろうか。もし言えるのなら、大したもんだね。

この国境なき記者団によるランキングは、ジャーナリスト(ジャーナリスト集団)によるジャーナリスト(同)の為の主観的な評価という傾向が強いようで、各国に於ける報道の自由・言論の自由の実態を示す客観的な指標とは言えないが、一方でそのジャーナリスト自身の採点がこの程度と言うことは、実態はそれ以上に悪いのかも知れない。少なくとも私自身の感覚はそうだ。とはいえ、この「国境なき記者団」自体もちょっと調べて見ねばと思っている。正直なところ、よく耳にはするけれどよくは知らないので。

近々2009年のランキングも公表されるはずなのでそのときにはまた一言つぶやいてみるとします。

ひかれ者の小唄

  • 2009年08月17日 (月)

今日は新聞休刊日であった。”紀元前”(Before ChristならぬBefore InfomationTechnologyとでもいおうか)の頃は新聞がないとちょっと退屈したものだったが今は新聞が無くても何一つ支障がない。むしろ「lこれから新聞どうなんだろね〜(?)」などということをつらつら考える暇が出来て結構なことだとさえ思う。そして、新聞社の未来に関してはそれほど頭をひねるまでもなく結論は見えていると思う。「残るところだけ残って残らないところは残らない」、とね。どこが結論なんだかね、とも思われようが、100年後200年後の遠い未来はともかくとして、向こう数十年(新聞・書籍諸々の紙媒体に慣れ親しんだ人たちが存命のあいだ)くらいはまだまだ新聞だって読まれると思っている。

とはいえそれが「新聞だから」というだけで生き残れるはずもないのは当然のことと言える。いったいに書籍が書籍であるだけでは到底生き残れない(絶版にならずには済まない)のと同様、単に新聞であるからいうだけでいったい誰がそれを読むだろうか。これはなにも書籍や新聞といった紙媒体のものに限った話ではない。たとえ紙媒体であろうと電子媒体であろうと、面白いと思えるものでなければ(読んでみようという興味を喚起できるものでなければ)それが多くの人たちに読まれることはまず無い。現在の状況は一部紙媒体の嘆きほどには電子媒体が優勢というわけではない。むしろ変化はこれからであり、近い将来には媒体が何であろうと読者の好みで媒体が選択されることになるだろう(※1)。

と、このテのハナシはとうにネット上のあちこちで言い尽くされていることではある。たとえばこれとか(TechCrunch日本語版)。しかし一方では、紙媒体に携わっている人たちの、「手間暇かけた記事を書いてもネットに収奪されるばかりでやってらんね〜」みたいな声もちらほら聞こえていて、なかにはわざわざネット上で名の通った(らしい)人物にその主張を代弁(代筆)させているかのようなものもある。たとえばこれとか(「グーグル情報革命の崩壊」 http://news.goo.ne.jp/article/php/business/php-20090817-01.html)(※2)。

インターネット上のポータルサイトが自社(既存の新聞社・通信社)の記事を安値が買いたたいてカスリを取ってるかのような主張(というか泣き言)は、言ってみれば「うちの社の業績が悪いのはライバル社が仕事を掠め取っているからだ」とでも言っているようなもの、「(学校で)俺の成績(順位)が低いのはあいつの成績が良すぎるからだ」とでも言っているようなものではないか。そこには「もしや俺のやること・書くこと、的外れかも」という自省がないように見える。実際、民放テレビ局は言うまでもなく、また全国紙・地方紙問わず新聞社の記事も読むに足りない(一読してそのまま忘却してしまう程度の)記事がほとんどであることは言うまでもない。少なくとも私にとってはそうである。

ではなぜ既存のマスコミの記事に読むべきものが少ないのかということも一考には値するが、ここではネットと既存マスコミとの関係に焦点を絞って考えてみたい。言葉を換えれば、同一内容の記事であるならば新聞ではなくネットで見る(読む)方がマシな理由は何かということだ。その答えは、身も蓋もないようだけど「無料(タダ)だから」の一言に尽きる。今一歩踏み込んで言えば、対価を払ってまで読みたいとは思わないような記事(=情報)は無料で読みたい、読めばいい、ということになろうか。そうした志向がインターネットの普及によって実現したとも言える。つまりあるべき形(適正価格)に戻っただけのことだということである。

実際に新聞を手に取ってみれば分かるように、紙面の5割ないしそれ以上の部分は単なる広告だし、記事にしても一切合切が自分の求めていた情報であるなどということはまずない(私の場合で言えば、切り抜いて保存しておきたい記事が1週間1カ月のうちに多くても二つか三つくらいのもの)。記事の多くは(3面記事を筆頭として)企業官公署のプレスリリースに基づくもので、全紙面を通じてもその中に記者が主体的に取材し検討し分析した跡の見えるものはごく少ない。確かにインターネット普及以前であればそれなりに報道媒体としての価値はあったのかもしれないが、つまるところそれは単にヨリ適当な媒体が無かったからというだけのことに過ぎない。しかしインターネットが広く普及した(しつつある)現状に即して言えば、社会にとって(人々にとって)既に既存マスコミを「媒体」とする必要性はほとんどない。もう少し正確を期して言えば、単なるプレスリリースを既存のマスコミの手で配信してもらう必要性はない、ということだ。単なる「広報」「プレスリリース」程度のものは企業官公署から直接インターネットを通じて広く一般に配信してもらうことは可能であって、そしてそれでもう必要にして十分なのだからいまさら新聞社・テレビ局を通すまでもないことでもあり、ましてそんなことに購読料その他の費用を支出するのは無駄だと言える。

ところで、こうした見方に反論する場合の既存マスコミの常套句は、「大量の情報を毎日さばくことは無理でしょ、情報を整理し・分析し・手元に届けることに新聞社(既存マスコミ)の存在意義があるのだよ」といったもののようだ。これに一理あるとしても、ではその情報が金銭(対価)を支払ってまで読みたいものか・読むべきものかどうかは全く次元の異なったハナシであるし、そもそもその整理(記事の取捨選択)や分析にしてが、既存のマスコミは既にそれを任せてもよいと思わせるだけの社会的信用を失っている。実際のところ、排他的な記者クラブ制度によって役所や企業に囲われ取り込まれ、企業官公署の広報部門の一つになっているかにも見え、つまらぬことに大騒ぎし、報道内容に関して責任を負うことを巧妙に回避し、書いているものに気迫も覚悟も機知もユーモアも感じることの出来ない程度のものしか提供できないマスコミにいったい誰が自身の情報ポータルとしての役割を任せると思うのか、甚だ疑問に思う。そのようなわけで、既存のマスコミはインターネットポータルサイトに搾取され追い込まれているなどとわめく暇に、そこのところをもう一度よく考えてみてはどうかと思うのだが、そうこうするうちに、彼らはますますインターネットに押され追い込まれ、それまで以上に中身のない「水増しコンテンツ」を乱発し、情報としての価値に疑問符のつく愚にもつかない情報を、まるでガマの油売りよろしく「見て見て」「買って買って」とやることで悪循環に嵌りこんでいる。

まだまだPCを充分に使えない人だって多いじゃないかと言う向きもあろうから、デジタルデバイドについて一言つけくわえるとすれば、新聞の購読料1年分でネットブック1台買える時代なんだから、あとは時間の問題だよ、ということくらいだろうか。新聞の再販制度を見直せば購読料3年分くらいになるのかもしれない。しかし仮に新聞の購読料が3割引6割引になっても、コンテンツの質そのものが変わらないなら新聞社のジリ貧は火を見るより明らかだろう。実際、無い方が良いような新聞社はいくらもある。一例を言えば、都道府県毎の新聞。こんなものは必要ない。(※3)

情報は誰のものか。当人のものなり。新聞社でもポータルサイトでもない、媒体ではなくて受信者のものなり。
「情報」についてはいずれ調べてみる予定。深みにハマりそうだけど。
結局、「引かれ者の小唄」ではなくなっちまった。

※1 たしかに現状では、PCをまったく使わない人、使うことを好まない人もまだまだおられるだろうから(実際、宅配新聞の購読者の年齢層は年々高くなっているそうな)、いずれそうしたデジタル(情報)格差は極小化するはずだということでひとまず未来形にしておく。

※2 ここでは、「リンクしない」=「共感できるところが無い」ということ(それどころかその支離滅裂さ加減が奇妙な意図すら想像させる文章なり)。

※3 記事は通信社配信記事か土建屋の設立ウン十周年のお知らせ広告か(密かな)政治的肩入れ記事か高校野球の県勢試合結果か自社イベントの宣伝くらいしか掲載されていなことがほとんどだから、まぁせめて「新聞社」ではなく「過藁版」とでも名乗るべきかと思う。もしそうでないなら存続の余地はあるか。

関連エントリ:(メモ)報道の自由とマスメディアの現状

(追記)
各記事の最下段の表示が乱れてます。そのうち修正します。(修正済)
(追記2)
2009年8月18日午前一部加筆修正

撃ちてし止まむ鬼畜米英、か

  • 2009年05月18日 (月)

・・・敵の侵入を・・・阻止するのは不可能なことだった。・・・受け止めるしかない。政府の備えにぬかりがあろうはずもないし。心の備えにもぬかりがないようにしたい。災禍を少しでも小さなものにするための制限を種々強いられていく。・・・楽しみが制限されるのは初期段階、くらいに思っていたほうがいい。覚悟は長期にわたって試される。

なんとも勇ましく、臣民たちに覚悟を求める名文である。ちなみにこれは昭和16年の開戦直前にとある新聞に掲載された一文・・・・・・ではない。
2009年5月18日朝刊のコラムなり。

これと酷似した文章が、(資料として読んだ)戦前の新聞のどこかにあったかに記憶するが、いわゆる「ソース」は示せない。が、このような文章は或る意味新聞の常套句とは言える。なお、この記事を引用したのは当てこすりを目的としたものではない。ただ、こうした文章が世に出るところに時代の移り変わりを思い知らされたが故のことである。たしかに今回の的は幸か不幸かインフルエンザウイルスであったわけだが、そう遠くないうちに「ウィルス」が別の言葉に置換されて新聞に掲載されることになるのだろう、と、そう思われて、いささかどころかかなりゾッとした2009年5月のある朝であった。杞憂などと言う無かれ。なぜなら当時の人たちもまた、まさか自分たちがあのような憂き目に立ち至るとはまず考えていなかったであろうと思われるからである。結局、時代は変われど中身は変わらず、というか時代が変わったと考える事自体が脳天気に過ぎると言うべきかもしれぬ。根っこのところはまるで変わっていない。

念のためコラムの一部を転載しておくとする。

▼ウイルスの侵入を日本だけが空港などで阻止するのは不可能なことだった。三十数カ国を数えていた感染国の1つに日本もなった。そう受け止めるしかない。政府の備えにぬかりがあろうはずもないし
▼心の備えにもぬかりがないようにしたい。災禍を少しでも小さなものにするための制限を種々強いられていく。スポーツ観戦などで楽しみが制限されるのは初期段階、くらいに思っていたほうがいい。覚悟は長期にわたって試される。

2009/05/18西日本新聞朝刊
で、その晩に見たインターネット上の記事には次のようにあった。
なんじゃそりゃ。

新型インフルエンザの感染者が急増した18日、舛添要一厚生労働相は同省内で記者会見し、政府の専門家諮問委員会から新型インフルエンザは季節性と大きく変わらないとの報告を受けたとして、週内にも対策を切り替える方針を示した。軽症患者の自宅療養などを検討する。
 舛添厚労相は、致死率の高い鳥インフルエンザを前提とした政府の行動計画は実態に合わないとし、「軽めの症状に合わせた形の対応に変えたい」と述べた。
 行動計画は現在の「国内発生早期」段階では、軽症者も含めて患者全員の入院を定めているが、今後は軽症者の自宅療養を認める方向。また、感染の疑いのある人が発熱外来だけでなく通常の病院を受診できるようにすることや、感染者と接した人にタミフルを予防投与する原則の見直しも検討する。 

yahooニュース時事通信

私としても何事につけ予防が大切であることはいちおう理解しているつもりであるが、しかしそれならばだ、「季節性の」「一過的な」対策よりもいっそジャンクフードやコンビニ弁当をでも規制した方がよほど人々の健康のためであり対策ではな・・以下、自粛・・・(するほどのことでもないか)。
インフルエンザには気をつけましょう [棒読み]。

今朝の新聞と広告

  • 2009年03月21日 (土)

今朝の朝刊を読んでいて、広告の量がやけに多いことが気になった。試しに勘定してみたところ、朝刊全体のうちざっと6割方が広告で占められていた(広告なのか記事なのか判然としないものや折り込み広告は除外してのハナシ)。新聞に広告はつきものだろうが、さすがに広告の量が記事のそれを超えると目に立つようになる。
先日、同じ新聞の学芸欄で独逸在住の詩人四元康祐という人が、彼の地の新聞の「濃さ」について触れておられるのを読んで「だよね」と思ったことであったが、日本の新聞の(海外のは読まないから知らない)広告の多さ・記事の金太郎飴ぶりは、当の新聞の価値ではなくその「購読料の」価値を高からしめるものであると思うのであった。
とかなんとか言いながら結構その新聞を毎朝楽しみにしているのもたしかではある。学芸欄くらいだけど。四元さんやスペイン在住の画家らしい堀越千秋さんとかのエッセイやら、考古学者原田大六の評伝記事が最近のお気に入り。
しかし、まあ広告量が(記事量に大して相対的に)増えているということはこの新聞社に限ったことではないだろうし、いずこの新聞社の経営も厳しい状況ということなのであろう。当然のことではある。様々な意味において、媒体が一番(楽して)儲かる時代は終わったのだ。

不作為の罪

  • 2007年12月14日 (金)
  • キーワードタグ: 役人

あれもこれもせねばならぬというとっちらかった状況にちと苛立ちを感じているときは、たいていそのどれもが中途半端になって、墓穴というほどではないにせよ落とし穴を掘ってしまうことになる。そういうことは分かっちゃいるが、泡立ってくる感情を制御するのはなかなか厄介。修行が足りない。おいらのケツもまだまだ青いということだ。

既に前のエントリ「こうやくいかん」で書いたように、「約束したじゃねえかよ」とネチネチ責めることは、問題そのものの解決や再発の防止に毛ほどもよい影響をもたらさないどころかむしろ悪影響すら考えられるのであるからして、じっくり考えて欲しいものだ(他力本願ですまない)。むろん過去数十年に渡って溜め込んできた膨大なゴミの山をあらためて整理しなおしてそれぞれ数千万のグループに分別するということがどれほど困難、いや絶望的なことであるかくらいのことは私にも分かる。したがってデータの云々とは別の次元の解決法も考慮されなければならないのだろう。なにせ積極的な(前向きな)対策といえばそれしかないのだ。データの再整理に関しては、これはもうやり残した夏休みの宿題どころのハナシではない。過去のツケをうやむやにしてしまうはずがどうしたはずみか表面化してしまった。お天道様はだませない、のだ。

いったい社会保険庁は過去数十年間なにを「仕事として」きたのであろうか。

この年金記録問題はどうやら過失によるものではなく不作為の罪というべきだろう。「放っておけばいずれ片がつく」「黙っていればバレはしない」という組織的判断が下されたと考えなないことには理解し難い事件を、大手マスコミは今日まで大臣たちのパフォーマンスやら末端職員の横領事件(そもそも事件化すらされていなかったのだそうだが)というところに、そして「政府与党の公約違反」程度のことに矮小化し続けている。そう、矮小化し続けているのだ。これは私の筆の誤りではないよ。

むろんそれらが取るに足らないことだと言いたいわけではない。ただ、問題はそれだけにとどまらないのではないかと言いたいだけである。問題を先送りし続け、ほっかむりを決め込み、自分たちだけの利を追い求める。自らが果たさねばならぬ責務にはまるで盲自である一方でおのれのちっぽけなプライドとポジションを保つことを基準としてすべてを図ってきた。かりにそれによって他人がどのような悲惨な状況に陥ろうと、あるいは他人に時間的・金銭的・肉体的その他諸々の損失を与えようとも「オレ様の利益に比べればちっぽけなものだーい」と知らず知らずのうちにでも思っているのだと考えなければとても理解不能なことども。ましてこの年金問題は膨大な人間と莫大な金銭が関係している。大騒ぎにならぬほうがむしろ奇妙なくらいのものだ。このような不作為が同庁あるいは厚生労働省だけの特殊例だという証明が決して不可能であるところからかんがみるに、この年金問題以外にも同様の不作為があちらこちらに滞留していないと言うことはできないことになる。現に薬害問題が同時進行中のようだ。これもまた酷いはなしであって思わず拳が固くなる。

今の日本、国じゅうが背信と裏切りとで覆い尽くされている。せめて我が身の周囲だけでもそうしたものとは無縁のものにしたいと強く強く思う。しかしこれもほどほどにしておかねば結局自分自身が怒りに呑み込まれかねない。これには是非気をつけておかねば。なぜなら怒りは無駄に体力を消耗させるから。俺もまた自分だけの利益を考えてるとはたしかに言えるわけだ。

こうやくいかん

  • 2007年12月14日 (金)

もうとっくに視界から消えていた話題がまたぞろわさわさと薮の中から飛び出してきました。年金記録問題のことです。しかしあれです、「ないものはない」「(記録精査は)エンドレスです (=実現不可能だぁ)」とは舛添さんしか言えないでしょうね。いや、舛添さんというよりはタレント議員だけが許される発言。これがフツーの議員さん、まして2世、3世のおぼっちゃま大臣の発言であったら逆風どころか暴風雨になったでしょう。今の日本では本当のことを発言することは「道化師」だけに許されている特権なのでしょうね。ははは。

膨大な年金記録の照合をそもそも半年や一年で解決できないことは分かりきっていたわけですが、就任したばかりの首相にしろ厚生大臣にしろ「どうします?」と問われて「無理です」とはそりゃ言えない。「解決します!」としか言えるはずがない。それをいまさら公約公約違反違反と責めたところで、あまりに白々しいのではないだろうか。なにせ記録の完全照合が無理難題であることは自明のことだったのだから。この問題が明るみに出た当初からそれが遂行不可能なミッションであることを多くの人が指摘していた。私ですら書いた。
(過去記事)「年金記録照合が1年でやれるのか?」
その大意に「やれソース」だ「データ」だ「証明せよ」などと疑い深い現代人向けに(疑い深くて当然だ!)細かい数字をくっつけると次のようになる(毎日新聞と私とは縁もゆかりもないことをあらかじめお断りしておく)。

宙に浮く年金記録約5000万件の内訳(・・・)うち945万件(全体の18.5%)については氏名などの転記ミスがある記録で、相当数は今後手書きの原簿と照合をしても持ち主の特定が困難(・・・)「氏名」「性別」「生年月日」の3条件を、コンピューター上で5095万件の3条件と突き合せているが、まだ5095万件のうち1975万件は条件が一致していない。(・・・)

要するに「やばい、無理かなとは思ってたけどやっぱり無理でした」ということにすぎない。結論は最初から見えており、今回のはなしはそれを数字で表現しただけということだ。当たり前田のクラッカー、延べ2億件近い、それもそのひとつひとつがそもそも怪しげなデータが電子計算機のプログラム如きでどうにかなるものではなかった。

この記事によると3条件では名寄せできないものの内訳は次のようになっている。

▽死亡者の記録とみられる280万件(5.4%)
▽結婚などによる氏名変更510万件(10.0%)
▽氏名の漢字カナ誤変換240万件(4.7%)
▽その他945万件

これにしても死亡・結婚・誤変換であったと判明したのではなく、「たぶんそうじゃないかなぁ」という目星がついたというだけのはなし。数字が並ぶといかにも確からしく見えてしまうものだがそのじつ、上の数字はまるで確かではない。仮説・推測の羅列というだけのことだ。さらに最後の項目945万件とあるが、これなどは「まるででたらめでした」と数字が語っている。

手書き記録を入力する際、社保庁職員が誤った情報を打ち込んだものや、採用条件を満たすため年齢を偽って申請した人の記録などとみられる。こうした記録は原簿と照合しても情報を一致させるのが難しく

これは実際上、難しいのではなく無理だとはっきり言うべきだろうが、不可能であることを「証明することができない」からぼかしているだけと見える。与件がそもそもめちゃくちゃ(「誤り」ではなく「無い」に等しい)なら解決は不可能と言うしかない。

数字が並んでいかにも「調査らしく」見えるけれど、言っていることは単に
  やっぱり全部は無理
  一年以内なんてとんでもない
それだけのこと。

標高10万メートルの山に登ることを厳命された人が大金はたいてちっぽけな酸素ボンベを買い整え、レーザー測距機その他で山の高さを測定して「一年以内に頂上に辿り着きます、ぜったい!」と言ったところで信じる者などいるはずもない。

登りますと言わざるを得ないものをつかまえて登ると言わせ、「やっぱ無理そう」と彼が尻込みしたところで「おまえ登るて言うたやないか、あん」とはそりゃないだろ。

とはいうても、調べます言うたのもあんた、ちゃんと管理するから俺に金あずけなはれ言うたのもあんた。
自業自得。
ほんとに金まだあるんかね? とっくに使いこんだんちゃうのん?

間違いに気づいたら言い訳せんと逃げ道つくらんと「ごめん、まちごうとったわ」言わんとさ、あとが苦しゅうなるもんな。あれこれ小細工四の五の言い訳、たいへんよ。無駄な労力神経使うて得るもんはまるでなし。
「すまん」と言うてきっちり後始末、それでええんじゃなかろか。

さすがはATOK、賢いなあ・・・。買って良かった。
お、タイトルだけが「浮いて」しまった。膏薬と公約をね、「マッチング」させる予定だったのだが。。。

意識朦朧布団屁轟。

徴税人と罪人とパリサイ人

  • 2007年11月28日 (水)

痛ましい事件や事故、不祥事は絶えない。人類の歴史がそうしたものとは縁を切れないのは事実そのとおりなのだろう。ただ、近年ではやれ報道の自由だとか言論の自由だとか知る権利だとかなんとかかんとかその他諸々を理由にした正当なる覗き見、権利を有する野次馬が胸を張って大道を闊歩しているようにも見える。

事件事故について広く報知して再発を防ぐとかいうお題目もあるのだろう。しかしもしそうであるならば、個々の事件の個別的な事情、たとえば被害者の実名やら生活状況やらご近所の評判やらがいったい何の役に立つのか私には分からない。犯罪の手口、予防の方法、犯してしまいがちな過ちの啓発等々、知らしべきことは他にたくさんあるような気がするのだが、実際の報道に接してみるとそのようなものは二の次どころか五の次、六の次といった風だ。

マスメディアという業種はいったいどのような価値をわたしたちの社会にもたらしているのだろうか。むろん犯人の映像が公開され広く報道された結果事件が解決したということはあるのだろうが、その対価はあまりにも莫大なものに思える。

また、マスメディアは常に事件を探し、紙面を埋める草々を血眼で探している。大事件が起こったときは幸い、そうでなければやれ消費期限シールの張り替えだ、FAX誤送信だ、公務員が勤務中に煙草買いに出たなんてことばかり。その暇に、喧嘩に明け暮れる○暴事務所を包囲して24時間生中継でもすればちったあ役にも立つだろうに。実際のところは「たいへんだ~!、たいへんだ~!」そればかり。それのみ。○暴に限らず巨悪にはいたって盲目。てか見ないふり。

「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」

マタイによる福音書23.24
およそマスコミの「追及」とやらは組織に甘く個人に厳しい。そしてその眼、すなわち事実を見抜こうとしているはずの眼は曇りがちだ。昨今目につくのは消費財産業、公務員の不祥事に関する定型記事。「偽装」「不祥事」「期限切れ」。権力の番人、権力の掣肘者というよりはうるさ型の道学者もどきというところ。むしろ組織的な不祥事に関しては弱腰ないしは無力。組織体のそこここからハミ出したちっぽけな吹き出物に眼を奪われて、群盲象を撫でている。

「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子(イエスのことを指す:引用者注)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

同 11.16-19
あいつは徴税人だ、罪人だ、不信心者だと罵るばかりで我が身を省みることもないパリサイ人と彼らマスコミの方々とが異なるものなのか些か疑わしい。そうでないことを示してくれよ。不幸にも犯罪に巻き込まれた人や家族はそっとしてやれないものか。

バイブルがこれほど面白く読めたことは未だかつてなかった。さて、読むか。

正義の味方と正義

  • 2007年09月20日 (木)

ひところ秋の気配を感じて以来いささか油断していたせいかここ数日の暑さに足元を掬われた気分。日は短くなり陽射しもなんとなく鈍っているように思うのだが、暑いものは暑い。まだ夜の9時にもならんのにウトウト。

ついさっきまで死んだ魚のような眼でNHKの「クローズアップ現代」を見ていた。お題はサブプライムローン。信用度の低い人たち向けに高金利で貸し付けてハイリスクハイリターンを狙うのであるからコケるときはコケるわな、そりゃ。

当世、紳士然とした「じつは、高利貸し」はそこここにいるようだ。彼らと「文字どおりの高利貸し」(テレビとか映画に出てくるような悪相たち)の違いを探せばそれは債権回収手法の違いくらいといえよう。そして共通点はなにか。「借りた金は返さなあかんでしょ!」。これが金貸しの「正義」であるらしい。

正義といえば、TVA日の鹿爪小僧フルタチ1ロウは相変わらずシカツメらしいツラをさらしているのだろうか。私は7月の参議院選挙直前にチラとあれを見て以来アレを見ていない。見たくもないが。あの面もどうやら「正義」の匂いがする。

「ご利用は計画的に!」
「ワタクシは視聴者の皆様方の味方ですぅ!」

「おれたちゃ市民の代弁者なんだよ、オラ、分かってっか、コラ!」
「借りた金は返さなあかんだろが、あ」

二つ(三つ、四つ)の顔をその場その時次第で使い分ける連中というわけ。

貸し付けるときはエビス顔、取り立てるときは鬼の顔。

1ロウ君がどれほどテレビでもっともらしいことを喋ったとしても、彼の全身から滲みでているカメレオン臭が彼の「正論」を全て無効化していることに彼はいったいいつになったら気づくのだろうか。久米ヒロシの後を引き継いだばかりのころは、「ま、プレッシャー感じてんのかな」くらいに思っていたがその後もずうっとあの調子だったので「ああ、この人は猿だったのね」と気付いた次第。前任者の表面的なスタイルだけを猿真似するばかり。仏作って魂入れず(違うな)。

1ロウ君に限ったことでもないのかもしれないが、マスコミ連中はどうしてあんなに「正義の味方」ヅラ出来るのか私は不思議でしょうがない。それとも自分こそが「正義そのもの」なんて思ってんじゃないの?ま、そりゃ言い過ぎか。

良き法律家は悪しき隣人である、なんて言葉もあるが、それはともかくとしても自称正義の味方は間違いなく悪しき隣人である。「正義の味方」を自認したとき、その者は「正義」そのものになる。

しばし遠吠えをさせていただく。

正義は決して過たない。
正義は常に正しい。
無謬の存在こそ正義なり。
そしてまた、人間は決して無謬性を手にできない。

そして人間たちはしばしばそのような無謬性を備えた存在を「神」と呼ぶ。

「私は決して過たない」とは不遜な人間のみが語り得る言葉である。

これは個人に限らず組織にもあてはまる。
そもそも完全ならぬ人間の作った「不完全な組織」なぞが無謬でいられるはずはない。

では人間は「完全な組織」を作り得るのか。「完全無欠の組織」すなわち無謬性を備えた組織を作れるのか。それは、無理だ。

なぜなら万一にもそれが完成したとすればそれ(組織)が人間を越えた存在、無謬の存在、すなわち神となることになるからである。

結局、人間が無謬ではおれない以上、人間が作ったいかなる組織も無謬ではあり得ない。

したがって人間に残された手段は過ちを認め、そしてそれを改善することだけである。たとえそれが終わりのないシジフォスの労役であるとしても、それだけが人間に残された道である。

人間が作り出したさまざまな組織の打ち、とりわけ官庁組織は無謬性(常に過たないこと)を指向する。そしてそれは市民・国民の要請でもある。

しかし現実には、先に述べた如く無謬の組織であることは不可能である。重ねて言うが、組織にせよ人間せよ神になることはできない。そこには理想と現実との乖離がある。どれほど努力を傾けても埋め尽くすことの出来ないクレバスがある。

ところで、官庁の中でもとりわけ無謬性を要請する(される)のが警察という組織である。もちろんこれは当然の要請ではある。それというのも、生命・自由・財産の保護という人間の持つ権利のうちでも最も重要なものにかかわる組織であり、そしてまた(法的にはともかく)人々の自由・名誉・人生そのものをも左右する権能を有するという現実があり、ゆえにこれに対して無謬性を求めるのは人々にとってきわめて自然な感情といえる。

しかし、もちろんそれはかなえられることのない要請でもある。なぜならこの世に無謬の組織は存在しないからである。

しかし、決して実現することのできない「無謬への要請」に応える簡単な方法が実はある。「実はある」などと賢しらな言葉を書いてみたが「その実」なんでもないことだ。それは過ちを断固として認めないという道である。そしてこの方法は官庁、とりわけ捜査機関にとってははるかに通りやすい道である。

そして、この道を選んだ警察・捜査機関は「正義の味方」ならぬ「正義そのもの」すなわち(形式的なものではあれ)無謬の存在となる。

もちろんそれが「嘘」であることは大人であれば(誰でも)知っている。が、また多くの人が捜査機関の無謬性への願望をおそらく無意識のうちに現実のものとして見ようとしている。見たがっている。それは当然の願望なのだ。

「他の官庁の決めたことにコメントする必要はない」

神を目指す組織は他人どもの言うことにわずらわされるつもりはないらしい。たとえその「他人」がもう一人の神であっても。

神は一人だけでよい。

彼らはそう言っているのか。

オォーン

と、遠吠えはここまで。
書いているうちに長くなった。

ま、「正義の味方」はありがたい存在だが、自ら「正義の味方」を名乗る奴の中味は、まず間違いなくその言葉とは正反対のものと思ってよい。彼らは「おれは正義の味方だ」という言葉によって「おれが正義だ」と漏らしているのだ。

仮面ライダーも月光仮面も決して自らを「正義の味方」などと自称しない(違う?)。それを言うのはナレーターだったでしょ?ほんとうに正義の味方と呼んで差し支えないような存在は、自らのことを「正義の味方である」とも「おれが正義だ」とも、まず言わない(はず)。正義の味方は、悪を打ち倒しやるべきことやったあとは無言のまま(ときには弱き者に優しい言葉の一つもかけて)颯爽と立ち去るのみ。

この世に「正義」は存在しない。
正義の味方は一人称では語れない。

おう!なにがわるいんでぇ

  • 2007年07月18日 (水)

学力テスト 校長、教員らが誤答指摘の不正 東京・足立区(毎日新聞)

足立の区立小の学力調査不正 学校ぐるみ認める(産経新聞)

校長、学力テスト中の児童に指で正答教える…東京・足立区(読売新聞)

アホくせぇ。
なにがってか?
タイトルがさ。
答えを指で教えようが口で教えようがどうでもいいやんか。ナニで教えたっつんならニュースにもなろうがね。
「聖職者」たるオセンセイたちがなにゆえこのような愚行をしたのか、その背景を含めて報道するだけの見識はやはりマスコミの方々には期待できぬようだ。

数が全て
競争原理万能
成績至上

あほちゃうか。
もしもおれが教師で、定期試験程度の内輪のテストなら多分やりかねんよ。「指差し」確認。出発しんこ~。
問題は「指差し」か?「誤答を示したことか」?バカ言うなよ。本気で言ってんのカネ?正義の味方?そうやって教育ぶちこわしつつ「教育改革」唱えるのか?あ!?

産経抄7月15日付 [キャッシュ]
厳罰化礼讃記事。
厳罰化の副作用をいやというほど目にしているはずの報道人にしてこれだ。それによる副作用っつのは彼らの頭に浮ぶのか?他人の不幸で飯食ってる人間にとっては厳罰化が目出度かろう。ネタに困らんしな。
ってか、サンケイだし。政府万歳!!

ドイツ男性、窓からパソコン落下もおとがめ無し(yahoo news ロイター)[キャッシュ]

パソコン操作にいらついた男が窓からPC放り投げ。やるなあ。
四六時中わけのわからん騒音溢れる日本とその点厳格なドイツの違いを頭に入れて読めば、「誰にでもそう感じた経験があるのでは」としてお咎めなしというドイツ警察の対応はなかなか気が利いてるのでは?日本の役所が同じこと言ったらどうなることやら。

ほんと日本はうるさい。やれ白線の内側に・・お子様連れの・・危険ですから・・選挙カー街宣車・・・キリ無し。落ち着いてモノ考えるのなんかムリじゃっちゅうーに。知性つーのはたぶん脳みそやなし環境から生まれるんじゃないの?てか必要条件だよ。

上のとちょいと似てるのがこれ。

独バス運転手、胸元の開いた女性乗客に降車を要求(yahoo news ロイター)

まあ元ネタはBild紙(18禁?)ではあるが・・・。これまた日本ならバス会社はへいつくばって謝罪、だろな。

そんなニュースばかりが目に留まる。
『これでいいのだ』のなかの赤塚不二夫・立川談志ぶっちゃけ禁句トークがやけに身に染みる。面白いってよりも今の笑いの欠けた世相を思って厭世的になっちゃったよ・・・。もう嘘くさい正論にはうんざり。どうせ正論吐くならもっと身に付いた(恥を知った上での)正論吐いてみろぃ、バカヤロウどもが!!!

などと書き込んで少しスッキリ。(しないよ)
ああ、活字に飢えてる。偽装モンばっか溢れってからな、ほんものが欲しい!

などと他所に求めちゃいかんよな。
がんばろ。

(メモ)報道の自由とマスメディアの現状

  • 2007年03月08日 (木)

何か事あるごとに「報道の自由」を唱えるマスメディア。
報道の自由そのものに異論のある人は少なかろうが、では実際に既存のマスメディアがそれを担える存在なのかという点については疑問を呈する方々は意外なほど多い。

毎日々々発行するの紙面を埋めるためには新しいニュースが必要だ。紙面に穴は開けられない。そうしたマスメディアが陥りがちな落とし穴については明治期の渋川玄耳もとうに指摘しているところだが、現状を見る限り、100年近く経った今でもその状況は大きく変わってはいないようだ。

既存メディアの多くは、既に周知の如く「ジャーナリスト」というよりもむしろ「ニュース配信会社」と言った方がヨリ実態に近い。ジャーナリストであれば真実を追求することが主目的となろうが、配信会社となれば情報の真偽は問題にならない。少なくとも消費者が欲しがるか我慢できる程度の内容であればよい。
少し視点を変えて言えば、ジャーナリストは伝えるべきニュースがないときは寝ているか自前の小説原稿でも書いてのんびりしていればいいのに対して、配信会社は一種の仲介業であるから動かす商品がなければ営業に支障がある(というよりおはなしにならない)。つまりは常に動いていなければ死んでしまうマグロのような大型魚というわけである(絶滅危惧種ということか?)。

そうした「配信会社」にとってお役所は大事な大事な大口取引先である。しかも仕入れ値はタダ、情報を貰いに行く丁稚(当人はおうおうにしてジャーナリストを自称)には控え室が与えられ、費用はすべてお役所持ち(ただし控え室の使用権はプレミアムつき。誰もが貰えるものではない)。「会社」である以上は有利な取引先を歓迎するのは当然のことであって誰からも非難される筋はない。マスメディアは堂々と営業に励んでよいと思われる。

ただし、である。
そうした配信会社が「報道の自由」を騙ることは許されないだろう。報道の自由は決してマスメディアに与えられた利権ではない。

もちろんそんなことを知らないはずのないマスメディアの中で働く人びとだって、生活のためにやむなく報道の自由を持ち出すのだ。仕方がないのだ(たぶん)。しかし、いやな言葉だね。「仕方がない」。

以下、マスメディアの現状の一端を示す資料をここに掲げておく。
これはマスメディアの苦しい現状を如実に示す格好の資料だと思われる。
いずれこれらの資料をふまえて、マスメディアについて稿を改めて書いてみるつもりだ。

果たして、日常の取材活動の現場、メディアの内部で「権力監視はジャ-ナリズムの根源的使命」という命題が実践されているのだろうか。
私は、そのことこそもっと指摘されるべきではないのか、と素朴な疑問を持ったのである。
(中略)
私が、驚いたのは、こうした取材班の記者たちの取材に対するあからさまな差別や圧力に対し、記者クラブの他社の記者たちが、見て見ぬ振りをしたことだ。それは、日本新聞協会が言う「記者クラブは、記者個人としての活動を前提としながら『記者たちの共同した力』を発揮するべき組織である」とは、余りにもかけ離れている。
それどころか、「道新さんは酷いですよね。うちは絶対あんなことは書きません」などと道新の報道を批判して、広報課の幹部に擦り寄っていった他社の記者までいたという。(中略)
新聞社が単なる“株式会社”に過ぎないのなら、記者もただのサラリーマンになるのは当たり前で、何の不思議もない。彼らは、この問題で騒ぎたてても何の得にもならない、と判断しているのだろう。
警察組織とは違って新聞社は「言論の自由」を叫ぶ組織である。労働組合もある。社内からモット声が上るのではないかと思っていた。しかし、そんなこともなかった。

「明るい警察を実現する全国ネットワーク」

「遅刻は地獄へ直行と掲示」の新聞記事を読む

  • 2007年03月01日 (木)

最近、各新聞社がメディアリテラシーの重要性を仰ることが多いようなので、私も微力を尽くして協力させていただこうと思い立つ。
以下、「遅刻多い生徒「地獄へ直行」…中学廊下に名前掲示欄」(yahoo news読売)
より引用させていただき、記事の読み方の一例を示してみたい。

(よみ方)
世の小中学生の皆さん、文章(ぶんしょう)を読むときには行間(ぎょうかん)を読むことが大切です。以下、筆者なりに行間を読んでそれを空欄(かっこ)の中に入れています。参考にしてくださいね。

【引用開始】
教諭(48)が昨年9月~12月、「イエローカード」から「地獄へ直行」まで5段階の文言を書いた模造紙を廊下に張り、遅刻回数に応じて生徒の名前を張り付けていたことが28日、分かった。(ふっふっふっカモだぜ)

同校によると、模造紙には、ほかに「レッドカード」「家庭にTEL」「校長先生と面談」と書かれ、生徒の名前は付せんで張られていた。(付箋の”せん”ってどんな字だったっけなぁ、使わないから忘れちゃったぜ)

渡辺校長は10月ごろ、掲示に気づいたが、「教諭と生徒の関係がうまくいっていた」として放置(ホーチだぜ!!ホーチ。ニュアンス読めよ、おまいら)。しかし、11月上旬、文部科学省職員が視察に訪れた際には外させた(それってさぁ、掲示がマズイって”認識”してたんじゃないわけぇ?どうよ?ねえ、どうよ)。視察後、この教諭は再び模造紙を張り出し(悪質だろ、おい)、12月末になって、他の教職員から疑問の声が強まったこともあって(ま、他のっても一人なんだけどさ。他はほかでしょーよ。嘘じゃないし)外された。撤去時には7、8人の名前が張られていたが、この間、「地獄へ直行」に張られた生徒はいなかったという。ま、いちおう客観報道の体裁はつくっとりまっせ。ほんとはさ、地獄行きがいてくれたらよかったんだがね、残念だ。無念)
【引用終わり】
いかがでしょうか。これはあくまでも一例です。
ぜひ新聞を読みましょうね。

あなた自身がいろいろな新聞記事から読み取ったニュアンスは決して間違いではないのかもしれませんよ。新聞に書かれていないからってそれがないわけではないし、新聞に書かれているからってそれが真実かどうかは分かりません。

まずは実際に自分で読み、そして自分の目で見ること、自分が行動すること。そして結果をフィードバック(反省といったほうが分かりやすいかな)すること。

真実というものは誰かから与え、教えてもらえるものではないと筆者は思っています。この筆者の考えが正しいか間違っているか、あなた自身がこれから生きていく中で確かめてみてください。私自身、死ぬまでそれを確かめ、検算し続けてゆくつもりです。

追伸
世の若者たちのために読売新聞の記事を引用させていただいた。感謝したい。必要ならばいつでもこのエントリの削除に応じる所存だ。

(2007/04/25追記)
「「地獄へ直行」教諭処分せず」(goo朝日)

生徒らからは市教委に「先生を責めないで」といった電子メールが寄せられていた

新聞社様、JTタバコ好きが投票して何か問題でも?

  • 2007年02月15日 (木)

ひところ政府機関主催のなんとかミーティングとやらに公務員やマスコミ関係者が動員されていたことが問題化しましたけれど、あれって組織が構成員を「動員」するところに問題の本質があったのではないと私は思っていますが・・・。

町役場のお役人が労働組合活動をやって何か問題でも?
私企業が街頭で新製品の宣伝活動やって何か問題でも?
日本の農家が農産物輸入拡大に反対して何か問題でも?
タバコ会社の社員が禁煙運動に反対して何か問題でも?

「JTが「禁煙反対」の組織票、ネットアンケに社員動員」(yahoo news)

公共の場所を全面禁煙にする全国初となる条例の制定について賛否を問うインターネット・アンケートで、日本たばこ産業(JT、東京都港区)が社員を動員し反対の“投票”をさせていたことが14日、わかった。

ご丁寧に「投票」の文字にカッコ(””)つけてらっしゃいますが、なにか仰りたいことがあるのでしょうか、新聞社様?。

もし上記の件についてあえて誰かを責めるとすれば、それはタバコ会社ではないでしょう。インターネットという、不特定多数の人間が閲覧でき、投票に参加できるチャンネルを通じてアンケートを採ることの利害得失を考慮することなく、漫然と(?)アンケートを実施した当該自治体を責めるほうが理にかなってませんか?(私自身はそんなチンケなことは言わないつもりだが)

もっとも当該自治体は、あるいは上記のような事態(当然の反応)が生じることを想定した上で、「それでもかまわないよ」ということでネットアンケートを実施したのかもしれませんが。

べつに「動員」することが問題ではないでしょうに。
タバコ会社が社員個々の意思を無視し、雇用者としての立場を利用してそうした行為を強制したのであれば話はべつでしょうが。わたしなどは、タバコ会社の社員がそうしたアンケートに「No」と答えるのはきわめて自然な回答、ある意味で必然だと思うが。
アンケートの回答者数4047名。そのうちJT社員が何名か知らないけれど、JTの連結総従業員数が3万1千人超ということからしても「想定の範囲内」(最近の記者さん、この言葉好きでしょ?)だと思えるのだが。

不当に自社の利益を図ったと疑われるような行為は慎むべき?

それはそうかもしれない。時と場合によってはね。

しかし、もしも
「誤報を為したら裁判抜きで賠償金を支払うべきではないか?」
というアンケートを政府が行ったら、マスコミは総力を結集して反対投票しませんか?

すくなくとも誤報の被害者を救うことに反対するひとはいないよ。禁煙に反対する人がいないのと同様にね(禁煙できない私のような喫煙者だって「禁煙そのもの」が悪だとはけっして言わない)。それでも「誤報は即賠償・謝罪」となったらマスコミは決して黙ってはいまいし、それは当然だろう。

Y新聞社がこのような出来事をさもタバコ会社を非難するかのような記事を漫然と、「また動員やってるよ~、とんでもないでしょ、みなさん」という意図のみが透けて見えるかたちで載せたとするならば、そうした新聞社の体質こそがヘンだということを自省してはどうだろう。

「そうした(動員という)事実があることを報じただけだ」
とあなたがたは言うかもしれない。

しかし自分たちが発した報道がなんらかの影響力を持つと信じるがゆえにあなたがたはペンを執っているのではないのか。自分たちの報道が世論にどのような影響をもたらすのかを自覚しない報道人などがもし存在するとするならば、呆れるしかないね。

強いて言えば、新聞社が再販制度維持のために政治家を使うことのほうがよほど大問題だと私は思うよ。

再販制度が議論の的であった頃、自分たちの主張ばかりを紙面に掲載していたのはどこの誰れであったかお忘れなのでしょうか。再販制度の適用除外廃止が新聞社にどれほど打撃を与えるのかを必死になって読者に訴えていたのではなかったですか?あなた方。

もちろん、タバコそのものの是非はまた別問題。
最近とみに旗色悪いんだよね、喫煙・・・。

タバコ吸って何がわるいんだよ!!
そんなにタバコが憎けりゃ法律で禁止しちまえ。

などと言ってしまうといまどき本当にタバコ取締法でも作られてしまいそうでタバコのみのわたしは戦々恐々・・・。いや、たしかに体に毒だよ。医療費無駄遣いを誘発してるかも。環境破壊に手を貸してるかも・・・。

んなことはさておいても、味噌もクソもその時の勢いでいっしょくたにかき混ぜるようなことはやめませんか??尻馬にのる阿呆はそのうち馬もろとも谷底行きですぜ。

喫煙者がタバコやめるときゃ、つまらん新聞も発行停止といきましょう、ごいっしょに。

資源の無駄づかいはやめましょう。

ヤクザ化したマスメディア

  • 2007年02月10日 (土)

ああ、今日もまた事件事故の記事が満載だこと。
○○電鉄社員が・・・・・、何とか市職員がまた飲酒運転・・・・・・、元土木部長が収賄・・・・・・。
最近の報道記事のタイトルには有名企業や役所の固有名が目につく。
「また」って言うけどあなたね
同一人物ではなかろうに。
勤務先が同じっていうだけでまるで常習犯のようにいわれる人はおそらく「運が悪かったね」ということなのか。

ありふれた事件。あまりにもありふれた事件をさも報道する価値があるかのように見せかけるためにとられる方法はただ一つ。その事件の当事者が何者なのかという点にのみ着目しそれだけを掘り下げるのだ。「今回の生け贄はこの人!」ってなもんである。つまるところ現代の三面記事のニュースとやらは、その事件の犯人の所属がどこぞの大企業でありあるいは官庁なのかという点にのみその記事独自の意味を持ちうる。だって事件事故そのものはもう人びとがいやというほど見聞きしてきたことばかりなのだから。「ああ、またかよ。んで今回はどんな奴が?」「え~!?あの人がそんなこと??しんじらんな~い!!!」

犯人が、あるいは被害者が如何にも意外性のある人物であればあるだけ、あるいは”落とし甲斐のある”著名人・公人・職業であればあるほど「ニューズバリュー」は高騰する。逆にいえば、「誰れが」ということ以外にはもうニュースとしての価値が見出せないのだ。そうしてマスコミは有名企業・官庁のスキャンダルを鵜の目鷹の目で捜索し、創作している。名のある企業・団体であればあるほど戦々恐々とせざるを得まい。

それにひきかえ、ゴキブリの絶えない場末の食堂の店主が飲酒運転で逮捕されようともたいしたニュースにならないだろう?。暴力団の抗争をその構成員一人一人の生い立ちにさかのぼって暴き出し断罪するようなヒマなマスコミなどないだろう?

記事のタイトルに並ぶ大企業・官庁の名称をつらつら眺めながら、とうとう新聞も恐喝なんぞを稼業とするチンケなチンピラになりさがったかという感慨にふける。

今も昔もそうだったのかもしれないが・・・・。

しかしね、そんなことでシノいでいけるマスコミにとっては結構なことかもしれないが、社会全体にとっては有害無益このうえないものと私には見えているのだがね・・・・。

せめて正義の味方ヅラはやめてはいかがかな。

忘れられた国際ジャーナリスト、河上清

  • 2007年02月04日 (日)

読了。

明治生まれのジャーナリストK.K.カワカミこと河上清の評伝。鶴見俊輔の『日米交換船』の中で触れられていた「K.K.カワカミ」の名に興味を覚えて読んでみました。

明治6年、米沢で生まれた河上清。幼名宮下雄七。戊辰戦争で朝敵とされた没落士族が再び這い上がるために残された道は学問のみ。貧しい一族の期待を担って中学に進学、さらに上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。

いっぽう東京法学院時代に田島錦治と師弟関係を越えた親交を結び、次第に社会主義思想に惹かれていく。彼ののちの筆名キヨシ・カール・カワカミはマルクスのファーストネームからとられた。雑誌や新聞への原稿持込みの苦労を経て、「マムシの周六」とも呼ばれた萬朝報社長黒岩周六(黒岩涙香)に認められ若くして萬朝報の論説委員となる(当時の萬朝報には幸徳伝次郎(秋水)堺利彦(枯川)円城寺清(天山)内藤虎次郎(湖南)、斉藤賢(緑雨)ら錚々たるメンバーが在籍)。

1898年には安部磯雄片山潜杉村楚人冠、幸徳秋水らとともに社会主義研究会を結成。彼らの多くはアメリカ留学経験をもち、その思想的バックボーンが主にキリスト教思想であったことは、のちの河上の渡米決意に影響を与えたであろう。この研究会はこのあと社会主義協会(1900)、社会民主党(1901)へと発展していくが、日本初の社会主義政党となった社会民主党は結党の翌々日、治安警察法に基づいて解散させられることになる(おそらく河上自身のこうした行動は天皇制の否定やアナーキズムなどといった過激な信条から発したものではなく、当時の日本で問題化しつつあった社会問題・労働問題への真摯な取り組みであったようです)。
また、河上が怪しげな思想にかぶれているとの評判が郷里にまで届き、警察が聴取に来たとの実家の兄の不安げな言葉を聞かされた河上は、ようやく年来の願望でもあった渡米を決意する。社会民主党解散命令のわずか2ヶ月後、河上はアメリカへ旅立った。

アイオワ大学政治学部やウィスコンシン州立大学で学び始めた河上は、文字通り一歩離れた地点(太平洋の向う側)から日本の近代政治を捉え直しつつフリージャーナリストK.K.カワカミとして、徐々にではあるがアメリカの言論界に地歩を固めていく。日露戦争、第一次大戦にあたっては、アメリカの世論に向けた日本の利益代弁者としてのカワカミの論説が各紙に掲載され、彼の筆名は全米に知られることになる。ところが戦後のワシントン体制とその崩壊、満州事変から日中戦争にともなう日米関係の険悪化という事態を前にして、一ジャーナリストの「ペンの力」は蟷螂の斧と化す。

カワカミによる日米関係関係改善に向けた必死の努力は1941年12月7日の真珠湾攻撃によって無に帰する。その日のうちに「特に危険な敵性外国人」としてFBIに拘束されたカワカミの書いた記事を掲載するメディアなどもはやなかった。おまけに開戦直前まで日本を擁護し続けたことから、彼の言論活動は日本政府の宣伝工作だったのではないかとの嫌疑すら生じる。

こうしてすべての仕事を失ったカワカミには残された選択肢は限られていた。たしかに、息子クラークの妻である竹久千恵子とともに日米交換船で帰国するという選択肢が残されてはいた。しかしかつて「アカ」として半ば追われるように故国を後にしたカワカミにとって日本はあまりにも「遠い」祖国だった。もし帰国すれば社会主義者として、またそのままアメリカに残っても敵国人として彼は疎外される運命にあった。
そして彼は敵国人としてあることを選びとった。

その後、戦争半ばにしてアメリカから故国日本へ激しい非難を浴びせはじめたカワカミを、日本人は転向者、裏切り者と見なし、かつアメリカ人は彼を風見鶏ジャーナリストとして疎んじた。カワカミはワシントンD.C.で終戦を迎え、1949年に失意のまま同地で没した。

おそらく河上にとって唯一の救いは、死の直前に日本で出版した『米ソ戦わば?』が日本人読者に好評とともに迎えられたことであったろうと思います。

「憲法も民主主義も自由主義も、国家という大木の樹根ではなく、枝であり花である。いまの日本の急務は皮相なデモクラシーに走らず、国士の意気を養うにある。この意気と自由民権の思想とが結合したところに真のデモクラシーがうちたてられるのだ」

「国民の心に道義、敬神、愛国、博愛、節操、謙譲の信念がなければ、それは亡国である。自分一個の利害得失に没頭せず、隣人や社会全体を考慮する。財政、経済、貿易、生産などは日本の大問題に相違ないが、根本の問題は国民の精神である」

このような彼の論は一見すると、愛国心や公共心を説く昨今の日本の政治家の論と似ているとも言えるかもしれませんが、河上の用いる愛国や敬神という前時代的な言葉からは強烈な人間愛(決してそれは”日本人にのみ”向けられたものではない)が発しているという点で昨今の日本人政治家の言葉とは甚だしい隔たりが存在するように思えます。

一部には河上のことを転向者だとか日和見だとか非難する見方もあるようですが、すくなくともこの本を読む限りでは彼はイデオロギストでも風見鶏でもないという気がします。

彼はあくまでも自分のつるべで思想と言葉を汲み出した。
井戸の底にはつねに水が湛えられているのだ。しかしいったん汲み出された水は、それがたまたま厳冬の時期には凍りつき、また暖かい季節にはひとびとの喉を潤す。水は常に「水」だ。

おそらく河上は、昨今の、「歴史と伝統の尊重と愛国心の涵養」という、それ自体は美しい言葉をまるで根のない「イデオロギー」として唱える人びとよりもよほど愛国者でありヒューマニストであったろうというのが私の感想です。

ついでながら、欧米列強の脅威に対してアジア諸国が団結してこれに対抗するという河上のアジア主義の原点となったのは、彼が15歳の時に読んだ東海散士こと柴四朗の「佳人之奇遇」であったとのこと。

柴四朗、どこかで見たような名前だなと思って調べたところ、あの柴五朗の兄だということでした。柴兄弟、河上清、星一(星新一の父)などのことを知るにつけ、薩長閥に牛耳られた明治という時代の特質を感じずにはおれません。

そんなことを考えながら星新一の『城のなかの人』という時代小説集を読んでいると、「維新の志士えらい」「薩長閥、なにか問題でも?」などという一般的イメージ(司馬史観?)への星の反発(というか抵抗というか・・・)が感じられる気がします。
それはそうと星新一、小さい頃に杉村楚人冠を愛読していたとどこかに書いてたなぁ。

(2007年2月6日一部改稿)

嵐に書く―日米の半世紀を生きたジャーナリストの記録
古森 義久
入手不可

(補足)富山冤罪報道へのツッコミ

  • 2007年01月22日 (月)

一晩あけて昨日のエントリーを読み返す。
滑ってるね、筆が。どうも意を尽くせていない。酔っていたわけでもないのだが。
マスコミに辛く権力に甘い文にも読める気がする。そう読んで頂いてももちろん構わない。警察批判なんてわたしがやるまでもなくもっと気の利いた人たちがやってくれるのはわかってるので。

<犯罪警官>警察の匿名発表相次ぐ…身内に甘い体質に批判

身内に甘い体質に批判が出ている。

自分の言葉で語れない語らない「報道」の典型例。

自分の言葉は自分のものとして、他人の言葉は他人のものとして書けばよかろうに。「客観的らしき」言説、「中立を装った」記事は「主観的」「自分を出した」記事よりもよほど罪深い。たまには、「私は批判する!」とはっきり書いてみてはどうだろう。偏屈な私には上のような記事がなんだか「ね、ね、あの先生がね、言ってたよ~、ね、おかしいでしょ、みんなで批判しよ~よ、ね」みたいに読めてしまって具合が悪い。ま、もっともストレートに警察批判のできない記者の手になる精一杯の警察批判とよめなくもないわな・・・。

そういう私だって別段大した人間ではない。むしろ偏屈でネチネチしてて言ってることがまどろっこしくて言ってることがコロコロ変わる性格の悪い人間だ。言い訳させてもらえれば、日頃ここで書いているようなことを日常生活の場では吐き出すことがない、出来そうにないからこそこうして書くのだ。日頃喋っていることと同じ内容をまたわざわざ書くほど余裕のある人間ではない(日頃他人様に聞いていただけるほどのことを話していないとも言えるが)。

私は常に「是々非々」でいきたい。ときところによって言うこと書くことが矛盾しているように見られても一向構わない。態度の一貫性よりも大切にしたいモノがあるのだ。以前マスコミを「コウモリだ」と悪罵したが、私だってじつはコウモリなのだ。その自覚はある。そして自分がコウモリ的存在から脱却したいがために勉強をつづけるのだ。
ついでに言えば、私は「常に正しい言葉」というものの存在には懐疑的だ。そもそも「正しい言葉」などというのが奇妙だし。それについてはまたいずれ。
(なんだかまた滑っちゃっいました・・・)

メディアリテラシー

  • 2006年12月14日 (木)

内田樹『他者と死者』を読みつつ、ふとメディア・リテラシーについて考え始める。

私たちはテクストを読むことを通じて、テクストを読める能力(リテラシー)を身につける。テクスト抜きのリテラシーも、リテラシー抜きの意味も存在しない。読みというのは、その意味でほんらい「交話的」「対話的」なもの・・・

内田樹『他者と死者 〜ラカンによるレヴィナス』海鳥社 2004

メディア・リテラシーとは何かをネット上(だけ)で確かめてみる。

  1. 情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力。メディアの特性や利用方法を理解し、適切な手段で自分の考えを他者に伝達し、あるいは、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力のこと。(w-words
  2. 情報およびその周辺に対する読み書き(処理)能力、の意。メディア・リテラシー。広義には「携帯電話やインターネットの使い方」という、ハード・ソフト両面でのマニュアルあるいはルール・マナーの認識も含まれるが、一般的にはマス・メディア(TV・新聞・雑誌)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われることが多い。(はてなダイアリー
  3. 情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。(wikipedia日本語版)

私自身の感覚からすると3.が一番分かりやすい(私自身の理解に近い)。

私にはメディア・リテラシーを単に「自分が発信するため」にする情報の「取捨選択」と捉えることは一面的でもあり危険なことでもあると感じられる。メディア・リテラシーは「自分に都合の良い部分だけを継ぎ接ぎ」するようなことではないだろうからね。むしろポイントは「発信能力」にさきだつ「受信能力」の方にあり、また情報を取捨選択することそのものよりもそれを取捨選択する際の基準をどのように自分のなかで設定するのか、というところにあると思う(それこそまさしく「教養」の力ということだ)。そもそも適切な受信能力の欠けた人間の発信する情報なぞ情報としての価値は無い。もしそれに意味があるとすれば「私は馬鹿です」という情報くらいのものだろうと思う。

ついでに「リテラシー(literacy)」について調べてみると、おおよそつぎのようにまとめることができる。

  • 読み書き能力。また、ある分野に関する知識やそれを活用する能力。(大辞林)
  • the quality or state of being literate

なお、literate は EDUCATED, CULTURED,able to read and write(ウェブスター)とあり、つまるところは、リテラシー=読み書き能力、教養ということらしい。

「リテラシーとは」「メディアリテラシーとは」どういうものかを確認した上で話をもとに返そう。

テクスト抜きのリテラシーも、リテラシー抜きの意味も存在しない

前掲書より引用

この一文を読みつつ、しばしば「新聞読んでメディア・リテラシーを身につけよう」なんて風な事を言っておられる当の新聞の記事群が本当に「意味のある(読むに値する)」テクストなのだろうかという疑問が湧いてきた。もし、警察発表その他諸々お役所の公式発表をなんの独自取材もなく垂れ流す報道機関があったとしたら、それこそがまさに「リテラシーの欠如」であって、そんな報道機関の記事などは対価を払ってまで入手する必要のない情報だということになる(警察発表だけでは物足らずに独自取材で入手した被害者加害者の生い立ち生活ぶり顔写真等々を掲載することは「ジャーナリスト」の本来業務ではない。それは「裏付け」ではなく「肉付け」「加工」にすぎないからね)。

リテラシーの欠如した情報満載の新聞を読むことを通じて「メディアリテラシー」を身につけようとするならば、それは新聞を批判的に(「ケチをつける」のではなく「クリティカルに」)読みつつ現在の新聞(その他マスコミ)が如何に「リテラシーの欠如した情報発信者」であるかを再確認することでしか読者はそれを身につけることができない。

ひょっとしたら新聞社は「我が身を呈して」読者にメディアリテラシーを身につけさせるために、リテラシーの欠如した記事を選択的に掲載してくれているのかもしれない。もしそうだとするならば私は報道機関に対する認識を改める用意がある。

そして、もし読者の新聞離れが進んでいるとするならば、それはメディアの多様化などが原因というよりもむしろ新聞記事が読むに値する「意味を持ったテクスト」ではない(ことが多い)ということに読者たちが直観的に気づいているからなのかもしれない。そうだとすると読者の新聞離れを防ぎ、新聞社が生き残っていくには、読者にリテラシー云々を講ずることよりもまずもって新聞社、新聞記者自身のリテラシー能力の向上こそが先決だということになる。

もしリテラシーを有しない報道機関が読者に対して「リテラシー」の意義を語りかけるようなことがあるとするならば、それは「いじめは駄目だよ」と唱えながら生徒をいじめる教師と同様、おおいに責められるべきであろう。


そんなわけで不肖私も今さらながら教養(リテラシー)を身につけるべく読書に励むことにする。フムフム

報道と真実、倫理

  • 2006年12月13日 (水)

先日の暗殺についてのエントリを改稿しようとしたが、長くなってしまったので新たにこれを書く。

日本では自国内での出来事に関して(歴史的事項は別として)「暗殺」という言葉が新聞紙面等に踊ることはまず無い。しかしそれは現在の日本では「暗殺」などという愚行は行われることがない、ということを意味するわけではない(もちろんだからといって暗殺があったとも言えないけれど)。

そこで「報道」と「真実」について考えてみたい。

いささか結論めくが

決して公にされることのない真実というものは現に存在する(と私は思う)。
そしてそのこと(その存在)自体は決して報道されることはない。
「報道されない真実」が存在するという事実そのものもまた報道されない真実なのだ。

では
「すべての真実は明らかにされるべきだ」とひたすらに叫ぶべきか?
それとも
「報道されていることだけがこの世の真実(の全て)でない」ということを踏まえた上で巷間報道される情報に接するべきか?

どうだろうか。
まっとうな大人であれば、(次善の策ではあるけれど)まずは後者を選ぶしかないと考えるだろう。少なくとも私はそう考える(おっと、なんだか「自分はまっとうな大人だ」と断言しているようで気が引けるが・・・事実だからやむを得まい)。
だってその方が実現可能性が高い上に即効性もあるからね。

ダンナの稼ぎが少ないからって嫁が「このカイショーなし!!」なんて罵詈雑言浴びせても始まらないのと同じでしょうね、たぶん。
現状を醒めた目で認識した上で、自分に出来ることがあるならばまずは自分が動いてそれを実行する。

報道に関してもう少しだけ言うとすれば、私自身は世の出来事全てを報道機関に報道してもらうことを望むものではない。どこかの公務員がFAXを誤送信したことなぞ別に知りたいとも思わない。犯罪被害者の(ついでに加害者も)実名を是が非でも知りたいなどとは毛ほども思わないし、実名にするか匿名にするかの判断を報道機関に委ねるべきだとも思わない。

知らない方がマシなこと、知る必要のないことだって世の中にはある。

それでもどうしても知りたいことがあるというのならばお役所なぞに頼らずに「自力で調べたら如何か」と言いたいところだ。(ちなみに私が幾許かの金銭を支払って新聞を定期購読するのは新聞社の取材力に期待してのことである)

仮にまだ明るみに出ていない冤罪事件があったとして、その事実を捜査機関が率先して公表するだろうか?今の私は、彼らがそれほどまでに(隠蔽しようとすればできる自らの非を認めるほどに)真摯な、「正義」を体現した人々だと信じるほど可愛気のある人間ではもうない(そうあって欲しいのはやまやまだけれど)。

実名云々よりもよほど重大な真実が埋もれたままになっているとすれば、そうした事実をこそ報道機関が明らかにする価値があると私は思う(もっとも真実ならば無条件に報道が許されるというものではないだろうが)。
ところが実際には「実名報道」か「匿名報道」か、などというレベルでしか語られることがないのはどうにも腑に落ちない。それをいうならむしろ「実名広報」「匿名広報」とでも言う方が正確だろう。「取材」というのはいつのまにか意味を変じて、事実を追究することではなく単に役所から情報を引き出すことになったとでもいうのだろうか。そんなはずはあるまい。

また、もしかすると「そんなものには報道する価値はない」と仰有るかもしれないが、それはそれで結構だと私は思う。ただし、その場合は「報道の自由」などと広言なさるのを控えていただければ誤解が無くて宜しいのではないか。誇大広告、看板に偽りありってのは端から見ていてあまり気持ちの良いものではない。

実名報道にせよ匿名報道にせよそれによって多大な影響を被ることになるのは(たいていの場合)一個人である。従ってそのレベル(実名か匿名か)で事を語る限りにおいて報道機関は個人の生殺与奪権を握った権力機関であって官公署と何ら変わるところはなく、いってみれば「役所間の縄張り争い」にでも比すべきものだろう。

さしあたって、もし報道機関が「知る権利」の名の下に犯罪や冤罪の被害者となった人やその親族の心情をズタズタにするというのならば、まずは報道機関自体が自らの持つ限界性を(会社存続の危機を犯してでも)公表してからにしてはどうか、ということだけは言っておきたい。

実際のところ、今のマスコミは毎日途切れることなく起こっている”あらゆる”事件事故を自ら再調査し検証できるほどの驚異的な(捜査機関をはるかに凌駕した)能力をお持ちなのだろうか。そうした能力を推測させるほどの衝撃的な記事を読んだ経験は(少なくとも私には)極めて僅かしかないし、しかもそのような記事は十中八九殆ど例外なしに「昨日や一昨日」起こったばかりの事故や事件ではなかった。ろくろく”取材”されることもない昨日今日起こったばかりの事件事故被害者の実名を知り(またそれを報道する)ことの緊急性や合理的必要性を私は認めることができない。

何ごとかを他人に求めるばかりの遣り口は一種の犯罪的行為だと私は思う。
それをやっても罰せられることがないからこれほど世に蔓延してるのかな?
罰せられる可能性がないからヤるって態度はまさに倫理観の欠如を顕すのにね。
そう云う意味では「倫理観の欠如を糾弾する行為」と「倫理観の欠如」は限りなく近い親戚みたいなものだろうという気がする。

昨今よく言われる「規範意識の低下」

それは確かに事実だろうと私も思う(「治安悪化説」には異論もあるが)。
ただ、それを嘆くお歴々のご尊顔を(テレビ等で)拝するたびに私は、高い道徳観・実践的倫理観を体現する人が発する独特のオーラを感じることがまずないという一事を確認する。

私が敬意を感じる方々は、決して声高に世の規範意識の低下を嘆くこともなく(むしろそれを自らの罪責として引き受け)自らの行いを律することに専心努力している、そのような方々である。そのような方の持つ一種の「オーラ」に接する度毎に私は自らの至らなさを痛感し、襟を正さねばという思いを新たにする。

「まず言葉ありき」

この聖書の言葉がいつかただの”言い訳”として使われることのないよう祈る。

なんだかちょっと暗い文章になってるような・・・
あ、別に嫁から稼ぎが少ないと責められて憂さ晴らしにこれを書いたわけではありませんので、念のため。

「綺麗すぎる?」安倍氏の言葉

  • 2006年12月07日 (木)

安倍首相の支持率低下、首相就任後の穏健化、造反復党問題に関する「顔が見えない」批判、再チャレンジ政策の後退等々でマスコミの安倍政権批判が目立てきたような気がする昨今ですが。

言葉尻をとらえて揚げ足とって・・・

そんな風にしか見えないのはどうしてだろうか。

安倍首相の歯切れの悪さをあげつらう方々はそれほどまでに「リーダーシップ」をかたった傲慢・夜郎自大な首相の振舞いを求めているのだろうか。

ある新聞の一面コラムを読んだあと、「雰囲気に流される」「その場限りの」「無責任な」「顔の見えない」「言いっぱなし」を感じて少しばかり憂鬱になった。
もしこれが隣り近所のおじさんの言い草ならば、「そうだよね~。尻すぼみになっちゃってるよね~安倍さん」とでも軽く返すところだけれど、敢えて書いておこうと思う。

小泉政権時代、かの天才的政治家のワンフレーズポリティクスに対するマスコミの論調は「説明責任を果たしていない」として比較的批判的であったように記憶する(ひょっとしたら「そうあって欲しい」という私の願望が記憶を歪めているのかもしれないが)。マスコミは、「自民党をぶっ壊す」小泉氏に拍手喝采を送る一方で、「人生いろいろ会社もいろいろ」「自衛隊のいるところが非戦闘地域、どこが非戦闘地域は私にわかるはずがない」発言には割と(かなり?)批判的であったように思う。

大政党を「ぶっ壊す」ような”面白いこと”には来し方行く末を考えることもなく大喜びし、「自分だけいい思いしやがって」とか「なんでおれがそんなことしなくちゃなんねーんだよぉ」といったことにはブーブー悪たれをつく。私たち日本人にとって政治は単なる悪趣味な「バラエティ番組」「エンターテイメント」なのだろうか、その場限りの。

政権獲得以前の安倍氏による匹夫の勇的な言辞に衝動的に拍手喝采しただけの人々が、ようやく現実に直面した安倍氏の「現実的な」姿勢に失望を感じたとしてもそれは他の誰の責任でもなく当人の(拍手喝采した人々の)責任であろう。それは安倍氏の責任ではさらさらない。
セールスマンの絶妙なトークセールスを信じるも信じないも、それは買い手の自由であり、責任だろう。他人の言葉の真意を推し量り、考量判断して決断し、その結果については自ら(も)責任を負う。これは大人ならば誰でもあたりまえのようにやっていることだろう。

「どこかで聞いたような言葉でしか話さない」安倍氏が期待はずれのリーダーであったとしても、それはそれ。「キレのいい言葉」で話さなくなった安倍氏を批判するにあたって「小泉はキレがよかったぞ!それに比べてアンタは・・・」という言い方には強い嫌悪感を感じる。

小泉前首相は、発言がワンフレーズで説明責任を果たそうとしない、と批判されたが、ワンフレーズも決まれば強い印象を残す。
安倍首相の場合・・・言葉がきれいすぎる

剛腕を恐れられた民主党の小沢一郎代表も同じように顔が見えにくくなった・・・党首が本音をぶつけ合わなければ、国民の政治への興味は遠のくばかりだ。

  ~12/7付有明抄

有権者は決して政治家の身なりや言葉遣いに興味を持っているわけではない。彼が何を主張し、何を実現しようとしているかに注目している(と私は思う)。「小泉流」の衆愚政治を踏襲しようとしながらも上手く真似できない安倍氏に「下手くそだなぁ」とボヤいて「おいおいもっと上手くできねーのかよ」と言っていられるほど日本の置かれている状況は長閑なものなのだろうか。

強い印象なら中身は問わない?
綺麗すぎる言葉は駄目?

「言葉がきれいすぎる」という些か意味不明の言葉で「小泉さんが懐かしい」ということを言いたいのだろうか。それはそれで結構だけれど、それってなんだか

「あんたと違って前の彼はもっとワイルドだったわよ」

と一戦交えたベッドの上で煙草を吸いながら嘆く蓮っ葉なオネエちゃんみたいでちっとも”美しくない”。

「国民の政治への興味は遠のくばかりだ」

ほんとうにそうだろうか。
むしろこの一文にはなにかしら「予言者」的な響きを感じるのだが。

国民は興味本位で政治に目を向けているのではないよ。
政治は国民が今まさにに実行している行為ですよ。
政治に無関心でいるということも一つの政治的行為(自殺行為)なのですよ。

馬鹿な読者の政治への関心はもともと興味本位なものでしかないのだから、もっと国民に「すっきりはっきり」アピールしつつあなたのやりたいように好きにやってよ、というのがこの記事の(書かれざる)主張なのだろう(ただの埋め草でないとすれば)。

と勝手に邪推しながら朝のコーヒーを喫しました。

天佑に乗っかる安倍政権

  • 2006年11月23日 (木)

安倍政権発足から2ヶ月。

その間に生じた様々なトラブル(北朝鮮の核実験強行、履修逃れ問題、いじめによる自殺多発)は、日本にとっては災難でも安倍政権にとっては天佑神助とも言えるような印象を持つ。

もちろん他方では安倍政権のチョンボ(タウンミィーティングやらせ問題など)もあった。しかし、TM問題が政権を揺るがすほどのインパクトを持つかと言えばどうもそれほどのものではないようだ。もう「やってしまったこと」としてうやむやのまま終るのだろう(せいぜい下級官僚への訓戒程度)と私は思っている。

それに引き比べてみると、それ以外の問題が「今後の」安倍政権にもたらすメリットは遥かに大きいように見える。現に教育基本法改正案の成立はほぼ既定路線である。

日本にとっては不幸なアクシデント、トラブルが安倍政権にとっては天の配剤とさえ言える幸運の連続であろうということを表白した日本の新聞社があるのかどうか私は知らない(だってそんなこと書いたら一部の読者からクレームが持ち込まれるのは必定だもの)。お気の毒なことです。もっとも敢えてそんなことを書いても誰も喜ばないということもあるでしょうが・・・。(そもそもそれほど熱心に新聞を読む習慣はないので、私が見落としているだけかもしれません)

しかしながら日々、相次いで明らかになる事件や事故の報道洪水のなかで、ともすると”藁にもすがる”思いで”ケッタイなものを掴んでしまう怖れなしとは言えないのではなかろうか。自戒しておきたいと思う。

私は、ほんの時々ですが海外の新聞などをネットで眺めています。
主体性のない方法とお叱りを受けるかもしれませんが、それらの海外紙をちらりと読むだけでも、少しばかりは物事を相対化してみることが出来るような気もします。とはいえ、アメリカのクオリティペーパーあたりは見出し以外の閲読は有料のところが多いようで敷居が高い感じです(英語だし)。

その点、韓国の新聞の日本語ページは入りやすいです。隣国だけに日本関係の記事も多いですし。

とまあ

ここまでは後付けの理屈でありまして

以下、たまたま読んだ朝鮮日報の記事。

 日本をめぐる国内外の厳しい現実が、安倍首相の改革を後押しするかのように次々と起こっている。

 北朝鮮が無謀な核実験で安倍首相の安保改革を加速させたと思えば、今度は「いじめ」と「高校履修単位不足」問題が教育改革の必要性をクローズアップさせている。現実界の悪材料が政策的好材料になっているのだ。「安保」と「教育」はまさに安倍首相が目指す改革の2大軸だ。

 安倍首相の教育改革は、生徒の愛国心育成・実力向上・教員免許更新制が柱になっている。「安倍式」の改革が履修単位不足やいじめ問題を解決するのに妥当かどうかは別として、安倍首相が掲げた「教育改革」は世論の後押しを受けている。

 北朝鮮の暴走が改憲・再軍備を目指す安倍式「安保改革」を既成事実化しているのと同様だ。

朝鮮日報

別段、いじめ問題や履修逃れが安倍政権の陰謀だなどとは申しません(論拠が見出せませんので)。ただ、それらが結果として安倍政権の政治目標の達成に”貢献”する形になっているのは事実でしょう。

居ながらにして海外の新聞をあれこれと参照できるとは、ほんとうにインターネットの有り難さが身にしみる今日このごろです。

憂鬱な社会

  • 2006年11月14日 (火)

いじめ、校長自殺、親殺し、子殺し、贈賄、収賄、裏金、・・・。
今さら驚くこともなくなるほど”ありふれた”出来事ですが。

それらが紙面を埋めつくした今朝の新聞を一読して、暗澹たる思いがしました。一面トップは母親による子殺し、社会面にはその関連記事と高校長の自殺記事。読者投稿欄には高校教育改革への提言(「ああしろ!」「こうしろ」「昔はもっと○○○」というものばかり)。別のところではさる高名な小説家がこれまた高校教育批判。「暗記教育を止めろ」などとこれまた「そんな次元の話ですか??」と言いたくなるような批判的論調。

一日の始まりにこんな記事ばかり読まされた日には(読まないという選択肢もあろうけどもう読んでしまったものは・・・)、バスの運転手さんもコンビニのおにいちゃんも中学生も高校生も、心の奥底をどす黒い何かに占拠されたまま仕事に学業に励むのでしょう。もしかしたら当人も意識せぬまま。

テレビや新聞に出て来る出来事だけが世の中のすべてじゃない、と改めて自分に言い聞かせて元気に自分のやるべき事をやるしかないか・・・。

私が世の中を明るく照らすのだ(微力だけどさ)

と思ってやるしかなかろう。

しかしまあ今朝の新聞はひどかった。

報道の自由ランキング 2006年

  • 2006年10月25日 (水)

国境なき記者団によるランキング。
日本は「14ランク・ダ~ウン!」で51位。
毎日新聞の記事によれば、ナショナリズムの隆盛が要因だとか。本当にそれだけ?

そんなわけで
元データはこちら

これにによると韓国31位、台湾43位、アメリカ53位、ロシア147位、中国163位、北朝鮮が最下位。

”the steady erosion of press freedom in the United States, France and Japan is extremely alarming,” Reporters Without Borders said.

名指しですね。
なお、アメリカについては別口でこのようなニュースもありました。「マスコミの論説を監視」(Technobahn)http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200610131438 (注)

日本については、

Rising nationalism and the system of exclusive press clubs (kishas) threatened democratic gains in Japan, which fell 14 places to 51st. The newspaper Nihon Keizai was firebombed and several journalists physically attacked by far-right activists (uyoku).

ナショナリズムの台頭と共に”排他的特権的記者クラブ制度”が挙げられていますけれど・・・。
毎日新聞の記事にそんな言葉は見あたらなかったはずだけどな・・・
私が読んだ産経・毎日・読売のうち「記者クラブ」に言及していたのは読売だけでした。(それでも”exclusive”は無視されていました。単に「記者クラブの存在」とだけ書いてます)
産経・毎日は「右翼」だけで、記者クラブについては一言もなし。書くスペースがなかったのでしょうね、きっと。それとも「都合の悪いこと」は握り潰した?
もしそうならばそれってとってもアンフェアでは・・・。

毎日新聞
産経新聞
読売新聞

他の新聞社がどう扱っているのか興味のあるところです。

(以下きわめて私的な感想です。)
順位だけ載っけられてもちょっとね・・・。
こんな順位、トリビアのネタにもならないでしょう。
”問題は順位そのものではない”ということこそ報道機関が示すべき事のように思います。
「成績にこだわって子どもに接したがため殺されかけた」かのように報じて親御さんを責めるかのような報道を連発したのはどこの誰?
「51位」であったという事実。それだけならば「へ~」ところか「へ-」くらいのものです。
どういう根拠で51位とされたのか、そこのところこそまさに知らしむべきこと語るべきことではないですか?それとも読者を侮って・・・・・・まさかね。それとも社内に極右なみに恐い存在でもいるのかな。共謀罪反対!なんていってる場合じゃないかもですよ。
以て他山の石とせよ、ですね。
「流通する情報」の性質を表す良い例だと思います。

訂正(?)
午後再度産経の記事を見たら

「ナショナリズムの台頭や排他的な記者クラブ制度が民主主義の前進の脅威になっている」

となっていました。
はて?私が見落としていたのかな?
ところで、その他のメディアはどうなんでしょうね。

(注)平成20年8月現在、上記リンク先の記事は閲覧不能(ネット上に見あたらない)状態となっています。原文の一部をコピーアンドペーストしたページはこちら。technobahnが参照しているニューヨークタイムズの記事は「Software Being Developed to Monitor Opinions of U.S. 」(NYT)

(2009年8月22日一部改稿)

追究と追及~マスメディアについて

  • 2006年10月10日 (火)

追究:物事の問題点や真相を深く調べて明らかにしようとすること
追及:責めたり問い質すことによって相手を追いつめること。

さて、マスメディアの役割はどちらでしょうか。

どちらか一方、というわけでは決してないとは思いますが。
それに役所の広報レベルの記事も決して見過ごせませんし。

ただ、一つ言えるのは基本的に「追究が追及に先立つ」ということではないだろうかと思います。

新聞倫理綱領に次のような一文があります。

おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。

ここに言う、「何が真実か、どれを選ぶべきか」を知りかつ選択するのは広い意味での”市民”です。マスコミに求められるのは、「市民が知り、かつ選択する」ための情報を提供すること、すなわち「正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ」ることです。

もちろんマスメディア自体も各々が市民である限り、自らの責任において自己の意見や価値判断を表明する権利があるわけですが、基本的にはマスメディアに求められているのは、吟味された事実情報の提供であって、価値判断は情報の受け手(読者)に委ねられるべきものだと思います。したがって論説・社説以外の部分では、読者に予断を与えかねない言い回しや価値判断は皆無もしくは極めて抑制的でなければならないはずです。

しかし、現状は必ずしもそうではないような気がします。

実際のところ、”客観的事実”だけをつなげてそこに予断と偏見を含ませることはさほど難しいことではありません。いや、はっきり言えば簡単なことです。

しかし、

「その気になれば出来るんだけど、でも、あえてやらない」

それこそが報道における”倫理”(の一部)であるはずです(報道だけに限りませんね)。逆立ちしても出来ないようなことは「法だ、倫理だ」なんて言わなくてももともと出来ないわけですし。

追究と追及から外れてしまいましたか・・・。

追及することも時には必要でしょうけどね・・・。特に相手が強者であれば。しかし、やるならしっかり追究してからでなければならないでしょう。

責任なきところに自由なし
自由には責任がともなう

黙っていても役所から垂れ流されてくる情報、努力せず手に入れた情報をもとにして他を非難するなんてことはまさに”責任なき自由”かな。
ま、非難する相手が役所ならいいかも。

そういう私も、デスクに坐ってネットで情報集めてこんな記事書いてる・・・。

反省するべき!?

でしょうね・・・。

ジャーナリストはかくあるべし

  • 2006年10月10日 (火)

「写真だけ撮って帰る群れ」 仏紙に邦人旅行批判

昨日付の西日本新聞朝刊で読んだ記事です。

事の直接の発端は仏紙フィガロに掲載された新聞記事。

「日本人の群れはパリから昼前に着いて、そそくさと2つの奇岩の写真だけ撮る。そして帰る前に、お土産や体のマッサージに使うため、禁じられているのに海岸の小石を拾う」
・・・・・・・
「(日本人が多い)ピーク時には、別荘の人たちは庭の奥深くに避難する」

私はフィガロの原記事を読んでいませんけれど、この部分を読んだだけでも、日本人観光客に批判的な内容であったことが彷彿としてきます。

この記事が掲載されたあと、パリ日本語ガイド協会が

フィガロ紙とエトルタ市、エトルタ観光協会に「記事は事実誤認で偏見に満ちている」とする抗議の手紙を送った

フィガロ紙の返答はなかったそうですが、

取材に対し記事を書いた記者は「取材相手の言うことをそのまま書いた。日本人を傷つけたなら謝りたい」と話した

とあります。

エトルタ市観光局長も

「観光しか産業のない市にとって、日本人は大切なお客さん。これまでトラブルはなく、夏だけ別荘に来る人が言ったことを記者がうのみにしたのだろう。」

読みながら、ここのところはとても大切なことだと実感しました。

フィガロ紙が(同紙記者も認める如く)取材源から得た情報(言葉)を無批判に掲載しているのにたいして、西日本新聞記者は、ガイド協会からの抗議に返答しなかったフィガロ紙記者に取材して「取材相手の言うことをそのまま書いた」という事実を新たに引き出してこの記事を書いたわけです。

ここには、どちらもジャーナリストではある両者の事実に向き合う姿勢の違いが如実に浮き出ています。私なぞ思わず西日本の記者に拍手を送りたくなりましたよ。(ただし、両者の記者としての資質の違いだとは思いませんけれどね。)

さらに記事は

「せっかくエトルタまで来たのだから、本当はもっとゆっくりしてほしい」

というエトルタ市観光局長の本音を引き出し、日本人旅行客の観光形態の変化にも言及した上で、

年に最低2週間、最高4週間の連続休暇をとる権利が保証されたフランスと、平均連続休暇が7.7日(2005年)の日本社会の差が、両国民のバカンスや旅に対する意識の違いにあらわれているのは確かなようだ。

と結んで今回の事件から記者が何を読みとったかを示唆しています。

情報を収集しながらもそれを鵜呑みにせずきちんと吟味し、裏を取り、第三者の見方(評価)も交えながら最後に自分なりの結論を示す。

これって本来あるべきジャーナリストの基本姿勢だと思います。
しかしこの当然の基本姿勢が、「不偏不党」だとか「公平中立」「事実報道」などの名の下に忘れられがちなのが現状のような気がします。

もしジャーナリストが自分なりの結論づけ・意見表明をしないとすれば、それはジャーナリストとしての職業倫理にもとづくものではなく(つまり不偏不党などではなく)、不偏不党と称してジャーナリストとしての使命を置き去りにしているだけだと思います。

「事実を伝える」という義務は、たとえば、役所の発表を生のままで紙面に掲載することで一応は果たせます。あるいは「誰それがこう言った」ということでも果たせます。
「役所が○○と言った」
「誰それが○○と言った」
確かにこれも”事実”には違いありません。
そして、そうした”事実””○○”の部分ががメディアを経由することによって信憑性を獲得します。

もし、メディアやジャーナリストがこのレベルの「事実の追求」にとどまることで満足するのなら、それは第三の権力としてのマスコミではない、単なる広報機関・拡声器であることで満足するということではないでしょうか。
それでは「役所の広報活動の民間委託は、小泉さんの規制緩和以前から行われていた由緒正しき伝統あるものだよ、キミ」と皮肉られかねません。

事実の裏に隠されたさらなる事実を追究すること、この繰り返しこそがジャーナリストの使命ではなかろうか。

もちろんこうした姿勢は一般市民にもあるに越したことはないでしょうが、市民は事実を追究するより先にやらねばならぬことがありますしね。やはり”分業”でいくしかないでしょうね。

ちょっと時間が無くなりました。
機会があればこの件についてはまた書いてみます。

P.S.
「追究」と「追求」、これら二つの言葉の意味の違いは今のジャーナリズムを考える上で興味深いものがあるような気がしています。
現状は”追求追及>追究”かもしれません。

新聞再販制度問題

  • 2006年07月01日 (土)

既に一応の決着がついた新聞再販制度に関して、興味深い記事を見つけました。

日本の新聞の多様性は世界最低!(上)

多様性のない日本の新聞業界:紙面のかなりの部分を通信社配信記事かローカル暇ネタが占める地方紙の現状。
そういえば紙面構成も全国紙から地方紙まで似たり寄ったり。
マスコミはどこまでいってもマス(Mass)・コミニュケーション。

とはいえ、時には「ホーッ!」という記事も散見します。
が、どうも偏りがあるような気もします。全国紙は万人向けの薄味、ローカル紙は井の中の蛙でゴシップ紙と”紙一重”(→地元ローカル紙のことですが)。ブロック紙は比較的まし、といったところかもしれません。

警察発表とマスコミ その2

  • 2006年06月21日 (水)

東奥日報2004年8月22日記事「足で書く―記者のバイブル」(http://megalodon.jp/?url=http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2004/sha20040822.html&date=20061214081552)

人権を守るべき報道の人権侵害は本末転倒である

情報はすべて自分の足で確認し、記事化する。昔からのこの鉄則を厳守しなければならない

「発表を疑ってかかる」「情報確認を繰り返す」-。記者たる者、この原則を断じて逸脱すまい。この多忙な現代、真実の報道は大変な労苦を伴う

ここで紹介されている『支店長はなぜ死んだか』がどうも入手困難・・・なんとかせねば。

P.S.類書をご存じの方がありましたらどうぞご教示下さい。

ニュースの裏側

  • 2006年06月16日 (金)

検察と正義

  • 2006年06月16日 (金)

クレヨンの絵

  • 2006年05月27日 (土)

阿川弘之全集3収録の短編「クレヨンの絵」にマスコミの体質を鋭く突いた一説を見出したので少しだけ書いてみます。

主人公あや子は小学校教師を中途で辞して独身寮の管理人となった中年女性。
物語はその回想という形で描かれています。
あや子が辞職する原因となった水難事故直後の描写から引用します。

生徒たちは宿に罐詰めにされ、あや子の同僚の先生たちと共に、夜通し浜の砂の上に立ってゐた。溺れた子供の父母より先に、新聞社の支局の車が上つてきた。録音機を提げた放送記者も来た。警察の人と、それら報道関係の人々とに取囲まれて、彼女はその場の神経では堪へ切れないやうな質問を次々に浴せかけられた。(中略)
人々(注:記者たち)はそんな事を言つては、一人で合点してせつかちに鉛筆を走らせた。何を答へたか、動揺してゐてあや子は覚えてゐない。・・・彼女は一人、責任をとつて辞職した。・・・彼女は一時、新聞といふものを一切見ず、自分で自分を世間の動きから取り残して、生きる張り合ひを失つたやうな暮らしをした。人にすすめられて・・・寮母になつたのは、其の不幸な記憶がよほど薄れてのちの事であつた。

新聞の記事が、はたして常に事実ありのままを伝えているのかという点、そうして書かれた記事が当事者にどれほどの影響を与えるのかが端的に描かれていると感じました。

渋川玄耳~警察発表とマスコミ

  • 2006年03月07日 (火)

今の新聞には全紙を通じた人格の支配がない。社会という大舞台を相手とする態度の統一が欠けている。政党が騒げば新聞も騒ぐ。警察が刑事を八方に散らせば新聞も記者を八方へ飛ばせる犬がほえれば新聞もほえる。(後略)

森田一雄『野暮たるべきこと』梓書院2005

この文の筆者である渋川玄耳は夏目漱石と同時代の人だそうですが、上の指摘は現代のマスコミにもそのままあてはまると思い引用させてもらいました。

(著者略歴)1923年東京府下生まれ。佐賀新聞社を経て、朝日新聞西部本社に入社。西部社会部山口支局長、西部本社写真部長、連絡部長、編集委員などを歴任。有田町歴史民俗資料館長を務めた、とあります。

渋川は佐賀県出身、裁判官を経て陸軍の法務官に転身、さらにこれを中途で辞し、現在の朝日新聞に社会部長格で入社したのち、特に社会面の刷新に功績のあった人物で、前掲書によれば、新人記者をまずは警察担当に配置する慣例をつくったのが彼だということです。また、文人としても知られ、軍人として熊本に在勤中には、同時期に熊本の旧制高校で教鞭をとっていた夏目漱石とも文学上の親交があり、その縁でのちに彼とともに朝日新聞の発展に貢献したそうです。波瀾万丈の生涯を送った、いわゆる”いひゅうもん(変わり者)”。
いま、この人に非常に興味を持ってます。いずれまた書いてみます。
最後に上記引用文の続きを。

要するに材料の出所の重大事件とするところのものを新聞もまた重要視し、ただ材料の供給者の態度進退に追随して、はぐれまいが精一杯である。しかし、普通に小事件小問題として閑却看過されたものの中に、新聞としてきわめて重大視せざるべからざる好材料の潜伏していることに格段の注意を払わねばならぬ。

前掲書

Home >> カテゴリ >> 報道 / ジャーナリズム

フィード(更新通知)
窓口(Mail & Twitter)

このページの先頭へ戻る